マスコミの論旨を読もうと努力している。しかし最近とみに、日本政府による「働き方改革」提唱以来、何が言いたいのかさっぱりわからなくなってきた。「失われた世代」を救うとか考えるとか何とかいう。一方、だったら後期高齢者はどうすればよいのか。後期高齢者を抱えている世帯は。そして実例として、その同じ世帯はうつ病者や精神病者を含む障害者世帯であり、さらに後期高齢者の孫らは家は別々だが十代の真っ只中で将来の見えないまま悪戦苦闘している。ところが新聞(朝日新聞)を何度眺めてみても具体的回答の一つなりとも掲載されているわけでは何らない。むしろ「自由」な働き方を選べと突き放すばかりだ。いったん職場を離れればそれだけ実力がなければそれまでの賃金水準を維持できないではないか。資格を活かしてとかキャリアを積んでとかマスコミはいう。けれども資格なら同程度の資格保持者が山ほどもいる。キャリアなら同じく同程度のキャリアの持ち主がわんさといる。結局のところ、ハイエクのいう弱肉強食社会がより一層鮮明かつ暴力的に争われることになるのはもう目に見えているではないか。もちろん過去の労働体系に縛られたいなどまったく思っていないし年功序列制には功罪ともにあるとおもっている。しかし自由な働き方といわれても、働き口などもうない。年齢は五十一歳。さらに病気ゆえ勤務中に発作を起こすことも十分考えられる。病院の待合室で何の前触れもなく突然倒れたこともある。それでもなお時間を見計らってはこのようにブログを書いてリハビリしているというわけだ。精神的に調子のよいときは外に買い物に出たりもしはするが。だからこそ自分の気持ちだけでも元気づけられるときは元気を維持することにつとめ、無理はせず、無理できず、力の出ないときはそのまま横になって休みをとるということくらいしかできない。マスコミは何にも知らないに等しいとしか思えない。むしろ財界のわがままを巧みに読者の頭の中に擦り込むための輪転機と化している感が強い。しかし、自由な働き方といっても、自由に職場を移動した後もしっかりした賃金ならびに社会保障あるいは倫理的保障(セクハラ、パワハラへの迅速かつ丁寧な対応)がなされるような社会的制度が整っているのであれば誰も文句など言わないだろう。けれどもそうではないケースが余りにも多いがゆえに今になっても躊躇を覚える人々が後を断たない現実をマスコミは見ないといけないだろうとおもわれる。まずもって新聞(朝日新聞)自身にしてからが、自分が生き残っていくためには多少の違いはあれ財界の意向と肩を並べて雇用形態の見直し(新自由主義的雇用形態への見直し)を早急に迫られているのではないだろうか。
新自由主義的雇用形態。とはいえその実態は「雇用の無形態化」なのであり、それを国家規模で実施するとなると、今度は仲間同士の諸国家だけがつるみ合う「国家のマフィア化」が起こってくる。前代未聞の格差社会が出現する。同時にそれに反発する大衆による反政府運動が移民流入とともに活発化するほかない。ちなみに移民の受け入れは個人的には反対ではない。そして女性の社会進出も。だが企業が女性を増やす理由のほとんどは、使える女あるいは仕事のできる女性を増やしたいという理由からだけであって、男女の雇用の機会を均等にしたいがためではけっしてない。あくまで仕事のできる女性に限ってお話ししましょうというわけだ。体力も知力も行動力も男性社員を上回る女性が見つかれば迷わず雇用する。それこそ超実力主義的資本主義であって、表立って女性を立てておきはするものの、その実、新自由主義の本領をより一層発揮させんがための方便に過ぎない。他人とその家族を地獄に突き落とす新自由主義的弱肉強食社会に加担しておいて自分は自分自身だけで満足する。ヘーゲルのいう「自負の狂気」というものだ。それで或る程度のキャリア獲得の道が開けたとしても、翌日にもっと仕事のできる女性が入社してくればその時点で解雇される。それでもよければ、という程度に過ぎない。欧州を、そしてアメリカを見よ、ということでもある。しかし日本でもまたアメリカと同じことをやろうとすると、今度は、完全武装した劇薬的極左グループのさらなる増殖は必至かもしれない。グローバル資本はグローバル・テロリズムを同時発生させる。当たり前のことだ。要するに、これまでアメリカばかりを中心に動いてきた世界について誰もが感じている反発をまとめ上げる幾つかの群れが出現するに違いないとおもわれるわけだ。実際、アメリカが苦悩しているように、いつまでも終わらない中東紛争からもっと学ぶべきだし、学べる時間もたっぷりあったはずだ。世界とその経済動向は、アメリカ国民だけが頭の中で思い描いているほど甘くはないとおもわれる。とはいえ、社会保障に関する制度が整った上でなら、「雇用の無形態化」はむしろ、考えようによっては面白いかもしれないとはおもうのである。午前中は参考文献探索、企画書作成、仕上がり次第帰宅、自宅では別の会社から引き受けたバイト、育休はすべて取っても賞与に差し支えなし。午後は共働きのための調整時間として保留とか。三ヶ月で辞めても次の職場では同様の待遇。この不安定さの先にもなお社会保障が保障されていれば、誰も文句を言わず、むしろ自分で自分自身の働き方改革を実践していくに違いない。社会保障制度は大きい。これがなくては将来の賃金が保障されないため家を買うことに躊躇するほかなく、もし仮に洞窟とかで暮らすにしても医療費などは確実にかかるため最低賃金は必要だ。それがなければ消費は確実に鈍る。いまでさえスーパーや百貨店を覗いてみると、価格はかつてと同じでも中身は明らかに粗末で量も少なくなっている。商品の実質的レベルダウンは目に見えて誰にでもわかるほどになった。どの商品もほとんど価値下落した。
ゆえに、もはやポンコツでしかない身にとっては、自分で今の自分自身をせめて維持していくために書物の力を借りて生きていくというくらいのことしかできないのである。それでもいつも金がないので、新刊紹介欄に欲しい本が載っていてもスルーするほかないという節約生活を心がけないわけにはいかない。たとえば小熊英二の「民主と愛国」などは是非ほしかった一冊なのだが、はっきり言って一度で買える価格ではないのだ。残念で仕方がない。そしてもう一本の生活の柱は哲学書の中から、ほんのわずかでも生きる意欲が出たり気持ちが落ち着いたりする部分を見つける作業を、できる時にできる量だけしておく、という程度でしかない。
ニーチェはいう。
「さまざまな困難が途方もなく増大してしまっているような生涯というものがある、思想家の生涯がそれである。ここでは、その生涯について何かが物語られた場合には、ひとは、注意深く、耳を傾けざるを得ない、というのは、それを聞いただけで幸福と力が溢れて来、しかも後に来たる者の生活に光が照射されるような、そうした《生の諸々の可能性》について、ここでは語られるのを聞き取り得るからである、ここでは、一切のものが、極めて発明的で、熟慮に充ち、大胆で、絶望的で、しかも充ち溢れる希望で一杯であり、あたかもいわば最も偉大なる世界周航者の旅路に似た観があって、また実際に、生の最も辺鄙なかつ最も危険の多い領域の周航と、同じような趣きをもったものだからである。このような生涯において驚嘆すべきことは、異なった方向に向かって突き進む二つの敵対的な衝動が、ここでは、いわば《一つの》軛(くびき)の下で進むように強制されているという事柄のうちにある。つまり、認識を欲する者は、人間生活が成り立っている地盤というものを、何度でも繰り返し離れ去って、不確実なるものの中へと冒険的に突き進んで行かねばならないし、また、生を欲する衝動の方は、その上に立脚できるほぼ確実な立場というものを求めて、何度でも繰り返し探索してゆかねばならない」(ニーチェ「哲学者の書・P.404~405」ちくま学芸文庫)
だから、生について述べるばかりでなく、むしろ生を実際に生きる=創造していく可能性へ言及した文章を拾おうとおもうわけである。ここでは前にも述べたが、認識への挑戦という「冒険」が一つ、もう一つはそれを可能にする「冒険」のための確かな確固たる自分自身の地盤の確保という課題を見つけることができるに違いない。そしてベルクソンはいう。
「存在するとは変化することであり、変化するとは成熟することであり、成熟するとは無際限に自分を創造することである」(ベルクソン「創造的進化・P.25」ちくま学芸文庫)
まったく同感だ。ところで、何日かかけて続けていたヴァージニア・ウルフ「波」再考から、前に次のセンテンスを上げた。
「『《似たもの》《似たもの》《似たもの》ーーーでも事物の外観の下に横たわっている物は何かしら。稲妻が木を切り裂き、花咲く枝が落ち、パーシバルが死んで私にこの贈物をくれたのだから、私はその物が知りたい。正方形があり、長方形があるわ。演奏者たちが正方形になり、それを長方形の上に置くの。ちゃんと正確に置いてるわ。身に合った居処をこしらえてるわ。外に残っているものは何もない。構造がはっきり見える。未熟なものがここで述べられる。私たちはそんなに多様でも卑俗でもない。私たちは長方形を造ってそれらを正方形の上に立たせたの。これは私たちの喜び。これが私たちの慰安なの。ーーー構造がはっきり見えるわ。私たちは居所をこしらえてしまった』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.158~159」角川文庫)
ここで「事物の外観の下に横たわっている物は何か」と問うローダの言葉がある。それはベルクソンにいわせれば、まさしく「全体としてある巨大な波」のことであろう。
「われわれの視点からすると、生命は全体としてある巨大な波として現れる。その波はある中心から広がり、その円周のほぼすべての点で止まり、その場の振動に変わる。ただ一点で、障害はこじ開けられ、推進力が自由に通過した。人間の形態が記憶しているのはこの自由である。人間以外のところではすべて、意識は袋小路に追い込まれる。人間においてのみ、意識は立ち止まらずに進んだ。それゆえ人間は、生命が携えていたものすべてを引き連れていくわけではないが、生命の運動を無際限に続ける。生命の他の線の上では、生命が含んでいた別の傾向が進展していた。すべては補い合っているので、これらの傾向のいくらかを人間は保存していただろうが、保存していたのはそのうちのわずかなものだけである。《お好みに応じて、人間とも超人とも呼べるような、はっきりしないぼんやりとした存在が自己を実在化しようとしたが、自己のある部分を道の途中で捨てることで初めてそうするに至ったかのように、すべては進行している》」(ベルクソン「創造的進化・P.338」ちくま学芸文庫)
ところでローダは「正方形があり、長方形があるわ。演奏者たちが正方形になり、それを長方形の上に置くの」とも述べる。しかしそれは一体何のことだろうか。そんなことは正確には誰にもわからないとおもわれる。だがあえて解釈するとすれば、それは個々の読者次第であって構わないと考えられよう部分ではなかろうか。正方形のものや長方形のものを置いたり置き直してみたり。子どもの頃の遊びから連想されうる隠喩だとおもわれるが、それがローダの頭の中で実際にどのように写って見えているかまでは誰も知らないとしか言えないだろうとおもう。そこで個人的な回想になってしまうが、あえていうと、この部分ではなぜか村上春樹のエッセーにあった一節を思い出したのだった。次の文章。
「翻訳でいちばんわくわくするのはなんといっても、横になっているものをまず最初に縦に起こし直すあの瞬間だからだ。そのときの頭の中の言語システムが、ぎゅっぎゅっと筋肉のストレッチをする感覚がたまらなく心地よい」(村上春樹・安西水丸「趣味としての翻訳」『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか・P.68~70』新潮文庫)
だから読書とは無限の可能性を秘めた行為だ。間違っていても病気を患っていても様々な深刻な事態に置かれている家族・友人がいても、なお個人として読書をやめる気はない。したがってリハビリとして機能していることはわかっている以上、なおのことブログを書くということから手を引くことは今後もないだろうとおもっている。
BGM
新自由主義的雇用形態。とはいえその実態は「雇用の無形態化」なのであり、それを国家規模で実施するとなると、今度は仲間同士の諸国家だけがつるみ合う「国家のマフィア化」が起こってくる。前代未聞の格差社会が出現する。同時にそれに反発する大衆による反政府運動が移民流入とともに活発化するほかない。ちなみに移民の受け入れは個人的には反対ではない。そして女性の社会進出も。だが企業が女性を増やす理由のほとんどは、使える女あるいは仕事のできる女性を増やしたいという理由からだけであって、男女の雇用の機会を均等にしたいがためではけっしてない。あくまで仕事のできる女性に限ってお話ししましょうというわけだ。体力も知力も行動力も男性社員を上回る女性が見つかれば迷わず雇用する。それこそ超実力主義的資本主義であって、表立って女性を立てておきはするものの、その実、新自由主義の本領をより一層発揮させんがための方便に過ぎない。他人とその家族を地獄に突き落とす新自由主義的弱肉強食社会に加担しておいて自分は自分自身だけで満足する。ヘーゲルのいう「自負の狂気」というものだ。それで或る程度のキャリア獲得の道が開けたとしても、翌日にもっと仕事のできる女性が入社してくればその時点で解雇される。それでもよければ、という程度に過ぎない。欧州を、そしてアメリカを見よ、ということでもある。しかし日本でもまたアメリカと同じことをやろうとすると、今度は、完全武装した劇薬的極左グループのさらなる増殖は必至かもしれない。グローバル資本はグローバル・テロリズムを同時発生させる。当たり前のことだ。要するに、これまでアメリカばかりを中心に動いてきた世界について誰もが感じている反発をまとめ上げる幾つかの群れが出現するに違いないとおもわれるわけだ。実際、アメリカが苦悩しているように、いつまでも終わらない中東紛争からもっと学ぶべきだし、学べる時間もたっぷりあったはずだ。世界とその経済動向は、アメリカ国民だけが頭の中で思い描いているほど甘くはないとおもわれる。とはいえ、社会保障に関する制度が整った上でなら、「雇用の無形態化」はむしろ、考えようによっては面白いかもしれないとはおもうのである。午前中は参考文献探索、企画書作成、仕上がり次第帰宅、自宅では別の会社から引き受けたバイト、育休はすべて取っても賞与に差し支えなし。午後は共働きのための調整時間として保留とか。三ヶ月で辞めても次の職場では同様の待遇。この不安定さの先にもなお社会保障が保障されていれば、誰も文句を言わず、むしろ自分で自分自身の働き方改革を実践していくに違いない。社会保障制度は大きい。これがなくては将来の賃金が保障されないため家を買うことに躊躇するほかなく、もし仮に洞窟とかで暮らすにしても医療費などは確実にかかるため最低賃金は必要だ。それがなければ消費は確実に鈍る。いまでさえスーパーや百貨店を覗いてみると、価格はかつてと同じでも中身は明らかに粗末で量も少なくなっている。商品の実質的レベルダウンは目に見えて誰にでもわかるほどになった。どの商品もほとんど価値下落した。
ゆえに、もはやポンコツでしかない身にとっては、自分で今の自分自身をせめて維持していくために書物の力を借りて生きていくというくらいのことしかできないのである。それでもいつも金がないので、新刊紹介欄に欲しい本が載っていてもスルーするほかないという節約生活を心がけないわけにはいかない。たとえば小熊英二の「民主と愛国」などは是非ほしかった一冊なのだが、はっきり言って一度で買える価格ではないのだ。残念で仕方がない。そしてもう一本の生活の柱は哲学書の中から、ほんのわずかでも生きる意欲が出たり気持ちが落ち着いたりする部分を見つける作業を、できる時にできる量だけしておく、という程度でしかない。
ニーチェはいう。
「さまざまな困難が途方もなく増大してしまっているような生涯というものがある、思想家の生涯がそれである。ここでは、その生涯について何かが物語られた場合には、ひとは、注意深く、耳を傾けざるを得ない、というのは、それを聞いただけで幸福と力が溢れて来、しかも後に来たる者の生活に光が照射されるような、そうした《生の諸々の可能性》について、ここでは語られるのを聞き取り得るからである、ここでは、一切のものが、極めて発明的で、熟慮に充ち、大胆で、絶望的で、しかも充ち溢れる希望で一杯であり、あたかもいわば最も偉大なる世界周航者の旅路に似た観があって、また実際に、生の最も辺鄙なかつ最も危険の多い領域の周航と、同じような趣きをもったものだからである。このような生涯において驚嘆すべきことは、異なった方向に向かって突き進む二つの敵対的な衝動が、ここでは、いわば《一つの》軛(くびき)の下で進むように強制されているという事柄のうちにある。つまり、認識を欲する者は、人間生活が成り立っている地盤というものを、何度でも繰り返し離れ去って、不確実なるものの中へと冒険的に突き進んで行かねばならないし、また、生を欲する衝動の方は、その上に立脚できるほぼ確実な立場というものを求めて、何度でも繰り返し探索してゆかねばならない」(ニーチェ「哲学者の書・P.404~405」ちくま学芸文庫)
だから、生について述べるばかりでなく、むしろ生を実際に生きる=創造していく可能性へ言及した文章を拾おうとおもうわけである。ここでは前にも述べたが、認識への挑戦という「冒険」が一つ、もう一つはそれを可能にする「冒険」のための確かな確固たる自分自身の地盤の確保という課題を見つけることができるに違いない。そしてベルクソンはいう。
「存在するとは変化することであり、変化するとは成熟することであり、成熟するとは無際限に自分を創造することである」(ベルクソン「創造的進化・P.25」ちくま学芸文庫)
まったく同感だ。ところで、何日かかけて続けていたヴァージニア・ウルフ「波」再考から、前に次のセンテンスを上げた。
「『《似たもの》《似たもの》《似たもの》ーーーでも事物の外観の下に横たわっている物は何かしら。稲妻が木を切り裂き、花咲く枝が落ち、パーシバルが死んで私にこの贈物をくれたのだから、私はその物が知りたい。正方形があり、長方形があるわ。演奏者たちが正方形になり、それを長方形の上に置くの。ちゃんと正確に置いてるわ。身に合った居処をこしらえてるわ。外に残っているものは何もない。構造がはっきり見える。未熟なものがここで述べられる。私たちはそんなに多様でも卑俗でもない。私たちは長方形を造ってそれらを正方形の上に立たせたの。これは私たちの喜び。これが私たちの慰安なの。ーーー構造がはっきり見えるわ。私たちは居所をこしらえてしまった』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.158~159」角川文庫)
ここで「事物の外観の下に横たわっている物は何か」と問うローダの言葉がある。それはベルクソンにいわせれば、まさしく「全体としてある巨大な波」のことであろう。
「われわれの視点からすると、生命は全体としてある巨大な波として現れる。その波はある中心から広がり、その円周のほぼすべての点で止まり、その場の振動に変わる。ただ一点で、障害はこじ開けられ、推進力が自由に通過した。人間の形態が記憶しているのはこの自由である。人間以外のところではすべて、意識は袋小路に追い込まれる。人間においてのみ、意識は立ち止まらずに進んだ。それゆえ人間は、生命が携えていたものすべてを引き連れていくわけではないが、生命の運動を無際限に続ける。生命の他の線の上では、生命が含んでいた別の傾向が進展していた。すべては補い合っているので、これらの傾向のいくらかを人間は保存していただろうが、保存していたのはそのうちのわずかなものだけである。《お好みに応じて、人間とも超人とも呼べるような、はっきりしないぼんやりとした存在が自己を実在化しようとしたが、自己のある部分を道の途中で捨てることで初めてそうするに至ったかのように、すべては進行している》」(ベルクソン「創造的進化・P.338」ちくま学芸文庫)
ところでローダは「正方形があり、長方形があるわ。演奏者たちが正方形になり、それを長方形の上に置くの」とも述べる。しかしそれは一体何のことだろうか。そんなことは正確には誰にもわからないとおもわれる。だがあえて解釈するとすれば、それは個々の読者次第であって構わないと考えられよう部分ではなかろうか。正方形のものや長方形のものを置いたり置き直してみたり。子どもの頃の遊びから連想されうる隠喩だとおもわれるが、それがローダの頭の中で実際にどのように写って見えているかまでは誰も知らないとしか言えないだろうとおもう。そこで個人的な回想になってしまうが、あえていうと、この部分ではなぜか村上春樹のエッセーにあった一節を思い出したのだった。次の文章。
「翻訳でいちばんわくわくするのはなんといっても、横になっているものをまず最初に縦に起こし直すあの瞬間だからだ。そのときの頭の中の言語システムが、ぎゅっぎゅっと筋肉のストレッチをする感覚がたまらなく心地よい」(村上春樹・安西水丸「趣味としての翻訳」『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか・P.68~70』新潮文庫)
だから読書とは無限の可能性を秘めた行為だ。間違っていても病気を患っていても様々な深刻な事態に置かれている家族・友人がいても、なお個人として読書をやめる気はない。したがってリハビリとして機能していることはわかっている以上、なおのことブログを書くということから手を引くことは今後もないだろうとおもっている。
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