goo blog サービス終了のお知らせ 

白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

強制不妊手術と国家的殺人

2019年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム
女性の人工妊娠中絶の権利。権利は歴史的闘争を経て獲得されたものである。アメリカの州法がどのような展開を見せるにせよ、獲得された権利をみすみす手放すことには反対を表明するしかない。それについては二回ほどに分けて述べたのでここでは繰り返さない。ただ、付け加えておかねばならないことがある。これまで何度も議論されてきたようように、産む産まないは女性自身に決定権があるということである。宗教的政治的経済的等々、様々な制約が考えられ、また制約を逆に生きていくための自由として捉える場合もあるだろうとおもう。しかし言及しておかなくてはならないことは、日本でもまだまだ近い過去に、いわゆる「優生思想」というイデオロギーによる「強制不妊」を国家から強いられてきた被害者が実際にいたというだけでなく実際に今なお生きているという事実についてだ。

産むにしても産まないにしても、ただ単なる二者択一ではなく、さらに産みたくても産めないあるいは産めなかった場合が考えられる。問いたいのは第三の場合、産みたくても産めないあるいは産めなかった場合である。この場合は往々にして周囲の環境が大きな影響をおよぼしているだろうと考えられる。たとえば経済的制約は今なお深刻だ。しかしここで問題としたい「優生思想」はこの第三の場合を国家主導で出現させた実例として考えられなければならない現実である。国策として産むことが強制的に制限された場合。さらにこのケースは社会的周辺環境の無理解を含んでいる。今でも差別に苦しんでいる人々がいることはときどきではあるがマスコミでも取り上げられているのは周知の通り。

またアンティゴネから引用した理由について述べたい。アンティゴネは自分の思うように自分自身に正直であろうとして国家による法を無視して自分を貫徹した登場人物である。次のせりふに集約されよう。

「アンティゴネ だってもべつに、お布令を出したお方がゼウスさまではなし、あの世をおさめる神々といっしょにおいでの、正義の女神が、そうした掟を、人間の世にお建てになったわけでもありません。またあなたのお布令に、そんな力があるとも思えませんでしたもの、書き記されてはいなくても揺ぎない神さま方がお定めの掟を、人間の身で破りすてができようなどと。

だってもそれは今日や昨日のことではけっしてないのです。この定りはいつでも、いつまでも、生きてるもので、いつできたのか知ってる人さえありません。それに対して私が、いったい誰の思惑をでも怖がって、神さま方の前へ出て、責めを追おう気を持てましょう。いずれ死ぬのはきまったこと、むろんですわ、たとえあなたのお布令がなくたって。また寿命の尽きるまえに死ぬ、それさえ私にとっては得なことだと思えますわ。次から次へと、数え切れない不仕合せに、私みたいに、とっつかれて暮らすのならば、死んじまったほうが得だと、いえないわけがどこにあって。

ですから、こうして最期を遂げようと、私は、てんで、何の苦痛も感じませんわ。それより、もしも同じ母から生まれた者が死んだというのに、葬りもせず、死骸をほっておかせるとしたら、そのほうがずっと辛いに違いありません。それに比べてこちらのほうは、辛くも何ともないことです。あなたに、私がもしも今、馬鹿をやったと見えるのでしたら、だいたいはまあ、馬鹿な方から、馬鹿だと非難を受けるのですわね」(ソポクレス「アンティゴネ」『ギリシア悲劇2・P.172~173』ちくま文庫)

また、あえてフェミニズム陣営から反論の多いラカンから引用したわけは簡単なことである。ラカンがそこで提出した命題に、倫理とは何かを問うに値する一節が集約されていると考えるからだ。こういう文章だった。

「罪があると言いうる唯一のこととは、少なくとも分析的見地からすると、自らの欲望に関して譲歩したことだ、という命題を私は提出します。

この命題は、あれやこれやの倫理では受け入れられるにせよ受け入れられないにせよ、分析経験で我々が確認することを十分に表現しています。聴罪司祭に受け入れられるかどうかはともかくとして、結局、自分に罪があると実際に感じるのは、つねに根源的には自身の欲望に関して譲歩したからです」(ラカン「精神分析の倫理・下・P.231」岩波書店)

「『欲望に関して譲歩する』と私が呼ぶものは、つねに主体の運命においてなんらかの裏切りを伴うものです。皆さんもどんな症例においてもお気づきでしょう。その次元を考えて下さい。たとえば、主体は自らの道を裏切り、自らを裏切っていて、このことは彼にはっきりと解っています。あるいはもっと単純に、何かを誓い合ったり相手が裏切り、契約ーーー反逆でも逃亡でもどんな契約でもよいのです、その吉凶を問わず、暫定的な契約であれ短期間の契約であれ同じことですーーーを果たさなかったことを容認します。

人が裏切りを容認するとき、そして、善という観念ーーーこの瞬間裏切った人の善の観念と私は言いたいのですがーーーに押されて、自分自身のこだわりを捨てるとき、『こんなもんさ、我々のパースペクティヴは断念しよう、我々はどちらも、でも多分私の方が、そうたいした人間ではない、普通の平凡な道に戻ることにしよう』と納得するとき、この裏切りをめぐって何かが演じられています。ここに『欲望に関して譲歩する』と呼ばれる構造があることはお解りでしょう。

この限界、私がここで自分と他者との軽視を同じ一つの言葉で結びつけたこの限界が乗り越えられると、もはや戻ることはできません。埋め合せはできても、解約はありえないのです。このことは、精神分析が倫理的方針という領野において有効な羅針盤を我々に与えることができることを示す一つの経験的事実ではないでしょうか。

つまり私は三つの命題を提案したのです。

まず第一に、我々が有罪でありうる唯一のこと、それは欲望に関して譲歩してしまったことです。

第二に、英雄の定義、裏切られてもひるまない者です。

第三に、このような感じ方は万人の手の届くものでは決してなく、これこそ普通の人と英雄の相違です。この相違はそれと信じられているより、もっと神秘的なものです。普通の人間にとって、裏切りはほとんどつねに生じることですが、その結果として普通の人間は善への奉仕へと決定的に投げ返されます。しかしこの場合、この奉仕へと向かわせたものが本当は何であるかを見ることは彼には決してできません。

さらに申し上げましょう。善の領野、当然これは存在します。これを否定しようとするのではありません。しかしパースペクティヴを逆転させて、私は皆さんに次のことを提案します。第四の命題です。欲望への接近のため支払うべき対価ではない善はありません。というのは欲望とは、我々がすでに定義したように、我々の存在の換喩です。欲望がそこにある渓流、それはシニフィアン(記号表現)の連鎖の転調であるのみではなく、伏流として流れているのであり、これこそ本来の意味で我々がそれであるところのもの、そしてまた我々がそれでないところのものです。我々の存在、そして我々の非存在です。行為においてシニフィエ(意味されるもの)であるものが、連鎖のうちのシニフィアン(意味するもの)から他のシニフィアン(意味するもの)へと、あらゆるシニフィカシオン(意味作用)のもとで、移行しているのです」(ラカン「精神分析の倫理・下・P.233~235」岩波書店)

欲望の貫徹という見地から再び問われることになる。第三の場合。産みたくても産めないあるいは産めなかった場合。「優生思想」の犠牲者がそれに当たる。犠牲者は欲望を貫徹しようとしたにもかかわらず、国家の法によってそれを暴力的に阻止されてしまった。ラカンの言い方に変更を加える必要があるだろう。「欲望に関して譲歩してしまった」のではなく「欲望に関して《暴力的》に譲歩《させられた》」、と考えるべきケースなのだ。「本人の無知」を指摘する人々は昔からいた。ところが「本人」を「無知」な状態に「置いたまま処理した」のはほかならぬ国家である。さらに社会的環境という観点からみて周囲の理解がなかったといわざるを得ない。したがって国家はもっと積極的になおかつ迅速に被害者に対する人権回復・名誉回復・経済的補償を行なっていくべきであると考える。

また、社会的環境という観点からみて周囲の理解がなかったことに関し、集団的な主観の塊が果たした犯罪的言動は大きいと言わなければならない。主観はけっして一つではなく、むしろ逆に主観の多様性の大切さということをマスコミの側こそ、もっと積極性を盛り込みつつ報道していくべきだろうとおもわれる。ニーチェのいうように主観は実際にもけっして一つではないのだから。

「《主観を一つだけ》想定する必要はおそらくあるまい。おそらく多数の主観を想定しても同じくさしつかえあるまい。それら諸主観の協調や闘争が私たちの思考や総じて私たちの意識の根底にあるのかもしれない。支配権をにぎっている『諸細胞』の一種の《貴族政治》?もちろん、互いに統治することに馴れていて、命令することをこころえている同類のものの間での貴族政治?」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四九〇・P.34」ちくま学芸文庫)

「《肉体》と生理学とに出発点をとること。なぜか?ーーー私たちは、私たちの主観という統一がいかなる種類のものであるか、つまり、それは一つの共同体の頂点をしめる統治者である(『霊魂』や『生命力』ではなく)ということを、同じく、この統治者が、被統治者に、また、個々のものと同時に全体を可能ならしめる階序や分業の諸条件に依存しているということを、正しく表象することができるからである。生ける統一は不断に生滅するということ、『主観』は永遠的なものではないということに関しても同様である。また、闘争は命令と服従のうちにもあらわれており、権力の限界規定が流動的であることは生に属しているということに関しても同様である。共同体の個々の作業や混乱すらに関して統治者がおちいっている或る《無知》は、統治がおこなわれる諸条件のうちの一つである。要するに、私たちは、《知識の欠如》、大まかな見方、単純化し偽るはたらき、遠近法的なものに対しても、一つの評価を獲得する。しかし最も重要なのは、私たちが、支配者とその被支配者とは《同種のもの》であり、すべて感情し、意欲し、思考すると解するということーーーまた、私たちが肉体のうちに運動をみとめたり推測したりするいたるところで、その運動に属する主体的な、不可視的な生命を推論しくわえることを学んでいるということである。運動は肉眼にみえる一つの象徴的記号であり、それは、何ものかが感情され、意欲され、思考されているということを暗示する。主観が主観に《関して》直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は、危険なことであるが、その危険は、おのれを、《偽って》解釈することがその活動にとって有用であり重要であるかもしれないという点にある。それゆえ私たちは肉体に問いたずねるのであり、鋭くされた感官の証言を拒絶する。言ってみれば、隷属者たち自身が私たちと交わりをむすぶにいたりうるかどうかを、こころみてみるのである」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四九二・P.35~36」ちくま学芸文庫)

さらにバルトから引用したい。というのは、なぜ「優生思想」などという社会的害悪しか生まない「都市伝説」のようなものが、とりわけ大都市を中心として発信されることが多いのか、という事情について説明してくれているとおもわれるからだ。

「今日において、神話とは何か?直ちに極めて簡単な答えを出そう。それは語源と完全に一致している。すなわち、《神話とは、ことばである》(『神話』という単語について千もの違う意味を挙げての反論があるに違いない。だがわたしは単語ではなく事柄を定義しようとしたのだ)。

もちろん、それはどんなことばでもいいというのではない。言語にとって神話になるためには特殊な条件が必要だ。そのことはすぐあとにわかる。だが最初から強く提示する必要があるのは、神話が伝達の体系であることだ。それは話しかけなのである。そのことによって、神話が、客体、概念または観念ではありえないのがわかる。それは意味作用の様式だ。一つの形式なのである。あとで、この形式に、歴史的限界、使用条件を課し、また、その中に、社会を再現することになろう。それだからといって、まず初めに、神話を形式として記述しなければならないのには、変わりがない。

神話の様々な対象のあいだに内容上の区別を立てようとするのが間違いであるのは明らかだ。というのは、神話はことばであり、話すことに属するものならすべてが神話でありうるからだ。神話は、その話しかけの対象によってではなく、それを表現するやり方によって、定義されるのだ。神話には形式的な限界があるが、内容的な限界はない。では、すべてが神話でありうるのか?そうだとわたしは思う。宇宙は無限に暗示的だからだ。世界のどの物体も閉ざされた沈黙の存在から、社会的馴化に開かれた言語的状態に移りうるのだ。というのは、いかなる法則も、自然のであれ人間のであれ、物事について話すのを禁じていないからだ。木は木である。たしかにそうだ。だがミヌウ・ドゥルエによっていわれた木はすでにもう完全な木ではない。それは飾られた木であり、或る種の消費に適応し、文学的楽しみ、反抗、映像を付与され、つまり、純粋な材質につけくわわる社会的《用途》を与えられているのだ。

もちろん、すべてが同時にいえるのではない。いくつかの事物は一時期、神話的ことばの対象となり、次いで消え去り、他の事物が入れ代って神話となる。ボードレールが女についていったように、《宿命的に》暗示的な事物があるのだろうか?決してそうではない。極めて古い神話というものを考えることはできるが、永遠の神話はないのだ。なぜなら、現実的なものをことばの状態に移行させるのは人間の歴史であり、それだけが神話的言語の生死を支配するのだ。悠遠であろうがなかろうが、神話体系は歴史的基礎しか持ちえない。事物の《性質》から出現することはできないのだ」(バルト「神話作用・P.139~141」現代思潮社)

繰り返す必要もないだろう。「都市伝説」あるいは「巷」(ちまた)にはびこる「神話」は、それが害毒であるにもかかわらず、なぜ急速になおかつ真実であるかのように広がっていくのか。同時にさらなる差別思想を新しく創設するのか。また実在する被害者をなお一層多く生み出すのか。そしてそれらの動きと同時に〔差別的思想の蔓延によって〕《国家もまた思い上がる》という現実を出現させるのか。なぜそうなるのか。それはバルトによれば、もともと近現代の「神話」というものは、また俗世間でいう「都市伝説」あるいは「巷」(ちまた)にはびこる「神話」というものが、その発生をほかでもない「言語」に依存しているからである。

言語あるいは広い意味での言語(数式・体系・形式化など)は、科学的見地から見てはなはだしく未熟だった原始的共同体だけでなく、むしろ二十一世紀の到来とともに達成されたネット社会の中でますます特権的な暴力装置としてより一層機能しやすいものとなった。なぜかはわからないが、科学の発展が必ずしも人間社会を幸福にするものだとはいえないのであって、それはナチス・ドイツ出現以前、ソ連成立とほぼ同時期にフロイトもいっていた。

「遠い未来においては、現在のわれわれにはおそらく想像もできぬほど大きな新しい進歩が文化のこの領域で行なわれ、人間と神との類似はいっそうその度を増すことだろう。しかしながら他面、われわれがいま行なっているこの検討との関連においては、神に類似するまでになりながら今日の人間が自分を幸福だと思っていないという事実も忘れてはならない」(フロイト「文化への不満」『フロイト著作集3・P.454』人文書院)

そうフロイトが述べた時代が今や現実のものとして人間社会を征服してしまっている。人間は征服されることに馴れきってしまい、ニーチェの言葉を借りれば「そこにある不思議なものを不思議がらないようになる」。今後、二度も三度も征服されるたびに、征服されたと気づかないままますますそうなってしまうかもしれない。

BGM