バーナードは「此処にこうして僕たちが一緒にいる」ことを一つの奇跡のように感じる。それはパーシバルに寄せる仲間たちによってもたらされた「愛情」のゆえなのだろうかと考える。
「『でも此処にこうして僕たちが一緒にいるーーーみんな一緒にやって来た。この時ばかり、この此処で。何か深い、何か共通の感情でこの親しい交りに引き入れられているのだ。とりあえず、《愛情》とでも言おうか。パーシバルはインドへ行くんだから《パーシバルの愛情》とでも言おうか』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.123」角川文庫)
バーナードは興奮のあまり「愛情」といっているが、くせものはむしろ「愛情」なのだ。それは自己と他者との《あいだ》にある輪郭の尊厳を一挙に抹消してしまい、だれかれとなく一体化させ有無をいわせず一つの流れの中へ合流させる全体主義的装置にもなるということを忘れてしまっている。しかしともかく、子どもの頃からの仲間たちだったみんなが様々な職業に就きながらも、このように一堂に会しえたことを素直に喜ぶ。
「『僕たちは共に集ったのだ(北から、南から、スーザンの農場から、ルイスの商館から)、一つのことをするためだ。耐え忍ぶことではないーーー何を耐え忍ぶのだ。でも多くの眼で一せいに見られてはいるのだが。あの花瓶の中に赤いカーネーションが一本ある。僕たちがここに坐って待っていた時には単一な花だったが、今では七面で、沢山花弁をつけて、赤い、暗褐色の、深紅の蔭をおとし、銀色の葉をつけて硬ばったような花だ。ーーー眼という眼がおのおのの寄与をもたらす、一つの一体の花だ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.123」角川文庫)
パーシバルが現われるまではただ単なる「単一な花だった」カーネーション。それは「今では七面」である。バーナードたち六人に加えてパーシバルの目が含まれている。七対の目が一本のカーネーションを「一つの一体の花」として確定させる。しかしそれは同時に「七面」でもあることで始めて完成された「一体の花」として承認される。「眼という眼がおのおのの寄与をもたらす」とある。仲間たちそれぞれの眼がこの加工作業に参与したということでなければならない。
もとよりばらばらな話だ。小説は一筋の線にしたがうことによってのみ時間化されて、或る種の物語であるかのように読まれる。しかし登場人物たちはみんなてんでばらばらに思考している。もっとも、日常生活は往々にしてそういうものなのだが。バーナードの発言を聞いていたのか聞いていなかったのかわからないうちに、速くもルイスは変態を始まる。
「『僕たちはみんな異っている、全く真底からかもしれぬーーー僕は諸君のように単一でも十全でもないからだ。僕はもうすでに無数の人生を生きてきた。毎日毎日墓から蘇えりーーー掘りかえす。数千年の昔、女たちが作った砂丘の中に僕は己が屍を見出す』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.124」角川文庫)
ルイスのいう「僕たちはみんな異っているーーー僕は諸君のように単一でも十全でもない」という言葉は、第一に、社会に出たばかりでほとんど信用のない若年層にとっては大変重い。職業あるいは生活が掛かっている。しかし第二に、重大な覚悟性〔運命愛〕を自分の身に引き受けた以上、とてつもない軽快さをもたらすものでもある。第一に大変重いという意味で。
「われわれはすべてばらばらな小片からできており、構造があまりにも不定で雑多であるから、おのおのの断片は、瞬間ごとに勝手な動き方をする。だからわれわれ自身の中に、われわれと他人の間にあるのと同じくらいの相違が見いだされる」(モンテーニュ「エセー2・P.227」岩波文庫)
次に、重大な覚悟性〔運命愛〕を自分の身に引き受けた以上、空を自由に飛び交う鳥のような軽快さをもたらすものでもあるという意味で。
「わたしの頭上の空よ、おまえ、清らかなもの、高いものよ。わたしにとっておまえの清らかさとは、そこになんらの永遠的な理性蜘蛛(りせいぐも)とその蜘蛛の巣がないということなのだ。ーーーまたおまえがわたしにとって神的な偶然が踊る踊り場であるということ、神的な骰子(さい)と神的な骰子遊びをする者にとっての神的な卓であるということなのだ」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第三部・日の出前・P.264」中公文庫)
「わたしがかつて創造的な電光の笑いで笑ったとするなら(その笑いには、行為という長い雷鳴が、不平の声をとどろかせながら、しかも従順についてくるのだ)、ーーーわたしがかつて、大地という神々の卓々で神々と骰子(さい)の遊びを競(きそ)い、そのために地が震い、破れ、火の河流が噴(ふ)き出すに至ったとするなら、ーーー(つまり、大地は神々の卓であって、創造的な新しいことばと神々の投げかわす骰子とで震えているのだーーー)」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第三部・七つの封印・三・P.372」中公文庫)
「内気な様子で、はじらって、足取りも拙(つたな)く、跳躍をしそこなった虎(とら)のような、高人たちよ、あなたがたが、こっそりとわきへ退くのを、わたしはしばしば見た。骰子(さい)の一擲(いってき)にあなたがたは失敗したのだ。しかし、賭博者(とばくしゃ)たちよ、そんな失敗が何だろう。あなたがたは、賭博者、そして嘲笑者(ちょうしょうしゃ)としての心がけを学んでいなかったのだ。われわれはいつも一つの巨大な賭博と嘲笑の卓についているのではないか」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第四部・高人・一四・P.471」中公文庫)
ニーチェがいっていることは、まず第一に、人間はみずから「骰子」(さいころ)でしかないという自覚である。「神的な卓」というのは、「神は死んだ」と述べたニーチェにとって、またすべての人間にとって、資本主義という錯綜した土俵を指す。資本主義社会に生きるすべての人間は常に既に労働力商品として、単純にいえば、資本主義のための「骰子」(さいころ)として、したがって「骰子」(さいころ)としての自分を自分自身の生として引き受けるとともに、資本主義という「大地=神々のテーブル」へ向けてもはや「骰子」(さいころ)でしかない自分を何度も繰り返し投擲しつつ生きていくほかないということを意味する。そして人間はもはや資本主義という名のテーブルの上を転がる「骰子」(さいころ)でしかないものとして「偶然が踊る踊り場」をひたすらころころと転がっていくしかない。ところがニーチェは「骰子(さい)の一擲(いってき)にあなたがたは失敗した」と宣告する。日本でいえば近代化に失敗したということだ。このことは近代をもう一度やり直さなければならないという意味を含んでいるし、もう一度やり直すことができるという意味をも含んでいる。
さて、高速で生成変化するルイス。
「アラビアの皇子」に、「エリザベス朝の偉大な詩人」に、「十四世ルイ王朝の公爵」に、「胡桃の上で喋る子猿」に、「檻に入れられた虎」に《なる》。柔軟性が必要だ。モンテーニュは人間の「変化」について、「不定」について、こう述べている。
「人間のもろもろの行為にたずさわる人々は、これらの行為を継ぎ合わせて、同じ光を当てて一様に見ようとするときほど、当惑を感ずることはない。なぜなら、これらの行為は普通、不思議なほど矛盾していて、とても同じ店から出たものとは思えないからである。小マリウスは、ときにはマルスの息子となり、ときにはウェヌスの息子ともなった。法王ボニファチウス八世は狐のようにその職につき、獅子のように振舞い、犬のように死んだと伝えられる。また、しきたりどおりに、ある男の死刑の判決文に署名を乞われたとき、『ああ、字を書くことを知らなければよかった』と答えて、一人の人間を死刑にすることに心を痛めたネロが、あの残忍の権化ともいうべきネロと同一人だなどとは誰が信じようか。世間にはこういう例がいっぱいにある。いや、誰でもこういう実例を自分の中にいくらでも見いだすことができる。だから私は、分別のある人々がときどきこれらのばらばらの断片を一つに継ぎ合わせようと骨折っているのを見ると、不思議に思うのである。なぜなら、不定であるということが、われわれの本性のもっとも普通のもっとも明らかな欠陥のように思われるからである」(モンテーニュ「エセー2・P.217~218」岩波文庫)
これほど激しい変化があるというのに、その同じ人間を同じ「ネロ」というたった一つの名で呼んでしまうことの不可解さ。
「人間を判断するのに、日常のもっとも普通の行為をもってすることにはいくらかの理由がある。けれどもわれわれの習慣や意見が本性上、不定であることを考えると、私にはしばしば、すぐれた著者たちまでが人間について恒常不変な性格を打ち樹てようとやっきとなるのは間違いであるように思われた。彼らはある普遍的な姿を選び、その像に従って一人の人間のあらゆる行為を整理し、解釈してゆく。そして、行為を十分にねじ曲げることができないと、これをその人の偽装のせいにする。アウグストゥスは彼らには理解できなかった。この人の行為は、生涯を通じて、変化があまりにも明白で急激で不断であるために、どんなに大胆な判定者にとっても、つかまえどころがなく、手がつかずに、未解決に終わったからである。私にとっては、人間の恒常を信ずることほど難しいものはないし、人間の不定を信ずることほど易しいものはないように思われる」(モンテーニュ「エセー2・P.218」岩波文庫)
モンテーニュは個人的人間の生の不定性に言及している。同時に、同じ人間の〔常に変化に晒されている〕不定な生をたった一つの同じ名で死ぬまでずっと通して呼んでしまえる他の人間の無責任性にも言及しているのだ。
鏡に映る自分の姿形が動き踊ることに陶酔することができるジニー。ジニーはいうまでもなく身体を先行させる。肉体の輪郭がジニーの知覚に反射して自分に与える〔投げかける〕「環を越えてはなんにも想像できない」。
「『私の想像は諸々の肉体なんだわ。肉体が投げかける環を越えてはなんにも想像できないの。私の身体が私の前を進んでゆき、暗い小径を照らす提燈のように、つぎからつぎと暗闇の中から円い明りの中へ照らし出すの』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.125」角川文庫)
ジニーはまず自分の「肉体」の「輪郭」を知覚する。そこからジニーの可能的あるいは潜在的活動の余地が生じる。もし「肉体」の「輪郭」が与えられていなかったなら、ジニーは「環を越えてはなんにも想像できな」くなる。ちなみに「環」は、仲間たちとともにいるとき、自分がその言動の限界を自分自身で画することになる目に見えない「環」のことだ。誰でも自分にとってそのような「環」を持っているものなので、わかりやすいとおもうが。その「環」の外へ出ることは恐怖であるが冒険でもある。冒険という意味では新しい認識を手に入れるためには是非とも必要になってくる。が、差し当たりジニーにその必要性はない。
だが大事なのは次のことだ。何度か述べた。しかし何度でも述べないといけない。というのは、可能的あるいは潜在的ということについて、余りにも多くの人々が今なお誤解しているということがあるからである。たとえば、犯人が鴨川を渡るとしよう。しかし犯人が鴨川を渡らなかったがゆえに、その瞬間、犯人が鴨川を渡らなかった場合の可能的あるいは潜在的世界に関する素描が一挙に下描きされることになる、ということ。だから、想定というスケッチのむずかしさは、犯人の輪郭がまだ曖昧模糊としているときに起こってくる。輪郭が不鮮明であるがゆえに犯人の行為がどのように展開するかはっきり特定できず、したがって犯人逮捕に向けて無数の可能的あるいは潜在的世界をスケッチしておかなければならないからである。犯人の輪郭が鮮明になればなるほど犯人のその後の可能的あるいは潜在的世界の諸様態についてその素描を一挙に下描きする可能性が発生するのだ。ジニーもまた自分の身体の輪郭を先に捉えてから、事後的に、自分の言動の可能的あるいは潜在的言動の諸様態に関する素描を一挙に下描きすることができ、またその下描きをどんどん延長していくことができる。以下参照。
「それらの対象は、だから私の身体に対して、鏡がそうするように、生じうる身体の影響を送りかえしてくるのだ。対象群は、じぶんの身体の有する〔影響を与える〕力が増減するのにしたがって秩序づけられる。《私の身体を取りまく対象群は、それらの対象に対する私の身体の可能な行動を反射するのである》」(ベルクソン「物質と記憶・P.41」岩波文庫)
「知覚とは、私たちの理解するところでは、事物に対するみずからの可能な行動を計るものであり、逆にじぶんに対して事物がおよぼすことの可能な作用を測るものにほかならない」(ベルクソン「物質と記憶・P.111」岩波文庫)
「私たちの感覚が知覚に対して有する関係は、だから、じぶんの身体の現実的行動がその可能的あるいは潜在的行動に対して有している関係とひとしい。私の身体の潜在的行動は、それ以外の諸対象にかかわり、それらの対象群にあって素描されている。その現実的な行動はじぶんの身体そのものに関係し、したがって身体のうちで描きだされているのである。すべてはかくして結局のところ、あたかも現実的行動ならびに潜在的行動が、その適用される点に、あるいはその原点へと真に回帰することをつうじて、外的イマージュが、私たちの身体によってそれを取りかこむ空間中に反射され、現実的行動はこの身体をつうじてその身体の実質の内部に留保されるかのように生起することだろう。またこのゆえにこそ、身体の表面ーーーこれが内部と外部とに共通する境界であるーーーは、知覚されると同時に感受される〔身体という〕延長のただひとつの部位なのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.112~113」岩波文庫)
「われわれがある対象に割り当てるはっきりとした輪郭は、その対象に個別性を与えているが、それらの輪郭は、われわれが空間のある点で及ぼしうるある種の《影響》の素描でしかない。つまりそれらは、われわれが起こすことになるかもしれない行動の計画である」(ベルクソン「創造的進化・P.30~31」ちくま学芸文庫)
「諸物体の眼に見える輪郭とは、それらに対するわれわれの可能的な行動の素描なのである」(ベルクソン「創造的進化・P.131」ちくま学芸文庫)
「われわれの知覚は、事物そのものの素描よりも、その事物に対するわれわれの可能的な行動の素描を与える。われわれが対象に見つける輪郭が示しているのは単に、その対象のうちで到達できるもの、変化させることができるものでしかない」(ベルクソン「創造的進化・P.240」ちくま学芸文庫)
思索型のローダ。人生にとって「変化」が可能であれば「怖いものがなくなるわ。なんにも残らないわ。一つの瞬間が他の瞬間につづかない」と考える。それはニーチェにいわせれば非歴史的に生きるということだ。そしてもちろん、人間はいつも歴史的でいることはできない。人間はしばしば生を忘却しどこか流れの縁で闇に埋没していなければ生きていけない。たとえば睡眠。
「『追求と変化とのうちに年をとることが信じられるものならばーーー怖いものがなくなるわ。なんにも残らないわ。一つの瞬間が他の瞬間につづかない。扉を開いて、虎が跳ねる。この人たちには私が入ってくるのがわからない。恐ろしい跳躍を避けるために椅子をずっと廻るの。あなた方みんなが怖いの。私に襲いかかる感動の衝動が怖いの。あなた方と違ってどうしていいか分らないんだもの。ーーー一つの瞬間をつぎの瞬間に併合させることができないの。私にはみんな激烈で、みんな別々。その瞬間の跳躍をうけて倒れたら、あなたたちは私に乗っかって、粉々にひき裂いてしまうわ。何も目的だった目論みなどはないの。一分一分を、一時間一時間をどうして過していいかわからないの。やがてはあなたたちが人生と呼んでいる、総体的な、分つことのできない集合になるまでは、何か自然の力によって、そうした時間を解決していくなんてことはとても駄目。というのも、あなたたちはちゃんと目的を持って目論みを立てているのだもの』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.126~127」角川文庫)
不眠症で睡眠を奪われた人間のことを考えてみよう。その人はいつも歴史的でなければならない。忘却することができない。睡眠をとる人々に比べると間違いなく速く死んでしまうだろう。ニーチェは非歴史的に生きていく技術がなければ、逆に歴史的に生きていくことの妨害になるといっている。
「忘却する力を全然所有せず、到る所に成長を見るように宣告されている人のことを考えてみてくれ給え。かかる人はもはや彼自身の存在を信ぜず、もはや自己を信ぜず、すべてのものが分散して動点に流れ込むのを見、生成のこの流れのなかに自己を見失う。ーーーすべての行為には忘却が必要であるが、これはすべての有機体の生命に光のみならずまた闇も必要であるのと同様である。ーーー忘却なしにおよそ《生きる》ことは全然不可能である。あるいは私の主題をもっと簡単に説明するならば、《不眠や反芻や歴史的感覚のうちには、そこまでゆくと、人間であれ民族であれ文化であれ、生けるものが害を受け、最後には没落するに到る程度がある》ということになる」(ニーチェ「反時代的考察・P.124~125」ちくま学芸文庫)
人間が歴史的に生きていくためにはしばしの間、繭のような茫洋とした曖昧な状態のうちに身を委ねる必要がある。そして人間にせよ国家にせよ、この繭の中でのふわふわ状態に身を任せ、ぼんやり漂うことによっていわばエネルギーを蓄積する。それは夢の中への退避でもある。それがなければ再び歴史的な生を生きることはできない。
「非歴史的なものはものを被う雰囲気に似ており、この雰囲気のうちでのみ生はみずからを産み、したがってそれが否定されると同時に生も再び消え失せる。人間が考え、篤(とく)と考え、比較し、分離し、結合して、あの非歴史的要素を制限することによって初めて、あの取り巻く蒸気の雲の内部に明るく閃(ひら)めく一条の光が発生することによって初めて、ーーーしたがって、過ぎ去ったものを生のために使用し、また出来事をもとにして歴史を作成する力によって初めて、人間は人間となる。これに間違いない、しかし歴史が過剰になると人間は再び人間であることをやめるのであり、人間は非歴史的なもののあの被いがなければ、開始することを決してしなかったであろうし、また現に開始することを敢えてしないであろう。人間が前もってあの蒸気層に入り込んでおらずに、なすことの可能な行動がどこに見いだされるであろうか?」(ニーチェ「反時代的考察・P.127~128」ちくま学芸文庫)
さらにローダは「私にはみんな激烈で、みんな別々。その瞬間の跳躍をうけて倒れたら、あなたたちは私に乗っかって、粉々にひき裂いてしまう」と怖がる。仲間たちを信用していないわけではけっしてない。そうではなく、人間が持っている主観性というものがどれほど暴力的なものかをローダはよく知っているのだ。ローダの繊細で感受性豊かな敏感さがローダ自身を苦しめる。主観性が本来的に持つ暴力性についてはヘーゲルが詳しい。
「自己意識に対しては別の自己意識が在る。つまり自己意識は《自分の外》に出てきているのである。このことは二重の意味をもっている。《まず》自己意識は自己自身を失っている。というのは、自己意識は、自分が《他方の》もう一つの実在であることに気がつくからである。《次に》、そのため自己意識はその他者を廃棄している。というのは、自己意識は他者もまた実在であるとは見ないで、《他者》のうちに《自己自身》を見るからである。自己意識はこの《自らの他在》を廃棄しなければならない。このことは最初の二重の意味を廃棄することであるから、それ自身第二の二重の意味である。《まず》、自己意識は《他方の》自立的な実在を廃棄することによって、《自分》が実在であることを確信することに、向って行かねばならない。そこで《次に、自己自身》を廃棄することになる。というのは、この他者は自己自身だからである。このように、二重の意味の他在を二重の意味で廃棄することは、また、二重の意味で《自己自身》に帰ることである。というのは、《まず、自らの》他在を廃棄することによって、また自己と等しくなるゆえ、廃棄によって自己自身を取りかえすからである。だが『次に』、自己意識は他方の自己意識に自らを取りもどさせる。というのも、自己意識は自ら他方のうちにあったからである。つまり、他方のうちでのこの自らの存在を廃棄し、したがってまた他方を自由にしてやるからである。だが、他方の自己意識と関係している自己意識のこの運動は、いま言ったように、《一方のものの行為》と考えられていた。とはいえ、一方のもののこの行為は、それ自身、《自己の行為》でありまた《他者の行為》であるという、二重の意味をもっている。なぜならば、他方もやはり独立であり、自分で完結しており、自己自身によらないであるようなものは、他方のなかには何もないからである。初めの自己意識は、さしあたり、欲求に対して在るにすぎないような対象を、相手にしているのではなく、それ自身で存在する独立な対象を相手にしているのである。それゆえ、初めの自己意識がこの対象にしかけることを、この対象が自分自身でもしかけない場合には、自己意識も自分ではその対象に対し何もしかけることはできない。だからこの動きは、端的に言って、両方の自己意識の二重の動きなのである。各々は、自分が行うことと同じことを、《他方》が行うのを見る。各々は、自分が他者に求めることを自分でやる。それゆえ、各々は、他者が同じことを行う限りでのみまた、自分の行うことを行う。起ってくるはずのことは、両方によってのみ起りうるのであるから、一方だけの行為は役に立たないであろう。したがって、行為が二重の意味のものであるのは、《自分に対する》ものであり、また《他方に対する》ものでもあるという限りでだけのことではなく、分かたれることなく、一方の行為であるとともにまた他方の行為でもある限りでのことである。この運動においてわれわれは、〔悟性において〕両力のたわむれとして現われた過程が、繰り返されるのを見るわけである。ただし、このここでのたわむれは意識のなかで行われる。前のたわむれの場合には、われわれにとって行われたことが、ここでは両方の極自身〔二つの自己意識〕にとって行われる。媒語〔中間〕は、両極に自ら分裂する自己意識である。各々の極は、その規定態を交換し、その対立極に絶対的に移行する。各々は、意識としてたしかに《自分の外に》出るのではあるが、その自己外存在にいながら、同時に自分にもどされたままである。つまり《自分だけで》ある。そして自らの自己外は《各々の極に対して》いる。各々はそのまま他方の意識《であり》また《ない》ということが、各々に対してある。同じように、この他方は、自分だけで〔対自的に〕あるものとしての自分を廃棄し、他者〔一方〕の自分だけでの有〔対自存在・自独存在〕においてのみ、自分だけでいることによって初めて、自分だけであるということが、各々に対してある。各々は他方にとり媒語であり、この媒語によって各々は自己を自己自身と媒介し、自己自身と結ばれる。各々は、自己にとっても他方にとっても、直接の〔無媒介の〕、自分で存在する実在であり、これは同時にこの媒介によってのみ、そのように自分だけで〔対自的で〕ある〔自分に対している〕。両方は、《互いに他方を認めて》いるものとして、互いに《認め》合っている。承認というこの純粋概念、自己意識をその統一において二重化するというこの純粋概念の過程が、自己意識にとりどういうふうに現われるかということが、ここで考察されねばならない。初めに、この過程は、両方が《等しくない》という側面を表わす、つまり、媒語が両極のなかに歩み出てくることを、両極は極としては対立しているが、一方はただ承認されるだけなのに、他方はただ承認するだけであるという形で、歩み出てくることを表わす。
自己意識は、まず、単一な自分だけの有であり、すべての《他者を自己の外》に排除することによって、自己自身と等しい。その本質と絶対的対象は自己意識にとり、《自我》である。自己意識はこの《直接態》において、言いかえれば、自分だけでの〔対自的な・自覚的な〕有という自らの《存在》において、《個別的なもの》である。自己意識に対して他者で在るものは、非本質的な対象として、否定的なものという性格をしるされた対象として存在する。しかし他方もまた自己意識である。一人の個人が一人の個人に対立して現われる。そういうふうに《そのままで》現われるが、互いの間では普通の対象のような態度をとっている。つまり、ともに《自立的な》形態であり、《生命という存在》に沈められたままの意識である。ーーーというのも、ここでは、存在する対象が自己を生命として規定したからである。ーーーそこで、これらの自立的形態、意識は、すべての直接的存在を絶滅するような、また自己自身に等しい意識という、否定的な存在であるにすぎないような、絶対的な抽象化の運動を、まだ《互いに対し》実現してはいない、言いかえれば、互いにまだ純粋な《自分だけでの有》〔対自存在〕としては、すなわち《自己》意識としては現われてはいない。各々は自己自身を確信してはいるが、他者を自分のものとして確信してはいない。それゆえ、自己についての自分自身の確信はまだ真理をもっていない。なぜならば、この真理というのは、自分自身の自分だけでの有〔対自存在〕が、自分にとり自立的な対象として、あるいは同じことであるが、対象が自己自身を純粋に確信するものとして現われる、というような真理にほかならないであろうからである。しかし、いま言ったことは、承認という概念から見て、不可能である。つまり他方が自分に対するように、自分も他方に対し、各人が自分の行為により、また他人の行為によって、自分自身で、自分だけでの有〔対自存在〕に対するというふうな、全くの抽象を敢行するのでなければ、不可能である。
だが、自己を自己意識という全くの抽象作用であると《のべる》ことが成り立つのは、自らを自己の対象的な姿の全き否定として示す点においてである。言いかえれば、いかなる一定の定在にも結びついていないこと、定在一般という一般的な個別性にも、生命にも結びついていないことを、示すことにおいてである。この叙述は、他方の行為と自己自身による行為という《二重の》行為である。だから、行為が《他方の》行為である限り、各人は他方の死を目指している。だがそこにまた、《自己自身による行為》という第二の行為もある。というのも、他人の死を目指すことは、自己の生命を賭けるということを含んでいるからである。そこで、二つの自己意識の関係は、生と死を賭ける戦いによって、自分自身と互いとの《真を確かめる》というふうに規定されている。ーーーつまり、両方は戦いにおもむかねばならない。なぜならば、ともに、《自分だけである》という自己自身の確信を、他者においてまた自分たち自身において、真理に高めねばならないからである。そこで自由を保証してもらうためには、生命を賭けねばならない。自己意識の本質は《在ること》でもなければ、現われる通りの《そのままの》姿でもなく、また生命のひろがりのなかに沈められていることでもなく、ーーーかえって自己意識には、自分にとって消え去らない契機であるようなものは、何も現にないということ、自己意識はただ《自分だけでの有》〔対自存在〕にすぎないということ、これらのことを保証してもらうためにだけ、生命を賭けるのである。敢えて生命を賭けなかった個人は、《人格》とは認められようけれども、自立的な自己意識として承認されているという真理に達してはいない。同じように、他者はもはや自分自身にほかならないと考えられるから、各人は、自分の生命を賭けるように、他者の死を目指さざるをえない。各人にとり自分の実在が他方の者として現われる。自分の実在は自分の外に在る。そこで各人は自らの自己外有を廃棄せざるをえない。他方の者は、さまざまに束縛された存在する意識である。各人は自分の他在を、純粋の自分だけでの有〔対自存在〕、つまり絶対的否定として直観しなければならない」(ヘーゲル「精神現象学・上・P.219~225」平凡社ライブラリー)
「《真理》もまた客体に一致するところの知識として積極者である。しかし、知識が他者〔客体〕に対して否定的に関係し、この客体を浸透するものであり、従って客体の知識に対する否定性を止揚するものであるという意味では、真理はこのような自己同等性である」(ヘーゲル「大論理学・中巻」『ヘーゲル全集7・P.75』岩波書店)
ヘーゲルがいうことをローダの事例に即していえば、「知識」(ローダの仲間たち)は一人一人が「主観性として積極者」である。それはローダ=他者〔客体〕に対して否定的に関係し、「客体を浸透する」=「ローダを物として据え置きローダの内容へ浸透して勝手気ままな主観性で埋め尽くしてしまう」。そのようにして埋め尽くされた後のローダの内容こそローダ自身の「真理」だと断定する「主観性としての積極性」。言い換えれば他人による主観的判断を暴力的に相手に押し付け内部に押し込むこと。ちなみに日本でも大量の強制性交が生じてくるのはこのような一方的主観性による弁証法の濫用がある。たとえ関係者が弁証法の何たるかなどまったく知らないとしても。またローダが感じる暴力性については後でも出てくるのでそこではまた違った観点から述べよう。
BGM
「『でも此処にこうして僕たちが一緒にいるーーーみんな一緒にやって来た。この時ばかり、この此処で。何か深い、何か共通の感情でこの親しい交りに引き入れられているのだ。とりあえず、《愛情》とでも言おうか。パーシバルはインドへ行くんだから《パーシバルの愛情》とでも言おうか』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.123」角川文庫)
バーナードは興奮のあまり「愛情」といっているが、くせものはむしろ「愛情」なのだ。それは自己と他者との《あいだ》にある輪郭の尊厳を一挙に抹消してしまい、だれかれとなく一体化させ有無をいわせず一つの流れの中へ合流させる全体主義的装置にもなるということを忘れてしまっている。しかしともかく、子どもの頃からの仲間たちだったみんなが様々な職業に就きながらも、このように一堂に会しえたことを素直に喜ぶ。
「『僕たちは共に集ったのだ(北から、南から、スーザンの農場から、ルイスの商館から)、一つのことをするためだ。耐え忍ぶことではないーーー何を耐え忍ぶのだ。でも多くの眼で一せいに見られてはいるのだが。あの花瓶の中に赤いカーネーションが一本ある。僕たちがここに坐って待っていた時には単一な花だったが、今では七面で、沢山花弁をつけて、赤い、暗褐色の、深紅の蔭をおとし、銀色の葉をつけて硬ばったような花だ。ーーー眼という眼がおのおのの寄与をもたらす、一つの一体の花だ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.123」角川文庫)
パーシバルが現われるまではただ単なる「単一な花だった」カーネーション。それは「今では七面」である。バーナードたち六人に加えてパーシバルの目が含まれている。七対の目が一本のカーネーションを「一つの一体の花」として確定させる。しかしそれは同時に「七面」でもあることで始めて完成された「一体の花」として承認される。「眼という眼がおのおのの寄与をもたらす」とある。仲間たちそれぞれの眼がこの加工作業に参与したということでなければならない。
もとよりばらばらな話だ。小説は一筋の線にしたがうことによってのみ時間化されて、或る種の物語であるかのように読まれる。しかし登場人物たちはみんなてんでばらばらに思考している。もっとも、日常生活は往々にしてそういうものなのだが。バーナードの発言を聞いていたのか聞いていなかったのかわからないうちに、速くもルイスは変態を始まる。
「『僕たちはみんな異っている、全く真底からかもしれぬーーー僕は諸君のように単一でも十全でもないからだ。僕はもうすでに無数の人生を生きてきた。毎日毎日墓から蘇えりーーー掘りかえす。数千年の昔、女たちが作った砂丘の中に僕は己が屍を見出す』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.124」角川文庫)
ルイスのいう「僕たちはみんな異っているーーー僕は諸君のように単一でも十全でもない」という言葉は、第一に、社会に出たばかりでほとんど信用のない若年層にとっては大変重い。職業あるいは生活が掛かっている。しかし第二に、重大な覚悟性〔運命愛〕を自分の身に引き受けた以上、とてつもない軽快さをもたらすものでもある。第一に大変重いという意味で。
「われわれはすべてばらばらな小片からできており、構造があまりにも不定で雑多であるから、おのおのの断片は、瞬間ごとに勝手な動き方をする。だからわれわれ自身の中に、われわれと他人の間にあるのと同じくらいの相違が見いだされる」(モンテーニュ「エセー2・P.227」岩波文庫)
次に、重大な覚悟性〔運命愛〕を自分の身に引き受けた以上、空を自由に飛び交う鳥のような軽快さをもたらすものでもあるという意味で。
「わたしの頭上の空よ、おまえ、清らかなもの、高いものよ。わたしにとっておまえの清らかさとは、そこになんらの永遠的な理性蜘蛛(りせいぐも)とその蜘蛛の巣がないということなのだ。ーーーまたおまえがわたしにとって神的な偶然が踊る踊り場であるということ、神的な骰子(さい)と神的な骰子遊びをする者にとっての神的な卓であるということなのだ」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第三部・日の出前・P.264」中公文庫)
「わたしがかつて創造的な電光の笑いで笑ったとするなら(その笑いには、行為という長い雷鳴が、不平の声をとどろかせながら、しかも従順についてくるのだ)、ーーーわたしがかつて、大地という神々の卓々で神々と骰子(さい)の遊びを競(きそ)い、そのために地が震い、破れ、火の河流が噴(ふ)き出すに至ったとするなら、ーーー(つまり、大地は神々の卓であって、創造的な新しいことばと神々の投げかわす骰子とで震えているのだーーー)」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第三部・七つの封印・三・P.372」中公文庫)
「内気な様子で、はじらって、足取りも拙(つたな)く、跳躍をしそこなった虎(とら)のような、高人たちよ、あなたがたが、こっそりとわきへ退くのを、わたしはしばしば見た。骰子(さい)の一擲(いってき)にあなたがたは失敗したのだ。しかし、賭博者(とばくしゃ)たちよ、そんな失敗が何だろう。あなたがたは、賭博者、そして嘲笑者(ちょうしょうしゃ)としての心がけを学んでいなかったのだ。われわれはいつも一つの巨大な賭博と嘲笑の卓についているのではないか」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第四部・高人・一四・P.471」中公文庫)
ニーチェがいっていることは、まず第一に、人間はみずから「骰子」(さいころ)でしかないという自覚である。「神的な卓」というのは、「神は死んだ」と述べたニーチェにとって、またすべての人間にとって、資本主義という錯綜した土俵を指す。資本主義社会に生きるすべての人間は常に既に労働力商品として、単純にいえば、資本主義のための「骰子」(さいころ)として、したがって「骰子」(さいころ)としての自分を自分自身の生として引き受けるとともに、資本主義という「大地=神々のテーブル」へ向けてもはや「骰子」(さいころ)でしかない自分を何度も繰り返し投擲しつつ生きていくほかないということを意味する。そして人間はもはや資本主義という名のテーブルの上を転がる「骰子」(さいころ)でしかないものとして「偶然が踊る踊り場」をひたすらころころと転がっていくしかない。ところがニーチェは「骰子(さい)の一擲(いってき)にあなたがたは失敗した」と宣告する。日本でいえば近代化に失敗したということだ。このことは近代をもう一度やり直さなければならないという意味を含んでいるし、もう一度やり直すことができるという意味をも含んでいる。
さて、高速で生成変化するルイス。
「アラビアの皇子」に、「エリザベス朝の偉大な詩人」に、「十四世ルイ王朝の公爵」に、「胡桃の上で喋る子猿」に、「檻に入れられた虎」に《なる》。柔軟性が必要だ。モンテーニュは人間の「変化」について、「不定」について、こう述べている。
「人間のもろもろの行為にたずさわる人々は、これらの行為を継ぎ合わせて、同じ光を当てて一様に見ようとするときほど、当惑を感ずることはない。なぜなら、これらの行為は普通、不思議なほど矛盾していて、とても同じ店から出たものとは思えないからである。小マリウスは、ときにはマルスの息子となり、ときにはウェヌスの息子ともなった。法王ボニファチウス八世は狐のようにその職につき、獅子のように振舞い、犬のように死んだと伝えられる。また、しきたりどおりに、ある男の死刑の判決文に署名を乞われたとき、『ああ、字を書くことを知らなければよかった』と答えて、一人の人間を死刑にすることに心を痛めたネロが、あの残忍の権化ともいうべきネロと同一人だなどとは誰が信じようか。世間にはこういう例がいっぱいにある。いや、誰でもこういう実例を自分の中にいくらでも見いだすことができる。だから私は、分別のある人々がときどきこれらのばらばらの断片を一つに継ぎ合わせようと骨折っているのを見ると、不思議に思うのである。なぜなら、不定であるということが、われわれの本性のもっとも普通のもっとも明らかな欠陥のように思われるからである」(モンテーニュ「エセー2・P.217~218」岩波文庫)
これほど激しい変化があるというのに、その同じ人間を同じ「ネロ」というたった一つの名で呼んでしまうことの不可解さ。
「人間を判断するのに、日常のもっとも普通の行為をもってすることにはいくらかの理由がある。けれどもわれわれの習慣や意見が本性上、不定であることを考えると、私にはしばしば、すぐれた著者たちまでが人間について恒常不変な性格を打ち樹てようとやっきとなるのは間違いであるように思われた。彼らはある普遍的な姿を選び、その像に従って一人の人間のあらゆる行為を整理し、解釈してゆく。そして、行為を十分にねじ曲げることができないと、これをその人の偽装のせいにする。アウグストゥスは彼らには理解できなかった。この人の行為は、生涯を通じて、変化があまりにも明白で急激で不断であるために、どんなに大胆な判定者にとっても、つかまえどころがなく、手がつかずに、未解決に終わったからである。私にとっては、人間の恒常を信ずることほど難しいものはないし、人間の不定を信ずることほど易しいものはないように思われる」(モンテーニュ「エセー2・P.218」岩波文庫)
モンテーニュは個人的人間の生の不定性に言及している。同時に、同じ人間の〔常に変化に晒されている〕不定な生をたった一つの同じ名で死ぬまでずっと通して呼んでしまえる他の人間の無責任性にも言及しているのだ。
鏡に映る自分の姿形が動き踊ることに陶酔することができるジニー。ジニーはいうまでもなく身体を先行させる。肉体の輪郭がジニーの知覚に反射して自分に与える〔投げかける〕「環を越えてはなんにも想像できない」。
「『私の想像は諸々の肉体なんだわ。肉体が投げかける環を越えてはなんにも想像できないの。私の身体が私の前を進んでゆき、暗い小径を照らす提燈のように、つぎからつぎと暗闇の中から円い明りの中へ照らし出すの』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.125」角川文庫)
ジニーはまず自分の「肉体」の「輪郭」を知覚する。そこからジニーの可能的あるいは潜在的活動の余地が生じる。もし「肉体」の「輪郭」が与えられていなかったなら、ジニーは「環を越えてはなんにも想像できな」くなる。ちなみに「環」は、仲間たちとともにいるとき、自分がその言動の限界を自分自身で画することになる目に見えない「環」のことだ。誰でも自分にとってそのような「環」を持っているものなので、わかりやすいとおもうが。その「環」の外へ出ることは恐怖であるが冒険でもある。冒険という意味では新しい認識を手に入れるためには是非とも必要になってくる。が、差し当たりジニーにその必要性はない。
だが大事なのは次のことだ。何度か述べた。しかし何度でも述べないといけない。というのは、可能的あるいは潜在的ということについて、余りにも多くの人々が今なお誤解しているということがあるからである。たとえば、犯人が鴨川を渡るとしよう。しかし犯人が鴨川を渡らなかったがゆえに、その瞬間、犯人が鴨川を渡らなかった場合の可能的あるいは潜在的世界に関する素描が一挙に下描きされることになる、ということ。だから、想定というスケッチのむずかしさは、犯人の輪郭がまだ曖昧模糊としているときに起こってくる。輪郭が不鮮明であるがゆえに犯人の行為がどのように展開するかはっきり特定できず、したがって犯人逮捕に向けて無数の可能的あるいは潜在的世界をスケッチしておかなければならないからである。犯人の輪郭が鮮明になればなるほど犯人のその後の可能的あるいは潜在的世界の諸様態についてその素描を一挙に下描きする可能性が発生するのだ。ジニーもまた自分の身体の輪郭を先に捉えてから、事後的に、自分の言動の可能的あるいは潜在的言動の諸様態に関する素描を一挙に下描きすることができ、またその下描きをどんどん延長していくことができる。以下参照。
「それらの対象は、だから私の身体に対して、鏡がそうするように、生じうる身体の影響を送りかえしてくるのだ。対象群は、じぶんの身体の有する〔影響を与える〕力が増減するのにしたがって秩序づけられる。《私の身体を取りまく対象群は、それらの対象に対する私の身体の可能な行動を反射するのである》」(ベルクソン「物質と記憶・P.41」岩波文庫)
「知覚とは、私たちの理解するところでは、事物に対するみずからの可能な行動を計るものであり、逆にじぶんに対して事物がおよぼすことの可能な作用を測るものにほかならない」(ベルクソン「物質と記憶・P.111」岩波文庫)
「私たちの感覚が知覚に対して有する関係は、だから、じぶんの身体の現実的行動がその可能的あるいは潜在的行動に対して有している関係とひとしい。私の身体の潜在的行動は、それ以外の諸対象にかかわり、それらの対象群にあって素描されている。その現実的な行動はじぶんの身体そのものに関係し、したがって身体のうちで描きだされているのである。すべてはかくして結局のところ、あたかも現実的行動ならびに潜在的行動が、その適用される点に、あるいはその原点へと真に回帰することをつうじて、外的イマージュが、私たちの身体によってそれを取りかこむ空間中に反射され、現実的行動はこの身体をつうじてその身体の実質の内部に留保されるかのように生起することだろう。またこのゆえにこそ、身体の表面ーーーこれが内部と外部とに共通する境界であるーーーは、知覚されると同時に感受される〔身体という〕延長のただひとつの部位なのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.112~113」岩波文庫)
「われわれがある対象に割り当てるはっきりとした輪郭は、その対象に個別性を与えているが、それらの輪郭は、われわれが空間のある点で及ぼしうるある種の《影響》の素描でしかない。つまりそれらは、われわれが起こすことになるかもしれない行動の計画である」(ベルクソン「創造的進化・P.30~31」ちくま学芸文庫)
「諸物体の眼に見える輪郭とは、それらに対するわれわれの可能的な行動の素描なのである」(ベルクソン「創造的進化・P.131」ちくま学芸文庫)
「われわれの知覚は、事物そのものの素描よりも、その事物に対するわれわれの可能的な行動の素描を与える。われわれが対象に見つける輪郭が示しているのは単に、その対象のうちで到達できるもの、変化させることができるものでしかない」(ベルクソン「創造的進化・P.240」ちくま学芸文庫)
思索型のローダ。人生にとって「変化」が可能であれば「怖いものがなくなるわ。なんにも残らないわ。一つの瞬間が他の瞬間につづかない」と考える。それはニーチェにいわせれば非歴史的に生きるということだ。そしてもちろん、人間はいつも歴史的でいることはできない。人間はしばしば生を忘却しどこか流れの縁で闇に埋没していなければ生きていけない。たとえば睡眠。
「『追求と変化とのうちに年をとることが信じられるものならばーーー怖いものがなくなるわ。なんにも残らないわ。一つの瞬間が他の瞬間につづかない。扉を開いて、虎が跳ねる。この人たちには私が入ってくるのがわからない。恐ろしい跳躍を避けるために椅子をずっと廻るの。あなた方みんなが怖いの。私に襲いかかる感動の衝動が怖いの。あなた方と違ってどうしていいか分らないんだもの。ーーー一つの瞬間をつぎの瞬間に併合させることができないの。私にはみんな激烈で、みんな別々。その瞬間の跳躍をうけて倒れたら、あなたたちは私に乗っかって、粉々にひき裂いてしまうわ。何も目的だった目論みなどはないの。一分一分を、一時間一時間をどうして過していいかわからないの。やがてはあなたたちが人生と呼んでいる、総体的な、分つことのできない集合になるまでは、何か自然の力によって、そうした時間を解決していくなんてことはとても駄目。というのも、あなたたちはちゃんと目的を持って目論みを立てているのだもの』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.126~127」角川文庫)
不眠症で睡眠を奪われた人間のことを考えてみよう。その人はいつも歴史的でなければならない。忘却することができない。睡眠をとる人々に比べると間違いなく速く死んでしまうだろう。ニーチェは非歴史的に生きていく技術がなければ、逆に歴史的に生きていくことの妨害になるといっている。
「忘却する力を全然所有せず、到る所に成長を見るように宣告されている人のことを考えてみてくれ給え。かかる人はもはや彼自身の存在を信ぜず、もはや自己を信ぜず、すべてのものが分散して動点に流れ込むのを見、生成のこの流れのなかに自己を見失う。ーーーすべての行為には忘却が必要であるが、これはすべての有機体の生命に光のみならずまた闇も必要であるのと同様である。ーーー忘却なしにおよそ《生きる》ことは全然不可能である。あるいは私の主題をもっと簡単に説明するならば、《不眠や反芻や歴史的感覚のうちには、そこまでゆくと、人間であれ民族であれ文化であれ、生けるものが害を受け、最後には没落するに到る程度がある》ということになる」(ニーチェ「反時代的考察・P.124~125」ちくま学芸文庫)
人間が歴史的に生きていくためにはしばしの間、繭のような茫洋とした曖昧な状態のうちに身を委ねる必要がある。そして人間にせよ国家にせよ、この繭の中でのふわふわ状態に身を任せ、ぼんやり漂うことによっていわばエネルギーを蓄積する。それは夢の中への退避でもある。それがなければ再び歴史的な生を生きることはできない。
「非歴史的なものはものを被う雰囲気に似ており、この雰囲気のうちでのみ生はみずからを産み、したがってそれが否定されると同時に生も再び消え失せる。人間が考え、篤(とく)と考え、比較し、分離し、結合して、あの非歴史的要素を制限することによって初めて、あの取り巻く蒸気の雲の内部に明るく閃(ひら)めく一条の光が発生することによって初めて、ーーーしたがって、過ぎ去ったものを生のために使用し、また出来事をもとにして歴史を作成する力によって初めて、人間は人間となる。これに間違いない、しかし歴史が過剰になると人間は再び人間であることをやめるのであり、人間は非歴史的なもののあの被いがなければ、開始することを決してしなかったであろうし、また現に開始することを敢えてしないであろう。人間が前もってあの蒸気層に入り込んでおらずに、なすことの可能な行動がどこに見いだされるであろうか?」(ニーチェ「反時代的考察・P.127~128」ちくま学芸文庫)
さらにローダは「私にはみんな激烈で、みんな別々。その瞬間の跳躍をうけて倒れたら、あなたたちは私に乗っかって、粉々にひき裂いてしまう」と怖がる。仲間たちを信用していないわけではけっしてない。そうではなく、人間が持っている主観性というものがどれほど暴力的なものかをローダはよく知っているのだ。ローダの繊細で感受性豊かな敏感さがローダ自身を苦しめる。主観性が本来的に持つ暴力性についてはヘーゲルが詳しい。
「自己意識に対しては別の自己意識が在る。つまり自己意識は《自分の外》に出てきているのである。このことは二重の意味をもっている。《まず》自己意識は自己自身を失っている。というのは、自己意識は、自分が《他方の》もう一つの実在であることに気がつくからである。《次に》、そのため自己意識はその他者を廃棄している。というのは、自己意識は他者もまた実在であるとは見ないで、《他者》のうちに《自己自身》を見るからである。自己意識はこの《自らの他在》を廃棄しなければならない。このことは最初の二重の意味を廃棄することであるから、それ自身第二の二重の意味である。《まず》、自己意識は《他方の》自立的な実在を廃棄することによって、《自分》が実在であることを確信することに、向って行かねばならない。そこで《次に、自己自身》を廃棄することになる。というのは、この他者は自己自身だからである。このように、二重の意味の他在を二重の意味で廃棄することは、また、二重の意味で《自己自身》に帰ることである。というのは、《まず、自らの》他在を廃棄することによって、また自己と等しくなるゆえ、廃棄によって自己自身を取りかえすからである。だが『次に』、自己意識は他方の自己意識に自らを取りもどさせる。というのも、自己意識は自ら他方のうちにあったからである。つまり、他方のうちでのこの自らの存在を廃棄し、したがってまた他方を自由にしてやるからである。だが、他方の自己意識と関係している自己意識のこの運動は、いま言ったように、《一方のものの行為》と考えられていた。とはいえ、一方のもののこの行為は、それ自身、《自己の行為》でありまた《他者の行為》であるという、二重の意味をもっている。なぜならば、他方もやはり独立であり、自分で完結しており、自己自身によらないであるようなものは、他方のなかには何もないからである。初めの自己意識は、さしあたり、欲求に対して在るにすぎないような対象を、相手にしているのではなく、それ自身で存在する独立な対象を相手にしているのである。それゆえ、初めの自己意識がこの対象にしかけることを、この対象が自分自身でもしかけない場合には、自己意識も自分ではその対象に対し何もしかけることはできない。だからこの動きは、端的に言って、両方の自己意識の二重の動きなのである。各々は、自分が行うことと同じことを、《他方》が行うのを見る。各々は、自分が他者に求めることを自分でやる。それゆえ、各々は、他者が同じことを行う限りでのみまた、自分の行うことを行う。起ってくるはずのことは、両方によってのみ起りうるのであるから、一方だけの行為は役に立たないであろう。したがって、行為が二重の意味のものであるのは、《自分に対する》ものであり、また《他方に対する》ものでもあるという限りでだけのことではなく、分かたれることなく、一方の行為であるとともにまた他方の行為でもある限りでのことである。この運動においてわれわれは、〔悟性において〕両力のたわむれとして現われた過程が、繰り返されるのを見るわけである。ただし、このここでのたわむれは意識のなかで行われる。前のたわむれの場合には、われわれにとって行われたことが、ここでは両方の極自身〔二つの自己意識〕にとって行われる。媒語〔中間〕は、両極に自ら分裂する自己意識である。各々の極は、その規定態を交換し、その対立極に絶対的に移行する。各々は、意識としてたしかに《自分の外に》出るのではあるが、その自己外存在にいながら、同時に自分にもどされたままである。つまり《自分だけで》ある。そして自らの自己外は《各々の極に対して》いる。各々はそのまま他方の意識《であり》また《ない》ということが、各々に対してある。同じように、この他方は、自分だけで〔対自的に〕あるものとしての自分を廃棄し、他者〔一方〕の自分だけでの有〔対自存在・自独存在〕においてのみ、自分だけでいることによって初めて、自分だけであるということが、各々に対してある。各々は他方にとり媒語であり、この媒語によって各々は自己を自己自身と媒介し、自己自身と結ばれる。各々は、自己にとっても他方にとっても、直接の〔無媒介の〕、自分で存在する実在であり、これは同時にこの媒介によってのみ、そのように自分だけで〔対自的で〕ある〔自分に対している〕。両方は、《互いに他方を認めて》いるものとして、互いに《認め》合っている。承認というこの純粋概念、自己意識をその統一において二重化するというこの純粋概念の過程が、自己意識にとりどういうふうに現われるかということが、ここで考察されねばならない。初めに、この過程は、両方が《等しくない》という側面を表わす、つまり、媒語が両極のなかに歩み出てくることを、両極は極としては対立しているが、一方はただ承認されるだけなのに、他方はただ承認するだけであるという形で、歩み出てくることを表わす。
自己意識は、まず、単一な自分だけの有であり、すべての《他者を自己の外》に排除することによって、自己自身と等しい。その本質と絶対的対象は自己意識にとり、《自我》である。自己意識はこの《直接態》において、言いかえれば、自分だけでの〔対自的な・自覚的な〕有という自らの《存在》において、《個別的なもの》である。自己意識に対して他者で在るものは、非本質的な対象として、否定的なものという性格をしるされた対象として存在する。しかし他方もまた自己意識である。一人の個人が一人の個人に対立して現われる。そういうふうに《そのままで》現われるが、互いの間では普通の対象のような態度をとっている。つまり、ともに《自立的な》形態であり、《生命という存在》に沈められたままの意識である。ーーーというのも、ここでは、存在する対象が自己を生命として規定したからである。ーーーそこで、これらの自立的形態、意識は、すべての直接的存在を絶滅するような、また自己自身に等しい意識という、否定的な存在であるにすぎないような、絶対的な抽象化の運動を、まだ《互いに対し》実現してはいない、言いかえれば、互いにまだ純粋な《自分だけでの有》〔対自存在〕としては、すなわち《自己》意識としては現われてはいない。各々は自己自身を確信してはいるが、他者を自分のものとして確信してはいない。それゆえ、自己についての自分自身の確信はまだ真理をもっていない。なぜならば、この真理というのは、自分自身の自分だけでの有〔対自存在〕が、自分にとり自立的な対象として、あるいは同じことであるが、対象が自己自身を純粋に確信するものとして現われる、というような真理にほかならないであろうからである。しかし、いま言ったことは、承認という概念から見て、不可能である。つまり他方が自分に対するように、自分も他方に対し、各人が自分の行為により、また他人の行為によって、自分自身で、自分だけでの有〔対自存在〕に対するというふうな、全くの抽象を敢行するのでなければ、不可能である。
だが、自己を自己意識という全くの抽象作用であると《のべる》ことが成り立つのは、自らを自己の対象的な姿の全き否定として示す点においてである。言いかえれば、いかなる一定の定在にも結びついていないこと、定在一般という一般的な個別性にも、生命にも結びついていないことを、示すことにおいてである。この叙述は、他方の行為と自己自身による行為という《二重の》行為である。だから、行為が《他方の》行為である限り、各人は他方の死を目指している。だがそこにまた、《自己自身による行為》という第二の行為もある。というのも、他人の死を目指すことは、自己の生命を賭けるということを含んでいるからである。そこで、二つの自己意識の関係は、生と死を賭ける戦いによって、自分自身と互いとの《真を確かめる》というふうに規定されている。ーーーつまり、両方は戦いにおもむかねばならない。なぜならば、ともに、《自分だけである》という自己自身の確信を、他者においてまた自分たち自身において、真理に高めねばならないからである。そこで自由を保証してもらうためには、生命を賭けねばならない。自己意識の本質は《在ること》でもなければ、現われる通りの《そのままの》姿でもなく、また生命のひろがりのなかに沈められていることでもなく、ーーーかえって自己意識には、自分にとって消え去らない契機であるようなものは、何も現にないということ、自己意識はただ《自分だけでの有》〔対自存在〕にすぎないということ、これらのことを保証してもらうためにだけ、生命を賭けるのである。敢えて生命を賭けなかった個人は、《人格》とは認められようけれども、自立的な自己意識として承認されているという真理に達してはいない。同じように、他者はもはや自分自身にほかならないと考えられるから、各人は、自分の生命を賭けるように、他者の死を目指さざるをえない。各人にとり自分の実在が他方の者として現われる。自分の実在は自分の外に在る。そこで各人は自らの自己外有を廃棄せざるをえない。他方の者は、さまざまに束縛された存在する意識である。各人は自分の他在を、純粋の自分だけでの有〔対自存在〕、つまり絶対的否定として直観しなければならない」(ヘーゲル「精神現象学・上・P.219~225」平凡社ライブラリー)
「《真理》もまた客体に一致するところの知識として積極者である。しかし、知識が他者〔客体〕に対して否定的に関係し、この客体を浸透するものであり、従って客体の知識に対する否定性を止揚するものであるという意味では、真理はこのような自己同等性である」(ヘーゲル「大論理学・中巻」『ヘーゲル全集7・P.75』岩波書店)
ヘーゲルがいうことをローダの事例に即していえば、「知識」(ローダの仲間たち)は一人一人が「主観性として積極者」である。それはローダ=他者〔客体〕に対して否定的に関係し、「客体を浸透する」=「ローダを物として据え置きローダの内容へ浸透して勝手気ままな主観性で埋め尽くしてしまう」。そのようにして埋め尽くされた後のローダの内容こそローダ自身の「真理」だと断定する「主観性としての積極性」。言い換えれば他人による主観的判断を暴力的に相手に押し付け内部に押し込むこと。ちなみに日本でも大量の強制性交が生じてくるのはこのような一方的主観性による弁証法の濫用がある。たとえ関係者が弁証法の何たるかなどまったく知らないとしても。またローダが感じる暴力性については後でも出てくるのでそこではまた違った観点から述べよう。
BGM