陽だまりが揺れる、というけれど、陽だまりや木洩れ陽の揺らめきをぼうっと眺めるのが結構好きでもある。幼い頃から。個人的には。しょっちゅう下を向いてばかりいるものだから周囲からよくからかわれもした。しかしあの頃の記憶には忘れがたいものがある。さて、語り手は各章の冒頭ごとに波についての描写を付している。そこで「陽」は「溶ける」ものでもある。当たり前かもしれないが、「陽」もまた変態するのだ。
「陽はイギリスの曠野に射しーーー果樹園の囲い壁にも当り、煉瓦の凹み、筋目など、銀色に塗りこめれら、真紅に火と燃え、手ざわりの柔かそう、触れれば溶けて熱く焼けた粉末ともなるように思われる。乾葡萄が壁に懸って、艶々しい赤色の漣を立て、小滝となって流れているとも見える」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.145」角川文庫)
文章にするとなるほど「小滝となって流れているとも見える」となる。しかし会話だったとしたらどうだろう。「何だか滝みたいに流れているね」というふうになるだろうとおもう。「見える」という部分は必要なくなる。なぜかは知らないがあってもなくても内容には何ら差し支えなくなる。自動的にそうなる。なぜだろう。しかしこのことはただ単に文体の問題なのだろうか。
「鋭く尖った光の楔が窓閾に届き、部屋の中の、青い環をのせている皿、曲った柄のついた様碗、胴のふくらんだ大きな鉢、絨毯の十字模様、飾棚や書棚の気味悪い隅や線を照し出した。それらの一群のうしろは一帯の影が垂れこめ、そこには影を除かれる、もっと速くの形とか、さては更に濃い暗黒の深みがあるような様子だった」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.146」角川文庫)
このように「更に濃い暗黒の深み」に気が向くのはなぜだろう。「深み」の向こう、あるいは「深み」のもっと奥のほうに、きっと何かがあるとおもって読んでしまっているのだろうか。何らかの持続があると。とすれば、ひょっとしてベルクソン哲学を信じているのだろうか。信じているとすれば、それは、誰が、なのか。どのように、なのか。とはいえ、ベルクソンばかり読んでいるわけではないし、ニーチェばかり読んでいるわけでもないし、マルクスばかり読んでいるわけでもない。活字に惑わされていることが好きなのかもしれない。そう考えたからといって何か謎の一つでも解けるわけではない。そういえば、謎が「解ける」とは書くけれども謎が「溶ける」とは書かない。どうしてだろう。謎は「溶ける」ものであってはならないのだろうか。必ずしもそうではないとおもうのだけれど。
「波はおそろしく深い青色をしていたが、別にただ一色、その背には、ダイヤモンドの鋭い光の模様をつけ、大きな馬の居並ぶ背が動くにつれて背肉を漣立てるように、漣を立てた。波が落ちた。ひき返しては又落ちた。大きな獣の重い足音を響かすように」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.146」角川文庫)
ルイスの言葉だったはずだ。波打ち際に響く「大きな獣の重い足音」は。なぜここではあえて語り手が語るのだろうか。ところで、早くもパーシバルの死が伝えられる。落馬事故。しかし問題は「供犠」である。「パーシバルの死」と同時にバーナードの「息子」が生まれる。
「『こんなのは不可解な組合せだーーー事物の錯綜だ。階段を下りていて、どちらが悲しみで、どちらが喜びだかわからないなんて。僕の息子が産れた。パーシバルは死んだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.148」角川文庫)
バーナードはパーシバルのことを考えていた。その思考の中心にパーシバルがいた。もはや中心にパーシバルはいない。「其の場所は虚ろ」になっている。もっとも、中心というものは往々にして空虚なものだ。それが中心であればあるほど。
「『彼のことを思っていたのだ。彼は其処、その気持の中心に坐っていたのだ。今ではもう僕はそこまでは行きはしない。其の場所は虚ろなのだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.149」角川文庫)
当時のイギリスは資本主義である。だから本来をいえば「脱コード化」する社会である。しかし当時はなお「超コード化」する社会がいたるところに存在していた、と考えられる。パーシバルがインドに行った理由もイギリスによるインドの支配を徹底するためだった。その意味で超コード化の諸運動は生きていた。ところがパーシバルは死んだ。するとバーナードたちを上から根拠づけていた頂点の喪失が起こる。もう起こっている。バーナードはうろたえる。
「『もう二度と君には逢えなくてその個体に眼を注ぐことができないならば、僕たちのつき合いはどんな形になるだろうか』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.150」角川文庫)
死を悼む、という気持ちはある。だが現実社会に引き戻す力のほうが大きい。誰かの死を悼んでいる暇もなく日々のルーティンがのしかかってくる。
「『混沌、瑣末などが戻ってくる。ーーーなぜ急ぐのか、とも、なぜ汽車に乗り込むのか、とも考えない。連続が復活する。一つのものに又一つのものがつづく。ーーー通例の秩序だ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.151」角川文庫)
秩序は言語でできている。ちなみに言語について、書きしるされた制度と、その制度によって逆に保障されることになる自由について、レヴィナスは述べている。
「自由が現実に食い入ることが可能であるとすれば、それは制度によってだけである。自由は、さまざまな法が書きしるされた石板に刻みこまれる。自由が現実に存在するのは、制度的存在にはめこまれることによってなのである。自由は書かれたテクストに由来する。テクストはたしかに破壊されうる。だがテクストは、他方では持続しうるのであって、そこで人間のための自由が人間の外で維持される」(レヴィナス「全体性と無限・下・P.142」岩波文庫)
バーナードが考えている「連続性」について。「連続が復活」しはするが、この連続は「一つのものに又一つのものがつづく」連続である。ベルクソンから引けば次の部分。
「じぶんに影響を与える物質と、みずからが影響を与える物質のあいだに置かれていることで、私の身体は行動の一箇の中心である。すなわち、受容された印象が巧みにその経路をえらんで変形され、遂行される運動となるような場所である。私の身体があらわすものは、だからまさしく私の生成の現勢的な状態、じぶんの持続にあって形成の途上にあるものにほかならない。より一般的にいえば、生成のこの連続性ーーーこれがレアリテそのものなのだーーーにおいて、現在の瞬間は、まさに流れさってゆく流れのただなかで私たちの知覚がふるう、ほとんど一瞬の切断によって構成されるものであって、この切断面こそが、ほかならぬ物質的世界と呼ばれるものなのだ。私の身体は、その物質的世界の中心を占めているのである。身体は、この物質的世界の中で、それが流されるのを私たちが直接に感得するものである。かくて身体の現勢的な状態のうちに、私たちの現在の現在性が存している。物質は、それが空間中にひろがっているものであるかぎり、私たちの見るところでは、不断に再開される一箇の現在と定義されなければならない。逆にいえば、私たちの現在は、じぶんの存在にぞくする物質的なありかたそのものなのだ。いいかえれば、現在とは感覚と運動の総体であって、他のなにものでもない。しかもこの総体は、持続の各瞬間に対して決定され、各瞬間にとって唯一のものである」(ベルクソン「物質と記憶・P.276~277」岩波文庫)
だから、いわゆる「純粋持続」ではない。そうではなく、様々な出来事=一つ一つの波あるいは震動として生成する各瞬間の切断面が、映画的メカニズムのように映って見える形式である。それはそうと、バーナードはいま少しだけぼんやりしていたい。「画廊」へ「浸り込」もうと考える。
「『画廊へ入り、連続の埒外にある自分の心のような、いろいろな精神の影響に浸り込むとしよう。ーーー絶えず活動している心眼、繃帯をした頭、綱を持っている男たちを休めさせるといい。そうすれば僕は下の見えないものを見つけることができると言うものだ。ここに庭園がある。ヴィーナスが花に囲まれている』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.151」角川文庫)
まだ秩序は思うように整理整頓されたわけではない。バーナードは「何か」を感知する。だが彫り深く形にしようとまではしない。時期尚早だとおもう。しかしそう思っているうちに観念は、というより観念の欠片は、何度でもどんどん毀れていく。時間を要するのだ。観念の欠片がおもうような形に仕上がるまでには。
「『感動の矢が僕の背柱からほとばしる、しかも秩序もなく。でも何かが僕の解釈につけ加わる。何かが深く埋れている。ちょっとそれを掴もうと考えた。だが埋めて置け、埋めて置け。いつの日か実をむすぶまで心の奥底に潜めて育てるがいい。ーーーだが今ではその観念が手の中で毀れる。いろいろな観念が、ただの一度、それ自体で完全に球になるというために千度も毀れる。毀れる。毀れて僕の上に落ちかかってくる』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.153」角川文庫)
得意の「球」にしようとするが、「それ自体で完全な球」に熟成するためには、まず何より記憶のうちにしっかりと保存しておくほかない。慌てて加工してしまうのは危険だろう。また、次の文章はどこか変なのだが、ともかく、「様々な感動で飽き飽きとしている」。考えることや不意の出来事が重なったとき、人はしばしばそういう精神状態に陥る。「欠伸」が出たりする。確かに。さらにバーナードは「器官の外部へ自分を置きつづけていた」ために「なんだか感覚が無くなって、硬ばっていく」。
「『僕は欠伸をしている。様々な感動で飽き飽きとしているのだ。緊張と長い長い時間ーーー二十五分、半時間ーーー器官の外部へ自分を置きつづけていたので、すっかり疲れ果てた。なんだか感覚が無くなって、硬ばっていく』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.153」角川文庫)
別に驚くことはない。いわゆる「解離」という症状だ。しかし病気として片付けてしまうことに抵抗を感じるのはなぜだろうか。病気がいけないというわけではない。作者であるウルフが精神病を患っていたからといって、難解な箇所に出くわすたびに、ややもすれば何もかも病気が原因だとしてしまうことに抵抗を感じてしまうのだろう。しかしウルフは病気を売りにしているわけではない。他の、とりわけロマン主義小説家たちの多くが、自分の病気を作品の中で専売特許のように売りにしたようには、ウルフはしない。むしろ淡々とした描写でただ綴るだけだ。むしろ他人に言われなければ気づかないほどだ。
さて、思索家のローダ。ここでもまた「頭がぼんやり」している。ローダの「ぼんやり性」は読みがいがあって面白い。「大きな砥石がひどい勢いで廻転する」とある。何だかようやく本格的な資本主義の到来を感じる部分だ。脱コード化する社会。
「『頭がぼんやりする位大きな砥石がひどい勢いで廻転するのが聞えるわ。その煽りが顔に吹きつける。人生の触知できる形という形がつかめなくなっているの。手を延ばして何か堅いものにでも触ることができなければ永久に果しない通廊を吹き流されていくばかり。それじゃ何に触れるのかしら。どんな煉瓦に、どんな石に。それを頼りにこの巨大な深淵を渡り越えて自我を安全に自分の身にひき入れるというのかしら』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.154」角川文庫)
速度を上げる資本主義。ローダは「何か堅いものにでも触ることができなければ永久に果しない通廊を吹き流されていく」と恐る。「どんな煉瓦に、どんな石に」触れることができたとしても、それを信用することはできるだろうか。信用することで「巨大な深淵を渡り越えて自我を安全に自分の身にひき入れる」ことができるというのだろうか。そもそも「信用」とは何のことなのか。資本主義は血も涙も知らないというのに。
「『《似たもの》《似たもの》《似たもの》ーーーでも事物の外観の下に横たわっている物は何かしら。稲妻が木を切り裂き、花咲く枝が落ち、パーシバルが死んで私にこの贈物をくれたのだから、私はその物が知りたい。正方形があり、長方形があるわ。演奏者たちが正方形になり、それを長方形の上に置くの。ちゃんと正確に置いてるわ。身に合った居処をこしらえてるわ。外に残っているものは何もない。構造がはっきり見える。未熟なものがここで述べられる。私たちはそんなに多様でも卑俗でもない。私たちは長方形を造ってそれらを正方形の上に立たせたの。これは私たちの喜び。これが私たちの慰安なの。ーーー構造がはっきり見えるわ。私たちは居所をこしらえてしまった』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.158~159」角川文庫)
大変うろたえていたローダだが、しかし、ぎりぎりのところで秩序に組み込まれることができたらしい。ところが秩序を与えられると途端に今度は「居所をこしらえてしまった」とおもい秩序による拘束を後悔する。ローダには幾つもの人格が同居しているかのようだ。そしていったん落ち着きを取り戻した後、「燕が暗いお池に羽根を掠め」る。
「『オクスフォード街の舗道から根ごと引き抜いて私が持ってきたものなの、私の三文束、私の三文束の菫。ーーー私も手を放そう。さあ、もう、抑えていた、はね戻る欲望を自由にして好きなように費い尽そう。私たち、荒れ廃れた丘を一緒に馬で馳せましょう。燕が暗いお池に羽根を掠め、柱が完全な姿で立っている丘を。岸に打寄せる波のさ中へ、その白いしぶきをこの上なく遠い世界の隅々に投げかける波のさ中へ、私は菫を投げるの。パーシバルへの私の贈物を』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.159~160」角川文庫)
「ダロウェイ夫人」の反復がある。
「いつか一シリングをサーペンタイン池へ投げこんだことがある」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.295」角川文庫)
そうすることで夫人は自身の死を免れ、その代理として、分身として登場していたセプティマスが入水自殺することになる。「波」ではパーシバルの死と交換にバーナードの息子の誕生があった。次に死との交換があるとすれば、セプティマスのような分身が現われてこない限り、それはローダの死が先かあるいは誰も死なないか、だろう。しかしあたかも予定されていたかのように次にローダが死んでしまう。「菫を投げ」こんだからだ。ローダの死後、それでも小説は続く。最後にバーナードによる長すぎる総括がやってくる。パーシバルへ手向けの菫を投じたあと、ローダはますます奔放に、自由に生きることを目指すのだが。後半以降、登場人物はいよいよ多彩に生成変化して見せる。なかなかの見ものだ。年齢性別国籍などまったく関係なくなる。誰もがほとんど《他者》におもえる。というより《変化》だけがあるかのようだ。しかしローダはなぜそれほど早くに死ぬのか。必然性という点ではさっぱりわからないのである。偶然だろうか。錯覚だろうか。幻想に過ぎなかったのだろうか。すべては波が打ち寄せてくる場面が反復されて終わる。ということは、バーナードたちはなるほど終わったのかも知れないが、結局は何も終わらない、また何の気なしに始まるということを意味しているのかも知れない。どこかニーチェのいう波のイメージをおもわせる。なお、何度もいうようだがローダたちは性別不明になる。ここでセクシュアリティについてレヴィナスから引いておこう。
「多元性が前提しているのは、他なるものの根底的な他性であり、それを私は、私に対する関係だけでは《概念的に把握する》ことができない。その他性に、じぶんのエゴイズムから出発して《私が直面する》のである。<他者>の他性はそれだけで存在するのであって、私との関係において存在するのではない。つまり<他者>の他性ははみずから《啓示する》のであるけれども、私がその他性に接近するのは私から出発することによってであって、<私>と<他者>との比較によってではない。私が<他者>の他性に接近するのは、私が<他者>ととりむすぶ社会性から出発することによってであり、この関係をはなれて、その関係のふたつの項を反省することによってではない。セクシュアリティが、反省に先だって成就されるこうした関係の実例を提供している。他の性は本質としての存在がもたらした一箇の他性であって、じぶんの同一性の裏面としての存在がそれをもたらしたのではない。けれどもその他性は、性をはなれた<私>に響くことはないのである」(レヴィナス「全体性と無限・上・P.236~237」岩波文庫)
また少しあいだを置いて何か書いてみるかもしれない。書かないかもしれない。しかし、書くとはどういうことをいうのだろうか。
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「陽はイギリスの曠野に射しーーー果樹園の囲い壁にも当り、煉瓦の凹み、筋目など、銀色に塗りこめれら、真紅に火と燃え、手ざわりの柔かそう、触れれば溶けて熱く焼けた粉末ともなるように思われる。乾葡萄が壁に懸って、艶々しい赤色の漣を立て、小滝となって流れているとも見える」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.145」角川文庫)
文章にするとなるほど「小滝となって流れているとも見える」となる。しかし会話だったとしたらどうだろう。「何だか滝みたいに流れているね」というふうになるだろうとおもう。「見える」という部分は必要なくなる。なぜかは知らないがあってもなくても内容には何ら差し支えなくなる。自動的にそうなる。なぜだろう。しかしこのことはただ単に文体の問題なのだろうか。
「鋭く尖った光の楔が窓閾に届き、部屋の中の、青い環をのせている皿、曲った柄のついた様碗、胴のふくらんだ大きな鉢、絨毯の十字模様、飾棚や書棚の気味悪い隅や線を照し出した。それらの一群のうしろは一帯の影が垂れこめ、そこには影を除かれる、もっと速くの形とか、さては更に濃い暗黒の深みがあるような様子だった」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.146」角川文庫)
このように「更に濃い暗黒の深み」に気が向くのはなぜだろう。「深み」の向こう、あるいは「深み」のもっと奥のほうに、きっと何かがあるとおもって読んでしまっているのだろうか。何らかの持続があると。とすれば、ひょっとしてベルクソン哲学を信じているのだろうか。信じているとすれば、それは、誰が、なのか。どのように、なのか。とはいえ、ベルクソンばかり読んでいるわけではないし、ニーチェばかり読んでいるわけでもないし、マルクスばかり読んでいるわけでもない。活字に惑わされていることが好きなのかもしれない。そう考えたからといって何か謎の一つでも解けるわけではない。そういえば、謎が「解ける」とは書くけれども謎が「溶ける」とは書かない。どうしてだろう。謎は「溶ける」ものであってはならないのだろうか。必ずしもそうではないとおもうのだけれど。
「波はおそろしく深い青色をしていたが、別にただ一色、その背には、ダイヤモンドの鋭い光の模様をつけ、大きな馬の居並ぶ背が動くにつれて背肉を漣立てるように、漣を立てた。波が落ちた。ひき返しては又落ちた。大きな獣の重い足音を響かすように」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.146」角川文庫)
ルイスの言葉だったはずだ。波打ち際に響く「大きな獣の重い足音」は。なぜここではあえて語り手が語るのだろうか。ところで、早くもパーシバルの死が伝えられる。落馬事故。しかし問題は「供犠」である。「パーシバルの死」と同時にバーナードの「息子」が生まれる。
「『こんなのは不可解な組合せだーーー事物の錯綜だ。階段を下りていて、どちらが悲しみで、どちらが喜びだかわからないなんて。僕の息子が産れた。パーシバルは死んだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.148」角川文庫)
バーナードはパーシバルのことを考えていた。その思考の中心にパーシバルがいた。もはや中心にパーシバルはいない。「其の場所は虚ろ」になっている。もっとも、中心というものは往々にして空虚なものだ。それが中心であればあるほど。
「『彼のことを思っていたのだ。彼は其処、その気持の中心に坐っていたのだ。今ではもう僕はそこまでは行きはしない。其の場所は虚ろなのだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.149」角川文庫)
当時のイギリスは資本主義である。だから本来をいえば「脱コード化」する社会である。しかし当時はなお「超コード化」する社会がいたるところに存在していた、と考えられる。パーシバルがインドに行った理由もイギリスによるインドの支配を徹底するためだった。その意味で超コード化の諸運動は生きていた。ところがパーシバルは死んだ。するとバーナードたちを上から根拠づけていた頂点の喪失が起こる。もう起こっている。バーナードはうろたえる。
「『もう二度と君には逢えなくてその個体に眼を注ぐことができないならば、僕たちのつき合いはどんな形になるだろうか』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.150」角川文庫)
死を悼む、という気持ちはある。だが現実社会に引き戻す力のほうが大きい。誰かの死を悼んでいる暇もなく日々のルーティンがのしかかってくる。
「『混沌、瑣末などが戻ってくる。ーーーなぜ急ぐのか、とも、なぜ汽車に乗り込むのか、とも考えない。連続が復活する。一つのものに又一つのものがつづく。ーーー通例の秩序だ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.151」角川文庫)
秩序は言語でできている。ちなみに言語について、書きしるされた制度と、その制度によって逆に保障されることになる自由について、レヴィナスは述べている。
「自由が現実に食い入ることが可能であるとすれば、それは制度によってだけである。自由は、さまざまな法が書きしるされた石板に刻みこまれる。自由が現実に存在するのは、制度的存在にはめこまれることによってなのである。自由は書かれたテクストに由来する。テクストはたしかに破壊されうる。だがテクストは、他方では持続しうるのであって、そこで人間のための自由が人間の外で維持される」(レヴィナス「全体性と無限・下・P.142」岩波文庫)
バーナードが考えている「連続性」について。「連続が復活」しはするが、この連続は「一つのものに又一つのものがつづく」連続である。ベルクソンから引けば次の部分。
「じぶんに影響を与える物質と、みずからが影響を与える物質のあいだに置かれていることで、私の身体は行動の一箇の中心である。すなわち、受容された印象が巧みにその経路をえらんで変形され、遂行される運動となるような場所である。私の身体があらわすものは、だからまさしく私の生成の現勢的な状態、じぶんの持続にあって形成の途上にあるものにほかならない。より一般的にいえば、生成のこの連続性ーーーこれがレアリテそのものなのだーーーにおいて、現在の瞬間は、まさに流れさってゆく流れのただなかで私たちの知覚がふるう、ほとんど一瞬の切断によって構成されるものであって、この切断面こそが、ほかならぬ物質的世界と呼ばれるものなのだ。私の身体は、その物質的世界の中心を占めているのである。身体は、この物質的世界の中で、それが流されるのを私たちが直接に感得するものである。かくて身体の現勢的な状態のうちに、私たちの現在の現在性が存している。物質は、それが空間中にひろがっているものであるかぎり、私たちの見るところでは、不断に再開される一箇の現在と定義されなければならない。逆にいえば、私たちの現在は、じぶんの存在にぞくする物質的なありかたそのものなのだ。いいかえれば、現在とは感覚と運動の総体であって、他のなにものでもない。しかもこの総体は、持続の各瞬間に対して決定され、各瞬間にとって唯一のものである」(ベルクソン「物質と記憶・P.276~277」岩波文庫)
だから、いわゆる「純粋持続」ではない。そうではなく、様々な出来事=一つ一つの波あるいは震動として生成する各瞬間の切断面が、映画的メカニズムのように映って見える形式である。それはそうと、バーナードはいま少しだけぼんやりしていたい。「画廊」へ「浸り込」もうと考える。
「『画廊へ入り、連続の埒外にある自分の心のような、いろいろな精神の影響に浸り込むとしよう。ーーー絶えず活動している心眼、繃帯をした頭、綱を持っている男たちを休めさせるといい。そうすれば僕は下の見えないものを見つけることができると言うものだ。ここに庭園がある。ヴィーナスが花に囲まれている』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.151」角川文庫)
まだ秩序は思うように整理整頓されたわけではない。バーナードは「何か」を感知する。だが彫り深く形にしようとまではしない。時期尚早だとおもう。しかしそう思っているうちに観念は、というより観念の欠片は、何度でもどんどん毀れていく。時間を要するのだ。観念の欠片がおもうような形に仕上がるまでには。
「『感動の矢が僕の背柱からほとばしる、しかも秩序もなく。でも何かが僕の解釈につけ加わる。何かが深く埋れている。ちょっとそれを掴もうと考えた。だが埋めて置け、埋めて置け。いつの日か実をむすぶまで心の奥底に潜めて育てるがいい。ーーーだが今ではその観念が手の中で毀れる。いろいろな観念が、ただの一度、それ自体で完全に球になるというために千度も毀れる。毀れる。毀れて僕の上に落ちかかってくる』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.153」角川文庫)
得意の「球」にしようとするが、「それ自体で完全な球」に熟成するためには、まず何より記憶のうちにしっかりと保存しておくほかない。慌てて加工してしまうのは危険だろう。また、次の文章はどこか変なのだが、ともかく、「様々な感動で飽き飽きとしている」。考えることや不意の出来事が重なったとき、人はしばしばそういう精神状態に陥る。「欠伸」が出たりする。確かに。さらにバーナードは「器官の外部へ自分を置きつづけていた」ために「なんだか感覚が無くなって、硬ばっていく」。
「『僕は欠伸をしている。様々な感動で飽き飽きとしているのだ。緊張と長い長い時間ーーー二十五分、半時間ーーー器官の外部へ自分を置きつづけていたので、すっかり疲れ果てた。なんだか感覚が無くなって、硬ばっていく』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.153」角川文庫)
別に驚くことはない。いわゆる「解離」という症状だ。しかし病気として片付けてしまうことに抵抗を感じるのはなぜだろうか。病気がいけないというわけではない。作者であるウルフが精神病を患っていたからといって、難解な箇所に出くわすたびに、ややもすれば何もかも病気が原因だとしてしまうことに抵抗を感じてしまうのだろう。しかしウルフは病気を売りにしているわけではない。他の、とりわけロマン主義小説家たちの多くが、自分の病気を作品の中で専売特許のように売りにしたようには、ウルフはしない。むしろ淡々とした描写でただ綴るだけだ。むしろ他人に言われなければ気づかないほどだ。
さて、思索家のローダ。ここでもまた「頭がぼんやり」している。ローダの「ぼんやり性」は読みがいがあって面白い。「大きな砥石がひどい勢いで廻転する」とある。何だかようやく本格的な資本主義の到来を感じる部分だ。脱コード化する社会。
「『頭がぼんやりする位大きな砥石がひどい勢いで廻転するのが聞えるわ。その煽りが顔に吹きつける。人生の触知できる形という形がつかめなくなっているの。手を延ばして何か堅いものにでも触ることができなければ永久に果しない通廊を吹き流されていくばかり。それじゃ何に触れるのかしら。どんな煉瓦に、どんな石に。それを頼りにこの巨大な深淵を渡り越えて自我を安全に自分の身にひき入れるというのかしら』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.154」角川文庫)
速度を上げる資本主義。ローダは「何か堅いものにでも触ることができなければ永久に果しない通廊を吹き流されていく」と恐る。「どんな煉瓦に、どんな石に」触れることができたとしても、それを信用することはできるだろうか。信用することで「巨大な深淵を渡り越えて自我を安全に自分の身にひき入れる」ことができるというのだろうか。そもそも「信用」とは何のことなのか。資本主義は血も涙も知らないというのに。
「『《似たもの》《似たもの》《似たもの》ーーーでも事物の外観の下に横たわっている物は何かしら。稲妻が木を切り裂き、花咲く枝が落ち、パーシバルが死んで私にこの贈物をくれたのだから、私はその物が知りたい。正方形があり、長方形があるわ。演奏者たちが正方形になり、それを長方形の上に置くの。ちゃんと正確に置いてるわ。身に合った居処をこしらえてるわ。外に残っているものは何もない。構造がはっきり見える。未熟なものがここで述べられる。私たちはそんなに多様でも卑俗でもない。私たちは長方形を造ってそれらを正方形の上に立たせたの。これは私たちの喜び。これが私たちの慰安なの。ーーー構造がはっきり見えるわ。私たちは居所をこしらえてしまった』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.158~159」角川文庫)
大変うろたえていたローダだが、しかし、ぎりぎりのところで秩序に組み込まれることができたらしい。ところが秩序を与えられると途端に今度は「居所をこしらえてしまった」とおもい秩序による拘束を後悔する。ローダには幾つもの人格が同居しているかのようだ。そしていったん落ち着きを取り戻した後、「燕が暗いお池に羽根を掠め」る。
「『オクスフォード街の舗道から根ごと引き抜いて私が持ってきたものなの、私の三文束、私の三文束の菫。ーーー私も手を放そう。さあ、もう、抑えていた、はね戻る欲望を自由にして好きなように費い尽そう。私たち、荒れ廃れた丘を一緒に馬で馳せましょう。燕が暗いお池に羽根を掠め、柱が完全な姿で立っている丘を。岸に打寄せる波のさ中へ、その白いしぶきをこの上なく遠い世界の隅々に投げかける波のさ中へ、私は菫を投げるの。パーシバルへの私の贈物を』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.159~160」角川文庫)
「ダロウェイ夫人」の反復がある。
「いつか一シリングをサーペンタイン池へ投げこんだことがある」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.295」角川文庫)
そうすることで夫人は自身の死を免れ、その代理として、分身として登場していたセプティマスが入水自殺することになる。「波」ではパーシバルの死と交換にバーナードの息子の誕生があった。次に死との交換があるとすれば、セプティマスのような分身が現われてこない限り、それはローダの死が先かあるいは誰も死なないか、だろう。しかしあたかも予定されていたかのように次にローダが死んでしまう。「菫を投げ」こんだからだ。ローダの死後、それでも小説は続く。最後にバーナードによる長すぎる総括がやってくる。パーシバルへ手向けの菫を投じたあと、ローダはますます奔放に、自由に生きることを目指すのだが。後半以降、登場人物はいよいよ多彩に生成変化して見せる。なかなかの見ものだ。年齢性別国籍などまったく関係なくなる。誰もがほとんど《他者》におもえる。というより《変化》だけがあるかのようだ。しかしローダはなぜそれほど早くに死ぬのか。必然性という点ではさっぱりわからないのである。偶然だろうか。錯覚だろうか。幻想に過ぎなかったのだろうか。すべては波が打ち寄せてくる場面が反復されて終わる。ということは、バーナードたちはなるほど終わったのかも知れないが、結局は何も終わらない、また何の気なしに始まるということを意味しているのかも知れない。どこかニーチェのいう波のイメージをおもわせる。なお、何度もいうようだがローダたちは性別不明になる。ここでセクシュアリティについてレヴィナスから引いておこう。
「多元性が前提しているのは、他なるものの根底的な他性であり、それを私は、私に対する関係だけでは《概念的に把握する》ことができない。その他性に、じぶんのエゴイズムから出発して《私が直面する》のである。<他者>の他性はそれだけで存在するのであって、私との関係において存在するのではない。つまり<他者>の他性ははみずから《啓示する》のであるけれども、私がその他性に接近するのは私から出発することによってであって、<私>と<他者>との比較によってではない。私が<他者>の他性に接近するのは、私が<他者>ととりむすぶ社会性から出発することによってであり、この関係をはなれて、その関係のふたつの項を反省することによってではない。セクシュアリティが、反省に先だって成就されるこうした関係の実例を提供している。他の性は本質としての存在がもたらした一箇の他性であって、じぶんの同一性の裏面としての存在がそれをもたらしたのではない。けれどもその他性は、性をはなれた<私>に響くことはないのである」(レヴィナス「全体性と無限・上・P.236~237」岩波文庫)
また少しあいだを置いて何か書いてみるかもしれない。書かないかもしれない。しかし、書くとはどういうことをいうのだろうか。
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