白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

日米外交破綻への無意識

2019年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム
「風習の道徳」化。実に多様な諸存在があったにもかかわらず、「別様の感じ方」をした様々な人々は共同体から排除され抹殺されてきた。そして風習の道徳にしたがい馴らされ平板化され凡庸化され記号化され薄っぺらにされた人々だけが社会を構成するようになった。

「私は、戸外へ歩み出て、どんなすばらしい明確さをそなえて一切のものが私たちに作用をおよぼすか、たとえば森がそうであり山もそうである、と考えて、また、一切の感覚に関して、私たちのうちにはまったくなんらの混乱、見誤り、躊躇もないということを考えて、いつも驚くのである。それにもかかわらず、はなはだしい不確実性と何か混沌としたものが現存していたにちがいなく、途方もなく長い時間をかけて初めてそういった一切のものはそのように《確固とした》相続物になったのである。空間的間隔、光、色等々に関して本質的に別様の感じ方をした人間たちは、排除されてしまい、うまく繁殖することができなかったのだ。こういう《別様の》感じ方は、何千年もの長い間『《狂気》』と感じられて忌避されたに《ちがいない》のだ。人々はもはや互いに理解し合わず、『例外』を排除し、破滅させたのだ。一切の有機的なものの始まり以来或る途方もない残酷さが現存してきた、つまり『《別様の感じ方をした》』一切のものが排除されてきたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・八九・P.63」ちくま学芸文庫)

たいへん長いあいだに渡って人間は「算定しうべきものに《された》」。

「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名文を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・P.64」岩波文庫)

なぜ人間は「算定しうべきものに《された》」のか。それは「責任」の所在とその「債務」を確定させるためだ。社会的には、どんな行為でさえその等価物があると考えられた。「債権者」と「債務者」との両サイドに「二分割」し得るに違いないという幻想がその梃子(てこ)になった。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという『理由』から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・P.70」岩波文庫)

ニーチェは二分割という疑惑について、それは「売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられる」と考えた。ニーチェにすればすでに、一つの事物ですら多様性から生成して止まないものであり、分割するにしてもたった二分割しかなされ得ないなどとは考えようもなかったからだ。が、ともかく俗世間では「二分割」することが前提とされるに至った。フーコーが明らかにしたように、狂気であれ非理性であれ理性であれ、人間が人間を裁くにあたって、人間はそもそも同等の価値を有する等価の人間同士であると前提しておかなければ同じ天秤に掛けて裁くことはできない。そのために無理にでも「算定しうべきものに《された》」という経緯がある。たとえば「債権者」と「債務者」とは同等の権利の所有者であって、その限りで、「債権者」は「債務者」を裁くことができる、というふうに。もっとも、刑罰というシステムは思いのほか巧妙にできているのである。最初の頃、「死刑」に関して「私刑」という方法があった。私的な基準に照らし合わせてみて、共同体が感じたように「債務者」を好きなように「私刑」に処するという事態が存在していた。そこでは「債権者は一種の《快感》ーーー非力な者の上に何の躊躇もなく自己の力を放出しうるという快感、《悪を為すことの喜びのために悪を為す》愉悦、暴圧を加えるという満足感ーーーを返済または補償として受け取ることを許される」。ところが国家的共同体の発生とともに「私刑」は廃止されるに至る。すなわち「実際の刑罰権、すなわち行刑がすでに『お上(かみ)』の手に移っている場合」、「私刑」の代理行為として公的死刑制度が与えられるわけだが、その際、「債権者」は「人の軽蔑され虐待されるのを《見る》という優越感に到達する」。

順々に見直していかなくてはならない。

「すなわち、等価ということは次のようにして成立するーーー直接に利益を受け取ることによって損害を補償するかわりに(従って金銭や土地など、何らかの種類の占有物によって補償するかわりに)、債権者は一種の《快感》ーーー非力な者の上に何の躊躇もなく自己の力を放出しうるという快感、《悪を為すことの喜びのために悪を為す》愉悦、暴圧を加えるという満足感ーーーを返済または補償として受け取ることを許される。しかもこの満足感は、債権者の社会的地位が低くかつ卑しいほどいよいよ高く評価され、ややもすれば債権者にとって非常に結構なご馳走のように思われ、否、より高い地位の味試しのようにさえ思われた。債権者は債務者に『刑罰』を加えることによって一種の、『《主人権》』に参与する。ついには彼もまた、人を『目下』として軽蔑し虐待しうるという優越感に到達するーーーあるいは少なくとも、実際の刑罰権、すなわち行刑がすでに『お上(かみ)』の手に移っている場合には、人の軽蔑され虐待されるのを《見る》という優越感に到達する。してみると、報償ということの本質は、残虐を指令し要求する権利に存するわけになる」(ニーチェ「道徳の系譜・P.72」岩波文庫)

「負い目とか個人的債務という感情は、われわれの見たところによれば、その起源を存在するかぎりの最も原始的な個人関係のうちに、すなわち、買手と売手、債権者と債務者の間の関係のうちにもっている。ここで初めて個人が個人に対峙し、ここで初めて個人が個人に《対比された》。この関係がすでに多少でも認められないほどに低度な文明というものは、いまだに見出されないのである。値を附ける、価値を量る、等価物を案出し、交換するーーーこれらのことは、人間の最も原初的な思惟を先入主として支配しており、従ってある意味では思惟《そのもの》になっているほどだ。最も古い種類の明敏さはここで育てられた。人間の挟持、他の畜類に対する優越感の最初の萌芽も同じくここに求められるであろう。ーーー人間は価値を量る存在、評価し、量定する存在、『本来価値を査定する動物』として自らを特色づけた。売買はその心理的な付属物とともに、いかなる社会的体制や結合よりも古い。交換・契約・負債・権利・義務・決済などの感情の萌芽はーーー力と力とを比較したり、力を力で計量したり、算定したりする習慣とともにーーーむしろまず個人権という最も初歩的な形式から、最も粗笨で最も原初的な社会複合体(類似の複合体に比較して)へ《移された》。今や眼はこの見方に合わされた。そして融通は利(き)かないが、しかしまた断乎としてまっしぐらに突き進んで行く古代人類の思惟に特有なあの重厚さをもって、人々はまもなく『事物はそれぞれその価値を有する、《一切》はその対価を支払われうる』というあの大きな概括に辿り着いた。ーーーこれが《正義》の最も古くかつ最も素朴な道徳的基準であり、地上におけるあらゆる『好意』、あらゆる『公正』、あらゆる『善意』、あらゆる『客観性』の発端である。この最初の段階における正義は、ほぼ同等な力を有する人々の間の、相互に妥協しようとする、決済によって再び互いに『諒解』し合おうとする善意であり、ーーー一方、より小さい力を有する人々に関しては、それらの人々にはまたそれらの人々相互の間で決済をつけることを《強制》しようとする善意である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.79~80」岩波文庫)

「犯罪者」は始めから「犯罪者」であったわけでは何らない、ということについて。

「犯罪者は何よりもまず『破壊者』であり、これまで関与してきた共同生活のあらゆる財産や快適に関して言えば、《全体に対する》契約や言質の破棄者である。犯罪者は、単に自己のあらかじめ受け取った便益や前借を返済しないばかりか、債権者に喰ってかかりさえもする債務者である。それゆえに彼は、その後は当然これらの財産や便益をことごとく喪失するのみならずーーーむしろ今や《それらの財産がいかに重要なものであったか》を思い知らされる。被害者たる債権者、すなわち共同体の怒りは、犯罪者を再び法の保護外の野蛮な追放の状態へ突き戻し、そういう状態からの従来の保護を解く。つまり共同体は犯罪者を除斥するーーーそして今やあらゆる種類の敵意は彼の上に注がれてよいことになる。『刑罰』はこの開花段階においては、あの憎悪され保護を解かれ抑圧された敵、一切の権利と保護のみでなく、一切の恩恵をも喪失した敵に対する正常な関係の単なる模写であり、《真似事》であるにすぎない。従ってそこにあるのは、あらゆる無慈悲と残忍とに充ちた《征服せられたる者は禍なるかな!》の軍律と祝勝のみだ。ーーーこのことからして、刑罰が歴史上に現われた際に取ったあらゆる《形式》が戦争そのもの(戦争の犠牲祭をも含めて)によって与えられたものであることが明らかになる」(ニーチェ「道徳の系譜・P.81~82」岩波文庫)

共同体が大きくなると、したがって国家規模になると、共同体は個人的な罪をもはや重視しなくなる。個別的な犯罪にいちいち構ってなどいない。「破壊者」が「犯罪者」だとされるのは一体どこでなのか。もし「破壊者」が「犯罪者」だとすると、国家の法ではなく、むしろゼウスを筆頭とする神々の掟に殉じたアンティゴネはまさしく「破壊者」=「犯罪者」として裁かれていることになる。実際、アンティゴネに下される国家の側からの罰は死刑だからだ。ところが死刑執行の直前にアンティゴネは自分で自分の首をくくって縊死する。処刑される直前、法の「破壊者」ではあっても国家による恣意的法による処刑は免れる自害。その意味でアンティゴネはディオニュソスとしての破壊者あるいは自己破壊を生きているのであり、間違っても国家の法によってみすみす裁かれるわけでは何らない。

「アンティゴネ だってもべつに、お布令を出したお方がゼウスさまではなし、あの世をおさめる神々といっしょにおいでの、正義の女神が、そうした掟を、人間の世にお建てになったわけでもありません。またあなたのお布令に、そんな力があるとも思えませんでしたもの、書き記されてはいなくても揺ぎない神さま方がお定めの掟を、人間の身で破りすてができようなどと。

だってもそれは今日や昨日のことではけっしてないのです。この定りはいつでも、いつまでも、生きてるもので、いつできたのか知ってる人さえありません。それに対して私が、いったい誰の思惑をでも怖がって、神さま方の前へ出て、責めを追おう気を持てましょう。いずれ死ぬのはきまったこと、むろんですわ、たとえあなたのお布令がなくたって。また寿命の尽きるまえに死ぬ、それさえ私にとっては得なことだと思えますわ。次から次へと、数え切れない不仕合せに、私みたいに、とっつかれて暮らすのならば、死んじまったほうが得だと、いえないわけがどこにあって。

ですから、こうして最期を遂げようと、私は、てんで、何の苦痛も感じませんわ。それより、もしも同じ母から生まれた者が死んだというのに、葬りもせず、死骸をほっておかせるとしたら、そのほうがずっと辛いに違いありません。それに比べてこちらのほうは、辛くも何ともないことです。あなたに、私がもしも今、馬鹿をやったと見えるのでしたら、だいたいはまあ、馬鹿な方から、馬鹿だと非難を受けるのですわね」(ソポクレス「アンティゴネ」『ギリシア悲劇2・P.172~173』ちくま文庫)

「共同体は次第に力を増すにつれて、個人の違背をもはや重大視しなくなる。それというのも、個人をもはや以前ほど全体の存立に対して危険なもの、破壊的なものと見なす必要がなくなるからである。非行者はもはや『法の保護の外におかれ』たり、追放されたりはしない。一般の怒りはもはや以前のように、無制限に個人の上に注がれることを許されない。ーーー非行者はむしろ今やこの怒りに対して、殊に直接の被害者の怒りに対して、全体の側から慎重に弁護され、保護される。非行を差し当たり仕かけられた人々との妥協、事故の範囲を局限し、より広汎な、まして一般的な関与や動揺を予防しようとする努力、等価物を見つけて係争全体を調停しようとする試み(《示談》)、わけても違背はそれぞれ何らかの意味で《償却されうる》と見ようとする、従って少なくともある程度までは犯罪者と犯行とを《分離》しようとする次第に明確に現われてくる意志ーーーこれらは刑法の爾後の発達においてますます明瞭に看取される諸相である。共同体の力と自覚が増大すれば、刑法もまたそれにともなって緩和される。共同体の力が弱くなり危殆に瀕すれば、刑法は再び峻厳な形式を取るにいたる。『債権者』の人情の度合いは、常にその富の程度に比例する。結局、苦しむことなしにどれだけの侵害に耐えうるかというその度合いそのものが、彼の富の《尺度》なのだ。加害者を《罰せずに》おくーーーこの最も高貴な奢侈を恣(ほしいまま)にしうるほどの《権力意識》をもった社会というものも考えられなくはないであろう。そのとき社会は、『一体、俺のところの居候どもが俺にとって何だというのか。勝手に食わせて太らせておけ。俺にはまだそのくらいの力はあるのだ!』と言うこともできるであろうーーー『一切は償却されうる、一切は償却されなければならない』という命題に始まった正義は、支払能力のない者を大目に見遁すことをもって終わる。ーーーそれは地上における善事と同じく、《自己自身を止揚する》ことによって終わりを告げる。ーーー正義のこの自己止揚、それがいかなる美名をもって呼ばれているかを諸君は知っているーーー曰く、《恩恵》。言うまでもなく、それは常に最も強大な者の特権であり、もっと適切な言葉を用いるならば、彼の法の彼岸である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.82~83」岩波文庫)

法はむしろ「私刑」の禁止について鋭く目を尖らせるようになる。個別的な自衛権あるいは処罰権を存在させないためだ。国家から独立した法体系の存在を認めないこと。そちらのほうにむしろ気を向けるようになる。国家から独立した「別様の」法体系の存在は文字通り国家からの独立を宣言することと同様のことと考えられるからである。そしてまた法の創設以前には犯罪もあり得ないとニーチェはいう。法が創設されて始めて犯罪が出現する。もっともな話だ。それまでは合法だった行為が突然違法とされたりするわけだから。今最も注目を集めたのは「女性の人工妊娠中絶の権利」だろう。

「しかし最上の権力が反抗感情や復仇感情に対して採用し、かつ実行する最後の手段ーーー最上の権力は何らかの方法によってこの手段を採用しうるだけの力を得るや否や常にこれを採用するーーーは《法律》の制定である。すなわち、一般に何がその最上の権力の眼から許されたもの、正しいものと見なさるべきか、何が禁じられたもの、正しからざるものと見なさるべきかについての命令的な宣言である。最上の権力は、法律の制定の後は個人または集団全体の侵害や専横を法律に対する侵犯として、最上の権力自体に対する叛逆として扱うことによって、隷属者の感情をそういう侵犯により惹き起こされた直接の損害から逸れさせ、やがて長い間には被害者の立場のみを見かつ認めるような、すべての復讐が欲するものとは正反対なものにまで到達するーーー。それから後は、眼は行為を次第に《非個人的に》評価するように訓練される。被害者自身の眼すらもそのように訓練される。ーーーしてみると、法律の制定の後に初めて『法』及び『不法』が生じるのだ(そして、デューリングの主張するように、侵害行為の後に初めて生じるのでは《ない》)。法および不法を《そのものとして》論じるのは全くノンセンスだ。《そのものとして》見れば、侵害も圧制も搾取も破壊も、何ら『不法行為』ではありえない。生は《本質的には》、すなわちその根本機能においては、侵害的・圧制的・搾取的・破壊的に作用するものであって、これらの性格を抜きにしては全く考えられえないものだからだ」(ニーチェ「道徳の系譜・P.86~87」岩波文庫)

次のセンテンスは「刑罰の『意味』がいかに不安定であり、いかに追補的であり、いかに偶然的であるか、同一の処分がいかに相違した目的に利用せられ、適用せられ、準用せられうるか」について、述べられている。「平和の破壊者として、あたかも戦争に用いられるような武器をもって打倒せらるべき敵ーーーに対する宣戦および作戦としての刑罰」とある。何も中国共産党中央本部の側に立って主張するつもりはない。そうではなく、アメリカのトランプ大統領は「犯罪者」ではないのか、という問いが問われねばならなくなってきたからである。日本の企業がなぜトランプ政権のために自腹を切らされなければならないのか。不思議でしょうがない。

「刑罰の『意味』がいかに不安定であり、いかに追補的であり、いかに偶然的であるか、同一の処分がいかに相違した目的に利用せられ、適用せられ、準用せられうるか、これについて少なくとも一つの見当を与えるために、比較的小さな偶然の材料に基づいて私自身に思い浮かんだ見本をここに並べてみよう。危害の除去、加害の継続の阻止としての刑罰。被害者に対する何らかの形における(感情の上の代償でもよい)損害賠償としての刑罰。均衡を紊(みだ)すものの隔離による騒擾の拡大防止としての刑罰。刑の決定者および執行者に対する恐怖心の喚起としての刑罰。犯罪者がこれまで享有してきた便益に対する一種の決済としての刑罰(例えば、犯罪者が鉱山奴隷として使用せられる場合)。退化的要素の除去としての(時としてはシナの法律におけるが如く、一族全体の除去としての、従って種族の純潔を維持し、または社会型式を固定する手段としての)刑罰。祝祭としての、換言すれば、ついに克服せられたる敵に対する暴圧や嘲弄としての刑罰。受刑者に対してであれーーーいわゆる『懲治』ーーー、処刑の目撃者に対してであれ、記憶をなさしめるものとしての刑罰。非行者を常軌を逸した復讐から保護する権力の側から取りきめた謝礼の支払いとしての刑罰。復讐が強力な種族によってなお厳として維持せられ、かつ特権として要求せられている場合、その復讐の自然状態との妥協としての刑罰。平和や法律や秩序や官憲の敵ーーー共同体にとっての危険分子として、共同体の前提たる契約の破棄者として、反逆者、裏切者として、また平和の破壊者として、あたかも戦争に用いられるような武器をもって打倒せらるべき敵ーーーに対する宣戦および作戦としての刑罰」(ニーチェ「道徳の系譜・P.93~94」岩波文庫)

むしろアメリカのトランプ政権こそ、日本企業の業績不振に関して「責任」があると言わねばならないのではないだろうか。ともかく今やトランプ政権からどのように見えるかという観点からのみ「犯罪者」が決定されるという状況は余りにもおかし過ぎる。全米各地で行われた「女性の人工妊娠中絶の権利回復デモ」に対するトランプ政権の圧力にしても、これまで獲得されてきた女性の権利を逆に剥奪しているようにしかおもえない。

「生殖は、性欲の《或る》種の満足の、一つの往々生じる偶然的な帰結であって、性欲の意図では《ない》のだ、性欲の必然的な結果ではないのだ。性欲は生殖とはいかなる必然的な関係をももってはいない。たまたま性欲によってあの成果がいっしょに達成されるのだ、栄養が食欲によってそうされるように」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八九六・P.491」ちくま学芸文庫)

もうずっと昔にフロイトもこう喝破している。

「たいていの人にとって、『意識的』ということは『心的』ということと同じなのですが、われわれは『心的』という概念を広げようと企てて、意識的でない心的なものを承認する必要に迫られたのでした。これとまったく類似していることですが、他の人たちは『性的』と『生殖機能に属している』ーーーあるいはもっと簡単に言おうと思うなら『性器的』ーーーとを同一視していますが、われわれは、『性器的』でない、すなわち生殖とはなんの関係もない『性的』なものを承認せざるをえないのです」(フロイト「精神分析入門・下・P.9」新潮文庫)

なおかつ、さらに多様なものの見方というものはある。実際にある。しかし、一人の人間の内部においてさえ、多様なものの見方はなぜ発生するのか。それは発生しないではいられないからだとしかいえない。ベルクソンのいうP.321図5参照。いわゆる「逆円錐」。この中で観念は各瞬間ごとに様々な位置を取りつつ無数の諸断面として切り出されてくるからである。

「すなわち、点Sであらわされる感覚-運動メカニズムと、ABに配置される記憶の全体とのあいだにはーーー私たちの心理学的な生における無数の反復の余地があり、そのいずれもが、同一の円錐のA’B’、A”B”などの断面で描きだされる、ということである。私たちがABのうちに拡散する傾向をもつことになるのは、じぶんの感覚的で運動的な状態からはなれてゆき、夢の生を生きるようになる、その程度に応じている。たほう私たちがSに集中する傾向を有するのは、現在のレアリテにより緊密にむすびつけられて、運動性の反応をつうじて感覚性の刺戟に応答する、そのかぎりにおいてのことである。じっさいには正常な自我であれば、この極端な〔ふたつの〕位置のいずれかに固定されることはけっしてない。そうした自我は、両者のあいだを動きながら、中間的な断面があらわす位置をかわるがわる取ってゆくのだ。あるいは、ことばをかえれば、みずからの表象群に対して、ちょうど充分なだけのイマージュと、おなじだけの観念を与えて、それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるようにするのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.321~322」岩波文庫)

さらに裁かれる側は、裁く側が行う「行刑上の処置そのものを見る」。死刑執行なら殺されるという処置である。かつて裁かれる側は共同体にそれなりの損害を与えたとされている。裁かれる側は人を殺したから今度は殺されるのだとおもう。しかし「殺した場合」、今度は「正義」の名において「殺し返される」というのはどこか倒錯しているように見えはしないだろうか。たとえば、企業が企業の都合で正社員・非正規社員・パート・アルバイトなどを大量解雇した場合など、それがために事実上殺されたに等しい家族あるいは生活保護を受けてもやっていけず仕方なく性風俗店で働いている女性は実際にいるわけだ。にもかかわらず、大量解雇した企業の側が「正義」の名において「殺し返される」という法的処置が下されないのはなぜなのか。解雇された側ばかりが行刑上の不利益を被っている。生活様式を劣悪化させていかざるを得ない。この悪循環をこそ断たねばならないのでは、とおもうのだが。残念なことに現状はそうは動いていないとしかおもえない。ますます輪を掛けた悪循環に陥っているように見える。

「わけても軽視してならないのは、犯罪者は裁判上および行刑上の処置そのものを見るというまさにそのことのために、自分の行為、自分の行状を《それ自体において》非難さるべきものと感じることをいかに妨げられるかということだ。というわけは、犯罪者は、それと全く同一の行状が正義のために行なわれ、そしてその場合は『よい』と呼ばれ、何らの疚(やま)しさを感じることもなく行われているのを見るからである。つまり彼は、探偵・奸策・買収・陥穽など、警官や検事側の弄する狡猾老獪な手管の全体、それからまた諸種の刑罰のうちに際立って示されているような、感情によっては恕(ゆる)されないが原則としては認められる褫奪・圧制・凌辱・監禁・拷問・殺害など、ーーーこれらすべての行為を、彼の裁判者たちは決して《それ自体において》非難され処罰さるべき行為としては行なわず、むしろ単にある種の顧慮から利用しているのを見るからである」(ニーチェ「道徳の系譜・P.95」岩波文庫)

ニーチェにいわせればトランプ政権は「法」を「むしろ単にある種の顧慮から利用している」ように見えるのである。また、「どのように見えるか」という観点は多ければ多いほど世界の民主主義にとっては有利であるにもかかわらず、である。トランプ政権の残酷さはトランプ自身がどこかコミカルに見えているため、なかなか残酷には見えないということもあるかもしれない。しかし事情はこうだ。

「残酷さは、置きかえられていっそう精神的となった一つの官能である」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八六〇・P.478」ちくま学芸文庫)

トランプ政権の「官能」を成就してやるためになぜ諸外国はトランプ政権の「残酷さ」を受け入れなくてはならないのか。「犯罪者」がもし本当に「破壊者」であるとしたらトランプ政権こそまさしく自腹を切らない「犯罪者」集団だと指摘するほかなくなってくるのではないだろうか。

さらに。フーコーの権力分析が袋小路に陥ったことは前に述べた。それは新自由主義的社会のリゾームな諸関係についてフーコーの手法は当てはまらないことが決定的になってきたことを意味している。フーコーの権力分析が最も有効性を発揮したのは規律・監禁という統治方法がまだ社会の中で有効に活用されていた時期、いわゆる「パノプティコン」(一望監視装置)というシステムが権力の側にとって有効に働いていた時期に当たっている。ところがもはや地球上はリゾームな諸関係によって「接続/切断/他の流れとの再接続」を不断に繰り返す平滑空間と化した。リゾームな社会の諸関係においては支配者の側の権利は常に既に被支配者の権利と分かちがたく混じり合い融合していて、支配するにせよ被支配者の側の権益を無視しては支配者もまた成り立たないという特徴を持つ。アメリカはアメリカだけで世界の頂点に君臨することはもはや不可能になっている。世界中の諸国と様々な経済的関係を維持することでようやく成立しているに過ぎない脆さをあちこちの部分として内部に組み込んでしまった後の、一時の頂点に過ぎない。

「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361」ちくま学芸文庫)

また、アメリカは世界中の権力層の絶頂にいると思い込んでいるわけだが、それはただ単なる思い込みではなく、むしろ事実上の絶頂でもあることは論を待たない。ところが権力はリゾームな社会の出現によっていつも移動あるいは自己破壊へ、さらなる強度の出現へと自由自在に生成変化していくものへと変わった。一つの権力がいつまでも同じ場所にいるということはまったくなくなった。むしろ移動の自由、解体の自由、融合の自由、脱コード化の自由、脱土地化の自由、諸地域の横断の自由を実践している。アメリカは次のことを理解していないか理解する能力に欠けている。

「《生成における絶頂(最も奴隷的な基礎にもとづく権力の最高の精神化)からの逆行》は、もはや何ひとつ組織化するものをもたなくなったのち、《おのれに背きつつ》、おのれの力を破壊のために消費する」(ニーチェ「権力への意志・第三書・P.236〜237」ちくま学芸文庫)

何か決定的に強力な壁(国家権力・国家的思想的体制など)が立ちはだかることで、外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられ》自分で自分自身の内部を無惨にも破壊させてしまうとニーチェはいった。同時にニーチェは、すべての壁を越えて絶頂へ到達した権力意志の場合はどうなるのかと思考する。もはや新しく自分の内部へ取り込む他の権力を持たなくなった場合、それでも生成変化への意志は前進しつづけることを止めない。だから今のアメリカのような場合、かつて堰き止められて外へ向けて放出されないすべての本能が《内へ向けられ》自分で自分自身の内部を破壊させてしまう自己破壊へと向かったように、これまで獲得してきたあらゆる本能・権力意志を「おのれ」の「破壊のために消費する」こととなる。そしてそれはリゾーム化した資本主義では当然起こるべくして起こってくる傾向でもあるのだ。なるほど東西冷戦時代には対立という形式が有効な権力形態を出現させるケースもままあった。しかし冷戦は終わった。そして対立もまたシミュラクル(見せかけ)という形でしか残ってはいない。かつての対立型イデオロギーなどもはやどこへ行ってもどんどん通用しなくなってきた。世界は対立しているかのように見えていても実際は経済的分野において明白であるようにいつも相互に繋がり合っているというリゾーム型社会を実現し、実現したリゾーム型社会のさらなる増殖とヴァージョンアップに向かってこの瞬間も止まることなく加速的に動いている。トランプ政権にはその現実が見えていない。資本主義の本当の実力とその傾向をしっかり把握できていない。

そこであらわになってきた生きた権力に対して有効とされる方法は、次に上げるドゥルーズの言葉によって一定程度集約されていると考えられるだろう。

「だから言論の方向転換が必要なのです。創造するということは、これまでも常にコミュニケーションとは異なる活動でした。そこで重要になってくるのは、非=コミュニケーションの空洞や、断続器をつくりあげ、管理からの逃走をこころみることだろうと思います」(ドゥルーズ「記号と事件・P.352」河出文庫)

そしてまだ言わなければならないのだろうか。「非=コミュニケーション」とはどういうことか。戦闘あるいは戦争もまた関係者の間では「コミュニケーション」の一種なのである。だから「非=コミュニケーション」は戦闘あるいは戦争すら不可能な逃走の線を縦横無尽に描いていくことでなければならないのだ。

BGM