人間は言語によって「作られ」、言語によって「作り直される」。バーナードは他人に言語を与える言語化職人に《なる》。そして時々刻々と変化していく他人に新しい言語を与えて他人を更新させる。他人はまるで衣替えでも済ますようにいとも簡単に言語としての自分を更新していく。とともにバーナードは自分で自分自身をも更新する。ただ、バーナードは自分自身の言語化にあまり気が乗らない。
「『僕は絶えず作られ、作り直される。それぞれの人が僕からそれぞれの言葉を引き出す』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.130」角川文庫)
バーナードが思い描くのは自分の想像力の中ですでに言語化されている未来だ。未来の中にはもちろんバーナードが含まれている。だがその様子は冴えない。
「『僕は君たちの誰よりももっと多くの場所へ、もっと違った場所へ進出するのだ。けれど、外部から来たるものがあっても、内部から来るものがないために、僕は忘れられることだろう。僕の声が黙してしまえば、君たちは僕を憶い出すことはあるまい。憶い出したところで、かつて成果をねじって言葉にした声の反響たるにすぎない』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.131」角川文庫)
冴えない原因は「外部から来たるものがあっても、内部から来るものがないために、僕は忘れられる」からだとおもっている。形式はともかく、何より自分自身の内容はどうなのか。「ない」という。モンテーニュにいわせれば「輝く内容」ということになろう。
「私の文体は内容に何の助けにもならない。だから私には強い内容が要る。多くの摑まえどころをもち、それ自身で輝く内容が要る」(モンテーニュ「エセー4・P.70」岩波文庫)
話題を変えようとするかのようにローダがいう。
「『ほら、光が刻々に光を増していくわ。お花が開いて木の実が熟れたように、あそこにも、ここにも。この部屋中を卓のどれもこれもまで見渡すと、私たちの眼は、赤や橙や濃茶や妙に曖昧な色合いの帷をくぐって抜け出るようだわ。ーーー一つのものが他のものに溶け込むの』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.131」角川文庫)
この「一つのものが他のものに溶け込む」ということ。ローダは事物の表層にも質的多様性を見る。
「純粋持続とはまさに、互いに溶け合い、浸透し合い、明確な輪郭もなく、相互に外在化していく何の携行性もなく、数とは何の類縁性もないような質的変化の継起以外のものではありえないだろう。それはつまり、純粋な異質性であろう」(ベルクソン「時間と自由・P.126」岩波文庫)
「もし私たちが自我と外的事物との接触面の下を掘り進んで、有機化された生きた知性の奥底まで侵入していけば、私たちはきっと、一度分離されたために、論理的に矛盾する諸項というかたちで相互に排除し合っているように見える多くの観念の重なり合い、あるいはむしろ内的融合を目撃することになるだろう。世にも奇妙な夢ではある。けれども、二つのイメージが重なり合って、異なる二人の人間を同時に示すが、それでも一人でしかないという、この夢は、目覚めた状態における私たちの概念の相互浸透について、わずかながら或る観念を与えてくれるであろう。夢見る人の想像力は、外的世界から隔離されてはいるが、知的生活のいっそう深い領域で絶えず観念の上で続けられている作業を単純なイメージに基づいて再現し、それなりの流儀でつくり変えているのである」(ベルクソン「時間と自由・P.163~164」岩波文庫)
ジニーは他の仲間たちよりうれしい様子を見せる。
「『私たちの感覚が拡がってしまったのだわ。薄膜が、白くぐんにゃりと横たわっている神経網が行きわたり、拡がって、繊維のよう私たちの周りに氾濫し、空気が手に触れるように感じさせ、今までは聞えなかった、ずっと遠くの音までが神経に響いてくるわ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.131~132」角川文庫)
「繊維」というものがもたらす感覚の拡張に着目すると、「ダロウェイ夫人」でセプティマスがいっていた言葉を思いださないだろうか。
「だが、あれが無言の合図をする、葉は生きているぞ、木々は生きているぞ、と。そして葉は、いく百万の繊維でこのベンチに腰かけているおれの体とつながれているから、おれの体をあおって高く低くゆさぶるのだ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.35」角川文庫)
かつてルイスはロンドンについて感じた。興奮ぎみに「ロンドンが粉々に乱れ飛ぶ。ロンドンがうねり波立つ」と。ロンドンはいつも動的だ。今度はこういう。
「『ロンドンがーーー我々の廻りで咆哮している。自動車、荷車、乗合自動車が絶えず行ったり来たり。すべてが併呑されて、一つの車輪が回転する単一な音を立てる。別々の音響がすべてーーー車輪も、鐘も、酔っぱらいやお祭り騒ぎの連中の呼び声もーーー攪きまわされて、一つの音響となり、銅青色に、循環する。それから警笛が鳴る。その音で、岩壁が滑り出し、煙突は平たくなり、船は大海に向けて滑り出る』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.132」角川文庫)
描写は長いが、この描写は小説特有の線的形式を取っているからそうなのであって、絵画や音楽ならもっと上手く表現できるだろう。この場のロンドンは「或る一刻」として、「すべてが併呑されて、一つの車輪が回転する単一な音」として捉えられなければならない。ロンドンはまさしく欲望する諸機械として一元化されている。さらにネヴィルはこういう。
「『僕たちはここに坐っていて、とりまかれ、照し出され、あれこれと色をつけられている。あらゆるものがーーー手、帷、ナイフ、フォーク、食事をしている他の人々などがーーーお互いに合体する』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.132」角川文庫)
ロンドンについて「別々の音響がすべてーーー車輪も、鐘も、酔っぱらいやお祭り騒ぎの連中の呼び声もーーー攪きまわされて、一つの音響とな」るように、ネヴィルたちも「一つの強度」として「お互いに合体する」。欲望する身体はそれぞれ各部分が脈絡なく接続し合いまた切断し合いながら、一時にかぎり、或る種の「一つの総合」を達成する。
ローダはパーシバルを石に変える。そして仲間たちは石の周囲を自在に回遊する「鰷魚(はや)」の群れなのだ。
「『あの人は鰷魚(はや)が泳ぎ廻る池の中に落っこちた石みたい。鰷魚のように、こちらあちらへと突き進んでいた私たちはあの人が来るとそのまわりへ走り寄ったの。鰷魚のように、大きな石が現われたと知って、私たちは安心してうねってみたり、渦を巻いてみたり。みんな安らかな気持』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.133」角川文庫)
パーシバルという保護者のもとでのみ魚類に《なる》ことができていた仲間たち。パーシバルという保護者のもとでのみ自由自在に泳ぎまわることができていた六人の幼馴染み。しかしパーシバルはインドへ出かけていく。次の二つのセンテンスに注目したい。
「『パーシバルだーーーそよ風が雲を分ち、かと見れば重なり合ったりした時に擽ったい草の中に坐っていた時のように、黙って坐りこんでいて、《僕はこれだ、僕はあれだ》というような、まるで一つの肉体と魂の別々の部分みたいに一緒に集り合ってできている、こうした企てが偽りのものだ、と気づかせるのは彼だ。何かが恐怖というものから取りはずされているのだ。虚栄とはすっかり違ってしまった何かがあるのだ。僕たちは各々の相違を強調しようとして来た。別個のものでありたいものだから、我々の欠点に重点を置いてきた。それに我々に特有なものに。だが、下の方には銅青色の環になってぐるぐる廻転する鎖があるのだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.133~134」角川文庫)
「『だがこの轟くばかりの水はーーーその上に僕たちの気狂いじみた足場を造っているわけだが、粗暴な、弱々しい、それに辻褄の合わない叫びよりも遥かに堅固だ。しゃべろうとして立ち上っては口をつく叫び、《僕はこれだ。僕はあれだ》というような虚偽の言葉を考えたり吐き出したりする時に口をつく叫びよりもだ。言葉は虚偽だ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.134」角川文庫)
パーシバルはいわば絶対的価値だった。絶対的価値の実在のもとでのみ、バーナードたちは個人的価値として様々に変動することができた。今や絶対的なものは遠くへ、ヨーローパから随分と隔てられた土地へ移動していってしまう。錘としての絶対的価値は失われる。バーナードたちは絶え間なく流通するばかりの諸商品と何ら変わらないものへと移っていくほかない。次のような。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)
そうして自分たちの外的姿形どころか内的価値まで交換可能な諸商品の一つ一つでしかなくなる。「言葉は虚偽だ」というネヴィルの言葉は、諸商品はいつもその内的価値を外的に偽るものだという意味でしか捉えることができない。今や仲間たちもすべて労働力商品として生きている。どんな外皮を装うことになったとしても流通する労働力商品としては現実に投入された労働力価値がすべて労働者のもとへ還ってくるわけではない。実現されるのは剰余価値を含む商品価値である。剰余価値は不払労働分を現わしており、したがって支出された労働力価値のすべてが労働者の手元に戻ってくるわけではない。
ローダの言葉は慎重だ。「あなたでもない、あなたでもない、あなたでもない。パーシバルでも、スーザンでも、ジニーでも、ネヴィルでも、さりとてルイスでもない」。ということは「あなたでもあり、あなたでもあり、あなたでもある。パーシバルでも、スーザンでも、ジニーでも、ネヴィルでも、ルイスでもある」ということを意味する。仲間たちはすべてたった今述べた「全体的な、または展開された価値形態」として無限の系列を作って生成変化していく。
「『その暗さに浮立って白い形が見えるの。石のものではないわ、動いているものが、きっと生きているものが。でもあなたでもない、あなたでもない、あなたでもない。パーシバルでも、スーザンでも、ジニーでも、ネヴィルでも、さりとてルイスでもないわ。白い腕が膝に置かれると三角形だわ。まっすぐ立ってーーー円柱だわ。あら、噴水が落ちているんだわ。合図もしなければ、手招きもせず、私たちに眼もくれもしない。そのうしろで海が響を立ててるの。どうしたって行けやしない。でも無理にでも行ってみるの。そこへ私の虚ろさを充たせに、夜々を過ごしに、夜の夢をもっともっと豊富に積みに行くの。そして瞬く間に、今、ここでさえ、目的地に着いて言うの』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.135」角川文庫)
それにしても「うしろで海が響を立ててる」というときの「海」とは何か。グローバル資本主義のことだ。海(グローバル資本主義)の中から一つ一つの波あるいは震動がほんの一瞬顔を覗かせる。その一つ一つがたとえばバーナードの言葉だったりジニーの身体だったりする。しかしそれらはまた海(グローバル資本主義)の中へ溶融していく。だがここでローダは「夜の夢をもっともっと豊富に積みに行く」という。しかしそれは「どうしたって行けやしない」場所だ。にもかかわらず「無理にでも行ってみ」ようとすれば「瞬く間に、今、ここでさえ、目的地に着」くことができる。ドゥルーズ&ガタリがプルーストを評して述べたように、ローダの《旅行》は「今、ここ」であることによって極めて節約=経済(エコノミー)だ。
「ここでの旅行は、必ずしも外延的に広い範囲にわたる運動を意味してはいない。それは、ひとつの部屋の中で、器官なき身体の上で、動かないままでなされるのだ。それは、自分が創造する大地のために、ほかの一切の大地を破壊する強度〔内包〕の旅行なのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.379」河出書房新社)
ルイスはいう。「鎖が破れ、無秩序が戻る」と。その通りだ。錘になっていたパーシバルが去るのだから。資本主義はアナーキーな(無秩序な)欲望する諸機械だ。脱コード化することを止めない諸力の運動だ。同時に人間の身体は諸部分に解体される。そして様々な部分機械(パソコン、スマートフォン、ハンドル、クレーン等々)に接続されたり切断されたりを繰り返している部分欲動の種々の部分として動いている。その意味で資本主義的総合は常に離接的総合であるほかない。だからしばしば解離を起こす。
「『ほんのちょっとの間だけーーー鎖が破れ、無秩序が戻る前に、動けない僕たちを見るがいい。見せものにされている僕たちを、万力に圧えられている僕たちを見るがいい。だが、今、環が破れる。今流れが動き始める。僕等は以前にも増して早く迸る。底に生える黒ずんだ雑草の中に潜んで待伏せしていた情熱がやおら立ち上って僕たちに波打ち寄せる。苦悩と嫉妬、羨みと欲望、それに又それらよりも根深いもの、愛よりも強く、ずっと奥底に潜むもの』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.138~139」角川文庫)
ルイスは「愛よりも強く、ずっと奥底に潜むもの」に着目している。そしてローダはいう。「離れ離れに投げ出される」と。
「『環がこわされる。私たちは離れ離れに投げ出されるの』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.139」角川文庫)
それが還っていく「ずっと奥底に潜むもの」は「始まりもなければ終わりもない流れ」なのだ。
「不連続性は、それらが現れるとき背景となっているものの連続性から浮かび上がってくる。また、それらを引き離している間隔はその連続性のおかげで存在する。それらは、交響曲のところどころで鳴り響くティンパニのようなものである。われわれの注意がそれらに固定されるのは、それらが他の出来事よりも注意を惹くからである。しかしそれらの出来事はそれぞれ、われわれの心理学的存在全体の流動的な固まりによって運ばれている。それらは、われわれが感じ、考え、意志しているものを、つまりある一定の瞬間のわれわれのすべてを含む、動く帯の最も明るく照らし出された点でしかない。事実、この帯全体がわれわれの状態を構成するのである。さて、このように定義される状態ははっきり区別される要素ではないと言うことができる。それらは互いに連続し合い、終わりなき流れとなるのだ」(ベルクソン「創造的進化・P.19~20」ちくま学芸文庫)
それはそうと。俗世間は怖いとつくづくおもう。滋賀県大津市で発生した園児死亡自動車事故。映像を見た限りでだがなぜかガードレールがない。最近では通勤圏として人口増加していた滋賀県なので自動車事故対策くらいやっているとおもっていた。ところがその様子を実際に目にすることはあまりない。一方で滋賀国体には五〇〇億円を投入するという。何かがおかしい。第一に行政がおかしい。と当時に今回の事故で運転手は確認を怠り前方を行く車に従って漫然と右折したという。「漫然たる習慣」あるいは「規則的なものに馴れきってしま」う、という態度は驚くほど人間を怠惰にする。
「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下巻・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫)
さらに、行政にせよ民間にせよ運転手個人にせよ、ともに「共同世界」にかかわっているという認識がほとんどないように見える。なぜだろうか。
「1 《共同世界》に関係することで、ひとはすでにただちに、周囲世界的な諸関係に入りこんでゆく。ある知人を訪ねることで、ひとはーーーそのためにーーー家の外へ、どこかへ赴く。
2 《周囲世界》に関係することで、ひとはすでにただちに、共同世界的な関連のうちに、積極的・消極的なかたちで入りこんでゆく。通りに出れば、ひとはそこで他者たちに出会い、あるいはだれにも出会わない。後者の場合なら、他者たちもまたーーー欠落というしかたでーーーそこに存在することを、ひとははじめて積極的に経験することになる。
3 《じぶん自身》に関係することでひとはーーー明示的であれ非明示的であれーーー同時に、共同世界と周囲世界にかかわっている。喜んでいる場合ならば、喜ぶとはすなわち、喜ぶことの機縁を与えた、或るものや或る他者について喜ぶことである。怒っているなら、怒るとはつまり、じぶんを怒らせた或るものや或る他者について怒ることなのである。関係することの三つの方向すべてにおいて、ひと《自身》が共にあらわれている。知人を訪ねるさいには、知人にとっての知人として、他者あるいはなにかに怒るときには、それらに『みずから』憤慨しうる者として、通りを歩く場合には、そのためにみずから外出する者として、である。
『共同世界』は、こうして、だんじて純粋にそれだけで出会われるのではない。それはつねに或る構造連関の内部で出会われる。その構造的な分肢は、《他者たちと共に-世界内存在する-自己》なのである。ただし、『自己』がこの構造的定式のもとで意味しているのは、明示的に言いあらわされた《私自身》ではまったくない。~にかかわる暗黙の主体である。私のかかわる《なにに》と《だれに》において、私自身は実存している。この、他者のもとで自己のもとに在ることは、じぶん自身を気づかうことーーーたとえ『神の御前』であろうともーーーとおなじように、本来的なものでも非本来的なものでもありえ、真正なものでも真正ならざるものでもありうるのだ。かかわることの本来的なありかたは、ひとがかかわる《なにに》をもって規定されるものではない。《どのように》それにかかわるかという様式によって規定される」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.127~128」岩波文庫)
BGM
「『僕は絶えず作られ、作り直される。それぞれの人が僕からそれぞれの言葉を引き出す』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.130」角川文庫)
バーナードが思い描くのは自分の想像力の中ですでに言語化されている未来だ。未来の中にはもちろんバーナードが含まれている。だがその様子は冴えない。
「『僕は君たちの誰よりももっと多くの場所へ、もっと違った場所へ進出するのだ。けれど、外部から来たるものがあっても、内部から来るものがないために、僕は忘れられることだろう。僕の声が黙してしまえば、君たちは僕を憶い出すことはあるまい。憶い出したところで、かつて成果をねじって言葉にした声の反響たるにすぎない』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.131」角川文庫)
冴えない原因は「外部から来たるものがあっても、内部から来るものがないために、僕は忘れられる」からだとおもっている。形式はともかく、何より自分自身の内容はどうなのか。「ない」という。モンテーニュにいわせれば「輝く内容」ということになろう。
「私の文体は内容に何の助けにもならない。だから私には強い内容が要る。多くの摑まえどころをもち、それ自身で輝く内容が要る」(モンテーニュ「エセー4・P.70」岩波文庫)
話題を変えようとするかのようにローダがいう。
「『ほら、光が刻々に光を増していくわ。お花が開いて木の実が熟れたように、あそこにも、ここにも。この部屋中を卓のどれもこれもまで見渡すと、私たちの眼は、赤や橙や濃茶や妙に曖昧な色合いの帷をくぐって抜け出るようだわ。ーーー一つのものが他のものに溶け込むの』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.131」角川文庫)
この「一つのものが他のものに溶け込む」ということ。ローダは事物の表層にも質的多様性を見る。
「純粋持続とはまさに、互いに溶け合い、浸透し合い、明確な輪郭もなく、相互に外在化していく何の携行性もなく、数とは何の類縁性もないような質的変化の継起以外のものではありえないだろう。それはつまり、純粋な異質性であろう」(ベルクソン「時間と自由・P.126」岩波文庫)
「もし私たちが自我と外的事物との接触面の下を掘り進んで、有機化された生きた知性の奥底まで侵入していけば、私たちはきっと、一度分離されたために、論理的に矛盾する諸項というかたちで相互に排除し合っているように見える多くの観念の重なり合い、あるいはむしろ内的融合を目撃することになるだろう。世にも奇妙な夢ではある。けれども、二つのイメージが重なり合って、異なる二人の人間を同時に示すが、それでも一人でしかないという、この夢は、目覚めた状態における私たちの概念の相互浸透について、わずかながら或る観念を与えてくれるであろう。夢見る人の想像力は、外的世界から隔離されてはいるが、知的生活のいっそう深い領域で絶えず観念の上で続けられている作業を単純なイメージに基づいて再現し、それなりの流儀でつくり変えているのである」(ベルクソン「時間と自由・P.163~164」岩波文庫)
ジニーは他の仲間たちよりうれしい様子を見せる。
「『私たちの感覚が拡がってしまったのだわ。薄膜が、白くぐんにゃりと横たわっている神経網が行きわたり、拡がって、繊維のよう私たちの周りに氾濫し、空気が手に触れるように感じさせ、今までは聞えなかった、ずっと遠くの音までが神経に響いてくるわ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.131~132」角川文庫)
「繊維」というものがもたらす感覚の拡張に着目すると、「ダロウェイ夫人」でセプティマスがいっていた言葉を思いださないだろうか。
「だが、あれが無言の合図をする、葉は生きているぞ、木々は生きているぞ、と。そして葉は、いく百万の繊維でこのベンチに腰かけているおれの体とつながれているから、おれの体をあおって高く低くゆさぶるのだ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.35」角川文庫)
かつてルイスはロンドンについて感じた。興奮ぎみに「ロンドンが粉々に乱れ飛ぶ。ロンドンがうねり波立つ」と。ロンドンはいつも動的だ。今度はこういう。
「『ロンドンがーーー我々の廻りで咆哮している。自動車、荷車、乗合自動車が絶えず行ったり来たり。すべてが併呑されて、一つの車輪が回転する単一な音を立てる。別々の音響がすべてーーー車輪も、鐘も、酔っぱらいやお祭り騒ぎの連中の呼び声もーーー攪きまわされて、一つの音響となり、銅青色に、循環する。それから警笛が鳴る。その音で、岩壁が滑り出し、煙突は平たくなり、船は大海に向けて滑り出る』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.132」角川文庫)
描写は長いが、この描写は小説特有の線的形式を取っているからそうなのであって、絵画や音楽ならもっと上手く表現できるだろう。この場のロンドンは「或る一刻」として、「すべてが併呑されて、一つの車輪が回転する単一な音」として捉えられなければならない。ロンドンはまさしく欲望する諸機械として一元化されている。さらにネヴィルはこういう。
「『僕たちはここに坐っていて、とりまかれ、照し出され、あれこれと色をつけられている。あらゆるものがーーー手、帷、ナイフ、フォーク、食事をしている他の人々などがーーーお互いに合体する』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.132」角川文庫)
ロンドンについて「別々の音響がすべてーーー車輪も、鐘も、酔っぱらいやお祭り騒ぎの連中の呼び声もーーー攪きまわされて、一つの音響とな」るように、ネヴィルたちも「一つの強度」として「お互いに合体する」。欲望する身体はそれぞれ各部分が脈絡なく接続し合いまた切断し合いながら、一時にかぎり、或る種の「一つの総合」を達成する。
ローダはパーシバルを石に変える。そして仲間たちは石の周囲を自在に回遊する「鰷魚(はや)」の群れなのだ。
「『あの人は鰷魚(はや)が泳ぎ廻る池の中に落っこちた石みたい。鰷魚のように、こちらあちらへと突き進んでいた私たちはあの人が来るとそのまわりへ走り寄ったの。鰷魚のように、大きな石が現われたと知って、私たちは安心してうねってみたり、渦を巻いてみたり。みんな安らかな気持』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.133」角川文庫)
パーシバルという保護者のもとでのみ魚類に《なる》ことができていた仲間たち。パーシバルという保護者のもとでのみ自由自在に泳ぎまわることができていた六人の幼馴染み。しかしパーシバルはインドへ出かけていく。次の二つのセンテンスに注目したい。
「『パーシバルだーーーそよ風が雲を分ち、かと見れば重なり合ったりした時に擽ったい草の中に坐っていた時のように、黙って坐りこんでいて、《僕はこれだ、僕はあれだ》というような、まるで一つの肉体と魂の別々の部分みたいに一緒に集り合ってできている、こうした企てが偽りのものだ、と気づかせるのは彼だ。何かが恐怖というものから取りはずされているのだ。虚栄とはすっかり違ってしまった何かがあるのだ。僕たちは各々の相違を強調しようとして来た。別個のものでありたいものだから、我々の欠点に重点を置いてきた。それに我々に特有なものに。だが、下の方には銅青色の環になってぐるぐる廻転する鎖があるのだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.133~134」角川文庫)
「『だがこの轟くばかりの水はーーーその上に僕たちの気狂いじみた足場を造っているわけだが、粗暴な、弱々しい、それに辻褄の合わない叫びよりも遥かに堅固だ。しゃべろうとして立ち上っては口をつく叫び、《僕はこれだ。僕はあれだ》というような虚偽の言葉を考えたり吐き出したりする時に口をつく叫びよりもだ。言葉は虚偽だ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.134」角川文庫)
パーシバルはいわば絶対的価値だった。絶対的価値の実在のもとでのみ、バーナードたちは個人的価値として様々に変動することができた。今や絶対的なものは遠くへ、ヨーローパから随分と隔てられた土地へ移動していってしまう。錘としての絶対的価値は失われる。バーナードたちは絶え間なく流通するばかりの諸商品と何ら変わらないものへと移っていくほかない。次のような。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)
そうして自分たちの外的姿形どころか内的価値まで交換可能な諸商品の一つ一つでしかなくなる。「言葉は虚偽だ」というネヴィルの言葉は、諸商品はいつもその内的価値を外的に偽るものだという意味でしか捉えることができない。今や仲間たちもすべて労働力商品として生きている。どんな外皮を装うことになったとしても流通する労働力商品としては現実に投入された労働力価値がすべて労働者のもとへ還ってくるわけではない。実現されるのは剰余価値を含む商品価値である。剰余価値は不払労働分を現わしており、したがって支出された労働力価値のすべてが労働者の手元に戻ってくるわけではない。
ローダの言葉は慎重だ。「あなたでもない、あなたでもない、あなたでもない。パーシバルでも、スーザンでも、ジニーでも、ネヴィルでも、さりとてルイスでもない」。ということは「あなたでもあり、あなたでもあり、あなたでもある。パーシバルでも、スーザンでも、ジニーでも、ネヴィルでも、ルイスでもある」ということを意味する。仲間たちはすべてたった今述べた「全体的な、または展開された価値形態」として無限の系列を作って生成変化していく。
「『その暗さに浮立って白い形が見えるの。石のものではないわ、動いているものが、きっと生きているものが。でもあなたでもない、あなたでもない、あなたでもない。パーシバルでも、スーザンでも、ジニーでも、ネヴィルでも、さりとてルイスでもないわ。白い腕が膝に置かれると三角形だわ。まっすぐ立ってーーー円柱だわ。あら、噴水が落ちているんだわ。合図もしなければ、手招きもせず、私たちに眼もくれもしない。そのうしろで海が響を立ててるの。どうしたって行けやしない。でも無理にでも行ってみるの。そこへ私の虚ろさを充たせに、夜々を過ごしに、夜の夢をもっともっと豊富に積みに行くの。そして瞬く間に、今、ここでさえ、目的地に着いて言うの』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.135」角川文庫)
それにしても「うしろで海が響を立ててる」というときの「海」とは何か。グローバル資本主義のことだ。海(グローバル資本主義)の中から一つ一つの波あるいは震動がほんの一瞬顔を覗かせる。その一つ一つがたとえばバーナードの言葉だったりジニーの身体だったりする。しかしそれらはまた海(グローバル資本主義)の中へ溶融していく。だがここでローダは「夜の夢をもっともっと豊富に積みに行く」という。しかしそれは「どうしたって行けやしない」場所だ。にもかかわらず「無理にでも行ってみ」ようとすれば「瞬く間に、今、ここでさえ、目的地に着」くことができる。ドゥルーズ&ガタリがプルーストを評して述べたように、ローダの《旅行》は「今、ここ」であることによって極めて節約=経済(エコノミー)だ。
「ここでの旅行は、必ずしも外延的に広い範囲にわたる運動を意味してはいない。それは、ひとつの部屋の中で、器官なき身体の上で、動かないままでなされるのだ。それは、自分が創造する大地のために、ほかの一切の大地を破壊する強度〔内包〕の旅行なのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.379」河出書房新社)
ルイスはいう。「鎖が破れ、無秩序が戻る」と。その通りだ。錘になっていたパーシバルが去るのだから。資本主義はアナーキーな(無秩序な)欲望する諸機械だ。脱コード化することを止めない諸力の運動だ。同時に人間の身体は諸部分に解体される。そして様々な部分機械(パソコン、スマートフォン、ハンドル、クレーン等々)に接続されたり切断されたりを繰り返している部分欲動の種々の部分として動いている。その意味で資本主義的総合は常に離接的総合であるほかない。だからしばしば解離を起こす。
「『ほんのちょっとの間だけーーー鎖が破れ、無秩序が戻る前に、動けない僕たちを見るがいい。見せものにされている僕たちを、万力に圧えられている僕たちを見るがいい。だが、今、環が破れる。今流れが動き始める。僕等は以前にも増して早く迸る。底に生える黒ずんだ雑草の中に潜んで待伏せしていた情熱がやおら立ち上って僕たちに波打ち寄せる。苦悩と嫉妬、羨みと欲望、それに又それらよりも根深いもの、愛よりも強く、ずっと奥底に潜むもの』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.138~139」角川文庫)
ルイスは「愛よりも強く、ずっと奥底に潜むもの」に着目している。そしてローダはいう。「離れ離れに投げ出される」と。
「『環がこわされる。私たちは離れ離れに投げ出されるの』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.139」角川文庫)
それが還っていく「ずっと奥底に潜むもの」は「始まりもなければ終わりもない流れ」なのだ。
「不連続性は、それらが現れるとき背景となっているものの連続性から浮かび上がってくる。また、それらを引き離している間隔はその連続性のおかげで存在する。それらは、交響曲のところどころで鳴り響くティンパニのようなものである。われわれの注意がそれらに固定されるのは、それらが他の出来事よりも注意を惹くからである。しかしそれらの出来事はそれぞれ、われわれの心理学的存在全体の流動的な固まりによって運ばれている。それらは、われわれが感じ、考え、意志しているものを、つまりある一定の瞬間のわれわれのすべてを含む、動く帯の最も明るく照らし出された点でしかない。事実、この帯全体がわれわれの状態を構成するのである。さて、このように定義される状態ははっきり区別される要素ではないと言うことができる。それらは互いに連続し合い、終わりなき流れとなるのだ」(ベルクソン「創造的進化・P.19~20」ちくま学芸文庫)
それはそうと。俗世間は怖いとつくづくおもう。滋賀県大津市で発生した園児死亡自動車事故。映像を見た限りでだがなぜかガードレールがない。最近では通勤圏として人口増加していた滋賀県なので自動車事故対策くらいやっているとおもっていた。ところがその様子を実際に目にすることはあまりない。一方で滋賀国体には五〇〇億円を投入するという。何かがおかしい。第一に行政がおかしい。と当時に今回の事故で運転手は確認を怠り前方を行く車に従って漫然と右折したという。「漫然たる習慣」あるいは「規則的なものに馴れきってしま」う、という態度は驚くほど人間を怠惰にする。
「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下巻・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫)
さらに、行政にせよ民間にせよ運転手個人にせよ、ともに「共同世界」にかかわっているという認識がほとんどないように見える。なぜだろうか。
「1 《共同世界》に関係することで、ひとはすでにただちに、周囲世界的な諸関係に入りこんでゆく。ある知人を訪ねることで、ひとはーーーそのためにーーー家の外へ、どこかへ赴く。
2 《周囲世界》に関係することで、ひとはすでにただちに、共同世界的な関連のうちに、積極的・消極的なかたちで入りこんでゆく。通りに出れば、ひとはそこで他者たちに出会い、あるいはだれにも出会わない。後者の場合なら、他者たちもまたーーー欠落というしかたでーーーそこに存在することを、ひとははじめて積極的に経験することになる。
3 《じぶん自身》に関係することでひとはーーー明示的であれ非明示的であれーーー同時に、共同世界と周囲世界にかかわっている。喜んでいる場合ならば、喜ぶとはすなわち、喜ぶことの機縁を与えた、或るものや或る他者について喜ぶことである。怒っているなら、怒るとはつまり、じぶんを怒らせた或るものや或る他者について怒ることなのである。関係することの三つの方向すべてにおいて、ひと《自身》が共にあらわれている。知人を訪ねるさいには、知人にとっての知人として、他者あるいはなにかに怒るときには、それらに『みずから』憤慨しうる者として、通りを歩く場合には、そのためにみずから外出する者として、である。
『共同世界』は、こうして、だんじて純粋にそれだけで出会われるのではない。それはつねに或る構造連関の内部で出会われる。その構造的な分肢は、《他者たちと共に-世界内存在する-自己》なのである。ただし、『自己』がこの構造的定式のもとで意味しているのは、明示的に言いあらわされた《私自身》ではまったくない。~にかかわる暗黙の主体である。私のかかわる《なにに》と《だれに》において、私自身は実存している。この、他者のもとで自己のもとに在ることは、じぶん自身を気づかうことーーーたとえ『神の御前』であろうともーーーとおなじように、本来的なものでも非本来的なものでもありえ、真正なものでも真正ならざるものでもありうるのだ。かかわることの本来的なありかたは、ひとがかかわる《なにに》をもって規定されるものではない。《どのように》それにかかわるかという様式によって規定される」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.127~128」岩波文庫)
BGM