白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

「波」/融合する身体17

2019年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム
バーナードは慌てている。自分たちだけの大切な「環」の消滅が決定的になりそうなので。「いやに早く貪欲な同化の瞬間が過ぎ」去る、と感じる。そして「石が沈められ」、つまらない現実が戻ってくる。とはいえバーナードは、現実社会はつまらないといっているわけではない。つまらない現実とつまらなくない現実とがあるだけだ。そして仲間たちもその両極の《あいだ》を行き来しつつ生きている。或る程度において肯定的であり、なおかつ或る程度において否定的な態度で。それぞれが一つ一つの「揺らぎ」としてしか捉えようのない諸力の運動の一つ一つを演じている。

「『だがすぐ、いやに早くーーーこの利己的な歓喜が消え失せる。いやに早く貪欲な同化の瞬間が過ぎてしまった。幸福を憧れる欲求、幸福、尚それにもまさる幸福を満喫する。石が沈められる。その瞬間が過ぎた。僕のまわりに冷淡な広い余白が拡がる。今僕の眼に好奇に満ちた数千の眼が開く』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.139」角川文庫)

なお、このセンテンス中の「同化の瞬間」=「一体感」と捉えることは誰にでもできるとおもう。サークル、クラブ、趣味の会、講演会、対談、その他、何でも構わない。質的差異が消滅してみんなが一体となった、と《感じる》瞬間。この瞬間を生きるや否や「輪」もまた同時にできあがっている。何も手と手を繋ぎ合わなくてもいい。この種の「環」はたとえ地球の任意の場所に分かれていてもできる。どんな少数であっても二人以上である場合、可能である。ただし「環」は、どんな「環」であっても構わないとは限らない。ファシズムのように危険なものになる場合ももちろんある。さらに「環」は、それが生きられると同時に発生するのであり、それが生きられているあいだに限り存在するのであって、逆にあらかじめ「環」が存在しているわけでは何らない。またバーナードは「余白が拡がる」とおもい、周囲をも含めた「好奇に満ちた数千の眼が開く」に違いなく、それらはバーナードの意志に関係なく勝手気ままなことを何万何千と夢想するに違いないと半ばうんざりしてしまうようだ。ところが、世界という視野で考えれば「数千の眼」はむしろ必要なのだ。それは世界をモル化させてしまわないためにも、他者の眼として、複数性として存在させておかなければならない。たった一つの主観の固定化とその蔓延ほど怖いものもまずないとおもわれるからである。

「《主観を一つだけ》想定する必要はおそらくあるまい。おそらく多数の主観を想定しても同じくさしつかえあるまい。それら諸主観の協調や闘争が私たちの思考や総じて私たちの意識の根底にあるのかもしれない。支配権をにぎっている『諸細胞』の一種の《貴族政治》?もちろん、互いに統治することに馴れていて、命令することをこころえている同類のものの間での貴族政治?」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四九〇・P.34」ちくま学芸文庫)

「《肉体》と生理学とに出発点をとること。なぜか?ーーー私たちは、私たちの主観という統一がいかなる種類のものであるか、つまり、それは一つの共同体の頂点をしめる統治者である(『霊魂』や『生命力』ではなく)ということを、同じく、この統治者が、被統治者に、また、個々のものと同時に全体を可能ならしめる階序や分業の諸条件に依存しているということを、正しく表象することができるからである。生ける統一は不断に生滅するということ、『主観』は永遠的なものではないということに関しても同様である。また、闘争は命令と服従のうちにもあらわれており、権力の限界規定が流動的であることは生に属しているということに関しても同様である。共同体の個々の作業や混乱すらに関して統治者がおちいっている或る《無知》は、統治がおこなわれる諸条件のうちの一つである。要するに、私たちは、《知識の欠如》、大まかな見方、単純化し偽るはたらき、遠近法的なものに対しても、一つの評価を獲得する。しかし最も重要なのは、私たちが、支配者とその被支配者とは《同種のもの》であり、すべて感情し、意欲し、思考すると解するということーーーまた、私たちが肉体のうちに運動をみとめたり推測したりするいたるところで、その運動に属する主体的な、不可視的な生命を推論しくわえることを学んでいるということである。運動は肉眼にみえる一つの象徴的記号であり、それは、何ものかが感情され、意欲され、思考されているということを暗示する。主観が主観に《関して》直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は、危険なことであるが、その危険は、おのれを、《偽って》解釈することがその活動にとって有用であり重要であるかもしれないという点にある。それゆえ私たちは肉体に問いたずねるのであり、鋭くされた感官の証言を拒絶する。言ってみれば、隷属者たち自身が私たちと交わりをむすぶにいたりうるかどうかを、こころみてみるのである」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四九二・P.35~36」ちくま学芸文庫)

と言っている間にバーナードは子どもに戻っている。子どもは子ども時代すでに「玩具を作り、泡を吹き、一つの環が他の環をくぐり抜けていく」生を経験している。もっとも、「一つの環が他の環をくぐり抜けていく」=「自分たちの環がもう一つの自分たちの環をくぐり抜けていく」のを見るのは楽しいことだが、「別の子どもたちの作った環が自分たちの作った環をくぐり抜けていく」のを見るのはあまり気持ちのいいことではないかもしれない。また、そのようなことがあっても何とも思わなかったり特に気にかけない子どももいたりして、実に様々だ。一様に考えないほうがよいのではとおもわれる。そして一つの環は一つの物語を内容として持っているわけだが、その物語の同一性という点では個々人で違いがある。バーナードはそこまで考えて、はたと脱力する。

「『玩具を作り、泡を吹き、一つの環が他の環をくぐり抜けていく。それに時々、物語があるのかないのか疑い始める。僕の物語とはどんなものか。ローダのはなんだ。ネヴィルのはどんな話だ。色々な事実はある。ーーーこれは真実だ。これは事実だ。だがそうしたものの彼方は暗闇で、推量するより仕方がない』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.140~141」角川文庫)

幾つかの決定的言語で環が拘束されている場合、物語の同一性を疑うことはまずないといえる。しかし子どもの場合、言語はその輪郭をはっきりさせていないことが少なくない。そのぶん、自分たちの創作による物語はあいまいなものであるほかない。環の輪郭は不透明だ。しかし不透明でない物語などないのも事実だと認めないわけにはいかない。その意味で大人と子どもとの違いはどこにあるのか、さっぱりわからなくなる事象が起こってくるのは確かだ。しかし背後あるいは暗闇を探すことにはどのような意味があるのだろうか。たとえばメルヴィル。エイハブ船長にとってはそれこそが生の意義をなしていた。同時にそれは、狂人「の」生成変化ではなくて、エイハブの狂気「への」生成変化でもあった。

「いいか、すべて目に見ゆる物とは、ボール紙づくりの仮面にすぎぬ。だが、おのおのの出来事ではーーー生ける行動、疑う余地なき行為においてはじゃーーーかならず、そのでたらめな仮面の背後(うしろ)から、正体は知れぬがしかもちゃんと筋道にかなったものが、その隠された顔の目鼻だちを表面(おもて)に現わしてくるものなのだ。人間、壁をぶちやぶるなら、その仮面の壁をぶちやぶれ!囚人が壁を打ち破らんで外へ出られるか?このおれには、あの白鯨が壁になって、身近に立ちはだかって居(い)おるのだ。そりゃ、その壁の向う側には、何もないと思うこともある。だがそれでも同じじゃ。あいつがおれにはたらきかけ、おれにのしかかってくる」(メルヴィル「白鯨・上・P.273」新潮文庫)

さて、ルイスはおもう。何かの会合でもいいが、「勘定も払ってこれから別れるばかりの時に、みんな違っている」ことは当たり前にあることだ。しかし時にはいつも以上に遥かに大事にしないといけない無言のやりとりがある。

「『勘定も払ってこれから別れるばかりの時に、みんな違っているもんだから、度々、しかもとても鋭く破ける僕たちの血液の中の環が、輪になって集り寄る。何かが造られる。そうだ、いささか神経質に、僕たちが立上ってそわそわしながら、手の中にこんな共通の感情を握りしめてーーーこしらえ上げ、此処で、この明り、この果物の皮、散乱した麺麭屑、通り過ぎる人々のさ中で球になるようなものを、自在扉なんかに粉々にさせるな』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.141」角川文庫)

「球に」するのはバーナードの得意芸だが、このときばかりは仲間たちも一様に真剣だ。ルイスだけでなく次にジニーが述べる。

「『それをちょっとその儘にして置きましょう。愛、憎しみ、私たちがなんと名づけてもいいこの球を。その球の周囲はパーシバル、青春と美、私たちの内部にとても深く沈んでいるのでおそらく二度とこれから先はこんな瞬間など、一人の男の人からとても作れないような何かでできているのだわ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.141」角川文庫)

ではパーシバルとは一体何ものなのか。それがはっきりしないのである。社会的地位や肩書など「波」ではほとんど一切出てこない。確かなのは、パーシバルがバーナードたちより年長でインドに行くことになったということくらいだ。ただ、バーナードたちの言葉をたどるとき、ようやく見えてくることがある。パーシバルはバーナードたちを根拠づける役目を果たしていたということだ。根拠づけるといっても、みんなの下から支えるわけではなく、みんなの上に立ってみんなの上からみんなを根拠づける役割を引き受けていたということだ。そのもとでバーナードたちは自由に泳ぎ廻ることができていた。だからパーシバルの思い出は特別な意義を持つことになる。仲間たちはそれぞれパーシバルという「球」にさまざまなおもいを込める。ルイスとジニーはもう述べた。

ローダ。「この世界の今一つの側にある森林」「遠い国々」「海や叢林」「豹の唸り声」「鷲が舞い上る何処かの高い峯に落ちる月の光」。

ネヴィル。「幸福」「普通の品々の平静さ」「卓」「椅子」「紙切小刀を頁の間に挿んだ書物」「薔薇から散る花びら」「ゆらゆら揺らぐ光」。

スーザン。「月曜、火曜、水曜」「野原を馳せて行く馬」「帰って来る馬」「楡の木に巣をかけている深山鴉」「四月のこと」「十一月のこと」。

最後にバーナード。「来るべきもの」。

ところが次章でパーシバルはすでに死ぬ。バーナードたちは根拠を失う。にもかかわらずバーナードたちは想像の翼を失うことはない。こんがらがったまま話は進行する。というより、もとより話らしきものがないのである、この小説には。ところが小説ではあるのだ。バーナードたちは生きていく。夢と現実との《あいだ》を。しかし差し当たり述べておきたい。人間は、夢と現実との《あいだ》しか生きることができない、ということを。なぜなら人間は現実に対して直接的に接することは不可能にできているからであり、同時に、絶対的な記憶の奥底へ沈み込んでしまうこともまた不可能だからである。問題は身体なのだ。P.321図5参照。

「すなわち、点Sであらわされる感覚-運動メカニズムと、ABに配置される記憶の全体とのあいだにはーーー私たちの心理学的な生における無数の反復の余地があり、そのいずれもが、同一の円錐のA’B’、A”B”などの断面で描きだされる、ということである。私たちがABのうちに拡散する傾向をもつことになるのは、じぶんの感覚的で運動的な状態からはなれてゆき、夢の生を生きるようになる、その程度に応じている。たほう私たちがSに集中する傾向を有するのは、現在のレアリテにより緊密にむすびつけられて、運動性の反応をつうじて感覚性の刺戟に応答する、そのかぎりにおいてのことである。じっさいには正常な自我であれば、この極端な〔ふたつの〕位置のいずれかに固定されることはけっしてない。そうした自我は、両者のあいだを動きながら、中間的な断面があらわす位置をかわるがわる取ってゆくのだ。あるいは、ことばをかえれば、みずからの表象群に対して、ちょうど充分なだけのイマージュと、おなじだけの観念を与えて、それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるようにするのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.321~322」岩波文庫)

二つの極限の《あいだ》をいつもさまよっている「揺らぎ」でしかないのだ、人間という生物は。しかし夢は夢見る人間を変容させる。夢を見ているとき、人間はまるで別ものに《なる》ことがないだろうか。

「今やあらゆるものが縮小されて見えたーーー境界線の彼方に横たわる世界も、またぼくにとって実に恐ろしいほど壮大に見え、しかもはっきりと限界の定まった世界も。そこに茫然と立ちつくすうち、ぼくはふと一つの夢を思い起した。それはこれまで何度もくり返し見たことがあり、今でも時おり見ることがあり、これからも生きているかぎり見つづけたいあと思っている夢だった。それは境界線を越える夢だったのだ。あらゆる夢の例に洩れず、この夢についてもあざやかな現実感、夢を見ているのではなく《現実の世界にいる》という実感が特徴だった。境界線を一歩またげば、ぼくは名も知られずまったく孤独な人間だった。話される言葉まで違っていた。事実ぼくは、いつも他国者、異邦人と見なされた。ぼくには無限の時間があり、通りをいくつもぶらつくことにすっかり満足していた。通りはただ一つしかなかった、と言うべきであろうかーーーぼくの住んでいた通りの延長が一つあるだけだと。やっとぼくは駅構内の上にかかった鉄橋までやってきた。境界線からはほんのわずかな距離なのだが、ここまでくるといつも夜になってしまった。この鉄橋から、ぼくは蜘蛛の巣のような線路や、貨物駅や、炭水車や、貯炭庫などを見おろすのだが、この異様な這いまわる物体の群れを見つめているうち、ある変身作用が起こってくるのを感じるのだーーーまるで夢でも見ているように。この変身と変形とともに、これはこれまで何度も見てきた古い夢だという気がしてくる。今に目がさめてしまうのではないかという怖ろしい不安を覚える。そしてぼくは知っているのだ。やがてまもなく、広大な空間のまっただ中で、ぼくにとって何よりも重大な何かをそなえた家に踏みこもうとする瞬間、目がさめてしまうであろうことを。この家に向かって歩き出そうとすると、ぼくの立っている地面は縁からくずれはじめ、溶けはじめ、消えはじめるのだ。空間は絨緞のようにめくり上がり、ぼくを包みこみ、それとともにぼくの入りこめなかった家をも呑みこんでしまう」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.325~327」講談社文芸文庫)

ちなみに余りにもおぞましい俗世間の出来事、米中貿易摩擦について。どちらも夢ばかり見過ぎだというほかない。この件に関しては巷の何ものでもない人々のほうがずっと賢い。目には目を、関税には関税を、といいたいのだろうが、そのようなことができるのは他の諸外国を犠牲にすることによってでしかない。しかし米中とも自国の防備のためだと信じて疑っていない。しかしこの種の防備は逆に攻撃への欲望と理由を与える。モンテーニュはとっくの昔にいっている。

「防御は攻撃者に攻撃への欲望と理由を与える。あらゆる防備は戦争の相貌をおびる。ーーーわが家は戦争の疲れを休める隠れ家である。私は、自分の心中にある一隅を守るのと同じように、国家の嵐からこの一隅を守ろうとつとめる。わが国の戦争がどんなに形を変え、どんなに新しい党派に分かれて増えてゆこうが、私自身は動かない」(モンテーニュ「エセー4・P.31」岩波文庫)

BGM