白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

地銀の七割減益

2019年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム
地方銀行が苦境に置かれているらしい。本業である金貸が成り立たなくなってきた。アベノミクスの失敗、といえばそれまでのことだ。しかし問題はこのような失敗を繰り返さないためにはどうしたらよいのかという建設的議論でなければならない。ところがそれは財界・金融業界で考えることだ。ここで取り上げる種の問題ではない。

さて、アベノミクス華やかなりし頃、こんな言葉が流行していた。覚えているだろうか。「リストカット」。少し振り返っておきたい。

「リストカットした自分の、まだ血に染まった切り傷をインターネットで公開する少女が現れた。このケースは極端だとしても、リストカットをした少女たちは、その傷痕を恥じらいもなく人前に曝す。リスカはけっして秘められるべき自傷行為ではないのだ。しかし、誰に対して、何を求めて人前に公開するのか。この問いは逆に、こころの傷はなぜ『秘められねばならなかったか』という問いにまで導く。

世俗的・現実的・鏡像的な他者たちが身に着けていたはずの『規範』も揺るぎはじめた。若者は、かつて『青年期』という世代区分があったころ、この時期を通して他者たちとは対極の自らの『内面』を形成すべく要請された。それが今日、その機会を奪われてしまった。他者たちの対極に自分たちを位置づけるのではなく、他者たちと同列に自分を置こうとする。それが適わないとき、自分たちをそれら他者たちからの『被虐待者』『被いじめ者』とみなすようになる。自分たちが直面するのは、『内面を形成する<何か>』ではなく世俗的・現実的・鏡像的な他者たちであり、その<何か>を形成しえない彼らは他者たちを鏡に映る自分とするしかない。しかし鏡に映る他者たちが激しく変転する仮面でしかない以上、自分も万華鏡のように変転をつづけるほかない。いくら自分を探しても、本当の<他者>が見いだせないように、自分も探し当てることなどできない。

超俗的・超越的・象徴的な<他者>を形成する『言葉』がその力を失いつつあるとき、他者を鏡とする視覚的自己像に依拠するしかない。視覚は言葉とは異なり変転きわまりない。世俗的・現実的・鏡像的な他者を越える<何か>が欠落しているからだ。<何か>を軸にして語ることができなくなっている。そのような軸(象徴、規範、言葉)がなくなっている。『青年期』固有の内面を形成するための『葛藤』はもはやない。

彼らは『身体で叫ぶ』しかない」(松本雅彦「日本の精神医学 この五〇年・P.190~191」みすず書房)

松本雅彦のいう「彼らは『身体で叫ぶ』しかない」という部分はなかなかインパクトがある。ところでこの「『身体で叫ぶ』しかない」状態というのは一体どのような状態をいうのか。それはまず何より「絶望的」な状態である。いつもの話になってしまうがいつものことなので同様になるのは仕方がないことでもある。キルケゴールはいう。

「それから強情が現われてくるが、これは本来永遠者の力による絶望である、換言すれば人間が絶望的に自己自身であろうとして自己のうちなる永遠者を絶望的に濫用するのである。強情が永遠者の力による絶望であるというちょうどそのために、彼は或る意味では非常に真理の近くにある、ーーーだが彼が真理の側に非常に近くあるというちょうどそのために、彼は無限に真理から遠く隔たっている」(キルケゴール「死に至る病・P.111」岩波文庫)

「永遠者」は資本主義では資本主義システムの掟そのものを指す。そして「絶望者」は「売れない商品」のことを指す。売れない商品とは貨幣と交換されない売れ残された諸商品のことだ。いつまで経っても貨幣との交換関係に入ることができないで、絶望的に商品のまま、商品のパッケージ(商品の身体)を店頭に晒したまま自己実現(貨幣との交換)を果たそうとしつづける諸商品の無限の系列。諸商品は「身体で叫ぶ」しかない。銀行や証券会社の金融商品も同じことだ。各種の金融商品は「買って下さい」と絶望的になりながら「身体」で叫ぶしか方法がない。金融商品はそもそも投入された労働力が諸商品として実現される(剰余価値を含めて再貨幣化される)ことを前提として、そこから生まれる利子の発生を前提として販売されているからだ。テレビ報道は以前からしつこく追求されてきた食品ロス問題にようやく焦点を当てたが、そうすることで、同時に金融機関が抱える莫大な商品ロスを覆い隠した。しかし幾ら隠蔽しようとしても貨幣と交換されない以上、金融商品を含むそれら諸商品は遂に絶望あるいは失意のうちに廃棄処分されるほかない。金融商品の場合、そのロスは開発費用を含めてどれくらいに上るのか。テレビ報道はそれについては沈黙したままだ。地銀の破産は止むなしと見切ったのだろうか。なので差し当たり次のイメージを参照。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)

大量生産されて溢れ出ている諸商品の無限の系列。貨幣と交換されて自己実現されるということは商品の価値(剰余価値含む)が実現されるということである。そうして始めて商品は利子を生んで資本の手元に還ってくることができる。貨幣と交換されない限り、資本から見離され、資本も商品交換可能性から見離される。それはしかし資本主義の基礎だ。その基礎が、資本主義の「いろは」が、上手く機能しなくなってきた。だからどれほどマスコミ(特にテレビ)が大声を張り上げて或る種の商品を宣伝してみても、買い手が付くかどうかはより一層偶然に任されるようになってきてしまう。ネット社会は諸商品の無限の繋がりを可視化して出現させることに成功した。消費者はテレビ映像だけに囚われることなく、もっと開かれた市場へ自由に買い物に出かけることが簡単にできるようになった。しかし地銀は苦悩している。それは理由がわからない問題ではない。人間が勝利したわけではなく、人間の開発したテクノロジーが勝利したわけであって、人間は人間の開発したテクノロジーに敗北したというだけのことに過ぎない。とりわけ「ヒット商品」が生まれにくくなってきた。だから、もともとの地道な商売に戻らなければならない人々が徐々に増えてきたのも不思議ではないのだ。とはいえ、もともとの地道な商売ならもっと昔にインターネット市場に取り込まれてしまっている。残されたのは商品ばかりではない。これまで商品を売ってきた商売人の側が逆に「絶望者」の側へ叩き込まれつつある。ふつうの商売人あるいは労働者に戻った人々はどれほど労働力を支出して大量の商品を生産したとしても、それら諸商品が貨幣と交換されない以上、支出された労働力は実現されない。「むだ」になる。

「売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行為としては、二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝(るつぼ)に投げこまれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.202」国民文庫)

さらに松本雅彦は今上げた文章の中でこうも述べている。

「鏡に映る他者たちが激しく変転する仮面でしかない以上、自分も万華鏡のように変転をつづけるほかない」

ラカンが述べていた鏡像段階論を思い出そう。人間はこの世に生まれてくるや否や外部を鏡として、鏡の側から自分の身体像を受け取る、という事情だ。自分で自分自身があるとか、自分があるとか、自分を取り戻すとか、自分の言葉でとか、様々な言い方をする場合はある。けれどもそれは、幼少期に鏡に映る他者の身体像を自分のものとして受け取ったその延長として、かつては鏡の映像だった自分を、今度は鏡としての言語として受け取り、受け取った言語を自分自身の内容として自分の内部を埋めていくという作業の結果である。鏡像としての他者をモデルとして受け取るほか自分自身を形成する手段はもはやない。にもかかわらず、「鏡に映る他者たち」は「激しく変転する仮面でしかない」。ゆえに「自分も万華鏡のように変転をつづけるほかない」。

進学や転職の際に時として「自己喪失」が起こるのは、この「自分も万華鏡のように変転をつづけるほかない」社会を生きるしかないからだ。アイデンティティと思っていたものは何らアイデンティティではなく、仮の鏡像を自分自身で獲得した自己同一性だと思い込んでいただけのことで、余りにも楽天的で幸せな幻想的勘違いでしかなかったということを嫌というほど思い知らさせることになる。資本主義はオリジナルの消滅を達成した。同時に人間はシミュラクル(見せかけ)とシミュレーション(複製)が支配する社会の中に叩き込まれる。

また「自分も万華鏡のように変転をつづけるほかない」という事情は、人間の認識システムと関係している。人間は事物をそのまま直接的に認識することはできない。人間が持ち得る認識方法はベルクソンの鋭い洞察を通していえば「映画的」認識である。

「すべての人物に固有なすべての運動から、非人称的、抽象的で単純な運動、いわば《運動一般》を抽出してそれを映写機の中に置く。そして各々の特殊な運動の個別性を、この匿名の運動を人称的な態度と組み合わせることによって再構成するのである。以上が、映画のやり口であり、われわれの認識のやり口でもある。諸事物の内的な生成に貼りつく代わりに、われわれは諸事物の外に身を置いて、それらの生成を人工的に再構成する。われわれは、過ぎゆく持続のほぼ瞬間的な眺めを獲得するのだが、それらの眺めはこの実在を特徴づけるものなので、われわれは、認識の装置の底に位置する、抽象的で単調な眼に見えないある生成に沿ってそれらの眺めを繋いでやれば、この生成そのものの特徴的な点を模倣することになるだろう。知覚、知性による理解、言語は、一般にこのように進行する。生成を考えるにせよ、表現するにせよ、もしくはそれを知覚する場合でさえ、われわれは、ある種の内的な映画の装置を作動させること以外ほとんど何もしていない。それゆえ次のように言って以上を要約しよう。《われわれの通常の認識のメカニズムの本性は、映画的である》」(ベルクソン「創造的進化・P.387~388」ちくま学芸文庫)

さらに「万華鏡のよう」な「変転」しかできないのはなぜか。

「われわれの行為は各々、われわれの意志を実在について何らかの仕方で挿入しようとしている。われわれの身体と他の諸物体の間には、万華鏡の模様を描き出すガラスの破片の配置に譬えられるような配置がある。われわれの行動性は、ある配置から再配置へと進んで、おそらく毎回万華鏡に新しい揺れを刻み込んでいるが、この揺れには興味がなく、新しい模様しか見ていない。それゆえ、われわれの行動性が自然の操作について持つ知識は、それが自分の操作に向ける興味と、正確に対称的なものとなるはずである。この種の比喩を濫用することにならないなら、この意味で、《われわれの諸事物についての認識の映画的な性格は、われわれの諸事物への適応の万華鏡的な性格に起因している》、と言えるだろう」(ベルクソン「創造的進化・P.388~389」ちくま学芸文庫)

さらに今後急速に追い打ちをかけてきそうな気配がある。「ホモ・デウス」の出現である。さらなるテクノロジーの進化によって開発されるであろう「ホモ・デウス」は「ホモ・サピエンス」(今の人間)を奴隷化する。まだしばらく時間がかかるようではあるが、その日はいつか訪れるほかない。そしてまた「ホモ・デウス」は自分で自分自身を常にアップデートしていくようにできている。「ホモ・デウス」同士で熾烈な競争を展開する。「ホモ・デウス」同士でいわば「内ゲバ」する。

松本正彦はいう。「世俗的・現実的・鏡像的な他者たちが身に着けていたはずの『規範』も揺るぎはじめた」。では「規範」を再度創設すればよいのか。事態はそれほど単純ではないようにおもう。いったん揺るぎはじめた「規範」を再構築することは、資本主義では無理だからだ。というよりむしろ資本主義はその当の「規範」を解体することによって成立したからである。このことは日本の場合、天皇制のあり方に顕著に見ることができる。戦前の帝国主義的資本主義はとにかく膨大な犠牲の上に成り立っており、その犠牲が目の当たりに見えてもいるため、天皇制自体に向けて反対闘争を組織することが可能だった。その意味では自分は何ものかあるいは何ものでもないかが非常にわかりやすかったといえる。ところが戦後民主主義の中に取り込まれた天皇制はもっとわかりにくい制度へ変質した。資本主義の特徴の一つとして均質化作用がある。事実、戦後の天皇制は週刊誌天皇制へ、写真集天皇制へ、ワイドショー天皇制へ、スキャンダル天皇制へとだんだん一般大衆へ近づいてきた。そのうちイギリス王室のような形態へ移っていくかもしれない。イギリスの場合、権威はあるものの政治的権力とは切り離されたワイドショー王室として、その内部の人間らのプライバシーすらお茶の間の格好の世間話として機能するまでになった。ダイアナの死亡事故は今なお時代の転換点に位置するものだ。かつては大英帝国の栄光を光り輝やかせる王室であったとしても、資本主義は資本主義の持つ絶対的均質化作用を推し進める。どこまでも社会の一般化・平板化・記号化・薄っぺらな断片化を暴力的に貫く装置として機能することで、ダイアナ死亡事故は、資本主義の本当の実力を世界的規模で暴露するに十分なインパクトを持ちつづけている。ニーチェのいうように事態は推移したのだ。日本でもごくふつうの大学生が秋篠宮佳子のことを指して「佳子萌え〜」などとちゃらちゃら言っているが、その「佳子萌え~」というたった一言が、いずれは英国王室化していくほかない資本主義の中の天皇制の将来の姿をいみじくも暗示するものとして多くの人々の目に映ったことだろう。

解体した「規範」は「言語の力」をも溶解させる。かつての精神科医療は、患者と医師との間で両者が言葉を慎重に選びつつ粘り強く対話を継続させていくことで、相当難儀な段階に達していた患者であっても、病院の近くという条件付きではあれ、自活できるほど回復することも可能にはなってきていた。それはもちろん七十年代から八十年代後半にかけて新しく設けられた開放病棟の創設という新しい試みが効果を発揮することが実証的に証明された時期に相当している。だが今やその言語が解体されつつある。精神医療の中心的役割を果たしてきた言語の役割。それが溶け去っていこうとしている。社会的文法の解体。金融・銀行の世界の言葉に置き換えていえば、貨幣信用の解体・溶融が進行しているということができるだろう。

とはいえ、かつての規律を徹底させて天皇制を中心に据え直そうとしても無駄な相談なのだ。むしろフランスのブルジョア革命がそうであったように、絶対的中心の存在は資本を富ませるための道具としてほんのいっときに限り利用することはできても、そのほんのいっときを過ぎれば、あくまでも自己目的を貫徹しようとする資本主義にとってはかえって障害物になるのである。だからフランスのブルジョア革命の指導者らは指導したにもかかわらず、役目を終えれば今度は順々に処刑されていった。ゆえにヨーロッパの絶対王政はどこの国家でも滅びるべくして滅びた。それは労働者が団結して闘争したからというよりも、むしろ労働者の団結を可能にしたのもまた資本主義の発展だったという事実に重点を置いてみる必要があるだろう。

さて今後の見通しだが、マルクスがこんなことをいっている。

「労働者たち自身の協同組合工場は、古い形態のなかでではあるが、古い形態の最初の突破である。といっても、もちろん、それはどこでもその現実の組織では既存の制度のあらゆる欠陥を再生産しているし、また再生産せざるをえないのではあるが。しかし、資本と労働との対立はこの協同組合工場のなかでは廃止されている。たとえ、はじめは、ただ、労働者たちが組合としては自分たち自身の資本家だという形、すなわち生産手段を自分たち自身の労働の価値増殖のための手段として用いるという形によってでしかないとはいえ。このような工場が示しているのは、物質的生産とそれに対応する社会的生産形態とのある発展段階では、どのように自然的に一つの生産様式から新たな生産様式が発展し形成されてくるかということである。資本主義的生産様式から生まれる工場制度がなければ協同組合工場は発展できなかったであろうし、また同じ生産様式から生まれる信用制度がなくてもやはり発展できなかったであろう。信用制度は、資本主義的個人企業がだんだん資本主義的株式会社に転化して行くための主要な基礎をなしているのであるが、それはまた、多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだん拡張されて行くための手段をも提供するのである。資本主義的株式企業も、協同組合工場と同じに、資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいのであって、ただ、一方では対立が消極的に、他方では積極的に廃止されているだけである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十七章・P.227~228」国民文庫)

そこまでは十分にいえる。しかしマルクスは現実的な理論の持ち主でもある。だからここまでは述べていても、これ以上に論旨を手前勝手に延長させて共産主義の将来は薔薇色であるなどといったたわけたことは一言たりともいってはいない。ユートピア思想にはむしろ懐疑的であった。だからこそエンゲルスとともにこう言ったのだ。

「共産主義というのは、僕らにとって、創出されるべき一つの《状態》、それに則って現実が正されるべき一つの《理想》ではない。僕らが共産主義と呼ぶのは、<実践的な>現在の状態を止揚する《現実的な》運動だ。<僕らは単に次のことを記述するだけにしなければならない>この運動の諸条件は<眼前の現実そのものに従って判定されるべき>今日現存する前提から生じる」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.71(岩波文庫)

さて、官僚の民間化と民間の官僚化という問題については何度か述べてきた。久しぶりにおさらいしておこう。ドゥルーズ&ガタリはカフカ作品を参照しつつこう述べている。

「カフカが、官僚政治に関して最高の理論家たりえたのは、あるレベルでは(だが、この位置決定できないレベルはどこにあるのか?)役所同士をへだてる障壁が『明確な境界』であることをやめて分子の環境に浸されるのはどうしてなのか、さらに分子の環境が障壁を溶解させると同時に責任者を増殖させ、認知も同定もできず、見分けることも、中央集権化することもできないミクロの形態に変えてしまうのはどうしてなのか、明らかにしたからだ。硬質な切片の分離《および》統合と共存するもう一つの体制」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.108」河出文庫)

相当する部分を引用しておこう。

「『確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。官房がお城の一部だとしても、バルナバスが出入りを許されている部屋がそうでしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵(さく)がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、べつに禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者(ちんちゅうしゃ)でしかないとしたら、なんの役にたつのでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむこうにはバルナバスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申しあげました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑念は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。バルナバスは、お役人と話をし、使いの用件を言いつかってきます。でも、それは、どういうお役人でしょうか、どういう用件でしょうか。彼は、目下のところ、自分でも言っているように、クラムのもとに配置され、クラムから個人的に指令を受けてきます。ところで、これは、たいへんなことなのですよ。高級従僕でさえも、そこまではさせてもらえないでしょう。ほとんど身にあまる重責と言ってよいくらいです。ところが、それが心配の種なのです。考えてもごらんなさい。直接クラムのところに配属されていて、彼とじかに口をきくことができるーーーでも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか』」(カフカ「城・P.291~292」新潮文庫)

カフカは古典だ。しかし今の人々は高齢者も含めてなぜか古典を読もうとしているようには見えない。むしろ、たまに書店を覗いてみると、見るからにいかがわしい「スピリチュアル」とか「自己啓発」に類する謎の書物に救いを求めている様子を目にして驚く。ちなみに、そういう「スピリチュアル」とか「自己啓発」に類する謎の書物に救いを求めていたのは、かつて「第三世界」と呼ばれていた国家の救われない低所得者層が主であって、現代のテクノロジーの輸入ならびに開発とともにそのような書物には見向きもしなくなってきた。ところが逆に日本は「スピリチュアル」とか「自己啓発」に類する謎の書物に《再び》あるいは《性懲りもなく》救いを求め始めている。そしてその中の一部には天皇の輪郭に関して象徴としての意義をもっとはっきりしたものとして見出そうとする書物すら堂々と売り飛ばされている。ところが資本主義はそのような一部の特権化を許さない世界的制度として全世界を支配してしまっている。むしろ絶対的中心を許さないためのその代理としての《象徴》を配置する。右翼が怒らないのが不思議でならないほどだ。しかし中心とはいってもその中心はいつも空虚である。そうでなければフランスの絶対王政のように資本にとって商品流通を阻害する因子として作動する恐れがあるからだ。その意味では日本の天皇もまた、資本主義とそれを巧みに操る政界・財界・官界のもとに管理され操作される、スキャンダラスな象徴と化したといえそうだ。

さらにいえば、同日朝日新聞夕刊に「GDP」に関する記事が載っていた。けれども、そもそもGDPとはなんなのか。GDPと経済とはどのような関係にあるのか。GDPが経済の中で占めている割合とは本来なんのことを言っているのか。もし仮に何かを示しているということは本当であるにしても、それと経済とはそもそも関係があるのか。要するに経済とは何なのか。それすらはっきりとはわからないまま日本は経済という謎についてもう何十年も疑うということなしに語り放題に語ってきたのではなかったか。マスコミの罪は果てしなく重い。

BGM