白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

NHK「朝ドラ」はなぜ視聴率No.1なのか

2019年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム
神奈川県川崎市で理由のはっきりしない連続殺傷事件が発生した。それでもNHK「朝ドラ」を見た視聴者が多いのはなぜだろう。もし連続殺傷事件が発生していなかったとしたらどうだろう。それでもNHK「朝ドラ」を見た視聴者数にほとんど多寡はなかったと想定される。「朝ドラ」が高視聴率を維持する決定的特徴を一つ上げておこう。それは主人公が旧秩序から脱出する冒険的物語であるからではない。ビルディングズ・ロマン(成長物語)だからでもない。そうではなく、主人公が旧秩序の問題点にぶつかるたびに旧秩序の問題点をあげつらっていきながら、結局のところ、結末では《旧秩序へ〔華々しく〕復帰》するかそうでない場合は時代の変遷と同時に出現する《新秩序へ〔華々しく〕参入》するかのいずれかという《権威への迎合的態度》が、多くの視聴者の目には《迎合的態度》に映って見えないようにできているからである。いつも核心を突きそうで実は突かない。或る意味、これほど悪質な連続ドラマもそうないのではといえる。もっとも、社会問題を追求しているわけではないエンターテイメントなのだという言い方はできる。ところが、社会問題を追求しているわけではないエンターテイメントのはずが、その絶大な影響力によって目下発生中の種々の社会問題を覆い隠してしまうことになるとき、それは立派な社会問題となる。この種のドラマの役割は設定された時代に実在した社会的な問題にも時折触れながら、さらにはその言動が問題の核心をえぐり出すこともあるかのように見せかけておきながら、実は問題の核心を視聴者の目からそらしてしまうことで視聴者を安心させ、視聴者の鑑識眼を社会的な問題の核心からますます遠ざけてしまい、より一層日本人総白痴化を推進する効果を持つ。

バルトはかつて「波止場」という映画をこう分析した。映画が視聴者を《瞞着》することに成功した事例である。

「カザンの映画『波止場』は瞞着のよい例である。周知のように、無頓着でやや粗暴な美男の波止場人足(マーロン・ブランド)が問題であり、愛と教会(スペルマン風のショッキングな神父の形で与えられる)のおかげで良心に目覚めるのである。この目覚めが、いんちきで不当な組合の排除と時を同じくし、波止場人足を彼等の搾取者の何人かに抵抗させるように思えるので、ある人々は、勇気のある映画、アメリカの観衆に労働者の問題を示そうとする《左の》映画を見ているのではなかろうかと、考えた。

実際は、もう一度また、わたしが他のアメリカ映画の話の時にその全く現代的なメカニズムを指摘した真実へのワクチンが問題となっているのだ。大雇用者の搾取機能をギャングの小グループに転化させ、そして、ちょっとしたぶざまな膿胞として固定された、この告白された小さな悪によって、現実の悪に背を向け、それを名指すのを避け、それを悪魔ばらいするのだ。

だが、カザンのこの映画の瞞着的な働きを前後の筋なしにでも確認するには、この映画の《人物達》を客観的に描写するだけで足りる。プロレタリアはここでは無気力な人間のグループによって構成され、屈従の下に背をかがめ、屈従をはっきり知っているがそれをくつがえす勇気がない。《国家》(資本主義的な)は絶対的な《正義》と混同され、それは犯罪と搾取に対する唯一の可能な救いである。労働者が国家、その警察そしてその調査委員会に到達すれば、彼は救われるのだ。教会についていえば、“どうだ見たか”式の現代主義の外見のもとに、それは、労働者の根本的な悲惨と親方=国家の父権との間の仲介的勢力以上の何物でもない。それに結末では、正義と良心のこのちょっとした瘙痒症は極めてすみやかに鎮まり、慈悲深い秩序の大きな安定性において解決し、そこでは労働者は働き、雇主は腕をこまねき、そして聖職者はそのどちらをもその適正な職能において祝福するのだ。

それに、丁度多くの人がカザンは狡猾にも彼の進歩主義を示そうとしているのだと信じたその瞬間に、この映画を裏切るのは結末それ自体である。最後の場面で、ブランドが、超人的努力によって、彼を待っている雇主の前に、良心的な良き労働者として出頭するに至るのが見られる。ところでこの雇主は見るからに戯画化されている。そこで人々はいったのだーーーカザンがいかに巧みに資本家達を笑い物にしているか見なさい。

ブレヒトによって提示された瞞着の解明の方法を適用し、映画の初めからもうわれわれが主人公に与えている同意の結果を調べるべきなのはまさにここであり、さもなければもう機会がない。ブランドがわれわれにとって肯定的なヒーローであり、その欠点にもかかわらず、群衆全体が、あの、参加の現象(これなくしては一般に見世物を見ることは可能でない)に従って、その心を託しているのは明らかである。良心と勇気を再発見したことによって更に偉大になったこのヒーローが、傷ついて、力つきそうになりながらも粘り強く、彼に仕事を返してくれるであろう雇主の方へ向って行く時、われわれの共感はもはや限度を知らず、われわれは反省なしにこの新しいキリストと同化し、その十字架行きに留保なしに参加する。さてブランドの苦難に満ちた昇天は実際、永遠の雇主階級の受身な承認に導く。すべての戯画にもかかわらず、全力を挙げてわれわれに示されるものは、《秩序への復帰》だ。ブランドと共に、波止場人足達と共に、アメリカの全労働者と共に、勝利と安堵の感情をもって、雇主階級の手中に身を委ね、もはやその腐った外観を描くのは何の役にも立たない。久しい以前から、われわれはこの波止場人足の運命との連帯の中に捉えられ塗りこめられてい、そしてこの波止場人足は、社会的正義の感覚を、アメリカ資本への賛辞と寄与をなすためにしか見出さないのだ。

わかることは、このシーンを客観的に瞞着の挿話にするのは、その《参加的》性質であることだ。最初からブランドを愛するようにしむけられ、われわれはいかなる時も彼を批判し、彼の客観的愚行に意識を持つことがもはやできない」(バルト「神話作用・P.55~57」現代思潮社)

「朝ドラ」の基本的パターンもまたそうだ。視聴者は始めから主人公(「波止場」ではマーロン・ブランド)に感情移入することをお約束として考えて何ら疑っていない。NHKも番宣の時点から主人公の性格や人格や生き方を「波乱万丈」というステレオタイプの用語にしたがって紹介しておく。そして番組が始まるや否やもう視聴者は「朝ドラ」の連載から離れられなくなるのだ。そして「雇主(資本家)は見るからに戯画化されている。そこで人々はいったのだーーーカザンがいかに巧みに資本家達を笑い物にしているか見なさい」などという、資本家自身の耳に入ってもまったく痛くも痒くもない俗世間のマスコミ評論だけが許されるのである。さらにこの種の「雇主(資本家)は見るからに戯画化されている。そこで人々はいったのだーーーカザンがいかに巧みに資本家達を笑い物にしているか見なさい」というマスコミの御用学者的評論は資本家を少しでも批判するどころか逆に労働者の側の感情にとってむしろ害毒を撒き散らす。実在の資本家の側からすればまったく痛くも痒くもない評論でしかないにもかかわらず、資本家もちゃんと批判されているではないかという大義名分が得られるからだ。「《告白》された多少の悪は、かくされた多くの悪を認めることを免除する」(バルト「神話作用・P.43」現代思潮社)。

それにしても最終的に「朝ドラ」が馬鹿馬鹿しいほど高い視聴率を叩き出している理由はどこにあるのだろうか。視聴者の《参加的》性質である。視聴者は主人公がどれほど核心をはずしたばかりか社会的瞞着にすら手を染めているにもかかわらず、それでも視聴者の頭の中から瞞着が瞞着に感じられなくなっているのは、視聴者が主人公に感情移入することで視聴者は主人公の「分身」として瞞着のドラマに積極的に《参加》=《加担》してしまっているからにほかならない。そしてこの事情は相互乗り入れし合う。視聴者の積極的な《参加》=《加担》によって今度は逆に主人公のほうが視聴者の「分身」として欺瞞的仮面を演じることになるのだ。

「波止場」の場合、バルトはいっている。「ブランドと共に、波止場人足達と共に、アメリカの全労働者と共に、勝利と安堵の感情をもって、雇主階級の手中に身を委ね、もはやその腐った外観を描くのは何の役にも立たない。久しい以前から、われわれはこの波止場人足の運命との連帯の中に捉えられ塗りこめられてい、そしてこの波止場人足は、社会的正義の感覚を、アメリカ資本への賛辞と寄与をなすためにしか見出さない」と。

そのような「お馬鹿」な視聴者にならないための方法として有効な心得はないのか。実はある。とっくの昔からある。夏目漱石の文章がそうだ。

「社会は人間の塊(かた)まりである。その人間を区別すれば色々出来る。貴とも賤(せん)ともなる。賢とも不肖ともなる。正とも邪ともなる。男とも女ともなる。貧とも富ともなる。老とも若、長と幼ともなる。その他色々に区別が出来る。区別が出来る以上は、区別された一のものが他を視(み)る態度は、一のうちにある甲が、同じく一のうちにある乙を視る態度とは異ならなければならぬ。人生観というと堅苦しく聞える。何だか恐ろしくて近寄りにくい。しかし煎(せん)じつめればこの態度である。隣りの法律家が余を視る立脚地は、余が隣りの法律家を視る立脚地とは自(おのず)から違う。大袈裟(おおげさ)な言葉でいうと彼此(ひし)の人生観が、ある点において一様でない。というに過ぎん。

人事に関する文章はこの視察の表現である。従って人事に関する文章の差異はこの視察の差異に帰着する。この視察の差異は視察の立場によって岐(わか)れてくる。するとこの立場が文章の差異を生ずる源になる。今の世にいう写生作家というものの文章は如何(いか)なる事をかいても皆共有の点を有して、他人のそれとは截然(せつぜん)と区別の出来るような特色を帯びている。するとこれらの団体はその特色の共有なる点において、同じ立場に根拠地を構えているというてよろしい。もう一遍大袈裟な言葉を借用すると、同じ人生観を有して同じ穴から隣りの御嬢さんや、向うの御爺さんを覗(のぞ)いているに相違ない。この穴を紹介するのが余の責任である。否この穴から浮世を覗けばどんなに見えるかという事を説明するのが余の義務である。

写生文家の人事に対する態度は貴人が賤者(せんじゃ)を視(み)るの態度ではない。賢者が愚者を見るの態度でもない。君子(くんし)が小人(しょうじん)を視るの態度でもない。男が女を視、女が男を視るの態度でもない。つまり大人が子供を視るの態度である。両親が児童に対するの態度である。世人はそう思うておるまい。写生文家自身もそう思うておるまい。しかし解剖すれば遂にここに帰着してしまう。

子供はよく泣くものである。子供の泣く度に泣く親は気違(きちがい)である。親と子供とは立場が違う。同じ平面に立って、同じ程度の感情に支配される以上は子供が泣く度に親も泣かねばならぬ。普通の小説家はこれである。彼らは隣り近所の人間を自己と同程度のものと見做(みな)して、擦(す)ったもんだの社会にわれ自身も擦ったり揉(も)んだりして、あくまで、その社会の一員であるという態度で筆を執る。従って隣りの御嬢さんが泣く事をかく時は、当人自身も泣いている。自分が泣きながら、泣く人の事を叙述するのとわれは泣かずして、泣く人を覗いているのとは記叙の題目その物は同じでもその精神は大変違う。写生文家は泣かずして他の泣くを叙するものである。

そんな不人情な立場に立って人を動かす事が出来るかと聞くものがある。動かさんでもいいのである。隣りの御嬢さんも泣き、写す文章家も泣くから、読者も泣かねばならん仕儀(しぎ)となる。泣かなければ失敗の作となる。しかし筆者自身がぽろぽろ涙を落して書かぬ以上は御嬢さんが、どれほど泣かれても、読者がどれほど泣かれなくても失敗にはならん。子供が駄菓子(だがし)を買いに出る。途中で犬に吠(ほ)えられる。ワーと泣いて帰る。御母(おっか)さんが一所になってワーと泣かぬ以上は、傍人(ぼうじん)が泣かんでも出来損(できそこな)いの御母さんとはいわれぬ。御母さんは駄菓子を犬に取られる度に泣き得るような平面に立って社会に生息していられるものではない。写生文家は思う。普通の小説家は泣かんでもの事を泣いている。世の中に泣くべき事がどれほどあると思う。隣りの御嬢さんが泣くのを拝見するのは面白い。これを記述するのも面白い。しかし同じように泣くのは御免蒙(ごめんこうむ)りたい。だからある男が泣く様を文章にかいた時にたとい読者が泣いてくれんでも失敗したとは思わない。むやみに泣かせるなどは幼稚だと思う。

それでは人間に同情がない作物を称して写生文家というように思われる。しかしそう思うのは誤謬(ごびゅう)である。親は小児に対して無慈悲ではない、冷刻(れいこく)でもない。無論同情がある。同情があるけれども駄菓子を落した子供と共に大声を揚げて泣くような同情は持たぬのである。写生文家の人間に対する同情は叙述されたる人間と共に頑是(がんぜ)なく煩悶(はんもん)し、無体(むてい)に号泣し、直角に跳躍(ちょうやく)し、一散に狂奔(きょうほん)する底(てい)の同情ではない。傍(はた)から見て気の毒の念に堪(た)えぬ裏に微笑を包む同情である。冷刻ではない。世間と共にわめかないばかりである。

従って写生文家の描く所は多く深刻なものではない。否(いな)如何に深刻な事をかいてもこの態度で押して行くから、ちょっと見ると底まで行かぬような心持ちがするのである。しかのみならずこの態度で世間人情の交渉を視(み)るから大抵の場合には滑稽(こっけい)の分子を含んだ表現となって文章の上にあらわれて来る。

人によると写生文家のかいたものを見て世を馬鹿にしているという。茶化しているという。もし両親の子供に対する態度が子供を馬鹿にしている、茶化しているといい得(う)べくんば写生文家もまたこの非難を免かれぬかも知れぬ。多少の道化(どうけ)たるうちに一点の温情を認め得ぬものは親の心を知らぬもので、また写生文家を解し得ぬものであろう。この故に写生文家は地団太(じだんだ)を踏む熱烈な調子を避ける。かかる狂的な人間を写すのを避けるのではない。写生文家自身までが写さるる狂的な人間と同一になるを避けるのである。避けるのではない。そこまで引き込まるる事が可笑(おか)しくて出来(でき)にくいのである。そこで写生文家なるものは真面目に人世を観じておらぬかの感が起る。なるほどそうかも知れぬ。しかし一方から見れば作者自身が恋に全精神を奪われ、金に全精神を捧げ、名に全精神を注いで、そうして恋と金と、名を求めつつある人物を描くよりも比較的に真面目かも知れぬ。描き出(い)ださるべき一人に同情して理否も、前後も弁(わきま)えぬほどの熱情を以て文をやる男よりも慥(たし)かな所があるかも知れぬ。

わが精神を篇中の人物に一図(いちず)に打ち込んで、その人物になり済まして、恋を描き愛を描き、もしくは他の情緒を描くのは熱烈なものが出来るかも知れぬが、如何にも余裕がない作が現れるに相違ない。写生文家のかいたものには何となく《ゆとり》がある。逼(せま)っておらん。屈託気(くったくげ)が少ない。従って読んで暢(の)び暢びした気がする。全く写生文家の態度が人事を写し行く際に全精神を奪われてしまわぬからである。写生文家は自己の精神の幾分を裂いて人事を視る。余す所は常に遊んでいる。遊んでいる所がある以上は、写すわれと、写さるる彼との間に一致する所と同時に離れている局部があるという意味になる。全部がぴたりと一致せぬ以上は写さるる彼になり切って、彼を写す訳には行かぬ。依然として彼我(ひが)の境を有して、我の見地から彼を描かなければならぬ。これにおいて写生文家の描写は多くの場合において客観的である。大人は小児を理解する。しかし全然小児に成り済ます訳にも行かぬ。小児の喜怒哀楽を写す場合には勢(いきおい)客観的でなければならぬ。ここに客観的というは《我》を写すにあらず《彼》を写すという態度を意味するのである。この気合で押して行く以上は如何に複雑に進むとも如何に精緻(せいち)に赴(おもむ)くともまた如何に解剖的に説き入るとも調子は依然として同じ事である。

余は最初より大人と小児の譬喩(たとえ)を用いて写生文家の立場を説明した。しかしこれは単に彼らの態度を尤(もっと)もよくいいあらわすための言語である。決して彼らの人生観の高下を示すものではない。大人だから《えらい》。《えらい》見方をして人事に対するのが写生文家だという意義に解釈されては余の本旨に背(そむ)く。《えらい、えらくない》は問題外である。ただ彼らの態度がこうだというまでに過ぎぬ。

この故に写生文家は自己の心的行動を叙する際にもやはり同一の筆法を用いる。彼らも喧嘩をするだろう。煩悶するだろう。泣くだろう。その平生を見れば毫(ごう)も凡衆と異なる所なく振舞っているかも知れぬ。しかし一度(ひとたび)筆を執って喧嘩するわれ、煩悶するわれ、泣くわれ、を描く時はやはり大人が小児を視る如き立場から筆を下す。平生の小児を、作家の大人が叙述する。写生文家の筆に依怙(えこ)の沙汰(さた)はない。紙を展(の)べて思を構うるときは自然とそういう気合になる。この気合が彼らの人生観である。少なくとも文章を作る上においての人生観である。人生観が自然と出来ているのだから、自己が意識せざるうちに筆は既に着々としてその方向へ進んで行く。

彼らは何事をも写すを憚(はば)からぬ。ただ拘泥(こうでい)せざるを特色とする、人事百端、遭逢纏綿(そうほうてんめん)の限りなき波瀾(はらん)は悉(ことごと)く喜怒哀楽の種で、その喜怒哀楽は必竟(ひっきょう)するに拘泥するに足らぬものであるというような筆致が彼らの人生に齎(もたら)し来(きた)る福音(ふくいん)である。彼らのかいたものには筋のないものが多い。進水式をかく。すると進水式の雑然たる光景を雑然と叙(の)べて知らぬ顔をしている。飛鳥山の花見をかく。踊(おど)ったり、跳(は)ねたり、酣酔狼藉(かんすいろうぜき)の体(てい)を写して頭も尾もつけぬ。それで好いつもりである。普通の小説の読者からいえば物足らない。しまりがない。漠然として捕捉すべき筋が貫いておらん。しかし彼らからいうとこうである。筋とは何だ。世の中は筋のないものだ。筋のないもののうちに筋を立てて見たって始まらないじゃないか。どんな複雑な趣向で、どんな纏(まとま)った道行(みちゆき)を作ろうとも畢竟は、雑然たる進水式、紛然たる御花見と異なる所はないじゃないか。喜怒哀楽が材料となるにもかかわらず拘泥するに足らぬ以上は小説の筋、芝居の筋のようなものも、また拘泥するに足らん訳だ。筋がなければ文章にならんというのは窮屈に世の中を見過ぎた話しである。ーーー今の写生文家がここまで極端な説を有しているかいないかは余といえども保証せぬ。しかし事実上彼らはパノラマ的のものをかいて平気でいる所を以て見ると公然と無筋を標榜せぬまでも冥々(めいめい)のうちにこういう約束を遵奉(じゅんぽう)していると見ても差支(さしつかえ)なかろう。写生文家もこう極端になると全然小説家の主張と相容(あいい)れなくなる。小説において筋は第一要件である。文章に苦心するよりも背景に苦心するよりも趣向に苦心するのが小説家の当然の義務である。従って巧妙な趣向は傑作たる上に大なる影響を与えうるものと、誰(だれ)も考えている。ところが写生文家はそんな事を主眼としない。のみならず極端に行くと力(つと)めて筋を抜いてまでその態度を明かにしようとする。

作家は身辺の状況と天下の形勢に応じて時々その立場を変えなければならん。評家もまた眼界を広くして必要の場合には作物に対するごとにその見地を改めねば活(い)きた批評は出来まい」(夏目漱石「写生文」『漱石文芸論集・P.165~173』岩波文庫)

さらにベルクソンはいう。

「われわれがある対象に割り当てるはっきりとした輪郭は、その対象に個別性を与えているが、それらの輪郭は、われわれが空間のある点で及ぼしうるある種の《影響》の素描でしかない。つまりそれらは、われわれが起こすことになるかもしれない行動の計画である」(ベルクソン「創造的進化・P.30~31」ちくま学芸文庫)

応用してみよう。視聴者が「朝ドラ」(のドラマ的輪郭)を把握したとしよう。把握したがゆえに、把握しなかった場合に提起されていたであろう可能的潜在的選択肢が無数になおかつ一挙に素描されるのであってその逆ではない。可能的潜在的選択肢の急浮上によってドラマの中の理由のわからない場面やせりふを再び問い直すことができるようになる。とともにまた、視聴者が「朝ドラ」(のドラマ的輪郭)を上手く把握できなかったとしよう。把握できなかったがゆえに、把握し得ていた場合に提起されていたであろう可能的潜在的選択肢が無数になおかつ一挙に素描されるのであってその逆ではない。この場合もまた逆の方向から、ドラマの中の理由のわからない場面やせりふを再び問い直すことができるようになる。

「朝ドラ」は大変多くの評論家によってあれこれ評論されてきた。評論はあってよいとおもう。だが、どう見ても勘違いにおもわれるものも中には当然含まれる。たとえば一世を風靡した「おしん」について。困難に立ち向かい頑張れば頑張っただけの成果が得られるというだけの話なのだが、その「おしん」が絶頂的人気を博していた当時、日本経済はすでに「頑張れば頑張っただけの成果が得られる」かどうかわからない判然としない不確定性の時期に突入していた。それゆえにむしろ視聴者は「頑張れば頑張っただけの成果が得られる」という賃金の確実性を保障し将来性の不安を覆い隠してくれる「おしん」に夢中になったというのが真相ではないだろうか。「おしん」は一九八三年〜一九八四年にかけて放送されているが、それ以前の一九八〇年すでに一般市民は田中康夫「なんとなく、クリスタル」に付された日本の「出生率・少子化率」を目にしてしまっている。さらに一九八三年には浅田彰「構造と力」が発表され、現実の日本ならびに世界はそれどころではまったくないのだということが白日のもとにさらされることになった頃でもあった。また実際、「おしん」発表時に日本に生まれた子どもたちは今どうしているだろうか。「頑張れば頑張っただけの成果が得られる」などと一体どこの世界のSFかとさえ口にしない。ニーチェが危惧した「ニヒリスト」として日本社会を亡霊のように徘徊している。「ロスジェネ」世代として日本の未来の最大の問題のうちの一つとして大きくクローズアップされているのではないだろうか。

ところで昨今の「朝ドラ」の問題は、それがまごうかたない瞞着のドラマの連続ドラマ性であるということが一つ。二つめは、それにもかかわらず視聴者の側から毎度毎度余りにも熱量の高い視聴率を与えられているために、より一層激しい瞞着性を発揮して止まない点にあるといえるだろう。いわば今の「朝ドラ」は世間を瞞着しつづけることで実際に存在する社会的諸問題(少子高齢化、賃金格差、パワハラ、セクハラ、DV、幼児虐待など)からだんだん目をそらす方向へと作用している事実だ。熱心な視聴者の多くは今の四十代以上だとおもわれる。そして今の四十代以上の多くは将来の日本の姿を見ようとしていないか見ることを避けたがっているところがしばしば見られる。そういう人々の意向を探りつつ同時にその意向に沿って世論を支配する「朝ドラ」をこのまま制作していくとすればどうなるか。少なくとも三十年前すでにこの種のドラマあるいは映像の持つ宗教的政治的誘導性はソフトなマインド・コントロールとして社会問題化していた。その研究を率先して取り上げたのは八十年代後半の大学の一部である。というのは当時の大学構内は「統一教会=原理研究会」の人員獲得のための「狩場」と化してしたからだが。

BGM