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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

「波」/融合する身体15

2019年05月10日 | 日記・エッセイ・コラム
仲間たちがそれぞれに「目的を持っている」という意味では、ローダは目的を持っていない。単純に思索型である。しかし思索し抜く「力」としてのローダには仲間たちの誰もおよばない。ローダは仲間たちが「臭跡を追う犬の眼」を持っていると考える。ところがローダは追うべき「臭跡」を持たず、追うべき「たった一人の人もいはしない」。世間一般に「目的を持っている」人々は目的へ向かうために「臭跡」を追う。そのような人々にとって「臭跡」は「記号」なのだ。プルーストの回想がマドレーヌの匂いを知覚するや否やいきなり開始されたように。さらにその匂いはマドレーヌに特有の匂いであろうがなかろうが、まず「匂い」の次元で知覚されている。そのことは「匂い」そのものが、それがマドレーヌであるにせよないにせよ、「記号」として作用する次元を構成することを意味している。資本主義の中では「匂い」として作用する種々の機械があるということだ。ところが、プルースト作品の唯一性はどこから生じているのかといえば、ただ単なる「匂い」だけではなく、「マドレーヌの匂い」だけでもなく、ほかでもない個人的な「語り手が感じたマドレーヌの匂い」という唯一無二性において、その限りで生じた唯一の記号のもとに、である。さてしかし、ローダは追うべき「臭跡」も「たった一人の人も」持たない。さらにローダには「顔もない」。

「『あなたたちの日日や時間時間は、臭跡を追う犬の眼に映る、森の樹枝や、滑めらかな緑の馬道のように過ぎていくのだもの。でも私が従いていくただ一つの臭跡も、たった一人の人もいはしない。それに私は顔もないんだわ。私は海浜を走るうたかた。此処のこの錫の罐の上に、ここの鎧を着たそよごの穂状花に、或いは骨片に、或いは半ば蝕ったボートに、まるで矢のように降りかかる月光に似ているわ。洞窟を舞い下り、果しない通廊にひらひらする紙片のよう』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.127」角川文庫)

ローダはおもう。「私は顔もないんだわ」。実はそのぶん自由なのだが。もっとも、自由には様々な意味があり各々それぞれに違った考え方がある。ローダが手に入れている自由はローダ自身には感知しようのない自由だ。したがってローダは自分がすでに得ている自由に気づかない。この事情は第三者にしかわからないタイプの構造を持っている。ところが第三者の目にはそれが自由とは映らないで狂気に見えるという錯覚においてしかわからない自由でもある。

ローダは自分には「顔」がないと諦めのうちにおもう。諦めのうちではあるけれども、改めて輪郭のはっきりした「顔」を手に入れたいとも考えていない。ところでしかし人間は、誰か、自分で自分自身の素顔がどのようなものなのか本当に知っているだろうか。少なくともローダは自分には「顔」がないこと、したがって「仮面」を付け換えて生きていくほかないことを知っている。

自分には「顔」がないと認識したローダはまず、「私」は「海浜を走るうたかた」だとおもう。ついで「月光」に、「紙片」に《なる》。「うたかた」として「海浜を走る」わけは一つ一つの波あるいは震動としてのローダだからだ。「月光」としては大変忙しい。「錫の罐の上」を、「鎧を着たそよごの穂状花」を、「骨片」を、「半ば蝕ったボート」を、「降りかかる矢」として、それら対象を照らす側の線として瞬時に変容していかなくてはならないからだが、このように空間が多岐に渡る場合は一挙に「分裂」して出現するという手法がある。さらに「紙片」としては「ひらひら」していなくてはならないし、自然な描写にしたがって「洞窟を舞い下り」ていきはするが、その「洞窟」は「果しない通廊」のように底知れないかもしれない。このように一つ一つの波あるいは震動としてのローダはどの様態にあっても中途半端ではいられないという宿命的な「顔」のなさのうちに多種多様な仮面を自由自在に操ることができなければ務まらない。そういう自由でもある。

ローダは何かに「なりたい」と考えるわけではない。何か「寄り所がほしい」とおもう。自立心旺盛なジニーやスーザンとはそこが決定的に違っている。

「『何より寄り所がほしいのだから、ジニーやスーザンの後について二階に行く時には、何かしっかりした目的を持っている風をするわ。靴下を穿く時には二人が穿くのを見ているの。お話したくて貴女たちを待ってるの。それから貴女たちのようにお話するわ。ロンドンを横ぎって、このところ、この場所へ曳かれて来ているのよ。あなたや、あなたや、あなたに逢うためじゃなく、専らに、同じもののように、気苦労なく生きていける、あなた方の全体の炎に私の火を燃やしたいからだわ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.127~128」角川文庫)

というように、「気苦労なく」というのは余りにも余計なお世話なのだが、とはいえ、仲間たちと逢うのはただ単に「逢う」ことを目的としているわけではない。そうではなく、「あなた方の全体の炎に私の火を燃や」すことで、仲間たちと「同じもののように」あるいは「同じもの」に《なる》ことを、仲間たちだけのあいだでの全体的一体性を、夢見ている。仲間たちとともに燃えることで一つの炎として一体化するという夢。あるいは危険な夢でもある。生気論として捉えるとすれば。しかし炎ではなく氷だとすればどうだろうか。それはそれで余りにも寒々しく貧しいばかりの死の夢だ。ローダがいいたがっているのは、控えめで見栄えもぱっとしない自分だけれども、ローダ自身の生を自分で生身で感じたいということであって、それは何も全体主義的一体感などというファシズム感覚を実現したいといっているわけではない。ローダは誰に教わったわけでもなく自分で自分自身の採寸を終えてしまっている。波のモチーフに即していえば、生きているうちは海底に埋もれ切ってしまうわけではなく、むしろ海から湧き上がってくる一つ一つの波あるいは震動として、一つ一つのローダの行為もまた一つ一つの出来事として一定の強度を持つものであってほしいと願うばかりなのだ。しかし「寄り所」への「依存」がなければこの全体性は成立しない。その意味ではジニーやスーザンとてローダより以上では何らなくむしろ同様の存在価値を有している。この協働は次のような形態において成り立つ。

「生産物交換は、いろいろな家族や種族や共同体が接触する地点で発生する。なぜならば、文化の初期には独立者として相対するのは個人ではなくて家族や種族などだからである。共同体が違えば、それらが自然環境のなかに見いだす生産手段や生活手段も違っている。したがって、それらの共同体の生産様式や生活様式や生産物も違っている。この自然発生的な相違こそは、いろいろな共同体が接触するときに相互の生産物の交換を呼び起こし、したがって、このような生産物がだんだん商品に転化することを呼び起こすのである。交換は、生産部面の相違をつくりだすのではなく、違った諸生産部面を関連させて、それらを一つの社会的総生産の多かれ少なかれ互いに依存し合う諸部門にするのである」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十二章・P.215~216」国民文庫)

言語を存在の根拠に置くバーナード。その言語がかえってバーナードを縛り付ける。もし言語の縛りがなかったとしたらバーナードは今頃世間でいう何ものかになっていたかもしれないと自負するが、実際に言語の縛りの外部へ出て孤独であったとしたら、言語外の存在になってしまう。それはバーナードだといえるだろうか。そのような孤独に耐えることはできないという。言語の網に捕らえられている限りでバーナードは「無」ではないと確信することができる。

「『言葉がつづくものだと知らないで産れてきていたらーーー僕はおそらく何かであったかもしれん。本当のところは、どこでも連続を見出すものだから僕は孤独の重圧には耐えることができないのだ。煙の球のように僕の廻りをめぐり渦巻く言葉を見ることができなくなれば、僕は暗中模索だーーー無だ。独りでいると倦怠に陥り、炉の柵越しに燃屑をつっ突きながら、ミセス・モファットがやってくると陰気に独り言をいう。彼女が来てそれをすっかり掃除する』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.129」角川文庫)

そんなバーナードはまた独り言を洩らす。何か言語化していないと落ち着かない。しかし独り言は他人に聞かれてしまっては独り言にならない。あくまで〔この場合はヨーロッパの伝統に則り〕、自分で自分の言うことを聞く、ということでなくてはならない。ところが、またまたそこに「ミセス・モファットがやってくる」。前にもあった通り、今度もまたバーナードが捨てた独り言をミセス・モファットが「すっかり掃除」してしまう。それにしても、独り言を掃除するとはどういうことだろうか。真面目に相手をするわけなのか。カウンセラーのように。上手くまとめて気分も話題も空気も入れ換えてしまうということなのだろうか。それともただ単に無視するのだろうか。それでは打ち捨てられた独り言は行き場を失って残されてしまう。ミセス・モファットの行為はそうではなくて掃除するのである。隅から隅までほじくり出すようにぴかぴかに掃除するのだろうか。そこまではやらないだろう。とすれば適当にあしらうという程度のことなのか。

ところで、先ほどローダは、仲間たちの「激烈」で「別々」な主観性によって「粉々にひき裂」かれてしまうと恐れていた。だがバーナードはローダが自分たちを恐れる気持ちなどとっくの昔に気づいている。

「『ローダが僕たちを恐れているのは僕たちが、孤独なときには特に激しい彼女の存在感を打砕くからだーーー彼女の、あのフォークの握り様を見るがいいーーー僕たちに対する彼女の武器だ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.129」角川文庫)

ローダはローダ自身にはわからない「激しい存在感」があり、そのため逆にバーナードたちはローダの存在感を恐怖として感じ取り、「打砕」いてしまわずにはいられなくなる、という構造を取っている。ローダがバーナードたちの前で見せる「輪郭」の「存在感」。それがバーナードたちに可能的あるいは潜在的な言動の選択肢を与えている。

「それらの対象は、だから私の身体に対して、鏡がそうするように、生じうる身体の影響を送りかえしてくるのだ。対象群は、じぶんの身体の有する〔影響を与える〕力が増減するのにしたがって秩序づけられる。《私の身体を取りまく対称群は、それらの対象に対する私の身体の可能な行動を反射するのである》」(ベルクソン「物質と記憶・P.41」岩波文庫)

「知覚とは、私たちの理解するところでは、事物に対するみずからの可能な行動を計るものであり、逆にじぶんに対して事物がおよぼすことの可能な作用を測るものにほかならない」(ベルクソン「物質と記憶・P.111」岩波文庫)

「私たちの感覚が知覚に対して有する関係は、だから、じぶんの身体の現実的行動がその可能的あるいは潜在的行動に対して有している関係とひとしい。私の身体の潜在的行動は、それ以外の諸対象にかかわり、それらの対象群にあって素描されている。その現実的な行動はじぶんの身体そのものに関係し、したがって身体のうちで描きだされているのである。すべてはかくして結局のところ、あたかも現実的行動ならびに潜在的行動が、その適用される点に、あるいはその原点へと真に回帰することをつうじて、外的イマージュが、私たちの身体によってそれを取りかこむ空間中に反射され、現実的行動はこの身体をつうじてその身体の実質の内部に留保されるかのように生起することだろう。またこのゆえにこそ、身体の表面ーーーこれが内部と外部とに共通する境界であるーーーは、知覚されると同時に感受される〔身体という〕延長のただひとつの部位なのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.112~113」岩波文庫)

「われわれがある対象に割り当てるはっきりとした輪郭は、その対象に個別性を与えているが、それらの輪郭は、われわれが空間のある点で及ぼしうるある種の《影響》の素描でしかない。つまりそれらは、われわれが起こすことになるかもしれない行動の計画である」(ベルクソン「創造的進化・P.30~31」ちくま学芸文庫)

「諸物体の眼に見える輪郭とは、それらに対するわれわれの可能的な行動の素描なのである」(ベルクソン「創造的進化・P.131」ちくま学芸文庫)

「われわれの知覚は、事物そのものの素描よりも、その事物に対するわれわれの可能的な行動の素描を与える。われわれが対象に見つける輪郭が示しているのは単に、その対象のうちで到達できるもの、変化させることができるものでしかない」(ベルクソン「創造的進化・P.240」ちくま学芸文庫)

だから、事物の「輪郭」が鮮明であればあるほど、「可能的あるいは潜在的」な行動の「素描」もまた鮮明化させることができる。事物の「輪郭」がより一層はっきりしていればしているほど、「可能的あるいは潜在的」な行動の「スケッチ」をより一層鮮明に描くことへ近づくことができ、またより一層具体的なものにすることができる。たとえば、東日本大震災のときの原発事故がそうだ。事故発生時の原発の状態についての輪郭がより一層鮮明に知覚〔把握〕されていたとしよう。とすれば、原発が事故を起こしたがゆえ、事故を起こさなかった場合の可能的あるいは潜在的世界について、その素描を一挙に下描きすることができる。逆に、原発が事故を起こさなかったがゆえ、事故を起こした場合の可能的あるいは潜在的世界について、その素描を一挙に下描きすることができる。また同時にこのことは日本にあるすべての原発についても当てはまる。事故を起こす起こさないにかかわらず。というのは、原発の構造の輪郭についてよく知られているがゆえ、知られていない場合の可能的あるいは潜在的世界について、その素描を一挙に下描きすることができるし、逆に、原発の構造の輪郭についてよく知られていないがゆえ、知られている場合の可能的あるいは潜在的世界について、その素描を一挙に下描きすることができる。さらに今の日本国民は、常に複数の原発に囲まれて生きているといえる生活環境に置かれている。そうすると次のように考えておく必要もあるだろう。

「私たちの周囲に位置している対象は、私たちに対しさまざまな程度にあって、じぶんが事物に対して遂行しうる作用か、あるいはその事物からこうむることになるはずの作用をあらわしている」(ベルクソン「物質と記憶・P.286」岩波文庫)

戻ろう。バーナードはおもう。

「『だが僕は、鉛職工が、或いは馬商人が、それとも誰であってもかまわないが、僕を燃え上がらせるようなことを言ってくれる時だけにしか存在の意識がないのだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.129」角川文庫)

言語でできているバーナードは言語化とともに人生を歩んでいる人間である。さらに少しわがままでもある。自分を「燃え上がらせるようなことを言ってくれ」ないと「存在の意識がない」とおもう。「僕を燃え上がらせるようなことを言ってくれる時だけにしか」生きているという実感が湧かないのだ。自意識を満足させてくれる言葉で構成されていない以上、バーナードはいつも不在であり不在を生きているというほかない。バーナードは自己実在化のための言語を欲望する。そうでなければバーナードは存在しないも同然、というわけだ。そんなふうにバーナードを実在たらしめる力のある言語であっても、言語であれば何でもよいとは考えていない。

「『だがこの言葉の俗悪な様をよく見ろーーーどんな遁辞や古めかしい虚言で捏ね上げられているか。だから僕の性格は或る部分は他の人々が備えている刺激物でできている。この性格は僕のものではない。君たちの性格が君たちのものであるようにはだ。何か宿命的な脈理、うねりくねった、不規則な銀脈があって、性格を弱めているのだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.130」角川文庫)

与えられる言葉次第で、自分を生成させる言葉としてあっさり受け入れるかそれとも反発とともに受け止めるかによって、バーナード自身の性格形成が左右される。バーナードの身体は一方の極端な言葉の安易な受け入れからも、もう一方の極端な言葉に対する反発からも、両者の間に位置する様々な言葉からも、生成されているといえる。生成は変化もする。「宿命的な脈理、うねりくねった、不規則な銀脈」というのは、バーナードが受け取るに当たって個人的にあまり心地よくおもわれない言語なのだが、とはいえ、このような場合、言語そのものというよりは、言語がそのもとで使用される文法とその文脈とに応じて感じ取った居心地わるさであるだろう。この居心地わるさは居心地わるさとして反発したそのまま反発とともに記憶される。しかしこのような人間はより一層言語に対して敏感となり、言語に対する免疫を獲得して「弱さ」を「強さ」に変えていくケースが少なくない。だからといって、何も「強」ければ「強」いほどよいという意味ではまったくない。そしてその結果は次のようになり、同時に原因としても働く。

「各個人の各感情は他の個人の感情と、ちょうど一方の人間の本質が他方の人間の本質と異なるだけ異なっている」(スピノザ「エチカ・第三部・定理五七・P.231」岩波文庫)

BGM