次のセンテンスはやや難解かもしれない。バーナードはいう。
「『そのお前は、今夜僕のしゃべっていることでは、ほんの皮相的に、僕は自分を示しているに過ぎないということを知っている。僕が自分の本質と最も相違していれば、その節、その時には、又僕は総合されて全体にまとめられる』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.75」角川文庫)
バーナードは自分自身の「しゃべっていることでは、ほんの皮相的に、僕は自分を示しているに過ぎない」ということを認識している。というのは、バーナードは言語化の習得において他の仲間たちを圧倒していることと関係がある。バーナードが「皮相的に、僕は自分を示しているに過ぎない」というのは、バーナード自身を表象するためには言語を用いるほかないということを意味している。にもかかわらず、言語化されたバーナードでしかないのならそれは何ら「自分の本質」ではないと感じる。バーナードは生きて動くバーナードだからだ。しかし生きて動くバーナードを周囲が認識し承認するためにバーナードは周囲からの認識ならびに承認に当たって先に言語化されていなくてはならない。差し当たり名を与えられていなければならない。ともすればただちに欲望の種々の流れの中へ溶け込んで消滅してしまう身体というものを目に見えるものとして維持し支えているのは社会的文法なのでありまた言語化された身体としてのバーナードでなくては存在するものとしてすら認識されないという多少なりとも込み入った事情がある。言語化された身体は言語化されている限りにおいてのみ、バーナードという名とともにバーナードとしての身体を受け取ることができる。したがって欲望する諸機械の一つの波あるいは波動として始めてバーナードは周囲の目に見え動きもする身体となることができる。ヘーゲルは精神に対して言語を外在的なものとして退けようと試みているが、その試みを追求すればするほど、逆に言語の介入なしには、したがって言語なしにはあらゆる事物を捉えることができないというパラドックスに陥ってしまう。
「《記憶》としての知性は、表象一般としての知性が最初の直接的直観に対して行なう内化作用(想起作用)の諸活動と同じ諸活動を、《言葉の》直観に対して行なう。ーーー(1)あの結合(直観とそれの意味との結合)が記号なのであるが、知性はこの結合を自分のものとしながら、この内化(想起)によって《個別的な》結合を《一般的な》結合すなわち持続的な結合に高める。そしてこの一般的持続的な結合においては名前と意味とが知性に対して客観的に結合されている。知性はまたさしあたり名前である直観を《表象》にする。その結果、内容すなわち意味と記号とが同一化され、《一つの》表象になる。そして表象作用はそれの内面性において具体的であり、内容は表象作用の現存在として存在する。ーーーこれが名前を《保持する》記憶である。ーーー《名前》はこうして、《表象界》において現存し、そして効力をもっているような《事象》である。(2)《再生産的》記憶は、直観や心像なしに、名前のなかで《事象》をもち且つ認識し、また事象と共に名前をもち且つ認識する。内容が知性のなかでもっている《現実存在》としての名前は、知性のなかにある知性自身の《外面態》である。そして、知性によって作り出された直観としての名前を《内化(想起)する》とういことは、同時に《疎外する》ということであって、知性はこの疎外において自己自身の内部に自己を措定するのである。もろもろの特殊な名前の連合(連想)は、感覚する知性・表象する知性・または思惟する知性がもっているもろもろの規定の意味のなかに含まれており、知性は感覚するもの等々として自己内でこれら幾系列もの規定を経過して行くのである。ーーーライオンという名前の場合には、われわれはそのような動物の直観を必要とせず、また心像をさえ必要としない。そうではなくて、われわれが名前を《理解する》ということによって、名前は心像を欠いた単純な表象である。われわれが《思惟する》のは名前においてである」(ヘーゲル「精神哲学・下・P.144~146」岩波文庫)
「もろもろの名前の連関が意味のなかに横たわっている限り、意味と名前としての存在との結合はなお総合であり、知性は自分のこの外面態のなかで単純に自己自身に復帰していない。しかし知性は一般者であり、自分のもろもろの特殊な疎外の単純な真実態である。そして知性が自分のもろもろの特殊な疎外を完全に自己のものにするということは、意味と名前とのあの区別を廃棄することである。表象作用が行なうこの最高の内化(想起)は知性の最高の疎外であって、知性はこの疎外において自己を《存在》として措定し、名前そのものの・すなわち無意味な言葉の一致的空間として措定する。この抽象的存在であるところの自我は、主観性として同時に、種々なる名前を支配している威力であり、幾系列もの種々なる名前を自己のなかで確固としたものにし、確固とした秩序のなかで保持するところの空虚な《きずな》である。種々なる名前が単に《存在するもの》であるにすぎず、そして知性がここでは自己内でそれ自身自己のこの存在である限り、知性は《全く抽象的な主観性》としてのこの威力である。記憶においては、種々なる名前の諸系列における諸分肢は相互に全く外面的に対抗し合っており、そしてまた記憶自身もたとい主観的外面性ではあってもとにかく外面性である。《記憶》はこのために《機械的》と名づけられる」(ヘーゲル「精神哲学・下・P.149」岩波文庫)
ヘーゲルのいうように「意味」の中には「もろもろの名前の連関が意味のなかに横たわっている」のであり、「総合」とは、「意味と名前としての存在との結合」なのだ。そしてそうでしかあり得ない。そのようにしてバーナードは「総合されて全体にまとめられる」という過程を踏んでいかなければ「総合」すらできないただ単なる浮動性でしかない。しかしバーナードが意志する「全体」は全人類の融合という夢をも同時に目指しているものでもある。それは作者ウルフの思想でもあり、晩年のウルフが反戦運動に乗り出すことになる原点となった人類の普遍的共存という夢をも語るものだ。
ところで、バーナードは蟇にも《なる》。動物への生成変化だが、さらにこの蟇は開けっ放しの「がま口」のような蟇だ。それは「何でも来るものを受け容れる」。身体全体が受容体として機能する蟇だ。バーナードの思考は一見乱脈に見えるが、その実、意外と精緻であり、バーナードから見ればリセットは「野兎を追っかける」ことでリセット自身が「野兎」に《なる》ことを瞬時に見分け捕捉する。
「『僕は又蟇のように穴の中に坐って、全く冷淡に、何でも来るものを受け容れる。ーーーリセットは、御存じのように、野兎を追っかけるのを無上に喜んでいる』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.75」角川文庫)
言語化は必然的に分節化を伴う。だがバーナードの望みはあくまでも「文章から文章になっていく熔岩の流れ」だ。もっとも、分節化と同時になされる無限数の不連続な映像の映画的メカニズムによる再構成こそ認識の可能性とその限界を同時に示すものだ。ところがバーナードはそうではなく、欲望の一つの流れを流れそのものとして捉えることで「文章から文章になっていく熔岩の流れ」を把握したいと願う。
「『僕が必要なのは、速度、熱い、とけた効果、文章から文章になっていく熔岩の流れだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.76」角川文庫)
ベルクソンにいわせれば、そのような各瞬間の不連続でばらばらな系列と、生命したがって欲望の一つの流れとは「対立しながら」も「補い合っている」。
「諸々の語、行、節を横切って一つの単純なインスピレーションが走っており、それが詩の全体である。同じように、切り離された個体の間を、生命がなおも流れている。至る所で、個体化しようとする傾向は、結合しようとする傾向によって抵抗されると同時に完成される。これらの傾向は対立しながら補い合っている」(ベルクソン「創造的進化・P.329」ちくま学芸文庫)
一方でこうもいえる。
「私たちが知覚する行為においてとらえるものは、知覚自身を超えでている或るものであるが、そのさい、にもかかわらず物質的宇宙は、私たちが手にするその宇宙の表象とはことなるとか、本質的に区別されるといったことはない。ある意味で私の知覚は、たしかにじぶんの内部にある。知覚は私の持続のただ一瞬のうちに、それ自体としては数えきれないほどの数の瞬間に分散してゆくことがらを凝縮するものであるからだ。とはいえ、私の意識が抹消されたとしても、物質的宇宙は、それが在ったがままに存続してゆく。ただし、私たちはそのばあい持続の特殊なリズムを捨象しており、そのリズムは私が事物にはたらきかけるさいの条件であったのだから、それらの事物はみずから自身へ立ちかえって、科学が区別するだけの瞬間へと切りわけられてゆくことになる。そこで感覚的質は、消失することはないにしても、比較を絶して遥かに細分化された持続へとひろがって、希薄なものとなってゆく。物資はこのようにして、無数の振動へと解消される。それらの振動のいっさいは中断することのない連続性においてむすびあわされ、すべてはたがいに繋がりあい、あらゆる方向に向かっておなじだけ無数の震えとなって、疾走してゆく」(ベルクソン「物質と記憶・P.408~409」岩波文庫)
しかしその同じことを、非連続性としてではなく連続性〔運動〕として捉えるとすれば、次のように述べることができる。
「要するに、あなたの日常的な経験にぞくする非連続的な対象をたがいにむすびつけ、ついでそれらの対象の質が有する不動な連続性を、それが占める場にあって振動へと分解してみよう。この運動のみに注目し、そのさいこの運動の背後にひろがる分割可能な空間をはなれて、その運動性だけを、すなわち、あなたの意識がじぶんじしん遂行する当の運動にあってとらえる、その分割されていない行為のみを考え、それ以上のなにものも考えないようにしてみればよい。そのばあい物質にかんして獲得されるのは一箇のヴィジョンである。そのヴィジョンは、おそらくあなたの想像力にとって厄介なものかもしれないが、しかし純粋なものである。そのヴィジョンから払拭されているのは、生の要求にもとづいてあなたが、外的知覚のただなかで物質に付けくわえたものなのである。ーーーこんどは私の意識を回復し、それとともに生の要求を回復してみよう。そのときには、遥かにとおい間隔をおいて、事物の内的歴史にぞくする莫大な時期のおのおのをそのつど飛びこえながら、ほとんど瞬間的なものといってよい眺望がとらえられてくる。その眺望はこのたびは彩色されて、そのいっそう際だった色彩のなかで凝縮されているのは、要素的なものが無限に反復され、また変化しているさまである。それはたとえば、ひとりの走者が継起的にしめす無数の姿勢が、ただひとつの象徴的な態勢へと縮約されて、それを私たちの目が近くし、芸術が再生して、その態勢がだれにとっても、疾走する人間の映像(イマージュ)となるようなものなのだ。私たちがそのときどきにじぶんの周囲に投げかける視線がとらえるものは、かくして、無数の内的な反復と進化から生まれた結果にほかならない。それらの結果は、まさにそれゆえに非連続的なものであり、だから私たちがその結果から、連続性をふたたび樹立するとすれば、それは、じぶんが空間中の『対象』に帰属させる相対運動をつうじてのことである。変化はいたるところに存在し、しかも深部に存在する。私たちは変化をそこかしこに局在化するけれども、それは表面にあってのことである。かくて私たちは物体を、質については安定していながら、同時にその位置にかんしては動いているものとして構成する。いっぽう場所のたんなる変化であっても、それがみずからのうちに凝縮しているものは、私たちの目からみれば宇宙総体の形態変化なのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.409~410」岩波文庫)
そして言っておかねばならない。どちらも間違ってはいないと。しかしなお、バーナードは可能でもあり不可能でもあるというほかない鋭敏な知覚の獲得について、「僕が必要なのは、速度」、と述べている点に着目しておく価値があるだろう。まさに二十一世紀はとりわけ軍事、医学、情報通信技術、資本の領域において、何より「速度」こそが総体的基準をなしている現実を見なければならないからだ。欲望の一元論として見た場合、「速度」は「速さ」だけでなく「遅さ」をも「速度」として考えられる必要がある。ちなみにニーチェは面白いことをいっている。それが意味することはこうだ。質的差異はなく量的な程度の差異のみが存在する至るところで人間は質的差異を見るようになった。ゆえに人間はそこに「対立」を見ないわけにはいかなくなりますます自分で自分自身を苦悩の極致に陥れると。
「《さまざまな対立を見る習慣》。ーーーふつうの不精確な観察は、対立が存在するのではなくて程度の差があるにすぎない自然の至るところに対立(例えば『温暖と寒冷』といった)を見る。この悪習は更にわれわれを誘いこんで、こんどは内的自然、つまり精神的、道徳的世界をもこうした対立にしたがって理解し、分析させるに至った。こうして、段階的推移のかわりに対立を見ると思いこむことによって、言い知れぬ多くの苦悩、傲慢、苛酷、疎隔、冷却が人間の感情のなかに入りこんできたのである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・六七・P.325」ちくま学芸文庫)
バーナードは周囲を観察する。バーナードは戦後日本では三島由紀夫がそうであったような認識への意志を捨てようとはしない。絶望的な認識機械に《なる》ことを意志する。観察するという行為は、流れの中から恣意的に対象を切り出し、切り離し、それらを「すっかり具象的な形のものに」する行為だ。言語化するということだ。分節化するということだ。社会的文法の支配下に整理整頓することだ。そうして始めて各々の人間はそれぞれ別々の個人としての姿形を現わして目に見えるようになる。その過程を経ない限り、人間の形象というものは人間として見えてくることはない。ところがバーナードの逆説は、バーナード自身を固定させて形象化できないという不合理性にある。バーナードはバーナード自身について「《バーナード》と言えば、誰が来るのか」と不安の極致に自分を置く。しかしこの不安は半ば諦めとともにあるため、怖れとしては感じられない。むしろ諦観にほうにやさしく包み込まれており、その保護のもとでバーナードは足元の不安に必要以上に脅かされずぼんやり意識することだけが可能になる。
「『夕食のあとではドラマティックだった。僕たちの共通の友だちについてそれとなく観察していろいろなことをすっかり具象的な形のものにしてしまった。多くの転換を容易にやってのけた。ーーー自分自身に最後の質問をさせて欲しい、これらの人々の中のどれが俺なのか?この部屋が非常にそれを左右する。自分に《バーナード》と言えば、誰が来るのか。幻滅を感じてはいるが、気を悪くしてはいない、忠実な皮肉な男だ。特別な年齢でも職業でもない男。単に、自分自身なのだ。今、火搔を手にし、燃殻をがらがらさせ、それらを鉄格子を通して夕立のように落そうとしているのは彼なんだ。《やあ》彼は独り言をいって、それが落ちていくのを見つめている』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.78~79」角川文庫)
バーナードはまた「独り言」の名手でもある。「《やあ》彼は独り言をいって、それが落ちていくのを見つめている」けれども、しばしば人間は相手の独り言を独り言と受け取らずに逆に「拾ってしまう」ことがありはしないだろうか。独り言が独り言として「落ちて」消滅することができるのは、独り言が他の誰にも拾われることなく「落ちていく」だけでもなく、「落ちて」しまってもなお誰にも「拾われることがない」ことを条件のうちに含む。単なる独り言といっても、それが成立するには幾つかの条件を必要としている。しかしこのシーンで独り言は拾われることがない。そのまま「埃」になって部屋の床に積もる。ところがこの「埃」を「ミセス・モファット」がやってきて「掃除」してしまうだろうというのである。そこに悲喜劇がある。まるでギャグだ。
ネヴィルは考える。バーナードの考えとはまた違っている。違っていて当然かどうかはその時その時の個人的都合によりけりだが、ここでは明白な違いがある。ネヴィルは言語使用について根本的懐疑を持っている。
「『現在の瞬間を含んでいる世界にあってーーーなぜ差別をつけるのか。何物も名づけられてはならぬ。そんなことをすれば変質してしまう』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.79」角川文庫)
欲望の種々の流れの一つである個別的な波あるいは震動。たとえばバーナードの独り言は波あるいは震動の一つとして発生しているわけだが、ネヴィルの考えでは、たとえ独り言であってもなくても「何物も名づけられてはならぬ」と強くおもう。そうでないと「変質してしまう」と、やや恐れつつしかし断言する。「名」づけるということ。それに伴う流れの「変質」。ネヴィルのいうことはもっともだ。言語化され分節化されるや否やそれは人間の目に見えるものになるのだが、その途端、それらはすべて生き生きとした生の色彩を失うという。言語化されることでかえって失われる豊穣なものへの限りないノスタルジーがネヴィルにはある。そのことをプルーストはこう表現していた。
「私は木々が必死のいきおいでその腕を振りながら遠ざかってゆくのを見た、それはこういっているようだった、ーーーきみがきょう私たちから読みとらなかったことは、いつまでも知らずじまいになるだろう。この道の奥から、努力してきみのところまでのびあがろうとしたのに、そのままここに私たちを振りすてて行くなら、きみにもってきてやったきみ自身の一部分は、永久に虚無に没してしまうだろう、と。いましがた、この場所でまたしても感じた快感と不安、なるほど私はそのような種類の感情を、のちになってふたたび見出したが、そしてある晩、その感情にーーーあまりにもおそく、しかしこんどは永久にーーー私はむすびついたが、それはもっと先の話で、ともかくいまは、それらの木からは、それらが何を私にもたらそうとしたのか、どこでそれらを見たことがあったのか、それを私はどうしても知ることができなかった。そして馬車がわかれ道にはいってから、私はそれらの木に背を向け、それらを見るのをやめた、一方、ヴィルパリジ夫人から、なぜそんなぼんやり夢にふけった顔をしているのかとたずねられた私は、いましがた友人を失ったか、私自身を永久に見すてたかのように、または死んだ誰かに会いながら知らないふりをしたり、ある神の化身をそれと見わけられなかったりした直後のように悲しかった」(プルースト「失われた時を求めて3・P.53」ちくま文庫)
森の木々は必死で語りかけていたのだ。しかしそれが何なのかとうとう読み取ることはできなかった。
ところで、言語による支配を認めざるをえないネヴィル。言葉の濁流に押し流されてひどく鬱陶しくおもう。
「『それは人為的な、上面ばかりのものになる。言葉、言葉、言葉、なんとそれが馳せ廻ることかーーーその長い髭、その長い尾をどんなに振り廻すことか。だが僕にはある欠点があってそれらの背に跨ることができないのだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.80~81」角川文庫)
それを「欠点」と捉えるかどうかは読み手次第で異なってくるだろう。ネヴィルは言葉の濁流に上手く「跨ることができない」。もっとも、「背に跨る」わけだが、この「背」は文脈のことだと考えていいだろう。ごくふつうに生きていこうとおもうなら、この不器用さは致命的になることがある。多くの人間はそれを器用にこなす。ウィトゲンシュタインのいうように。
「わたくしが言語で考えているとき、言語的表現と並んでさらに<意味>がわたくしの念頭に浮かんでいるのではない。言語そのものが思考の乗り物なのである」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・三二九」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.212』大修館書店)
さらにその行為は盲目的である。
「規則に従っているとき、わたくしは選択をしない。わたくしは規則に《盲目的に》従っているのだ」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.171』大修館書店)
同時に人々はこのような事情について何ら疑問を抱くということがない。ほとんどない。
「理想というものは、われわれの考えでは、揺るぎなく固定している。きみはそれから抜け出すことができず、常にそれへ立ち戻っていなければならぬ。外側などないのだ。外側には生のいぶきが欠除している。ーーーこうした考えはどこから来たのか。この理念は、いわばメガネのようにわれわれの鼻の上に居すわっていて、われわれの見つめるものは、みなそれを通して見えるのである。われわれは、それを取りはずすという考えに思い至らない」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・一〇三」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.96』大修館書店)
このような疑問を持ったウィトゲンシュタインは研究者の間で変人扱いされることになった。ウィトゲンシュタインはケンブリッジ大学の中でしか生きていくことができない人間だと。今でいうアスペルガー症候群を患っていたのではとされている。カルテが存在しないため確定することはできないが。「哲学探求」の中では「哲学の問題は哲学が休んでいるときに出現する」と述べられている。「哲学が休んでいるとき」に何が起こっているか。ちなみにここでは、それは言語体系の崩壊であり、その崩壊のために哲学的問題が発生してくるのだと解釈した。その点については以前にもっと詳しく述べたのでここでは繰り返さない。
ネヴィルは自分が言語化される怖れを隠さない。言語は差異的=微分的な微妙な諸印象の流れを「削」いで一般化してしまう。そして「誰かと混ぜ合わされているネヴィルになってしまう」と恐れる。
「『僕は時々自分自身がわからない。つまり、僕を現在の僕にしているいろいろな種子を、測ったり、名づけたり、数えわけたりするすべを知らないのだ。何かが僕から離れていく。何かが僕を去ってこちらへやって来るあの人物に逢いに行く。それに、その人物が誰であるかを僕は逢う前から確かに知っているんだ。遠く離れているにしても、一人の友だちが殖えれば人間という奴はまことに奇妙に変化するものだ。人の友だちは我々を想い起す時にはすばらしくいい仕事をやってのける。それにしても、想い出され、鋭さを削がれ、人の自我を他人のものと混ぜこぜにされて他人の一部になるなどというのは、とてもたまらないことだ。彼が近づいてくるにつれて、僕は僕自身でなくなって、誰かと混ぜ合わされているネヴィルになってしまう。ーーー誰と?バーナードか?そうだ、バーナードだ。そして僕が質問するのはバーナードにだ。僕は誰かって』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.81」角川文庫)
あくまで自己自身の単独性を保持したいと願って止まないネヴィル。しかしこの願いは逆説的だ。というのは、「僕は僕自身でなくなって、誰かと混ぜ合わされているネヴィルになってしまう」ことが前提されているからである。ばらばらに解体されうることへの諦めがある。そもそも人間はただ単なる個別的単一存在としては存在しない。いつもどこかの部分を他の部分と接続させたり切断させたり総合させたりしてしか機能しえない欲望する機械の一部分であるほかない。したがってあるいは仕方なしにバーナードによる言語の力を借りて、言語化された自分の姿形を獲得しようとおもったりもする。バーナードの言語化力はネヴィルにとって強力な鏡として機能するわけだ。
バーナードは一つの言葉で一つの仮面を「剥ぎとる」。と、すぐに「口には言われないほどはるか無限に」より一層観察しようという態度を取る。すると「心像が次から次へと湧き出る」。この「心像」=「イメージ」は、つい先ほどベルクソン「物質と記憶」から引用したように、「無数の振動へと解消され」つつ「無数の震えとなって疾走してゆく」ほかない。
「『僕は驚く、言葉でいろいろなものから面紗を剥ぎとると、口には言われないほどはるか無限に、もっともっと観察していたものだ。僕はしゃべりすぎると心の中にどんどんと泡が立つ。心像が次から次へと湧き出る』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.82」角川文庫)
バーナードには自覚がある。自分は「蜂」に、「蜂の群」に《なる》。そしてその風景は余りにも「がやがや」していてやかましいと。
「『僕は自分が、花々の廻りでぶんぶん言い、真紅な萼を蜂のように音を立てて伝い下り、青い漏斗を僕のびっくりするような響きで鳴りひびかせるのがわかる。ーーー僕は蜂の群のようにがやがや言い続けた』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.83~84」角川文庫)
さて、俗世間の話題になる。
新元号「令和」。「万葉集」から抜粋された大伴旅人による「序文」が話題を呼んだ。しかし大伴旅人にはもっと興味深い側面がある。酒豪だ。万葉集に登場する歌人の中では随一無類の酒好きであるといってよい。巻第三・三三八〜三五〇に至る十三首を酒に捧げている。
「験なき ものを思はずは 一坏の 濁れる酒を 飲むべくあるらし」
「酒の名を 聖と負せし 古の 大き聖の 言の宜しさ」
「古の 七の賢しき 人たちも 欲りせしものは 酒にしあるらし」
「賢しみと 物言ふよりは 酒飲みて 酔ひ泣きするし 優りたるらし」
「言はむすべ せむすべ知らず 極まりて 貴きものは 酒にしあるらし」
「なかなかに 人とあらずは 酒壺に なりにてしかも 酒に染みなむ」
「あな醜 賢しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似る」
「値なき 宝といふも 一坏の 濁れる酒に あにまさめやも」
「夜光る 玉といふとも 酒飲みて 心を遣るに あにしかめやも」
「世の中に 遊びの道に すずしきは 酔ひ泣きするに あるべかるらし」
「この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫にも鳥にも 我はなりなむ」
「生きる者 遂にも死ぬる ものにあれば この世なる間は 楽しくをあらな」
「もだ居りて 賢しらするは 酒飲みて 酔ひ泣きするに なおしかずけり」
(「万葉集・巻第三・大宰帥大伴卿、酒を讃むる歌十三首」『日本古典文学全集2・P.234〜236』小学館)
たとえば「なかなかに」の歌。現代語訳すればこうなる。「なまじっか人として生きているくらいなら、酒壺になってしまいたい。そして酒に存分に浸ろう」とある。また「夜光る」の歌。「値がつけられないほど貴い宝玉も、一杯の濁った酒になんで及ぼう」との意味。たぶん大伴旅人にとっては、どれほど貴い剣や勾玉といえども一杯の濁り酒にはおよぶべくもない、とおもえたのだろう。中国の陶淵明、李白、杜甫にすら匹敵するかも知れない。
BGM
「『そのお前は、今夜僕のしゃべっていることでは、ほんの皮相的に、僕は自分を示しているに過ぎないということを知っている。僕が自分の本質と最も相違していれば、その節、その時には、又僕は総合されて全体にまとめられる』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.75」角川文庫)
バーナードは自分自身の「しゃべっていることでは、ほんの皮相的に、僕は自分を示しているに過ぎない」ということを認識している。というのは、バーナードは言語化の習得において他の仲間たちを圧倒していることと関係がある。バーナードが「皮相的に、僕は自分を示しているに過ぎない」というのは、バーナード自身を表象するためには言語を用いるほかないということを意味している。にもかかわらず、言語化されたバーナードでしかないのならそれは何ら「自分の本質」ではないと感じる。バーナードは生きて動くバーナードだからだ。しかし生きて動くバーナードを周囲が認識し承認するためにバーナードは周囲からの認識ならびに承認に当たって先に言語化されていなくてはならない。差し当たり名を与えられていなければならない。ともすればただちに欲望の種々の流れの中へ溶け込んで消滅してしまう身体というものを目に見えるものとして維持し支えているのは社会的文法なのでありまた言語化された身体としてのバーナードでなくては存在するものとしてすら認識されないという多少なりとも込み入った事情がある。言語化された身体は言語化されている限りにおいてのみ、バーナードという名とともにバーナードとしての身体を受け取ることができる。したがって欲望する諸機械の一つの波あるいは波動として始めてバーナードは周囲の目に見え動きもする身体となることができる。ヘーゲルは精神に対して言語を外在的なものとして退けようと試みているが、その試みを追求すればするほど、逆に言語の介入なしには、したがって言語なしにはあらゆる事物を捉えることができないというパラドックスに陥ってしまう。
「《記憶》としての知性は、表象一般としての知性が最初の直接的直観に対して行なう内化作用(想起作用)の諸活動と同じ諸活動を、《言葉の》直観に対して行なう。ーーー(1)あの結合(直観とそれの意味との結合)が記号なのであるが、知性はこの結合を自分のものとしながら、この内化(想起)によって《個別的な》結合を《一般的な》結合すなわち持続的な結合に高める。そしてこの一般的持続的な結合においては名前と意味とが知性に対して客観的に結合されている。知性はまたさしあたり名前である直観を《表象》にする。その結果、内容すなわち意味と記号とが同一化され、《一つの》表象になる。そして表象作用はそれの内面性において具体的であり、内容は表象作用の現存在として存在する。ーーーこれが名前を《保持する》記憶である。ーーー《名前》はこうして、《表象界》において現存し、そして効力をもっているような《事象》である。(2)《再生産的》記憶は、直観や心像なしに、名前のなかで《事象》をもち且つ認識し、また事象と共に名前をもち且つ認識する。内容が知性のなかでもっている《現実存在》としての名前は、知性のなかにある知性自身の《外面態》である。そして、知性によって作り出された直観としての名前を《内化(想起)する》とういことは、同時に《疎外する》ということであって、知性はこの疎外において自己自身の内部に自己を措定するのである。もろもろの特殊な名前の連合(連想)は、感覚する知性・表象する知性・または思惟する知性がもっているもろもろの規定の意味のなかに含まれており、知性は感覚するもの等々として自己内でこれら幾系列もの規定を経過して行くのである。ーーーライオンという名前の場合には、われわれはそのような動物の直観を必要とせず、また心像をさえ必要としない。そうではなくて、われわれが名前を《理解する》ということによって、名前は心像を欠いた単純な表象である。われわれが《思惟する》のは名前においてである」(ヘーゲル「精神哲学・下・P.144~146」岩波文庫)
「もろもろの名前の連関が意味のなかに横たわっている限り、意味と名前としての存在との結合はなお総合であり、知性は自分のこの外面態のなかで単純に自己自身に復帰していない。しかし知性は一般者であり、自分のもろもろの特殊な疎外の単純な真実態である。そして知性が自分のもろもろの特殊な疎外を完全に自己のものにするということは、意味と名前とのあの区別を廃棄することである。表象作用が行なうこの最高の内化(想起)は知性の最高の疎外であって、知性はこの疎外において自己を《存在》として措定し、名前そのものの・すなわち無意味な言葉の一致的空間として措定する。この抽象的存在であるところの自我は、主観性として同時に、種々なる名前を支配している威力であり、幾系列もの種々なる名前を自己のなかで確固としたものにし、確固とした秩序のなかで保持するところの空虚な《きずな》である。種々なる名前が単に《存在するもの》であるにすぎず、そして知性がここでは自己内でそれ自身自己のこの存在である限り、知性は《全く抽象的な主観性》としてのこの威力である。記憶においては、種々なる名前の諸系列における諸分肢は相互に全く外面的に対抗し合っており、そしてまた記憶自身もたとい主観的外面性ではあってもとにかく外面性である。《記憶》はこのために《機械的》と名づけられる」(ヘーゲル「精神哲学・下・P.149」岩波文庫)
ヘーゲルのいうように「意味」の中には「もろもろの名前の連関が意味のなかに横たわっている」のであり、「総合」とは、「意味と名前としての存在との結合」なのだ。そしてそうでしかあり得ない。そのようにしてバーナードは「総合されて全体にまとめられる」という過程を踏んでいかなければ「総合」すらできないただ単なる浮動性でしかない。しかしバーナードが意志する「全体」は全人類の融合という夢をも同時に目指しているものでもある。それは作者ウルフの思想でもあり、晩年のウルフが反戦運動に乗り出すことになる原点となった人類の普遍的共存という夢をも語るものだ。
ところで、バーナードは蟇にも《なる》。動物への生成変化だが、さらにこの蟇は開けっ放しの「がま口」のような蟇だ。それは「何でも来るものを受け容れる」。身体全体が受容体として機能する蟇だ。バーナードの思考は一見乱脈に見えるが、その実、意外と精緻であり、バーナードから見ればリセットは「野兎を追っかける」ことでリセット自身が「野兎」に《なる》ことを瞬時に見分け捕捉する。
「『僕は又蟇のように穴の中に坐って、全く冷淡に、何でも来るものを受け容れる。ーーーリセットは、御存じのように、野兎を追っかけるのを無上に喜んでいる』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.75」角川文庫)
言語化は必然的に分節化を伴う。だがバーナードの望みはあくまでも「文章から文章になっていく熔岩の流れ」だ。もっとも、分節化と同時になされる無限数の不連続な映像の映画的メカニズムによる再構成こそ認識の可能性とその限界を同時に示すものだ。ところがバーナードはそうではなく、欲望の一つの流れを流れそのものとして捉えることで「文章から文章になっていく熔岩の流れ」を把握したいと願う。
「『僕が必要なのは、速度、熱い、とけた効果、文章から文章になっていく熔岩の流れだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.76」角川文庫)
ベルクソンにいわせれば、そのような各瞬間の不連続でばらばらな系列と、生命したがって欲望の一つの流れとは「対立しながら」も「補い合っている」。
「諸々の語、行、節を横切って一つの単純なインスピレーションが走っており、それが詩の全体である。同じように、切り離された個体の間を、生命がなおも流れている。至る所で、個体化しようとする傾向は、結合しようとする傾向によって抵抗されると同時に完成される。これらの傾向は対立しながら補い合っている」(ベルクソン「創造的進化・P.329」ちくま学芸文庫)
一方でこうもいえる。
「私たちが知覚する行為においてとらえるものは、知覚自身を超えでている或るものであるが、そのさい、にもかかわらず物質的宇宙は、私たちが手にするその宇宙の表象とはことなるとか、本質的に区別されるといったことはない。ある意味で私の知覚は、たしかにじぶんの内部にある。知覚は私の持続のただ一瞬のうちに、それ自体としては数えきれないほどの数の瞬間に分散してゆくことがらを凝縮するものであるからだ。とはいえ、私の意識が抹消されたとしても、物質的宇宙は、それが在ったがままに存続してゆく。ただし、私たちはそのばあい持続の特殊なリズムを捨象しており、そのリズムは私が事物にはたらきかけるさいの条件であったのだから、それらの事物はみずから自身へ立ちかえって、科学が区別するだけの瞬間へと切りわけられてゆくことになる。そこで感覚的質は、消失することはないにしても、比較を絶して遥かに細分化された持続へとひろがって、希薄なものとなってゆく。物資はこのようにして、無数の振動へと解消される。それらの振動のいっさいは中断することのない連続性においてむすびあわされ、すべてはたがいに繋がりあい、あらゆる方向に向かっておなじだけ無数の震えとなって、疾走してゆく」(ベルクソン「物質と記憶・P.408~409」岩波文庫)
しかしその同じことを、非連続性としてではなく連続性〔運動〕として捉えるとすれば、次のように述べることができる。
「要するに、あなたの日常的な経験にぞくする非連続的な対象をたがいにむすびつけ、ついでそれらの対象の質が有する不動な連続性を、それが占める場にあって振動へと分解してみよう。この運動のみに注目し、そのさいこの運動の背後にひろがる分割可能な空間をはなれて、その運動性だけを、すなわち、あなたの意識がじぶんじしん遂行する当の運動にあってとらえる、その分割されていない行為のみを考え、それ以上のなにものも考えないようにしてみればよい。そのばあい物質にかんして獲得されるのは一箇のヴィジョンである。そのヴィジョンは、おそらくあなたの想像力にとって厄介なものかもしれないが、しかし純粋なものである。そのヴィジョンから払拭されているのは、生の要求にもとづいてあなたが、外的知覚のただなかで物質に付けくわえたものなのである。ーーーこんどは私の意識を回復し、それとともに生の要求を回復してみよう。そのときには、遥かにとおい間隔をおいて、事物の内的歴史にぞくする莫大な時期のおのおのをそのつど飛びこえながら、ほとんど瞬間的なものといってよい眺望がとらえられてくる。その眺望はこのたびは彩色されて、そのいっそう際だった色彩のなかで凝縮されているのは、要素的なものが無限に反復され、また変化しているさまである。それはたとえば、ひとりの走者が継起的にしめす無数の姿勢が、ただひとつの象徴的な態勢へと縮約されて、それを私たちの目が近くし、芸術が再生して、その態勢がだれにとっても、疾走する人間の映像(イマージュ)となるようなものなのだ。私たちがそのときどきにじぶんの周囲に投げかける視線がとらえるものは、かくして、無数の内的な反復と進化から生まれた結果にほかならない。それらの結果は、まさにそれゆえに非連続的なものであり、だから私たちがその結果から、連続性をふたたび樹立するとすれば、それは、じぶんが空間中の『対象』に帰属させる相対運動をつうじてのことである。変化はいたるところに存在し、しかも深部に存在する。私たちは変化をそこかしこに局在化するけれども、それは表面にあってのことである。かくて私たちは物体を、質については安定していながら、同時にその位置にかんしては動いているものとして構成する。いっぽう場所のたんなる変化であっても、それがみずからのうちに凝縮しているものは、私たちの目からみれば宇宙総体の形態変化なのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.409~410」岩波文庫)
そして言っておかねばならない。どちらも間違ってはいないと。しかしなお、バーナードは可能でもあり不可能でもあるというほかない鋭敏な知覚の獲得について、「僕が必要なのは、速度」、と述べている点に着目しておく価値があるだろう。まさに二十一世紀はとりわけ軍事、医学、情報通信技術、資本の領域において、何より「速度」こそが総体的基準をなしている現実を見なければならないからだ。欲望の一元論として見た場合、「速度」は「速さ」だけでなく「遅さ」をも「速度」として考えられる必要がある。ちなみにニーチェは面白いことをいっている。それが意味することはこうだ。質的差異はなく量的な程度の差異のみが存在する至るところで人間は質的差異を見るようになった。ゆえに人間はそこに「対立」を見ないわけにはいかなくなりますます自分で自分自身を苦悩の極致に陥れると。
「《さまざまな対立を見る習慣》。ーーーふつうの不精確な観察は、対立が存在するのではなくて程度の差があるにすぎない自然の至るところに対立(例えば『温暖と寒冷』といった)を見る。この悪習は更にわれわれを誘いこんで、こんどは内的自然、つまり精神的、道徳的世界をもこうした対立にしたがって理解し、分析させるに至った。こうして、段階的推移のかわりに対立を見ると思いこむことによって、言い知れぬ多くの苦悩、傲慢、苛酷、疎隔、冷却が人間の感情のなかに入りこんできたのである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・六七・P.325」ちくま学芸文庫)
バーナードは周囲を観察する。バーナードは戦後日本では三島由紀夫がそうであったような認識への意志を捨てようとはしない。絶望的な認識機械に《なる》ことを意志する。観察するという行為は、流れの中から恣意的に対象を切り出し、切り離し、それらを「すっかり具象的な形のものに」する行為だ。言語化するということだ。分節化するということだ。社会的文法の支配下に整理整頓することだ。そうして始めて各々の人間はそれぞれ別々の個人としての姿形を現わして目に見えるようになる。その過程を経ない限り、人間の形象というものは人間として見えてくることはない。ところがバーナードの逆説は、バーナード自身を固定させて形象化できないという不合理性にある。バーナードはバーナード自身について「《バーナード》と言えば、誰が来るのか」と不安の極致に自分を置く。しかしこの不安は半ば諦めとともにあるため、怖れとしては感じられない。むしろ諦観にほうにやさしく包み込まれており、その保護のもとでバーナードは足元の不安に必要以上に脅かされずぼんやり意識することだけが可能になる。
「『夕食のあとではドラマティックだった。僕たちの共通の友だちについてそれとなく観察していろいろなことをすっかり具象的な形のものにしてしまった。多くの転換を容易にやってのけた。ーーー自分自身に最後の質問をさせて欲しい、これらの人々の中のどれが俺なのか?この部屋が非常にそれを左右する。自分に《バーナード》と言えば、誰が来るのか。幻滅を感じてはいるが、気を悪くしてはいない、忠実な皮肉な男だ。特別な年齢でも職業でもない男。単に、自分自身なのだ。今、火搔を手にし、燃殻をがらがらさせ、それらを鉄格子を通して夕立のように落そうとしているのは彼なんだ。《やあ》彼は独り言をいって、それが落ちていくのを見つめている』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.78~79」角川文庫)
バーナードはまた「独り言」の名手でもある。「《やあ》彼は独り言をいって、それが落ちていくのを見つめている」けれども、しばしば人間は相手の独り言を独り言と受け取らずに逆に「拾ってしまう」ことがありはしないだろうか。独り言が独り言として「落ちて」消滅することができるのは、独り言が他の誰にも拾われることなく「落ちていく」だけでもなく、「落ちて」しまってもなお誰にも「拾われることがない」ことを条件のうちに含む。単なる独り言といっても、それが成立するには幾つかの条件を必要としている。しかしこのシーンで独り言は拾われることがない。そのまま「埃」になって部屋の床に積もる。ところがこの「埃」を「ミセス・モファット」がやってきて「掃除」してしまうだろうというのである。そこに悲喜劇がある。まるでギャグだ。
ネヴィルは考える。バーナードの考えとはまた違っている。違っていて当然かどうかはその時その時の個人的都合によりけりだが、ここでは明白な違いがある。ネヴィルは言語使用について根本的懐疑を持っている。
「『現在の瞬間を含んでいる世界にあってーーーなぜ差別をつけるのか。何物も名づけられてはならぬ。そんなことをすれば変質してしまう』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.79」角川文庫)
欲望の種々の流れの一つである個別的な波あるいは震動。たとえばバーナードの独り言は波あるいは震動の一つとして発生しているわけだが、ネヴィルの考えでは、たとえ独り言であってもなくても「何物も名づけられてはならぬ」と強くおもう。そうでないと「変質してしまう」と、やや恐れつつしかし断言する。「名」づけるということ。それに伴う流れの「変質」。ネヴィルのいうことはもっともだ。言語化され分節化されるや否やそれは人間の目に見えるものになるのだが、その途端、それらはすべて生き生きとした生の色彩を失うという。言語化されることでかえって失われる豊穣なものへの限りないノスタルジーがネヴィルにはある。そのことをプルーストはこう表現していた。
「私は木々が必死のいきおいでその腕を振りながら遠ざかってゆくのを見た、それはこういっているようだった、ーーーきみがきょう私たちから読みとらなかったことは、いつまでも知らずじまいになるだろう。この道の奥から、努力してきみのところまでのびあがろうとしたのに、そのままここに私たちを振りすてて行くなら、きみにもってきてやったきみ自身の一部分は、永久に虚無に没してしまうだろう、と。いましがた、この場所でまたしても感じた快感と不安、なるほど私はそのような種類の感情を、のちになってふたたび見出したが、そしてある晩、その感情にーーーあまりにもおそく、しかしこんどは永久にーーー私はむすびついたが、それはもっと先の話で、ともかくいまは、それらの木からは、それらが何を私にもたらそうとしたのか、どこでそれらを見たことがあったのか、それを私はどうしても知ることができなかった。そして馬車がわかれ道にはいってから、私はそれらの木に背を向け、それらを見るのをやめた、一方、ヴィルパリジ夫人から、なぜそんなぼんやり夢にふけった顔をしているのかとたずねられた私は、いましがた友人を失ったか、私自身を永久に見すてたかのように、または死んだ誰かに会いながら知らないふりをしたり、ある神の化身をそれと見わけられなかったりした直後のように悲しかった」(プルースト「失われた時を求めて3・P.53」ちくま文庫)
森の木々は必死で語りかけていたのだ。しかしそれが何なのかとうとう読み取ることはできなかった。
ところで、言語による支配を認めざるをえないネヴィル。言葉の濁流に押し流されてひどく鬱陶しくおもう。
「『それは人為的な、上面ばかりのものになる。言葉、言葉、言葉、なんとそれが馳せ廻ることかーーーその長い髭、その長い尾をどんなに振り廻すことか。だが僕にはある欠点があってそれらの背に跨ることができないのだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.80~81」角川文庫)
それを「欠点」と捉えるかどうかは読み手次第で異なってくるだろう。ネヴィルは言葉の濁流に上手く「跨ることができない」。もっとも、「背に跨る」わけだが、この「背」は文脈のことだと考えていいだろう。ごくふつうに生きていこうとおもうなら、この不器用さは致命的になることがある。多くの人間はそれを器用にこなす。ウィトゲンシュタインのいうように。
「わたくしが言語で考えているとき、言語的表現と並んでさらに<意味>がわたくしの念頭に浮かんでいるのではない。言語そのものが思考の乗り物なのである」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・三二九」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.212』大修館書店)
さらにその行為は盲目的である。
「規則に従っているとき、わたくしは選択をしない。わたくしは規則に《盲目的に》従っているのだ」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.171』大修館書店)
同時に人々はこのような事情について何ら疑問を抱くということがない。ほとんどない。
「理想というものは、われわれの考えでは、揺るぎなく固定している。きみはそれから抜け出すことができず、常にそれへ立ち戻っていなければならぬ。外側などないのだ。外側には生のいぶきが欠除している。ーーーこうした考えはどこから来たのか。この理念は、いわばメガネのようにわれわれの鼻の上に居すわっていて、われわれの見つめるものは、みなそれを通して見えるのである。われわれは、それを取りはずすという考えに思い至らない」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・一〇三」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.96』大修館書店)
このような疑問を持ったウィトゲンシュタインは研究者の間で変人扱いされることになった。ウィトゲンシュタインはケンブリッジ大学の中でしか生きていくことができない人間だと。今でいうアスペルガー症候群を患っていたのではとされている。カルテが存在しないため確定することはできないが。「哲学探求」の中では「哲学の問題は哲学が休んでいるときに出現する」と述べられている。「哲学が休んでいるとき」に何が起こっているか。ちなみにここでは、それは言語体系の崩壊であり、その崩壊のために哲学的問題が発生してくるのだと解釈した。その点については以前にもっと詳しく述べたのでここでは繰り返さない。
ネヴィルは自分が言語化される怖れを隠さない。言語は差異的=微分的な微妙な諸印象の流れを「削」いで一般化してしまう。そして「誰かと混ぜ合わされているネヴィルになってしまう」と恐れる。
「『僕は時々自分自身がわからない。つまり、僕を現在の僕にしているいろいろな種子を、測ったり、名づけたり、数えわけたりするすべを知らないのだ。何かが僕から離れていく。何かが僕を去ってこちらへやって来るあの人物に逢いに行く。それに、その人物が誰であるかを僕は逢う前から確かに知っているんだ。遠く離れているにしても、一人の友だちが殖えれば人間という奴はまことに奇妙に変化するものだ。人の友だちは我々を想い起す時にはすばらしくいい仕事をやってのける。それにしても、想い出され、鋭さを削がれ、人の自我を他人のものと混ぜこぜにされて他人の一部になるなどというのは、とてもたまらないことだ。彼が近づいてくるにつれて、僕は僕自身でなくなって、誰かと混ぜ合わされているネヴィルになってしまう。ーーー誰と?バーナードか?そうだ、バーナードだ。そして僕が質問するのはバーナードにだ。僕は誰かって』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.81」角川文庫)
あくまで自己自身の単独性を保持したいと願って止まないネヴィル。しかしこの願いは逆説的だ。というのは、「僕は僕自身でなくなって、誰かと混ぜ合わされているネヴィルになってしまう」ことが前提されているからである。ばらばらに解体されうることへの諦めがある。そもそも人間はただ単なる個別的単一存在としては存在しない。いつもどこかの部分を他の部分と接続させたり切断させたり総合させたりしてしか機能しえない欲望する機械の一部分であるほかない。したがってあるいは仕方なしにバーナードによる言語の力を借りて、言語化された自分の姿形を獲得しようとおもったりもする。バーナードの言語化力はネヴィルにとって強力な鏡として機能するわけだ。
バーナードは一つの言葉で一つの仮面を「剥ぎとる」。と、すぐに「口には言われないほどはるか無限に」より一層観察しようという態度を取る。すると「心像が次から次へと湧き出る」。この「心像」=「イメージ」は、つい先ほどベルクソン「物質と記憶」から引用したように、「無数の振動へと解消され」つつ「無数の震えとなって疾走してゆく」ほかない。
「『僕は驚く、言葉でいろいろなものから面紗を剥ぎとると、口には言われないほどはるか無限に、もっともっと観察していたものだ。僕はしゃべりすぎると心の中にどんどんと泡が立つ。心像が次から次へと湧き出る』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.82」角川文庫)
バーナードには自覚がある。自分は「蜂」に、「蜂の群」に《なる》。そしてその風景は余りにも「がやがや」していてやかましいと。
「『僕は自分が、花々の廻りでぶんぶん言い、真紅な萼を蜂のように音を立てて伝い下り、青い漏斗を僕のびっくりするような響きで鳴りひびかせるのがわかる。ーーー僕は蜂の群のようにがやがや言い続けた』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.83~84」角川文庫)
さて、俗世間の話題になる。
新元号「令和」。「万葉集」から抜粋された大伴旅人による「序文」が話題を呼んだ。しかし大伴旅人にはもっと興味深い側面がある。酒豪だ。万葉集に登場する歌人の中では随一無類の酒好きであるといってよい。巻第三・三三八〜三五〇に至る十三首を酒に捧げている。
「験なき ものを思はずは 一坏の 濁れる酒を 飲むべくあるらし」
「酒の名を 聖と負せし 古の 大き聖の 言の宜しさ」
「古の 七の賢しき 人たちも 欲りせしものは 酒にしあるらし」
「賢しみと 物言ふよりは 酒飲みて 酔ひ泣きするし 優りたるらし」
「言はむすべ せむすべ知らず 極まりて 貴きものは 酒にしあるらし」
「なかなかに 人とあらずは 酒壺に なりにてしかも 酒に染みなむ」
「あな醜 賢しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似る」
「値なき 宝といふも 一坏の 濁れる酒に あにまさめやも」
「夜光る 玉といふとも 酒飲みて 心を遣るに あにしかめやも」
「世の中に 遊びの道に すずしきは 酔ひ泣きするに あるべかるらし」
「この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫にも鳥にも 我はなりなむ」
「生きる者 遂にも死ぬる ものにあれば この世なる間は 楽しくをあらな」
「もだ居りて 賢しらするは 酒飲みて 酔ひ泣きするに なおしかずけり」
(「万葉集・巻第三・大宰帥大伴卿、酒を讃むる歌十三首」『日本古典文学全集2・P.234〜236』小学館)
たとえば「なかなかに」の歌。現代語訳すればこうなる。「なまじっか人として生きているくらいなら、酒壺になってしまいたい。そして酒に存分に浸ろう」とある。また「夜光る」の歌。「値がつけられないほど貴い宝玉も、一杯の濁った酒になんで及ぼう」との意味。たぶん大伴旅人にとっては、どれほど貴い剣や勾玉といえども一杯の濁り酒にはおよぶべくもない、とおもえたのだろう。中国の陶淵明、李白、杜甫にすら匹敵するかも知れない。
BGM