盗賊に捕らえられて怖がっている少女(プシューケー)に老婆が「面白い話」を聞かせて慰めようと試みる。「囚われの身の少女の不安な精神」=「老婆の面白い話」、という等価性がある。また少女(処女)と老婆(性別超越的存在)との組み合わせはどこの地域の説話でも見られる。
「私があんたに面白い話をこれから聞かせたげるから、そりゃ昔の老婆(おんば)語りだろうがね、そいでさっそく機嫌を直すがいいさ」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の4・P.164」岩波文庫)
プシューケーは三人姉妹の末娘である。よくある設定だ。ところが二人の姉はとうに他国の王へ嫁いだのだが、プシューケーのみは余りの美貌ゆえ性的欲望の対象ではなくなり、畏怖され崇敬され神格化されてしまう。女神ウェヌスの再来ではないかと評判になる。それを耳にしたウェヌスは憤激する。ウェヌスを祀ってあるパポス、クニドス、キュテラアの地の社は逆に荒れ果てている。ウェヌスは息子クピードーを呼び寄せプシューケーを脅すようそそのかす。ちなみにクピードーは矢の名手でありウェヌスの望みはプシューケーの美の破壊である。しかしウェヌスの破壊意志にはそれ以上のものが付け加えられている。
「何をおいてもこれだけは忘れずにやってもらいたいのは、あの小娘が世界でいちばん卑しい人間と、この上もなく烈しい恋におちるようにね、で、その男というのは地位も財産も一身の安全さえも運の神様に見放されて、世界じゅうを探してもこれほどにみじめな者はまたとあるまいというくらいな(ひどい)人にしておくれ」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の4・P.168」岩波文庫)
ウェヌスが語っている等価性は一方が他方の美を瓦解させることだけでは成立しないものだ。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)
債権債務関係というものは債権者のルサンチマン(復讐感情)によってかなり大きく変動する。しかしなぜウェヌスは「世界じゅうを探してもこれほどにみじめな者はまたとあるまいというくらいな(ひどい)人」という条件を与えるのだろうか。そうでなければ「過剰・逸脱」は実現できないからである。ところが破壊行為は「過剰・逸脱」を伴う場合、逆に再神格化の装置として機能する。ちなみに南方熊楠はかつて「おこぜ」が神格化されていた条件について幾つか上げている。
「滝沢解の『玄同放言』巻三に、国史に見えたる、物部尾輿(おこし)大連、蘇我臣興志(おこし)、尾張宿禰乎己志(おこし)、大神朝臣興志(おこし)、凡連男事志(おこし)等の名、すべてオコシ魚の仮字なり、と言えり。『和漢三才図絵』巻四八に、この魚、和名乎古之(おこじ)、俗に乎古世(おこぜ)という、と見ゆ。惟うに、古えオコゼを神霊の物とし、資(よ)ってもって子に名づくる風行なわれたるか、今も舟師山神に風を禱るをこれに捧ぐ。紀州西牟婁郡広見川と、東牟婁郡小屋とはオコゼもて山神を祭り、大利を得し人の譚を伝う」(南方熊楠「山神オコゼ魚を好むということ」『南方民俗学・P.165』河出文庫)
「販魚婦に聞きしは、山神特に好むオコゼは、常品と異なり、これを山の神と名づけ、色ことに美麗に、諸鰭、ことに胸鰭勝れて他の種より長く、漁夫得るごとに乾しおくを、山神祭りの前に、諸山の民争うて買いに来る。海浜の民は、これを家の入口に掛けて悪鬼を禦ぐ、と」(南方熊楠「山神オコゼ魚を好むということ」『南方民俗学・P.168』河出文庫)
「古え鮪、鰹、目黒、鯛、鮒、オコゼ、コノシロ、鯖(『玄同放言』巻三)、鎌足(かます)、房前(はぜ)(石野広通著『絵そら言』)等、魚に資(よ)れる人名多く、神仏が特種の魚を好悪する伝説すこぶる少なからざるは、今日までスコットランド、アイルランドに、地方に随って魚を食うに好悪あるに同じく、古えトテミズム盛んなりし遺風と見ゆ」(南方熊楠「西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」『南方民俗学・P.195~196』河出文庫)
熊楠が「絵そら言」から引いている「鎌足」(かます)は藤原鎌足(ふじわらのかまたり)のことであり、この中ではおそらく最も有名な名前だろう。ところがオコゼ、カマス等に限らなければ蘇我入鹿(そがのいるか)がいる。「いるか」は和名なので魚類としての「いるか」から取ったことは間違いない。古代ではどの世界でも「いるか」は鯨(くじら)と同じく哺乳類ではなく魚類として考えられていた。現代になって哺乳類に分類されるようになった後も、今なおいるかと鯨との境界線は曖昧である。昨今では脳科学や生物学の分野で継続的に研究が進められているが、アプローチの方法によって同じ種類だったものが改めて鯨に編入されたり逆にいるかへ差し戻されたりを繰り返していてどこか笑える。
そもそもは「いるか信仰」を起源とするものだろう。メソポタミアのシュメール=アッカド文化の時期。「アプカルル」、「アダパ」、など。いずれも「半魚人信仰」に属する。さらにギリシア神話に出てくるアポロンやアプロディーテなどの語幹「アポロ」は「アプカルル」とほぼ同一であり、この「アプル」が「水の人」を意味するのは言語学的に共通すると考えられている。
ところがしかし、これらの信仰が決定的なものになるのはユダヤ=キリスト教においてである。哺乳類と魚類との区別のない古代には鯨も海豚も魚類に特有の鱗がないということから神聖視された。ユダヤ教の食事規程では鯨も海豚も禁忌とされている。さらにキリスト教になると旧約聖書(ヨナ書)とイクテュス信仰とが混じり合う。ギリシア語で「イエス、キリスト、神の子、救世主」と並べた場合、“𝚰𝚮𝚺𝚶𝚼𝚺 𝚾𝚸𝚰𝚺𝚻𝚶𝚺 𝚹𝚬𝚶𝚼 𝚼𝚰𝚶𝚺 𝚼𝛀𝚻𝚮𝚸”と書く。その頭文字だけを取って略すと“𝚰𝚾𝚹𝚼”(イクテュス)となる。紀元前五千年頃のメソポタミアで出現した「いるか信仰」=「半魚人信仰」の主役(いるか)がなぜ紀元後に「イエスの再来」として崇拝されるのか。イエスの死後にあえて時系列の前後を逆にして作為されたただ単なる神話の痕跡に過ぎないのは明白である。
だから特にユダヤ=キリスト教の影響が強い欧米では鯨や海豚を神聖な魚として取り扱ってきたかというと全然そうではない。十七世紀に入ってなお蛋白源として旺盛に食されていた。人間に日々の行動力を与えてくれるという意味で。その意味で神聖化されるのなら理解できもしよう。ところが現代なお欧米の自然保護運動の象徴として取り扱われているのは古代神話の濫用と欧米特有の差別的(ナチス的)優生思想とを意図的に合成したまったくの捏造である。欧米人優生思想の信者らで構成された政治的利権運動に過ぎない。ナチスに学んだユダヤ的発想であり、世界中から莫大な寄附金が集まることに味をしめた彼らはつい最近になって“𝚰𝚾𝚹𝚼”(イクテュス)神話を持ち出し、潤沢な資金を盛大に用いながら海の過激派として活動している。彼らは和歌山県太地町の追い込み漁を批判妨害する。けれどもなぜか、沖縄県米軍基地建設に伴い生息域を奪われるジュゴンを守ろうとはしない。海豚(いるか)が高い知能を持つという見解は欧米社会にとってイルカにはどのような利用価値があるかという政治戦略的な意味でのみ計測された数値を基にした言説である。
イルカはパルス波(信号)を発して獲物(物体)を感知し返ってきた波動によって得た情報をパルス波を用いて仲間の集合に伝達する。仲間のイルカは集団になって獲物を傷つけ、弱ったきたところすぐさま食べるわけでなく、あたかもサッカーボールのようにもて遊び、ときには食べないまま放置して泳ぎ去って楽しむ。それがイルカのコミュニケーション能力の一つである。残酷か残酷でないかは関係がない。ただ、他の動物を殺しながら遊ぶことを知っているということは確実にいえる。水族館でのイルカショーでもやる気のない日は仮病を使ってサボタージュすることもわかってきた。さらに最先端を開発しているのはいつものようにアメリカである。米軍はイルカに小型探知機を装着して世界中の海を泳がせ、行方不明者の捜索など様々な情報収集のために活用している。
また、二〇〇九年、和歌山県太地町の追い込み漁をテーマにしたアメリカ映画“The Cove”が世界各地で上映された。この時期、米モンサント社製除草剤ラウンドアップによる健康被害が世界的な訴訟に発展していた。日本でも沖縄県浦添市の市民向け公園でラウンドアップを散布した砂山がずっとはげ山のままで雑草一本生えてこない事態が問題視されたのは記憶に新しい。日本での販売代理店は日産化学工業。しかし日産化学工業が政府機関に提出した文書には、試験の結果、健康被害は認められないとある。ところが日本以外の世界各地では二〇〇〇年代初頭から癌を始めとする健康被害を認めるよう幾つもの訴訟が起こっていた。訴訟の嵐が吹き荒れピークに達したのとちょうど同じ時期になぜか世界中で“The Cove”が上映される。ところが沖縄県での除草剤ラウンドアップ散布事件、公園一帯のはげ山化、は太地町追い込み漁に取材した“The Cove”の話題が冷めてきてなお数年後に発覚した問題である。訴訟に耐えられなくなった米モンサント社は今から二年前の二〇一八年、ドイツの製薬大手バイエル社に吸収合併されバイエル社の子会社として残されることになった。キリスト教出現より五〇〇〇年も前からメソポタミアにあった「半魚人神話」に出てくるイルカが、なぜ「キリストの再来」とされるのか。そこからして不可解極まりない。しかし思想信仰の自由は認めないといけない。ところが実在する健康被害は無視される。この転倒した世界。ユダヤ=キリスト教と多国籍企業複合体はこの地球を一体どうしたいというのだろう。
さて熊楠は、「おこぜ」など異風な容貌を持つ魚についての儀式性を先史時代のトーテミズムの「遺風」として捉えている。それはおそらく正しい。しかしトーテミズムについてただ単に民俗学のカテゴリーで考えているだけでは進歩も発展もない。トーテミズムの本来の解釈は言語学並びに差異の哲学と結びついて始めて意義を持ってくる。そしてまさに熊楠の思考は戦後レヴィ=ストロースが論証したように差異的哲学の地平において急速に一致する。この点についてはもっと後で述べる機会があるだろう。ここではいったん、古代の儀式を保存している部族社会で行なわれるイニシエーションについて現代人の思考の側がいったいどれほど転倒しているかを述べたレヴィ=ストロースの言葉を引いておくに留めよう。
「民族学者なら、非常に多様な社会が、加入儀礼を考えるときには全世界を通じて共通の考え方をすることに驚かぬものはない。アフリカであれ、アメリカであれ、オーストラリアであれ、メラネシアであれ、加入儀礼は同じ図式の繰返しである。家庭から切り離した新加入者たちをまず象徴的に『殺す』ことから始まる。そして森か荒野に隠し、そこで他界の試練を受けさせる。それがすむと彼らは結社の成員として『生れなおす』のである。それで、新加入者がほんとうの親のところへ戻るとき、親は新しい出産の全段階を演技し、子供の再教育をやる。それは食事の着衣の基本的動作にまで及ぶ。これらの現象の全体を、この段階では思考が全面的に《実践》のとりもちにつかまっている証拠と解釈したい気持がするだろう。ところがそれは、ものごとをさかさまに見ることになる。なぜなら話は逆で、科学的な《実践》の方が、われわれの社会において、死や誕生の観念から単なる生理過程に対応するもの以外の一切を除去し、それ以外の意味を運び得ないようにしたのだからである」(レヴィ=ストロース「野生の思考・第九章・P.319」みすず書房)
現代人は資本主義の未来を信じている。しかし資本主義は最後のところまでは途轍もなく先史時代のアニミズムを引きずっていることは論を待たない。条件が同一であれば共同体の中でスキゾフレニー(統合失調者)が出た場合、通常ならベケット「モロイ」の主人公のように移動し、さまよい、よろめきつつ、絶え間なく極限へ向かう。ところが資本主義は最後の最後で違ってくる。資本主義は最後の最後に必ず裏切る。それは無方向的に流動する絶え間ない流れを極限の手前で別の目標へ瞬時に置き換え「公理系化」する。そこから利益が上がってくるシステムだ。
「マルクスは、<利潤率が傾向的に低下する>とともに、<剰余価値の絶対量が増大する>という二重の運動を相反傾向の法則と呼んだ。<種々の流れが脱コード化し脱土地化する>とともに、<それらの流れが再び激しく模造の再土地化をうける>という二重の運動が存在するということが、右の法則の系として考えられる。資本主義機械が、種々の流れから剰余価値を引きだすために、これらの流れを脱土地化し脱コード化して、これらを公理系化すればするほど、官僚機械や公安組織のような、資本主義の付属装置は、剰余価値の増大する部分を吸収しながら、ますます<再-土地化>をすすめることになるのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・第一章・P.49~50」河出書房新社)
アナーキーな流れを整流器にかけて資本化する。ところがこの資本化によって増殖したはずの利子は分配過程において常に格差社会化を増大する方向へ向けられることになっている。アナーキーな流れはすべての人間と自然との絶え間ない新陳代謝から湧き出てくる無限の自然力でありその大半は労働力へと変換されるが、契約時にはさらに労働力《商品》として契約されるため、その利益を手にするのは結局のところ資本家のみに限られてしまうのである。
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「私があんたに面白い話をこれから聞かせたげるから、そりゃ昔の老婆(おんば)語りだろうがね、そいでさっそく機嫌を直すがいいさ」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の4・P.164」岩波文庫)
プシューケーは三人姉妹の末娘である。よくある設定だ。ところが二人の姉はとうに他国の王へ嫁いだのだが、プシューケーのみは余りの美貌ゆえ性的欲望の対象ではなくなり、畏怖され崇敬され神格化されてしまう。女神ウェヌスの再来ではないかと評判になる。それを耳にしたウェヌスは憤激する。ウェヌスを祀ってあるパポス、クニドス、キュテラアの地の社は逆に荒れ果てている。ウェヌスは息子クピードーを呼び寄せプシューケーを脅すようそそのかす。ちなみにクピードーは矢の名手でありウェヌスの望みはプシューケーの美の破壊である。しかしウェヌスの破壊意志にはそれ以上のものが付け加えられている。
「何をおいてもこれだけは忘れずにやってもらいたいのは、あの小娘が世界でいちばん卑しい人間と、この上もなく烈しい恋におちるようにね、で、その男というのは地位も財産も一身の安全さえも運の神様に見放されて、世界じゅうを探してもこれほどにみじめな者はまたとあるまいというくらいな(ひどい)人にしておくれ」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の4・P.168」岩波文庫)
ウェヌスが語っている等価性は一方が他方の美を瓦解させることだけでは成立しないものだ。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)
債権債務関係というものは債権者のルサンチマン(復讐感情)によってかなり大きく変動する。しかしなぜウェヌスは「世界じゅうを探してもこれほどにみじめな者はまたとあるまいというくらいな(ひどい)人」という条件を与えるのだろうか。そうでなければ「過剰・逸脱」は実現できないからである。ところが破壊行為は「過剰・逸脱」を伴う場合、逆に再神格化の装置として機能する。ちなみに南方熊楠はかつて「おこぜ」が神格化されていた条件について幾つか上げている。
「滝沢解の『玄同放言』巻三に、国史に見えたる、物部尾輿(おこし)大連、蘇我臣興志(おこし)、尾張宿禰乎己志(おこし)、大神朝臣興志(おこし)、凡連男事志(おこし)等の名、すべてオコシ魚の仮字なり、と言えり。『和漢三才図絵』巻四八に、この魚、和名乎古之(おこじ)、俗に乎古世(おこぜ)という、と見ゆ。惟うに、古えオコゼを神霊の物とし、資(よ)ってもって子に名づくる風行なわれたるか、今も舟師山神に風を禱るをこれに捧ぐ。紀州西牟婁郡広見川と、東牟婁郡小屋とはオコゼもて山神を祭り、大利を得し人の譚を伝う」(南方熊楠「山神オコゼ魚を好むということ」『南方民俗学・P.165』河出文庫)
「販魚婦に聞きしは、山神特に好むオコゼは、常品と異なり、これを山の神と名づけ、色ことに美麗に、諸鰭、ことに胸鰭勝れて他の種より長く、漁夫得るごとに乾しおくを、山神祭りの前に、諸山の民争うて買いに来る。海浜の民は、これを家の入口に掛けて悪鬼を禦ぐ、と」(南方熊楠「山神オコゼ魚を好むということ」『南方民俗学・P.168』河出文庫)
「古え鮪、鰹、目黒、鯛、鮒、オコゼ、コノシロ、鯖(『玄同放言』巻三)、鎌足(かます)、房前(はぜ)(石野広通著『絵そら言』)等、魚に資(よ)れる人名多く、神仏が特種の魚を好悪する伝説すこぶる少なからざるは、今日までスコットランド、アイルランドに、地方に随って魚を食うに好悪あるに同じく、古えトテミズム盛んなりし遺風と見ゆ」(南方熊楠「西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」『南方民俗学・P.195~196』河出文庫)
熊楠が「絵そら言」から引いている「鎌足」(かます)は藤原鎌足(ふじわらのかまたり)のことであり、この中ではおそらく最も有名な名前だろう。ところがオコゼ、カマス等に限らなければ蘇我入鹿(そがのいるか)がいる。「いるか」は和名なので魚類としての「いるか」から取ったことは間違いない。古代ではどの世界でも「いるか」は鯨(くじら)と同じく哺乳類ではなく魚類として考えられていた。現代になって哺乳類に分類されるようになった後も、今なおいるかと鯨との境界線は曖昧である。昨今では脳科学や生物学の分野で継続的に研究が進められているが、アプローチの方法によって同じ種類だったものが改めて鯨に編入されたり逆にいるかへ差し戻されたりを繰り返していてどこか笑える。
そもそもは「いるか信仰」を起源とするものだろう。メソポタミアのシュメール=アッカド文化の時期。「アプカルル」、「アダパ」、など。いずれも「半魚人信仰」に属する。さらにギリシア神話に出てくるアポロンやアプロディーテなどの語幹「アポロ」は「アプカルル」とほぼ同一であり、この「アプル」が「水の人」を意味するのは言語学的に共通すると考えられている。
ところがしかし、これらの信仰が決定的なものになるのはユダヤ=キリスト教においてである。哺乳類と魚類との区別のない古代には鯨も海豚も魚類に特有の鱗がないということから神聖視された。ユダヤ教の食事規程では鯨も海豚も禁忌とされている。さらにキリスト教になると旧約聖書(ヨナ書)とイクテュス信仰とが混じり合う。ギリシア語で「イエス、キリスト、神の子、救世主」と並べた場合、“𝚰𝚮𝚺𝚶𝚼𝚺 𝚾𝚸𝚰𝚺𝚻𝚶𝚺 𝚹𝚬𝚶𝚼 𝚼𝚰𝚶𝚺 𝚼𝛀𝚻𝚮𝚸”と書く。その頭文字だけを取って略すと“𝚰𝚾𝚹𝚼”(イクテュス)となる。紀元前五千年頃のメソポタミアで出現した「いるか信仰」=「半魚人信仰」の主役(いるか)がなぜ紀元後に「イエスの再来」として崇拝されるのか。イエスの死後にあえて時系列の前後を逆にして作為されたただ単なる神話の痕跡に過ぎないのは明白である。
だから特にユダヤ=キリスト教の影響が強い欧米では鯨や海豚を神聖な魚として取り扱ってきたかというと全然そうではない。十七世紀に入ってなお蛋白源として旺盛に食されていた。人間に日々の行動力を与えてくれるという意味で。その意味で神聖化されるのなら理解できもしよう。ところが現代なお欧米の自然保護運動の象徴として取り扱われているのは古代神話の濫用と欧米特有の差別的(ナチス的)優生思想とを意図的に合成したまったくの捏造である。欧米人優生思想の信者らで構成された政治的利権運動に過ぎない。ナチスに学んだユダヤ的発想であり、世界中から莫大な寄附金が集まることに味をしめた彼らはつい最近になって“𝚰𝚾𝚹𝚼”(イクテュス)神話を持ち出し、潤沢な資金を盛大に用いながら海の過激派として活動している。彼らは和歌山県太地町の追い込み漁を批判妨害する。けれどもなぜか、沖縄県米軍基地建設に伴い生息域を奪われるジュゴンを守ろうとはしない。海豚(いるか)が高い知能を持つという見解は欧米社会にとってイルカにはどのような利用価値があるかという政治戦略的な意味でのみ計測された数値を基にした言説である。
イルカはパルス波(信号)を発して獲物(物体)を感知し返ってきた波動によって得た情報をパルス波を用いて仲間の集合に伝達する。仲間のイルカは集団になって獲物を傷つけ、弱ったきたところすぐさま食べるわけでなく、あたかもサッカーボールのようにもて遊び、ときには食べないまま放置して泳ぎ去って楽しむ。それがイルカのコミュニケーション能力の一つである。残酷か残酷でないかは関係がない。ただ、他の動物を殺しながら遊ぶことを知っているということは確実にいえる。水族館でのイルカショーでもやる気のない日は仮病を使ってサボタージュすることもわかってきた。さらに最先端を開発しているのはいつものようにアメリカである。米軍はイルカに小型探知機を装着して世界中の海を泳がせ、行方不明者の捜索など様々な情報収集のために活用している。
また、二〇〇九年、和歌山県太地町の追い込み漁をテーマにしたアメリカ映画“The Cove”が世界各地で上映された。この時期、米モンサント社製除草剤ラウンドアップによる健康被害が世界的な訴訟に発展していた。日本でも沖縄県浦添市の市民向け公園でラウンドアップを散布した砂山がずっとはげ山のままで雑草一本生えてこない事態が問題視されたのは記憶に新しい。日本での販売代理店は日産化学工業。しかし日産化学工業が政府機関に提出した文書には、試験の結果、健康被害は認められないとある。ところが日本以外の世界各地では二〇〇〇年代初頭から癌を始めとする健康被害を認めるよう幾つもの訴訟が起こっていた。訴訟の嵐が吹き荒れピークに達したのとちょうど同じ時期になぜか世界中で“The Cove”が上映される。ところが沖縄県での除草剤ラウンドアップ散布事件、公園一帯のはげ山化、は太地町追い込み漁に取材した“The Cove”の話題が冷めてきてなお数年後に発覚した問題である。訴訟に耐えられなくなった米モンサント社は今から二年前の二〇一八年、ドイツの製薬大手バイエル社に吸収合併されバイエル社の子会社として残されることになった。キリスト教出現より五〇〇〇年も前からメソポタミアにあった「半魚人神話」に出てくるイルカが、なぜ「キリストの再来」とされるのか。そこからして不可解極まりない。しかし思想信仰の自由は認めないといけない。ところが実在する健康被害は無視される。この転倒した世界。ユダヤ=キリスト教と多国籍企業複合体はこの地球を一体どうしたいというのだろう。
さて熊楠は、「おこぜ」など異風な容貌を持つ魚についての儀式性を先史時代のトーテミズムの「遺風」として捉えている。それはおそらく正しい。しかしトーテミズムについてただ単に民俗学のカテゴリーで考えているだけでは進歩も発展もない。トーテミズムの本来の解釈は言語学並びに差異の哲学と結びついて始めて意義を持ってくる。そしてまさに熊楠の思考は戦後レヴィ=ストロースが論証したように差異的哲学の地平において急速に一致する。この点についてはもっと後で述べる機会があるだろう。ここではいったん、古代の儀式を保存している部族社会で行なわれるイニシエーションについて現代人の思考の側がいったいどれほど転倒しているかを述べたレヴィ=ストロースの言葉を引いておくに留めよう。
「民族学者なら、非常に多様な社会が、加入儀礼を考えるときには全世界を通じて共通の考え方をすることに驚かぬものはない。アフリカであれ、アメリカであれ、オーストラリアであれ、メラネシアであれ、加入儀礼は同じ図式の繰返しである。家庭から切り離した新加入者たちをまず象徴的に『殺す』ことから始まる。そして森か荒野に隠し、そこで他界の試練を受けさせる。それがすむと彼らは結社の成員として『生れなおす』のである。それで、新加入者がほんとうの親のところへ戻るとき、親は新しい出産の全段階を演技し、子供の再教育をやる。それは食事の着衣の基本的動作にまで及ぶ。これらの現象の全体を、この段階では思考が全面的に《実践》のとりもちにつかまっている証拠と解釈したい気持がするだろう。ところがそれは、ものごとをさかさまに見ることになる。なぜなら話は逆で、科学的な《実践》の方が、われわれの社会において、死や誕生の観念から単なる生理過程に対応するもの以外の一切を除去し、それ以外の意味を運び得ないようにしたのだからである」(レヴィ=ストロース「野生の思考・第九章・P.319」みすず書房)
現代人は資本主義の未来を信じている。しかし資本主義は最後のところまでは途轍もなく先史時代のアニミズムを引きずっていることは論を待たない。条件が同一であれば共同体の中でスキゾフレニー(統合失調者)が出た場合、通常ならベケット「モロイ」の主人公のように移動し、さまよい、よろめきつつ、絶え間なく極限へ向かう。ところが資本主義は最後の最後で違ってくる。資本主義は最後の最後に必ず裏切る。それは無方向的に流動する絶え間ない流れを極限の手前で別の目標へ瞬時に置き換え「公理系化」する。そこから利益が上がってくるシステムだ。
「マルクスは、<利潤率が傾向的に低下する>とともに、<剰余価値の絶対量が増大する>という二重の運動を相反傾向の法則と呼んだ。<種々の流れが脱コード化し脱土地化する>とともに、<それらの流れが再び激しく模造の再土地化をうける>という二重の運動が存在するということが、右の法則の系として考えられる。資本主義機械が、種々の流れから剰余価値を引きだすために、これらの流れを脱土地化し脱コード化して、これらを公理系化すればするほど、官僚機械や公安組織のような、資本主義の付属装置は、剰余価値の増大する部分を吸収しながら、ますます<再-土地化>をすすめることになるのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・第一章・P.49~50」河出書房新社)
アナーキーな流れを整流器にかけて資本化する。ところがこの資本化によって増殖したはずの利子は分配過程において常に格差社会化を増大する方向へ向けられることになっている。アナーキーな流れはすべての人間と自然との絶え間ない新陳代謝から湧き出てくる無限の自然力でありその大半は労働力へと変換されるが、契約時にはさらに労働力《商品》として契約されるため、その利益を手にするのは結局のところ資本家のみに限られてしまうのである。
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