ウェヌスがプシューケーに与える第二の試練。
「ほらあすこに森が見えるだろう、ずっと流れてゆくあの河や長い堤に沿ってる森さ。(その中にある水溜りの奥底は)近くの泉に通じてるのだけど、そのあたりには金色の裘(かわごろも)にかがやいた羊たちが見張りもなしにいつも草を食べて遊んでいるのだよ。その立派な羊の毛皮から毛を一房どうにでもして大至急私にとって来て欲しい」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の6・P.227」岩波文庫)
ウェヌスの説明に嘘は混じっていない。「金色の裘(かわごろも)にかがやいた羊たちが見張りもなしにいつも草を食べて遊んでいる」のは事実だ。だが羊たちは真昼の太陽の炎熱を浴びると力を増して荒れ狂い、角(つの)を誇示し他の動物を殺害して一時を過ごす習性を持ち、時として人間もその犠牲になるという点は省かれている。このような場合、プシューケーに語ったウェヌスの説明は虚偽に相当するのではないかという疑惑が出現しているわけだが、古代ギリシア・ローマから二五〇〇年を経た今なお、この種の問題系は形を変えて司法の場で争われている。
とはいうもののプシューケー自身、もはやウェヌスの命令を果たす気力を失っている。命令を果たすと見せかけて外出し、途中の河で投身自殺(自傷行為)を図ろうと考える。そのとき河の中から「愉しい音楽の育ての親の緑の葦(あし)」が歌い出て、歌いつつ歌詞で危険回避の方法を教える。重要なのは歌の神(ムーサ)の出現である。
「ムゥサの神々から授けられる神がかりと狂気とがある。この狂気は、柔かく汚れなき魂をとらえては、これをよびさまし熱狂せしめ、叙情のうたをはじめ、その他の詩の中にその激情を詠(よ)ましめる。そしてそれによって、数えきれぬ古人のいさおを言葉でかざり、後の世の人々の心の糧たらしめる」(プラトン「パイドロス・P.54~55」岩波文庫)
プシューケーは難題をクリアして生き生きとウェヌスの前に歩み出て「黄金の房」を捧げる。さらに不機嫌になったウェヌスはすぐさま第三の試練を与える。
「あすこのとても高い厳の上に聳(そび)え立って嶮(けわ)しい山の巓(いただき)が見えるだろう。あそこから真っ黒な泉のくろずんだ波が流れおちて、近くの谷に閉じかこまれて淵(ふち)となり、黄泉(ステュクス)の沼地に注ぎ込んだそのはては、叫喚の河(コーキュートス)の荒い流れにあわさるのだけど、その泉のてっぺんの水が湧き出る奥底から、冷たいほどの水を一杯私に大急ぎでね、この小甕(こがめ)へ汲(く)んで来ておくれ」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の6・P.229」岩波文庫)
プシューケーは言われた通りに山頂を目指すのだが、それは山頂の巌から身投げ(自傷行為)することで打ち続く理不尽な試練から脱出せんがためである。このようにふだんなら外界へ向いている人間の力は、ニーチェのいうように、流動を阻止されると内部へと逆流して自傷行為へ転換する。
「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十六・P.99」岩波文庫)
ウェヌスが神である以上、ウェヌスの言葉は国家の法規と等価である。プシューケーは人間であり「神=国家」の命令に逆らうことはできない。ウェヌスは物質的暴力を用いているわけではない。ウェヌスが駆使しているのは「ウェヌス自身の言葉=言葉の暴力」である。こうしてウェヌスはプシューケーの内面を残酷に穿ち、始めはありもしなかった「良心の疚しさ」という重圧感情を発生させ、それにさらに容赦なく厚みを加えていこうとする。だから現代社会に蔓延する数々の自傷行為は、遠い昔にはありもしなかった罪責感情を常に内面化することを余儀なくされた人間に特有の「良心の疚しさ」に耐えきれず、一時的に重圧感を解放する行為として実行されるケースが圧倒的に多いのである。
さて、もう死にたいと願うプシューケーの前に突然「荒鷲」が姿を見せる。荒鷲というのはガニュメーデースのこと。
「ガニュメーデースをその美貌のゆえにゼウスが鷲を用いて掠(さら)い、天上で神々の酒注ぎとした」(アポロドーロス「ギリシア神話・第三巻・P.152」岩波文庫)
ゼウス(=ユピテル=ジュピター)はガニュメーデースを自分の傍に置いて盃持ちとして使う。ゼウスがガニュメーデースを掠(さら)うために用いた鷲はウェヌスの息子クピードーである。それはそれとしてアポロドーロスによればガニュメーデースは男性として生まれた。「その美貌ゆえ」にゼウスはガニュメーデースを掠わせたのだが、しかしガニュメーデースは女性の代わりとしてゼウスの盃持ちに抜擢されたわけではおそらくない。美少年アルキビアデスがプラトンの言葉を毒蛇に喩えて述べる有名な場面がある。
「毒蛇に咬まれた者の苦境はすなわち私の現状でもある。実際、人のいうところによると、こういう経験を嘗めた者は、自ら咬まれたことのある者以外には誰にも、それがどんなだったかを話して聴かせることを好まぬものだという、それは、苦悩のあまりにどんな法外な事を為(し)たりいったりしても、こういう人達にかぎって、それを理解もしまた寛容もしてくれるだろうーーーと、こう人は考えるからである。ところが《僕》はそれよりもさらにいっそう烈しい苦痛を与える者に咬まれた、しかも咬まれて一番痛い個所をーーー心臓か魂を、または何とでも適当に呼べばいいのだがーーー愛智上(フィロソフィア)の談論に打たれまた咬まれたのだった。その談論というのは若年でかつ凡庸でない魂を捉えたが最後、毒蛇よりも凶暴に噛み付いて離さず、かつこれにどんな法外な事でも為(し)たりいったりさせるほどの力を持っているのである。さらにまた見渡すところ今僕の前には、ファイドロスだとか、アガトンだとか、エリュキシマコスだとか、パウサニヤスだとか、アリストデモスだとか、アリストファネスだとか(ソクラテスその人は別に挙げるにも及ぶまい)、またその他の諸君がおられるのだが、この諸君は実際みな愛智者の乱心(マニア)と狂熱(バクヘイヤ)に参している人達である」(プラトン「饗宴・P.140~141」岩波文庫)
ここで言われている「乱心(マニア)と狂熱(バクヘイヤ)」はディオニュソス祭=バッコス祭=サトゥルヌナリア祭を念頭に置いたものだ。それほど狂信的な繋がりだった。一見すると「愛智者」という言葉が曖昧さを増大させているかのように見える。けれども愛智者の集会がなぜ男性ばかりなのかという意味で考えれば、美貌の男性(特に若年者)は必ずしも女性の代わりに連れてこられたわけではなく、男性同志の結社的繋がりがあったと考えられる。それは女性の代わりという消極的な意味ではなく、近現代ではもはや見られなくなっているが、かつては男性同志の精神的繋がりを重視した文化が存在していたことを物語る。ゲイにはゲイの、レズビアンにはレズビアンの、バイセクシャルにはバイセクシャルの、トランスジェンダーにはトランスジェンダーの、さらにインターセックスにはインターセックスの、強固な連帯があったとしても何の不思議もない。ちなみに日本でも一九八〇年代後半の大学では「ゲイ・サイエンス」(悦ばしき知識)、「友愛の政治学」、といった言葉が流通した。このことは女性排除とか男尊女卑(あるいは女尊男卑)とかとはまったっく無縁の思想としてフェミニズム陣営から深い理解を得たという経緯がある。
荒鷲=ガニュメーデースはいう。
「神々もまたユーピテル様御自身でさえ、あの黄泉(ステュクス)の流れは畏(おそ)れ憚(はばか)りなさるってのは、ともかく話でなりと知っておいででしょう、そのうえちょうどあなた方が神明にかけて誓いを立てるように、神々は黄泉(ステュクス)の尊厳にかけていつも誓いをなさるということも。だからさあその小甕をおよこしなさい」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の6・P.231」岩波文庫)
荒鷲=ガニュメーデースはあっという間に水を汲んでくる。ただ注意したいのは、ゼウスの傍使えになっているガニュメーデースがなぜ黄泉(ステュクス=地獄)へそう簡単に出入りできるのか、である。そもそもゼウスとステュクス(冥界=地下=地獄)との関係は深い。
「地下においでの、人みなを 迎え取られる、死んでしまった人々の ゼウスの御許」(アイスキュロス「救いを求める女たち」『ギリシア悲劇1・P.403』ちくま文庫)
クピードーの世話を受けて天上の神々の仲間入りを果たすことができた荒鷲=ガニュメーデースの全面的援助により第三の試練を達成するプシューケー。彼女は喜んでウェヌスの前に小甕を差し出して捧げる。ところがここに至りウェヌスの嫉妬と競争心は絶頂に達する。第四の試練を与える。
「ここにあるこの手筐(てばこ)を持ってーーーすぐと冥途まで冥王(オルクス)御自身がおいでの亡者の棲家(すみか)へと行って来とくれ、そいで(お妃の)プロセルピナに筐を渡してこういうのだよ、ーーーウェヌス様のおたのみには、あなた様の好い御容色(ごきりょう)をほんのちょっぴり、ほんの一日のあいだ保つだけなりと、頒(わ)けて下さいますよう。前からの御自身の分は、御子息の病気の看護(みとり)ですっかりすり減らし、使い果たしてしまいましたのでーーーってね」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の6・P.232~233」岩波文庫)
死んでしまえということだ。プシューケーは今度こそ投身自殺(自傷行為)を決意する。ところでウェヌスは冥界の女王プロセルピナのことについて、尊称も付けずにどこか身近な友人ででもあるかのように呼んでいることに気づかないだろうか。それには次のようなわけがある。
「女神(ウェヌス)は翼もつ息子クピードを抱きしめて、いいます。『武器とも腕とも頼む、わが子クピードよ、わたしの力よ、さあ、なにびとをもうち負かすあのおまえの飛び道具を!空・海・地下の三圏のうち、最後のものをくじで引きあてたあの冥界の王の胸板を、すばやいその矢で射ぬいておくれ!ーーーおまえ、わたしたち共同の主権のためにーーーそれを少しでもありがたがるのならーーーあの娘プロセルピナを、叔父にあたる冥王と結びつけるのです!』ウェヌスはこういいました。クピードは、矢筒を開き、母親の意のままに、たくさんの矢のなかから一本を選び出しました。どれよりも鋭くて、確実で、いちばん弓に素直な矢なのです。それから、膝をあてがって弓の弦を張ると、さかとげのついた矢で、冥王の胸を射ぬいたのです。ーーー常春(とこはる)の世界ですーーーこの森で、プロセルピナが遊びながら、すみれや白百合(しらゆり)を摘んでいました。女の子らしい熱心さで、かごやふところをいっぱいにし、仲間たちを負かそうと、花摘み比べをしていたのです。その姿が、冥王の目にとまりました。あっというまの一目ぼれで、たちまち冥王は、彼女をかどわかし去ります」(オウィディウス「変身物語・上・巻五・P.196~199」岩波文庫)
というように、冥界の王=オルクスとプロセルピナとを結婚させたのはウェヌス女神自身だからだ。しかしこの結婚を成就させたのはウェヌスの権力意志である。息子クピードーは、矢、翼、焔、といった無類の武器を駆使して、ユピテルの空、ネプトゥーヌスの海を、制覇したに等しい。後は冥界だけである。全世界を構成する空・海・地下のうち、その三分の一にあたる地下だけを放っておくのは馬鹿げている。冥界=地獄もまた自分たちの手に入れるべきだというのがウェヌスの考え方である。それゆえにプロセルピナを冥界の女王の座に付けた。だから気安く扱うのである。一方、死を覚悟したプシューケーは身投げしようと高い塔の上に立つ。するとなぜかプシューケーに向かって塔が語りかけて言う。冥界へ行って帰ってくるためには上手い方法がある。ラケダイモーンのタイナロスへ向かうとよいと。
「ラケダイモーン」はスパルタのこと。また「タイナロス」とはバルカン半島最南端に位置するタイナロス岬の洞穴のこと。冥界の出入口があったとされる。だがタイナロス岬の洞穴伝説はおそらくスパルタ成立以前からあったもので、スパルタ成立以後はその神話だけが残された可能性が強い。今はギリシア最南端から地中海を見渡す観光地化している。しかしこのように険しい岬の洞穴を冥界との境界線とする思考は古代では世界的に当たり前の思考法であり地域によっては儀式化していた。折口信夫は琉球神道を例に上げている。
「琉球では、太陽神の他に、自然崇拝そのままの形を残して居る。それ故恐しい場所、ふるめかしい場所、由緒ある場所は、必、御嶽(オダケ)になって居る。自分の祖先でも、七代目には必神になる。中山世鑑は、七世生神と書いている。此は、死後七代目にして神となると言うことである。以前には、人が死ぬと、屍体を、大きな洞窟の中へ投げこんで、其洞窟の口を石で固め、石の間を塗りこんだものであるが、此習わしが次第に変化して、墓を堅固に立派にするようになった為に、墓を造って財産を失う人が多くなった。七代経つと、其洞の中へは屍を入れないで、神墓(くりばか)と称し、他の場所へ、新墓所を設ける。神墓(クリバカ)は拝所となる。此拝所を《おがん》と言う。時代を経るに従って、他の人々も拝する様になる。此拝所(オガン)が、恐しい場所になって来る。拝所(オガン)を時々発掘すると、白骨が出て来る。此を、骨霊(コチマブイ)と言う。ーーー大体に於て、石を以て神々の象徴と見る風があって、道の島では、霊石に、《いびがなし》(神様)という風な敬称を与えている所もある」(折口信夫「琉球の宗教」『折口信夫全集2・P55~56』中公文庫)
ところで「高い塔」はいう。
「カローンでもあの閻王様(ディース)でさえも、何(なん)にもただではしてくれない」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の6・P.234」岩波文庫)
債権債務関係が生じている。ニーチェはいう。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられる」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)
高い塔に教えられた通りに行動するプシューケー。
「智恵(ちえ)の広い塔はこまごまと親切に教え訓(さと)してくれました。それでプシューケーは猶予あらせずタイナロスへ出かけ、(いわれたように)ちゃんとそのお貸(あし)だの麦粉餅だのを持って冥途への路を駆け下り、痩(や)せほうけた驢馬の馭者の脇を黙ったまま通りすごし、河の艀賃を船頭に払って、そこに浮いている亡者の願いごとも構いつけず、機織女たちのずるっこい頼みにも相手にならないで、例の犬の身のすくむように荒れ狂うのはお餅の御馳走で手なずけておいて、プロセルピナの御殿へとはいりこみました。そして女主人(おんなあるじ)が坐り心地のよい椅子(いす)やそれはそれは見事なお食事をすすめてくれても辞退して、その足もとにつつましく坐り、並パンに満足して、ウェヌスの用むきをお伝えしてました。するとすぐさま小筐に何か容れて固く蓋(ふた)をして渡してくれたので、それを持ってもう一つのお餅で欺して吠える犬の口を封じ、残りのお貸(あし)を船頭に払ってやって、往きよりもずっと元気よくいそいそと冥途から立ち戻ってまいりました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の6・P.236~237」岩波文庫)
冥界からの復帰。イニシエーションに伴う試練としてはこれですべて果たしたことになる。だが、「見てはいけない」と言われていた「小筐の蓋(ふた)」を開けて見てしまう。しかし「振り返ってはいけない」、「開けてはいけない」、「見てはいけない」、という断りごとは古代ギリシア以前から神話には付きものである。ピタゴラスが信条としていたものにこうある。
「国外へ出かけようとしているときには、国境(くにざかい)で振り向かぬこと」(「ピュタゴラス」『ギリシア哲学者列伝・下・第八巻・第一章・P.26』岩波文庫)
これは極めて原始的な思考方法の一つである。日本でもイザナギノミコト・イザナミノミコト神話を始め「鶴の恩返し」など幾つかのパターンが見られる。単純に言えば世界中どこへ行っても、見てはいけない行為というのは民族創生神話の中の密儀に属する。それは個体Aから個体Bへの生成変化の時間になされる作業であって、人体であれば生殖行為・出産あるいは腐敗を、機械=商品であればその生産過程を現わす。今で言う企業秘密あるいは機密情報であり外部に洩らすわけにはいかない。ギリシア悲劇では有名なシーン。使者は次のように伝える。
「使者 オイディプスは見えぬ手で娘たちをまさぐって、言う。娘たちよ、お前たちは晴れて立派に心に耐えて、この場所から立ち去り、見るべきでないことを見、聞くべきでないことを聞こうとしてはならぬ。さあ、急いで行け。ただ、許されたるテセウスのみここにあって、事の次第を知るがよい。ーーーわたしらが立ち去って、しばらくしてから、ふりかえると、もうあの人はどこにも見当たらず、王お一人が、何か見るも恐ろしい、見るに耐えぬものが現われたかのように、眼を蔽うように手を顔の前にかざしていられるのが見られた」(ソポクレス「コロノスのオイディプス」『ギリシア悲劇2・P.533』ちくま文庫)
アンティゴネはいう。
「アンティゴネ 父を奪ったのは戦さでも海でもなく、無明(むみょう)の野がさらいました、不可思議な奇怪な死に方で」(ソポクレス「コロノスのオイディプス」『ギリシア悲劇2・P.534~535』ちくま文庫)
オイディプスは眼球を破壊したがそれだけでは飽き足らず自分で自分自身の男性器を切断して死んだのである。ただ、それは秘儀に属する行為であり伝達する言葉だけが残されることになる。また、死んでいるにもかかわらず社会的言語体系によって死んだとは見なされないという宙吊り状態について、エドガー・ポーは小説の中で次のように書いている。
「『ヴァルドマアルさん、いまあなたがどんな気持で何を望んでいるか、説明して貰えますか?』ふたたび両頬に、あの消耗性疾患に特有の紅潮がすぐのぼってきた。(両顎と唇は相変らず硬直したままだったが)口のなかで舌がふるえ、というよりも、はげしく回転し、ついに、私がすでに述べた、あの同じものすごい声が叫んだ。『後生だ!ーーー早く!ーーー早く!ーーー眠らせてくれーーーでなかったら、早く!ーーー目をさまさせてくれ!ーーー早く!ーーー《俺は死んでるんだぞ!》』」(ポオ「ヴァルドマアル氏の病症の真相」『ポオ小説全集4・P.235』創元推理文庫)
だから、変化途中の宙吊り状態、その過程を見ることは、物質がどろどろに融解し化学変化を起こしている真っ最中か、あるいは自殺(自傷行為)の場合なら死へ至る途中の解体腐敗過程にある場合か、どちらかなのであり、それを見ることは許されないということを意味している。要するに、変化そのものを語る言葉だけは「ない」状況であって、だからこそ「秘儀(秘密、狂気、錯乱、仮死状態)」としか語ることができない。ゆえにそれについての言葉もまた《ない》としか言えない。あれよという間もなく変容していく流動状態を説明する言語は不在である。だから語ることもできない。言葉は急速な変化に追いていけない。眼前で生じている事態の変容を正確に把握し伝達することはできない。だから禁じられる。禁じられるや「秘儀」とされる。秘儀が先にあってそれが事後的に語ることの禁止として制度化されたのではなく、そもそも言語化不可能であるがゆえに秘儀とされそれについて語ることもタブー化したのである。原始的思考方法を考える場合、ニーチェのいうように、常に原因と結果との転倒が起こっていると考えなくてはならない。古代神話の伝統に則して述べれば、プシューケーもまた秘儀(秘密、狂気、錯乱、仮死状態)を覗いてしまったがゆえに地獄(ステュクス)の昏迷に陥らなければならない。だが古代人の思考法に則して述べるとすれば次のように文脈を転倒させなければならない。プシューケーは冥界(ステュクス=黄泉の国=地獄)へ降りて冥府を覗き見たがゆえに昏迷(エクスタシーを含む失神・昏睡)=「忘却」(筺の中=死=無)の最中にある。見たことは言語化できない(言語として固定できない)ものばかりであり、それを表わす言語が不在である以上、言語化作業は封印・禁止されると。
「幽冥界の、というより正真正銘の地獄(ステュクス)の眠りだけが、蓋を取られると見る見る立ちのぼってプシューケーにかかり、昏迷(こんめい)の靄(もや)でひたひたと手肢(てあし)じゅうを取り巻いてしまいました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の6・P.237~238」岩波文庫)
文中に「昏迷(こんめい)の靄(もや)でひたひたと手肢(てあし)じゅうを取り巻いて」とある。これまでプシューケーが通過してきたイニシエーションには、プラトンのいうように、いつも「神がかりと狂気とがある」。音楽の精霊ムーサ(複数形でムーサイ)が関わっている。ここではプシューケーの「四肢の痺れ」が特徴として上げられている。古代人は音楽と舞踏だけを用いて実にしばしばそのような精神状態を引き起こしていた。とりわけ儀式の際には。さらに東南アジアや中南米でも古代の儀式を残していた少数民族のあいだでは、近現代になるまで、居住地域周辺に自生する薬草類を伝統的儀式に用いていた。ヨーロッパのベラドンナやメキシコのペヨトルなどが有名。ところが現代社会になるとその主成分の幾つかを意図的に化学合成した薬物が大都会の市場を出回るようになった。ちなみにアメリカのスラング(俗語)に“fire como”というのがある。「燃え!」とか「いくっ!」とかいう意味。それほど強烈ではないにせよ、古代儀礼ではそのような薬草の混合物を用いることは当たり前に行われていた。それが恐らく、プシューケーに不可能なことを可能にさせた昏迷状態の正体であろう。こうしてプシューケーに与えられたイニシエーションの試練はすべて終わる。後はクピードーとの正式な婚姻が残されるわけだが、それは場を移動させて改めて行われなければならない。儀式はそのような手順を取る。それは極めてアニミズム的な人間の原始的心性に根付いた太古の精神性である。
「シャーマンになろうとする者は、奇妙な行動によって人目をひくようになる。いつも夢見がちになる、孤独を求める、森や荒地を好んで徘徊する、ヴィジョンを見る、眠りながら歌を歌う、等々である。ときには、こうした準備期はかなり激しい症状で特徴づけられる。ヤクート人のあいだでは、そうした若者は性格が狂暴になり、容易に意識を失い、森にひきこもり、木の皮を食らい、水や火の中に飛び込み、ナイフで身体に傷をつけたりする。世襲シャーマンの場合でも、シャーマン候補者が選定される前には、その者になんらかの行動の変化が見られる。祖先のシャーマンの魂が、一族中からある若者を選ぶ。すると、その若者はぼんやりした状態になり、夢見がちになり、孤独を求めるようになり、預言的なヴィジョンを見たり、ときには意識を失うほどの発作を起こす。この失神のあいだ、ブリヤート人の言うところでは、魂は精霊に拉致されて神々の宮殿に迎えられるのである。魂はそこで、祖先のシャーマンからシャーマン職の秘密や神々の姿と名前、精霊の名前とその儀礼等について教えを受ける。この最初のイニシエーションがすんで、ようやく魂は肉体に戻ることができる」(エリアーデ「世界宗教史5・P.40」ちくま学芸文庫)
というふうに。
ーーーーー
なお、沖縄県米軍基地問題、北方領土問題、北朝鮮拉致問題など、どれも中国抜きに進められない課題ばかりは動いていない気配のこの夏。高速で広域化・高度化していく資本主義に依存しなければ進められることも進められない話ばかりでもある。当然ながら今の米中貿易関係をよりいっそうスムーズに相互進展させる必要性がある。にもかかわらず日本政府はいつもの無能性を発揮してアメリカに隷属しグローバル資本主義の進展を妨害している。その意味に限り戦後民主主義の採用によってアメリカによる日本の家畜化は上手くいったと言えそうだ。ところが日本を除く他の資本主義先進諸国は全然待ってくれなどしない。他の先進諸国の方向性は基本的に変わっていない。次のように。
「資本主義は、古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている。これは資本主義の固有の受難であるが、この受難は資本主義の本質を何ら変えるものではない。こうして、《国家》は、公理系の中に組み入れられた種々の流れを調整する働きにおいて、次第に重要な役割を演ずるように規定されてくることになる。つまり、生産とその企画に対しても、また経済とその『貨幣化』に対しても、また剰余価値とその吸収(《国家》装置そのものによるその吸収)に対しても」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・P.303~304」河出書房新社)
だからこのような経済的方向性を維持しつつ同時に自然力であり性的であるほかない人間の生活環境の不可避的変容に合わせて全生産様式の流れもまた変容させねばならない時期はしばしばやってくる。香港にも台湾にも韓国にも例外なく。とはいえ見た目はなるほど変わって行って当たり前だとしてもなお、外国貿易の基礎的形態はもはや変えることはできないし、これを変えることは資本主義を破棄することと同義でしかない。だから重要なのは、第一に。
「研究の対象をその純粋性において撹乱的な付随事にわずらわされることなく捉えるためには、われわれはここでは全商業世界を一国とみなさなければならないのであり、また、資本主義的生産がすでにどこでも確立されていてすべての産業部門を支配しているということを前提しなければならない」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十二章・P.133」国民文庫)
懸案の香港事情について考える場合、中国はとっくの昔に資本主義経済を制度として取り入れているという認識がなくてはならない。米中というのは、ヨーロッパは言うまでもなく、日本を含む資本主義の様々な形態のうち、対立する二つの両極に置くことができる形態の社会的実在であり、両極端の見本でしかない。そのせめぎ合いが激化している過程で香港民主化運動を完全に米国側の宣伝に利用するのは途方もなく考えものである。一九八〇年代後半の天安門事件以来これまで中国からアメリカへ亡命した知識人は少なくないが、生涯、アメリカの政治宣伝のためにとことん利用されている事実を見逃すべきでない。そのため、亡命したまではよかったものの自分に課せられた政治宣伝のために事態はますます悪化の一途を辿り、亡命後の言動はすべて中国と米国との融和ではなく逆に両者の間に新たな壁を作り上げることに貢献するという転倒を招くことになった。
またなお旧ソ連の場合、その内実は一国資本主義だったのであり世界各地で様々な貿易関係が築き上げられ、ただ単に目に見える統治形態だけがクレムリンに集中されていたというに過ぎない。日本政府権力が戦後一貫して一党独裁にほぼ近い形を取っているのとさして違わない。日本は戦後長いあいだずっと資本主義右派と左派(あるいは社会主義右派と左派)とがあるだけの「形式民主主義」のもとで自分で自分自身の立場を自己欺瞞してきたに過ぎない。一九四五年の敗戦を機に米国に忠誠を誓った戦後日本の政治家と財界人、そしてその後継者らは今なお米国のために日本全土とその国民を米国経済のために優先的に犠牲に供える事業に従事させられ続けている。そして彼らがただ単なる政治家や財界人ではなく「有力」<政治家=財界人の系譜>を維持存続させてくることが可能だったのは、常に米国政府に忠実に隷属してきた結果なのであって始めから「有力」だったわけではまったくない。大事なのは「有力」とか「有名」かどうかでなく政治家としての「実力」なのであり、その根拠は二〇二〇年のパンデミックで丸裸にされた。
第二に実務面で。
「貿易によって一方では不変資本の諸要素が安くなり、他方では可変資本が転換される必要生活手段が安くなるかぎりでは、貿易は利潤率を高くする作用をする。というのは、それは剰余価値率を高くし不変資本の価値を低くするからである。貿易は一般にこのような意味で作用する。というのは、それは生産規模の拡張を可能にするからである。こうして、貿易は一方では蓄積を促進するが、他方ではまた不変資本に比べての可変資本の減少、したがってまた利潤率の低下をも促進するのである。同様に、貿易の拡大も、資本主義的生産様式の幼年期にはその基礎だったとはいえ、それが進むにつれて、この生産様式の内的必然性によって、すなわち不断に拡大される市場へのこの生産様式の欲求によってこの生産様式自身の産物になったのである。ここでもまた、前に述べたのと同じような、作用の二重性が現われる(リカードは貿易のこの面をまったく見落としていた)。
もう一つの問題ーーーそれはその特殊性のためにもともとわれわれの研究の限界の外にあるのだがーーーは、貿易にとうぜられた、ことに植民地貿易に投ぜられた資本があげる比較的高い利潤率によって、一般的利潤率は高くされるであろうか?という問題である。
貿易に投ぜられた資本が比較的高い利潤率をあげることができるのは、ここではまず第一に、生産条件の劣っている他の諸国が生産する商品との競争が行なわれ、したがって先進国の方は自国の商品を競争相手の諸国より安く売ってもなおその価値より高く売るのだからである。この場合には先進国の労働が比重の大きい労働として実現されるかぎりでは、利潤率は高くなる。というのは、質的により高級な労働として支払われない労働がそのような労働として売られるからである。同じ関係は、商品がそこに送られまたそこから商品が買われる国にたいしても生ずることがありうる。すなわち、この国は、自分が受け取るよりも多くの対象化された労働を現物で与えるが、それでもなおその商品を自国で生産できるよりも安く手に入れるという関係である。それは、ちょうど、新しい発明が普及する前にそれを利用する工場主が、競争相手よりも安く売っていながらそれでも自分の商品の個別的価値よりも高く売っているようなものである。すなわち、この工場主は自分が充用する労働の特別に高い生産力を剰余価値として実現し、こうして超過利潤を実現するのである。他方、植民地などに投下された資本について言えば、それがより高い利潤率をあげることができるのは、植民地などでは一般に発展度が低いために利潤率が高く、また奴隷や苦力などを使用するので労働の搾取度も高いからである。ところで、このように、ある種の部門に投ぜられた資本が生みだして本国に送り返す高い利潤率は、なぜ本国で、独占に妨げられないかぎり、一般的利潤率の平均化に参加してそれだけ一般的利潤率を高くすることにならないのか、そのわけは分かっていない。ことに、そのような資本充用部門が自由競争の諸法則のもとにある場合にどうしてそうならないのかは、わかっていない。これにたいしてリカードが考えつくのは、なかでも次のようなことである。外国で比較的高い価格が実現され、その代金で外国で商品が買われて帰り荷として本国に送られる。そこでこれらの商品が国内で売られるのだからこのようなことは、せいぜい、この恵まれた生産部面が他の部面以上にあげる一時的な特別利益になりうるだけだ、というのである。このような外観は、貨幣形態から離れて見れば、すぐに消えてしまう。この恵まれた国は、より少ない労働と引き換えにより多くの労働を取り返すのである。といっても、この差額、この剰余は、労働と資本とのあいだの交換では一般にそうであるように、ある階級のふところに取りこまれてしまうのであるが。だから、利潤率がより高いのは一般に植民地では利潤率がより高いからだというかぎりでは、それは植民地の恵まれた自然条件のもとでは低い商品価格と両立できるであろう。平均化は行なわれるが、しかし、リカードの考えるように旧水準への平均化ではないのである。
ところが、この貿易そのものが、国内では資本主義的生産様式を発達させ、したがって不変資本に比べての可変資本の減少を進展させるのであり、また他方では外国との関係で過剰生産を生みだし、したがってまたいくらか長い期間にはやはり反対の作用をするのである。
このようにして一般的に明らかになったように、一般的利潤率の低下をひき起こす同じ諸原因が、この低下を妨げ遅れさせ部分的には麻痺させる反対作用を呼び起こすのである。このような反対作用は、法則を廃棄しないが、しかし法則の作用を弱める。このことなしには不可解なのは、一般的利潤率の低下ではなくて、反対にこの低下の相対的な緩慢さであろう」(マルクス「資本論・第三部・第三篇・第十四章・P.388~391」国民文庫)
そうして始めてこう言える。
「マルクスは、<利潤率が傾向的に低下する>とともに、<剰余価値の絶対量が増大する>という二重の運動を相反傾向の法則と呼んだ。<種々の流れが脱コード化し脱土地化する>とともに、<それらの流れが再び激しく模造の再土地化をうける>という二重の運動が存在するということが、右の法則の系として考えられる。資本主義機械が、種々の流れから剰余価値を引きだすために、これらの流れを脱土地化し脱コード化して、これらを公理系化すればするほど、官僚機械や公安組織のような、資本主義の付属装置は、剰余価値の増大する部分を吸収しながら、ますます<再-土地化>をすすめることになるのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・第一章・P.49~50」河出書房新社)
さらにボルヘスが古い中国文献について述べている箇所がある。
「中国の百科事典について指摘したのと同じ特徴を思いおこさせる。この遥か彼方の書物では、動物は次のように分類されているのであるーーー(a)皇帝に帰属するもの、(b)芳香を発するもの、(c)調教されたもの、(d)幼豚、(e)人魚、(f)架空のもの、(g)野良犬、(h)この分類に含まれるもの、(i)狂ったように震えているもの、(j)無数のもの、(k)駱駝の繊細な毛の絵筆で描かれたもの、(l)その他のもの、(m)花瓶を割ったばかりのもの、(n)遠くで見ると蝿に似ているもの」(ボルヘス「ジョン・ウィルキンズの分析言語」『続審問・P.184~185』岩波文庫)
この中で「(j)無数のもの」とある。「一頭」とか「一羽」とか、一定の個体数で分類可能な動物として数えることができない、けれども植物とは認めがたい動物のような生きもののことを指して言われている。言い換えれば「数値化できないもの」という意味だ。資本主義経済の枠内に組み込むことができないもの、商品化不可能なもの、というほかない生物のことである。しかもこの生物なしに地球上のありとあらゆる生態系は破滅する。商品化不可能なため資本主義はそれを絶滅しようとする方向に動く。ところが絶滅させてしまうやもはや資本主義は地球上の生態循環装置を崩壊させてしまうことに直結して自爆する。その意味で資本主義のアキレス腱と言える部分である。しかしただ単に「自然を守れ」式のナチュラリズムに訴えるだけでは無力でありまた問題を見誤ることになるだろう。この点についてはおいおい触れることにしたい。
BGM
「ほらあすこに森が見えるだろう、ずっと流れてゆくあの河や長い堤に沿ってる森さ。(その中にある水溜りの奥底は)近くの泉に通じてるのだけど、そのあたりには金色の裘(かわごろも)にかがやいた羊たちが見張りもなしにいつも草を食べて遊んでいるのだよ。その立派な羊の毛皮から毛を一房どうにでもして大至急私にとって来て欲しい」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の6・P.227」岩波文庫)
ウェヌスの説明に嘘は混じっていない。「金色の裘(かわごろも)にかがやいた羊たちが見張りもなしにいつも草を食べて遊んでいる」のは事実だ。だが羊たちは真昼の太陽の炎熱を浴びると力を増して荒れ狂い、角(つの)を誇示し他の動物を殺害して一時を過ごす習性を持ち、時として人間もその犠牲になるという点は省かれている。このような場合、プシューケーに語ったウェヌスの説明は虚偽に相当するのではないかという疑惑が出現しているわけだが、古代ギリシア・ローマから二五〇〇年を経た今なお、この種の問題系は形を変えて司法の場で争われている。
とはいうもののプシューケー自身、もはやウェヌスの命令を果たす気力を失っている。命令を果たすと見せかけて外出し、途中の河で投身自殺(自傷行為)を図ろうと考える。そのとき河の中から「愉しい音楽の育ての親の緑の葦(あし)」が歌い出て、歌いつつ歌詞で危険回避の方法を教える。重要なのは歌の神(ムーサ)の出現である。
「ムゥサの神々から授けられる神がかりと狂気とがある。この狂気は、柔かく汚れなき魂をとらえては、これをよびさまし熱狂せしめ、叙情のうたをはじめ、その他の詩の中にその激情を詠(よ)ましめる。そしてそれによって、数えきれぬ古人のいさおを言葉でかざり、後の世の人々の心の糧たらしめる」(プラトン「パイドロス・P.54~55」岩波文庫)
プシューケーは難題をクリアして生き生きとウェヌスの前に歩み出て「黄金の房」を捧げる。さらに不機嫌になったウェヌスはすぐさま第三の試練を与える。
「あすこのとても高い厳の上に聳(そび)え立って嶮(けわ)しい山の巓(いただき)が見えるだろう。あそこから真っ黒な泉のくろずんだ波が流れおちて、近くの谷に閉じかこまれて淵(ふち)となり、黄泉(ステュクス)の沼地に注ぎ込んだそのはては、叫喚の河(コーキュートス)の荒い流れにあわさるのだけど、その泉のてっぺんの水が湧き出る奥底から、冷たいほどの水を一杯私に大急ぎでね、この小甕(こがめ)へ汲(く)んで来ておくれ」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の6・P.229」岩波文庫)
プシューケーは言われた通りに山頂を目指すのだが、それは山頂の巌から身投げ(自傷行為)することで打ち続く理不尽な試練から脱出せんがためである。このようにふだんなら外界へ向いている人間の力は、ニーチェのいうように、流動を阻止されると内部へと逆流して自傷行為へ転換する。
「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十六・P.99」岩波文庫)
ウェヌスが神である以上、ウェヌスの言葉は国家の法規と等価である。プシューケーは人間であり「神=国家」の命令に逆らうことはできない。ウェヌスは物質的暴力を用いているわけではない。ウェヌスが駆使しているのは「ウェヌス自身の言葉=言葉の暴力」である。こうしてウェヌスはプシューケーの内面を残酷に穿ち、始めはありもしなかった「良心の疚しさ」という重圧感情を発生させ、それにさらに容赦なく厚みを加えていこうとする。だから現代社会に蔓延する数々の自傷行為は、遠い昔にはありもしなかった罪責感情を常に内面化することを余儀なくされた人間に特有の「良心の疚しさ」に耐えきれず、一時的に重圧感を解放する行為として実行されるケースが圧倒的に多いのである。
さて、もう死にたいと願うプシューケーの前に突然「荒鷲」が姿を見せる。荒鷲というのはガニュメーデースのこと。
「ガニュメーデースをその美貌のゆえにゼウスが鷲を用いて掠(さら)い、天上で神々の酒注ぎとした」(アポロドーロス「ギリシア神話・第三巻・P.152」岩波文庫)
ゼウス(=ユピテル=ジュピター)はガニュメーデースを自分の傍に置いて盃持ちとして使う。ゼウスがガニュメーデースを掠(さら)うために用いた鷲はウェヌスの息子クピードーである。それはそれとしてアポロドーロスによればガニュメーデースは男性として生まれた。「その美貌ゆえ」にゼウスはガニュメーデースを掠わせたのだが、しかしガニュメーデースは女性の代わりとしてゼウスの盃持ちに抜擢されたわけではおそらくない。美少年アルキビアデスがプラトンの言葉を毒蛇に喩えて述べる有名な場面がある。
「毒蛇に咬まれた者の苦境はすなわち私の現状でもある。実際、人のいうところによると、こういう経験を嘗めた者は、自ら咬まれたことのある者以外には誰にも、それがどんなだったかを話して聴かせることを好まぬものだという、それは、苦悩のあまりにどんな法外な事を為(し)たりいったりしても、こういう人達にかぎって、それを理解もしまた寛容もしてくれるだろうーーーと、こう人は考えるからである。ところが《僕》はそれよりもさらにいっそう烈しい苦痛を与える者に咬まれた、しかも咬まれて一番痛い個所をーーー心臓か魂を、または何とでも適当に呼べばいいのだがーーー愛智上(フィロソフィア)の談論に打たれまた咬まれたのだった。その談論というのは若年でかつ凡庸でない魂を捉えたが最後、毒蛇よりも凶暴に噛み付いて離さず、かつこれにどんな法外な事でも為(し)たりいったりさせるほどの力を持っているのである。さらにまた見渡すところ今僕の前には、ファイドロスだとか、アガトンだとか、エリュキシマコスだとか、パウサニヤスだとか、アリストデモスだとか、アリストファネスだとか(ソクラテスその人は別に挙げるにも及ぶまい)、またその他の諸君がおられるのだが、この諸君は実際みな愛智者の乱心(マニア)と狂熱(バクヘイヤ)に参している人達である」(プラトン「饗宴・P.140~141」岩波文庫)
ここで言われている「乱心(マニア)と狂熱(バクヘイヤ)」はディオニュソス祭=バッコス祭=サトゥルヌナリア祭を念頭に置いたものだ。それほど狂信的な繋がりだった。一見すると「愛智者」という言葉が曖昧さを増大させているかのように見える。けれども愛智者の集会がなぜ男性ばかりなのかという意味で考えれば、美貌の男性(特に若年者)は必ずしも女性の代わりに連れてこられたわけではなく、男性同志の結社的繋がりがあったと考えられる。それは女性の代わりという消極的な意味ではなく、近現代ではもはや見られなくなっているが、かつては男性同志の精神的繋がりを重視した文化が存在していたことを物語る。ゲイにはゲイの、レズビアンにはレズビアンの、バイセクシャルにはバイセクシャルの、トランスジェンダーにはトランスジェンダーの、さらにインターセックスにはインターセックスの、強固な連帯があったとしても何の不思議もない。ちなみに日本でも一九八〇年代後半の大学では「ゲイ・サイエンス」(悦ばしき知識)、「友愛の政治学」、といった言葉が流通した。このことは女性排除とか男尊女卑(あるいは女尊男卑)とかとはまったっく無縁の思想としてフェミニズム陣営から深い理解を得たという経緯がある。
荒鷲=ガニュメーデースはいう。
「神々もまたユーピテル様御自身でさえ、あの黄泉(ステュクス)の流れは畏(おそ)れ憚(はばか)りなさるってのは、ともかく話でなりと知っておいででしょう、そのうえちょうどあなた方が神明にかけて誓いを立てるように、神々は黄泉(ステュクス)の尊厳にかけていつも誓いをなさるということも。だからさあその小甕をおよこしなさい」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の6・P.231」岩波文庫)
荒鷲=ガニュメーデースはあっという間に水を汲んでくる。ただ注意したいのは、ゼウスの傍使えになっているガニュメーデースがなぜ黄泉(ステュクス=地獄)へそう簡単に出入りできるのか、である。そもそもゼウスとステュクス(冥界=地下=地獄)との関係は深い。
「地下においでの、人みなを 迎え取られる、死んでしまった人々の ゼウスの御許」(アイスキュロス「救いを求める女たち」『ギリシア悲劇1・P.403』ちくま文庫)
クピードーの世話を受けて天上の神々の仲間入りを果たすことができた荒鷲=ガニュメーデースの全面的援助により第三の試練を達成するプシューケー。彼女は喜んでウェヌスの前に小甕を差し出して捧げる。ところがここに至りウェヌスの嫉妬と競争心は絶頂に達する。第四の試練を与える。
「ここにあるこの手筐(てばこ)を持ってーーーすぐと冥途まで冥王(オルクス)御自身がおいでの亡者の棲家(すみか)へと行って来とくれ、そいで(お妃の)プロセルピナに筐を渡してこういうのだよ、ーーーウェヌス様のおたのみには、あなた様の好い御容色(ごきりょう)をほんのちょっぴり、ほんの一日のあいだ保つだけなりと、頒(わ)けて下さいますよう。前からの御自身の分は、御子息の病気の看護(みとり)ですっかりすり減らし、使い果たしてしまいましたのでーーーってね」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の6・P.232~233」岩波文庫)
死んでしまえということだ。プシューケーは今度こそ投身自殺(自傷行為)を決意する。ところでウェヌスは冥界の女王プロセルピナのことについて、尊称も付けずにどこか身近な友人ででもあるかのように呼んでいることに気づかないだろうか。それには次のようなわけがある。
「女神(ウェヌス)は翼もつ息子クピードを抱きしめて、いいます。『武器とも腕とも頼む、わが子クピードよ、わたしの力よ、さあ、なにびとをもうち負かすあのおまえの飛び道具を!空・海・地下の三圏のうち、最後のものをくじで引きあてたあの冥界の王の胸板を、すばやいその矢で射ぬいておくれ!ーーーおまえ、わたしたち共同の主権のためにーーーそれを少しでもありがたがるのならーーーあの娘プロセルピナを、叔父にあたる冥王と結びつけるのです!』ウェヌスはこういいました。クピードは、矢筒を開き、母親の意のままに、たくさんの矢のなかから一本を選び出しました。どれよりも鋭くて、確実で、いちばん弓に素直な矢なのです。それから、膝をあてがって弓の弦を張ると、さかとげのついた矢で、冥王の胸を射ぬいたのです。ーーー常春(とこはる)の世界ですーーーこの森で、プロセルピナが遊びながら、すみれや白百合(しらゆり)を摘んでいました。女の子らしい熱心さで、かごやふところをいっぱいにし、仲間たちを負かそうと、花摘み比べをしていたのです。その姿が、冥王の目にとまりました。あっというまの一目ぼれで、たちまち冥王は、彼女をかどわかし去ります」(オウィディウス「変身物語・上・巻五・P.196~199」岩波文庫)
というように、冥界の王=オルクスとプロセルピナとを結婚させたのはウェヌス女神自身だからだ。しかしこの結婚を成就させたのはウェヌスの権力意志である。息子クピードーは、矢、翼、焔、といった無類の武器を駆使して、ユピテルの空、ネプトゥーヌスの海を、制覇したに等しい。後は冥界だけである。全世界を構成する空・海・地下のうち、その三分の一にあたる地下だけを放っておくのは馬鹿げている。冥界=地獄もまた自分たちの手に入れるべきだというのがウェヌスの考え方である。それゆえにプロセルピナを冥界の女王の座に付けた。だから気安く扱うのである。一方、死を覚悟したプシューケーは身投げしようと高い塔の上に立つ。するとなぜかプシューケーに向かって塔が語りかけて言う。冥界へ行って帰ってくるためには上手い方法がある。ラケダイモーンのタイナロスへ向かうとよいと。
「ラケダイモーン」はスパルタのこと。また「タイナロス」とはバルカン半島最南端に位置するタイナロス岬の洞穴のこと。冥界の出入口があったとされる。だがタイナロス岬の洞穴伝説はおそらくスパルタ成立以前からあったもので、スパルタ成立以後はその神話だけが残された可能性が強い。今はギリシア最南端から地中海を見渡す観光地化している。しかしこのように険しい岬の洞穴を冥界との境界線とする思考は古代では世界的に当たり前の思考法であり地域によっては儀式化していた。折口信夫は琉球神道を例に上げている。
「琉球では、太陽神の他に、自然崇拝そのままの形を残して居る。それ故恐しい場所、ふるめかしい場所、由緒ある場所は、必、御嶽(オダケ)になって居る。自分の祖先でも、七代目には必神になる。中山世鑑は、七世生神と書いている。此は、死後七代目にして神となると言うことである。以前には、人が死ぬと、屍体を、大きな洞窟の中へ投げこんで、其洞窟の口を石で固め、石の間を塗りこんだものであるが、此習わしが次第に変化して、墓を堅固に立派にするようになった為に、墓を造って財産を失う人が多くなった。七代経つと、其洞の中へは屍を入れないで、神墓(くりばか)と称し、他の場所へ、新墓所を設ける。神墓(クリバカ)は拝所となる。此拝所を《おがん》と言う。時代を経るに従って、他の人々も拝する様になる。此拝所(オガン)が、恐しい場所になって来る。拝所(オガン)を時々発掘すると、白骨が出て来る。此を、骨霊(コチマブイ)と言う。ーーー大体に於て、石を以て神々の象徴と見る風があって、道の島では、霊石に、《いびがなし》(神様)という風な敬称を与えている所もある」(折口信夫「琉球の宗教」『折口信夫全集2・P55~56』中公文庫)
ところで「高い塔」はいう。
「カローンでもあの閻王様(ディース)でさえも、何(なん)にもただではしてくれない」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の6・P.234」岩波文庫)
債権債務関係が生じている。ニーチェはいう。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられる」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)
高い塔に教えられた通りに行動するプシューケー。
「智恵(ちえ)の広い塔はこまごまと親切に教え訓(さと)してくれました。それでプシューケーは猶予あらせずタイナロスへ出かけ、(いわれたように)ちゃんとそのお貸(あし)だの麦粉餅だのを持って冥途への路を駆け下り、痩(や)せほうけた驢馬の馭者の脇を黙ったまま通りすごし、河の艀賃を船頭に払って、そこに浮いている亡者の願いごとも構いつけず、機織女たちのずるっこい頼みにも相手にならないで、例の犬の身のすくむように荒れ狂うのはお餅の御馳走で手なずけておいて、プロセルピナの御殿へとはいりこみました。そして女主人(おんなあるじ)が坐り心地のよい椅子(いす)やそれはそれは見事なお食事をすすめてくれても辞退して、その足もとにつつましく坐り、並パンに満足して、ウェヌスの用むきをお伝えしてました。するとすぐさま小筐に何か容れて固く蓋(ふた)をして渡してくれたので、それを持ってもう一つのお餅で欺して吠える犬の口を封じ、残りのお貸(あし)を船頭に払ってやって、往きよりもずっと元気よくいそいそと冥途から立ち戻ってまいりました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の6・P.236~237」岩波文庫)
冥界からの復帰。イニシエーションに伴う試練としてはこれですべて果たしたことになる。だが、「見てはいけない」と言われていた「小筐の蓋(ふた)」を開けて見てしまう。しかし「振り返ってはいけない」、「開けてはいけない」、「見てはいけない」、という断りごとは古代ギリシア以前から神話には付きものである。ピタゴラスが信条としていたものにこうある。
「国外へ出かけようとしているときには、国境(くにざかい)で振り向かぬこと」(「ピュタゴラス」『ギリシア哲学者列伝・下・第八巻・第一章・P.26』岩波文庫)
これは極めて原始的な思考方法の一つである。日本でもイザナギノミコト・イザナミノミコト神話を始め「鶴の恩返し」など幾つかのパターンが見られる。単純に言えば世界中どこへ行っても、見てはいけない行為というのは民族創生神話の中の密儀に属する。それは個体Aから個体Bへの生成変化の時間になされる作業であって、人体であれば生殖行為・出産あるいは腐敗を、機械=商品であればその生産過程を現わす。今で言う企業秘密あるいは機密情報であり外部に洩らすわけにはいかない。ギリシア悲劇では有名なシーン。使者は次のように伝える。
「使者 オイディプスは見えぬ手で娘たちをまさぐって、言う。娘たちよ、お前たちは晴れて立派に心に耐えて、この場所から立ち去り、見るべきでないことを見、聞くべきでないことを聞こうとしてはならぬ。さあ、急いで行け。ただ、許されたるテセウスのみここにあって、事の次第を知るがよい。ーーーわたしらが立ち去って、しばらくしてから、ふりかえると、もうあの人はどこにも見当たらず、王お一人が、何か見るも恐ろしい、見るに耐えぬものが現われたかのように、眼を蔽うように手を顔の前にかざしていられるのが見られた」(ソポクレス「コロノスのオイディプス」『ギリシア悲劇2・P.533』ちくま文庫)
アンティゴネはいう。
「アンティゴネ 父を奪ったのは戦さでも海でもなく、無明(むみょう)の野がさらいました、不可思議な奇怪な死に方で」(ソポクレス「コロノスのオイディプス」『ギリシア悲劇2・P.534~535』ちくま文庫)
オイディプスは眼球を破壊したがそれだけでは飽き足らず自分で自分自身の男性器を切断して死んだのである。ただ、それは秘儀に属する行為であり伝達する言葉だけが残されることになる。また、死んでいるにもかかわらず社会的言語体系によって死んだとは見なされないという宙吊り状態について、エドガー・ポーは小説の中で次のように書いている。
「『ヴァルドマアルさん、いまあなたがどんな気持で何を望んでいるか、説明して貰えますか?』ふたたび両頬に、あの消耗性疾患に特有の紅潮がすぐのぼってきた。(両顎と唇は相変らず硬直したままだったが)口のなかで舌がふるえ、というよりも、はげしく回転し、ついに、私がすでに述べた、あの同じものすごい声が叫んだ。『後生だ!ーーー早く!ーーー早く!ーーー眠らせてくれーーーでなかったら、早く!ーーー目をさまさせてくれ!ーーー早く!ーーー《俺は死んでるんだぞ!》』」(ポオ「ヴァルドマアル氏の病症の真相」『ポオ小説全集4・P.235』創元推理文庫)
だから、変化途中の宙吊り状態、その過程を見ることは、物質がどろどろに融解し化学変化を起こしている真っ最中か、あるいは自殺(自傷行為)の場合なら死へ至る途中の解体腐敗過程にある場合か、どちらかなのであり、それを見ることは許されないということを意味している。要するに、変化そのものを語る言葉だけは「ない」状況であって、だからこそ「秘儀(秘密、狂気、錯乱、仮死状態)」としか語ることができない。ゆえにそれについての言葉もまた《ない》としか言えない。あれよという間もなく変容していく流動状態を説明する言語は不在である。だから語ることもできない。言葉は急速な変化に追いていけない。眼前で生じている事態の変容を正確に把握し伝達することはできない。だから禁じられる。禁じられるや「秘儀」とされる。秘儀が先にあってそれが事後的に語ることの禁止として制度化されたのではなく、そもそも言語化不可能であるがゆえに秘儀とされそれについて語ることもタブー化したのである。原始的思考方法を考える場合、ニーチェのいうように、常に原因と結果との転倒が起こっていると考えなくてはならない。古代神話の伝統に則して述べれば、プシューケーもまた秘儀(秘密、狂気、錯乱、仮死状態)を覗いてしまったがゆえに地獄(ステュクス)の昏迷に陥らなければならない。だが古代人の思考法に則して述べるとすれば次のように文脈を転倒させなければならない。プシューケーは冥界(ステュクス=黄泉の国=地獄)へ降りて冥府を覗き見たがゆえに昏迷(エクスタシーを含む失神・昏睡)=「忘却」(筺の中=死=無)の最中にある。見たことは言語化できない(言語として固定できない)ものばかりであり、それを表わす言語が不在である以上、言語化作業は封印・禁止されると。
「幽冥界の、というより正真正銘の地獄(ステュクス)の眠りだけが、蓋を取られると見る見る立ちのぼってプシューケーにかかり、昏迷(こんめい)の靄(もや)でひたひたと手肢(てあし)じゅうを取り巻いてしまいました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の6・P.237~238」岩波文庫)
文中に「昏迷(こんめい)の靄(もや)でひたひたと手肢(てあし)じゅうを取り巻いて」とある。これまでプシューケーが通過してきたイニシエーションには、プラトンのいうように、いつも「神がかりと狂気とがある」。音楽の精霊ムーサ(複数形でムーサイ)が関わっている。ここではプシューケーの「四肢の痺れ」が特徴として上げられている。古代人は音楽と舞踏だけを用いて実にしばしばそのような精神状態を引き起こしていた。とりわけ儀式の際には。さらに東南アジアや中南米でも古代の儀式を残していた少数民族のあいだでは、近現代になるまで、居住地域周辺に自生する薬草類を伝統的儀式に用いていた。ヨーロッパのベラドンナやメキシコのペヨトルなどが有名。ところが現代社会になるとその主成分の幾つかを意図的に化学合成した薬物が大都会の市場を出回るようになった。ちなみにアメリカのスラング(俗語)に“fire como”というのがある。「燃え!」とか「いくっ!」とかいう意味。それほど強烈ではないにせよ、古代儀礼ではそのような薬草の混合物を用いることは当たり前に行われていた。それが恐らく、プシューケーに不可能なことを可能にさせた昏迷状態の正体であろう。こうしてプシューケーに与えられたイニシエーションの試練はすべて終わる。後はクピードーとの正式な婚姻が残されるわけだが、それは場を移動させて改めて行われなければならない。儀式はそのような手順を取る。それは極めてアニミズム的な人間の原始的心性に根付いた太古の精神性である。
「シャーマンになろうとする者は、奇妙な行動によって人目をひくようになる。いつも夢見がちになる、孤独を求める、森や荒地を好んで徘徊する、ヴィジョンを見る、眠りながら歌を歌う、等々である。ときには、こうした準備期はかなり激しい症状で特徴づけられる。ヤクート人のあいだでは、そうした若者は性格が狂暴になり、容易に意識を失い、森にひきこもり、木の皮を食らい、水や火の中に飛び込み、ナイフで身体に傷をつけたりする。世襲シャーマンの場合でも、シャーマン候補者が選定される前には、その者になんらかの行動の変化が見られる。祖先のシャーマンの魂が、一族中からある若者を選ぶ。すると、その若者はぼんやりした状態になり、夢見がちになり、孤独を求めるようになり、預言的なヴィジョンを見たり、ときには意識を失うほどの発作を起こす。この失神のあいだ、ブリヤート人の言うところでは、魂は精霊に拉致されて神々の宮殿に迎えられるのである。魂はそこで、祖先のシャーマンからシャーマン職の秘密や神々の姿と名前、精霊の名前とその儀礼等について教えを受ける。この最初のイニシエーションがすんで、ようやく魂は肉体に戻ることができる」(エリアーデ「世界宗教史5・P.40」ちくま学芸文庫)
というふうに。
ーーーーー
なお、沖縄県米軍基地問題、北方領土問題、北朝鮮拉致問題など、どれも中国抜きに進められない課題ばかりは動いていない気配のこの夏。高速で広域化・高度化していく資本主義に依存しなければ進められることも進められない話ばかりでもある。当然ながら今の米中貿易関係をよりいっそうスムーズに相互進展させる必要性がある。にもかかわらず日本政府はいつもの無能性を発揮してアメリカに隷属しグローバル資本主義の進展を妨害している。その意味に限り戦後民主主義の採用によってアメリカによる日本の家畜化は上手くいったと言えそうだ。ところが日本を除く他の資本主義先進諸国は全然待ってくれなどしない。他の先進諸国の方向性は基本的に変わっていない。次のように。
「資本主義は、古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている。これは資本主義の固有の受難であるが、この受難は資本主義の本質を何ら変えるものではない。こうして、《国家》は、公理系の中に組み入れられた種々の流れを調整する働きにおいて、次第に重要な役割を演ずるように規定されてくることになる。つまり、生産とその企画に対しても、また経済とその『貨幣化』に対しても、また剰余価値とその吸収(《国家》装置そのものによるその吸収)に対しても」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・P.303~304」河出書房新社)
だからこのような経済的方向性を維持しつつ同時に自然力であり性的であるほかない人間の生活環境の不可避的変容に合わせて全生産様式の流れもまた変容させねばならない時期はしばしばやってくる。香港にも台湾にも韓国にも例外なく。とはいえ見た目はなるほど変わって行って当たり前だとしてもなお、外国貿易の基礎的形態はもはや変えることはできないし、これを変えることは資本主義を破棄することと同義でしかない。だから重要なのは、第一に。
「研究の対象をその純粋性において撹乱的な付随事にわずらわされることなく捉えるためには、われわれはここでは全商業世界を一国とみなさなければならないのであり、また、資本主義的生産がすでにどこでも確立されていてすべての産業部門を支配しているということを前提しなければならない」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十二章・P.133」国民文庫)
懸案の香港事情について考える場合、中国はとっくの昔に資本主義経済を制度として取り入れているという認識がなくてはならない。米中というのは、ヨーロッパは言うまでもなく、日本を含む資本主義の様々な形態のうち、対立する二つの両極に置くことができる形態の社会的実在であり、両極端の見本でしかない。そのせめぎ合いが激化している過程で香港民主化運動を完全に米国側の宣伝に利用するのは途方もなく考えものである。一九八〇年代後半の天安門事件以来これまで中国からアメリカへ亡命した知識人は少なくないが、生涯、アメリカの政治宣伝のためにとことん利用されている事実を見逃すべきでない。そのため、亡命したまではよかったものの自分に課せられた政治宣伝のために事態はますます悪化の一途を辿り、亡命後の言動はすべて中国と米国との融和ではなく逆に両者の間に新たな壁を作り上げることに貢献するという転倒を招くことになった。
またなお旧ソ連の場合、その内実は一国資本主義だったのであり世界各地で様々な貿易関係が築き上げられ、ただ単に目に見える統治形態だけがクレムリンに集中されていたというに過ぎない。日本政府権力が戦後一貫して一党独裁にほぼ近い形を取っているのとさして違わない。日本は戦後長いあいだずっと資本主義右派と左派(あるいは社会主義右派と左派)とがあるだけの「形式民主主義」のもとで自分で自分自身の立場を自己欺瞞してきたに過ぎない。一九四五年の敗戦を機に米国に忠誠を誓った戦後日本の政治家と財界人、そしてその後継者らは今なお米国のために日本全土とその国民を米国経済のために優先的に犠牲に供える事業に従事させられ続けている。そして彼らがただ単なる政治家や財界人ではなく「有力」<政治家=財界人の系譜>を維持存続させてくることが可能だったのは、常に米国政府に忠実に隷属してきた結果なのであって始めから「有力」だったわけではまったくない。大事なのは「有力」とか「有名」かどうかでなく政治家としての「実力」なのであり、その根拠は二〇二〇年のパンデミックで丸裸にされた。
第二に実務面で。
「貿易によって一方では不変資本の諸要素が安くなり、他方では可変資本が転換される必要生活手段が安くなるかぎりでは、貿易は利潤率を高くする作用をする。というのは、それは剰余価値率を高くし不変資本の価値を低くするからである。貿易は一般にこのような意味で作用する。というのは、それは生産規模の拡張を可能にするからである。こうして、貿易は一方では蓄積を促進するが、他方ではまた不変資本に比べての可変資本の減少、したがってまた利潤率の低下をも促進するのである。同様に、貿易の拡大も、資本主義的生産様式の幼年期にはその基礎だったとはいえ、それが進むにつれて、この生産様式の内的必然性によって、すなわち不断に拡大される市場へのこの生産様式の欲求によってこの生産様式自身の産物になったのである。ここでもまた、前に述べたのと同じような、作用の二重性が現われる(リカードは貿易のこの面をまったく見落としていた)。
もう一つの問題ーーーそれはその特殊性のためにもともとわれわれの研究の限界の外にあるのだがーーーは、貿易にとうぜられた、ことに植民地貿易に投ぜられた資本があげる比較的高い利潤率によって、一般的利潤率は高くされるであろうか?という問題である。
貿易に投ぜられた資本が比較的高い利潤率をあげることができるのは、ここではまず第一に、生産条件の劣っている他の諸国が生産する商品との競争が行なわれ、したがって先進国の方は自国の商品を競争相手の諸国より安く売ってもなおその価値より高く売るのだからである。この場合には先進国の労働が比重の大きい労働として実現されるかぎりでは、利潤率は高くなる。というのは、質的により高級な労働として支払われない労働がそのような労働として売られるからである。同じ関係は、商品がそこに送られまたそこから商品が買われる国にたいしても生ずることがありうる。すなわち、この国は、自分が受け取るよりも多くの対象化された労働を現物で与えるが、それでもなおその商品を自国で生産できるよりも安く手に入れるという関係である。それは、ちょうど、新しい発明が普及する前にそれを利用する工場主が、競争相手よりも安く売っていながらそれでも自分の商品の個別的価値よりも高く売っているようなものである。すなわち、この工場主は自分が充用する労働の特別に高い生産力を剰余価値として実現し、こうして超過利潤を実現するのである。他方、植民地などに投下された資本について言えば、それがより高い利潤率をあげることができるのは、植民地などでは一般に発展度が低いために利潤率が高く、また奴隷や苦力などを使用するので労働の搾取度も高いからである。ところで、このように、ある種の部門に投ぜられた資本が生みだして本国に送り返す高い利潤率は、なぜ本国で、独占に妨げられないかぎり、一般的利潤率の平均化に参加してそれだけ一般的利潤率を高くすることにならないのか、そのわけは分かっていない。ことに、そのような資本充用部門が自由競争の諸法則のもとにある場合にどうしてそうならないのかは、わかっていない。これにたいしてリカードが考えつくのは、なかでも次のようなことである。外国で比較的高い価格が実現され、その代金で外国で商品が買われて帰り荷として本国に送られる。そこでこれらの商品が国内で売られるのだからこのようなことは、せいぜい、この恵まれた生産部面が他の部面以上にあげる一時的な特別利益になりうるだけだ、というのである。このような外観は、貨幣形態から離れて見れば、すぐに消えてしまう。この恵まれた国は、より少ない労働と引き換えにより多くの労働を取り返すのである。といっても、この差額、この剰余は、労働と資本とのあいだの交換では一般にそうであるように、ある階級のふところに取りこまれてしまうのであるが。だから、利潤率がより高いのは一般に植民地では利潤率がより高いからだというかぎりでは、それは植民地の恵まれた自然条件のもとでは低い商品価格と両立できるであろう。平均化は行なわれるが、しかし、リカードの考えるように旧水準への平均化ではないのである。
ところが、この貿易そのものが、国内では資本主義的生産様式を発達させ、したがって不変資本に比べての可変資本の減少を進展させるのであり、また他方では外国との関係で過剰生産を生みだし、したがってまたいくらか長い期間にはやはり反対の作用をするのである。
このようにして一般的に明らかになったように、一般的利潤率の低下をひき起こす同じ諸原因が、この低下を妨げ遅れさせ部分的には麻痺させる反対作用を呼び起こすのである。このような反対作用は、法則を廃棄しないが、しかし法則の作用を弱める。このことなしには不可解なのは、一般的利潤率の低下ではなくて、反対にこの低下の相対的な緩慢さであろう」(マルクス「資本論・第三部・第三篇・第十四章・P.388~391」国民文庫)
そうして始めてこう言える。
「マルクスは、<利潤率が傾向的に低下する>とともに、<剰余価値の絶対量が増大する>という二重の運動を相反傾向の法則と呼んだ。<種々の流れが脱コード化し脱土地化する>とともに、<それらの流れが再び激しく模造の再土地化をうける>という二重の運動が存在するということが、右の法則の系として考えられる。資本主義機械が、種々の流れから剰余価値を引きだすために、これらの流れを脱土地化し脱コード化して、これらを公理系化すればするほど、官僚機械や公安組織のような、資本主義の付属装置は、剰余価値の増大する部分を吸収しながら、ますます<再-土地化>をすすめることになるのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・第一章・P.49~50」河出書房新社)
さらにボルヘスが古い中国文献について述べている箇所がある。
「中国の百科事典について指摘したのと同じ特徴を思いおこさせる。この遥か彼方の書物では、動物は次のように分類されているのであるーーー(a)皇帝に帰属するもの、(b)芳香を発するもの、(c)調教されたもの、(d)幼豚、(e)人魚、(f)架空のもの、(g)野良犬、(h)この分類に含まれるもの、(i)狂ったように震えているもの、(j)無数のもの、(k)駱駝の繊細な毛の絵筆で描かれたもの、(l)その他のもの、(m)花瓶を割ったばかりのもの、(n)遠くで見ると蝿に似ているもの」(ボルヘス「ジョン・ウィルキンズの分析言語」『続審問・P.184~185』岩波文庫)
この中で「(j)無数のもの」とある。「一頭」とか「一羽」とか、一定の個体数で分類可能な動物として数えることができない、けれども植物とは認めがたい動物のような生きもののことを指して言われている。言い換えれば「数値化できないもの」という意味だ。資本主義経済の枠内に組み込むことができないもの、商品化不可能なもの、というほかない生物のことである。しかもこの生物なしに地球上のありとあらゆる生態系は破滅する。商品化不可能なため資本主義はそれを絶滅しようとする方向に動く。ところが絶滅させてしまうやもはや資本主義は地球上の生態循環装置を崩壊させてしまうことに直結して自爆する。その意味で資本主義のアキレス腱と言える部分である。しかしただ単に「自然を守れ」式のナチュラリズムに訴えるだけでは無力でありまた問題を見誤ることになるだろう。この点についてはおいおい触れることにしたい。
BGM
