アープレーイユス「黄金の驢馬」の中でも特に「巻の8」は様々な等価性が暴力的に貫徹されることによって入れ換わり入り乱れるシーンで溢れている。男性器切除。眼球破壊。逆さ吊りによる白骨化を免れ救われた女性によって夫殺し首謀者へ向けてなされる両眼破壊と女性の自害。浮気した或る男性が逆さ吊りにされ猛禽類によって一挙になされる白骨処理。驢馬の飼い主交換会開催など。これらについては仮面-等価性あるいはその都度取り換えられていく仮面によって異種の各々が等価とされていく過程について、総括部でもっと後でまとめて述べたい。差し当たりここでは次の箇所について述べておこう。
驢馬のルキウスは家畜の競売会に出される。が、ぼんやりしているとたちまちルキウスただ一頭だけが売れ残る可能性が出てきた。ルキウスの飼い主はシュリア・デア、アッティス、キュベレー、アドニス、ウェヌス女神の名にかけてルキウスを売り込みだした。シュリア・デアは文字通り「シリアの神」を意味する。しかしなお、アッティス、キュベレー、アドニス、に関し整理しておく必要がある。
「アッティスを愛しているアグディスティスが、祝宴の開かれている穴に入ってくる。そこに居合わせた者は皆、狂気に襲われ、王は自分の生殖器を切りとり、アッティスは逃げて、松の木の下でみずからを傷つけて死んでしまう。アグディスティスは絶望して、アッティスを蘇生させようとしたが、ゼウスはそれを許さなかった。ゼウスが容認したのは、ただアッティスの身体が腐らないようにし、髪の毛が伸びたり小指が動いたりすることで生きていることの証しとすることだけであった。アグディスティスは両性具有のおおいなる母のひとつの顕現にすぎないのであり、アッティスはキュベレーの息子であり、恋人であり、その犠牲者でもあった」(エリアーデ「世界宗教史4・第二十六章・P.115~116」ちくま学芸文庫)
キュベレー祭=ヒラリア祭について。
「春分の日(三月二十二日)に、森でマツの木が一本切られ、キュベレの聖所に運ばれる。ここでマツは神として扱われる。木は羊毛の帯とスミレの花輪で飾られるが、これはちょうどアドニスの血からアネモネが生えてきたように、スミレがアッティスの血から生え出したと言われているからである。若者の像が、この木の中央に取りつけられる。二日目(三月二十三日)の主要な儀式は、ラッパを吹くことであったように見える。三日目(三月二十四日)は『血の日』として知られた。大祭司が両腕から血を採り、これを供え物とする。像を前にしてアッティスの弔いが行われたのは、この日かその夜であったかもしれない。その後この像は厳かに葬られた。四日目(三月二十五日)には『喜びの祭り』(『ヒラリア祭』〔Hilaria キュベレを祭った、大地の生命の再生を祝う祭り〕)が行われる。ここではおそらく、アッティスの復活が祝われた。少なくとも、アッティスの復活の祝いは、その死の儀式が終わって間もないうちに行われたように見受けられる。ローマのヒラリア祭は三月二十七日、アルモの小川までの行列で幕を閉じた。この小川で、女神キュベレのための去勢牛の荷車、女神の像、その他神聖な品々に水を浴びせた。だがこの女神の水浴は、彼女の故国アジアでの祭りでも、その一部となっていたことが知られている。水辺から戻ると、荷車と牡牛たちは瑞々しい春の花々をふり掛けられた」(フレイザー「金枝篇・上・第三章・第五節・P.405~406」ちくま学芸文庫)
血塗れになるまで身体を鞭打ち、男性器を切断し女神へ捧げるとともに、変身(新生)への意志を貫徹することについて。
「祭りは春分の時期、三月十五日から二十八日にかけて行なわれた。初日(カンナ・イントラット、『葦の持ちこみ』)に、葦を背負った同信者集団が、切った葦を寺院へ運びこんだ(伝説によるとキュベレーは幼児アッティカが、サンガリオス川の川辺に捨てられているのを見つけた)。七日後、木を背負った同信者集団が、森から切った松の木を運びこむ(アルボル・イントラット)。幹は死体のように幅のせまい帯でくるまれ、アッティスの像がその真ん中に結びつけられる。その木は死んだ神をあらわしていた。『血の日』(デイエス・サングイニス)である三月二十四日に、司祭と新たな入信者は笛とシンバルとタンバリンの音にあわせて野蛮な踊りを踊り、血が出るまで自分たちの身体を鞭打ち、ナイフで腕を深く傷つける。興奮が最高潮に達すると、生殖器を切りとって供物として女神に捧げる入信者もいる」(エリアーデ「世界宗教史4・第二十六章・P.117」ちくま学芸文庫)
この種のマゾッホ的変身についてドゥルーズはこう述べている。おそらくそれが正しい。
「マゾヒストの服従のうちにひそむ嘲弄、このうわべの従順さのかげにひそむ挑発や批判力が、ときに指摘されてきた。マゾヒストはたんに別の方面から法を攻撃しているだけなのだ。私たちがユーモアと呼ぶのは、法からより高次の原理へと遡行する運動ではなく、法から帰結へと下降する運動のことである。私たちはだれしも、過剰な熱心さによって法の裏をかく手段を知っている。すなわち、きまじめな適用によって法の不条理を示し、法が禁止し祓い除けるとされる秩序壊乱を、法そのものに期待するのだ。人々は法を言葉どおりに、文字どおりに受け取る。それによって、法の究極的で一次的な性格に異議申し立てを行うわけではない。そうではなく、この一次的な性格のおかげで、法がわれわれに禁じた快を、まるで法がおのれ自身のためにとっておいたかのように、人々は行動するのだ。それゆえ法を遵守し、法を受け容れることによって、人々はその快のいくらかを味わうことになるだろう。もはや法は、原理への遡行によって、アイロニーに満ちたしかたで転倒されるのではなく、帰結を深化させることによって、ユーモアに満ちたしかたで斜めから裏をかかれるのである。ところで、マゾヒズムの幻想や儀式が考察されると、そのたびに以下の事実に突きあたることになろう。すなわち、法のもっとも厳格な適用が、通常期待されるものと逆の効果をもたらすのである(たとえば、鞭打ちは、勃起を罰したり予防したりするどころか、勃起を誘発し確実なものとする)。これは背理法による証明である。法を処罰の過程とみなすとき、マゾヒストはじぶんに処罰を適用させることからはじめる。そして受けた処罰のなかに、じぶん自身を正当化してくれる理由、さらには法が禁止するとみなされていた快を味わうよう命ずる理由を、逆説的なしかたで発見する」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.134~136」河出文庫)
さらに南方熊楠はフレイザーを参照しつつ重要な部分に触れている。
「笛と太鼓を奏する最中に神官小刀で自身を創つくるを見て参詣人追い追い夢中になって血塗れ騒ぎをなし、ついには衣を脱ぎ喚き踊り出で備え付けの刀を採って惜気もなく大事極まる物を切り去り、それを手に持って町中を狂い奔しどこかの家へ投げ込むと、それ福が降って来たと大悦びでその家より女の衣装と装飾(かざり)をその人に捧ぐるを取って一生著用する」(南方熊楠「鳥を食うて王になった話」『浄のセクソロジー・P.277』河出文庫)
ルキウスの新しい主人が見つかった。名をピレーブスという(ピレーブスは訳注によれば「青年を愛する者」を意味する)。ピレーブスが組織する一団は一般的な盗賊団ではないが全員が男性器を切除した去勢者=稚児からなっているディオニュソス=バッコス信仰集団である。また稚児とはいっても年齢から推察するに、東南アジアでも日本の南九州で発生し、その起源を八重山群島、台湾、メラネシア一帯まで観察できる「兵児二才」(へこにさい)に相当する。南方熊楠が岩田淳一宛書簡の中で古代ギリシア、ペルシャ、アラビア、中国などを引き合いに出して述べたことを中沢新一はこうまとめている。
「(1)兵児山(へこやま)。これは六、七歳から十四歳の八月までの、幼い少年のグループで、二才入り前の、いわば予備軍的な幼年団。
(2)兵児二才。『兵児』の制度の、これが中核である。十四歳の八月から二十歳の八月までの、人生でもっとも華麗な時期の青少年が、ここに含まれる。
(3)中老(ちゅうろう)。これは『兵児』の組織の監視役で、二十歳の八月から三十歳までの大人の男性である。兵児二才のいわばOBであり、兵児山や兵児二才よりも、自由な活動が許されていて、妻帯することもできたが、それでも兵児二才時代からの自己鍛錬の生活を続けておこなおうとする大人たちが、これをつとめていた」(中沢新一「解題」/南方熊楠『浄のセクソロジー・P.40~41』河出文庫)
そのような観点から、ピレーブス一団は主に十代半ばから二十歳前半の男性去勢者=稚児を中心に結成されていると思われる。かといってどこまでも純粋苛烈で敬虔なディオニュソス信仰集団かといえば全然そうではない。ギリシア各地を移動しながら「富豪の別荘」などがある比較的恵まれた町を見つけると突如ディオニュソス=バッコス祭を催し始めて町中を練り歩きどさくさ紛れに大金を稼ぐことを目標にしている。荷物持ちに駆り出された驢馬のルキウスはその様子をこう報告する。
「一行はみんな肩まで腕をむきだし、とてつもなく大きな剣や斧を振り廻し、笛の音(ね)の快い調べに合わせて、バッコス酒神の祭の行列さながらに、エウアンと叫び声をあげて踊っていきました。こうして一行はあちこちに家で物乞いをし、ある富豪の別荘にやってきました。その屋敷に一歩踏み込むと、たちまち一行は騒がしい声をあげて、喚き、狂人の如く突進して止まると、長いあいだ頭を下げ、目もくらむ早業でぐるぐると首を回し、長く垂れた髪の毛を身のまわりに回転させながら、時にわれとわが身に噛みついていましたが、とうとう持っていた両刃の剣で思い思いに自分の腕を切りつけ出したのです。そのうち一団の中でもバッコスの狂信女の如く最も烈しく狂っていた一人が、心の底から息もたえだえに喘(あえぎ)ぎながら、まるで神霊が魂をいっぱいにしているかのような恍惚(こうこつ)状態におちいりました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の8・P.321~322」岩波文庫)
「その男は予言者の如く大声で叫び、まことしやかにわれとわが身を罵倒し、まるで神聖な掟に何か不敬な罪でも犯したかのように、自分を弾劾し、自分の大罪に進んで正当な罰を課したいとしきに願うようになりました。そこで彼は鞭をとりあげ、その鞭というのが、このように男性を失った稚児たちにこの上なくふさわしい所持品で、羊毛を縒(よ)って作ったほっそりした紐(ひも)が、その全体にわたってたくさんの羊の趾骨(しこつ)で飾られ、綱の末端に長い房がついているというしろもの、この節くれだった鞭で自分のからだを打ちのめし、その苦痛を恐ろしいほど辛抱強く耐え忍んでしました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の8・P.322~323」岩波文庫)
「一団が剣で切りつけたり、鞭打ったりしているうちに、迸(ほとばし)り出た女性的な男の血によって大地がびたびたに汚れてしまったのです。こんなに大量の傷口から溢れ出た血を見て、私自身異常な不安に襲われてきました。ひょっとしてこの異国の女神は、驢馬の乳を欲しがる人がいるように、驢馬の血を腹の中に呑み込みたくなるのではないかと」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の8・P.323」岩波文庫)
アープレーイユスは「ひょっとしてこの異国の女神は、驢馬の乳を欲しがる人がいるように、驢馬の血を腹の中に呑み込みたくなるのではないか」と書く。実をいうと「驢馬の血」どころではない。そもそもはこうだ。
「ゼウスは、彼が近づくのを避けるためにいろいろの形に身を変じたメーティスと交わった。彼女が孕むや時を逸せず呑み込んだ。大地(ゲー)がメーティスが彼女から生れんとする娘の後に一人の男の子を生み、その子は天空(ウーラノス)の支配者となるであろうと言ったからである。これを懼(おそ)れて彼女を呑み下した」(アポロドーロス「ギリシア神話・第一巻・P.34」岩波文庫)
人間世界では人肉食(カニバリズム)が先行しているのである。さらに。
「彼らが食事をしているとき、イエスはいつものようにパンを手に取り、神を賛美して裂(さ)き、弟子たちに渡して言われた、『取りなさい、これはわたしの体(からだ)である』。皆がそれを受け取って食べた。また杯(さかずき)を取り、神に感謝したのち彼らに渡されると、皆がその杯から飲んだ。彼らに言われた、『これは多くの人のために流す、わたしの《約束(やくそく)の血(ち)》である』」(「新約聖書・マルコ福音書・第十四章・P.57」岩波文庫)
キリスト教の聖餐においてその伝統は今なお脈々と受け継がれている。
一段落して休憩時間。すると。
「まわりに立っていた多くの人たちが、われ先にと喜捨を、銅貨はもちろん銀貨さえも投げ出しました。それを一行は着物のふところを開いてその中にしまい込みました。村人はお金ばかりか、酒壺や牛乳、チーズや麦粉、小麦といったものまで、なにがしか施してくれ、なかには女神の運び手にと私にも大麦をくれた人がいました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の8・P.323」岩波文庫)
喜捨された金銭・物品はピレーブス一団が用意してきた袋をあれよという間に一杯にし、驢馬のルキウスが背負うことになる。同時に文章にあるように「女神の運び手にと私にも大麦をくれた人がいました」。ゆえにルキウスは「ただ単なる《驢馬》」=「物品を運ぶ《倉》」=「女神の運び手としての《祠(ほこら)》」へと並走する等価性を実現している。また、テーバイに出現したディオニュソス=バッコスの儀式性についてオウィディウス「変身物語」から興味深いエピソードをまた一つ上げておかねばならない。
「山のなかほどに、野原があった。まわりを森に囲まれているが、樹木ではなくて、どこからでも眺められた。ここから不浄な目が祭儀を観察しているペンテウスを、最初に見つけたのは母親だった、真っ先に、もの狂おしい勢いで駈け寄ったアガウエだったが、神杖を投げてわが子を傷つけたのも、彼女が最初だった。『ねえ、妹たち!』と彼女は叫んだ。『ふたりとも、ここへ!あすこに、大猪(おおいのしし)が、わたしたちの原っぱをうろついている。あの猪を、この手でしとめなくては!』狂った女たちが、いっせいに、ペンテウスひとりにむかって殺到した。寄ってたかって、震えている彼を追いかける。さすがの彼も今は震えているのだ。暴言を吐くこともしなくなった。自分を責め、自分が悪かったことを認めてもいる。それでも、傷ついた彼は、『おばうえ、お助けを!』と叫ぶ。『おばうえ、アウトノエ!同じ悲惨な目に会ったアクタイオンのーーーあなたの息子のーーー霊魂に免じて!』アウトノエは、アクタイオンが誰なのかわからずに、愛玩するペンテウスの右腕をもぎ取った。左のほうは、イノーが引きちぎった。あわれなペンテウスは、母親にむかってさしのべるべき腕をなくしたが、もぎ取られた両腕の傷口を見せながら、『ごらんください、母うえ!』と叫ぶ。それを見たアガウエは、うなり声をあげ、あらあらしく首を振って、髪を宙に踊らせる。息子の首を引き抜いて、血まみれの手でつかむと、大声をあげた。『ねえ、みんな、この勝利は、この手でかちえたのよ!』秋の寒さに傷(いた)められて、それでもかろうじて梢(こずえ)にすがりついている木の葉が、あっというまに風にさらわれるーーーそれよりもなお速く、ペンテウスのからだは、忌まわしい手で引きちぎられた。このような前例に教えられたテーバイの女たちは、こぞって新しい祭儀に集(つど)い、香(こう)をささげて、聖なる祭壇をあがめる」(オウィディウス「変身物語・上・巻三・P.132~133」岩波文庫)
結果、テーバイではディオニュソス=バッコス祭のとき、「香(こう)をささげて、聖なる祭壇をあがめる」儀式が根付いた。香炉の意味はどの宗教のどの信仰生活においても、二〇二〇年の今なお世界中で様々な意味を持っている。ちなみに琉球神道では「神と直結することになった香炉」という形式が観察されている。
「神の目標となるものは香炉である。建築物の中には、三体の火の神(カン)が置かれてあると同様に、神の在す場所には、必香炉が置いてある。それ故、その香炉の数によって、家族の集合して居る数が知れる。ーーー八重山には、御嶽に三つの神がある。又、《かみなおたけ・おんいべおたけ》と言うのがある。八重山のみ、《いび》又は《いべ》と言う事を言うが、他所の《いび》と《うぶ》とは違って居る。《うぶ》は、奥の事である。沖縄では、奥武と書いて居る。どれが《いび》であるか、厳格に示す事は出来ないが、《うぶ》の中の神々しい神の来臨する場所と言う意味であると思う。八重山の老人の話では、御嶽の《うぶ》ではなくて、門にある香炉であると言っている。即、香炉を神と信ずる結果、香炉自体を《いび》と言うのである。處が火の神にも香炉がある。中には香炉だけの神もあるが、要するに自然的に香炉を神と信じて居る。其香炉が、又幾つにも分れる。香炉が分れるけれども、分れたとは言わないで、彼方の神を持って来たと言う、言い方をする。つまり、嫁に行ったり、比較的長い間家を出て居るものは、香炉を作って持って行く。ーーー一族の神を祀るのは、女の役目である。其家の香炉を拝するのは、其家の女であると言う観念が先入主となって、女の旅行には必、此香炉を持って行く。ーーー沖縄本島では、自分の家の香炉を有って来ても、別の場所に置いてある。自分の家の神は亭主が祀ってもよいが、嫁の持って来た香炉は、女以外の人間の、全くどうする事もできないものである」(折口信夫「琉球の宗教」『折口信夫全集2・P62~64』中公文庫)
神の到来にあたって香炉から立ち上る香りで目的地を差し示すという所作。それが次第に転倒して香炉そのものに神が宿ると考えるようになる。どの古代人も例外なくそう考えたのである。このような考え方は古代ギリシアだけでなく沖縄でもメラネシアでも、どこへ行っても共通の作法であり何ら不思議でもなんでもない。
ーーーーー
なお、前回のBGMでBABY METALの新曲を上げた。ほんの一瞬だが「祭り」と「踊って」の部分で「阿波踊り」などで見られる女性の踊りの振り付けがさりげなく取り入れられており大変好感を持ったことが一点。二点目はそのような遊びの部分で今は亡き藤岡幹大が大胆に取り入れた欧米一辺倒ではないリズム遊びや和音階の導入を踏襲している点。第三点にデビューと変わらず日本語で通していること。メンバー・チェンジに関しては「大人都合」として批判された。もっともな批判だと思う。同時に藤岡の偉業は欧米の本格メタルではけっして登場してこない東アジア的な遊びの伝統を堂々と欧米に知らしめた点にあると考える。三人娘も一人変わったが、それは「可愛い」と「メタル」との融合という言葉で語られているのとはまた違った重要な意味の喪失と今後の課題でもあるだろう。少なくとも「メギツネ」や「イジメ、ダメ、ゼッタイ」の頃の振り付けはユーモアたっぷりの遊びも満載でとても良かった。ところが時代はもはや違ってきている。「可愛い」と「メタル」との融合ではなくて、むしろもっと古い伝統、後白河院編纂の「梁塵秘抄」と「メタル」との融合を思わせる。後白河院亡き後白河院の庭で舞を舞い歌を歌う白拍子とそのテクノロジーとの融合。おそらくそうだ。そうであってこそそれは、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫といった小説家の作品の中でときおり炸裂するアジア独特のエロティシズム(ロリコン趣味ではなく)、暴力、死、の現前を音楽で見るがゆえにこそ、とりわけ外国で爆発的なセールスを記録するのだ。
またもう一つ。ドラマ「半沢直樹」批判。ステレオタイプ化した時代劇化批判はあって当然。としてもさらに目に付いて仕方がない昭和一桁世代を思い起こさせる偏狭な女性観についてあちこちで批判が出ているようだが、それも批判されて当然というより余りといえば余りにも時代遅れであるとしか言いようがない。良妻賢母の現代版。世の中のエリート男性にとってのみ都合の良い女。誰がそんなものを見て喜ぶのか。なるほど現実社会の中で家事を男性に任せて子どもを適当にほったらかしにしている現代日本の母親連中は徹底的に問題にされねばならない。ところがその逆に、原作者の知らないところで、男社会の論理ばかりが幅を効かせる制作現場でシナリオ加工されたドラマ「半沢直樹」はもう完全に時代錯誤というほかない「男よがりな」似非(えせ)歌舞伎ドラマになってしまった。ところがそもそも、日本国家の庇護を受けて惰弱化する前の歌舞伎の起源はそうではなかった。
「則(すなは)ち天鈿女命(あまのうずめのみこと)、猨田彦神(さるたひこのかみ)の所乞(こはし)の随(まにま)に、遂(つひ)に侍送(あひおく)る。時に皇孫(すめみま)、天鈿女命(あまのうずめのみこと)に勅(みことのり)すらく、『汝(いまし)、顕(あらは)しつる神の名を以(も)て、姓氏(うじ)とせむ』とのたまふ。因りて、猨女君(さるめのきみ)の号(な)を賜(たま)ふ。故(かれ)、猨女君等(さるめのきみら)の男女(をとこをみな)、皆呼(よ)びて君(きみ)と為(い)ふ、此(これ)其の縁(ことのもと)なり。高胸、此をば多歌武娜娑歌(たかむなさか)と云(い)ふ。頗傾也。此をば歌矛志(かぶし)と云ふ」(「日本書紀・巻第二・神代下・第九段・P.136」岩波文庫)
このことは歌舞伎以前、最も早くは「遊女」に言えることである。とともに時の遊女を勤めたのはほかでもない「巫女」だったことを忘れてはならない。さらに半沢直樹は一体何を「返して」いるのか。堕落しきった銀行を「ひっくり返して」いる。バブル景気に甘えきったままの金融資本を没落するに任せるのではなく、身を張って逆さまに「ひっくり返す」こと。要するに、来るべきグローバル資本主義=ネオリベラリズムの日本定着のための若き守護神として奔走しているのである。貧困格差の修正者ではなく逆に貧困格差を増殖させる新しい多国籍金融資本複合体の新人類として活躍するのである。
BGM
驢馬のルキウスは家畜の競売会に出される。が、ぼんやりしているとたちまちルキウスただ一頭だけが売れ残る可能性が出てきた。ルキウスの飼い主はシュリア・デア、アッティス、キュベレー、アドニス、ウェヌス女神の名にかけてルキウスを売り込みだした。シュリア・デアは文字通り「シリアの神」を意味する。しかしなお、アッティス、キュベレー、アドニス、に関し整理しておく必要がある。
「アッティスを愛しているアグディスティスが、祝宴の開かれている穴に入ってくる。そこに居合わせた者は皆、狂気に襲われ、王は自分の生殖器を切りとり、アッティスは逃げて、松の木の下でみずからを傷つけて死んでしまう。アグディスティスは絶望して、アッティスを蘇生させようとしたが、ゼウスはそれを許さなかった。ゼウスが容認したのは、ただアッティスの身体が腐らないようにし、髪の毛が伸びたり小指が動いたりすることで生きていることの証しとすることだけであった。アグディスティスは両性具有のおおいなる母のひとつの顕現にすぎないのであり、アッティスはキュベレーの息子であり、恋人であり、その犠牲者でもあった」(エリアーデ「世界宗教史4・第二十六章・P.115~116」ちくま学芸文庫)
キュベレー祭=ヒラリア祭について。
「春分の日(三月二十二日)に、森でマツの木が一本切られ、キュベレの聖所に運ばれる。ここでマツは神として扱われる。木は羊毛の帯とスミレの花輪で飾られるが、これはちょうどアドニスの血からアネモネが生えてきたように、スミレがアッティスの血から生え出したと言われているからである。若者の像が、この木の中央に取りつけられる。二日目(三月二十三日)の主要な儀式は、ラッパを吹くことであったように見える。三日目(三月二十四日)は『血の日』として知られた。大祭司が両腕から血を採り、これを供え物とする。像を前にしてアッティスの弔いが行われたのは、この日かその夜であったかもしれない。その後この像は厳かに葬られた。四日目(三月二十五日)には『喜びの祭り』(『ヒラリア祭』〔Hilaria キュベレを祭った、大地の生命の再生を祝う祭り〕)が行われる。ここではおそらく、アッティスの復活が祝われた。少なくとも、アッティスの復活の祝いは、その死の儀式が終わって間もないうちに行われたように見受けられる。ローマのヒラリア祭は三月二十七日、アルモの小川までの行列で幕を閉じた。この小川で、女神キュベレのための去勢牛の荷車、女神の像、その他神聖な品々に水を浴びせた。だがこの女神の水浴は、彼女の故国アジアでの祭りでも、その一部となっていたことが知られている。水辺から戻ると、荷車と牡牛たちは瑞々しい春の花々をふり掛けられた」(フレイザー「金枝篇・上・第三章・第五節・P.405~406」ちくま学芸文庫)
血塗れになるまで身体を鞭打ち、男性器を切断し女神へ捧げるとともに、変身(新生)への意志を貫徹することについて。
「祭りは春分の時期、三月十五日から二十八日にかけて行なわれた。初日(カンナ・イントラット、『葦の持ちこみ』)に、葦を背負った同信者集団が、切った葦を寺院へ運びこんだ(伝説によるとキュベレーは幼児アッティカが、サンガリオス川の川辺に捨てられているのを見つけた)。七日後、木を背負った同信者集団が、森から切った松の木を運びこむ(アルボル・イントラット)。幹は死体のように幅のせまい帯でくるまれ、アッティスの像がその真ん中に結びつけられる。その木は死んだ神をあらわしていた。『血の日』(デイエス・サングイニス)である三月二十四日に、司祭と新たな入信者は笛とシンバルとタンバリンの音にあわせて野蛮な踊りを踊り、血が出るまで自分たちの身体を鞭打ち、ナイフで腕を深く傷つける。興奮が最高潮に達すると、生殖器を切りとって供物として女神に捧げる入信者もいる」(エリアーデ「世界宗教史4・第二十六章・P.117」ちくま学芸文庫)
この種のマゾッホ的変身についてドゥルーズはこう述べている。おそらくそれが正しい。
「マゾヒストの服従のうちにひそむ嘲弄、このうわべの従順さのかげにひそむ挑発や批判力が、ときに指摘されてきた。マゾヒストはたんに別の方面から法を攻撃しているだけなのだ。私たちがユーモアと呼ぶのは、法からより高次の原理へと遡行する運動ではなく、法から帰結へと下降する運動のことである。私たちはだれしも、過剰な熱心さによって法の裏をかく手段を知っている。すなわち、きまじめな適用によって法の不条理を示し、法が禁止し祓い除けるとされる秩序壊乱を、法そのものに期待するのだ。人々は法を言葉どおりに、文字どおりに受け取る。それによって、法の究極的で一次的な性格に異議申し立てを行うわけではない。そうではなく、この一次的な性格のおかげで、法がわれわれに禁じた快を、まるで法がおのれ自身のためにとっておいたかのように、人々は行動するのだ。それゆえ法を遵守し、法を受け容れることによって、人々はその快のいくらかを味わうことになるだろう。もはや法は、原理への遡行によって、アイロニーに満ちたしかたで転倒されるのではなく、帰結を深化させることによって、ユーモアに満ちたしかたで斜めから裏をかかれるのである。ところで、マゾヒズムの幻想や儀式が考察されると、そのたびに以下の事実に突きあたることになろう。すなわち、法のもっとも厳格な適用が、通常期待されるものと逆の効果をもたらすのである(たとえば、鞭打ちは、勃起を罰したり予防したりするどころか、勃起を誘発し確実なものとする)。これは背理法による証明である。法を処罰の過程とみなすとき、マゾヒストはじぶんに処罰を適用させることからはじめる。そして受けた処罰のなかに、じぶん自身を正当化してくれる理由、さらには法が禁止するとみなされていた快を味わうよう命ずる理由を、逆説的なしかたで発見する」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.134~136」河出文庫)
さらに南方熊楠はフレイザーを参照しつつ重要な部分に触れている。
「笛と太鼓を奏する最中に神官小刀で自身を創つくるを見て参詣人追い追い夢中になって血塗れ騒ぎをなし、ついには衣を脱ぎ喚き踊り出で備え付けの刀を採って惜気もなく大事極まる物を切り去り、それを手に持って町中を狂い奔しどこかの家へ投げ込むと、それ福が降って来たと大悦びでその家より女の衣装と装飾(かざり)をその人に捧ぐるを取って一生著用する」(南方熊楠「鳥を食うて王になった話」『浄のセクソロジー・P.277』河出文庫)
ルキウスの新しい主人が見つかった。名をピレーブスという(ピレーブスは訳注によれば「青年を愛する者」を意味する)。ピレーブスが組織する一団は一般的な盗賊団ではないが全員が男性器を切除した去勢者=稚児からなっているディオニュソス=バッコス信仰集団である。また稚児とはいっても年齢から推察するに、東南アジアでも日本の南九州で発生し、その起源を八重山群島、台湾、メラネシア一帯まで観察できる「兵児二才」(へこにさい)に相当する。南方熊楠が岩田淳一宛書簡の中で古代ギリシア、ペルシャ、アラビア、中国などを引き合いに出して述べたことを中沢新一はこうまとめている。
「(1)兵児山(へこやま)。これは六、七歳から十四歳の八月までの、幼い少年のグループで、二才入り前の、いわば予備軍的な幼年団。
(2)兵児二才。『兵児』の制度の、これが中核である。十四歳の八月から二十歳の八月までの、人生でもっとも華麗な時期の青少年が、ここに含まれる。
(3)中老(ちゅうろう)。これは『兵児』の組織の監視役で、二十歳の八月から三十歳までの大人の男性である。兵児二才のいわばOBであり、兵児山や兵児二才よりも、自由な活動が許されていて、妻帯することもできたが、それでも兵児二才時代からの自己鍛錬の生活を続けておこなおうとする大人たちが、これをつとめていた」(中沢新一「解題」/南方熊楠『浄のセクソロジー・P.40~41』河出文庫)
そのような観点から、ピレーブス一団は主に十代半ばから二十歳前半の男性去勢者=稚児を中心に結成されていると思われる。かといってどこまでも純粋苛烈で敬虔なディオニュソス信仰集団かといえば全然そうではない。ギリシア各地を移動しながら「富豪の別荘」などがある比較的恵まれた町を見つけると突如ディオニュソス=バッコス祭を催し始めて町中を練り歩きどさくさ紛れに大金を稼ぐことを目標にしている。荷物持ちに駆り出された驢馬のルキウスはその様子をこう報告する。
「一行はみんな肩まで腕をむきだし、とてつもなく大きな剣や斧を振り廻し、笛の音(ね)の快い調べに合わせて、バッコス酒神の祭の行列さながらに、エウアンと叫び声をあげて踊っていきました。こうして一行はあちこちに家で物乞いをし、ある富豪の別荘にやってきました。その屋敷に一歩踏み込むと、たちまち一行は騒がしい声をあげて、喚き、狂人の如く突進して止まると、長いあいだ頭を下げ、目もくらむ早業でぐるぐると首を回し、長く垂れた髪の毛を身のまわりに回転させながら、時にわれとわが身に噛みついていましたが、とうとう持っていた両刃の剣で思い思いに自分の腕を切りつけ出したのです。そのうち一団の中でもバッコスの狂信女の如く最も烈しく狂っていた一人が、心の底から息もたえだえに喘(あえぎ)ぎながら、まるで神霊が魂をいっぱいにしているかのような恍惚(こうこつ)状態におちいりました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の8・P.321~322」岩波文庫)
「その男は予言者の如く大声で叫び、まことしやかにわれとわが身を罵倒し、まるで神聖な掟に何か不敬な罪でも犯したかのように、自分を弾劾し、自分の大罪に進んで正当な罰を課したいとしきに願うようになりました。そこで彼は鞭をとりあげ、その鞭というのが、このように男性を失った稚児たちにこの上なくふさわしい所持品で、羊毛を縒(よ)って作ったほっそりした紐(ひも)が、その全体にわたってたくさんの羊の趾骨(しこつ)で飾られ、綱の末端に長い房がついているというしろもの、この節くれだった鞭で自分のからだを打ちのめし、その苦痛を恐ろしいほど辛抱強く耐え忍んでしました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の8・P.322~323」岩波文庫)
「一団が剣で切りつけたり、鞭打ったりしているうちに、迸(ほとばし)り出た女性的な男の血によって大地がびたびたに汚れてしまったのです。こんなに大量の傷口から溢れ出た血を見て、私自身異常な不安に襲われてきました。ひょっとしてこの異国の女神は、驢馬の乳を欲しがる人がいるように、驢馬の血を腹の中に呑み込みたくなるのではないかと」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の8・P.323」岩波文庫)
アープレーイユスは「ひょっとしてこの異国の女神は、驢馬の乳を欲しがる人がいるように、驢馬の血を腹の中に呑み込みたくなるのではないか」と書く。実をいうと「驢馬の血」どころではない。そもそもはこうだ。
「ゼウスは、彼が近づくのを避けるためにいろいろの形に身を変じたメーティスと交わった。彼女が孕むや時を逸せず呑み込んだ。大地(ゲー)がメーティスが彼女から生れんとする娘の後に一人の男の子を生み、その子は天空(ウーラノス)の支配者となるであろうと言ったからである。これを懼(おそ)れて彼女を呑み下した」(アポロドーロス「ギリシア神話・第一巻・P.34」岩波文庫)
人間世界では人肉食(カニバリズム)が先行しているのである。さらに。
「彼らが食事をしているとき、イエスはいつものようにパンを手に取り、神を賛美して裂(さ)き、弟子たちに渡して言われた、『取りなさい、これはわたしの体(からだ)である』。皆がそれを受け取って食べた。また杯(さかずき)を取り、神に感謝したのち彼らに渡されると、皆がその杯から飲んだ。彼らに言われた、『これは多くの人のために流す、わたしの《約束(やくそく)の血(ち)》である』」(「新約聖書・マルコ福音書・第十四章・P.57」岩波文庫)
キリスト教の聖餐においてその伝統は今なお脈々と受け継がれている。
一段落して休憩時間。すると。
「まわりに立っていた多くの人たちが、われ先にと喜捨を、銅貨はもちろん銀貨さえも投げ出しました。それを一行は着物のふところを開いてその中にしまい込みました。村人はお金ばかりか、酒壺や牛乳、チーズや麦粉、小麦といったものまで、なにがしか施してくれ、なかには女神の運び手にと私にも大麦をくれた人がいました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の8・P.323」岩波文庫)
喜捨された金銭・物品はピレーブス一団が用意してきた袋をあれよという間に一杯にし、驢馬のルキウスが背負うことになる。同時に文章にあるように「女神の運び手にと私にも大麦をくれた人がいました」。ゆえにルキウスは「ただ単なる《驢馬》」=「物品を運ぶ《倉》」=「女神の運び手としての《祠(ほこら)》」へと並走する等価性を実現している。また、テーバイに出現したディオニュソス=バッコスの儀式性についてオウィディウス「変身物語」から興味深いエピソードをまた一つ上げておかねばならない。
「山のなかほどに、野原があった。まわりを森に囲まれているが、樹木ではなくて、どこからでも眺められた。ここから不浄な目が祭儀を観察しているペンテウスを、最初に見つけたのは母親だった、真っ先に、もの狂おしい勢いで駈け寄ったアガウエだったが、神杖を投げてわが子を傷つけたのも、彼女が最初だった。『ねえ、妹たち!』と彼女は叫んだ。『ふたりとも、ここへ!あすこに、大猪(おおいのしし)が、わたしたちの原っぱをうろついている。あの猪を、この手でしとめなくては!』狂った女たちが、いっせいに、ペンテウスひとりにむかって殺到した。寄ってたかって、震えている彼を追いかける。さすがの彼も今は震えているのだ。暴言を吐くこともしなくなった。自分を責め、自分が悪かったことを認めてもいる。それでも、傷ついた彼は、『おばうえ、お助けを!』と叫ぶ。『おばうえ、アウトノエ!同じ悲惨な目に会ったアクタイオンのーーーあなたの息子のーーー霊魂に免じて!』アウトノエは、アクタイオンが誰なのかわからずに、愛玩するペンテウスの右腕をもぎ取った。左のほうは、イノーが引きちぎった。あわれなペンテウスは、母親にむかってさしのべるべき腕をなくしたが、もぎ取られた両腕の傷口を見せながら、『ごらんください、母うえ!』と叫ぶ。それを見たアガウエは、うなり声をあげ、あらあらしく首を振って、髪を宙に踊らせる。息子の首を引き抜いて、血まみれの手でつかむと、大声をあげた。『ねえ、みんな、この勝利は、この手でかちえたのよ!』秋の寒さに傷(いた)められて、それでもかろうじて梢(こずえ)にすがりついている木の葉が、あっというまに風にさらわれるーーーそれよりもなお速く、ペンテウスのからだは、忌まわしい手で引きちぎられた。このような前例に教えられたテーバイの女たちは、こぞって新しい祭儀に集(つど)い、香(こう)をささげて、聖なる祭壇をあがめる」(オウィディウス「変身物語・上・巻三・P.132~133」岩波文庫)
結果、テーバイではディオニュソス=バッコス祭のとき、「香(こう)をささげて、聖なる祭壇をあがめる」儀式が根付いた。香炉の意味はどの宗教のどの信仰生活においても、二〇二〇年の今なお世界中で様々な意味を持っている。ちなみに琉球神道では「神と直結することになった香炉」という形式が観察されている。
「神の目標となるものは香炉である。建築物の中には、三体の火の神(カン)が置かれてあると同様に、神の在す場所には、必香炉が置いてある。それ故、その香炉の数によって、家族の集合して居る数が知れる。ーーー八重山には、御嶽に三つの神がある。又、《かみなおたけ・おんいべおたけ》と言うのがある。八重山のみ、《いび》又は《いべ》と言う事を言うが、他所の《いび》と《うぶ》とは違って居る。《うぶ》は、奥の事である。沖縄では、奥武と書いて居る。どれが《いび》であるか、厳格に示す事は出来ないが、《うぶ》の中の神々しい神の来臨する場所と言う意味であると思う。八重山の老人の話では、御嶽の《うぶ》ではなくて、門にある香炉であると言っている。即、香炉を神と信ずる結果、香炉自体を《いび》と言うのである。處が火の神にも香炉がある。中には香炉だけの神もあるが、要するに自然的に香炉を神と信じて居る。其香炉が、又幾つにも分れる。香炉が分れるけれども、分れたとは言わないで、彼方の神を持って来たと言う、言い方をする。つまり、嫁に行ったり、比較的長い間家を出て居るものは、香炉を作って持って行く。ーーー一族の神を祀るのは、女の役目である。其家の香炉を拝するのは、其家の女であると言う観念が先入主となって、女の旅行には必、此香炉を持って行く。ーーー沖縄本島では、自分の家の香炉を有って来ても、別の場所に置いてある。自分の家の神は亭主が祀ってもよいが、嫁の持って来た香炉は、女以外の人間の、全くどうする事もできないものである」(折口信夫「琉球の宗教」『折口信夫全集2・P62~64』中公文庫)
神の到来にあたって香炉から立ち上る香りで目的地を差し示すという所作。それが次第に転倒して香炉そのものに神が宿ると考えるようになる。どの古代人も例外なくそう考えたのである。このような考え方は古代ギリシアだけでなく沖縄でもメラネシアでも、どこへ行っても共通の作法であり何ら不思議でもなんでもない。
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なお、前回のBGMでBABY METALの新曲を上げた。ほんの一瞬だが「祭り」と「踊って」の部分で「阿波踊り」などで見られる女性の踊りの振り付けがさりげなく取り入れられており大変好感を持ったことが一点。二点目はそのような遊びの部分で今は亡き藤岡幹大が大胆に取り入れた欧米一辺倒ではないリズム遊びや和音階の導入を踏襲している点。第三点にデビューと変わらず日本語で通していること。メンバー・チェンジに関しては「大人都合」として批判された。もっともな批判だと思う。同時に藤岡の偉業は欧米の本格メタルではけっして登場してこない東アジア的な遊びの伝統を堂々と欧米に知らしめた点にあると考える。三人娘も一人変わったが、それは「可愛い」と「メタル」との融合という言葉で語られているのとはまた違った重要な意味の喪失と今後の課題でもあるだろう。少なくとも「メギツネ」や「イジメ、ダメ、ゼッタイ」の頃の振り付けはユーモアたっぷりの遊びも満載でとても良かった。ところが時代はもはや違ってきている。「可愛い」と「メタル」との融合ではなくて、むしろもっと古い伝統、後白河院編纂の「梁塵秘抄」と「メタル」との融合を思わせる。後白河院亡き後白河院の庭で舞を舞い歌を歌う白拍子とそのテクノロジーとの融合。おそらくそうだ。そうであってこそそれは、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫といった小説家の作品の中でときおり炸裂するアジア独特のエロティシズム(ロリコン趣味ではなく)、暴力、死、の現前を音楽で見るがゆえにこそ、とりわけ外国で爆発的なセールスを記録するのだ。
またもう一つ。ドラマ「半沢直樹」批判。ステレオタイプ化した時代劇化批判はあって当然。としてもさらに目に付いて仕方がない昭和一桁世代を思い起こさせる偏狭な女性観についてあちこちで批判が出ているようだが、それも批判されて当然というより余りといえば余りにも時代遅れであるとしか言いようがない。良妻賢母の現代版。世の中のエリート男性にとってのみ都合の良い女。誰がそんなものを見て喜ぶのか。なるほど現実社会の中で家事を男性に任せて子どもを適当にほったらかしにしている現代日本の母親連中は徹底的に問題にされねばならない。ところがその逆に、原作者の知らないところで、男社会の論理ばかりが幅を効かせる制作現場でシナリオ加工されたドラマ「半沢直樹」はもう完全に時代錯誤というほかない「男よがりな」似非(えせ)歌舞伎ドラマになってしまった。ところがそもそも、日本国家の庇護を受けて惰弱化する前の歌舞伎の起源はそうではなかった。
「則(すなは)ち天鈿女命(あまのうずめのみこと)、猨田彦神(さるたひこのかみ)の所乞(こはし)の随(まにま)に、遂(つひ)に侍送(あひおく)る。時に皇孫(すめみま)、天鈿女命(あまのうずめのみこと)に勅(みことのり)すらく、『汝(いまし)、顕(あらは)しつる神の名を以(も)て、姓氏(うじ)とせむ』とのたまふ。因りて、猨女君(さるめのきみ)の号(な)を賜(たま)ふ。故(かれ)、猨女君等(さるめのきみら)の男女(をとこをみな)、皆呼(よ)びて君(きみ)と為(い)ふ、此(これ)其の縁(ことのもと)なり。高胸、此をば多歌武娜娑歌(たかむなさか)と云(い)ふ。頗傾也。此をば歌矛志(かぶし)と云ふ」(「日本書紀・巻第二・神代下・第九段・P.136」岩波文庫)
このことは歌舞伎以前、最も早くは「遊女」に言えることである。とともに時の遊女を勤めたのはほかでもない「巫女」だったことを忘れてはならない。さらに半沢直樹は一体何を「返して」いるのか。堕落しきった銀行を「ひっくり返して」いる。バブル景気に甘えきったままの金融資本を没落するに任せるのではなく、身を張って逆さまに「ひっくり返す」こと。要するに、来るべきグローバル資本主義=ネオリベラリズムの日本定着のための若き守護神として奔走しているのである。貧困格差の修正者ではなく逆に貧困格差を増殖させる新しい多国籍金融資本複合体の新人類として活躍するのである。
BGM
