世界各地で収集されてきた文化人類学系諸論文が一様に指し示している顕著な傾向。それは何か。近代以後、人間並びに人間社会は定期的にプリミティヴな(原始的な)状態に回帰しなければ翌日を始めることはけっしてできないという生物学的定式である。三回に分けてザッヘル=マゾッホの代表作「魂を漁る女」をテキストに「森の聖霊ドラゴミラ」とタイトルして述べたわけもそこにある。
十九世紀後半のロシア。ロマノフ王朝は何をやったか。ロシアの総人口は一八五〇年代を境いとしてフランスを抜き、ドイツとともにヨーロッパ最大の資本主義大国となった。さらにロマノフ家はロシア正教会の威光を背景としてロシア各地に散在していた様々な土着の信仰共同体の大弾圧に乗り出す。同時に鉄鋼、流通、金融資本の大株主として、ロシア全土の皇帝として、大日本帝国もかくやと思わずにはいられない暴力帝国へのし上がる。その過程で古くから地元に伝わる土着的信仰に対する大弾圧が実行されたわけだが、しかしスラヴの諸民族、なかでもウクライナからハンガリー、東欧諸地域、南はバルカン半島まで伝播していた諸民族伝来の諸宗教はもはや立ち直ることが不可能なまでに徹底的に蹂躙された。相入れない合理主義と土着の信仰生活。このダブルバインドに見舞われたガリーシャ地方(今のウクライラからハンガリー東端部)の小さな教会で発生した数々の宗教殺人にスポットを当て、人間はどのような立場に立たされたとき、突如として内部で殺し合いを始めるのかを知らしめたのがロシアの知識人マゾッホだった。とはいえ動かせない事実は残る。スラヴ民族がその広大な地で大切にしていた諸信仰をあたかも赤子の手をひねるごとく続々と蹂躙したのはキリスト教=ロシア正教会とロマノフ王朝の近代的軍事力だという事実である。
周辺各国では百年戦争の残骸処理も終わっておらず動員された農民らは過酷この上ない都市労働者として出稼ぎに出るほかなくなるという事態が加速的に進行した。資本主義の浸透と同時に農民は農民身分を奪われ、農地解放という詐欺的政策を通過し、労賃で商品交換される労働力商品=《貧農》と化した。ロシアでは農民は始めから貧乏だったわけではない。必要に応じて生産し必要に応じて分配する村落共同体的共生の論理と村落共同体全体の利益の均衡性を重視するミールという生活様式が伝統的に残っていた。ところが、この農民らがいきなり賃金労働者へ変換されたことによって始めて《貧農》という新しい階級が出現した。ちなみにレーニン「貧農に告ぐ」という有名なパンフレットがあるけれども、当時はパンフレットを読める農民自体がほとんどいないという状況であり、レーニン率いるボリシェヴィキはまず地方へ出向いてロシア語の勉強会開催から始めないといけないほどロシアの識字教育は遅れていた。ともかく、それは紀元前から続く長い世界史の中ではつい最近の出来事、十九世紀も後半になってからのことであり、日本では井伊直弼がアメリカの軍事的恫喝に屈して日米通商条約に調印、安政の大獄を経て桜田門外の変で虐殺された、そういう時期。
近代合理主義と古来の土着的信仰生活とは根本的に〔ラディカルな次元で〕合うはずのない二つの生活様式である。諸地域古来の信仰生活は、近代合理性が要求する数値化可能な合理性だけでは割り切れないプリミティヴな(原始的な)部分を常に有する。古代ギリシア・ローマはおそらく世界史の中で最も早く両者をアポロン的秩序とディオニュソス的祝祭へと分割し、年中行事へ変換し、国家の崩壊を防ぎ得た最初の事例であろう。ところがディオニュソス的な力は資本主義のグローバル化とともに年中行事の枠組みを超越して日常生活を祝祭空間へと変えることに成功した。それは資本主義が世界化を目指すにあたってアポロン的秩序だけではまったく不十分であり地球上のいつどこにでもディオニュソス的祝祭空間を出現させる力への意志として必要としていたことを物語っている。この傾向は生産・流通・金融資本の流れを通して「資本論」のマルクスがいっていたように世界資本主義として二十一世紀の扉をこじ開けた。
さて、合理主義と土着的信仰生活との衝突が起きたのはなるほどロシアあるいはスラヴ系諸民族、東欧、バルカンという世界史的広域だけではない。やや遅れて近代化を果たした日本も例外でない。むしろ日本は欧米が二百年かけてやったことをたった二十年で強引に推し進めた。当然のことながら日本各地で明治新政府軍と地方の村落共同体との間で幾つも衝突が起こった。いずれも政府軍の勝利に終わっている。西南戦争以前すでに新政府軍は電気通信網と警察権力とを最大限度まで打ち固めていたことが大きい。近代合理主義と土着的村落共同体との衝突は起こるべくして起こる。例えば明治に入って初の本格的留学生となった夏目金之助(漱石)を始め、正岡子規、秋山真之、宮武外骨らは反応が早く、この種の衝突は起こって当たり前の不可避的現象だと認識していたに違いない。それぞれが後に選んだ方向性が何よりの証しだ。とはいえ宮武は別として多くは東京帝大(今の東京大学教養部)入学組であり知識人ばかりである。宮武の「頓智協会雑誌」創刊は例外的にパロディ、言葉遊び、皮肉を駆使することで反対派自身による無益な内部衝突を回避し近代資本主義の合理性を迷走させることに成功しているわけだが警察に狙われて投獄されもしている。
ところで漱石と同期で東大教養部へいったん入学したものの授業には全然出席せず中退し渡米し渡英し再び日本の、それも郷土である紀州熊野から問題の核心に斬り込んだのが南方熊楠だったと言える。一九一二年(明治四五年・大正一年)。乃木希典夫妻殉死、大杉栄「近代思想」発刊など、ややもするとそれら華々しい記事の中に埋もれてしまいがちだが、同年、熊楠は東京帝大勤務の白井光太郎宛に「神社合祀に関する意見」と題した八項目からなる書簡を送りつけている。要するに一神教反対論という日本史上空前の内容だった。ここではまず中沢新一の解釈を参照して見ていこう。
「第一、神社合祀で敬神思想を高めたりとは、政府当局が地方官公吏の書上(かきあげ)に瞞(だま)されおるの至りなり」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.498』河出文庫)
今では通例となっているので誰も驚かないが、当時はまだ日本各地にそれぞれ在所の神々が多く残っていた。そしてそれらは明治いっぱいを通してなお地域色を保持していた。にもかかわらず政府都合で一方的に持ち出されてきた、諸地域の古来の信仰とは関係のない政治政策である神社統合政策によって一極化されてしまうわけにはいかない、という諸地域独特の事情が濃厚に残っており、むしろそのほうが普通だった。祭りの際に地元の在所の神々を祀ることに関し、なぜ中央政府がずうずうしく干渉してくるのか。政府は「敬神」というけれども「敬神」の土台にはまず最初に「氏神(うじがみ)信仰」があることは明白である。このようなプリミティヴな(原始的な)感情こそ全世界共通である。熊楠ほどの博学者からみれば、明治政府が形式上は天皇を神と仰ぎながら、その実は天皇を政治利用して全国に様々な形態を持って生きている産土(うぶすな)信仰をうまうまと統一してしまい、政治的統制のための道具として活用してやれと考えていることは見えすいていた。今なお見え透いている。産土の神は地元の子どもや高齢者が歩いていけるところにあるのが当然であって、なぜ二十キロも五十キロも離れたところにこれ見よがしの大きな神社を建てて合祀することでこっそり地元の神を消してしまい一神教へ統合しようとするのか。そのような政治政策のどこがどうして「敬神」なのか。
「田舎には合祀前どの地にも、かかる質樸にして和気藹々(あいあい)たる良風俗あり。平生農桑(のうそう)で多忙なるも、祭日ごとに嫁も里へ帰りて老夫を省(せい)し、婆は三升樽を擁えて孫を抱きに媳の在所へ往きしなり。かの小窮屈な西洋の礼拝堂に貴族富豪のみ車を駆(は)せて説教を聞くに、無数の貧人は道側に黒麪包(パン)を咬んで身の不運を嘆(かこ)つと霄壌(しょうじょう)なり。かくて大字ごとに存する神社は大いに社交をも助け、平生頼みたりし用談も祭日に方(かた)つき、麁闊(そかつ)なりし輩も和熟親睦せしなり。只今のごとく産土神が往復山道一里乃至(ないし)五里、はなはだしきは十里も歩まねば詣で得ずとあっては、老少婦女や貧人は、神を拝し、敬神の実を挙げ得ず」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.498』河出文庫)
しかし田舎であればいつどこででも「質樸にして和気藹々(あいあい)たる」かどうかはユートピアに過ぎる。この点は中沢新一の指摘の通りだろう。さらに言い換えれば、「質樸にして和気藹々(あいあい)たる」村落共同体が先にあったわけではない。個々に違った環境で育まれ愛され敬われてきた神を中心として成立した地域限定的な固有の文化は、実にしばしば「質樸にして和気藹々(あいあい)たる」秩序を共同体内に自然にもたらすのである。そして産土(うぶすな)とはプリミティヴな(原始的な)、なおかつ人間にとって極めて根源的な何かであり、それは熊野であればその深い森と人間との常日頃の触れ合いからもたらされる温かい感情であると熊楠は言うのである。それは外部から押し付けられるものではけっしてなく、逆に内部から湧き溢れるものだ。ニーチェならそれをこそ「力」というだろう。しかしそれが合祀によって地元の大地あるいは海と切り離されればどうなるか。もともとあった信仰は力を失い、力を失った信仰は大規模な政治政策へ取り込まれて滅んでいく。
「第二に、神社合祀は民の和融を妨ぐ」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.498』河出文庫)
この点は実際に行なわれた史実が証明している。村落共同体同士のこれまでの繋がりを無視して決定された新しい境界線の設定でありこれまでの村落共同体同士の繋がりの破壊である。以前は共同体Aと共同体Bとの間には国家権力抜きに共同文書を交わし合って成立した細かな取り決めがあった。明治政府はそれを一方的に破棄して村落共同体同士の繋がりを破壊し、国家にとってのみ都合のよい境界線を引いた。その境界線は途方もない大規模なものであって、これまで成立してきた村落共同体の自律性を根底からくつがえす以上の生々しい混乱を地域社会の中に持ち込むことになった。共同体のネットワークは破壊される。わかりきったことだ。エンゲルスはいう。
「国家はけっして外部から社会におしつけられた権力ではない。同様にそれは、ヘーゲルの主張するような、『人倫的理念が現実化したもの』でも『理性が形象化し現実化したもの』でもない。それは、むしろ一定の発展段階における社会の産物である。それは、この社会が自分自身との解決しえない矛盾にまきこまれ、自分ではらいのける力のない、和解しえない諸対立に分裂したことの告白である。ところで、これらの諸対立が、すなわち相対抗する経済的利害をもつ諸階級が、無益な闘争のうちに自分自身と社会をほろぼさないためには、外見上社会のうえに立ってこの衝突を緩和し、それを『秩序』のわくのなかにたもつべき権力が必要となった。そして、社会からうまれながら社会のうえに立ち、社会にたいしてますます外的なものとなってゆくこの権力が、国家である」(エンゲルス「家族・私有財産および国家の起源・P.221」国民文庫)
熊楠は特にマルクス=エンゲルスに関心を示していない。しかし述べていることは同じである。神社合祀によって共同体のネットワークに持ち込まれるのはこれまでの取り決めによる融和性でなく逆に「和融の妨げ」になり、その解決策のために動員されるのは他でもない警察権力による介入であるほかないと。このあたりの勘の良さは漱石や外骨にも見られる。
「第三、合祀は地方を衰微せしむ」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.503』河出文庫)
この頃、日本政府は来るべき戦争とその勝利とに向けて財源確保に奔走していた。ところが地方の諸神社経営は縄文時代のシャーマニズムの大昔から国家とは無関係に維持され来たったものだ。各村落が「社」(やしろ)維持のために捻出する財源はどこへ行っても「その大地と海と」に対する敬神と畏怖の念からやりくりしてきたものだ。
「従来地方の諸神社は、社殿と社地また多くはこれに伴う神林あり、あるいは神田あり。別に基本財産というべき金なくとも、氏子みな入費を支弁し、社殿の改修、祭典の用意をなし、何不足なく数百年を面白く経過し来たりしなり。今この不景気連年絶えざる時節に、何の急事にあらざるを、大急ぎで基本財産とか神社の設備とか神職の増棒とかを強いるは心得がたし」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.503』河出文庫)
社殿も社地もどこか知らぬ土地へ持っていかれて買収されるばかりか、なお「この不景気」にもかかわらずまだ金銭がどうのこうのと政府の側からあれこれ指示される覚えはない。そして熊楠はいう。
「要するに人民の好まぬことを押しつけて事の末たる金銭のみを標準に立て、千百年来地方人心の中点たり来たりし神社を滅却するは、地方大不繁盛の基なり」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.508』河出文庫)
たまたまだろうか。この点は二〇二〇年のパンデミックではっきりと繰り返された。全世界へ向けて丸裸にされた。笑いごとではないのだ。
「第四に、神社合祀は国民の慰安を奪い、人情を薄うし、風俗を害することおびただし」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.508』河出文庫)
明治国家のいう神道と地方の共同体ネットワークにおける土着の信仰とは、そもそも別々の全然違ったものだ。日本書記や古事記を見ても、その中で「征服する側/征服される側」という二元論はとっくに記述されている。さらに古典文学と考古学の専門性を踏まえれば「記紀」どちらともに重大な改竄としか考えようのない箇所が幾つかある。もともと「記紀」はいずれも藤原氏が天皇の系列を輩出することが決定的になって始めて編纂された、藤原氏一族による、藤原氏一族のためだけの、史書だ。高度テクノロジーの成果によって発掘調査の結果が次々とくつがえされてきたのは昨今だが、もっと以前から日本書紀には疑惑の目が向けられていた箇所がある。六年くらい前だとおもうが少しばかり触れた。蘇我氏天皇説。第一にその財力。「元興寺」並びにその「金堂」建設。
「十四年の夏四月の乙酉(きのとのとり)の朔(ついたち)壬辰(みずのえたつのひ)に、銅(あかがね)・繍(ぬいもの)の丈六(ぢょうろく)の仏像(ほとけのみかた)、並(ならび)に造りまつり竟(をは)りぬ。是の日に、丈六の銅の像(みかた)を元興寺(くわんごうじ)の金堂(こむだう)に坐(ま)せしむ」(「日本書紀・巻第二十二・推古天皇十四年」岩波文庫)
また当時、天子の特権だった「八佾(やつら)の儛(まひ)」を蘇我氏が開催している点。
「是歳(ことし)、蘇我大臣蝦夷(そがのおほおみえみし)、己(おの)が祖廟(おやのまつりや)を葛城(かづらぎ)の高宮(たかみや)に立(た)てて、八佾(やつら)の儛(まひ)をす」(「日本書紀・巻第二十四・皇極天皇元年」岩波文庫)
第三に生前の時点での巨大墓の建設。
「又(また)尽(ふつく)に国(くに)挙(こぞ)る民(おほみたから)、併(あはせ)て百八十部曲(ももあまりやそのかきのたみ)を発(おこ)して、預(あらかじ)め双墓(ならびのはか)を今来(いまき)に造(つく)る。一(ひと)つをば大陵(おほみさざき)と曰ふ。大臣(おほおみ)の墓とす。一つをば小陵(こみさざき)と曰ふ。入鹿臣(いるかのおみ)の墓とす」(「日本書紀・巻第二十四・皇極天皇元年」岩波文庫)
第四に、高級官僚らの祈願・訴えが蘇我氏に集中している時期があること。
「国(くに)の内(うち)の巫覡等(かむなきら)、枝葉(しば)を折(を)り取(と)りて、木綿(ゆふ)を懸掛(しでか)けて、大臣(おほおみ)の橋(はし)を渡(わた)る時(とき)を伺候(うかが)ひて、争(いそ)ぎて神語(かむこと)の入微(たへ)なる説(ことば)を陳(の)ぶ。其(そ)の巫(かむなき)甚多(にへさ)にして、悉(ことごとく)に聴(き)くべからず」(「日本書紀・巻第二十四・皇極天皇二年」岩波文庫)
第五に、「宮門(みかど)、王子(みこ)」という言葉の意味の横滑りが見られる点。さらに「門(かど)の傍(ほとり)に兵庫(つはものぐら)」だが、「兵庫(つはものぐら)」=「武器庫」のスケールは発掘調査により天皇家を上回っていたものと推定されている。古代天皇の権力構造からすれば、天皇家を越える武器庫の建設並びに所有は禁止されていたので、少なくとも一時期は蘇我氏が天皇だったとする説が今では有力視されている。
「冬(ふゆ)十一月(しもつき)に、蘇我大臣蝦夷(そがのおほおみえみし)・児(こ)入鹿臣(いるかのおみ)、家(いへ)を甘檮岡(うまかしのおか)に双(なら)べ起(た)つ。大臣の家を呼(よ)びて、上(うへ)の宮門(みかど)と曰(い)ふ。入鹿(いるか)が家をば、谷(はさま)の宮門と曰(い)ふ。男女(をのこごめのこご)を呼(よ)びて王子(みこ)と曰ふ。家(いへ)の外(と)に城柵(きかき)を作(つく)り、門(かど)の傍(ほとり)に兵庫(つはものぐら)を作る」(「日本書紀・巻第二十四・皇極天皇三年」岩波文庫)
第六に、極め付けともいうべき文章がある。蘇我氏虐殺の直後、なぜか藤原氏は素早く仲間を招集し「帝道唯一(きみのみちただひとつ)」といって天皇は唯一一人でなくてはならないという奇妙な誓約を行わせている。
「乙卯(きのとのうのひ)に、天皇(すめらみこと)・皇祖母尊(すめみおやのみこと)・皇太子(ひつぎのみこ)、大槻(おおつき)の樹(き)の下(もと)に、群臣(まへつきみたち)を召(め)し集(あつ)めて、盟曰(ちか)はしめたまふ。天神地祗(あまつかみくにつかみ)にに告(まう)して曰(まう)さく、『天(あめ)は覆(おほ)ひ地(つち)は載(の)す。帝道唯一(きみのみちただひとつ)なり』。而(しか)るを末代澆薄(すゑのようすら)ぎて、君臣序(きみやつこらまついで)失(うしな)ふ。皇天(あめ)、手(て)を我(われ)に仮(か)りて、暴逆(あらびと)を誅(ころ)し殄(た)てり。今共(いまとも)に心(こころ)の血(まこと)を瀝(した)づ。而(しかう)して今より以後(のち)、君は二(ふた)つの政(まつりごと)無(な)く、臣(やつこら)は朝(みかど)に弐(ふたごころ)あること無(な)し。若(も)し此(こ)の盟(ちかひ)に、弐(そむ)かば、天災(あめわざはひ)し地妖(つちわざはひ)し、鬼誅(おにころ)し人伐(ひとう)たむ。皎(いちしる)きこと日月(ひつき)の如(ごと)し」とまうす」(「日本書紀・巻二十五・孝徳天皇即位前紀」岩波文庫)
藤原氏側は蘇我氏の専横を、「こんなに横柄な奴だ」という感じで書き残したつもりなのだが、それが正確に描かれているため、逆に蘇我氏の権力の絶頂期は天皇家を越えていたし、同時に二人の天皇の存在が認められていたことを証拠立てることになった。
神社合祀問題に戻ろう。諸地域で育まれたそれぞれの信仰生活と明治国家のいう神道とは元来が形態も成立過程も異なる。政府のいう神道は地方の諸信仰を蹂躙する。なぜなら、地方には地方の神々が大昔からあって、とりわけ「森林の奥深さ」に畏怖の念を持ち、森林や大海が与えてくれる自然の恵みに対して何かと工夫し尽くしてきた人々にとって、その大切なものが国家によって身もふたもなく一元化されるのは耐えられないのだ。森は熊野の聖地である。にもかかわらず紀州の聖地・熊野の森を、なぜ明治政府が手前勝手にああしろこうしろと命じるのか。熊野の森は古来から紀州の人々に精神的落ち着きを、精霊の振る舞いを、土地ならではの風俗を、与えてきた。
「神社の人民に及ぼす感化力は、これを延べんとするに言語途絶す。いわゆる『何事のおはしますかを知らねども有難さにぞ涙こぼるる』ものなり。似而非(えせ)神職の説教などに待つことにあらず。神道は宗教に違いなきも、言論理屈で人を説き伏せる教えにあらず。本居宣長などは、仁義忠孝などとおのれが行なわずに事事しく説き勧めぬが神道の特色なり、と言えり。すなわち言語で言い顕わし得ぬ冥々の裡に、わが国万古不変の国体を一時に頭の頂上より足趾(あしゆび)の尖(さき)まで感激して忘るる能わざらしめ、皇室より下凡民(ぼんみん)に至るまで、いずれも日本国の天神地祇の御裔(みすえ)なりという有難(ありがた)さを言わず説かずに悟らしむの道なり。古来神殿に宿して霊夢を感ぜしといい、神社に参拝して迷妄を闢(ひら)きしというは、あたかも古欧州の神社神林に詣でて、哲士も愚夫もその感化を受くること大なるを言えるに同じ。別に神主の説教を聴いて大益ありしを聞かず。真言宗の秘密儀と同じく、何の説教講釈を用いず、理論実験を要せず、ひとえに神社神林その物の存立ばかりが、すでに世道人心の化育に大益あるなり」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.512』河出文庫)
神社の起源の意味も知らず神社について法的再編を命じる政府。
「第五に、神社合祀は愛国心を損ずることおびただし」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.513』河出文庫)
聖地・熊野に改めて人工的な施設を持ってきて統合すれば合理的でよいと考える明治国家という暴力装置。このことは日本に限らずどこの先進諸国でもそうで、統合によって破壊された古くからの信仰は、たびたび息を吹き返し、合理化され破壊された過去の怒りを集約し爆発させるのである。失われた「家郷」はもはや還ってこない。だからかえって憎悪は増幅され、戦後なお一九七〇年代には世界各地で多発したテロ活動という形で、さらに一九九〇年代以降は終わらない地域紛争へ、姿形を置き換えて延々と存続されるのである。愛国どころか国土崩壊へ向かっているというほかない。近代国家による人為的な「抽象的愛国心」は、何万年も前からその地にありその地を作り上げてきた自然環境から生まれたプリミティヴな(原始的な)崇高への意志を越えることはけっしてできない。
「第六に、神社合祀は土地の治安と利益に大害あり」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.515』河出文庫)
人々は「景観」と一口にいう。しかし景観とそれを見ている人間は切り離されているのだろうか。いかにも、切り離されている。ところが景観は、それを見ている人間とともに自然の生態学的秩序の中に組み込まれている。それもまた事実だ。中沢新一はこれをオートポイエーシス理論を用いながら論じている。オートポイエーシス理論は興味深いが専門的になると理解がなかなか難しい。だが差し当たり、エコロジーは一つではないという見地から見るとそれほど難解でない。ベイトソンを引こう。
「自分の関心は自分であり、自分の会社であり、自分の種だという偏狭な認識論的前提に立つとき、システムを支えている、他のループはみな考慮の《外側》に切り落とされることになります。人間生活が生み出す副産物は、どこか《外》に捨てればいいとする心がそこから生まれ、エリー湖がその格好の場所に見えてくるわけです。このとき忘れられているのは、エリー湖という『精神生態的』“eco-mental”なシステムが、われわれを含むより大きな精神生態系の一部だということ、そして、エリー湖の精神衛生が失われるとき、その狂気が、より大きなわれわれの思考と経験をも病的なものに変えていくということです」(ベイトソン「エピステモロジーの正気と狂気」『精神の生態学・P.640』新思索社)
ベイトソンが念頭に置いているのは、「自然生態系」、「人間の精神的生態系」、「社会的生態系」、という三つのエコロジーである。これらはそれぞれ切り離されて実存しているわけではまったくない。いつもすでに生成変化しつつ共同し合って運動する。その意味で神社の前身は何らかの建築物や政府から派遣された官制神主ではなく紀州・熊野にある、すぐそこにある鬱蒼たる森そのものであったと考える熊楠の思想は、世界に先駆けて途轍もなく早く出現していたのである。
「第七に、神社合祀は史蹟と古伝を滅却す」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.519』河出文庫)
言うまでもなく明治政府批判である。神社合祀の強引な推進者は高級官僚と財閥系実業家らだった。同時にすでに民俗学は危機に瀕していた。というのは、フィールドワークの専門家なら誰でも経験があるように、せっかくの話し手の側がーーー多くは誤った良心からーーー聞き手が聞き出したがっているに違いない話を聞き手の側に合わせて語ってしまうというストーリー・テラー化が全国的に早くも広がっていたからである。それでは地方に残る貴重な伝承も無意味になってしまう。熊楠はその点で極めて慎重でなくてはならないと指摘している。
「また一汎人は史蹟と言えば、えらい人や大合戦や歌や詩で名高き場所のみ保存すべきよう考うるがごときも、実は然らず。近世欧米で民俗学大いに起こり、政府も箇人も熱心にこれに従事し、英国では昨年の政事始めに、斯学の大家ゴム氏に特に授爵されたり。例せば一箇人に伝記あると均しく、一国に史籍あり。さて一箇人の幼少の事歴、自分や他人の記憶や控帳に存せざることも、幼少の時用いし玩具や貰った贈り物や育った家の構造や参詣せし寺社や祭典を見れば、多少自分幼少の事歴を明らめ得るごとく、地方ごとに史籍に載らざる固有の風俗、俚謡、児戯、笑譚、祭儀、伝説等あり。これを精査するに道をもってすれば、記録のみで知り得ざる一国民、一地方民の有史書前の履歴が分明するなり。わが国の『六国史』は帝家の旧記にして、華胄(かちゅう)の旧記、諸記録は主としてその家々のことに係る。広く一国民の生い立ちを明らめんには、必ず民俗学の講究を要す」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.519』河出文庫)
紀州の田舎に閉じこもっていても留学経験豊かなだけでなく粘菌という新しい学問の先駆者たる南方熊楠から見れば、明治日本のリーダーらが集っている場所は、歴史も考古学もまるで知らない無知蒙昧の輩の巣窟に過ぎなかった。漱石が見抜いていたように、彼らは所詮、日本と日本史の破壊者となるに違いないと。実際、原爆投下を招き込んでそうなった。その前に中央政府にいる知り合いを通して、怪しげな話(勃起力増強植物)を餌に、和歌山県の田舎でしかなかった田辺に粘菌研究所を作らせた。
「第八に、合祀は天然風景と天然記念物を亡滅す」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.524』河出文庫)
ベイトソンのいう三つのエコロジーと交錯する。「自然生態系」、「人間の精神的生態系」、「社会的生態系」、の三つである。特に強調しなくてはならないのは三つ目、「社会的生態系」であり、人間の日常生活の根本的条件をなす。そしてどこのどんな人間も例外なくこの外部ではなく内部で活動しているのである。ところで「天然風景」とか「天然記念物」とか言っているが、生態系は微妙なバランスの上で始めて成り立っているものであり、明治政府による自然界の破壊行為は国家神道に名を借りた日本固有の生物の自己破壊にほかならないということだ。こうしてようやく熊楠の主張、三つのエコロジーが揃ったと言えるだろう。また、多数の「天然風景と天然記念物」とを有する日本は「情感」という数値化できない貴重な精神的風土を有してもいた。どこにか。森林である。
「私は、中世前期には、山林そのものがーーーもとよりそのすべてというわけではないがーーーアジールであり、寺院が駆込寺としての機能をもっているのも、もともとの根源は、山林のアジール性、聖地性に求められる、と考える」(網野善彦「<増補>無縁・苦界・楽・一二・山林・P.127」平凡社ライブラリー)
そういうわけで、中沢新一の解釈を参照しつつ述べてきた。だが中沢新一は中沢ひとりでこのような理論的解釈に辿りついたわけではない。無数に観察可能な植物について、なぜ熊楠はあれほどまで粘菌に夢中になったのか。中沢新一は大いにフーコーを参照している。差し当たって三箇所上げておこう。第一に。
「そこから、植物学の認識論的な優位がもたらされる。というのは、語と物とに共通の空間が構成する格子は、動物よりも植物をはるかによく受けいれるし、植物の場合のほうがはるかに『暗い』ところがすくないからだ。動物の場合には目に見えないおおくの本質的器官が、植物では目に見えるため、直接知覚できる可変要素から出発する分類上の認識は、動物の領域よりも植物の領域においてはるかに豊富かつ整合的だったのである。したがって、ふつう言われていることは逆転されなければならぬ。十七、十八世紀において植物に関心が寄せられたから、分類の方法が検討されたのではない。可視性の分類空間においてしか知ることも語ることもできなかったからこそ、植物についての認識が動物についてのそれにたいして優位に立たざるをえなかったのだ」(フーコー「言葉と物・第五章・P.160」新潮社)
けれども植物が認識論的優位を占めるに至ったのはなぜか。なるほど「暗い」ところが少ないからだ。また逆に動物の体内構造を理解するには人間を解剖してみて始めて「暗い」部分を把握することができるというふうに順序をさかさまにしなければならない。マルクスのいうように。
「死滅した動物種属の体制の認識にとって遺骨の構造がもっているのと同じ重要さを、死滅した経済的社会構成体の判定にとっては労働手段の遺物がもっているのである。なにがつくられるのかではなく、どのようにして、どんな労働手段でつくられるのかが、いろいろな経済的時代を区別するのである。労働手段は、人間の労働力の発達の測度器であるだけではなく、労働がそのなかで行なわれる社会的諸関係の表示器でもある」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第五章・P.315」国民文庫)
次の文章は植物一般について言われていながら、あたかも粘菌独特の動きを追っているかのようだ。
「相違性は、表層で増殖しながら、深層では、消去しあい、混りあい、たがいに結ばれあい、不断の分散によってでもあるかのように多様なものがそこから派生すると思われる、大きな、神秘的な、目に見えぬ焦点の統一性に近づいていく」(フーコー「言葉と物・第八章・P.288」新潮社)
第三に、粘菌のサド的性質について。というのは、粘菌の動きは始めはなるほど植物的秩序に則った静的なものなのであって動きというほどのことは何一つしていないかのように見えはする。ところが一定期間の安定状態を過ぎると内部から胞子を破ってアメーバ状の集合体が現われ周囲を食い荒らす。今ではよく知られた知識だが当時は植物であり動物でもある怪物の出現を思わせた。
「獣は、死に従属するものとしてと同時に、死の担い手として姿をあらわす。動物のなかには、生命の生命自身によるたえざる食いつぶしがひそんでいるからだ。つまり動物は、みずからの内部に反=自然の核を秘めることによって始めて自然に所属するのにほかならない。もっとも秘められたその本質を植物から動物に移行させることによって、生命は秩序の空間を離れ、ふたたび野生のものとなる。生命は、おのれの死に捧げるのとおなじその運動のなかで、いまや殺戮者としてあらわれる。生命は、生きているから殺すのである。自然はもはや善良ではありえない。生命は殺戮から、自然は悪から、欲望は反=自然からもはや引きはなしえないということそれこそ、サドが十八世紀、さらに近代にむかって告知したところであり、しかもサドはそれを十八世紀の言語を涸渇させることによって遂行し、近代はそのためながいこと彼を黙殺の刑に処していたのである。牽強府会のそしりを免れぬかも知れないが(もっともだれがそれを言うのか?)、『ソドムの百二十日』は、『比較解剖学講義』のすばらしい、ビロード張りの裏面にほかならぬ」(フーコー「言葉と物・第八章・P.298」新潮社)
十九世紀、新しい顕微鏡の発明によって学術界にもたらされた粘菌特有のこの動き。それは生命あるもののすべてに実は「悪徳」、「欲望」、「反=自然」という野獣性が密かに、しかし絶え間なく、活動していることを肯定するほかない状況を突き付けた。熊楠を夢中にさせたのは粘菌の持つこの獣性である。熊楠が取り出して見せたそれは、ただ単なる生態系(エコロジー)保護というに留まらない。むしろ地域限定自然保護という立場はともすれば特定地域のみを特権化するナショナリズムに陥ってしまう。しかし熊楠はもっと広大な永遠に開かれた世界観を持った研究者だ。そこへと導いたのは粘菌という一見しただけでは他愛のない生物の生成変化だった。人間自身の生態系(人間関係のエコロジー)、さらに社会的生態系(政治、軍事、経済、金融のエコロジー)と密接に結びついて離れないという現実である。事実上、地球上からありとあらゆる微生物が抹殺されてしまうとすればその瞬間、自然の、人間生活の、すべての社会-経済活動の、連接関係は崩壊する。その意味で熊楠の思想は今の日本のマスコミがいつもでっち上げて止まない似非(えせ)聖地と真っ向から衝突するだろう。ところがしかし、それぞれのシーンを見てみると、どこをどう切り裂いてみてもなお世界は「社会的諸関係の総体」にほかならないということを告げ知らせている。熊楠が、である。
BGM
十九世紀後半のロシア。ロマノフ王朝は何をやったか。ロシアの総人口は一八五〇年代を境いとしてフランスを抜き、ドイツとともにヨーロッパ最大の資本主義大国となった。さらにロマノフ家はロシア正教会の威光を背景としてロシア各地に散在していた様々な土着の信仰共同体の大弾圧に乗り出す。同時に鉄鋼、流通、金融資本の大株主として、ロシア全土の皇帝として、大日本帝国もかくやと思わずにはいられない暴力帝国へのし上がる。その過程で古くから地元に伝わる土着的信仰に対する大弾圧が実行されたわけだが、しかしスラヴの諸民族、なかでもウクライナからハンガリー、東欧諸地域、南はバルカン半島まで伝播していた諸民族伝来の諸宗教はもはや立ち直ることが不可能なまでに徹底的に蹂躙された。相入れない合理主義と土着の信仰生活。このダブルバインドに見舞われたガリーシャ地方(今のウクライラからハンガリー東端部)の小さな教会で発生した数々の宗教殺人にスポットを当て、人間はどのような立場に立たされたとき、突如として内部で殺し合いを始めるのかを知らしめたのがロシアの知識人マゾッホだった。とはいえ動かせない事実は残る。スラヴ民族がその広大な地で大切にしていた諸信仰をあたかも赤子の手をひねるごとく続々と蹂躙したのはキリスト教=ロシア正教会とロマノフ王朝の近代的軍事力だという事実である。
周辺各国では百年戦争の残骸処理も終わっておらず動員された農民らは過酷この上ない都市労働者として出稼ぎに出るほかなくなるという事態が加速的に進行した。資本主義の浸透と同時に農民は農民身分を奪われ、農地解放という詐欺的政策を通過し、労賃で商品交換される労働力商品=《貧農》と化した。ロシアでは農民は始めから貧乏だったわけではない。必要に応じて生産し必要に応じて分配する村落共同体的共生の論理と村落共同体全体の利益の均衡性を重視するミールという生活様式が伝統的に残っていた。ところが、この農民らがいきなり賃金労働者へ変換されたことによって始めて《貧農》という新しい階級が出現した。ちなみにレーニン「貧農に告ぐ」という有名なパンフレットがあるけれども、当時はパンフレットを読める農民自体がほとんどいないという状況であり、レーニン率いるボリシェヴィキはまず地方へ出向いてロシア語の勉強会開催から始めないといけないほどロシアの識字教育は遅れていた。ともかく、それは紀元前から続く長い世界史の中ではつい最近の出来事、十九世紀も後半になってからのことであり、日本では井伊直弼がアメリカの軍事的恫喝に屈して日米通商条約に調印、安政の大獄を経て桜田門外の変で虐殺された、そういう時期。
近代合理主義と古来の土着的信仰生活とは根本的に〔ラディカルな次元で〕合うはずのない二つの生活様式である。諸地域古来の信仰生活は、近代合理性が要求する数値化可能な合理性だけでは割り切れないプリミティヴな(原始的な)部分を常に有する。古代ギリシア・ローマはおそらく世界史の中で最も早く両者をアポロン的秩序とディオニュソス的祝祭へと分割し、年中行事へ変換し、国家の崩壊を防ぎ得た最初の事例であろう。ところがディオニュソス的な力は資本主義のグローバル化とともに年中行事の枠組みを超越して日常生活を祝祭空間へと変えることに成功した。それは資本主義が世界化を目指すにあたってアポロン的秩序だけではまったく不十分であり地球上のいつどこにでもディオニュソス的祝祭空間を出現させる力への意志として必要としていたことを物語っている。この傾向は生産・流通・金融資本の流れを通して「資本論」のマルクスがいっていたように世界資本主義として二十一世紀の扉をこじ開けた。
さて、合理主義と土着的信仰生活との衝突が起きたのはなるほどロシアあるいはスラヴ系諸民族、東欧、バルカンという世界史的広域だけではない。やや遅れて近代化を果たした日本も例外でない。むしろ日本は欧米が二百年かけてやったことをたった二十年で強引に推し進めた。当然のことながら日本各地で明治新政府軍と地方の村落共同体との間で幾つも衝突が起こった。いずれも政府軍の勝利に終わっている。西南戦争以前すでに新政府軍は電気通信網と警察権力とを最大限度まで打ち固めていたことが大きい。近代合理主義と土着的村落共同体との衝突は起こるべくして起こる。例えば明治に入って初の本格的留学生となった夏目金之助(漱石)を始め、正岡子規、秋山真之、宮武外骨らは反応が早く、この種の衝突は起こって当たり前の不可避的現象だと認識していたに違いない。それぞれが後に選んだ方向性が何よりの証しだ。とはいえ宮武は別として多くは東京帝大(今の東京大学教養部)入学組であり知識人ばかりである。宮武の「頓智協会雑誌」創刊は例外的にパロディ、言葉遊び、皮肉を駆使することで反対派自身による無益な内部衝突を回避し近代資本主義の合理性を迷走させることに成功しているわけだが警察に狙われて投獄されもしている。
ところで漱石と同期で東大教養部へいったん入学したものの授業には全然出席せず中退し渡米し渡英し再び日本の、それも郷土である紀州熊野から問題の核心に斬り込んだのが南方熊楠だったと言える。一九一二年(明治四五年・大正一年)。乃木希典夫妻殉死、大杉栄「近代思想」発刊など、ややもするとそれら華々しい記事の中に埋もれてしまいがちだが、同年、熊楠は東京帝大勤務の白井光太郎宛に「神社合祀に関する意見」と題した八項目からなる書簡を送りつけている。要するに一神教反対論という日本史上空前の内容だった。ここではまず中沢新一の解釈を参照して見ていこう。
「第一、神社合祀で敬神思想を高めたりとは、政府当局が地方官公吏の書上(かきあげ)に瞞(だま)されおるの至りなり」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.498』河出文庫)
今では通例となっているので誰も驚かないが、当時はまだ日本各地にそれぞれ在所の神々が多く残っていた。そしてそれらは明治いっぱいを通してなお地域色を保持していた。にもかかわらず政府都合で一方的に持ち出されてきた、諸地域の古来の信仰とは関係のない政治政策である神社統合政策によって一極化されてしまうわけにはいかない、という諸地域独特の事情が濃厚に残っており、むしろそのほうが普通だった。祭りの際に地元の在所の神々を祀ることに関し、なぜ中央政府がずうずうしく干渉してくるのか。政府は「敬神」というけれども「敬神」の土台にはまず最初に「氏神(うじがみ)信仰」があることは明白である。このようなプリミティヴな(原始的な)感情こそ全世界共通である。熊楠ほどの博学者からみれば、明治政府が形式上は天皇を神と仰ぎながら、その実は天皇を政治利用して全国に様々な形態を持って生きている産土(うぶすな)信仰をうまうまと統一してしまい、政治的統制のための道具として活用してやれと考えていることは見えすいていた。今なお見え透いている。産土の神は地元の子どもや高齢者が歩いていけるところにあるのが当然であって、なぜ二十キロも五十キロも離れたところにこれ見よがしの大きな神社を建てて合祀することでこっそり地元の神を消してしまい一神教へ統合しようとするのか。そのような政治政策のどこがどうして「敬神」なのか。
「田舎には合祀前どの地にも、かかる質樸にして和気藹々(あいあい)たる良風俗あり。平生農桑(のうそう)で多忙なるも、祭日ごとに嫁も里へ帰りて老夫を省(せい)し、婆は三升樽を擁えて孫を抱きに媳の在所へ往きしなり。かの小窮屈な西洋の礼拝堂に貴族富豪のみ車を駆(は)せて説教を聞くに、無数の貧人は道側に黒麪包(パン)を咬んで身の不運を嘆(かこ)つと霄壌(しょうじょう)なり。かくて大字ごとに存する神社は大いに社交をも助け、平生頼みたりし用談も祭日に方(かた)つき、麁闊(そかつ)なりし輩も和熟親睦せしなり。只今のごとく産土神が往復山道一里乃至(ないし)五里、はなはだしきは十里も歩まねば詣で得ずとあっては、老少婦女や貧人は、神を拝し、敬神の実を挙げ得ず」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.498』河出文庫)
しかし田舎であればいつどこででも「質樸にして和気藹々(あいあい)たる」かどうかはユートピアに過ぎる。この点は中沢新一の指摘の通りだろう。さらに言い換えれば、「質樸にして和気藹々(あいあい)たる」村落共同体が先にあったわけではない。個々に違った環境で育まれ愛され敬われてきた神を中心として成立した地域限定的な固有の文化は、実にしばしば「質樸にして和気藹々(あいあい)たる」秩序を共同体内に自然にもたらすのである。そして産土(うぶすな)とはプリミティヴな(原始的な)、なおかつ人間にとって極めて根源的な何かであり、それは熊野であればその深い森と人間との常日頃の触れ合いからもたらされる温かい感情であると熊楠は言うのである。それは外部から押し付けられるものではけっしてなく、逆に内部から湧き溢れるものだ。ニーチェならそれをこそ「力」というだろう。しかしそれが合祀によって地元の大地あるいは海と切り離されればどうなるか。もともとあった信仰は力を失い、力を失った信仰は大規模な政治政策へ取り込まれて滅んでいく。
「第二に、神社合祀は民の和融を妨ぐ」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.498』河出文庫)
この点は実際に行なわれた史実が証明している。村落共同体同士のこれまでの繋がりを無視して決定された新しい境界線の設定でありこれまでの村落共同体同士の繋がりの破壊である。以前は共同体Aと共同体Bとの間には国家権力抜きに共同文書を交わし合って成立した細かな取り決めがあった。明治政府はそれを一方的に破棄して村落共同体同士の繋がりを破壊し、国家にとってのみ都合のよい境界線を引いた。その境界線は途方もない大規模なものであって、これまで成立してきた村落共同体の自律性を根底からくつがえす以上の生々しい混乱を地域社会の中に持ち込むことになった。共同体のネットワークは破壊される。わかりきったことだ。エンゲルスはいう。
「国家はけっして外部から社会におしつけられた権力ではない。同様にそれは、ヘーゲルの主張するような、『人倫的理念が現実化したもの』でも『理性が形象化し現実化したもの』でもない。それは、むしろ一定の発展段階における社会の産物である。それは、この社会が自分自身との解決しえない矛盾にまきこまれ、自分ではらいのける力のない、和解しえない諸対立に分裂したことの告白である。ところで、これらの諸対立が、すなわち相対抗する経済的利害をもつ諸階級が、無益な闘争のうちに自分自身と社会をほろぼさないためには、外見上社会のうえに立ってこの衝突を緩和し、それを『秩序』のわくのなかにたもつべき権力が必要となった。そして、社会からうまれながら社会のうえに立ち、社会にたいしてますます外的なものとなってゆくこの権力が、国家である」(エンゲルス「家族・私有財産および国家の起源・P.221」国民文庫)
熊楠は特にマルクス=エンゲルスに関心を示していない。しかし述べていることは同じである。神社合祀によって共同体のネットワークに持ち込まれるのはこれまでの取り決めによる融和性でなく逆に「和融の妨げ」になり、その解決策のために動員されるのは他でもない警察権力による介入であるほかないと。このあたりの勘の良さは漱石や外骨にも見られる。
「第三、合祀は地方を衰微せしむ」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.503』河出文庫)
この頃、日本政府は来るべき戦争とその勝利とに向けて財源確保に奔走していた。ところが地方の諸神社経営は縄文時代のシャーマニズムの大昔から国家とは無関係に維持され来たったものだ。各村落が「社」(やしろ)維持のために捻出する財源はどこへ行っても「その大地と海と」に対する敬神と畏怖の念からやりくりしてきたものだ。
「従来地方の諸神社は、社殿と社地また多くはこれに伴う神林あり、あるいは神田あり。別に基本財産というべき金なくとも、氏子みな入費を支弁し、社殿の改修、祭典の用意をなし、何不足なく数百年を面白く経過し来たりしなり。今この不景気連年絶えざる時節に、何の急事にあらざるを、大急ぎで基本財産とか神社の設備とか神職の増棒とかを強いるは心得がたし」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.503』河出文庫)
社殿も社地もどこか知らぬ土地へ持っていかれて買収されるばかりか、なお「この不景気」にもかかわらずまだ金銭がどうのこうのと政府の側からあれこれ指示される覚えはない。そして熊楠はいう。
「要するに人民の好まぬことを押しつけて事の末たる金銭のみを標準に立て、千百年来地方人心の中点たり来たりし神社を滅却するは、地方大不繁盛の基なり」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.508』河出文庫)
たまたまだろうか。この点は二〇二〇年のパンデミックではっきりと繰り返された。全世界へ向けて丸裸にされた。笑いごとではないのだ。
「第四に、神社合祀は国民の慰安を奪い、人情を薄うし、風俗を害することおびただし」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.508』河出文庫)
明治国家のいう神道と地方の共同体ネットワークにおける土着の信仰とは、そもそも別々の全然違ったものだ。日本書記や古事記を見ても、その中で「征服する側/征服される側」という二元論はとっくに記述されている。さらに古典文学と考古学の専門性を踏まえれば「記紀」どちらともに重大な改竄としか考えようのない箇所が幾つかある。もともと「記紀」はいずれも藤原氏が天皇の系列を輩出することが決定的になって始めて編纂された、藤原氏一族による、藤原氏一族のためだけの、史書だ。高度テクノロジーの成果によって発掘調査の結果が次々とくつがえされてきたのは昨今だが、もっと以前から日本書紀には疑惑の目が向けられていた箇所がある。六年くらい前だとおもうが少しばかり触れた。蘇我氏天皇説。第一にその財力。「元興寺」並びにその「金堂」建設。
「十四年の夏四月の乙酉(きのとのとり)の朔(ついたち)壬辰(みずのえたつのひ)に、銅(あかがね)・繍(ぬいもの)の丈六(ぢょうろく)の仏像(ほとけのみかた)、並(ならび)に造りまつり竟(をは)りぬ。是の日に、丈六の銅の像(みかた)を元興寺(くわんごうじ)の金堂(こむだう)に坐(ま)せしむ」(「日本書紀・巻第二十二・推古天皇十四年」岩波文庫)
また当時、天子の特権だった「八佾(やつら)の儛(まひ)」を蘇我氏が開催している点。
「是歳(ことし)、蘇我大臣蝦夷(そがのおほおみえみし)、己(おの)が祖廟(おやのまつりや)を葛城(かづらぎ)の高宮(たかみや)に立(た)てて、八佾(やつら)の儛(まひ)をす」(「日本書紀・巻第二十四・皇極天皇元年」岩波文庫)
第三に生前の時点での巨大墓の建設。
「又(また)尽(ふつく)に国(くに)挙(こぞ)る民(おほみたから)、併(あはせ)て百八十部曲(ももあまりやそのかきのたみ)を発(おこ)して、預(あらかじ)め双墓(ならびのはか)を今来(いまき)に造(つく)る。一(ひと)つをば大陵(おほみさざき)と曰ふ。大臣(おほおみ)の墓とす。一つをば小陵(こみさざき)と曰ふ。入鹿臣(いるかのおみ)の墓とす」(「日本書紀・巻第二十四・皇極天皇元年」岩波文庫)
第四に、高級官僚らの祈願・訴えが蘇我氏に集中している時期があること。
「国(くに)の内(うち)の巫覡等(かむなきら)、枝葉(しば)を折(を)り取(と)りて、木綿(ゆふ)を懸掛(しでか)けて、大臣(おほおみ)の橋(はし)を渡(わた)る時(とき)を伺候(うかが)ひて、争(いそ)ぎて神語(かむこと)の入微(たへ)なる説(ことば)を陳(の)ぶ。其(そ)の巫(かむなき)甚多(にへさ)にして、悉(ことごとく)に聴(き)くべからず」(「日本書紀・巻第二十四・皇極天皇二年」岩波文庫)
第五に、「宮門(みかど)、王子(みこ)」という言葉の意味の横滑りが見られる点。さらに「門(かど)の傍(ほとり)に兵庫(つはものぐら)」だが、「兵庫(つはものぐら)」=「武器庫」のスケールは発掘調査により天皇家を上回っていたものと推定されている。古代天皇の権力構造からすれば、天皇家を越える武器庫の建設並びに所有は禁止されていたので、少なくとも一時期は蘇我氏が天皇だったとする説が今では有力視されている。
「冬(ふゆ)十一月(しもつき)に、蘇我大臣蝦夷(そがのおほおみえみし)・児(こ)入鹿臣(いるかのおみ)、家(いへ)を甘檮岡(うまかしのおか)に双(なら)べ起(た)つ。大臣の家を呼(よ)びて、上(うへ)の宮門(みかど)と曰(い)ふ。入鹿(いるか)が家をば、谷(はさま)の宮門と曰(い)ふ。男女(をのこごめのこご)を呼(よ)びて王子(みこ)と曰ふ。家(いへ)の外(と)に城柵(きかき)を作(つく)り、門(かど)の傍(ほとり)に兵庫(つはものぐら)を作る」(「日本書紀・巻第二十四・皇極天皇三年」岩波文庫)
第六に、極め付けともいうべき文章がある。蘇我氏虐殺の直後、なぜか藤原氏は素早く仲間を招集し「帝道唯一(きみのみちただひとつ)」といって天皇は唯一一人でなくてはならないという奇妙な誓約を行わせている。
「乙卯(きのとのうのひ)に、天皇(すめらみこと)・皇祖母尊(すめみおやのみこと)・皇太子(ひつぎのみこ)、大槻(おおつき)の樹(き)の下(もと)に、群臣(まへつきみたち)を召(め)し集(あつ)めて、盟曰(ちか)はしめたまふ。天神地祗(あまつかみくにつかみ)にに告(まう)して曰(まう)さく、『天(あめ)は覆(おほ)ひ地(つち)は載(の)す。帝道唯一(きみのみちただひとつ)なり』。而(しか)るを末代澆薄(すゑのようすら)ぎて、君臣序(きみやつこらまついで)失(うしな)ふ。皇天(あめ)、手(て)を我(われ)に仮(か)りて、暴逆(あらびと)を誅(ころ)し殄(た)てり。今共(いまとも)に心(こころ)の血(まこと)を瀝(した)づ。而(しかう)して今より以後(のち)、君は二(ふた)つの政(まつりごと)無(な)く、臣(やつこら)は朝(みかど)に弐(ふたごころ)あること無(な)し。若(も)し此(こ)の盟(ちかひ)に、弐(そむ)かば、天災(あめわざはひ)し地妖(つちわざはひ)し、鬼誅(おにころ)し人伐(ひとう)たむ。皎(いちしる)きこと日月(ひつき)の如(ごと)し」とまうす」(「日本書紀・巻二十五・孝徳天皇即位前紀」岩波文庫)
藤原氏側は蘇我氏の専横を、「こんなに横柄な奴だ」という感じで書き残したつもりなのだが、それが正確に描かれているため、逆に蘇我氏の権力の絶頂期は天皇家を越えていたし、同時に二人の天皇の存在が認められていたことを証拠立てることになった。
神社合祀問題に戻ろう。諸地域で育まれたそれぞれの信仰生活と明治国家のいう神道とは元来が形態も成立過程も異なる。政府のいう神道は地方の諸信仰を蹂躙する。なぜなら、地方には地方の神々が大昔からあって、とりわけ「森林の奥深さ」に畏怖の念を持ち、森林や大海が与えてくれる自然の恵みに対して何かと工夫し尽くしてきた人々にとって、その大切なものが国家によって身もふたもなく一元化されるのは耐えられないのだ。森は熊野の聖地である。にもかかわらず紀州の聖地・熊野の森を、なぜ明治政府が手前勝手にああしろこうしろと命じるのか。熊野の森は古来から紀州の人々に精神的落ち着きを、精霊の振る舞いを、土地ならではの風俗を、与えてきた。
「神社の人民に及ぼす感化力は、これを延べんとするに言語途絶す。いわゆる『何事のおはしますかを知らねども有難さにぞ涙こぼるる』ものなり。似而非(えせ)神職の説教などに待つことにあらず。神道は宗教に違いなきも、言論理屈で人を説き伏せる教えにあらず。本居宣長などは、仁義忠孝などとおのれが行なわずに事事しく説き勧めぬが神道の特色なり、と言えり。すなわち言語で言い顕わし得ぬ冥々の裡に、わが国万古不変の国体を一時に頭の頂上より足趾(あしゆび)の尖(さき)まで感激して忘るる能わざらしめ、皇室より下凡民(ぼんみん)に至るまで、いずれも日本国の天神地祇の御裔(みすえ)なりという有難(ありがた)さを言わず説かずに悟らしむの道なり。古来神殿に宿して霊夢を感ぜしといい、神社に参拝して迷妄を闢(ひら)きしというは、あたかも古欧州の神社神林に詣でて、哲士も愚夫もその感化を受くること大なるを言えるに同じ。別に神主の説教を聴いて大益ありしを聞かず。真言宗の秘密儀と同じく、何の説教講釈を用いず、理論実験を要せず、ひとえに神社神林その物の存立ばかりが、すでに世道人心の化育に大益あるなり」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.512』河出文庫)
神社の起源の意味も知らず神社について法的再編を命じる政府。
「第五に、神社合祀は愛国心を損ずることおびただし」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.513』河出文庫)
聖地・熊野に改めて人工的な施設を持ってきて統合すれば合理的でよいと考える明治国家という暴力装置。このことは日本に限らずどこの先進諸国でもそうで、統合によって破壊された古くからの信仰は、たびたび息を吹き返し、合理化され破壊された過去の怒りを集約し爆発させるのである。失われた「家郷」はもはや還ってこない。だからかえって憎悪は増幅され、戦後なお一九七〇年代には世界各地で多発したテロ活動という形で、さらに一九九〇年代以降は終わらない地域紛争へ、姿形を置き換えて延々と存続されるのである。愛国どころか国土崩壊へ向かっているというほかない。近代国家による人為的な「抽象的愛国心」は、何万年も前からその地にありその地を作り上げてきた自然環境から生まれたプリミティヴな(原始的な)崇高への意志を越えることはけっしてできない。
「第六に、神社合祀は土地の治安と利益に大害あり」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.515』河出文庫)
人々は「景観」と一口にいう。しかし景観とそれを見ている人間は切り離されているのだろうか。いかにも、切り離されている。ところが景観は、それを見ている人間とともに自然の生態学的秩序の中に組み込まれている。それもまた事実だ。中沢新一はこれをオートポイエーシス理論を用いながら論じている。オートポイエーシス理論は興味深いが専門的になると理解がなかなか難しい。だが差し当たり、エコロジーは一つではないという見地から見るとそれほど難解でない。ベイトソンを引こう。
「自分の関心は自分であり、自分の会社であり、自分の種だという偏狭な認識論的前提に立つとき、システムを支えている、他のループはみな考慮の《外側》に切り落とされることになります。人間生活が生み出す副産物は、どこか《外》に捨てればいいとする心がそこから生まれ、エリー湖がその格好の場所に見えてくるわけです。このとき忘れられているのは、エリー湖という『精神生態的』“eco-mental”なシステムが、われわれを含むより大きな精神生態系の一部だということ、そして、エリー湖の精神衛生が失われるとき、その狂気が、より大きなわれわれの思考と経験をも病的なものに変えていくということです」(ベイトソン「エピステモロジーの正気と狂気」『精神の生態学・P.640』新思索社)
ベイトソンが念頭に置いているのは、「自然生態系」、「人間の精神的生態系」、「社会的生態系」、という三つのエコロジーである。これらはそれぞれ切り離されて実存しているわけではまったくない。いつもすでに生成変化しつつ共同し合って運動する。その意味で神社の前身は何らかの建築物や政府から派遣された官制神主ではなく紀州・熊野にある、すぐそこにある鬱蒼たる森そのものであったと考える熊楠の思想は、世界に先駆けて途轍もなく早く出現していたのである。
「第七に、神社合祀は史蹟と古伝を滅却す」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.519』河出文庫)
言うまでもなく明治政府批判である。神社合祀の強引な推進者は高級官僚と財閥系実業家らだった。同時にすでに民俗学は危機に瀕していた。というのは、フィールドワークの専門家なら誰でも経験があるように、せっかくの話し手の側がーーー多くは誤った良心からーーー聞き手が聞き出したがっているに違いない話を聞き手の側に合わせて語ってしまうというストーリー・テラー化が全国的に早くも広がっていたからである。それでは地方に残る貴重な伝承も無意味になってしまう。熊楠はその点で極めて慎重でなくてはならないと指摘している。
「また一汎人は史蹟と言えば、えらい人や大合戦や歌や詩で名高き場所のみ保存すべきよう考うるがごときも、実は然らず。近世欧米で民俗学大いに起こり、政府も箇人も熱心にこれに従事し、英国では昨年の政事始めに、斯学の大家ゴム氏に特に授爵されたり。例せば一箇人に伝記あると均しく、一国に史籍あり。さて一箇人の幼少の事歴、自分や他人の記憶や控帳に存せざることも、幼少の時用いし玩具や貰った贈り物や育った家の構造や参詣せし寺社や祭典を見れば、多少自分幼少の事歴を明らめ得るごとく、地方ごとに史籍に載らざる固有の風俗、俚謡、児戯、笑譚、祭儀、伝説等あり。これを精査するに道をもってすれば、記録のみで知り得ざる一国民、一地方民の有史書前の履歴が分明するなり。わが国の『六国史』は帝家の旧記にして、華胄(かちゅう)の旧記、諸記録は主としてその家々のことに係る。広く一国民の生い立ちを明らめんには、必ず民俗学の講究を要す」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.519』河出文庫)
紀州の田舎に閉じこもっていても留学経験豊かなだけでなく粘菌という新しい学問の先駆者たる南方熊楠から見れば、明治日本のリーダーらが集っている場所は、歴史も考古学もまるで知らない無知蒙昧の輩の巣窟に過ぎなかった。漱石が見抜いていたように、彼らは所詮、日本と日本史の破壊者となるに違いないと。実際、原爆投下を招き込んでそうなった。その前に中央政府にいる知り合いを通して、怪しげな話(勃起力増強植物)を餌に、和歌山県の田舎でしかなかった田辺に粘菌研究所を作らせた。
「第八に、合祀は天然風景と天然記念物を亡滅す」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.524』河出文庫)
ベイトソンのいう三つのエコロジーと交錯する。「自然生態系」、「人間の精神的生態系」、「社会的生態系」、の三つである。特に強調しなくてはならないのは三つ目、「社会的生態系」であり、人間の日常生活の根本的条件をなす。そしてどこのどんな人間も例外なくこの外部ではなく内部で活動しているのである。ところで「天然風景」とか「天然記念物」とか言っているが、生態系は微妙なバランスの上で始めて成り立っているものであり、明治政府による自然界の破壊行為は国家神道に名を借りた日本固有の生物の自己破壊にほかならないということだ。こうしてようやく熊楠の主張、三つのエコロジーが揃ったと言えるだろう。また、多数の「天然風景と天然記念物」とを有する日本は「情感」という数値化できない貴重な精神的風土を有してもいた。どこにか。森林である。
「私は、中世前期には、山林そのものがーーーもとよりそのすべてというわけではないがーーーアジールであり、寺院が駆込寺としての機能をもっているのも、もともとの根源は、山林のアジール性、聖地性に求められる、と考える」(網野善彦「<増補>無縁・苦界・楽・一二・山林・P.127」平凡社ライブラリー)
そういうわけで、中沢新一の解釈を参照しつつ述べてきた。だが中沢新一は中沢ひとりでこのような理論的解釈に辿りついたわけではない。無数に観察可能な植物について、なぜ熊楠はあれほどまで粘菌に夢中になったのか。中沢新一は大いにフーコーを参照している。差し当たって三箇所上げておこう。第一に。
「そこから、植物学の認識論的な優位がもたらされる。というのは、語と物とに共通の空間が構成する格子は、動物よりも植物をはるかによく受けいれるし、植物の場合のほうがはるかに『暗い』ところがすくないからだ。動物の場合には目に見えないおおくの本質的器官が、植物では目に見えるため、直接知覚できる可変要素から出発する分類上の認識は、動物の領域よりも植物の領域においてはるかに豊富かつ整合的だったのである。したがって、ふつう言われていることは逆転されなければならぬ。十七、十八世紀において植物に関心が寄せられたから、分類の方法が検討されたのではない。可視性の分類空間においてしか知ることも語ることもできなかったからこそ、植物についての認識が動物についてのそれにたいして優位に立たざるをえなかったのだ」(フーコー「言葉と物・第五章・P.160」新潮社)
けれども植物が認識論的優位を占めるに至ったのはなぜか。なるほど「暗い」ところが少ないからだ。また逆に動物の体内構造を理解するには人間を解剖してみて始めて「暗い」部分を把握することができるというふうに順序をさかさまにしなければならない。マルクスのいうように。
「死滅した動物種属の体制の認識にとって遺骨の構造がもっているのと同じ重要さを、死滅した経済的社会構成体の判定にとっては労働手段の遺物がもっているのである。なにがつくられるのかではなく、どのようにして、どんな労働手段でつくられるのかが、いろいろな経済的時代を区別するのである。労働手段は、人間の労働力の発達の測度器であるだけではなく、労働がそのなかで行なわれる社会的諸関係の表示器でもある」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第五章・P.315」国民文庫)
次の文章は植物一般について言われていながら、あたかも粘菌独特の動きを追っているかのようだ。
「相違性は、表層で増殖しながら、深層では、消去しあい、混りあい、たがいに結ばれあい、不断の分散によってでもあるかのように多様なものがそこから派生すると思われる、大きな、神秘的な、目に見えぬ焦点の統一性に近づいていく」(フーコー「言葉と物・第八章・P.288」新潮社)
第三に、粘菌のサド的性質について。というのは、粘菌の動きは始めはなるほど植物的秩序に則った静的なものなのであって動きというほどのことは何一つしていないかのように見えはする。ところが一定期間の安定状態を過ぎると内部から胞子を破ってアメーバ状の集合体が現われ周囲を食い荒らす。今ではよく知られた知識だが当時は植物であり動物でもある怪物の出現を思わせた。
「獣は、死に従属するものとしてと同時に、死の担い手として姿をあらわす。動物のなかには、生命の生命自身によるたえざる食いつぶしがひそんでいるからだ。つまり動物は、みずからの内部に反=自然の核を秘めることによって始めて自然に所属するのにほかならない。もっとも秘められたその本質を植物から動物に移行させることによって、生命は秩序の空間を離れ、ふたたび野生のものとなる。生命は、おのれの死に捧げるのとおなじその運動のなかで、いまや殺戮者としてあらわれる。生命は、生きているから殺すのである。自然はもはや善良ではありえない。生命は殺戮から、自然は悪から、欲望は反=自然からもはや引きはなしえないということそれこそ、サドが十八世紀、さらに近代にむかって告知したところであり、しかもサドはそれを十八世紀の言語を涸渇させることによって遂行し、近代はそのためながいこと彼を黙殺の刑に処していたのである。牽強府会のそしりを免れぬかも知れないが(もっともだれがそれを言うのか?)、『ソドムの百二十日』は、『比較解剖学講義』のすばらしい、ビロード張りの裏面にほかならぬ」(フーコー「言葉と物・第八章・P.298」新潮社)
十九世紀、新しい顕微鏡の発明によって学術界にもたらされた粘菌特有のこの動き。それは生命あるもののすべてに実は「悪徳」、「欲望」、「反=自然」という野獣性が密かに、しかし絶え間なく、活動していることを肯定するほかない状況を突き付けた。熊楠を夢中にさせたのは粘菌の持つこの獣性である。熊楠が取り出して見せたそれは、ただ単なる生態系(エコロジー)保護というに留まらない。むしろ地域限定自然保護という立場はともすれば特定地域のみを特権化するナショナリズムに陥ってしまう。しかし熊楠はもっと広大な永遠に開かれた世界観を持った研究者だ。そこへと導いたのは粘菌という一見しただけでは他愛のない生物の生成変化だった。人間自身の生態系(人間関係のエコロジー)、さらに社会的生態系(政治、軍事、経済、金融のエコロジー)と密接に結びついて離れないという現実である。事実上、地球上からありとあらゆる微生物が抹殺されてしまうとすればその瞬間、自然の、人間生活の、すべての社会-経済活動の、連接関係は崩壊する。その意味で熊楠の思想は今の日本のマスコミがいつもでっち上げて止まない似非(えせ)聖地と真っ向から衝突するだろう。ところがしかし、それぞれのシーンを見てみると、どこをどう切り裂いてみてもなお世界は「社会的諸関係の総体」にほかならないということを告げ知らせている。熊楠が、である。
BGM
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