自称-ハエムスの裏切りによって盗賊団から自由の身になった驢馬のルキウス。連れてこられたのは一軒の民家。ほっとひと息つく間もなく、馬丁の妻から労働を命じられる。
「ところがどうでしょう。あの馬丁に連れられ、町から離れた途端、心待ちにしていた楽しみはおろか自由すらなかったのです。というのは馬丁の妻が、世に二人といまいと思われるほど貪欲な蓮葉女(はすはおんな)で、私はすぐと粉屋の碾臼(ひきうす)に縛りつけ、葉のついた小枝でのべつまくなしに私を打ち、私の皮を犠牲に、彼女と彼女の家族のパンを稼ぎ始めたのです。彼女は自分の家族の食物のために私を苦しめただけでは満足せず、近所の人の麦まで引き受け、私をぐるぐると歩き廻らせて粉にし、賃稼ぎをしていました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の7・P.273」岩波文庫)
ルキウスが従事した労働は二つに分割可能である。第一に必要労働。第二に剰余労働である。
第一に「彼女と彼女の家族のパン」のための挽臼労働。この分は馬丁とその家族が食べていくために必要な労働力商品を再生産するためだけに必要な労働である。全体を八時間労働とし生産されたパンの総量を3キロとしよう。必要労働時間を四時間とした場合、生産されたパンは1.5キロである。この時点でルキウスの労働時間は「彼女と彼女の家族のパン」の生産に必要な労働時間にちょうど達したところである。
第二に、ルキウスの証言によると、馬丁の妻は「近所の人の麦まで引き受け、私をぐるぐると歩き廻らせて粉にし、賃稼ぎをしていました」という。このために残りの四時間が費やされたとしよう。この四時間労働は馬丁とその家族が食べていくために必要な労働力商品を再生産するためだけの必要労働ではなく、近所で販売し賃稼ぎするための剰余労働に当たる。それが後半に生産されたパン1.5キロである。また、この労働に従事する前にルキウスは干草を与えられている。干草の総量を生産されたパンに換算すれば1キロとしよう。この1キロはルキウスが八時間労働に従事するために必要最低限の食料である。するとルキウスの労働時間はどのように分けて考えることができるだろうか。
全体の八労働時間のうち前半の四労働時間は、馬丁とその家族が食べていくために必要な労働力商品を再生産するための必要労働に費やされた。この必要労働の中には次にルキウスに与えられることになる干草の必要量も含まれていることは前提として。さらに後半の四労働時間は馬丁とその家族が食べていくために必要な労働力商品を再生産するためではなく、それ以外に近所で販売し賃稼ぎするための剰余労働に費やされた。なおかつルキウスは全体の八労働時間のうちに始めに与えられた干草をすべて労働力として支出したものと考えられる。
さて、生産されたパンの総量は3キロであり、そのうち剰余価値量は1.5キロであり、労働力としてのルキウスが支出した総労働時間は八時間であり、馬丁とその家族が食べていくために必要な労働力商品を再生産するためにルキウスが支出した必要労働時間は四時間であり、馬丁とその家族の再生産に関係なくルキウスが支出した剰余労働時間は四時間である。すると、必要労働(四時間=1.5キロ)を剰余労働(四時間=1.5キロ)で割ると、ルキウスが従事した総労働のうち搾取度は100パーセントとなる。ルキウスには何一つ残されていない。すべて搾取された。
なお、この計算はただ時間を延長させただけの絶対的剰余労働に過ぎない。機械化とともに発展する相対的剰余価値は計算に入っていない。なので次の計算式を当てはめて考えることができる。
(1)絶対的剰余価値の生産
「もっと詳しく見よう。労働日の日価値は三シリングだったが、それは、労働力そのものに半労働日が対象化されているからである。すなわち、労働力の生産のために毎日必要な生活手段に半労働日がかかるからである。しかし、労働力に含まれている過去の労働と労働力がすることのできる生きている労働とは、つまり労働力の毎日の維持費と労働力の毎日の支出とは、二つのまったく違う量である。前者は労働力の交換価値を規定し、後者は労働力の使用価値をなしている。労働者を24時間生かしていくために半労働日が必要だということは、けっして彼がまる1日労働するということを妨げはしない。だから、労働力の価値と、労働過程での労働力の価値増殖とは、二つの違う量なのである。この価値差は、資本家が労働力を買ったときにすでに彼の眼中にあったのである。糸や長靴をつくるという労働力の有用な性質は、一つの不可欠な条件ではあったが、それは、ただ、価値を形成するためには労働は有用な形態で支出されなければならないからである。ところが、決定的なのは、この商品の独自な使用価値、すなわち価値の源泉でありしかもそれ自身がもっているよりも大きな価値の源泉だという独自な使用価値だった。これこそ、資本家がこの商品に期待する独自な役だちなのである。そして、その場合彼は商品交換の永久な法則に従って行動する。じっさい、労働力の売り手は、他のどの商品の売り手とも同じに、労働力の交換価値を実現してその使用価値を引き渡すのである。彼は、他方を手放さなければ一方を受け取ることはできない。労働力の使用価値、つまり労働そのものはその売り手のものではないということは、売られた油の使用価値が油商人のものではないようなものである。貨幣所持者は労働力の日価値を支払った。だから、1日の労働力の使用、1日じゅうの労働は、彼のものである。労働力はまる1日活動し労働することができるにもかかわらず、労働力の1日の維持には半労働日しかかからないという事情、したがって、労働力の使用が1日につくりだす価値が労働力自身の日価値の2倍だという事情は、買い手にとっての特別な幸運ではあるが、けっして売り手に対する不法ではないのである。われわれの資本家には、彼をうれしがらせるこのような事情は前からわかっていたのである。それだから、労働者は6時間だけでなく12時間の労働過程に必要な生産手段を作業場に見いだすのである。10ポンドの綿花が6労働時間を吸収して10ポンドの糸になったとすれば、20ポンドの綿花は12労働時間を吸収して20ポンドの糸になるであろう。この延長された労働過程の生産物を考察してみよう。20ポンドの糸には今では5労働日が対象化されている。4労働日は消費された綿花量と紡錘量とに対象化されていたものであり、1労働日は紡績過程のあいだに綿花によって吸収されたものである。ところが、5労働日の金表現は30シリング、すなわち1ポンド10シリングである。だから、これが20ポンドの糸の価格である。1ポンドの糸は相変わらず1シリング6ペンスである。しかし、この過程に投入された商品の価値総額は27シリングだった。糸の価値は30シリングである。生産物の価値は、その生産のために前貸しされた価値よりも9分の1だけ大きくなった。こうして、27シリングは30シリングになった。それは3シリングの剰余価値を生んだ。手品はついに成功した。貨幣は資本に転化されたのである。問題の条件はすべて解決されており、しかも商品交換の法則は少しも侵害されてはいない。等価物が等価物と交換された。資本家は、買い手として、どの商品にも、綿花にも紡錘量にも労働力にも価値どおりに支払った。次に彼は商品の買い手がだれでもすることをした。彼はこれらの商品の使用価値を消費した。労働力の消費過程、それは同時に商品の生産過程でもあって、30シリングという価値のある20ポンドの糸という生産物を生みだした。そこで資本家は市場に帰ってきて、前には商品を買ったのだが、今度は商品を売る。彼は糸1ポンドを1シリング6ペンスで、つまりその価値よりも1ペニーも高くも安くもなく、売る。それでも、彼は、初めに彼が流通に投げ入れたよりも3シリング多くそこから取り出すのである。この全経過、彼の貨幣の資本への転化は、流通部面のなかで行なわれ、そしてまた、そこでは行なわれない。流通の媒介によって、というのは、商品市場で労働力を買うことを条件とするからである。流通では行なわれない、というのは、流通は生産部面で行なわれる価値増殖過程をただ準備するだけだからである」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第五章・P.337~340」国民文庫)
しかし必要労働と剰余労働とは融合している。
「1労働日は6時間の必要労働と6時間の剰余労働とから成っていると仮定しよう。そうすれば、一人の自由な労働者は毎週6×6すなわち36時間の剰余労働を資本家に提供するわけである。それは、彼が1週のうち3日は自分のために労働し、3日は無償で資本家のために労働するのと同じである。だが、これは目には見えない。剰余労働と必要労働とは融合している」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第八章・P.18」国民文庫)
言い換えれば両者の境界線は「位置決定不可能」である。だがむしろ、それゆえ、ドゥルーズ=ガタリにならって次のようにいうことができる。
「例えば、古代帝国の大土木工事、都市や農村の給水工事であり、そこでは平行と見なされる区画により、水は『短冊状』に流される(条里化)。ーーー現代の公共工事は、古代帝国の大土木工事と同じ地位を持っていない。再生産に必要な時間と『搾取される』時間が時間として分離されなくなっている以上、どのようにして二つを区別できるのだろう。こう言ったとしても、決してマルクスの剰余価値の理論に反するものではない。なぜならまさにマルクスこそ、資本主義体制においてはこの剰余価値が《位置決定可能なものでなくなる》ことを示しているのだから。これこそがマルクスの根本的な成果なのである。だからこそマルクスは、機械はそれ自体、剰余価値を産み出すものとなり、資本の流通は、可変資本と不変資本の区別を無効にするようになると予知しえた。このような新しい条件のもとでも、すべての労働は余剰労働であることに変わりはない。だが、余剰労働はもはや労働さえ必要としなくなってしまう。余剰労働、そして資本主義的組織の総体は、徐々に労働の物理的社会的概念に対応する時空の条理化とは無縁になってきている。むしろ、余剰労働そのものにおいて、かつての人間の疎外は『機械状隷属』によって置き換えられ、任意の労働とは独立に、剰余価値が供給されるようになっている(子供、退職者、失業者、テレビ視聴者など)。こうして使用者が被雇用者になる傾向があるだけでなく、資本主義は、労働の量に対して作用するよりも、複雑な質的過程に対して作用するのであり、この過程は、交通手段、都市のモデル、メディア、レジャー産業、知覚や感じ方、これらすべての記号系にかかわるものとなっている。あたかも、資本主義が比類ない完璧さに到らせた条理化の果てで、流動する資本が、人間の運命を左右することになる一種の平滑空間を、もう一度必然的に創造し構築しているかのようだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.281~282」河出文庫)
LGBTも兵児二才(へこにさい)もまた「位置決定不可能性」を自らの生として深く身に備えている。とりわけ兵児二才(へこにさい)にとって男道は女性器の代わりではなく逆にそれを遠ざけるものだ。そのような鉄の団結がLGBTそれぞれにあっていい。その上で始めて男と男、女と女の同性愛もよりいっそう洗練されていく。だからこそ生まれてくる通過儀礼としての過酷な自己鍛錬とそれゆえの団結力であり、無限の永劫回帰力であり、さらにはニーチェのいう厳格な意味で融通無碍な《子ども》であり、あるいはベアトリーチェを失ったダンテでもあるかのような試練を経て何度でも立ち返ってこなくてはならないし、また、そうすることができる。
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「ところがどうでしょう。あの馬丁に連れられ、町から離れた途端、心待ちにしていた楽しみはおろか自由すらなかったのです。というのは馬丁の妻が、世に二人といまいと思われるほど貪欲な蓮葉女(はすはおんな)で、私はすぐと粉屋の碾臼(ひきうす)に縛りつけ、葉のついた小枝でのべつまくなしに私を打ち、私の皮を犠牲に、彼女と彼女の家族のパンを稼ぎ始めたのです。彼女は自分の家族の食物のために私を苦しめただけでは満足せず、近所の人の麦まで引き受け、私をぐるぐると歩き廻らせて粉にし、賃稼ぎをしていました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の7・P.273」岩波文庫)
ルキウスが従事した労働は二つに分割可能である。第一に必要労働。第二に剰余労働である。
第一に「彼女と彼女の家族のパン」のための挽臼労働。この分は馬丁とその家族が食べていくために必要な労働力商品を再生産するためだけに必要な労働である。全体を八時間労働とし生産されたパンの総量を3キロとしよう。必要労働時間を四時間とした場合、生産されたパンは1.5キロである。この時点でルキウスの労働時間は「彼女と彼女の家族のパン」の生産に必要な労働時間にちょうど達したところである。
第二に、ルキウスの証言によると、馬丁の妻は「近所の人の麦まで引き受け、私をぐるぐると歩き廻らせて粉にし、賃稼ぎをしていました」という。このために残りの四時間が費やされたとしよう。この四時間労働は馬丁とその家族が食べていくために必要な労働力商品を再生産するためだけの必要労働ではなく、近所で販売し賃稼ぎするための剰余労働に当たる。それが後半に生産されたパン1.5キロである。また、この労働に従事する前にルキウスは干草を与えられている。干草の総量を生産されたパンに換算すれば1キロとしよう。この1キロはルキウスが八時間労働に従事するために必要最低限の食料である。するとルキウスの労働時間はどのように分けて考えることができるだろうか。
全体の八労働時間のうち前半の四労働時間は、馬丁とその家族が食べていくために必要な労働力商品を再生産するための必要労働に費やされた。この必要労働の中には次にルキウスに与えられることになる干草の必要量も含まれていることは前提として。さらに後半の四労働時間は馬丁とその家族が食べていくために必要な労働力商品を再生産するためではなく、それ以外に近所で販売し賃稼ぎするための剰余労働に費やされた。なおかつルキウスは全体の八労働時間のうちに始めに与えられた干草をすべて労働力として支出したものと考えられる。
さて、生産されたパンの総量は3キロであり、そのうち剰余価値量は1.5キロであり、労働力としてのルキウスが支出した総労働時間は八時間であり、馬丁とその家族が食べていくために必要な労働力商品を再生産するためにルキウスが支出した必要労働時間は四時間であり、馬丁とその家族の再生産に関係なくルキウスが支出した剰余労働時間は四時間である。すると、必要労働(四時間=1.5キロ)を剰余労働(四時間=1.5キロ)で割ると、ルキウスが従事した総労働のうち搾取度は100パーセントとなる。ルキウスには何一つ残されていない。すべて搾取された。
なお、この計算はただ時間を延長させただけの絶対的剰余労働に過ぎない。機械化とともに発展する相対的剰余価値は計算に入っていない。なので次の計算式を当てはめて考えることができる。
(1)絶対的剰余価値の生産
「もっと詳しく見よう。労働日の日価値は三シリングだったが、それは、労働力そのものに半労働日が対象化されているからである。すなわち、労働力の生産のために毎日必要な生活手段に半労働日がかかるからである。しかし、労働力に含まれている過去の労働と労働力がすることのできる生きている労働とは、つまり労働力の毎日の維持費と労働力の毎日の支出とは、二つのまったく違う量である。前者は労働力の交換価値を規定し、後者は労働力の使用価値をなしている。労働者を24時間生かしていくために半労働日が必要だということは、けっして彼がまる1日労働するということを妨げはしない。だから、労働力の価値と、労働過程での労働力の価値増殖とは、二つの違う量なのである。この価値差は、資本家が労働力を買ったときにすでに彼の眼中にあったのである。糸や長靴をつくるという労働力の有用な性質は、一つの不可欠な条件ではあったが、それは、ただ、価値を形成するためには労働は有用な形態で支出されなければならないからである。ところが、決定的なのは、この商品の独自な使用価値、すなわち価値の源泉でありしかもそれ自身がもっているよりも大きな価値の源泉だという独自な使用価値だった。これこそ、資本家がこの商品に期待する独自な役だちなのである。そして、その場合彼は商品交換の永久な法則に従って行動する。じっさい、労働力の売り手は、他のどの商品の売り手とも同じに、労働力の交換価値を実現してその使用価値を引き渡すのである。彼は、他方を手放さなければ一方を受け取ることはできない。労働力の使用価値、つまり労働そのものはその売り手のものではないということは、売られた油の使用価値が油商人のものではないようなものである。貨幣所持者は労働力の日価値を支払った。だから、1日の労働力の使用、1日じゅうの労働は、彼のものである。労働力はまる1日活動し労働することができるにもかかわらず、労働力の1日の維持には半労働日しかかからないという事情、したがって、労働力の使用が1日につくりだす価値が労働力自身の日価値の2倍だという事情は、買い手にとっての特別な幸運ではあるが、けっして売り手に対する不法ではないのである。われわれの資本家には、彼をうれしがらせるこのような事情は前からわかっていたのである。それだから、労働者は6時間だけでなく12時間の労働過程に必要な生産手段を作業場に見いだすのである。10ポンドの綿花が6労働時間を吸収して10ポンドの糸になったとすれば、20ポンドの綿花は12労働時間を吸収して20ポンドの糸になるであろう。この延長された労働過程の生産物を考察してみよう。20ポンドの糸には今では5労働日が対象化されている。4労働日は消費された綿花量と紡錘量とに対象化されていたものであり、1労働日は紡績過程のあいだに綿花によって吸収されたものである。ところが、5労働日の金表現は30シリング、すなわち1ポンド10シリングである。だから、これが20ポンドの糸の価格である。1ポンドの糸は相変わらず1シリング6ペンスである。しかし、この過程に投入された商品の価値総額は27シリングだった。糸の価値は30シリングである。生産物の価値は、その生産のために前貸しされた価値よりも9分の1だけ大きくなった。こうして、27シリングは30シリングになった。それは3シリングの剰余価値を生んだ。手品はついに成功した。貨幣は資本に転化されたのである。問題の条件はすべて解決されており、しかも商品交換の法則は少しも侵害されてはいない。等価物が等価物と交換された。資本家は、買い手として、どの商品にも、綿花にも紡錘量にも労働力にも価値どおりに支払った。次に彼は商品の買い手がだれでもすることをした。彼はこれらの商品の使用価値を消費した。労働力の消費過程、それは同時に商品の生産過程でもあって、30シリングという価値のある20ポンドの糸という生産物を生みだした。そこで資本家は市場に帰ってきて、前には商品を買ったのだが、今度は商品を売る。彼は糸1ポンドを1シリング6ペンスで、つまりその価値よりも1ペニーも高くも安くもなく、売る。それでも、彼は、初めに彼が流通に投げ入れたよりも3シリング多くそこから取り出すのである。この全経過、彼の貨幣の資本への転化は、流通部面のなかで行なわれ、そしてまた、そこでは行なわれない。流通の媒介によって、というのは、商品市場で労働力を買うことを条件とするからである。流通では行なわれない、というのは、流通は生産部面で行なわれる価値増殖過程をただ準備するだけだからである」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第五章・P.337~340」国民文庫)
しかし必要労働と剰余労働とは融合している。
「1労働日は6時間の必要労働と6時間の剰余労働とから成っていると仮定しよう。そうすれば、一人の自由な労働者は毎週6×6すなわち36時間の剰余労働を資本家に提供するわけである。それは、彼が1週のうち3日は自分のために労働し、3日は無償で資本家のために労働するのと同じである。だが、これは目には見えない。剰余労働と必要労働とは融合している」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第八章・P.18」国民文庫)
言い換えれば両者の境界線は「位置決定不可能」である。だがむしろ、それゆえ、ドゥルーズ=ガタリにならって次のようにいうことができる。
「例えば、古代帝国の大土木工事、都市や農村の給水工事であり、そこでは平行と見なされる区画により、水は『短冊状』に流される(条里化)。ーーー現代の公共工事は、古代帝国の大土木工事と同じ地位を持っていない。再生産に必要な時間と『搾取される』時間が時間として分離されなくなっている以上、どのようにして二つを区別できるのだろう。こう言ったとしても、決してマルクスの剰余価値の理論に反するものではない。なぜならまさにマルクスこそ、資本主義体制においてはこの剰余価値が《位置決定可能なものでなくなる》ことを示しているのだから。これこそがマルクスの根本的な成果なのである。だからこそマルクスは、機械はそれ自体、剰余価値を産み出すものとなり、資本の流通は、可変資本と不変資本の区別を無効にするようになると予知しえた。このような新しい条件のもとでも、すべての労働は余剰労働であることに変わりはない。だが、余剰労働はもはや労働さえ必要としなくなってしまう。余剰労働、そして資本主義的組織の総体は、徐々に労働の物理的社会的概念に対応する時空の条理化とは無縁になってきている。むしろ、余剰労働そのものにおいて、かつての人間の疎外は『機械状隷属』によって置き換えられ、任意の労働とは独立に、剰余価値が供給されるようになっている(子供、退職者、失業者、テレビ視聴者など)。こうして使用者が被雇用者になる傾向があるだけでなく、資本主義は、労働の量に対して作用するよりも、複雑な質的過程に対して作用するのであり、この過程は、交通手段、都市のモデル、メディア、レジャー産業、知覚や感じ方、これらすべての記号系にかかわるものとなっている。あたかも、資本主義が比類ない完璧さに到らせた条理化の果てで、流動する資本が、人間の運命を左右することになる一種の平滑空間を、もう一度必然的に創造し構築しているかのようだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.281~282」河出文庫)
LGBTも兵児二才(へこにさい)もまた「位置決定不可能性」を自らの生として深く身に備えている。とりわけ兵児二才(へこにさい)にとって男道は女性器の代わりではなく逆にそれを遠ざけるものだ。そのような鉄の団結がLGBTそれぞれにあっていい。その上で始めて男と男、女と女の同性愛もよりいっそう洗練されていく。だからこそ生まれてくる通過儀礼としての過酷な自己鍛錬とそれゆえの団結力であり、無限の永劫回帰力であり、さらにはニーチェのいう厳格な意味で融通無碍な《子ども》であり、あるいはベアトリーチェを失ったダンテでもあるかのような試練を経て何度でも立ち返ってこなくてはならないし、また、そうすることができる。
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