ルキウスが荷運び役を務めるピレーブス一団はディオニュソス=バッコス祭を挙行して見せては周辺の村々で金品を儲けながら移動を繰り返していた。彼らは全員去勢しているため身体に男性器はない。しかし情欲はある。兵児二才の場合なら、もちろん男色はあるわけだがそれは女性器の代わりをアナルセックスに求めるわけではなく、あくまで男道(精神的団結)を尊重し、たとえ男色行為を行なうにしてもアナルセックス自体は従属的なものだ。ピレーブス一団もまた男道信仰者の集まりだが兵児二才と異なり男色が先行しているケースである。この違いは極めて大きい。古代ギリシア悲劇や一連のジュネ文学に目を通すことが理解を容易にするだろう。さて、ピレーブス一団はある村で予想外の収穫を得た。そこでひとときの祝宴を張る。
「からだを洗って帰るとき、一人の非常に頑健な田舎者(いなかもの)を、その逞(たくま)しいからだつきや下腹の工合が彼らの好みに合ったのか、夕食の仲間にと連れ帰りました。ほんのわずかな前菜を味わって、これからいよいよ饗宴(きょうえん)を始めるというとき、恥知らずのけがらわしい奴らは、口にするもの憚(はばか)られる淫(みだ)らな焔を燃やし、自然に悖(もと)った情欲の破廉恥(はれんち)きわまる淫行へと駆りたてられたのです。連中はその若者の周囲をとりまき、裸にして仰向けに倒し、忌まわしい唇をがむしゃらに押しつけ出したのです」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の8・P.324」岩波文庫)
ルキウスは一団の中で唯一の異性愛者である。だから「自然に悖(もと)った情欲の破廉恥(はれんち)きわまる淫行」であるかのように見える。しかし男性同性愛の世界では何ら変わったことではなく異常事態でもない。作者アープレーイユスが書いているようにそれは、「いとも神聖な純潔」、「潔白な廉恥心」、といったものだ。問題は、そもそも「自然」とはなんなのか、でなくてはならない。さらにまた「道徳」は唯一絶対的なものでなくてはならないのか。一人の男と一人の女とその間でのみ出来た子どもというオイディプス三角形。いつ誰がそんなことを決めたのか。この道徳批判の次元でニーチェは「キリスト教の天才的ちょっかい」と言って問題視する。キリスト教のヨーロッパ制覇によって、人間は、道徳的次元において、「一=自然」の側があたかも「全=自然」であるかのように取って代わったからである。しかし異性愛者の感性もまた尊重されなくてはならない。驢馬のルキウスはこう述べる。
「『ローマ人よ、助けに来てくれ』と叫ぼうとしたのです。しかし、ことばもいえず、発音もできず、ただ『おー』という声だけが、はっきりと力強く、驢馬特有のいななきが出てきました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の8・P.324」岩波文庫)
ルキウスとその周辺では言語的次元で、「ローマ人よ、助けに来てくれ」=「おー」、という等価性が発生した。この問いはただちにウィトゲンシュタインが上げた例を思い起こさせる。ウィトゲンシュタインの場合はこうだった。たいへん具体的な事例なので多少長いが引用しよう。
「次のようなことはどうだろう。第二節の例にあった『石板!』という叫びは文章なのだろうか、それとも単語なのだろうか。ーーー単語であるとするなら、それはわれわれの日常言語の中で同じように発音される語と同じ意味をもっているのではない。なぜなら、第二節ではそれはまさに叫び声なのであるから。しかし、文章であるとしても、それは、われわれの単語における『石板!』という省略文ではない。ーーー最初の問いに関するかぎり、『石板!』は単語だとも言えるし、また文章だとも言える。おそらく『くずれた文章』というのがあたっている(ひとがくずれた修辞的誇張について語るように)。しかも、それはわれわれの<省略>文ですらある。ーーーだが、それは『石板をもってこい』という文章を短縮した形にすぎないのであって、このような文章は第二節の例の中にはないのである。ーーーしかし、逆に、『石板をもってこい!』という文章が『石板!』という文の《引きのばし》であると言ってはなぜいけないのだろうか。ーーーそれは、『石板!』と叫ぶひとが、実は『石板をもってこい!』ということをいみしているからだ。ーーーそれでは『石板』と《言い》ながら、《そのようなこと〔『石板をもってこい!』ということ〕をいみしている》というのは、いったいどういうことなのか。心の中では短縮されていない文章を自分に言いきかせているということなのか。それに、なぜわたくしは、誰かが『石板!』という叫びでいみしていたことを言いあらわすのに、当の表現を別の表現へ翻訳しなくてはいけないのか。また、双方が同じことを意味しているとするなら、ーーーなぜわたくしは『かれが<石板!>と言っているなら<石板!>ということをいみしているのだ』と言ってはいけないのか。あるいはまた、あなたが『石板をもってこい』ということをいみすることができるのなら、なぜあなたは『石板!』ということをいみすることができてはいけないのだろうか。ーーーでも、『石板!』と叫ぶときには、《かれがわたくしに石板をもってくる》ことを欲しているのだ。ーーーたしかにその通り。しかし、<そうしたことを欲する>ということは、自分のいう文章とはちがう文章を何らかの形で考えている、ということなのだろうか。
ーーーしかし、いま、あるひとが『石板 を もってこい!』と言うとすると、いまや、このひとは、この表現を、《一つの》長い単語、すなわち『石板!』という一語に対応する長い単語によって、いみしえたかのようにみえる。ーーーすると、ひとは、この表現を、あるときには一語で、またあるときは四語でいみすることができるのか。通常、ひとはこうした表現をどのように考えているのか。ーーー思うに、われわれは、たとえば『石板 を 《渡して》 くれ』『石板 を 《かれ》 の ところ へ もって いけ』『石板 を 《二枚》 もって こい』等々、別の文章との対比において、つまり、われわれの命令語をちがったしかたで結合させている文章との対比において、右の表現を用いるときに、これを《四》語から成る一つの文章だと考える、と言いたいくなるのではあるまいか。ーーーしかし、一つの文章を他の文章との対比において用いるということは、どういうことなのか。その際、何かそうした別の文章が念頭に浮んでくるということなのか。では、それらすべてが念頭に浮かぶのか。その一つの文章をいっている《あいだに》そうなるのか、それともその前にか、あるいは後にか。ーーーどれもちがう!たとえそのような説明にわれわれがいくばくかの魅力を感ずるとしても、実際に何が起っているのかをちょっと考えてみさえすれば、そのような説明が誤っていることが見てとれる。われわれは、自分たちが右のような命令文を他の文章との対比において用いるのは、《自分たちの言語》がそのような他の文章の可能性を含んでいるからだ、と言う。われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが『石板をもってこい!』という命令を下すのをたびたび聞いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言語では何か『建材』といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない。そのとき、かれ自身がこの命令を下したとすると、かれはそれをたぶん違ったふうに発音するだろうし、また、われわれは、あの人の発音は変だ、あれが一語だと思っている、などと言うであろう。ーーーしかし、このことゆえに、かれがこの命令を発するときには、何かまた別のことがかれの心の中で起っているのではないか、ーーーかれがその文章を《一つの》単語として把握していることに対応する何かが。ーーーこれと似たこと、あるいはまた何かちがったことが、かれの心の中で起っているのかもしれない。では、きみがそのような命令を下すとき、きみの心の中では何が起っているのか。それを発音している《あいだに》、これが四語から成っていることが意識されているのだろうか。もちろん、きみはこの言語ーーーその中には、すでに述べたような別の文章も含まれているーーーに《熟達》しているのだが、しかし、この熟達ということが、その文章を発音しているあいだに《起こっている》ことなのだろうか。ーーーむろんわたくしは、別様に把握した文章を外国人がおそらく別様に発音するであろうこと、を認めている。しかし、われわれが誤った把握と呼ぶものは、《必ずしも》、命令の発音に付随した〔それとは別の〕何ごとかのうちに生ずるわけではない。
文章が『省略形』であるのは、それを発音するときに、何かわれわれの考えていることが除外されるからではなくて、それがーーーわれわれの文法の一定の範例に比べてーーー短縮されたているからである。ーーーここでひとは、もちろん、『おまえは、短縮された文章と短縮されていない文章とが、同じ意義をもっていることを認めているではないか。それなら、それらはどのような意義をもっているのか。いったい、そうした意義に対して、一つの言語表現がないのか』といった異議がありえよう。ーーーしかし、文章の同じ意義とは、それらの同じ《適用》にあるのではないか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・一九・二〇」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.26~29』大修館書店)
現代人の身の周りでは実にしばしば起こってくる事例であるに違いない。ところがそんなことはないかほとんど起らない場合もまた多い。言語的齟齬がまず起こらない場合、ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば、それが一つの《言語ゲーム》を形成しているからである。
「わたくしは、このような類似性を『家族的類似性』ということばによる以外に、うまく特徴づけることができない。なぜなら、一つの家族の構成員の間に成り立っているさまざまな類似性、たとえば体つき、顔の特徴、眼の色、歩きかた、気質、等々も、同じように重なり合い、交差し合っているからである。ーーーだから、わたくしは、<ゲーム>が一つの家族を形成している、と言おう」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・六七」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.70』大修館書店)
例えば日本の近代資本主義が達成したのはこのタイプの言語ゲームである。ところが一九七〇年代高度成長期が終わって世界のリゾーム化が進み、さらに九〇年代後半には広範なネット社会が出現した。いまだ戦後ではあるがもはや近代ではない。そして家族共同体もいまだ戦後でありつつもはや近代ではいられなくなった。それは反-資本主義ではなく、逆に資本主義自身の要請に従った結果である。
かつて社会の最小単位は「家庭」(親子関係)に絞り込まれていた。そして親と子とのあいだの血の繋がりが重視されていた。もはや血の繋がりはそれほど重要でない。DVの多発に伴いまったく重要でない場合も続出してきた。そして或る親と別の親との置き換えが可能になり、さらに親なしでも構わない場合や親がいては子にとってかえって迷惑という場合も出てきた。この事情は時期的にみれば興味深いとおもわれる。遺伝情報に関する研究、ゲノム解析に関する研究、等々が飛躍的発展を遂げたのとほぼ同時期に、遺伝もゲノムも関係のないところで、様々な家庭のあり方が新しく承認され、さらなる模索が続けられ、場合によりけりではあるものの家庭なしでも何ら問題ないという地点へ達したという点で。その意味でドゥルーズ=ガタリの「アンチ・オイディプス」は間違っていなかったと、日本でもようやく今になって証明されてきたと言える。
「家庭は欲望の生産の中に導入されて、最も幼いころから欲望のおきかえを⦅つまり信じられないような欲望の抑圧を⦆操作することになる。家庭は、社会的生産によって、抑圧に派遣されるのである。ところで、家庭がこうして欲望の登録の中にすべりこむことができるのは、先にみたように、この登録が行われる器官なき身体が既に自分自身において欲望する生産に対する《根源的な抑圧》を行使しているからである。この根源的な抑圧を利用してこれに《いわゆる二次的な抑圧》を重ねることが、家庭の仕事なのである。この二次的な抑圧は、家庭に委托されているのだとも、あるいは家庭がこの抑圧に派遣されているのだともいってもいい。(精神分析は、この一次、二次の二つの抑圧の間の相違をいみじくも指摘したが、しかしこの相違の有効範囲とこの両抑圧の体制の区別を示すには至っていない)。したがって、いわゆる抑圧は、実在する欲望する生産を抑圧することに満足せず、この抑圧されたものに、みかけのおきかえられたイマージュを与えて、家庭的登録をもって欲望の登録の代りとしてしまうことになる。欲望する生産の集合が、周知のオイディプス的形象をとることになるのは、この欲望する生産が家庭的に翻訳されている場合でしかないのだ。つまり、<背信の翻訳>の場合でしかない」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・第二章・P.151~152」河出書房新社)
さらにこの流れは次々と種々の形態変化を要請してくる。人間はこの種の要請を原則的に脳で処理するほかない。すると脳細胞もまたよりいっそう複雑なリゾーム化を加速させなければならなくなる。例えば「DV厳禁」という信号が法制化される。それは資本主義が一定の労働力商品をいつも確保しておくための調整弁として、資本主義の隷属者たるすべての人間を活用して創設される資本主義的かつ人為的法律なのであって、けっして人間主義(ヒューマニズム)的見地からなされているのではない。また、ニーチェのいう「原因と結果との取り違い」はいつも発生しているため、次のような状況が世界を取り巻くことになる。
「これまで私は、複雑な燕石伝説のさまざまな入り組んだ原因を追求してきた。さて、原因は複数のものであり、それらが人類の制度の発展に、いかに些細であろうとも、本質的な影響を及ぼしてきたということが充分に認識されている今日でさえ、自分たちが取扱うすべての伝説について、孤立した事実や空想を、その全く唯一の起原とすることに固執する伝説研究者が、少なくないように私には思われるのである。しかし全くのところ、伝説はその原因があまりにも多様で複雑な点で、またそのために、先行するものを後になって追加されたものから解きほぐしにくいという点で、まさに夢に匹敵するものである。ところで原因のあるものは、くり返し果となり因となって、相互に作用しあう。そして原因の他のものは、組み合わされた結果のなかにとけこんで、目に見えるような痕跡を全く遺さないのである」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.389』河出文庫)
しかもなおリゾームは増殖する。人間の脳がそのモデルである。脳をモデルとして増殖するリゾームは途中で止まるということを知らない。
「超越論的探求の特性は、好きなときにやめることができないという点にある。根拠を規定するにあたって、さらなる彼岸へと、根拠が出現してくる無底のなかへと、急き立てられずにいることなどどうしてできよう」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.173」河出文庫)
ここでいう「超越論的探求」はヘーゲルのいう絶対精神でありマルクスのいう物質的生産力である。その最先端が今のアメリカである。アメリカは苦悶している。限度を知らないアメリカのネオリベラリズムはその暴風雨を自分自身の身体へ向け換えて猛威を振るわせ、自分で自分自身を鞭打って血塗れになっている。日米同盟を主軸に日本の立場を考えるとすると、アメリカの実験場の一つと化した日本は、アメリカが一部瓦解すると日本もまた同時に一部瓦解するほかない。日本の一部は死ぬ。そこに住む地域住民も死ぬ。リゾームは一方で逃走線を構成するが、もう一方でフィッツジェラルドがこうむったような自己破壊の線、生死にかかわる断絶の線をも構成するし今このときも絶え間なく構成しつつある。
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「からだを洗って帰るとき、一人の非常に頑健な田舎者(いなかもの)を、その逞(たくま)しいからだつきや下腹の工合が彼らの好みに合ったのか、夕食の仲間にと連れ帰りました。ほんのわずかな前菜を味わって、これからいよいよ饗宴(きょうえん)を始めるというとき、恥知らずのけがらわしい奴らは、口にするもの憚(はばか)られる淫(みだ)らな焔を燃やし、自然に悖(もと)った情欲の破廉恥(はれんち)きわまる淫行へと駆りたてられたのです。連中はその若者の周囲をとりまき、裸にして仰向けに倒し、忌まわしい唇をがむしゃらに押しつけ出したのです」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の8・P.324」岩波文庫)
ルキウスは一団の中で唯一の異性愛者である。だから「自然に悖(もと)った情欲の破廉恥(はれんち)きわまる淫行」であるかのように見える。しかし男性同性愛の世界では何ら変わったことではなく異常事態でもない。作者アープレーイユスが書いているようにそれは、「いとも神聖な純潔」、「潔白な廉恥心」、といったものだ。問題は、そもそも「自然」とはなんなのか、でなくてはならない。さらにまた「道徳」は唯一絶対的なものでなくてはならないのか。一人の男と一人の女とその間でのみ出来た子どもというオイディプス三角形。いつ誰がそんなことを決めたのか。この道徳批判の次元でニーチェは「キリスト教の天才的ちょっかい」と言って問題視する。キリスト教のヨーロッパ制覇によって、人間は、道徳的次元において、「一=自然」の側があたかも「全=自然」であるかのように取って代わったからである。しかし異性愛者の感性もまた尊重されなくてはならない。驢馬のルキウスはこう述べる。
「『ローマ人よ、助けに来てくれ』と叫ぼうとしたのです。しかし、ことばもいえず、発音もできず、ただ『おー』という声だけが、はっきりと力強く、驢馬特有のいななきが出てきました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の8・P.324」岩波文庫)
ルキウスとその周辺では言語的次元で、「ローマ人よ、助けに来てくれ」=「おー」、という等価性が発生した。この問いはただちにウィトゲンシュタインが上げた例を思い起こさせる。ウィトゲンシュタインの場合はこうだった。たいへん具体的な事例なので多少長いが引用しよう。
「次のようなことはどうだろう。第二節の例にあった『石板!』という叫びは文章なのだろうか、それとも単語なのだろうか。ーーー単語であるとするなら、それはわれわれの日常言語の中で同じように発音される語と同じ意味をもっているのではない。なぜなら、第二節ではそれはまさに叫び声なのであるから。しかし、文章であるとしても、それは、われわれの単語における『石板!』という省略文ではない。ーーー最初の問いに関するかぎり、『石板!』は単語だとも言えるし、また文章だとも言える。おそらく『くずれた文章』というのがあたっている(ひとがくずれた修辞的誇張について語るように)。しかも、それはわれわれの<省略>文ですらある。ーーーだが、それは『石板をもってこい』という文章を短縮した形にすぎないのであって、このような文章は第二節の例の中にはないのである。ーーーしかし、逆に、『石板をもってこい!』という文章が『石板!』という文の《引きのばし》であると言ってはなぜいけないのだろうか。ーーーそれは、『石板!』と叫ぶひとが、実は『石板をもってこい!』ということをいみしているからだ。ーーーそれでは『石板』と《言い》ながら、《そのようなこと〔『石板をもってこい!』ということ〕をいみしている》というのは、いったいどういうことなのか。心の中では短縮されていない文章を自分に言いきかせているということなのか。それに、なぜわたくしは、誰かが『石板!』という叫びでいみしていたことを言いあらわすのに、当の表現を別の表現へ翻訳しなくてはいけないのか。また、双方が同じことを意味しているとするなら、ーーーなぜわたくしは『かれが<石板!>と言っているなら<石板!>ということをいみしているのだ』と言ってはいけないのか。あるいはまた、あなたが『石板をもってこい』ということをいみすることができるのなら、なぜあなたは『石板!』ということをいみすることができてはいけないのだろうか。ーーーでも、『石板!』と叫ぶときには、《かれがわたくしに石板をもってくる》ことを欲しているのだ。ーーーたしかにその通り。しかし、<そうしたことを欲する>ということは、自分のいう文章とはちがう文章を何らかの形で考えている、ということなのだろうか。
ーーーしかし、いま、あるひとが『石板 を もってこい!』と言うとすると、いまや、このひとは、この表現を、《一つの》長い単語、すなわち『石板!』という一語に対応する長い単語によって、いみしえたかのようにみえる。ーーーすると、ひとは、この表現を、あるときには一語で、またあるときは四語でいみすることができるのか。通常、ひとはこうした表現をどのように考えているのか。ーーー思うに、われわれは、たとえば『石板 を 《渡して》 くれ』『石板 を 《かれ》 の ところ へ もって いけ』『石板 を 《二枚》 もって こい』等々、別の文章との対比において、つまり、われわれの命令語をちがったしかたで結合させている文章との対比において、右の表現を用いるときに、これを《四》語から成る一つの文章だと考える、と言いたいくなるのではあるまいか。ーーーしかし、一つの文章を他の文章との対比において用いるということは、どういうことなのか。その際、何かそうした別の文章が念頭に浮んでくるということなのか。では、それらすべてが念頭に浮かぶのか。その一つの文章をいっている《あいだに》そうなるのか、それともその前にか、あるいは後にか。ーーーどれもちがう!たとえそのような説明にわれわれがいくばくかの魅力を感ずるとしても、実際に何が起っているのかをちょっと考えてみさえすれば、そのような説明が誤っていることが見てとれる。われわれは、自分たちが右のような命令文を他の文章との対比において用いるのは、《自分たちの言語》がそのような他の文章の可能性を含んでいるからだ、と言う。われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが『石板をもってこい!』という命令を下すのをたびたび聞いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言語では何か『建材』といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない。そのとき、かれ自身がこの命令を下したとすると、かれはそれをたぶん違ったふうに発音するだろうし、また、われわれは、あの人の発音は変だ、あれが一語だと思っている、などと言うであろう。ーーーしかし、このことゆえに、かれがこの命令を発するときには、何かまた別のことがかれの心の中で起っているのではないか、ーーーかれがその文章を《一つの》単語として把握していることに対応する何かが。ーーーこれと似たこと、あるいはまた何かちがったことが、かれの心の中で起っているのかもしれない。では、きみがそのような命令を下すとき、きみの心の中では何が起っているのか。それを発音している《あいだに》、これが四語から成っていることが意識されているのだろうか。もちろん、きみはこの言語ーーーその中には、すでに述べたような別の文章も含まれているーーーに《熟達》しているのだが、しかし、この熟達ということが、その文章を発音しているあいだに《起こっている》ことなのだろうか。ーーーむろんわたくしは、別様に把握した文章を外国人がおそらく別様に発音するであろうこと、を認めている。しかし、われわれが誤った把握と呼ぶものは、《必ずしも》、命令の発音に付随した〔それとは別の〕何ごとかのうちに生ずるわけではない。
文章が『省略形』であるのは、それを発音するときに、何かわれわれの考えていることが除外されるからではなくて、それがーーーわれわれの文法の一定の範例に比べてーーー短縮されたているからである。ーーーここでひとは、もちろん、『おまえは、短縮された文章と短縮されていない文章とが、同じ意義をもっていることを認めているではないか。それなら、それらはどのような意義をもっているのか。いったい、そうした意義に対して、一つの言語表現がないのか』といった異議がありえよう。ーーーしかし、文章の同じ意義とは、それらの同じ《適用》にあるのではないか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・一九・二〇」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.26~29』大修館書店)
現代人の身の周りでは実にしばしば起こってくる事例であるに違いない。ところがそんなことはないかほとんど起らない場合もまた多い。言語的齟齬がまず起こらない場合、ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば、それが一つの《言語ゲーム》を形成しているからである。
「わたくしは、このような類似性を『家族的類似性』ということばによる以外に、うまく特徴づけることができない。なぜなら、一つの家族の構成員の間に成り立っているさまざまな類似性、たとえば体つき、顔の特徴、眼の色、歩きかた、気質、等々も、同じように重なり合い、交差し合っているからである。ーーーだから、わたくしは、<ゲーム>が一つの家族を形成している、と言おう」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・六七」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.70』大修館書店)
例えば日本の近代資本主義が達成したのはこのタイプの言語ゲームである。ところが一九七〇年代高度成長期が終わって世界のリゾーム化が進み、さらに九〇年代後半には広範なネット社会が出現した。いまだ戦後ではあるがもはや近代ではない。そして家族共同体もいまだ戦後でありつつもはや近代ではいられなくなった。それは反-資本主義ではなく、逆に資本主義自身の要請に従った結果である。
かつて社会の最小単位は「家庭」(親子関係)に絞り込まれていた。そして親と子とのあいだの血の繋がりが重視されていた。もはや血の繋がりはそれほど重要でない。DVの多発に伴いまったく重要でない場合も続出してきた。そして或る親と別の親との置き換えが可能になり、さらに親なしでも構わない場合や親がいては子にとってかえって迷惑という場合も出てきた。この事情は時期的にみれば興味深いとおもわれる。遺伝情報に関する研究、ゲノム解析に関する研究、等々が飛躍的発展を遂げたのとほぼ同時期に、遺伝もゲノムも関係のないところで、様々な家庭のあり方が新しく承認され、さらなる模索が続けられ、場合によりけりではあるものの家庭なしでも何ら問題ないという地点へ達したという点で。その意味でドゥルーズ=ガタリの「アンチ・オイディプス」は間違っていなかったと、日本でもようやく今になって証明されてきたと言える。
「家庭は欲望の生産の中に導入されて、最も幼いころから欲望のおきかえを⦅つまり信じられないような欲望の抑圧を⦆操作することになる。家庭は、社会的生産によって、抑圧に派遣されるのである。ところで、家庭がこうして欲望の登録の中にすべりこむことができるのは、先にみたように、この登録が行われる器官なき身体が既に自分自身において欲望する生産に対する《根源的な抑圧》を行使しているからである。この根源的な抑圧を利用してこれに《いわゆる二次的な抑圧》を重ねることが、家庭の仕事なのである。この二次的な抑圧は、家庭に委托されているのだとも、あるいは家庭がこの抑圧に派遣されているのだともいってもいい。(精神分析は、この一次、二次の二つの抑圧の間の相違をいみじくも指摘したが、しかしこの相違の有効範囲とこの両抑圧の体制の区別を示すには至っていない)。したがって、いわゆる抑圧は、実在する欲望する生産を抑圧することに満足せず、この抑圧されたものに、みかけのおきかえられたイマージュを与えて、家庭的登録をもって欲望の登録の代りとしてしまうことになる。欲望する生産の集合が、周知のオイディプス的形象をとることになるのは、この欲望する生産が家庭的に翻訳されている場合でしかないのだ。つまり、<背信の翻訳>の場合でしかない」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・第二章・P.151~152」河出書房新社)
さらにこの流れは次々と種々の形態変化を要請してくる。人間はこの種の要請を原則的に脳で処理するほかない。すると脳細胞もまたよりいっそう複雑なリゾーム化を加速させなければならなくなる。例えば「DV厳禁」という信号が法制化される。それは資本主義が一定の労働力商品をいつも確保しておくための調整弁として、資本主義の隷属者たるすべての人間を活用して創設される資本主義的かつ人為的法律なのであって、けっして人間主義(ヒューマニズム)的見地からなされているのではない。また、ニーチェのいう「原因と結果との取り違い」はいつも発生しているため、次のような状況が世界を取り巻くことになる。
「これまで私は、複雑な燕石伝説のさまざまな入り組んだ原因を追求してきた。さて、原因は複数のものであり、それらが人類の制度の発展に、いかに些細であろうとも、本質的な影響を及ぼしてきたということが充分に認識されている今日でさえ、自分たちが取扱うすべての伝説について、孤立した事実や空想を、その全く唯一の起原とすることに固執する伝説研究者が、少なくないように私には思われるのである。しかし全くのところ、伝説はその原因があまりにも多様で複雑な点で、またそのために、先行するものを後になって追加されたものから解きほぐしにくいという点で、まさに夢に匹敵するものである。ところで原因のあるものは、くり返し果となり因となって、相互に作用しあう。そして原因の他のものは、組み合わされた結果のなかにとけこんで、目に見えるような痕跡を全く遺さないのである」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.389』河出文庫)
しかもなおリゾームは増殖する。人間の脳がそのモデルである。脳をモデルとして増殖するリゾームは途中で止まるということを知らない。
「超越論的探求の特性は、好きなときにやめることができないという点にある。根拠を規定するにあたって、さらなる彼岸へと、根拠が出現してくる無底のなかへと、急き立てられずにいることなどどうしてできよう」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.173」河出文庫)
ここでいう「超越論的探求」はヘーゲルのいう絶対精神でありマルクスのいう物質的生産力である。その最先端が今のアメリカである。アメリカは苦悶している。限度を知らないアメリカのネオリベラリズムはその暴風雨を自分自身の身体へ向け換えて猛威を振るわせ、自分で自分自身を鞭打って血塗れになっている。日米同盟を主軸に日本の立場を考えるとすると、アメリカの実験場の一つと化した日本は、アメリカが一部瓦解すると日本もまた同時に一部瓦解するほかない。日本の一部は死ぬ。そこに住む地域住民も死ぬ。リゾームは一方で逃走線を構成するが、もう一方でフィッツジェラルドがこうむったような自己破壊の線、生死にかかわる断絶の線をも構成するし今このときも絶え間なく構成しつつある。
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