白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

仮面等価性6

2020年08月04日 | 日記・エッセイ・コラム
過剰かつ逸脱した美貌ゆえに神格化されてしまった末娘プシューケー。民間の人間へ嫁ぐのは絶望的と感じた両親はアポロンから神託を授かり実行しようと考える。アポロンはいう。

「高い山の嶺(いただき)に、王よ、その少女(おとめ)を置け、死に行く嫁入りの、粧(よそお)いに飾らせて。また婿としては人間の胤(たね)から出た者をでなく、荒々しく兇暴に、蝮(まむし)みたいな悪い男を待ち設けるがいい。翼をもって虚空(こくう)を高く飛行(ひぎょう)して歩き、万物を悩まし、焔と剣とをもってすべてのものを痛め弱らせる男、その者をユーピテル大神さえも懼(おそ)れ、神々も彼には恐れをなし、諸川も、三途(ステュクス)の河の暗闇さえも、怖気をふるう男なのだ」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の4・P.170~171」岩波文庫)

プシューケーにとってのイニシエーション(新入儀式)はこうして始まる。象徴化された死を生きること。「冥府下り」の物語という形式を取る。

「姫の両親(ふたおや)はいいようもない不仕合せに気も挫(くじ)けては、家を閉ざして暗闇の中に引き籠もり、絶え間のない悲嘆に身を委(まか)せていました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の4・P.173」岩波文庫)

今でいう「喪中」である。プシューケーは死の国へ旅していることになる。神託通りに高山の山頂の巌に寝かされたプシューケー。目覚めるまでに西風(ゼビュロス)が山頂から麓の草原へ運び降ろしておく。ふと目が覚めたプシューケーは周囲を眺めて驚く。それは人間業とは思えない黄金で造られた御殿のような場所だ。

「眼の前いは高い巨(おお)きな樹(き)の生(お)い繁(しげ)った木立(こだち)があり、その木立の真ん中に透きとおって玻璃(はり)のような噴水が湧(わ)いています。その泉の傍らには壮大な宮殿が見えますが、その様子が人間の手で造られたものとはとうてい思えず、どうにも神様の御業に違いありません」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の5・P.175」岩波文庫)

御殿の外の様子も華麗な黄金製の建築が連なり光り輝いている。けれども太陽の日は射さない。矛盾しているが、あくまで夢の中での話として設定される近現代の物語でも共通の事情であり、プシューケーがこれから演じる冥府下りのエピソードも同様の矛盾に満ちている点に注意。物語はもはや死の国に入っている。御殿ではクピードーを除いて女性の声だけがプシューケーに語りかける。食事の用意は声たちが行なう。風に乗って運ばれてくるかのように様々な皿が差し出され酒も用意される。声ばかりが給仕に携わる。食事を終え眠るだけとなり、寝床へ入るプシューケー。そのとき将来の夫となるべきクピードーの声が、ただし声だけが聞こえる。

「今度お前の姉さんたちがね、お前をもう死んだと思って大騒ぎして、お前の跡を尋ねさがして間もなくあの巌(いわお)のところへやってくるのだ。だがあの人たちの嘆く声がひょっと聞こえて来たにしたって、けっして返事をしたり、ましてやちょっとでも顔を見せたりしてはいけないよ。さもないと私には酷(ひど)い嘆きをかけることになるうえ、お前自身にも取り返しがつかない破滅を招く仕儀になろうから」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の5・P.180」岩波文庫)

とクピードーは警告する。しかしプシューケーは二人の姉が訪ねてきても会ってはいけないというのは酷だと訴え、せめて会うだけでもいいではないかという約束を取り付ける。クピードーはプシューケーの真面目で可憐な熱心さに折れて会うことだけは許してしまう。ほどなく、ひとりぼっちになっている妹を心配した二人の姉がやってくる。

「一方、姉たちはというと、例の巌の、プシューケーが置きざりにされた場所を訊(たず)ね出して急いでやってき、そこで眼を泣(な)き腫(は)らし胸を撃って嘆く」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の5・P.182」岩波文庫)

高山の山頂の険しい巌に駆けつけ、妹の身をおもって泣く。プシューケーは気軽に応じ、二人の姉を御殿の中へ呼び入れ案内する。巨大な倉庫は黄金の宝物でぎっしり詰まっている。たくさんの女性の声がプシューケーひとりのためにいろいろと世話をし、西風(ゼビュロス)が人を運ぶ。死の国どころかまるで天国のようだ。家に戻った二人の姉はすでに嫉妬に狂っている。かといって別人になるわけではなく同一人物のまま嫉妬の塊と化す。人間の二面性と言ってしまえばそれだけのことだ。ともかく、二人とも他国の国王のもとに嫁いだにもかかわらず「外国人の良人のところへ下婢(はしため)同然にやられた」と憎々しげに口にする。姉の一人はいう。

「私にあてがわれた良人といったら、第一お父様より年がいってて、おまけに瓢箪(ひょうたん)より頭はつるつるで、どんな子供よかひよひよしてて、そのうえ家じゅうを鎖だのかんぬきだのでかっては見張りしてるんです」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の5・P.185~186」岩波文庫)

もう一人はこういう。

「まったく家(うち)の人っていったら関節炎(リウマチス)でもってすっかり腰が曲がっちまって、そいだもんでめったに可愛がってさえくれないところへ、しょっちゅう石みたいに固く曲がった指をこすってやるので、厭(いや)なにおいだの油だの汚い布(きれ)やひどくくらい膏薬(こうやく)なんかで、このとおり華奢(きゃしゃ)なこの指を台なしにしてさ、まったく世話女房どころか骨を折りどおしの看護女ってていたらくだわ」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の5・P.186」岩波文庫)

ここで「他国の国王の妻」=「外国人の良人の下婢(はしため)」という等価性が見られる。二人の姉は示し合わせて末妹プシューケー謀殺計画を練り始める。なお、謀殺計画中に妹に対する呼び方が変化する。

「馬鹿娘」=「極道娘」=「あいつ」と。

姉たちは再びプシューケーのいる御殿へやって来て、入れ知恵する。夜になって目には見えない声だけの神が夫として現れたときに備えて、「剃刀」と「油をたっぷり注いで光り輝く燭台」とを用意しておくようにと。燭台は相手がどんな毒蛇かプシューケー自身に見せつけてやるためにであり、同時に、なお剃刀は「諸刃の刃」でありその意味でこのエピソードにはあらかじめ二重性が与えられている。

夜中になりそっと目覚めたプシューケー。燭台の光に煌々と照らし出された夫の姿は思いも寄らない神=クピードー(愛の神)である。英語で“Cupid”(キューピッド)。フランス語動詞で“amour”(アムール)。

「あらゆる獣類のうちでも一番に優しい、一番に可愛らしい野獣(けだもの)、とりもなおさず愛の神(クピードー)その方が、様子の好い神様のいかにも様子よく寝(やす)んでおいでの姿」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の5・P.200」岩波文庫)

その意味でアポロンの言葉は、実は始めから何らの間違いもない。「翼をもって虚空(こくう)を高く飛行(ひぎょう)して歩き、万物を悩まし、焔と剣とをもってすべてのものを痛め弱らせる男」。クピードーは愛の神だが、同時に矢の名手であり、天空を気まぐれにあちこち廻り飛び、火を自在に操り、若年者ゆえに剣を振り回して暴れる。男性の毒蛇(獣)という意味ではしばしば女性を孕ませて遊ぶので母ウェヌスの頭痛の種でもある。古代ギリシアではエロスと呼ばれる。ヘシオドスは述べている。

「不死の神々のうちでも並びなく美しいエロスが生じたもうた。この神は四肢の力を萎(な)えさせ 神々と人間ども よろずの者の胸のうちに思慮と考え深い心をうち拉(ひし)ぐ」(ヘシオドス「神統記・P.22」岩波文庫)

プシューケーは「クピードー=愛の神=アモル」を殺そうとしたのかと動顚し、逆に自殺(自傷行為)を図ろうとする。

「刃物(えもの)をとってあるまいことか自分の胸のなか深く突きこもうとまでするのでした。まったくその場にもそうしかねないところを、刃物のほうでそんな恐ろしい行いをするが怖さに、軽率(かるはずみ)な手もとから滑り出て、すっ飛んでしまった」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の5・P.200」岩波文庫)

この構造はニーチェがいっている通りだ。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十六・P.99」岩波文庫)

そこへクピードーの声が響く。

「お前の結構な相談相手の女たちにも、こんなよこしまなことを教えた罰を、早速とあててくれてやるから」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の5・P.203」岩波文庫)

恐れたプシューケーは再び自殺(自傷行為)へ向かう。

「近くの流れの岸から真っ逆さまに身を投げました。けれども優しい川は、きっとこの水さえもいつも燃えたたせてしまう神様に義理を立ててのことでしょう、巻き添えを恐れてさっそく少女を渦巻にのせ、そっと怪我をしないように、草花の咲き乱れた河岸へ置く」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の5・P.204」岩波文庫)

二度とも自殺は失敗する。というのは、自傷行為の狙いは前に「森の聖霊ドラゴミラ」で述べたように死ぬことそのものにあるのではなく、極限状況の変化が目指されているのであり、行き詰まってしまった現状を無理やりリセットすることにあるからである。なかったことにしようとして身投げしようとするがなぜか押し戻されるというパラドックスの出現はネルヴァル「オクタヴィ」でも見られた。

「私のいた場所で、山は断崖のように削られ、下では青く澄んだ海が唸っていました。ほんの一瞬の苦しみでかたがつくのです。ああ!そんな考えにはめまい起こさせるほど恐ろしい力がありました。二度まで、私は身を投げようとしましたが、得体の知れない力によって荒々しく地面に押し戻され、地面をかき抱いた」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.362~363』岩波文庫)

プシューケーは草原に移動させられている。そこからふらふらとさまよい歩くのだが、一人の姉の夫が国王になっている国へ辿りつき、姉に会う。姉に自分の見た光景を話すが、その中にクピードーが言っていない言葉を言ったとして次のように語る。

「お前はそのとおり恐ろしい罪を企んだのだから、すぐにも自分の物を持って、このところから出て行け、そいで私は今度はお前の姉さんとーーーってあなたの呼び名を申しましたのーーーちゃんと公然と式を挙げて結婚してやる」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の5・P.206」岩波文庫)

姉は話を聞き終わりもしないうちにいてもたってもいられず高山の山頂の巌へ駆けつけて訴える。しかし。

「『さあ受けて下さい、クピードーさん、あなたにふさわしい奥様の私を、それから西風(ゼビュロス)や、お前はせっかくこの御主人をうけとめておくれね』というが早いか、できるだけ大きくまっしぐらに飛び下りました。でもいつものところへは、死んでからでさえ行きつくことはできません。切岩の上を落ちてゆくうちに手も肢(あし)もばらばらになって、あとでは心相応に鳥や獣に臓腑を裂きついばまれ、格好(かっこう)の餌食となるのがその最期(さいご)でした」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の5・P.207」岩波文庫)

さらにプシューケーはふらふらと歩いてまた別の国に辿りつく。そこはもう一人の姉が嫁いだ国だった。この姉にも同じ話をする。姉はすぐさま行動に移す。ところが。

「悪性の妹の嫁入り口を横奪(よこど)りしようと巌のところへ急いで行き、同じような死態(しにざま)を遂げた」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の5・P.207」岩波文庫)

プシューケーがくぐり抜けねばならないイニシエーションはまだ始まったばかりだ。イニシエーションのそれぞれの段階でプシューケーは新しく生まれる。《象徴的》に生まれ変わる。この生まれ変わり、蘇り、変身、というテーマはオシリス=ディオニュソス信仰となってエジプトからギリシアへ、ギリシアからローマへと伝わってきたものだ。古代ギリシア=ローマではディオニュソス祭・サトゥルヌナリア祭として定着する。先行する形でキュベレー祭=ヒラリア祭が上げられる。プルタルコスから。

「イシスは旅をつづけてブトに着くと、そこで育った息子のホロのもとに棺を置きました。だが、月の光の下で夜狩りをしていたテュポンがちょうどそこへ来ました。彼はオシリスの遺骸に気がつくと、それを十四に切断してばらまきました。それを知るとイシスは、パピルスの舟に乗って沼地を渡って探し回りました。だがらパピルスの舟で渡る人は、鰐(わに)も襲わないのだと言われています。鰐も女神様ゆえに、そんなことをするのは恐ろしい、あるいは女神様を崇めているのでしょう。しかしこのために、エジプト中にオシリスの墓というのがたくさんあることになりました。イシスは、切断された部分を見つけてはそこに葬ったので、ということです。しかし、それは違うという人もあります。その人たちの意見によりますと、イシスは、なるべく多くの町でオシリスが拝まれるようにと、彼の象を造って、さながら遺骸そのものを与えるかのように、各都市に配ったというのです。こうすれば、もしテュポンがホロスとの戦いに勝って、そこでオシリスの本当の墓を捜し出そうとしても、あまりたくさんのオシリスの墓のことを聞かされ、時には見せられなどして、もうやめておこうという気になるだろうから、なのだそうです。オシリスの体の部分で最後まで見つけることができなかったのは、ただ一つ、彼の陰部でした。海中にほうり込まれたとたんに、レピドトスたのパグロスだのオクシュリュンコスだのいう魚どもがたかって、食べてしまったからです。ですからこれらの魚はエジプトではいちばん嫌われているのです。イシスはその隠部を似像を造って崇めました。エジプト人は今でもこれを祀るお祭をしております」(プルタルコス「エジプト神イシスとオシリスの伝説について・一八・P.40~41」岩波文庫)

ヘロドトスから。

「エジプト人は国民的大祭を年に一度だけ開くというわけではなく、大祭は頻繁に行なわれる。中でも最も盛大に行なわれるのは、アルテミスのためにブバスティスの町に集まって祝う祭で、これにつづいてはブシリスの町におけるイシスの祭である。この町にはイシスの壮大な社があり、町そのものがエジプトのデルタの中央に位するのである。イシスはギリシアでいえばデメテルに当る」(ヘロドトス「歴史・上・巻二・五九・P.229~230」岩波文庫)

「神々の中で最後にエジプトの王となったのはオシリスの子オロス(またはホロス)で、これはギリシアではアポロンと呼ぶ神である。この神がテュポンを倒し、エジプトに君臨した最後の神なのである。なおオシリスはギリシア名でいえばディオニュソスである」(ヘロドトス「歴史・上・巻二・一四四・P.293」岩波文庫)

「ケンミスが浮島であるということに関連して、エジプト人の語る次のような伝説がある。それによればこの島は元は浮島ではなかったが、エジプト最古の神である八神のひとりで、自分の託宣所のあるブトに住んでいたレトが、イシスからアポロンを預かり、例のテュポンがオシリスの子を見付けようと世界中隈なく探し求めつつこの地に来た時に、今日浮島とされているこの島にアポロンを隠して救ったという。アポロンとアルテミスはディオニュソス(オシリス)とイシスの子で、レトは二児の乳母でその救い主にもなったというのである。アポロンはエジプト語でいえばオロス(ホロス)、デメテルはイシス、アルテミスはブバスティスである」(ヘロドトス「歴史・上・巻二・一五六・P.303~304」岩波文庫)

など。

BGM