後妻裁判のエピソードが披露されているあいだ、驢馬のルキウスの飼主は変っている。ルキウスは場所を移動するしばらくの間にそのエピソードを披露して時間を稼いでいる。或る時間から別の時間のあいだに後妻裁判のエピソードが差し挟み込まれ、作品に厚みを付け加えている。時間を稼ぐと同時に時間が厚みを稼いだ。「或る時間の経過」=「作品へのさらなる厚み」という等価性が、今度は小説作品そのものにおいて出現した。この場合、作品の厚みは後妻裁判の顛末という事実上の意味内容=価値の増殖という形態において明確化されている。さて、そのエピソードが終わるやルキウスは再び売られる。
「彼は隣人であった二人兄弟の奴隷に私を十一デーナーリウスで売りつけました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.400」岩波文庫)
置き換えられた飼主(二人兄弟の奴隷)のもとでルキウスは驢馬の姿のまま人間と同じ食事を取って見せる。二人兄弟の奴隷は自分たちの仲間にもその光景を見せる。奴隷たちは面白がって騒ぐ。それを見た奴隷たちの主人は彼らが一体何を騒いでいるのかと覗き込み、ありえない光景に目を見張る。驚いた主人はルキウスを邸の中へ招き入れ、多くの人間を集め、皆の目の前で驢馬が人間と同じように演じる食事風景を公開する。試しに出された葡萄酒をもルキウスは飲み干して見せる。予想外の盛大な受けを得た。主人は兄弟の奴隷から四倍の値段でルキウスを買い取る。
「彼らが払った金額の四倍を与えて買いとりました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.406」岩波文庫)
ここで「人間と同様の食事作法を身につけた驢馬」=「四十四デーナーリウス」という等価性が貨幣交換によって成立した。だから驢馬の価値はアプリオリに一定しているものではないし、むしろ逆に一定なものでは全然ないということがわかる。ルキウスは驢馬の姿のままでその価値を増殖させる。驢馬という言葉は同じでもその価値は様々に変動する。まったく別のケースでも、例えば「稚児(ちご)」という言葉は同じでもその実質はたいへん多様であることと似ている。
南方熊楠は、男性同性愛の幅広さ、多様な形態、その厚み、について、男道と男色関係とに類別して考えていることは前に述べた。熊楠のいう男道は、男性同士の間で時として育まれる特別な友愛関係を意味する。この友愛は実に多様だ。例えば児塚(ちごづか)に関し、次のように、僧侶と稚児との関係は必ずしも性的関係が伴うとは限らないことについて触れている。
「児塚などを寺僧と稚児との色情上の悲話より生ぜしものとのみいうも不徹底ならん。大抵稚児同宿は後に剃髪受戒して僧となるものなれども、中には僧とならぬうちに死せしものも多く、それらは寺内に葬ることがならぬから、寺外の松蔭や道傍に埋めし。それがすなわち児塚、そのしるしの石が児石と存じ候。心ある人は行くさ帰るさにそれに向かって回向したることと存じ候。されば稚児の遺跡には相違なきも、必ずしもことごとく色情上の悲話に連なるものならずと存じ候」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.446』河出文庫)
とはいうものの、女性の場合は遊女、少年の場合は稚児。彼らは死んだとき陰惨な葬られ方をする。陰惨であればあるほど、各々の遊女や稚児が生きていたとき一体どのような行為を演じていたかが判明する。
「寛永より元禄ごろまで全盛を極めし遊君が死んだのち葬られし様子を日本人も欧州人も記したるを見るに、実に牛馬犬猫を葬るごとき無惨なものなりしようなり。貧民の子などにて寺にチゴに出でおりしものなどの死んだものは、ずいぶんあわれな扱いを受け、ほんの土饅頭に埋められ、はなはだしきは滝の壺に沈められなどせしことと察し候。それが児塚、児の滝等なるべし」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.446』河出文庫)
死後に滝壺へ叩き込むという習慣などは、日本で「穢れ」という観念がどのように考えられていたかを意味慎重に教えてくれる。遊女や稚児は生きていた頃、これ以上ないというほど「穢らわしい」性的行為の道具としてさんざん弄ばれた。すると「穢れ」は弄んだ側と弄ばれた側との両方の身に深々と根を張っていることになる。ところが、なぜかはわからないが弄ばれた側(遊女あるいは稚児)の死をきっかけとしてすべての「穢れ」をただ一方の人格の側においてのみ一度に背負わせ、あの世へ持って行かせることで弄んだ側の浄化をも同時に図ろうとする優劣の観念がともに定着していたことを物語る。アジア的信仰風土において、すべての人間はそれがどのような人間であるにせよ、生きている限りは幾らかの「穢れ」を併せ持っているとされる。人間がけっして神でないのはその獣性においてである。だから貪欲でない人間はいない。ところが遊女や稚児の死の際、それは上にではなく、下へ向けて一挙かつ一方的に行われる排除過程を実現させる。次のように。
「ただ社会的行為だけが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分たちの価値を全面的に表わすのである。このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品はーーー貨幣になるのである(「彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権力とを獣に与える。この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである」『ヨハネの黙示録』)」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・・P.159」国民文庫)
一八八六年(明治十九年)、熊楠が高野山を訪れた時のエピソード。川瀬氏というのは、後に東京帝大農学部長を歴任した河瀬善太郎のこと。
「小生、川瀬氏にオイと注意すると、そのちご頭を上げてこちらを見やりたるが、そのころ玄々堂と申す銀座の石坂屋より出たる、何とかいいし柳橋の名妓像そのままにて、東京でいえば意気極まる顔にて、その紅顔の美しさ名妓などの及ぶべきにあらざりし。これは便りにせし寺房衰廃して往き所なく、あの坊この坊とさまよいありき、飲代に代えて淫を呈せしものと察し候(かかる中には素行宜しからず、女で申さば浮気多くて追い出されしもあるべし)。かかる者が餓死などせば、むろん林下や道傍に仮埋葬され、そのしるしに石を立てたるがすなわち児塚で、最初はその者の名も知りおりしも、久しき間にはその者どころかその者のおりし寺房も全廃となるから、名も由緒もしれず、ただ児塚で通ることと存じ候」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.447』河出文庫)
高野山は比叡山と並ぶ日本仏教の聖地である。にもかかわらずその山林の頽廃ぶりが如実に伝えられている。経済的に疲弊し廃寺となった寺坊は数多く、所属していた生活場所を失った稚児は広大な山中をさまよい歩きながら食事代の代わりに体(アナルセックス)を売って歩くのが常だった。その拭っても拭っても拭いきれない遺産(かたみ)が「児塚(ちごづか)、児の滝(ちごのたき)」等である。今では大型道路整備が進みほとんど見られなくなった。しかしかつて「児塚(ちごづか)、児の滝(ちごのたき)」等があったところで事故が多発する傾向が多いのは、呪いでもなければ祟りでもなく、無念のうちに死んでいった遊女や稚児らを少しでも拝んでおくべきなのではという精神的配慮がまとわりついて離れないため、目印となるように山道からちょっとばかり顔を覗かせるような場所へちょうど児塚(ちごづか)が作られ、車のハンドルを握る手を忘れるほど絶景とも見えるようなところへちょうど児の滝(ちごのたき)が見えるからである。ほんの少しばかり覗き込めば見える場所に「児塚(ちごづか)、児の滝(ちごのたき)」等はあった。同時にそれは風光明美な山道・海道沿いにあった。近代になるとその上やすぐ傍に国道や県道が次々と建設されていく。ちょっとしたものだが奇妙な目立ち方をする地点に「児塚(ちごづか)、児の滝(ちごのたき)」等の名残りがある。運転中にふと気を取られる。だからといって「児塚(ちごづか)、児の滝(ちごのたき)」等には何らの落ち度もない。熊楠のいう男道(男性同性愛者同士の特別な友愛精神)を乱用した権力者らの債務感情(負い目)が風光明美とか観光客誘致とかの目的へ置き換えられて現代社会の国道や県道の設計段階へ紛れ込んだ結果に過ぎない。「児塚(ちごづか)、児の滝(ちごのたき)」等の名残りが現代社会になってなお事故多発地帯と重なっているのはそのためである。明治時代、当時の首相は伊藤博文。足元の日本国内で荒れ果てていく森林を整備し直す重要性よりも日本国外への軍事侵攻が政府の戦略的優先順位に位置付けられていたことが、熊楠の文章からわかる。自然界のエコロジーをないがしろにするとどういうことが起こってくるか。ベイトソンはいう。
「自分の関心は自分であり、自分の会社であり、自分の種だという偏狭な認識論的前提に立つとき、システムを支えている、他のループはみな考慮の《外側》に切り落とされることになります。人間生活が生み出す副産物は、どこか《外》に捨てればいいとする心がそこから生まれ、エリー湖がその格好の場所に見えてくるわけです。このとき忘れられているのは、エリー湖という『精神生態的』“eco-mental”なシステムが、われわれを含むより大きな精神生態系の一部だということ、そして、エリー湖の精神衛生が失われるとき、その狂気が、より大きなわれわれの思考と経験をも病的なものに変えていくということです」(ベイトソン「エピステモロジーの正気と狂気」『精神の生態学・P.640』新思索社)
ベイトソンのいうエコロジー概念は、ただ単なるナチュラリスト的エコロジーだけでなく、人間精神のエコロジー(人間関係のエコロジー)、さらには社会的エコロジーという三種のエコロジーが常に同時に連鎖し合っており、これら三種のエコロジーの永遠回帰について人間は常に意識的でなくてはならないという意味が含まれている。
また日本では明治時代から始まった帝国主義戦争の結末が、結果的にヒロシマの原爆投下という形を取るほかなかったとしても、ただ単に伊藤博文首相誕生にのみその原因を押し付けてしまうことは早計に過ぎる。そのような短絡的思考は侵略主義戦争へと組織していった他の諸要素をむしろ大いなる戦略の外に逃れさせてあっけなく免責してしまう恐れがある。
「これまで私は、複雑な燕石伝説のさまざまな入り組んだ原因を追求してきた。さて、原因は複数のものであり、それらが人類の制度の発展に、いかに些細であろうとも、本質的な影響を及ぼしてきたということが充分に認識されている今日でさえ、自分たちが取扱うすべての伝説について、孤立した事実や空想を、その全く唯一の起原とすることに固執する伝説研究者が、少なくないように私には思われるのである。しかし全くのところ、伝説はその原因があまりにも多様で複雑な点で、またそのために、先行するものを後になって追加されたものから解きほぐしにくいという点で、まさに夢に匹敵するものである。ところで原因のあるものは、くり返し果となり因となって、相互に作用しあう。そして原因の他のものは、組み合わされた結果のなかにとけこんで、目に見えるような痕跡を全く遺さないのである」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.389』河出文庫)
熊楠の文章から二点。第一に「原因のあるものは、くり返し果となり因となって、相互に作用しあう」ということ。第二に「組み合わされた結果のなかにとけこんで、目に見えるような痕跡を全く遺さない」ということ。第一点についてニーチェから。「原因と結果の取り違え」はなぜ起こるのか。
「《『内的世界の現象論』》。《年代記的逆転》がなされ、そのために、原因があとになって結果として意識される。ーーー私たちが意識する一片の外界は、外部から私たちにはたらきかけた作用ののちに産みだされたものであり、あとになってその作用の『原因』として投影されているーーー『内的世界』の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、『内的世界』の根本事実である。ーーー同じことが、順々とあらわれる思想についてもあてはまる、ーーー私たちは、まだそれを意識するにいたらぬまえに、或る思想の根拠を探しもとめ、ついで、まずその根拠が、ひきつづいてその帰結が意識されるにいたるのであるーーー私たちの夢は全部、総体的感情を可能的原因にもとづいて解釈しているのであり、しかもそれは、或る状態のために捏造された因果性の連鎖が意識されるにいたったときはじめて、その状態が意識されるというふうにである」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四七九・P.24~25」ちくま学芸文庫)
第二点についてマルクスから。複数の原因について「目に見えるような痕跡を全く遺さない」状況はどのような条件のもとで出現するのか。
「1労働日は6時間の必要労働と6時間の剰余労働とから成っていると仮定しよう。そうすれば、一人の自由な労働者は毎週6×6すなわち36時間の剰余労働を資本家に提供するわけである。それは、彼が1週のうち3日は自分のために労働し、3日は無償で資本家のために労働するのと同じである。だが、これは目には見えない。剰余労働と必要労働とは融合している」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第八章・P.18」国民文庫)
さらに労働は十分二種類に分割して考えられるにもかかわらず、現場では融合しているため目に見えなくなってしまうのはなぜか。
「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第六篇・第十七章・P.61~62」国民文庫)
貨幣がというより、もはや全世界に行き渡った制度としての貨幣関係とその反復とが、どこまでも延長される同一制度の再生産が、そうさせて止まないからである。
BGM
「彼は隣人であった二人兄弟の奴隷に私を十一デーナーリウスで売りつけました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.400」岩波文庫)
置き換えられた飼主(二人兄弟の奴隷)のもとでルキウスは驢馬の姿のまま人間と同じ食事を取って見せる。二人兄弟の奴隷は自分たちの仲間にもその光景を見せる。奴隷たちは面白がって騒ぐ。それを見た奴隷たちの主人は彼らが一体何を騒いでいるのかと覗き込み、ありえない光景に目を見張る。驚いた主人はルキウスを邸の中へ招き入れ、多くの人間を集め、皆の目の前で驢馬が人間と同じように演じる食事風景を公開する。試しに出された葡萄酒をもルキウスは飲み干して見せる。予想外の盛大な受けを得た。主人は兄弟の奴隷から四倍の値段でルキウスを買い取る。
「彼らが払った金額の四倍を与えて買いとりました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.406」岩波文庫)
ここで「人間と同様の食事作法を身につけた驢馬」=「四十四デーナーリウス」という等価性が貨幣交換によって成立した。だから驢馬の価値はアプリオリに一定しているものではないし、むしろ逆に一定なものでは全然ないということがわかる。ルキウスは驢馬の姿のままでその価値を増殖させる。驢馬という言葉は同じでもその価値は様々に変動する。まったく別のケースでも、例えば「稚児(ちご)」という言葉は同じでもその実質はたいへん多様であることと似ている。
南方熊楠は、男性同性愛の幅広さ、多様な形態、その厚み、について、男道と男色関係とに類別して考えていることは前に述べた。熊楠のいう男道は、男性同士の間で時として育まれる特別な友愛関係を意味する。この友愛は実に多様だ。例えば児塚(ちごづか)に関し、次のように、僧侶と稚児との関係は必ずしも性的関係が伴うとは限らないことについて触れている。
「児塚などを寺僧と稚児との色情上の悲話より生ぜしものとのみいうも不徹底ならん。大抵稚児同宿は後に剃髪受戒して僧となるものなれども、中には僧とならぬうちに死せしものも多く、それらは寺内に葬ることがならぬから、寺外の松蔭や道傍に埋めし。それがすなわち児塚、そのしるしの石が児石と存じ候。心ある人は行くさ帰るさにそれに向かって回向したることと存じ候。されば稚児の遺跡には相違なきも、必ずしもことごとく色情上の悲話に連なるものならずと存じ候」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.446』河出文庫)
とはいうものの、女性の場合は遊女、少年の場合は稚児。彼らは死んだとき陰惨な葬られ方をする。陰惨であればあるほど、各々の遊女や稚児が生きていたとき一体どのような行為を演じていたかが判明する。
「寛永より元禄ごろまで全盛を極めし遊君が死んだのち葬られし様子を日本人も欧州人も記したるを見るに、実に牛馬犬猫を葬るごとき無惨なものなりしようなり。貧民の子などにて寺にチゴに出でおりしものなどの死んだものは、ずいぶんあわれな扱いを受け、ほんの土饅頭に埋められ、はなはだしきは滝の壺に沈められなどせしことと察し候。それが児塚、児の滝等なるべし」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.446』河出文庫)
死後に滝壺へ叩き込むという習慣などは、日本で「穢れ」という観念がどのように考えられていたかを意味慎重に教えてくれる。遊女や稚児は生きていた頃、これ以上ないというほど「穢らわしい」性的行為の道具としてさんざん弄ばれた。すると「穢れ」は弄んだ側と弄ばれた側との両方の身に深々と根を張っていることになる。ところが、なぜかはわからないが弄ばれた側(遊女あるいは稚児)の死をきっかけとしてすべての「穢れ」をただ一方の人格の側においてのみ一度に背負わせ、あの世へ持って行かせることで弄んだ側の浄化をも同時に図ろうとする優劣の観念がともに定着していたことを物語る。アジア的信仰風土において、すべての人間はそれがどのような人間であるにせよ、生きている限りは幾らかの「穢れ」を併せ持っているとされる。人間がけっして神でないのはその獣性においてである。だから貪欲でない人間はいない。ところが遊女や稚児の死の際、それは上にではなく、下へ向けて一挙かつ一方的に行われる排除過程を実現させる。次のように。
「ただ社会的行為だけが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分たちの価値を全面的に表わすのである。このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品はーーー貨幣になるのである(「彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権力とを獣に与える。この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである」『ヨハネの黙示録』)」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・・P.159」国民文庫)
一八八六年(明治十九年)、熊楠が高野山を訪れた時のエピソード。川瀬氏というのは、後に東京帝大農学部長を歴任した河瀬善太郎のこと。
「小生、川瀬氏にオイと注意すると、そのちご頭を上げてこちらを見やりたるが、そのころ玄々堂と申す銀座の石坂屋より出たる、何とかいいし柳橋の名妓像そのままにて、東京でいえば意気極まる顔にて、その紅顔の美しさ名妓などの及ぶべきにあらざりし。これは便りにせし寺房衰廃して往き所なく、あの坊この坊とさまよいありき、飲代に代えて淫を呈せしものと察し候(かかる中には素行宜しからず、女で申さば浮気多くて追い出されしもあるべし)。かかる者が餓死などせば、むろん林下や道傍に仮埋葬され、そのしるしに石を立てたるがすなわち児塚で、最初はその者の名も知りおりしも、久しき間にはその者どころかその者のおりし寺房も全廃となるから、名も由緒もしれず、ただ児塚で通ることと存じ候」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.447』河出文庫)
高野山は比叡山と並ぶ日本仏教の聖地である。にもかかわらずその山林の頽廃ぶりが如実に伝えられている。経済的に疲弊し廃寺となった寺坊は数多く、所属していた生活場所を失った稚児は広大な山中をさまよい歩きながら食事代の代わりに体(アナルセックス)を売って歩くのが常だった。その拭っても拭っても拭いきれない遺産(かたみ)が「児塚(ちごづか)、児の滝(ちごのたき)」等である。今では大型道路整備が進みほとんど見られなくなった。しかしかつて「児塚(ちごづか)、児の滝(ちごのたき)」等があったところで事故が多発する傾向が多いのは、呪いでもなければ祟りでもなく、無念のうちに死んでいった遊女や稚児らを少しでも拝んでおくべきなのではという精神的配慮がまとわりついて離れないため、目印となるように山道からちょっとばかり顔を覗かせるような場所へちょうど児塚(ちごづか)が作られ、車のハンドルを握る手を忘れるほど絶景とも見えるようなところへちょうど児の滝(ちごのたき)が見えるからである。ほんの少しばかり覗き込めば見える場所に「児塚(ちごづか)、児の滝(ちごのたき)」等はあった。同時にそれは風光明美な山道・海道沿いにあった。近代になるとその上やすぐ傍に国道や県道が次々と建設されていく。ちょっとしたものだが奇妙な目立ち方をする地点に「児塚(ちごづか)、児の滝(ちごのたき)」等の名残りがある。運転中にふと気を取られる。だからといって「児塚(ちごづか)、児の滝(ちごのたき)」等には何らの落ち度もない。熊楠のいう男道(男性同性愛者同士の特別な友愛精神)を乱用した権力者らの債務感情(負い目)が風光明美とか観光客誘致とかの目的へ置き換えられて現代社会の国道や県道の設計段階へ紛れ込んだ結果に過ぎない。「児塚(ちごづか)、児の滝(ちごのたき)」等の名残りが現代社会になってなお事故多発地帯と重なっているのはそのためである。明治時代、当時の首相は伊藤博文。足元の日本国内で荒れ果てていく森林を整備し直す重要性よりも日本国外への軍事侵攻が政府の戦略的優先順位に位置付けられていたことが、熊楠の文章からわかる。自然界のエコロジーをないがしろにするとどういうことが起こってくるか。ベイトソンはいう。
「自分の関心は自分であり、自分の会社であり、自分の種だという偏狭な認識論的前提に立つとき、システムを支えている、他のループはみな考慮の《外側》に切り落とされることになります。人間生活が生み出す副産物は、どこか《外》に捨てればいいとする心がそこから生まれ、エリー湖がその格好の場所に見えてくるわけです。このとき忘れられているのは、エリー湖という『精神生態的』“eco-mental”なシステムが、われわれを含むより大きな精神生態系の一部だということ、そして、エリー湖の精神衛生が失われるとき、その狂気が、より大きなわれわれの思考と経験をも病的なものに変えていくということです」(ベイトソン「エピステモロジーの正気と狂気」『精神の生態学・P.640』新思索社)
ベイトソンのいうエコロジー概念は、ただ単なるナチュラリスト的エコロジーだけでなく、人間精神のエコロジー(人間関係のエコロジー)、さらには社会的エコロジーという三種のエコロジーが常に同時に連鎖し合っており、これら三種のエコロジーの永遠回帰について人間は常に意識的でなくてはならないという意味が含まれている。
また日本では明治時代から始まった帝国主義戦争の結末が、結果的にヒロシマの原爆投下という形を取るほかなかったとしても、ただ単に伊藤博文首相誕生にのみその原因を押し付けてしまうことは早計に過ぎる。そのような短絡的思考は侵略主義戦争へと組織していった他の諸要素をむしろ大いなる戦略の外に逃れさせてあっけなく免責してしまう恐れがある。
「これまで私は、複雑な燕石伝説のさまざまな入り組んだ原因を追求してきた。さて、原因は複数のものであり、それらが人類の制度の発展に、いかに些細であろうとも、本質的な影響を及ぼしてきたということが充分に認識されている今日でさえ、自分たちが取扱うすべての伝説について、孤立した事実や空想を、その全く唯一の起原とすることに固執する伝説研究者が、少なくないように私には思われるのである。しかし全くのところ、伝説はその原因があまりにも多様で複雑な点で、またそのために、先行するものを後になって追加されたものから解きほぐしにくいという点で、まさに夢に匹敵するものである。ところで原因のあるものは、くり返し果となり因となって、相互に作用しあう。そして原因の他のものは、組み合わされた結果のなかにとけこんで、目に見えるような痕跡を全く遺さないのである」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.389』河出文庫)
熊楠の文章から二点。第一に「原因のあるものは、くり返し果となり因となって、相互に作用しあう」ということ。第二に「組み合わされた結果のなかにとけこんで、目に見えるような痕跡を全く遺さない」ということ。第一点についてニーチェから。「原因と結果の取り違え」はなぜ起こるのか。
「《『内的世界の現象論』》。《年代記的逆転》がなされ、そのために、原因があとになって結果として意識される。ーーー私たちが意識する一片の外界は、外部から私たちにはたらきかけた作用ののちに産みだされたものであり、あとになってその作用の『原因』として投影されているーーー『内的世界』の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、『内的世界』の根本事実である。ーーー同じことが、順々とあらわれる思想についてもあてはまる、ーーー私たちは、まだそれを意識するにいたらぬまえに、或る思想の根拠を探しもとめ、ついで、まずその根拠が、ひきつづいてその帰結が意識されるにいたるのであるーーー私たちの夢は全部、総体的感情を可能的原因にもとづいて解釈しているのであり、しかもそれは、或る状態のために捏造された因果性の連鎖が意識されるにいたったときはじめて、その状態が意識されるというふうにである」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四七九・P.24~25」ちくま学芸文庫)
第二点についてマルクスから。複数の原因について「目に見えるような痕跡を全く遺さない」状況はどのような条件のもとで出現するのか。
「1労働日は6時間の必要労働と6時間の剰余労働とから成っていると仮定しよう。そうすれば、一人の自由な労働者は毎週6×6すなわち36時間の剰余労働を資本家に提供するわけである。それは、彼が1週のうち3日は自分のために労働し、3日は無償で資本家のために労働するのと同じである。だが、これは目には見えない。剰余労働と必要労働とは融合している」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第八章・P.18」国民文庫)
さらに労働は十分二種類に分割して考えられるにもかかわらず、現場では融合しているため目に見えなくなってしまうのはなぜか。
「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第六篇・第十七章・P.61~62」国民文庫)
貨幣がというより、もはや全世界に行き渡った制度としての貨幣関係とその反復とが、どこまでも延長される同一制度の再生産が、そうさせて止まないからである。
BGM
