白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

仮面等価性7

2020年08月06日 | 日記・エッセイ・コラム
騒ぎを聞いてケレース(デーメーテール=豊穣の神)とユーノー(ヘーラー=ゼウスの妻)とがウェヌス女神のもとに訪ねてくる。ウェヌスはギリシアでいうアプロディーテーのことであり、だからウェヌス(アプロディーテー)とデーメーテールとヘーラーとはそもそも三姉妹の間柄である。

「まあいったいお宅の息子さんはどんな悪いことをなさいましたの、奥様、あなたとしたことがそうきっぱりとお腹立ちになって、坊ちゃんのお楽しみを攻撃なさったり、その好きな女(ひと)をどうかして始末してしまおうとお思いになるなんて。でもねえ、ちょいと、坊ちゃんが綺麗な娘さんにうっかり笑いかけたからって、それがそう大それたことかしら。それにあの子だって男の子だし、いい若い者だってのを御存知なんでしょう。もう何歳(いくつ)になるかってのも忘れておいでじゃないんでしょうに。それとも、いくつ歳をとっても結構小さく見えるからって、しょっちゅう子供並みにしてなけりゃいけないのかしら。そうしといてお母さんのあなたが、しかもそのうえ分別ざかりの方なのによ、いつまでも自分の子の遊戯(あそびごと)に眼を皿にしておせっかいをやいたり、放埒(ほうらつ)を咎め立てたり、情事をせきとめたりして、御自分の手練(てれん)や御自分の魅力ってものを、様子のいい息子さんのところでは、こきおろしてるんじゃないの。だけど、あなたがご自分の家(うち)では色恋沙汰(いろこい)をそれこそ厳重にせき止めといて、女ごころの気よわさのみんなに許された娯楽場(たのしみば)にも入れさせないなら、神様だって人間だって誰一人として、あんたがやたらに世間じゅうへ愛情(なさけ)の種子をまいて歩くのを放っとくものですか」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の5・P.212~213」岩波文庫)

ウェヌスは自分と美の称号(タイトル)を争っているプシューケーをあろうことか息子クピードーが愛してしまっていることに我慢ならない。ケレースとユーノーの言葉も耳を素通りするばかりだ。しかしウェヌスは息子の女遊びについてそう偉そうに仰々しく言えた立場でもない。ミニュアスの娘たちはディオニュソス=バッコスが町へやって来て町中を乱痴気騒ぎに陥れているとき、神はヘリオス(アポロン)であってディオニュソス=バッコスではない立場を取る。そして淡々と機織に勤しみつつ、順番に神話を語り継いで時間を過ごすぐことにしたのだが、その中にウェヌス女神の不倫の件も入っている。

「ウェヌス女神と軍神マルスの不義を最初に見つけたのは、この太陽神(ヘリオス)だと考えられています。何につけても、いちばんに目の早い神さまですもの。で、太陽神はこのことに気を悪くして、ウェヌスの夫ウルカヌスに密通を知らせ、それが行なわれた場所までも教えたのです。聞いたウルカヌスは、肝(きも)をつぶし、巧みな右手でやりかけていた細工物を、取り落としました。でも、思い直すと、たちまちのうちに、真鍮(しんちゅう)の細い鎖で編んだ罠を作りあげました。肉眼ではとらえがたいこの網は、このうえなく細い毛の糸にも、天井の梁(はり)に下がった蜘蛛(くも)の巣にも負けないほどの出来ばえでした。ほんの軽い接触にも、ちょっとした動きにも答えるように仕上げたうえ、巧みにこれを寝床のまわりへ張りめぐらしたのです。で、妻とその情人とがひとつ床にはいると、夫の腕前と、新案の鎖との働きで、ふたりは見事にとらえられ、抱きあったまま身動きも出来ません。ただちに、ウルカヌスは象牙の扉を開いて、神々たちを呼びいれました。ふたりは、ぶざまにも、くっついたまま横たわっています。陽気な神々のなかのひとりが、こんなぶざまな格好(かっこう)になってみたいなといって、みんなを笑わせました。この話は、長いあいだ、天界のいたるところで、誰知らぬもののない語り草となったのです」(オウィディウス「変身物語・上・巻四・P.145~146」岩波文庫)

ところでこの成り行きを考慮すると、ウェヌスは息子クピードーの女遊びをとやかく言えた義理ではない。だからケレースとユーノーとはウェヌスに向かってクピードーの年齢や男性であることや元来の気性について少しは考えてやってはとなだめようとする。ケレースとユーノーとがウェヌスに勧めるこの種の自己反省は、実をいうと、現代の精神医学でいう「支持的精神療法」への気持ちの転換を促すものだ。だた、それだけでは支持的療法とは言えず、あくまで気持ちの転換を促すに留まっている。もっと積極的な支持的療法の例としては、モリエールの戯曲「アンフィトリヨン」に出てくる。取り乱している召使ソジに対応するアンフィトリヨンの言葉に注目しよう。

「アンフィトリヨン 結局、家の中には入らなかったのか?/ソジ 入るも入らないも!いやはや、どうやって入れっていうんです?私は全然こっちの言うことを聞いてくれないし、ドアのまえで通せんぼしてたんですよ。/アンフィトリヨン 何だと?/ソジ 棒で殴られたんですよ。おかげで背中がまだひどく痛むんです。/アンフィトリヨン 棒で殴られただと?/ソジ そうなんです。/アンフィトリヨン 誰に?/ソジ 私です。/アンフィトリヨン おまえがおまえを殴ったのか?/ソジ ええ、私です。ここにいる私じゃなくて、お屋敷にいるほうの私が、すごい力で私を殴ったんです。ーーー冗談で言ってるんじゃありません。さっき会った私は、今お話ししている私よりも一枚うわ手なんです。腕っぷしは強いし、勇気はあるし、そのあかしが私の身体に刻まれているんです。その私は悪熊みたいに私をたたきのめしたんです。まったく手がつけられませんよ。/アンフィトリヨン 話の続きを聞こう。それでアルクメーヌには会ったのか?/ソジ いいえ。/アンフィトリヨン どうしてだ?/ソジ どうしようもなかったんです。/アンフィトリヨン 何て奴だ!どうして役目を果たさなかった?言ってみろ。/ソジ 何度同じことを言わせれば気が済むんですか?だから、私、この私よりも強い私、その私が力づくでドアの前で通せんぼしたんです。私はその私の言いなり。その私は自分だけが私だってことにしたがって、その私は私に嫉妬して、その私には勇気があって、臆病な私に怒りを爆発させたんです。つまりですね、お屋敷にいるその私は、その私こそ私の主人だってところを見せて、その私が私をたたきのめしたんですよ」(モリエール「アンフィトリヨン・第二幕・第一場」『モリエール全集6・P.186~188』臨川書店)

アンフィトリヨンの言葉はけっしてソジの言葉を頭ごなしに否定したりしない。取り出してみよう。「棒で殴られただと?」、「おまえがおまえを殴ったのか?」、「話の続きを聞こう」、「どうして役目を果たさなかった?言ってみろ」、など。ソジの発言はアンフィトリヨンが帰宅したときすでに錯乱しているようにしか思えないわけだが、アンフィトリヨンは比較的穏やかな調子でソジの混乱した返事に合わせつつ事態の全容を掴もうという態度を取っている。ソジに対する否定的でない態度、逆に支持的に接しようとする態度はDVやネグレクトあるいは家庭内殺人が多発する現代社会でこそむしろ有効とされており、精神科治療の場では薬物療法と並んで主流である。また患者が統合失調者の場合も、始めから患者の語るエピソードをおかしな話と決めてしまいまるで相手にしないのではなく、周囲が支持的に接することで統合失調者の意志伝達を容易に進めるために効果がある。

さてウェヌスはなかなかプシューケーを見つけ出すことができずいらいらが収まらない。仕方なくアポロンのもとへ赴きメルクリウス(ヘルメス)に手助けを願い出、プシューケーの特徴を記したびらを渡して探してほしいと頼み込む。メルクリウス(ヘルメス)は行動が早い。

「もし誰にもせよウェヌス様の侍婢(こしもと)で名はプシューケーというお尋ね者の王女を、逃亡より引き戻すかまたはその隠れ家を指し示し得る者は、ムルキアの円柱の後ろ側の、このびらの布令人メルクリウスの許(もと)に出頭すべし。通告の褒美としてその者にはウェヌス様御口(おんくち)ずから七つの快い接吻(くちづけ)と、もう一つそれはそれはおいしいものを、心もとろけるお舌押しでなし下される」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の6・P.222~223」岩波文庫)

この話題は一気に町中に知れ渡りプシューケーはもう逃げられないと諦める。ところでこれほどの速度で物事を流通させるヘルメスとは何ものなのか。ドゥルーズ=ガタリは、冶金術、音楽、変形者、移動、といった言葉で金属について語っているが、ヘルメスが、金属、音楽、速度、などの神であることと非常に関係が深い点に注目しよう。

「冶金術が音楽と本質的な関係にあるのは、ただ単に鍛冶屋のたてる騒音のためではなく、両者を貫く傾向、つまりたがいに分離された形相を超えて形相の連続展開を際立たせ、変化するさまざまな物質を超えて物質の連続変化を優先させるという傾向のためである。拡大された半音階法が音楽と冶金術を同時に突き動かしている。音楽家としての鍛冶屋は最初の『変形者』(単にもろもろの神話だけでなく、実証的な歴史も考慮にいれる必要があるーーーたとえば、音楽形式の進化に『銅』〔金管楽器〕の果たした役割、あるいはまた電子音楽における『金属的合成』の構成の問題(リシャール・ピナス)など)である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・12・P.128」河出文庫)

重要なのは移動民としてである。

「鍛冶師は遊牧民でもなく定住民でもなく、巡行する者、移動する者である。この点でとりわけ重要なのは鍛冶師の住み方であって、彼の住む空間は定住民の条理空間ではなく、遊牧民の平滑空間でもない。彼はテントや家を所有しているかもしれないが、あたかもそれらが金属の『鉱床』であるかのように、つまり洞窟や洞穴であるかのように、半ばあるいは完全に地下に埋まった小屋としてそこに住むーーー。山によじ登るのではなく山に穴を穿ち、大地を条理化するのではなく大地を掘り抜き、空間を平滑として保持するのではなく空間に穴を開け、大地をグリュイエルチーズのように穴だらけにすること。エイゼンシュタインの『ストライキ』のあるシーンは、地雷で爆破されて穴ぼこだらけになったような場所で、不気味な人間たちがそれぞれ自分の穴から立ち上がって顔を出しているという多孔空間を示している。カインの徴は身体的かつ情動的な地下の徴であり、定住民的空間の条理化された大地も平滑空間の遊牧民的土地も横断し、どちらにも停止することがない」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・12・P.132~134」河出文庫)

文章の中で「カインの徴」とある。旧約聖書にある兄弟カインとアベルの物語だが、神ヤハウェは供物として差し出された兄カインの農作物ではなく弟アベルの羊肉を選ぶ。そして恥いるカインに向けて「自分で罪を購うこと」を示唆する。ヤハウェのいう罪の意味はよくわからない。だがともかくカインはアベルを殺害するほかないと考える。カインは聖書初の殺人加害者であり、なおかつそのことでヤハウェによって農耕社会から追放される被害者にもなる。このときに与えられた「しるし」が「カインの徴」(製鉄、音楽、移動民)である。

「カインはその兄弟アベルに言った、『さあ、野原へ行こう』。そして彼らが野にいた時、カインは突然その弟アベルに立ち向かって彼を殺した。ヤハウェがカインに言われるのに、『君の弟のアベルは何処にいるのだ』。カインは答えた、『知りません。わたしが弟の番人だというのですか』。ヤハウェは言われる、『君は一体何をしたのだ。君の弟の血が大地からわたしに叫びつづけているではないか。今や君はこの土地から呪われねばならない。この地がその口を開いて君の手から君の弟の血を受け取ったからだ。君がこの土地を耕しても、地はもはやその力を君に提供しないだろう。君は地上の放浪者にならなければならない』。そこでカインはヤハウェに言った、『わたしの罪は重くて、わたしはそれを到底負いきれません。そうです、あなたは今日わたしを地の面(おもて)から追放なさる。わたしはあなたの顔の前から隠れ、地上を放浪する身とならねばならません。わたしを見つける人は誰でもわたしを殺すでしょう』。ヤハウェはカインに言われた、『いや、そうではない。カインを殺す者があったら、その人は七倍の復讐を受けなければならぬ』。そこでヤハウェはカインを見つけた者が彼を打ち殺さないように、一つのしるしをカインに下さった」(「創世記・第四章・P.17~18」岩波文庫)

古代ユダヤ教においてカインに与えられたイニシエーションと考えられる。兄弟殺害という重いものだが、しかしアベル殺しによってカインの価値は七倍へ変化する。金属加工の技術(戦争)と貨幣価値(経済)とが世界を変えつつあった時期であり、当時の宗教的イニシエーションとして考えれば特に例外的な措置だとは思われない。「貨幣はイスラエルの妬み深い神」だとマルクスは言った。まさしくその通り、血で贖われねば許されない金融ネットワークはユダヤ教徒とその取り巻きによってグローバル資本へ転化した。ヘルメスに戻ると、流通の神としての全能性はヘルメス自身の持つ「雑種的二重性」に現われる。

「鍛冶師は遊牧民のところでは遊牧民になるというわけではないし、定住民のところで定住民になりすますというわけでもない。あるいはまた遊牧民のところでは半ば遊牧民で、定住民のところでは半ば定住民であるというわけでもない。鍛冶師と他の民との関係は彼の内在的特質としての移動、すなわち放浪的本質から派生するのであって、その逆ではないのだ。彼の特殊性、すなわち移動者であり、かつ多孔空間の発明者であることによって、彼は必然的に定住民《と》遊牧民(そしてまた他の民たち、たとえば季節移動する森の民)を相手に交渉する。彼はまず彼自身において二重である。すなわち彼は雑種であり、合金であり、双生児的形成体なのだ。ーーー冶金術師が必然的に二重化する存在で、東洋の帝国装置に捕獲され養われる人物として、同時にエーゲ海世界ではずっと自由に移動する人物として、二重に存在するーーー。冶金術師が遊牧民と定住民とのあいだに取り結ぶ関係は彼が他の冶金術師たちと取り結ぶ関係にも影響することになる。定住民《と》遊牧民のどちらとも交渉するのは、このような雑種的な冶金術師、武器と道具の製造者でもある冶金術師なのである。多孔空間はそれ自身、平滑空間と条理空間に通じる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・12・P.134~136」河出文庫)

古代の石造文化の出現は冶金術なしにあり得ない。農耕社会の道具類も戦争機械としての武器も金属なしに始まらない。ヘルメスはその製造者であると同時にそれらを流通させる者として他のどの神よりも速く自由だ。とりわけ音楽として。

さて、メルクリウス(ヘルメス)の素早い宣伝の結果、プシューケーは自らウェヌス女神にもとに出頭する形になった。ウェヌスはプシューケーの体を引き寄せるとさんざん嬲(なぶ)りものにする。

「着物をびりびりに引き裂き、髪をふりほごし、頭をゆすぶったりして、さんざんに打擲(ちょうちゃく)したあげく、小麦や大麦や、粟(あわ)に罌粟粒(けしつぶ)、小豆(あずき)、豌豆(えんどう)、蚕豆(そらまめ)などを取り寄せ、ごちゃごちゃにかきまわし一山に混ぜ合わせて積んで」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の6・P.225」岩波文庫)

といった調子だ。そして命じる。

「そこに混ぜて置いてあるいろんな種子の寄せあつめを選り分けておくれ、一粒ずつちゃんと種類別にしておいて」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の6・P.225」岩波文庫)

それが等価性を形成する。「ウェヌスの嫉妬感情」=「プシューケーが一粒ずつちゃんと種類別にしておくこと」。できるわけがないと呆然とするプシューケー。彼女はすでにクピードーの子を宿しており妊娠中である。妊娠中という条件もプシューケーに与えられたイニシエーションの一つとして考えられるが、むしろイニシエーションはプシューケーがクピードーとの間の子を孕んだときから始まっているとみるのが正しいかもしれない。さて、そこへなぜか小さな蟻(あり)たちが集まってくる。蟻たちはめいめい「一粒ずつ山と積んだ穀物をすっかり始末し、それぞれ別に種類分けにして」さっさと姿を消してしまう。夜になり、しこたま酒が入った状態で家に帰ってきたウェヌスは面倒な作業がすっかり終わっているのを見て、ますますプシューケーに意地悪な命令を思いつく。
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なお、日本では盆休みという風習がある。パンデミック吹き荒れる二〇二〇年の今年もある。日本政府は幼稚園児でも知っている公衆衛生についての注意を促しただけで盆休みの大型連休に伴う全国各地での様々な移動については制限を課していない。そのため、盆休み中に発生したパンデミックと「Go To キャンペーン」でのウイルス感染者との区別はつかなくなる。すると後になって「Go To」の責任を追及しても盆休み中に発生した感染者とが入り混じってしまうために「Go To」責任の所在はあるのかないのかさっぱりわからなくなる。盆休みの帰省は古くからの風習であり政府には直接関係はない。となると後で何が起こってきても日本政府が責任を負う必要はまったくなくなる。

ちなみに盆の行事の中に「精霊流し」という儀式が日本にはある。精霊は目に見えない。死者の魂は見えない。そういうとき人間はどのように精霊あるいは死者の霊魂を可視化してきたか。日本だけでなく世界中で見られる方法がある。それは川に小さな小舟を浮かべるという方法だ。するとその小舟に精霊が乗って再び冥府へ帰っていく姿になる。それはわざわざウイルスを撒き散らす危険を犯して地方へ帰省してまで行なわなくても十分に可能な方法である。

BGM