白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

仮面等価性14−2・パルマコン(医薬/毒薬)としての神々

2020年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム
なお熊楠が生きていた時代には発見されていなかった資料が戦後、大量に発掘され、新しい調査技術も発明され、塗り替えられてきた歴史がある。次の文章の「松陰嚢(まつふぐり)」は松の実のことで一目瞭然、男性器の睾丸の隠喩であり、異性愛者だけでなく特に男性同性愛者のあいだで長く鍾愛されてきた。日本では古代の桓武天皇の劇的権力にあやかってか、平安遷都の際に立ち寄ったとされる京都近郊に、その男根信仰を愛でて先に述べた「摩醯首羅」(まけいしゅら)を本尊とする寺院がある。鉄道敷設に伴って現在地は変わってしまったが。京都の場合、市内というより、平安京近郊、周囲の境界領域にあたる相楽郡精華町、向日市、長岡京市、丹波、但馬、兵庫県西宮市、大阪府島本町、若狭湾沿岸、近江一帯、奈良県山間部、伊賀上野周辺、熊野一帯などに面白いものが見られる。また「キベレの祭式」についても基本的に変わったわけではない。だが「『聖書』に著名なバール神」という箇所は随分変わったと言わねばならない。

「日本でも松実を松陰嚢(まつふぐり)と称え、『後撰夷曲集』九に、『唐崎の松のふぐりは古への愛護の若の物かあらぬか』正盛、と出づ。愛護の若は継母に讒せられて死んだ美童で、『土俗と伝説』に折口君の委(くわ)しい考察があった。『聖書』に著名なバール神は、大陰相を像としてとも半男女を像としたともいい、その神官は女粧し全く毛を抜いた美男で、みずから参詣人に売淫しまた犬をも同じ道に使い、その揚銭(あげせん)を神に奉った。これは宦者でなかったらしいが、深夜林下に祭礼を行なうとて酒を被って奏楽中に切り合い流血裏に昏倒してとあるは、上述キベレの祭式に似ておる(ジェフール『売靨(ばいよう)史』巻一、頁七十二)」(南方熊楠「鳥を食うて王になった話」『浄のセクソロジー・P.277~278』河出文庫)

熊楠が上げている「聖書」は旧約聖書の幾つかの箇所を指して言われている。おそらくウガリット文書の研究がままならなかった時期に死んでしまったため、多くは旧約聖書の記述に目を奪われてしまったのだろう。ところが。

「一九二九年以来、多くの神話テクストがシリア北部地中海沿岸の港町、古代のウガリットであったラス・シャラムでの発掘で、陽の目をみた。それらは前十四~十二世紀に書かれたが、それ以前の神話-宗教思想を含んでいる。ーーー断片的状態にもかかわらず、ウガリット文書は量り知れない価値をもっている。しかし、《ウガリットの宗教は、けっしてカナン全体の宗教ではなかった》という事実を記憶しておく必要がある。ウガリットの文献がとりわけ興味深いのは、それらがある宗教的イデオロギーから、別のイデオロギーへの移行の諸段階を描いているという事実のためである」(エリアーデ「世界宗教史1・第六章・P.220~221」ちくま学芸文庫)

熊楠が関心を抱いたのは次のような部分に違いない。

「神官はヘブライ語の神官と同じ名称で呼ばれる。男性神官とともに女性神官や『聖別された人』が言及されている(聖書ではこの語は聖娼を指すが、ウガリット語テクストには、それに似たものがまったくない)。最後に、神託を伝える神官や予言者があげられている。神殿には祭壇が設けられ、神像や神の象徴で飾られていた。儀礼には血を流す供儀のほかに、踊りや多くのオルギー的所作が含まれていた」(エリアーデ「世界宗教史1・第六章・P.232」ちくま学芸文庫)

エリアーデは「儀礼には血を流す供儀のほかに、踊りや多くのオルギー的所作が含まれていた」と紹介している。ヘロドトスはエジプトとギリシアとを比較してこう書いた。

「エジプトでは一般に豚を神に生贄として捧げることは禁じているが、ただセレネ(月の神)とディオニュソスだけには同じ時、すなわち同じ満月の日に豚を犠牲にしてその肉を食べる。エジプト人は他の祭礼では豚を忌むのに、なぜこの祭だけは豚を犠牲に供えるのかということについては、エジプト人の間に伝承がある。ーーーセレネに豚を犠牲にする儀式は次のように行なわれる。豚を屠ると、その尾の端と脾臓と大網膜(内臓を含む膜)とを集め、その豚の腹の周りの脂肪を全部使ってそれらを包み、火で焼くのである。残りの肉は犠牲の行なわれる満月の日に食べるが、日が変るともはや口にしない。貧民は乏しい家計がそれを許さないので、粉を捏(こ)ねて豚の形に作り、これを炙(あぶ)って神に供えるのである。ディオニュソスには、その祭の前夜、エジプト人はそれぞれ家の前で仔豚を屠ってささげ、その仔豚はそれを売った豚飼に持ち帰らせる。それ以外の点では、エジプトのディオニュソス祭はギリシアとほとんど全く同様に行なわれるが、ただギリシアのような歌舞の催し物はない。エジプト人は男根像(バロス)の代りに別のものを考案しているが、これは長さ一キュペスほどの糸で繰る像で、これを女たちがかついでを廻るのであるが、動体と余り変らぬほどの長さの男根が動く仕掛になっている。そして笛を先頭に、女たちはディオニュソスの讃歌を歌いつつその後に従うのである。像がそのように異常な大きさの男根を具え、また体のその部分だけが動く由来については、聖説話が伝えられている」(ヘロドトス「歴史・上・巻二・四七~四八・P.222~223」岩波文庫)

バアル神とエル神との関係。そもそもバアルはエルの息子だ。そしてウガリット文書の記述は他の民族創生神話の典型的パターンと極めて類似した構造を持つ。

「エルはその形容辞によって力ある神、真の『地上の主』と称えられ、供犠を捧げるべき神として真っ先にあげられているにももかかわらず、神話のなかでは肉体的に弱く、決断力に欠け、老化し、引退している神として現われる。エルを軽蔑する神もいる。ついには、彼の妻であるアシュラトとアナトは、バアルに奪われてしまう。したがって、エルへの賛辞は、エルが事実の上でもパンテオンの主であった昔の状況を反映している、と結論しなければならない。宇宙を創造し、主宰する年老いた神が、より活動的で宇宙の豊饒を『専門的に』司る若い神にとって代わられることは、よくみられる現象である。創造神が『ひまな神』(デウス・オティオースス)になり、自己の創造物からしだいに遠ざかってゆくことがしばしば起こる。ときに、この交代が神々の世代間、ないしはその代表者のあいだの闘いの結果である」(エリアーデ「世界宗教史1・第六章・P.221~222」ちくま学芸文庫)

次にエリアーデは諸説を網羅している。諸神の両義性についても注目。

「バアルはエルの息子(エルは諸神の父であったので)とされながら、『ダガーンの息子』とよばれる唯一の神である。ダガーンという名は『穀物』を意味するが、前三千年紀にユーフラテス川上・中流地帯で崇拝されていた。しかし、バアルが主役を演じるウガリット神話のテクストのなかでは、ダガーンはなんの役割も演じていない。普通名詞『バアル』(『主人』)は彼の個人名となった。バアルにはまた、ハッドゥ、すなわちハダドという固有名もある。彼は『雲に乗る者』、『大地の主、王子』とよばれる。彼の形容辞のひとつは『有力者』、『主君』を意味するアリャーンである。彼は豊饒の源泉にして原理であるが、戦士でもある。これは彼の妹で妻でもあるアナトが、愛の女神であると同時に戦いの女神でもあるのと同じである。その他の最も重要な神話の主役は、『海の王子、川の摂政』ヤムと、至高権力を若い神と争う『死神』モートである。実際、ウガリット神話の大部分はエルとバアルの争い、およびバアルが主権を主張、保持するための、ヤムやモートとの戦いにあてられている」(エリアーデ「世界宗教史1・第六章・P.222」ちくま学芸文庫)

さらにウガリット文書は散逸している部分が非常に多い上に歴史以前的世界についての記述として考えられる文書である。だがむしろそのために他の民族創世神話と比較することで、散逸した部分を再構成する作業は逆に容易になる場合がある。次のように。

「ヤムは、『神』であるとともに『悪魔』でもある者として描かれている。彼は『エルに愛された』息子で、パンテオンの他の神々と同様に、神として供儀を受ける。他方、彼は水生の怪物、七つの頭をもつ竜、『海の王子』、地下水の原理と顕われ(エピファニー)でもある。戦いの神話的意味は幾重にも重なっている。第一に、農耕的季節的比喩のレベルにおいては、バアルの勝利は、『海』や地下水に対する『雨』の勝利を意味するーーー宇宙の秩序をあらわす雨のリズムは、『海』の混沌として不毛な広大さと、破局的洪水にとって代わる。バアルの勝利によって、四季の秩序と安定への信頼が獲得されたのである。第二、海竜との戦いは、若い神が諸神のチャンピオンとして、パンテオンの神王として台頭するさまを描く。最後に、このエピソードには父神(エル)を去勢して王位から追い出した簒奪者に対する、長子(ヤム)の復讐が読みとれる。このような争いは範例的である。すなわち、何回でも反復されるものである。まさにそれゆえに、ヤムはバアルに『殺される』にもかかわらず、テクストにまた現われるのである」(エリアーデ「世界宗教史1・第六章・P.224~225」ちくま学芸文庫)

神々による殺戮行為と再生の反復。アルカイックな信仰のほとんどは死と再生の儀式を反復する点で共通している。そして何度も繰り返される反復のために、そのたびごとに、スケープゴートの必要性が出てくる。

「カフカス地方東部のアルバニア人は『月』の神殿に聖なる奴隷を数多く囲い、その中の多くの者が霊感を受けて予言を行った。ひとりがいつも以上に霊感の兆しを見せ、ちょうど密林を彷徨うゴンド族の男のように、森をひとりであちこちうろつきまわると、大祭司が彼を聖なる鎖で拘束し、一年間彼に贅沢な暮らしをさせる。一年が終わると彼は軟膏を塗られ、生贄として引き出される。そして、このような人間の生贄を殺すことが仕事となっている男、経験によってこれが手馴れたものとなっている男がひとり、群衆の中から進み出て、聖なる槍で生贄の脇腹を刺し、心臓を一突きにした。殺される男の倒れ方によって、国の繁栄の吉凶を占ったのである。その後遺体はある場所に埋められ、清めの儀式としてすべての人々がその上に立った。この最後の行為は明らかに、人々の罪がこの生贄に移し替えられたことを示している」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十五節・P.256~257」ちくま学芸文庫)

世界中どこでも古代人の思考はとても似ている。

「害悪の一掃が定期的に行われるようになる場合、この儀式は概して一年に一度ということになり、それが行われる時期は通常、北極帯や温帯の地域では冬の終わり、熱帯地域では雨季の始まりか終わりといった、はっきりとした季節の変わり目になる。こういった天候の変化は、とくに食糧事情や衣料事情や住宅事情の悪い蛮族にとっては死亡率の上昇をもたらしがちであり、この事態を未開人は悪霊の仕業と考えることになる。ならば悪霊こそ追い払うべきものである。そこでニューブリテン島やペルーでは、悪魔は雨季に始まり追い出される。あるいはかつてはそうであった」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十五節・P.257~258」ちくま学芸文庫)

さらに、「祭祀の時期」=「全住民の放埒三昧の期間」と言える。

「公的・定期的悪魔祓いは、一般に全住民の放埒三昧の期間に、先行もしくは後続する」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十五節・P.258」ちくま学芸文庫)

その意味で、ユダヤ=キリスト教がヨーロッパを制覇するまでは、ディオニュソスはどこにでもいたと言うことも不可能ではない。

「召使い女たちも、女主人も仕事をやめて、鹿皮の衣に身をつつみ、髪のリボンを解いて、頭に花冠をいただき、手には葉のついた常春藤(きづた)の杖をとるようにーーーそういう命令だった。もし、神をないがしろにしたばあい、神の怒りははげしいであろうとも予言した。女たちは、老若(ろうにゃく)をとわず、これに従った。機(はた)を離れ、羊毛籠を捨て、割り当てられた仕事を中止するのだ。香を献(ささ)げて、神のみ名を唱(とな)える。バッコスとも、『鳴る神』(プロミオス)とも呼べば、『解放者』(ヘリユアイオス)とも呼ぶ。『雷電のおん子』『二度出生のきみ』『ふたりの母のおん子』ともいうし、さらには、『ニュサのおん神』『セレメの髪長きみ子』『葡萄しぼりのおん神』(レナイオス)『快き葡萄植えの神』『夜祭の神』(ニュクテリオス)などとも唱えている。『父なる神エレレウ』『イアッコス』『エウハーン』など、この神に親しい掛け声でも呼ばれるし、そのほか、ギリシアの民たちが酒神に与えている数々の呼び名があるのだ。バッコスよ、あなたは、とこしえの青春にめぐまれた永遠の少年であり、天上の神々のなかでも、ひときわ目立って美しい。牛の姿を捨てられるときは、乙女にもまごう顔立ちでいらっしゃる。『東方』も、あなたへの信仰になびき、あなたの神威は、肌黒いインドの人たちのもと、はるかなガンジスの流れのあたりにまで及んでいる。いとも畏(かしこ)い神よ、あなたは、あのペンテウスと、両刃(もろは)の斧(おの)もつリュクルゴスというふたりの瀆神(とくしん)者をいけにえとし、リュディアの船乗りたちを海へ投げこまれた。あなたは、二頭の山猫を軛(くびき)につけ、色うつくしい手綱をとって、車を走らせる。信女たちや、獣神(サテュロス)たちが、そのあとにしたがう。いささかきこしめした老シレノスは、ふらつく足を杖で支え、へこんだ驢馬(ろば)の背にやっとこさしがみついている。どこへいらっしゃっても、若々しい声と、女たちの声がどよめく。打ち鳴らされる太鼓、シンバル、細長い黄楊(つげ)笛がひびく。『寛大なみ心と、お情をもって、どうかわたしどものもとへお出でのほどを!』テーバイの女たちはこう願って、命じられた祭をとり行なう」(オウィディウス「変身物語・上・巻四・P.137~138」岩波文庫)

犠牲者や犠牲獣は始めのうちは人間だった。祝祭の時期、祝祭はスケープゴートを要求する。いつもの秩序はいったん解体されなくてはならない。また、共同体の文化的発展の度合いの高度化に伴って、生(なま)の人間をスケープゴートとすることに躊躇を覚えるようになってくる。それでもなお人間を生贄にしなくてはならないような場合、スケープゴートは死刑囚の中から選ばれる傾向が出てきた。なぜなら死刑囚は、その力の「過剰-逸脱」において、共同体全体の債務を一挙に背負って償却してくれそうに見えるからである。

「なぜ人々の罪や悲しみをその身に引き受ける者として死にゆく神が選ばれねばならなかったか、という疑問については、スケープゴートとして聖性を用いる慣習において、かつて明確に別個のものとしてあった二つの風習が、結びついてしまったという可能性を考えることができる。一方では、すでに見たように、人間もしくは動物の神を殺すという風習は、その聖なる命を年齢ゆえの衰弱から救うことが目的であった。一方で、これもすでに見たように、一年に一度罪や害悪を全面的に追放するという風習があった。そして、人々がたまたまこの二つの風習を結びつけてしまうと、死にゆく神をスケープゴートとして雇うという結果になる。これが殺されるのは、元来は罪を拭い去るためではなく、老齢による衰弱からその聖なる命を救うことを目的としていた。しかし、ともかくも彼は殺されねばならないのだから、人々はこの機会に、罪や苦しみという自分たちの重荷を、いっそ彼に背負わせてしまおうと考えたのかもしれない。この男ならば、墓場を越えた見知らぬ世界まで、その重荷を運んで行ってくれそうだからである」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十五節・P.260」ちくま学芸文庫)

神々やその代理がスケープゴートになることもある。「老齢による衰弱からその聖なる命を救うことを目的としていた。しかし、ともかくも彼は殺されねばならない」。バアル神の場合、祭礼の際、老いた父(エル)は去勢され、その妻はバアルに奪われ、さらにバアルは妹とも結婚し、神々の世界の若返りを果たさなければならない。

「聖なる存在をスケープゴートとして用いることは、以前述べた。『死神の追放』というヨーロッパの習俗にまつわる曖昧な部分を、消し去ってくれる。この儀式において『死神』と呼ばれるものが、本来は植物霊であったと考える根拠はすでに述べた。この植物霊は、再び若い活力を備えて蘇るようにと、毎年春に殺されたのだった。だが、すでに見たように、この仮説だけでは説明不可能なある種の特徴が、この儀式にはある。『死神』の像が運び出されて埋葬され、もしくは焼かれる際の、歓喜という特徴、そしてまたその担ぎ手たちが見せる、恐怖と憎悪という特徴である。だが、『死神』は単に植物の死にゆく神であるのみならず、同時に、過去一年の間に人々を苦しめた一切の害悪が負わせられる、公共のスケープゴートでもある、と考えれば、これらの特徴は即座に理解可能なものとなる。このような機会に歓喜が伴うのはもっともなことである。そして、死にゆく神が恐怖と憎悪の対象であるように見えたとしても、それは正確には神に対するものではなく、神が負わされている罪と不幸に対するものであって、その恐怖と憎悪は単に、荷を追う者とその荷を区別することが難しい、あるいは少なくとも、両者の違いをはっきりと目にすることが難しい、という原因によるものである。重荷が不吉な性格のものであれば、その担ぎ手は、それら危険物の特性をわが身に染み込ませているぶんだけ、恐れられ、また遠ざけられる。彼はたまたまその媒体となったに過ぎない。ーーーまた、これらの風習において、『死神』が聖なる植物霊を表すのみならずスケープゴートでもあるという見解は、この追放がつねに春に行われ、それもおもにスラヴ民族によって行われるという事実からも裏付けられる。スラヴの一年は春に始まるからである」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十五節・P.261~262」ちくま学芸文庫)

カナンの地のバアル信仰の時代、古代人の思考はギリシア、エジプト、ペルシャ、アジアなどと余り変わらない。ヘルマフロディーテ(両性具有者)のテーマが見られる。

「竜退治を祝うために、アナトはバアルを讃える晩餐会を催す。このあと女神は王宮の戸を閉め、殺したいという発作に襲われて、守衛、兵士、老人を殺害しはじめる。腰にも届く血の海の中で、被害者の頭や手を自分の腰のまわりに着ける。このエピソードは意味深長である。似たものは、エジプトやインドの女神ドゥルガーの神話や図像に見いだされる。殺戮と食肉はアルカイックな豊饒の女神の特性である。この視点よりすれば、アナト神話は地中海東部からガンジス川流域にひろがる。古代農耕文明に共通した要素に分類される。他のエピソードでは、アナトは自分の父エルに、彼の髪やひげを血で塗りたくるとおどす(オルデンブルク『アナト・テクストⅤ』二十六頁)。アナトがバアルの屍体を見つけると、彼女は彼の死を嘆きはじめたが、そのとき『ナイフを用いずに彼の肉を食べ、杯なしに彼の血を飲んだ』。アナトがーーーほかの愛と戦いの女神と同様にーーー男性的属性を具え、したがって両性具有だと考えられたのは、この野蛮で血なまぐさい行為のためである」(エリアーデ「世界宗教史1・第六章・P.225~226」ちくま学芸文庫)

両性具有についてプルタルコスは、アピスを例に上げ、こう述べている。

「アピスというのはオシリスの像に生命が吹き込まれたものだとされています。生成力の光が月から発して、発情期の牛に触れるとアピスが生まれるのだというのです。ですからアピスは、その明るい面が次第にかげって陰になるというように、いろいろの面で月の満ちかけに似ているわけです。さらに、パメノトの月の朔日(ついたち)には『オシリスの月詣で』という祭が催されますが、これは春の到来を告げるものです。このようにオシリスの力は月に帰せられているのですが、人々はこれをイシス(彼女は生殖の力です)とオシリスが交わっていると申します。ですから月は世界を生んだ母と言われ、かつ男女両性の具有者だと信じられています」(プルタルコス「エジプト神イシスとオシリスの伝説について・四三・P.82~83」岩波文庫)

ウガリット文書にも漏れなく「冥府降り」のエピソードがある。

「ウガリット神話の面白さは、嵐と豊饒の若い神で、諸神の首位に立ったばかりのバアルが冥界に降り、タンズムや他の農耕神同様死ぬという事実にある。ーーーこの《冥界下降》には、バアルに相補いあう多様な威光を与えようとする意図が察知される」(エリアーデ「世界宗教史1・第六章・P.228~229」ちくま学芸文庫)

バアルの冥府降りはオデュッセウスの冥府降りと同じくイニシエーションの一つと考えられるが、この儀式を通過することで、バアルに「相補いあう多様な威光を与えようとする意図」があるとエリアーデはいう。「相補いあう多様な威光」とは何か。おそらく死と再生ばかりでなく、ヘルマフロディーテ(両性具有)、あるいはもっと多様で宇宙論的な生の顕われでなくてはならないだろう。

「ギリシアのティタネスの伝説や夜祭の行事は、オシリスの切断、よみがえり、生まれ変わりの話と一致しております(ゼウスは女神ペルセポネと交わってザグレウス=ディオニュソスを生んだが、ティタネスらが彼を八つ裂きにして食う。ゼウスが怒ってティタネスを焼き殺すと、その灰から人間が生まれた。一方ゼウスはザグレウスの心臓を呑み込み、セメレと交わって、あらためてディオニュソスを生んだ)」(プルタルコス「エジプト神イシスとオシリスの伝説について・三五・P.69・訳注P.174~175」岩波文庫)

しかし諸神の信仰というものはすべて同一というわけにはいかない。それぞれに多様な個別性あるいは差異を同時に併せ持つ。地中海沿岸のリゾーム化とともに、また別の仕方で発展していくスラヴやアジアという世界とともに、イスラエル人はイスラエル人のための宗教を本格的かつ実用的なものへと練り上げていくことになる。

「このような宗教的ヴィジョンは、カナンのみにかぎられていたわけではない。しかし、その重要性と意義は、イスラエル人がカナンに侵入したときに、このタイプの宇宙的聖性に直面したという事実によって増大した。カナンの宗教性はオルギーの過剰にもかかわらず、崇高さを失わなかった複合的な儀礼活動を生んだのである。生命の聖性に対する信仰はイスラエル人も抱いていたので、最初から問題が生じた。すなわち、カナンの宗教的イデオロギーにとり込まれずに、その信仰をどのように保てるだろうかという問題である。すでに述べたように、このイデオロギーは、生全体のシンボルである主神バアルの、断続的で循環的な存在様式を中心に据える独特な神学を前提としている」(エリアーデ「世界宗教史1・第六章・P.233」ちくま学芸文庫)

しかし神々はいつもどれも両刃の剣である。神は神自身においてパルマコン(医薬/毒薬)たる両義性を身に帯びないではいられない。

BGM


仮面等価性14−1・ヘルマフロディーテと中里介山

2020年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム
ルキウスは思う。「人間のルキウス」=「驢馬のルキウス」という等価性もそう悪くないものだと。

「鳥にするのをしくじり、驢馬にしてしまったあの迂闊(うかつ)なフォーティスをとても腹だたしく思っていたものの、一方ではこの痛ましい不格好(ぶかっこう)な姿の勇気づけられる慰めが一つあったのです。それは大きな耳を与えられ、かなり遠くの人声でもみんな容易に聞きとれることでした」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の9・P.346~347」岩波文庫)

粉屋に雇われるルキウス。粉屋の妻は浮気が止められない。むしろもっと大量の浮気に耽っていたいし、仕事をやるつもりなど毛頭ない。放蕩三昧、不義密通、金と男と復讐と侮辱とが何より好きなタイプの女性である。それを何食わぬ顔で、さらに間近で見ている驢馬のルキウス。或る悪戯(いたずら)を思いつく。悪戯は成功する。人間の目から見ればただ単に一頭の驢馬がそこを通ったというに過ぎない。ところがこのルキウスのちょっとした動きのために、さっそく作った新しい情夫との情事を夫に見抜かれ離縁された妻。全身これ煮えたぎる怨念と復讐との塊と化す。女性一人で営業する魔術師の家へ向かう。復縁させるよう元夫の心情を変えてしまうか、それが無理なら元夫をきれいさっぱり殺してほしいと。復縁は上手くいかない。そこで魔術師は殺害を実行する。

「悲惨な死に方をしたある女の怨霊(おんりょう)を煽動し、亭主の命を威嚇(いかく)し始めた」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の9・P.363」岩波文庫)

魔術師が「煽動し」なくてはならないのはなぜか。というより「怨霊(おんりょう)」とは何か。煽動することと怨霊とはどこでどう繋がっているのか。「煽動」という言葉は意味深い。というのは、この場合だけでなく、「煽動」することというのは「悲惨な死に方をした」《人々》=不特定多数者への「呼びかけ」にほかならないからである。今で言えば或る種の非合法なマーケティングや、情報操作、ネット広告のようなものだ。「悲惨な死に方をしたある女」は膨大だっただろうしその復讐のためにこの自称-女性魔術師を利用してきた人々もまた少なくなかっただろう。古代ギリシアでも金額次第で動くネットワークはそこそこ広かったのではと考えられる。この場面では「悲惨な死に方をしたある女の怨霊(おんりょう)」=「亭主の命」という等価性が認められる。ともかく、女性魔術師に大金を支払った元粉屋の妻は執念深い復讐を果たす。

「あの女の姿はどこにも見あたらず、主人のみが天井の梁(はり)にぶら下がってすでに息絶えていた」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の9・P.364~365」岩波文庫)

殺害された粉屋の主人はどのように殺されたか。ルキウスは部屋の外にいて、それをどのようにして知ることができたか。すでに嫁いでいた娘の話を聞くことができたからだ。

「彼女がこの家の不幸をつぶさに知ったのは、人から伝え聞いたのではなく、夢の中に父親が立ち現れ、まだ紐(ひも)で首を絞められた残酷な姿のまま、継母(ままはは)の非道な仕打ちを一部始終打ち明けたからでした。それで継母の不義のこと、魔法のこと、悪霊にとりつかれて下界に落ちた経緯を知ったのです」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の9・P.365」岩波文庫)

というように、問題は、現実的地理的距離ではなく、精神的気づかい的距離なのである。さて前回、古代ギリシアでも見られ、なおかつアジアや中米の広域に渡って見られるヘルマフロディーテ(両性具有者)について、男女ペアのみの異性愛者を無限に延長される諸商品の系列だとすれば、ヘルマフロディーテは特権的かつ唯一の商品=《貨幣》という社会的=合体的位置を占めると述べた。南方熊楠の論文から多く引用しつつ。

「アッチスが松の下でみずから宮した時出た血が菫々菜(すみれ)になったとかで、その祭日に松一本を伐って菫々菜で飾り美少年の像を中央に付けて神に象り、大祠官みずから臂より血を出し奉(たてまつ)ると、劣等の神官噪(さわ)がしき楽声に伴れて狂い舞い夢中になりて身を切り血を流す。これを血の日というて新米の神官この日みずから宮してその陰を献ったらしい。エフェススのアルテミス女神とシリアのアスタルテ女神は上世西アジアでもっとも流行(はや)った神だが、いずれも閹人(えんじん)を神官とした。春の初めにシリアとその近国よりおびただしくヒエラポリスのアスタルテ神社へ詣る。笛と太鼓を奏する最中に神官小刀で自身を創つくるを見て参詣人追い追い夢中になって血塗れ騒ぎをなし、ついには衣を脱ぎ喚き踊り出で備え付けの刀を採って惜気もなく大事極まる物を切り去り、それを手に持って町中を狂い奔しどこかの家へ投げ込むと、それ福が降って来たと大悦びでその家より女の衣装と装飾(かざり)をその人に捧ぐるを取って一生著用する」(南方熊楠「鳥を食うて王になった話」『浄のセクソロジー・P.276~277』河出文庫)

エリアーデは、アグディスティス、アッティス、キュベレー、ディオニュソスなどについて、様々に述べている。

「アッティスを愛しているアグディスティスが、祝宴の開かれている穴に入ってくる。そこに居合わせた者は皆、狂気に襲われ、王は自分の生殖器を切りとり、アッティスは逃げて、松の木の下でみずからを傷つけて死んでしまう。アグディスティスは絶望して、アッティスを蘇生させようとしたが、ゼウスはそれを許さなかった。ゼウスが容認したのは、ただアッティスの身体が腐らないようにし、髪の毛が伸びたり小指が動いたりすることで生きていることの証しとすることだけであった。アグディスティスは両性具有のおおいなる母のひとつの顕現にすぎないのであり、アッティスはキュベレーの息子であり、恋人であり、その犠牲者でもあった」(エリアーデ「世界宗教史4・第二十六章・P.115~116」ちくま学芸文庫)

さらに。

「祭りは春分の時期、三月十五日から二十八日にかけて行なわれた。初日(カンナ・イントラット、『葦の持ちこみ』)に、葦を背負った同信者集団が、切った葦を寺院へ運びこんだ(伝説によるとキュベレーは幼児アッティカが、サンガリオス川の川辺に捨てられているのを見つけた)。七日後、木を背負った同信者集団が、森から切った松の木を運びこむ(アルボル・イントラット)。幹は死体のように幅のせまい帯でくるまれ、アッティスの像がその真ん中に結びつけられる。その木は死んだ神をあらわしていた。『血の日』(デイエス・サングイニス)である三月二十四日に、司祭と新たな入信者は笛とシンバルとタンバリンの音にあわせて野蛮な踊りを踊り、血が出るまで自分たちの身体を鞭打ち、ナイフで腕を深く傷つける。興奮が最高潮に達すると、生殖器を切りとって供物として女神に捧げる入信者もいる」(エリアーデ「世界宗教史4・第二十六章・P.117」ちくま学芸文庫)

熊楠は「摩羅考」の中でこう書いている。

「本邦仏教の神像にも、額に縦開した眼、すなわち陰相の眼を具うる者あるは、『大菩薩峠』の神尾主膳の条々で、皆様承知だろう」(南方熊楠「『摩羅考』について」『浄のセクソロジー・P.214』河出文庫)

神尾主膳は有名な登場人物だが、ヘルマフロディーテと愛染明王との類似性について、敏外和尚の説明はかなり要約されていて的を得ているかと思われる。

「『いや、その傷が物怪(もっけ)の幸いというものだ、我々の眼で見ると愛染明王(あいぜんみょうおう)の姿(すがた)だ』『ふふん』と今度は主膳が冷笑しました。主膳の冷笑は、敏外のよりもすさまじさがある。しかし、敏外住職は存外まじめで、『その竪(たて)の一眼は、愛染明王の淫眼(いんがん)といって、殊に意味深い表徴(しるし)になっている』『ナニ、《いんがん》?』『さよう』『どういう字を書くのだ』『淫は富貴に淫するの淫の字ーーーこれが愛染明王の大貪著(だいとんじゃく)時代の拭うても拭いきれない遺品(かたみ)だ、横の両眼は悪心降伏(あくしんごうふく)の害毒消除の威力を示すが、堅の淫眼のみは、いつでも貪著と、染悪(せんお)と醜劣(しゅうれつ)と、汚辱とを覗(のぞ)いてやまぬものだ』『ははあーーー』神尾主膳は苦笑いしながら、何か当てつけられたように感じました」(中里介山「大菩薩峠8・他生の巻・P.335」時代小説文庫)

その傷(「愛染明王の淫眼(いんがん)」)はどのようにしてできたか。そもそも神尾主膳自身による残酷で始末に負えない放埒政治がきっかけなのだが。次のように。

「神尾主膳の面(おもて)は、左右の眉(まゆ)の間から額の生え際(ぎわ)へかけて、牡丹餅(ぼたもち)大の肉をそぎ取られ、そこから、ベットリと血が流れているのです。ーーーこの点においてはお銀様は冷やかなものでした。神尾の額の大怪我は、むしろ痛快至極なものだと思いました。ーーー神尾が苦しむのは当然であって、ところもあろうに額の真ん中へ刻印を捺(お)されたことの小気味よさを喜ばないわけにはいかないが、それにしても、咄嗟(とっさ)の間に、神尾がこの大傷を受けて倒れたのは何に原因するのか、それが、わからないなりに井戸の車の輪を見上げると、釣瓶(つるべ)の一方が、車の輪のところへ食い上(あが)って逆立ちをしているように見えます。気のせいか、その釣瓶の一端に、神尾の額からそぎ取られた牡丹餅大の肉片が、パクリと密着(くっつ)いているもののように見えました。お銀様は、そこでホッと息をついて、同時に胸の溜飲を下げました。ははあ、これだなと思ったのでしょう。盲法師が下へ投げ込まれるとその重みで、一方の釣瓶が急転直下すると一方の釣瓶が海老(えび)のようにハネ上って、そうして、その道づれに神尾の額の肉を、牡丹餅大だけをそいで持って行ってしまった。それだと思ったから、お銀様はいよいよ痛快に堪えませんでした。痛快というよりはこの時のお銀様は、正しく神尾主膳の残忍性が乗りうつったかと思われるほどに、いい心持になりました。うめき苦しむ神尾にも、驚き騒ぐ福村にも、冷然たる白い歯をチラリと見せたきりで、井戸桁(げた)へ近寄って、一方の縄をクルリと廻してゆるめると、海老(えび)のようにハネ上っている一方の釣瓶が少しく下がって来たから、手を高くさしのべて、それを取り下ろしてみるとお銀様の想像したとおりに、神尾主膳の額の肉片は、べっとり釣瓶の後ろに密着(くっつ)いていました」(中里介山「大菩薩峠6・小名路の巻・P.238~239」時代小説文庫)

ここで出現している等価性がある。「神尾主膳の残忍性」=「お銀の残忍性」である。お銀は普段から大人しくやさしいタイプの耐える女性である。これまでずっと世間から向けられる白い目に耐えて耐えて耐え続けてきた女性だ。しかしこのときばかりは「痛快に」感じた。そしてまた、愛染明王だけでなく「大菩薩峠」ではもっと色々な神や仏が出てくる。さらに時代背景が江戸末期なので当然、身体障害者や精神障害者や社会的底辺労働者や遊行者らが群れをなして登場する。神仏ではこのようなものも。

「やや遠く離れて槍を抱えては摩醯首羅(まけいしゅら)の形をして見せました」(中里介山「大菩薩峠4・如法闇夜の巻・P.116」時代小説文庫)

槍の使い手・米友(よねとも)がやって見せた形、「摩醯首羅」(まけいしゅら)は、日本で一般的にいう「大自在天」(だいじざいてん)のこと。有名な図像に「尊像三目八臂騎白牛」(『諸尊図像鈔』)とある。眼は三個、腕は八本、白い牛に騎乗している。問題の目だが、今の中国新疆ウイグル自治区にダンダン・ウィリク(ウイグル語で「象牙の家々」)という仏教院跡がある。なかでも、タクラマカン砂漠に実在するダンダン・ウィリクから出土した「大自在天像」の壁画には、額に縦開した眼が鮮明に描かれている。熊楠のいうようにこの額に描かれた「三目」もまた女性器としか思われない。幕末。薩摩とか長州とか小栗上野介とか勝海舟とか土方歳三とか天狗党とか、ビッグネームが出てくるのでただ単なる時代小説かと思われてしまっているが、むしろ十九世紀前半にネルヴァルが急速な近代化と失われていく家郷とのダブルバインド(相反傾向、板挟み)で統合失調症を発症した時期にヨーロッパの知識人らが陥った状況とたいへん似ている。「あの《えいじゃないか》騒ぎはどこから起った」のだろうか。

「『そうかも知れない、一体、あの《えいじゃないか》騒ぎはどこから起ったものだ』『どこから起ったか存じませんが、神様のお札が、天から降って来たのが初まりだそうでござんすよ、それで忽(たちま)ちあんなことになってしまいました、盆踊りのように、時を定めて踊るんならようございますが、朝であろうが、昼であろうが、稼業が忙しかろうが、忙しかるまいが、踊り出したが最後、気狂(きちが)いのようになってしまうのですから手がつけられません、私は、あれを伊勢から伊賀越えをするときに見物致しました、男だけならまだしも、女が大変なものですからな、女が白昼裸(はだか)で踊って歩くんですから、沙汰の限りでございます』」(中里介山「大菩薩峠6・禹門三級の巻・P.370」時代小説文庫)

ギリシア悲劇では紀元前五世紀頃すでに起こっている。

「牛飼 老いも若きも、まだ嫁が娘も交えて、その規律のよさは、まったく驚くばかりでございます。まず髪をとき肩まで垂らすと、こんどは小鹿の皮の結び目の解けたところを結び直し、帯に代えて、ひらひらと舌を閃かす蛇を、その斑(まだら)の皮衣に締めたのでございます。中には仔鹿や狼の子を抱いて、雪白の乳を飲ませているものもおります。ーーー一人が杖をとって岩を打つと、その岩から清らかな水がほとばしります。また一人が杖を大地に突きさせば、神の業か、葡萄酒が泉のごとく湧いてまいります。ーーー御母上は大声に『おおわが忠実な犬たちよ、この男どもは私らを捕えようとしているのだよ。さあ、手にもつ杖を武器に、私についておいで』と申されました。私どもは逃れて、からくも信女らに八つ裂きにされる憂き目を免れましたが、女たちは草を喰(は)んでいる牛の群れに、素手のまま踊りかかってゆきました。一人が乳房豊かな牝牛の仔(こ)を、鳴き吼(ほ)えるのも構わず、引き裂いて両の手にかざすかと思えば、また他の女らは、牝牛の体をバラバラに引き裂いております。殺された牛の胴や、蹄のさけた脚などが、あちこちに散らばり、また樅の枝に懸かって、垂れ下がっている血まみれの肉片もございます。一瞬前まで傲然と、怒りを角に表わしていた牡牛ですらが、女たちの無数の手にとられ、たちまち地上に屠られてしまいます。殿様がまばたきなさる間よりも早く、女たちはその肉をちぎってしまったのでございます。それから女たちは、まるで空飛ぶ鳥のように、ほとんど足が地に触れぬほどの疾さで山を駈け下り、アソポスの流れに沿うて、テーバイ人の豊かな穀物を実らせる麓の平地に向かいました。キタイロンの山裾の村、ヒュシアイとエリュトライとを、まるで敵のように襲って、手当り次第めちゃめちゃに荒して、家々から幼な子を掠(かす)めてまいります。子供のみか、奪った銅器鉄器のたぐいを肩に載せて運んでゆくのですが、紐で結(ゆわ)えつけもせぬのに、一つとして地面に落ちることがありません。また髪の毛の上に火をかざしているのに、いっこうに火傷(やけど)をするようにも見えません。村人たちも、信女らに荒されて腹を立て、武器をとって刃向おうといたしましたがーーー殿様、このときまさに、見るも恐ろしいことが起ったのでございます。すなわち、村のものが槍で相手を突いても血が出ぬのに、女たちが振う杖は男たちを傷つけ痛めて、とうとう村人たちは背を向けて逃げ去ったのでございます」(エウリピデス「バッコスの信女たち」『ギリシア悲劇4・P.488~490』ちくま文庫)

そしてまた、「あの《えいじゃないか》騒ぎはどこから起った」のかについて、世界的規模でほぼ同時多発的に生じた点で、一九六〇年代末から七〇年代最初期にかけて起こったフランス「五月革命」、日本「全共闘運動」などとの共通性はすでに広く論じられている通りである。

さらにこのような事態は、姿形を置き換えながら欧米でたびたび発生した。とりわけ十九世紀後半から二十世紀一杯をかけて世界の紛争地域化が押し進められた。小説「大菩薩峠」に戻ると、お銀の態度は明らかにこの時期、ダブルバインド状況の只中に叩き込まれた一人の女性の典型例のひとつである。

「お銀様はその時、たった一人で土蔵の中でお経を写しておりました。針で自分の肉体を刺して、その血で丹念に一字一字」(中里介山「大菩薩峠6・禹門三級の巻・P.389」時代小説文庫)

ロシアではマゾッホがこう書いていた。

「ドラゴミラは薔薇の小枝を折り取ると、鋭い刺で白い腕を引っ掻いた。それで腕に赤い筋がつき、暖かい血がぽたりと地面に落ちた。『何をするんだ』、とツェジムは言った。『こうすると気持ちがいいのです』」(マゾッホ「魂を漁る女・第一部・2・P.25」中公文庫)

ニーチェはいう。

「残忍とは《他人の》苦悩を眺める際に生じるものだとのみ教えなければならなかった以前の愚鈍な心理学を追い払わなければならない。自分自身の苦悩、自分自らを苦しめるということにも夥(おびただ)しい、有り余るほどの享楽があるのだ。ーーー人間は密(ひそ)かに自己の残忍さによって誘われているのであり、《自己自身に対して》向けられた残忍のあの危険な戦慄によって突き進められている」(ニーチェ「善悪の彼岸・二二九・P.212~213」岩波文庫)

まさしくその通りのことが、今度は世界中で繰り広げられていた。

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