愛欲の焔を消滅させるため義理の長男を殺害しようとしたところ、誤って実の子を死なせてしまった後妻の裁判。法廷に出廷した医師が証言する。或る日、ある家の奴隷がやってきて劇薬を調合して売ってほしいと頼まれたと。
「つい先日私のところにやってきて、即効性のある劇薬を作ってくれと熱心に頼み、その謝礼として百枚の金貨を差し出した」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.395」岩波文庫)
ここで「即効性のある劇薬」=「百枚の金貨」という等価性が成立している。
「お前さんのくれた金貨の中に、万一、贋金(にせがね)や悪質の貨幣が混って見つかると困るので、一応これらのお金を皮袋に入れとくから、それにお前さんの指輪で判を捺(お)してくれ、そうすれば明日、両替屋が来たとき、検証してもらえる」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.396」岩波文庫)
医師はいう。劇薬調合に用いた薬草は実は「曼荼羅花」(まんだらげ)だと。なのでいったん麻酔にかかって死んだように見えるけれども、数時間もすれば元に戻るはずだ。埋めたばかりの棺桶をもう一度開けてみてはどうかと促す。どよめきながら一同は指輪の判を照合するよう素早く動く。
曼荼羅花。今でいう「チョウセンアサガオ」、「ダチュラ」、「エンジェルズ・トランペット」のこと。繁殖力旺盛で古代から日本中ほとんどどこにでも自生していた。上を向いて開く大輪の白い花で有名。開花の季節を過ぎて実になると刺が生え、その中を開いてみるとたくさんの種が詰まっている。種や根の部分は特に毒性が強いとされるが葉や茎、花、芽などにも毒性の成分は含まれているので取り扱いには注意が必要とされる。ちなみに日本では華岡青洲とその妻の名とともに馴染深い。江戸時代。一八〇四年(文化一年)。華岡青洲は世界で初めて全身麻酔を用いた手術(乳癌摘出)に成功。その主成分は「ヒヨスチアミン」、「スコポラミン」、などチョウセンアサガオから抽出したもの。
チョウセンアサガオの実も、その細い刺を陰毛に見立てると男性器そっくりである。「『摩羅考』について」で南方熊楠は、男性器を指す「摩羅(まら)」の文字をめぐって、それが文献に登場してくる当初の時期と、さらに年代を経て平安後期以降に編纂された文献に出てくる摩羅の意味の横滑りを浮き彫りにさせている。
まず古代「記紀」の時代。この頃の記述では、神性を帯びた「鍛人(かぬち)、鍛部(かぬち)」=「鍛冶職人」に摩羅(まら)の字が当てられている。
「常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)を集めて鳴かしめて、天(あめ)の安(やす)の河(かわ)の河上(かはかみ)の天(あめ)の堅石(かたしは)を取り、天の金山(かなやま)の鐵(まがね)を取りて、鍛人(かぬち)天津麻羅(あまつまら)を求(ま)ぎて」(「古事記・上つ巻・天の石屋戸・P.36」岩波文庫)
「倭鍛部(やまとのかぬち)天津真浦(まら)をして真麛(まかご)の鏃(やさき)を造らしめ」(「日本書紀1・巻第四・綏靖天皇即位前紀・P.248」岩波文庫」)
しかし同じ摩羅(まら)ではあっても次に登場するのは、「源氏物語」成立以降約五十年後に編纂された「本朝文粋」やさらにその六十年以降から編纂が始まる「今昔物語」からである。熊楠にしてみればあえて書いて説明するほどのことではなく当然の歴史的背景として、平安末期から鎌倉時代にかけて見られる軍事的勢力の台頭がある。
例えば、本朝文粋「鉄槌伝」の著者「羅泰」の「羅」(ら)は次のように、登場人物に関する事柄、「磨裸」(まら)、「摩良」(まら)、から取られたとする。
「鉄槌字藺笠、袴下毛中人也。一名磨裸」(新日本古典文学体系「本朝文粋・巻第十二・鉄槌伝・前雁門太守羅泰撰・P.338」岩波書店)
「論曰、鉄子、木強能剛、老而不死。屈而更長、巳施陰徳。誠号摩良」(新日本古典文学体系「本朝文粋・巻第十二・鉄槌伝・前雁門太守羅泰撰・P.338」岩波書店)
作者が自分自身の名の中にわざわざ摩羅を取り入れるようになったのはなぜだろう。平安末期はすでに古代の神話時代ではない。今昔物語では古く古代中国に関するエピソードの中で摩羅の字に「まら」とルビを打って読ませている。
「仏此(こ)レヲ哀(あはれ)テ、昼ハ鳩摩羅焔(くまらえん)、仏ヲ負ヒ奉リ、夜ハ仏、鳩摩羅焔ヲ負(おひ)給テ行キ給フ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第五・P.18」岩波書店)
「其ノ男子、漸(ようや)ク勢長(せいちゃう)ジテ、名ヲバ、鳩摩羅什(くまらじふ)ト云(いふ)」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第五・P.20」岩波書店)
熊楠が上げている本朝文粋は康平年間(一〇五八年~一〇六五年)に成立した。その間、一〇六二年(康平五年)、ようやく「前九年の役」(奥州十二年合戦)が終結。東北地方の土着の有力豪族・安倍氏と京都朝廷との戦争で安倍氏が滅亡する。安倍頼時の側は、源頼義・義家親子と清原氏ら連合軍によって駆逐された。しかし当時の東北の勢力図を考えると、いとも容易に朝廷軍が必ず勝利するというほど単純なものではけっしてない。今昔物語では源頼義に脅された安倍頼時の側が船で北海道へ渡り、「胡人」に遭遇する場面や、北海道の大地を行けども行けどもどうなっているのかさっぱり理解できず、今でいう鬱状態に陥って空しく東北へ返ってきた後、しばらくして死んだという記事が見られる。
「怪シク地ノ響ク様(やう)ニ思(おぼ)エケレバ、船ノ人皆、『何(いか)ナル人ノ有ルニカ有ラム』ト怖シク思(おぼ)エテ、葦原ノ遥(はるか)ニ高キニ船ヲ差隠(さしかく)シテ、響ク様(やう)ニ為(す)ル方(かた)ヲ葦ノ迫(はさま)ヨリ見ケレバ、胡国(ここく)ノ人ヲ絵ニ書タル姿シタル物ノ様(やう)ニ、赤キ物ニテ頭(かしら)ヲ結(ゆひ)タル一騎、打出(うちいづ)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三一・第十一・P.463」岩波書店)
この場面で登場する「胡人」がどの民族に相当するのか確実なところはわからない。が、当時は中国から北方に居住する異民族を一般的に「胡人」(こじん)と総称している。「赤キ物ニテ頭(かしら)ヲ結(ゆひ)タル一騎」とあるように、中国由来の絵から得た知識をもとにして、衣装の特徴が記録されているのがわかる。どこをどう移動しているのかわからないまま、結局、安倍頼時一行は地元の東北へ戻ることにする。この巻では源頼義軍と安倍氏との戦闘シーンはまったく出てこない。
「然(さ)テ、船ノ者共、頼時ヨリ始メテ、云合(いひあは)セテ、『極(いみじ)ク此(か)く上ルトモ、量(はかり)モ無キ所ニコソ有ケレ。亦、然(しか)ラム程ニ自然(おのづか)ラ事ニ値(あひ)ナバ、極(きはめ)テ益(やく)無シ。然レバ、食物(くひもの)ノ不尽(つき)ヌ前(さき)ニ、去来(いざ)返(かへり)ナム』ト云テ、其(そこ)ヨリ差下(さしくだり)テ、海ヲ渡テ本国(ほんごく)ニ返ニケル。其ノ後、幾(いくばく)ノ程モ不経(へず)シテ、頼時ハ死(し)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三一・第十一・P.463」岩波書店)
有力豪族といっても安倍氏はもはや朝廷に帰順している。しかし東北地方では最大勢力だった。戦争が長引いた理由の一つは安倍氏側の軍事力が意外に強力だったこと。もう一つは源頼義・義家率いる朝廷軍が、安倍氏以外に東北で大勢力を誇っていた清原氏と連合軍を成立させてようやく安倍氏を滅亡させるまで、思いのほか時間がかかっったことを意味しているように思われる。とはいえ、源頼義・義家は京都朝廷軍の最前線で勝利することはした。にしても、源頼義・義家軍が始めから圧倒していたわけではないのだ。
安倍氏滅亡から百年以上経た頃、「梁塵秘抄」を編纂した後白河院はこのような歌を取り上げている。「八幡太郎」は源頼義の息子義家のこと。
「鷲(わし)の棲(す)む深山(みやま)には なべての鳥は棲むものか 同じき源氏と申せども 八幡太郎(はちまんたろう)は恐ろしや」(「梁塵秘抄・巻第二・四四四・P.184」新潮日本古典集成)
後白河院の政治的振る舞いは広く知られているように、一方で源氏を褒め讃えておいて、もう一方で院政の権威において懐柔するという方法である。自ら編纂した梁塵秘抄の中で取り上げ、芸能民らに各方面で歌わせて廻るという伝達様式。それはただ単に芸能・音曲の政治利用というより、芸能・音曲の庇護者が権力者であればあるほど芸能・音曲というものはますます濃厚な政治色を帯びるからだ。二十世紀になってなお、ナチスのドイツがベートーベンとヴァーグナーとを精一杯政治利用したのは、そもそも音楽が政治的なものだからである。ニーチェに言わせれば音楽は人間の情動に働きかけ、人間の情動を揺さぶり動かす、ということになる。例えば、今なお行進曲(マーチ)とは何だろうかという問いかけがあることを忘れてはならない。ニーチェが示唆するように、国家と音楽・行進曲(マーチ)との粗雑な関係にはただならぬ危険性がひそんでいる。
白河院もまた、源義家を怖れつつ重用したことが「宇治拾遺物語」に見える。寝ていると物の気にうなされる日々が続いた。そこで源義家を指名して物の気に対抗できるような武具を持ってきてはくれまいかと頼む。源義家があつらえた武具一式を寝室に置いてからは物の気にうなされることがなくなった、というエピソード。
「白河院、御とのごもりてのち、物におそはれさせ給(たまひ)ける。『しかるべき武具(ぶぐ)を、御枕のうへにおくべし』。とさてありて、義家(ぎか)朝臣(あそん)にめされければ、まゆみのくろぬりなるを一張まゐらせたりけるを、御枕にたてられてのち、おそはれさせおはしまさざりければ、御ありて」(「宇治拾遺物語・巻第四・十四・P.125」角川文庫)
しかし「檀(まゆみ)の黒塗りの弓」というのは特に珍しいものではない。普通にあった。さらに睡眠中に物の気(もののけ・鬼)にうなされるというパターンは平安時代前半の漢和辞典ですでに成句化しているのが見られる。「眼(眠)中見㒵(鬼)、於曾波留(ヲソハル)」『新撰字鏡』。それが三百年後の宇治拾遺物語に「御とのごもりてのち、物におそはれさせ」となって出てくる。源義家の神格化が加速する。またこのエピソードを見ると、天皇あるいは法皇・院に直属し、天皇あるいは法皇・院を警護しつつ、常に天皇あるいは法皇・院の動きに目を光らせ監視する軍事的勢力が独立してきた点に注目する必要性があるだろう。院が源義家に始まる警護役を採用したのと、院の動向を監視する源氏という形式が出来上がりつつあった。
さらに宇治拾遺物語と同じ頃に成立した「平治物語」の中で、源義家が生け捕りにした千人の者の首を斬り、さらにその鬚をも同時に斬り払ったという怪異な太刀=鬚切(ひげきり)のエピソードが登場する。
「鬚切(ひげきり)といふ重代(ぢうだい)の太刀(たち)」(新日本古典文学体系「平治物語・中・頼朝生け捕らるる事」『保元物語/平治物語/承久記・P.238』岩波書店)
注釈にこうある。
「他諸本に『八幡殿の生取千人の首をうち、ひげながら切てンげれば、鬚切とはなづけたり』(金本)」(新日本古典文学体系「平治物語・中・頼朝生け捕らるる事」『保元物語/平治物語/承久記・P.239』岩波書店)
千人という数が本当かどうかは知らないが、首だけでなく、なぜ首を斬りつつ鬚も斬る、なのか。むしろ摩羅(まら)として考えたほうが自然ではないだろうか。男性器でいえばペニスだけでなく睾丸も、と考えるなら、ごく自然に同時に斬り落とすことができる。あるいは首と男性器(髭)と、という意味かもしれない。源義家(八幡太郎=はちまんたろう)の弟義光(神羅三郎=しんらさぶろう)は今の滋賀県大津市にある神羅(しんら)善神堂で元服式を上げている。三井寺所属のこの施設は大津市役所の裏手の警察学校のそのまた裏手にあり、さらにそこから少し登ると源義光(神羅三郎)の墓がある。墓は古墳ではなく日本式の墓石でもなく朝鮮様式の塚(つか)である。江戸時代に入ってからもずっと天皇に会うために朝鮮半島からやってくる朝鮮通信使を迎える手配(各地域から動員すべき人員とその役職の移動など)をすべて差配していたのは三井寺だった。
また、源義家(八幡太郎)・源義光(神羅三郎)の活躍が目立ってきた当時の朝鮮には、中国と同じ「宮」(きゅう)という刑罰があった。男性器の陰茎も睾丸も陰嚢も切断する。死刑に次ぐ重罰である。「髭切」はこの「宮」と千人斬りとを表象しているのかもしれない。女性の刑罰にも宮があったようだが、陰部閉柵手術だとする見解とそうではなく永久幽閉あるいは家系存続不可能とするための永久追放とする見解などがある。
ちなみに戦後日本の皇室の側も古代以来続く朝鮮諸王朝の儀礼を重じており、昭和天皇の死に伴って行われた一九八九年(平成一年)「大喪の礼」は、歴史家が見ればわかるように、古朝鮮時代の葬礼儀式に則ったまるで瓜二つの朝鮮様式が採用されていた。
そしてまた室町時代末期(戦国期)から江戸時代初期に成立した「舞の本」では源義家経由の宝刀「髭切」(ひげきり)と「蜘蛛切」(くもきり・ちちゅうぎり)について完璧なまでに神格化されている。「髭切(ひげきり)に官(くわん)をなる」、「鬼切(をにきり)に官途(くわんど)なる」、というのは刀そのものに官位を与えたという意味。
「二振(ふり)の太刀(たち)、多田(ただ)の満仲(まんぢう)の御手に渡(わた)る。小鍛冶(こかぢ)が打(う)つたる太刀(たち)にて、咎(とが)有者(もの)を召(め)し寄(よ)せ、首(くび)を切て見給へば、あまりに早(はや)く首(くび)が切(き)れ、髭(ひげ)をかけて切(き)れければ、髭切(ひげきり)に官(くわん)をなる。舞房(まうふさ)が打(う)つたる太刀にて、咎(とが)ある者(もの)を召(め)し寄(よ)せ、首(くび)を切(き)つて見給へば、あまりに早(はや)く首(くび)が切(き)れ、膝(ひざ)をかけて切(き)れければ、膝切(ひざきり)と官途(くわんど)なる。その後(のち)、彼(かの)二降(ふり)の太刀、頼光(よりみつ)の御手に渡る。少鍛冶(こかぢ)が打たる髭切(ひげきり)にて、鬼(をに)の手を切(き)りければ、鬼切(をにきり)に官途(くわんど)なる。舞房(まうふさ)が打(う)つたる膝切(ひざきり)にて、変化(へんげ)の蜘蛛(くも)を切(き)りければ、蜘蛛切(ちちうぎり)に官途(かんど)なる。其後(そののち)、二振(ふり)の太刀(たち)、八幡殿の御手に渡(わた)る。それよりも、為義(ためよし)の御手に渡(わた)りけり」(新日本古典文学体系「剣讃嘆」『舞の本・P.515』岩波書店)
古代には神聖なものとして呼ばれた摩羅(まら)の文字が、平安末期から鎌倉初期にかけて、刀剣へと姿形を置き換える。それは平安末期に台頭する源氏と皇室との固い結びつきによって、神聖な武具としてのみ置いておくばかりなのではなく、実際に人間を斬り殺すために用いられつつ三種の神器の一角を占めるように変わっていく。そして熊楠がわざわざ「本朝文粋」や「平家物語」の名を上げて時代背景を重視しつつ「摩羅(まら)」について考察しているのはただ単なる偶然でもなんでもない。怒張しつつそそり立つ摩羅(まら)、怪異な伝説を帯びた刀剣の授与、女性器の呼び名の曖昧な歴史性と比較して余りにも堅固な形式的絶対性を持つ男性の軍事組織化。武士階級が社会を動かし逆に皇室が「印璽」(いんじ・はんこ)へと転倒する時期。熊楠がそれを見逃したと考えるのはもはや笑止だろう。「本朝文粋」や「平家物語」あるいは「今昔物語」が描かれて日本の政治が転倒している思想的断層のありかが熊楠には見えていたのだ。
BGM1
BGM2
BGM3
「つい先日私のところにやってきて、即効性のある劇薬を作ってくれと熱心に頼み、その謝礼として百枚の金貨を差し出した」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.395」岩波文庫)
ここで「即効性のある劇薬」=「百枚の金貨」という等価性が成立している。
「お前さんのくれた金貨の中に、万一、贋金(にせがね)や悪質の貨幣が混って見つかると困るので、一応これらのお金を皮袋に入れとくから、それにお前さんの指輪で判を捺(お)してくれ、そうすれば明日、両替屋が来たとき、検証してもらえる」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.396」岩波文庫)
医師はいう。劇薬調合に用いた薬草は実は「曼荼羅花」(まんだらげ)だと。なのでいったん麻酔にかかって死んだように見えるけれども、数時間もすれば元に戻るはずだ。埋めたばかりの棺桶をもう一度開けてみてはどうかと促す。どよめきながら一同は指輪の判を照合するよう素早く動く。
曼荼羅花。今でいう「チョウセンアサガオ」、「ダチュラ」、「エンジェルズ・トランペット」のこと。繁殖力旺盛で古代から日本中ほとんどどこにでも自生していた。上を向いて開く大輪の白い花で有名。開花の季節を過ぎて実になると刺が生え、その中を開いてみるとたくさんの種が詰まっている。種や根の部分は特に毒性が強いとされるが葉や茎、花、芽などにも毒性の成分は含まれているので取り扱いには注意が必要とされる。ちなみに日本では華岡青洲とその妻の名とともに馴染深い。江戸時代。一八〇四年(文化一年)。華岡青洲は世界で初めて全身麻酔を用いた手術(乳癌摘出)に成功。その主成分は「ヒヨスチアミン」、「スコポラミン」、などチョウセンアサガオから抽出したもの。
チョウセンアサガオの実も、その細い刺を陰毛に見立てると男性器そっくりである。「『摩羅考』について」で南方熊楠は、男性器を指す「摩羅(まら)」の文字をめぐって、それが文献に登場してくる当初の時期と、さらに年代を経て平安後期以降に編纂された文献に出てくる摩羅の意味の横滑りを浮き彫りにさせている。
まず古代「記紀」の時代。この頃の記述では、神性を帯びた「鍛人(かぬち)、鍛部(かぬち)」=「鍛冶職人」に摩羅(まら)の字が当てられている。
「常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)を集めて鳴かしめて、天(あめ)の安(やす)の河(かわ)の河上(かはかみ)の天(あめ)の堅石(かたしは)を取り、天の金山(かなやま)の鐵(まがね)を取りて、鍛人(かぬち)天津麻羅(あまつまら)を求(ま)ぎて」(「古事記・上つ巻・天の石屋戸・P.36」岩波文庫)
「倭鍛部(やまとのかぬち)天津真浦(まら)をして真麛(まかご)の鏃(やさき)を造らしめ」(「日本書紀1・巻第四・綏靖天皇即位前紀・P.248」岩波文庫」)
しかし同じ摩羅(まら)ではあっても次に登場するのは、「源氏物語」成立以降約五十年後に編纂された「本朝文粋」やさらにその六十年以降から編纂が始まる「今昔物語」からである。熊楠にしてみればあえて書いて説明するほどのことではなく当然の歴史的背景として、平安末期から鎌倉時代にかけて見られる軍事的勢力の台頭がある。
例えば、本朝文粋「鉄槌伝」の著者「羅泰」の「羅」(ら)は次のように、登場人物に関する事柄、「磨裸」(まら)、「摩良」(まら)、から取られたとする。
「鉄槌字藺笠、袴下毛中人也。一名磨裸」(新日本古典文学体系「本朝文粋・巻第十二・鉄槌伝・前雁門太守羅泰撰・P.338」岩波書店)
「論曰、鉄子、木強能剛、老而不死。屈而更長、巳施陰徳。誠号摩良」(新日本古典文学体系「本朝文粋・巻第十二・鉄槌伝・前雁門太守羅泰撰・P.338」岩波書店)
作者が自分自身の名の中にわざわざ摩羅を取り入れるようになったのはなぜだろう。平安末期はすでに古代の神話時代ではない。今昔物語では古く古代中国に関するエピソードの中で摩羅の字に「まら」とルビを打って読ませている。
「仏此(こ)レヲ哀(あはれ)テ、昼ハ鳩摩羅焔(くまらえん)、仏ヲ負ヒ奉リ、夜ハ仏、鳩摩羅焔ヲ負(おひ)給テ行キ給フ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第五・P.18」岩波書店)
「其ノ男子、漸(ようや)ク勢長(せいちゃう)ジテ、名ヲバ、鳩摩羅什(くまらじふ)ト云(いふ)」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第五・P.20」岩波書店)
熊楠が上げている本朝文粋は康平年間(一〇五八年~一〇六五年)に成立した。その間、一〇六二年(康平五年)、ようやく「前九年の役」(奥州十二年合戦)が終結。東北地方の土着の有力豪族・安倍氏と京都朝廷との戦争で安倍氏が滅亡する。安倍頼時の側は、源頼義・義家親子と清原氏ら連合軍によって駆逐された。しかし当時の東北の勢力図を考えると、いとも容易に朝廷軍が必ず勝利するというほど単純なものではけっしてない。今昔物語では源頼義に脅された安倍頼時の側が船で北海道へ渡り、「胡人」に遭遇する場面や、北海道の大地を行けども行けどもどうなっているのかさっぱり理解できず、今でいう鬱状態に陥って空しく東北へ返ってきた後、しばらくして死んだという記事が見られる。
「怪シク地ノ響ク様(やう)ニ思(おぼ)エケレバ、船ノ人皆、『何(いか)ナル人ノ有ルニカ有ラム』ト怖シク思(おぼ)エテ、葦原ノ遥(はるか)ニ高キニ船ヲ差隠(さしかく)シテ、響ク様(やう)ニ為(す)ル方(かた)ヲ葦ノ迫(はさま)ヨリ見ケレバ、胡国(ここく)ノ人ヲ絵ニ書タル姿シタル物ノ様(やう)ニ、赤キ物ニテ頭(かしら)ヲ結(ゆひ)タル一騎、打出(うちいづ)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三一・第十一・P.463」岩波書店)
この場面で登場する「胡人」がどの民族に相当するのか確実なところはわからない。が、当時は中国から北方に居住する異民族を一般的に「胡人」(こじん)と総称している。「赤キ物ニテ頭(かしら)ヲ結(ゆひ)タル一騎」とあるように、中国由来の絵から得た知識をもとにして、衣装の特徴が記録されているのがわかる。どこをどう移動しているのかわからないまま、結局、安倍頼時一行は地元の東北へ戻ることにする。この巻では源頼義軍と安倍氏との戦闘シーンはまったく出てこない。
「然(さ)テ、船ノ者共、頼時ヨリ始メテ、云合(いひあは)セテ、『極(いみじ)ク此(か)く上ルトモ、量(はかり)モ無キ所ニコソ有ケレ。亦、然(しか)ラム程ニ自然(おのづか)ラ事ニ値(あひ)ナバ、極(きはめ)テ益(やく)無シ。然レバ、食物(くひもの)ノ不尽(つき)ヌ前(さき)ニ、去来(いざ)返(かへり)ナム』ト云テ、其(そこ)ヨリ差下(さしくだり)テ、海ヲ渡テ本国(ほんごく)ニ返ニケル。其ノ後、幾(いくばく)ノ程モ不経(へず)シテ、頼時ハ死(し)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三一・第十一・P.463」岩波書店)
有力豪族といっても安倍氏はもはや朝廷に帰順している。しかし東北地方では最大勢力だった。戦争が長引いた理由の一つは安倍氏側の軍事力が意外に強力だったこと。もう一つは源頼義・義家率いる朝廷軍が、安倍氏以外に東北で大勢力を誇っていた清原氏と連合軍を成立させてようやく安倍氏を滅亡させるまで、思いのほか時間がかかっったことを意味しているように思われる。とはいえ、源頼義・義家は京都朝廷軍の最前線で勝利することはした。にしても、源頼義・義家軍が始めから圧倒していたわけではないのだ。
安倍氏滅亡から百年以上経た頃、「梁塵秘抄」を編纂した後白河院はこのような歌を取り上げている。「八幡太郎」は源頼義の息子義家のこと。
「鷲(わし)の棲(す)む深山(みやま)には なべての鳥は棲むものか 同じき源氏と申せども 八幡太郎(はちまんたろう)は恐ろしや」(「梁塵秘抄・巻第二・四四四・P.184」新潮日本古典集成)
後白河院の政治的振る舞いは広く知られているように、一方で源氏を褒め讃えておいて、もう一方で院政の権威において懐柔するという方法である。自ら編纂した梁塵秘抄の中で取り上げ、芸能民らに各方面で歌わせて廻るという伝達様式。それはただ単に芸能・音曲の政治利用というより、芸能・音曲の庇護者が権力者であればあるほど芸能・音曲というものはますます濃厚な政治色を帯びるからだ。二十世紀になってなお、ナチスのドイツがベートーベンとヴァーグナーとを精一杯政治利用したのは、そもそも音楽が政治的なものだからである。ニーチェに言わせれば音楽は人間の情動に働きかけ、人間の情動を揺さぶり動かす、ということになる。例えば、今なお行進曲(マーチ)とは何だろうかという問いかけがあることを忘れてはならない。ニーチェが示唆するように、国家と音楽・行進曲(マーチ)との粗雑な関係にはただならぬ危険性がひそんでいる。
白河院もまた、源義家を怖れつつ重用したことが「宇治拾遺物語」に見える。寝ていると物の気にうなされる日々が続いた。そこで源義家を指名して物の気に対抗できるような武具を持ってきてはくれまいかと頼む。源義家があつらえた武具一式を寝室に置いてからは物の気にうなされることがなくなった、というエピソード。
「白河院、御とのごもりてのち、物におそはれさせ給(たまひ)ける。『しかるべき武具(ぶぐ)を、御枕のうへにおくべし』。とさてありて、義家(ぎか)朝臣(あそん)にめされければ、まゆみのくろぬりなるを一張まゐらせたりけるを、御枕にたてられてのち、おそはれさせおはしまさざりければ、御ありて」(「宇治拾遺物語・巻第四・十四・P.125」角川文庫)
しかし「檀(まゆみ)の黒塗りの弓」というのは特に珍しいものではない。普通にあった。さらに睡眠中に物の気(もののけ・鬼)にうなされるというパターンは平安時代前半の漢和辞典ですでに成句化しているのが見られる。「眼(眠)中見㒵(鬼)、於曾波留(ヲソハル)」『新撰字鏡』。それが三百年後の宇治拾遺物語に「御とのごもりてのち、物におそはれさせ」となって出てくる。源義家の神格化が加速する。またこのエピソードを見ると、天皇あるいは法皇・院に直属し、天皇あるいは法皇・院を警護しつつ、常に天皇あるいは法皇・院の動きに目を光らせ監視する軍事的勢力が独立してきた点に注目する必要性があるだろう。院が源義家に始まる警護役を採用したのと、院の動向を監視する源氏という形式が出来上がりつつあった。
さらに宇治拾遺物語と同じ頃に成立した「平治物語」の中で、源義家が生け捕りにした千人の者の首を斬り、さらにその鬚をも同時に斬り払ったという怪異な太刀=鬚切(ひげきり)のエピソードが登場する。
「鬚切(ひげきり)といふ重代(ぢうだい)の太刀(たち)」(新日本古典文学体系「平治物語・中・頼朝生け捕らるる事」『保元物語/平治物語/承久記・P.238』岩波書店)
注釈にこうある。
「他諸本に『八幡殿の生取千人の首をうち、ひげながら切てンげれば、鬚切とはなづけたり』(金本)」(新日本古典文学体系「平治物語・中・頼朝生け捕らるる事」『保元物語/平治物語/承久記・P.239』岩波書店)
千人という数が本当かどうかは知らないが、首だけでなく、なぜ首を斬りつつ鬚も斬る、なのか。むしろ摩羅(まら)として考えたほうが自然ではないだろうか。男性器でいえばペニスだけでなく睾丸も、と考えるなら、ごく自然に同時に斬り落とすことができる。あるいは首と男性器(髭)と、という意味かもしれない。源義家(八幡太郎=はちまんたろう)の弟義光(神羅三郎=しんらさぶろう)は今の滋賀県大津市にある神羅(しんら)善神堂で元服式を上げている。三井寺所属のこの施設は大津市役所の裏手の警察学校のそのまた裏手にあり、さらにそこから少し登ると源義光(神羅三郎)の墓がある。墓は古墳ではなく日本式の墓石でもなく朝鮮様式の塚(つか)である。江戸時代に入ってからもずっと天皇に会うために朝鮮半島からやってくる朝鮮通信使を迎える手配(各地域から動員すべき人員とその役職の移動など)をすべて差配していたのは三井寺だった。
また、源義家(八幡太郎)・源義光(神羅三郎)の活躍が目立ってきた当時の朝鮮には、中国と同じ「宮」(きゅう)という刑罰があった。男性器の陰茎も睾丸も陰嚢も切断する。死刑に次ぐ重罰である。「髭切」はこの「宮」と千人斬りとを表象しているのかもしれない。女性の刑罰にも宮があったようだが、陰部閉柵手術だとする見解とそうではなく永久幽閉あるいは家系存続不可能とするための永久追放とする見解などがある。
ちなみに戦後日本の皇室の側も古代以来続く朝鮮諸王朝の儀礼を重じており、昭和天皇の死に伴って行われた一九八九年(平成一年)「大喪の礼」は、歴史家が見ればわかるように、古朝鮮時代の葬礼儀式に則ったまるで瓜二つの朝鮮様式が採用されていた。
そしてまた室町時代末期(戦国期)から江戸時代初期に成立した「舞の本」では源義家経由の宝刀「髭切」(ひげきり)と「蜘蛛切」(くもきり・ちちゅうぎり)について完璧なまでに神格化されている。「髭切(ひげきり)に官(くわん)をなる」、「鬼切(をにきり)に官途(くわんど)なる」、というのは刀そのものに官位を与えたという意味。
「二振(ふり)の太刀(たち)、多田(ただ)の満仲(まんぢう)の御手に渡(わた)る。小鍛冶(こかぢ)が打(う)つたる太刀(たち)にて、咎(とが)有者(もの)を召(め)し寄(よ)せ、首(くび)を切て見給へば、あまりに早(はや)く首(くび)が切(き)れ、髭(ひげ)をかけて切(き)れければ、髭切(ひげきり)に官(くわん)をなる。舞房(まうふさ)が打(う)つたる太刀にて、咎(とが)ある者(もの)を召(め)し寄(よ)せ、首(くび)を切(き)つて見給へば、あまりに早(はや)く首(くび)が切(き)れ、膝(ひざ)をかけて切(き)れければ、膝切(ひざきり)と官途(くわんど)なる。その後(のち)、彼(かの)二降(ふり)の太刀、頼光(よりみつ)の御手に渡る。少鍛冶(こかぢ)が打たる髭切(ひげきり)にて、鬼(をに)の手を切(き)りければ、鬼切(をにきり)に官途(くわんど)なる。舞房(まうふさ)が打(う)つたる膝切(ひざきり)にて、変化(へんげ)の蜘蛛(くも)を切(き)りければ、蜘蛛切(ちちうぎり)に官途(かんど)なる。其後(そののち)、二振(ふり)の太刀(たち)、八幡殿の御手に渡(わた)る。それよりも、為義(ためよし)の御手に渡(わた)りけり」(新日本古典文学体系「剣讃嘆」『舞の本・P.515』岩波書店)
古代には神聖なものとして呼ばれた摩羅(まら)の文字が、平安末期から鎌倉初期にかけて、刀剣へと姿形を置き換える。それは平安末期に台頭する源氏と皇室との固い結びつきによって、神聖な武具としてのみ置いておくばかりなのではなく、実際に人間を斬り殺すために用いられつつ三種の神器の一角を占めるように変わっていく。そして熊楠がわざわざ「本朝文粋」や「平家物語」の名を上げて時代背景を重視しつつ「摩羅(まら)」について考察しているのはただ単なる偶然でもなんでもない。怒張しつつそそり立つ摩羅(まら)、怪異な伝説を帯びた刀剣の授与、女性器の呼び名の曖昧な歴史性と比較して余りにも堅固な形式的絶対性を持つ男性の軍事組織化。武士階級が社会を動かし逆に皇室が「印璽」(いんじ・はんこ)へと転倒する時期。熊楠がそれを見逃したと考えるのはもはや笑止だろう。「本朝文粋」や「平家物語」あるいは「今昔物語」が描かれて日本の政治が転倒している思想的断層のありかが熊楠には見えていたのだ。
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