南方熊楠の生と性に関する考え方は、例えば一言で「同性愛」といっても、ただ単なる「男色」と「男道」とを区別して考えた点で特筆すべきものがある。
「浄愛(男道)と不浄愛(男色)とは別のものに御座候。小生は浄愛のことを述べたる邦書(小説)はただ一つを知りおり候。これは五倫五常中の友道に外ならざるゆえ、別段五倫五常と引き離して説くほどの必要なければなり(もし友道というものが今日ごとくただ坐なりの交際をし、知り合いとなり、自他の利益をよい加減に融通するというようなことならば、それは他の四倫と比肩すべきものにあらず。徳川秀忠が若きとき、どこまでも変わるまじき契約をしたるを重んじて、関ヶ原役後沈淪したる丹羽長重を復封せしめ、直江兼続が最後まで上杉景勝に忠を竭(つく)したるごとき、今日のごときつきあい、奉公ぶりというほどのことには決して無之と存じ候)」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.316』河出文庫)
このように「浄愛(男道)と不浄愛(男色)とは別」だと論じるに至ったきっかけは、幼なじみだった羽山兄弟がいずれも夭折したことに始まっている。
「東上して六十余日奔走し、十二月の初めに横浜解纜の北京市(シチー・オヴ・ペキン)という当時の大船で三十日目めにサンフランシスコに着し、いろいろの有為転変をへて、在外十四年と何ヶ月ののち英国より帰朝して見れば、双親すでに下世し、幼かりしものは人の父となり、親しかりしものは行衛知れぬものも多く、件の羽山家の長男は一度は快気して大阪医学校(今の大阪帝大医学部の前身)に優等で入学せしが、一年ほどしてまた肺を病み、帰村して一、二年して死亡、次男は小生と別れしとき十六歳なりしが、二十六歳まで存生、東大の医科大学第二年まで最優等でおし通し、もとより無類の美男の気前よしゆえ、女どもの方も最優等で、はなはだ人の気受け宜しかりしが、これまた病み付いて日清戦争終わりてまもなく死亡」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.329』河出文庫)
外国留学中も今は亡き両親のことと同じかあるいはそれ以上に羽山兄弟の回想につきまとわれている。
「外国にあった日も熊野におった夜も、かの死に失せたる二人のことを片時も忘れず、自分の亡父母とこの二人の姿が昼も夜も身を離れず見える。言語を発せざれど、いわゆる以心伝心でいろいろのことを暗示す。その通りの処へ行って見ると、大抵その通りの珍物を発見す。それを頼みに五、六年幽邃極まる山谷の間に僑居せり。これはいわゆる潜在識が四境のさびしきままに自在に活動して、あるいは逆光せる文字となり、あるいは物象を現じなどして、思いもうけぬ発見をなす」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.331』河出文庫)
潜在意識とその働きについてすでに論じている。今のような科学的過程に沿ったものではない。にもかかわらず人間はなぜ眠っているときの脳の働きによって新しい発見へ至りつくのかということを潜在意識の運動に求められると述べている。さらに夢の光景について、なぜ夢は「逆光せる文字となり、あるいは物象を現じ」るのか。フロイトは夢の光景について、言語でいえば、副詞を脱落させているためにそうなるということを突き止めたが、熊楠が言っていることも同じことである。それはマルクスのいう一種の象形文字なのだ。
「あとになって、人間は象形文字の意味を解いて彼ら自身の社会的な産物の秘密を探りだそうとする。なぜならば、使用対象の価値としての規定は、言語と同じように、人間の社会的な産物だからである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)
男道という同志愛。それは単に女性の代わりとしての少年愛とは似て非なるものだ。熊楠はいう。
「八文字屋本の一つに、ある少年姿容心立て鶏群に超逸し、いろいろと言い騒がるるを迷惑して、行い正しき若い侍を尋ね、何とぞ兄分となり、この難儀より拯(すく)いたまえといいしに、一旦は謝絶せしが、よくよく迷惑の体を見るに忍びず承諾した上は、その少年に指一つささせず、ある時何かの場で言い出づるものありしに、われに毛頭邪念なしとて茶碗を噛み砕きし、それを見てこの人の言うところ至誠なりとて一同恐れ入ったというようなことありし。故馬場辰猪氏の話とて亡友に聞きしは、土佐では古ギリシアのある国々におけると一般、少年その盛りに向かうときは父兄や母がしかるべき武士を見立てて、かの方の保護を頼みに行きし、それを引き受けた侍の性分如何によって、その少年は実に安心なものなりしという。和歌山というは武士道の男道のということなく、たまたまあったら、それは邪婬一点よりのことなりしが、武道男道の盛んな所では大概馬場氏がいわれし通りなりし由。ハラムが、中世騎士道盛んなりしとき、貴婦専念に口を借りて実は淫行多かりしといいしは然ることながら、終始みなまで姦行の口実のみだったら、そんな騎士道は世間を乱すもので一年もつづくものにあらず。予は今年は妻と何夜同臥したなどいうものなけれど、すでに子女を儲けた上は、夫妻しばしば同寝せしは知れておる。その通り年長の少年を頼まれて身命をかけて世話をやくぐらいのことは、武道(古ギリシアでは文道においても)の盛んなりし世には、夫妻同臥同様尋常普偏のことと思う。これを浄の男道と申すなり。それを凡俗の人は別と致し、いやしくも読書して理義を解せるの人が一概にことごとく悪事穢行と罵り、不潔とか穢行とか非倫とかいうは、一半を解して他半を解せざるものというべき」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.346~347』河出文庫)
古代ギリシアではテーバイの「神聖隊」という騎士団があった。アイスキュロスは悲劇の中で、使者に「この町の選り抜きの一番の強者(つわもの)」と言わせている。男性同性愛者百五十組、総勢三〇〇人とされている。
「使者 七人の大将が各々おのれの隊をひきいて攻めるべき城門をきめるために、籤を引いているのをのを後にして来た。それゆえこの町の選り抜きの一番の強者(つわもの)を急ぎ城門の口にさし向けられませ。はや近間に物の具に身を固めたアルゴスの軍勢が攻め寄せ、土煙は立ち上り、原(はら)は喘ぐ馬のはく白い泡に染っている。さあ、すぐれた船の舵取りのように、いくさの嵐が襲いかからぬうちに、町をお固めなされませ。はや群勢の浪が陸(おか)の上に哮(ほ)え立てております」(アイスキュロス「テーバイ攻めの七将」『ギリシア悲劇1・P.336~337』ちくま文庫)
日本の鎌倉から戦国末期にかけての武士団の行動原理にも見られる。とりわけ「茶の湯」の密室において、濃密極まりない男色と男道との息詰まる心的時間(カイロス)に占拠されたシーンが続々出現する。当時「茶の湯」は男道に磨きをかける修験道にも似た絶好の小宇宙を形成していた。それは古代ギリシアのテーバイ神聖隊に匹敵する一つの生き方の見本だった。
「道三を誅せんとし、事成らずば、それより父も子も道三に国を逐い出されたり(一説に太郎法師は道三に弑せらるとありしと記憶候)。また織田信忠は秀吉を念者とし、特に懇意なり。叔母お市の方(浅井長政の寡婦、淀君の母)、浅井滅後後家住居せしを、信忠世話して秀吉の妻とせんとせしうち、信忠、光秀に弑せら、信孝の世話にてお市の方柴田の後妻となれり。これより柴田・羽柴の戦い始まれりとなす。やや後にも近衛信尋公(実は後陽成天皇の第四子)は、若姿ことに艶にましましければ、福島正則、伊達政宗、藤堂高虎等、毎々茶湯等に托して行き通いしという。近時の考えよりは不思儀なことのようなれども、右の襄成君や鄂君子皙のこと、またこの近衛公のことなどは、専一に後庭を覘うてつめかけしこととも思われず」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.319』河出文庫)
だから岩田準一宛書簡でもこう語っている。
「貴下は性欲上の男色のことを説きたる書のみを読みて、古ギリシア、ペルシア、アラビア、支那、また本邦の心霊上の友道のことはあまり知らぬらしく察せられ候。しかるときは、ただただつまらぬ新聞雑報などに気をもみ心を労して何の休んずるところなく、まことに卑穢賎陋な脳髄の持ち主となりて煩死さるべし。何とぞ今少し心を清浄にもち、古ギリシアの哲学書などに就き、精究とまでなくとも一斑でも窺われんことを望み上げ候」(南方熊楠「直江兼続と上杉景勝、大若衆のこと、その他」『浄のセクソロジー・P.366~367』河出文庫)
プラトン「饗宴」で美少年アルキビアデスはソクラテスと何度も「力技」(すもう)=「同性愛的性行為」に耽ったことを堂々と述べている。
「こうして僕は、諸君、この人とたった二人きりになった。そこで僕は、この人が直ぐに、愛者がその愛人と差し向いの時に語るように、僕と語り出すだろうと思った、そうして喜んだのだった。ところがそんな事はまるっきり起らなかった。むしろ反対に、彼はただ例の通りに僕と語り、そして僕と一日を過ごしてから帰って行ったのである。その後僕は一緒に力技をしようといって誘って見た、それから二人で力技をやった、今度こそは何か効果がありそうなものと思って。こんなにして彼が誰もいない所で僕と一緒に力技をやって取っ組んだことも度々だった」(プラトン「饗宴・P.139」岩波文庫)
さらにアルキビアデスはソクラテスの言葉について「毒蛇」に喩えてこう語る。ここには男性しかいない。熊楠がよく観察するよう勧めているのはこのような場面でいつも追求されている、男性にのみ限られた熱狂的「愛」についてである。
「毒蛇に咬まれた者の苦境はすなわち私の現状でもある。実際、人のいうところによると、こういう経験を嘗めた者は、自ら咬まれたことのある者以外には誰にも、それがどんなだったかを話して聴かせることを好まぬものだという、それは、苦悩のあまりにどんな法外な事を為(し)たりいったりしても、こういう人達にかぎって、それを理解もしまた寛容もしてくれるだろうーーーと、こう人は考えるからである。ところが《僕》はそれよりもさらにいっそう烈しい苦痛を与える者に咬まれた、しかも咬まれて一番痛い個所をーーー心臓か魂を、または何とでも適当に呼べばいいのだがーーー愛智上(フィロソフィア)の談論に打たれまた咬まれたのだった。その談論というのは若年でかつ凡庸でない魂を捉えたが最後、毒蛇よりも凶暴に噛み付いて離さず、かつこれにどんな法外な事でも為(し)たりいったりさせるほどの力を持っているのである。さらにまた見渡すところ今僕の前には、ファイドロスだとか、アガトンだとか、エリュキシマコスだとか、パウサニヤスだとか、アリストデモスだとか、アリストファネスだとか(ソクラテスその人は別に挙げるにも及ぶまい)、またその他の諸君がおられるのだが、この諸君は実際みな愛智者の乱心(マニア)と狂熱(バクヘイヤ)に参している人達である」(プラトン「饗宴・P.140~141」岩波文庫)
次の文章は岩田準一との書簡の中で語られた箇所。ちなみにこの直前、岩田準一は江戸川乱歩の依頼で「男色考」の連載を受けた。岩田はそれに当たって熊楠と羽山兄弟との間の幼なじみ時代からの友愛関係(先に上げた)を読み直し痛く感銘を受けたと述べている。熊楠にすればようやくわかってきてくれたか、という手応えを得たに違いない。
「足利時代の小説『岩清水物語』に、自分より五歳上の女を犯し(この女のち皇后となる)、自分に妻子ある常陸介が時の関白かなにかの世子に愛幸さるることあり。その時代にまるでなきことを書いたところが一向読まれぬはずなれば、そんなものが多かりしと存じ候。その男を愛幸したる人の詞に、この男を愛染明王のごとしとほめあり。愛染明王は古ギリシアの愛神エロスに相当する神にて、もとは男色を司れり。彫工の名人にして、自分丹誠を凝らして彫り上げたるエロス神像を座右におき、自分の配偶同然にながめ愛して終わりしものなり。ただし、愛染明王はエロスよりは至って勇猛の姿なり。左様の神に比べたところをみると、足利時代の愛童は王としてゆゆしきを尚びしことと知らる。(足利ごろの日記に、チゴ喝食にして人を殺せしもの少なからず。後代、寛文・天和ごろの男伊達に大若衆多きごとし)」(南方熊楠「直江兼続と上杉景勝、大若衆のこと、その他」『浄のセクソロジー・P.371』河出文庫)
さらに「冥土の若衆」讃歌というべきエピソード。
「細川政元のとき薬師寺(与一とかいいし)という武士、切腹するときの詠に、『冥土にはよき若衆のありければ思ひたちけり死出の旅路に』。死にぎわまで、抽象的に若衆を念ぜしなり。古ギリシアなどに例多きが、日本にこんな例はあまり見ず(文献に見ざるなり。実際は多々ありしことと存じ候)」(南方熊楠「直江兼続と上杉景勝、大若衆のこと、その他」『浄のセクソロジー・P.378』河出文庫)
死に際に同性の同士ばかりに看取られるシーンはプラトンでも有名。
「君たちは、僕が死ねば、僕は誓ってここに留まらずに、立ち去って行くだろう、と保証してくれたまえ。そうすれば、クリトンはより容易に耐えるだろうし、僕の体が焼かれたり土の中に埋められたりするのを見て、僕が恐ろしい目にあっているのだと思って、僕のために嘆いたりはしないだろう。また、葬式のときに、ソクラテスを安置するとか、ソクラテスの葬列に従うとか、ソクラテスを埋葬するとか、言うことはないだろう。いいかね、善きクリトンよ、言葉を正しく使わないということはそれ自体として誤謬であるばかりではなくて、魂になにか害悪を及ぼすのだ。さあ、元気を出すのだ。そして、僕の体を埋葬するのだ、と言いたまえ。そして、君の好きなように、君がもっとも世間の習わしに合うと考えるように、埋葬してくれたまえ」(プラトン「パイドン・終曲・P.170~171」岩波文庫)
草履取(ぞうりとり)から天下取りへ。という壮大な資料ではないが、近代以前の日本では草履取の殉死や草履取への相続という事例が山ほどあった。
「『一話一言』に引きたる杉山検校の『大閤素生記』とかいうものに、秀次公自殺のとき草履取松若殉死、微者の身分ゆえ名が山田、不破ほどに伝わらぬは残念、とあり。『嬉遊笑覧』付録に、堺の僧死するとき金三百両を草履取にのこせしことあり」(南方熊楠「直江兼続と上杉景勝、大若衆のこと、その他」『浄のセクソロジー・P.382』河出文庫)
また明治近代合作以降、長く被差別的に扱われてきた呼び名に「カゲマ」がある。しかし「影間野郎」の起こりはあたかもジュネの小説群を思わせるような荒々しさに満ちた同志愛的なものだ。
「影間野郎とは、もと薩摩に野郎組というものあり、ことのほか荒々しき者どもにて、もっぱら男色を行ないしが、影間野郎ごとき優柔なものならず、ややもすれば争闘を事としたるらしく候。延宝三年に成りし『談林十百韻』に、一座をもれて伽羅の香ぞする(松臼)、酒盛はともあれ野郎の袖枕(一朝)、思い乱るるその薩摩ぶし(雪柴)。これは薩摩野郎を吟じたるものらしく候。大坂役起こりし前年、薩摩の野郎組が城士どもと大争闘をなせしこと、『明良洪範』等に出でたり」(南方熊楠「カゲロウとカゲマ、御座直し、『弘法大師一巻之書』、その他」『浄のセクソロジー・P.408』河出文庫)
パウサニヤスはいう。
「いったいそれ自体において美しいとか醜いとかいうものがある訳ではなく、むしろ美しい仕方で為されたことが美しく、醜い仕方で為されたことが醜いのである」(プラトン「饗宴・P.67」岩波文庫)
だから「影間野郎」に恥じることがなければそれはそれでありのままの姿で「美しい」のだ。次のエピソードは南九州から紀州に戻ってくる。
「細井品弥という人が、むかしの大若衆の面影ある人なりし。そのころ小生為永の『以呂波文庫』を読みしに、瀬田主水(義士瀬田又之丞の父)に返り討ちにあいし沼田金弥という少年十五歳のとき、津和野入平(つわのいりへい)、太藺品増(ふといしなぞう)ーーーこの二名は通和散に近き理由に基づきし虚構ーーーなる二士に恋われ、二士これがために決闘するところへ走り行き和睦せしめ、みずから進んで二士に交(か)わる交(が)わるほらせ、三人兄弟となる。金病の父子細あって旅行の途上主水に討たれ、仇を探るため金弥は旅に出で立つ。二士もその助太刀に出でしが、三十五年たつも仇を見あて得ず。赤穂在へ来たり主水方へとまる。夜談に右の履歴のぶると、主水、先年金弥が遊女の姦計に落ちて難儀するところを救い、つれ帰りて食客とせしに、下女の口より主水の本名を知って、金弥、主水を夜討ちにゆき返り討ちにあいし由を語る。それより翌日、二士が主水を敵として勝負し、また主水に討たれし談あり。品蔵の《品》と金弥の《弥》を併せて品弥となるを妙なこととして今に記憶しおれり。品弥氏は小生よりは二歳ばかり年上の人なりし。そのころ芝に攻玉塾というあり、塾長近藤真琴とかいいしも志摩の人なりし。その塾に薩摩・肥前の者多く、小生と同じく神田共立学校に在塾せし河野通彦なるもの遊びにゆきしに、芋を馳走しょうか少年を馳走しょうかと問うゆえ、少年をと望みしに、一人の幼年生を拉(とら)え来たり、蒲団をかぶせ交(か)わる交(か)わる犯して帰りし、とほこりおりたり。ほむべきことにあらねど、今日の軟弱なる気風とは径庭の差(ちが)いあることに御座候」(南方熊楠「カゲロウとカゲマ、御座直し、『弘法大師一巻之書』、その他」『浄のセクソロジー・P.397~398』河出文庫)
為永春水親子が始めた「以呂波文庫」は明治維新をまたいで出版されており、今でいう講談本の先駆け的存在。だから作り話が多いかといえば必ずしもそうではない。むしろ当局の検閲を受けて公的な取り締りの対象になってしまうことを回避するためにあえて滑稽でありながらも実をいうと本当の話を組み込んだ。南九州一帯で制度化された「兵児二才」(へこにせ・へこにさい)について、中沢新一は次のように簡略にまとめている。
「(1)兵児山(へこやま)。これは六、七歳から十四歳の八月までの、幼い少年のグループで、二才入り前の、いわば予備軍的な幼年団。
(2)兵児二才。『兵児』の制度の、これが中核である。十四歳の八月から二十歳の八月までの、人生でもっとも華麗な時期の青少年が、ここに含まれる。
(3)中老(ちゅうろう)。これは『兵児』の組織の監視役で、二十歳の八月から三十歳までの大人の男性である。兵児二才のいわばOBであり、兵児山や兵児二才よりも、自由な活動が許されていて、妻帯することもできたが、それでも兵児二才時代からの自己鍛錬の生活を続けておこなおうとする大人たちが、これをつとめていた」(中沢新一「解題」/南方熊楠『浄のセクソロジー・P.40~41』河出文庫)
中心になるのは思春期から二十歳の青年であり、言うまでもなくこの時期の男子に注目しなくてはならない。そしてまた、なぜ南九州なのか。あるいは先に上げたように紀州なのか。というのはアジアの場合、このような風習は、八重山群島、台湾、メラネシア、と太平洋を取り巻く黒潮の流れに沿って広がりを見せているからである。次の文章に「二才」とあるが、事実としての二歳児のことではもちろんなく、いま述べたような「兵児二才」(へこにさい)という意味での「二才」である。
「そもそも衆道というは、その古え弘法大師、文周(殊なり)に契をこめしより初まりしぞかし。衆生というは、双方より思い初めて親しみ深く、兄弟の約をなせしこと他の書にも見えたり。そのむかし弘法大師の初め給うことなれば、古今共に異朝は言うに及ばずわが朝守流行ないしことぞかし。弘法大師一首の歌にいわく、恋といふその源を尋ねればばりくそ穴の二つなるべし。衆道根本を深く尋ぬるに、三穴楽極たり。たまたま人と生まれ来て衆道の極意を知らざるはまことに口惜しきことかな。われ数年心掛くるといえども、その道を明らめず。ここに薩陽鹿児府の満尾貞友という人あり、大乗院大師堂に十七日参籠して祈り誓いていわく、それ弘法大師は日本衆道の極意を極めたまえりと、一日に三度水にかかり不浄を清め祈りしに、七日に当たる夜、弘法大師若僧の形に現われたまい、汝よくも心掛くるものかな、たまたま人間と生まれて衆道の極意を知らぬはまことに口惜しきことかな、この世に人間の生を受けしかいもなし、山野に住みし猿さえも恋の心は知るぞかし、汝ここに参籠せしこと感ずるに余りあり、汝に一巻の書を授くれば以後他見するなかれ、と言いてかきけすごとに失せ給う。この書知友のほか他見すまじきものなり。児様御手取り様のこと。一、児の人指より小指まで四つ取るは、数ならねどもそなたのことのみ明け暮れ案じくらすという心なり。一、その時児二歳の大指を一つ残してみな取るは、数ならぬ私へ御執心辱く存じ奉り御志のほど承らんという心なり。一、児の人指、中指二つとるは、御咄申し上げたしという心なり。一、その時児扇の上に妻を返し申すは、御咄承らんという心なり。一、児二才の人指を取るは今晩、中指を取れば明晩、弁指取るは重ねて叶え申すべしという心なり。一、その時児二才の中指、弁指二つ取るは、人目を忍び、御咄幾度も叶え申すべしという心なり。一、児の弁指、小指取るは、御咄申し上げたきことあれどもあまりに人目多きゆえ明晩も参るべしという心なり。一、支(ささ)わりあるときは二才の弁指をとるなり。一、児の人指、小指二つ取るは明日の晩も参るべしという心なり。一、児二才の袂をひくは、必ず御咄に御出でなされという心なり」(南方熊楠「カゲロウとカゲマ、御座直し、『弘法大師一巻之書』、その他」『浄のセクソロジー・P.421~422』河出文庫)
熊楠が問題にしているのは弘法大師空海が高野山で開いた真言宗の教義一般ではなく、伝教大師最澄が比叡山で開いた天台宗の教義一般でもない。日本の仏教法話集「沙石集」に次の項がある。
「故笠置ノ解脱上人、如法(の)律儀(りつぎ)興隆志(こうりゅうこころざし)シ深(ふか)クシテ、六人ノ器量ノ仁(じん)ヲ撰(えらび)テ、持斎シ律学セサシム」(日本古典文学体系「沙石集・巻三・五・P.154」岩波書店)
解脱上人は左少弁藤原貞憲の子、貞慶のこと。一一五五年(久寿二年)出生。二十年以上に渡り興福寺で教鞭を取った。その後、京都府相楽郡笠置寺に移りさらに海住山寺で生涯を終えた。この話は笠置寺にいた頃のこと。仏教の教えといっても十一世紀にもなると全国各地で荒れた風潮が蔓延していた。ただ単に授業だけは済ませたという「名ばかり受戒(じゅかい)」という形式が幅を利かせており、どの新任僧侶も頭はほとんど空っぽと言っていい。ともかく笠置寺の規律を立て直そうと寺の中から六人の優等生を選んで夏安吾のあいだ仏法に取り組ませる。ところが夏安居が終わるや寺院の風習はすぐ元の堕落しきった様相に戻ってしまう。さらに何と、始めに選抜した優等生六人の中に、最も悪質かつ知恵者がいた。
「彼六人ノ中ニ、名モ承リシカドモ、忘レ侍リ。持斎モ破(やぶ)レテ、僧房ニ同宿(どうしゅく)兒共(ちごども)アマタ置(おき)テ昔ノ義スタレハテ、兒ニクハセムトテ、サウ河ト云フ河ニテ、魚(うを)ヲトラセテ、我身(わがみ)ハヒタヒツキノ内ニ居テ下知(げち)シ、弟子ノ僧火タキテ、前ノスビツニテ、生(いき)たる魚ヲニルニ、鍋(なべ)ノ湯ノアツクナルママニ、魚スビツニヲドリ出ヅ。愛弟(あいてい)ノ兒(ちご)コレヲ取(とり)テ手水桶(ちょうづおけ)ノ水ニススギテ鍋ニ入(いる)」(日本古典文学体系「沙石集・巻三・五・P.154」岩波書店)
要するに稚児遊びの常連である。さらにのっけから殺生戒を破って魚を稚児に料理させばくばく食っている。それは犯戒ではないかと問い糺すと、なるほどそうかもしれないが、具足戒の中では軽微な罪に過ぎず懺悔すれば許されるし、第一、食糧難の時代、こうでもしないと修行どころか生きてさえいけないとの返事。
ところで若き日の解脱上人は京都府八幡市の男山八幡へ参詣する夢を見たことがあった。花咲き乱れる天上世界が男山の頂上に広がっている。生まれ変われば是非とも男山八幡に勤めたいものだという内容。花咲き乱れた満開の池の中からこの世のものとも思われない泉が湧き出ている。いかにも女性器の隠喩である。しかもその名は男山。解脱上人は今でこそ上人だが、若さ溢れる十代の頃は破戒・男色に走らずしてどうすれば身を持することができたのか。不可解だと熊楠でなくても考えたに違いない。しかし熊楠が問うているのは、当時の宗教界ではどこにでもあるありふれたエピソードに過ぎない「男色」ではなく、あくまで「男道」という厳格な態度である。男道にとって男色行為が先行するのではなく男色行為は逆に付随的なものだ。あってもなくても構わない。
「仲算が仙童を慕いしこと。これは恋慕といえば恋慕に相違なきも、それに脳(または心)より来たると、生殖器(支那で申さば腎)より来るとに分かつ。甲は愛情、乙は淫念とも申すべきものなり。仲算のは甲ゆえ、普通の恋慕とちがい、景仰とか欽慕とかいうべきものに候。当世、日本ではこの二つを混ずるゆえ、はなはだ乱雑致すなり。『品花宝鑑』など支那の書には、この二つをなかなかよくかき分けあり。この仲算はなかなかの学僧にて、安和年中、宮中で天台・法相の大宗論ありしとき、叡山の良源大僧正は、『法華』方便品の『若有聞法者無一不成仏』の句を、もし法を聞くことあらん者は一として成仏せざることなしと訓じたるを、仲算は法相の意として、もし法を聞く者ありとも無の一は成仏せずと解きたるは有名な談で、それほどの哲人が恋慕云々とはうけられず。西哲プラトーンが、美少年の美を天下の最美と仰ぎ、美少年の介抱で死にたしなど老後に言いしというようなことと存じ候。プラトーンの聖哲会に神女ジオチマ現われて美を説く。その美というは只今いうごとき女の美では少しもなく、一に美少年の美に候。こんなことを心得ずして、やれ審美学の純美観のといきまくは、辻芝居のみ見て誰が上手の下手のと声高に芸の巧拙を論ずるようなものに候」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.453』河出文庫)
巫女であり預言者であったディオティマに触れている。ディオティマは美についてこう言っている。
「もし人がこれら地上のものから出発して少年愛の正しい道を通って上昇しつつ、あの美を観じ始めたならば、彼はもうほとんど最後の目的に手が届いたといってもよい」(プラトン「饗宴・P.125~126」岩波文庫)
ダンテ「神曲」で地獄と天国のあいだに当たる煉獄こそがディオティマのいう「少年愛の正しい道」である。またメノンは、ソクラテスのことをシビレエイに喩えている。ソクラテスは男道において同性メノンを痺れさせ官能の極地に陥れる毒性を持っていると。
「ソクラテス、お会いする前から、かねがね聞いてはいましたーーーあなたという方は何がなんでも、みずから困難に行きづまっては、ほかの人々も行きづまらせずにはいない人だと。げんにそのとおり、どうやらあなたはいま、私に魔法をかけ、魔薬を用い、まさに呪文(じゅもん)でもかけるようにして、あげくのはてに、行きづまりで途方にくれさせてしまったようです。もし冗談めいたことをしも言わせていただけるなら、あなたという人は、顔かたちその他、どこから見てもまったく、海にいるあの平べったいシビレエイにそっくりのような気がしますね。なぜなら、あのシビレエイも、近づいて触れる者を誰でもしびれさせるのですが、あなたがいま私に対してしたことも、何かそれと同じようなことのように思われるからです。なにしろ私は、心も口も文字どおりしびれてしまって、何をあなたに答えてよいのやら、さっぱりわからないのですから」(プラトン「メノン・P.42~43」岩波文庫)
兵児二才は少年あるいは青年である。大人とは言えない。山伏や山岳信仰集団などの強靭な男性集団の中では子供でもなく大人でもない両性具有的特性があり、独特の位置決定不可能性が少年を神に近い存在に仕立て上げてしまう。だからトーテミズムにおける犠牲獣にも似た神聖な役割を果たす。位置決定不可能な存在(少年)が死んだ時、その少年の死は、今度は逆に位置決定を強化する境界石へと転化する。
「『谷行』(たにこう)という謡曲あり、御存知ならん。少年が峰入りの山伏一行に加わり、登る途中で病めば、必ず生きながらこれを谷に陥し、上より土石をなげて埋め了るという厳法ありしなり。このごとく、得度以前に夭折した少年は決して寺域内に埋めず、域外の地に埋め、ただ石をすえおくというような規律あって、その石が児石と存じ候(回々教には今も碑石を立てず。ただ、石をすえおくなり)」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.463』河出文庫)
熊楠は「思いざし」について述べている。説明するのは難しいが、そこに現われる情動の力はエピソードから汲み取ることができるだろう。
「『思いざし』ということは薩摩にも美童にも限ることにあらず。もっとも有名な思いざしは、例の『曾我物語』巻六に、和田の一党大勢の酒宴に、大磯の長者の宅で虎を召せども出で来たらず。よって虎とともにその情夫祐成を招請す。その座にて『始めたる土器虎が前にぞ置きたりける、取り上げけるを今一度と強いられて受けて待ちけるが、義盛これを見て、いかに御前、その盃何方へも思し召さん方へ《思い差し》したまえ、これぞ誠の心ならん、とありければ、七分に受けたる盃に千々に心を使いけり。和田に差したらんは時の賞玩異議なし。されども祐成の心の内恥ずかし。流れを立つる身なればとて、睦びし人を打ちおきながら座敷に出づるは本意ならず。ましてやこの盃義盛にさしなば、さらにめでたりと思いたまわんも口おし。祐成にさすならば座敷に事起こりなん。かくあるべしと知るならば、初めより出でもせで、内にていかなも成るべきを、再び物思う悲しさよ。よしよしこれも前世のこと、思わざることあらば、和田の前下りにさしたまう刀こそ、妾が物よ、ささゆる体にもてなし奪い取り、一刀(ひとかたな)さし、とにもかくにもと思い定めて、義盛一目(ひとめ)、祐成一目、心を使い案じけり。和田はわれにならではと思うところにさはなくて、許させたまえ、さりとては思いの方を、と打ち笑い、十郎にこそさされけれ。一座の人々目を見合わせ、これはいかにとみるところに、祐成、盃を取り上げて、某(それがし)賜わらんこそ狼藉ににたり、これをば御前に、という。義盛聞きて、志の横取り無骨なり、いかでかさるべき、はやはや、と色代なり。さのみ辞すべきにあらず、十郎盃取り上げ三度ぞ酌む。義盛居丈高になり、年ほどに物うきことはなし、義盛が齢二十だにも若くば御前には背かれじ、たとい一旦嫌わるるともかようの《思い差し》よそへは渡さじ、南無阿弥陀仏、と高声なりければ、ことのほか苦々しくぞ見えにける。九十三騎の人々も、義秀の方をみやりて事や出で来なんと色めきたる体さしあらわれたり。十郎もとより騒がぬ男にて、何程のことかあるべき、事出で来なば何十人もあれ義盛と引っ組んで勝負をせんずるまでと思い切り、嘲笑(あざわら)いてぞいたりける』。このころ曾我にありし五郎時致、しきりに胸騒ぎ、何か兄祐成の身の上に急変起これるならんと推して、裸馬にのり駆け付くる。それより義秀(義盛の三男)と大力のくさずり引きあって座敷に入り大盃を傾け、兄と虎とをまとめて曾我へ帰る。小生等幼きとき、諸神社仏閣にこのときの体を額に画きて揚げありし」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.465~466』河出文庫)
しかしいつも問題になるのは性行為が絡むとき、「受け身」の立場が発生しないわけにはいかないという実際の状況である。一九八〇年代後半の未熟な女子学生フェミニストの中には、男女の性行為においていつも女性の側は受け身にならざるを得ないので、女性の受動性とそれに伴う屈辱について男子学生はもっと理解を持つべきだとする女子学生はときどきいた。LGBTら多様な意見・感情を無視した男根主義的フェミニズムとも言うべき「男女ペア〔ロゴス〕中心主義」イデオロギーである。しかしそのちょうど同じ時期にフーコーは、受動的に振る舞わざるを得ない立場の人々についてこう述べている。
「一般的な指摘にもとづいて、われわれは、ある厳密な規範を、しかも社会的分野における地位(そこには《第一級の人々》と他の人々、支配する有力者と服従する人々、主人と下僕、能動の役割と受動の役割、成人男性が行ない相手が受け入れる挿入、が含まれる)とのあいだの、ギリシャ人にはきわめてなじみ深い類比にもとづくかもしれぬ、ある厳密な規範を想像しなければならないだろうか?相手に屈服するなとか、他の人々が勝れるままにしておくなとか、こちらが形勢不利になると思われる劣った立場を承諾するな、などと言うことは、多分、性の実践を排除すること、もしくはそれを行なわぬよう勧めることであろう、というのは、その場合の性の実践は若者には屈辱的であろうし、その実践によって若者は自分が劣等の立場に置かれているのを見出すにちがいないからである。しかし、名誉と《優越感》の保持という原則はーーーいくつもの明確な規定をこえてーーー一種の一般様式を拠り所にしているように思われる。すなわち(とりわけ世論の見るところでは)若者たるものは《受動的に》ふるまってはならず、なされるまま、言われるがままでいてはならず、戦わずして屈してはならず、先方の男の黙認する相手役をつとめてはならず、その男の気ままを満足させてはならず、自分の体を、それを欲しいと思う誰にでも、しかも望みのやり方で、柔弱さのせいで、あるいは逸楽趣味や私利私欲から、先方に差し出してはならない、というわけであった。それこそは、誰の求愛をも受入れて、平然と自分の乱行を見せつけ、人から人へ渡っていき、最も有利な相手にすべてを許す、そうした若者たちの不名誉である。それこそはエピクラテスが行なっていず、将来も行なわないことである、彼はあのとおりよく気をくばるからであり、自分にかんする世論や、自分がつかねばならない地位や、もつことになるかもしれぬ交際関係に、気をくばっているからである」(フーコー「快楽の活用・第四章・P.267~268」新潮社)
無知が犯罪になるという点では「男女ペア〔ロゴス〕中心主義」イデオロギーを声高に叫んでいた当時の女子学生らもそうだ。フーコーが性について「最も思弁的かつ最も観念的で、最も内面的ですらある要素」だと論じていたちょうどそのとき、日本の大学の真ん中で「男女ペア〔ロゴス〕中心主義」イデオロギーを基礎に置いた場合にのみ論じることが可能な「男根〔中心〕主義的フェミニズム」の虜(とりこ)になっている女子学生がいた。ごく一部の、小さなセクト的空間の中でだけ通用する「中心」にこだわって離れない稚拙な論理を学内に持ち込み、学園祭実行委員会も新入生勧誘活動も是が非でも「中心、中心、中心ーーー」と連呼していた女子学生。他大学の学園祭で中心になって精力的に動く男子学生のことを馬鹿馬鹿しいほど持ち上げて宣伝していた男根ロゴス〔中心〕主義的フェミニズム女子学生。そのような女性にとって中沢新一の言葉は、根のところでは今なお生理的に受け入れがたいかも知れない。年長の不動産業者の跡取り坊ちゃんの外連味(けれんみ=はったり)に夢中になって踏みにじられた腹いせ(ルサンチマン=復讐感情、劣等感)をばねにして運動しているような態度では頭から無理な話なのだ。
「セクシャリティは多様で、多形的な形態に変化を実現できる、ひとつの生成的な現象なのだ。そうなれば、ヘルマフロディーテをひとつの核として、男が女に変化したり、女が男に変わっていったり、男と男、女と女の同性愛が、洗練された恋愛関係を生み出していったりする、可塑的な性の世界を、私たちは考えてみる必要があるはずだ」(中沢新一「解題」/南方熊楠『浄のセクソロジー・P.54』河出文庫)
なお、熊楠が提出した「神社合祀反対意見書」。「森の思想」は、天皇とはまた違い、制度としての「天皇制」とのあいだに深い溝があることを遥かに雄弁に語っている。近代日本で制度としての「国民」は始めからあったわけではなく、神社統合によって歴史上始めて「日本国民」というものが出現したという論点は重要だろう。縄文時代から考えれば、ほんのつい最近の産物である。さらに日本語の使用について。中上健次から引いておかねばならない。
「この伊勢で居た間中、私が考えつづけ、自分がまるで写真機のフィルムでもあるかのように感光しようと思ったのは、日本的自然の粋でもある神道と天皇の事だった。いや、ここでは、乱暴に言葉を使って、右翼と言ってみる。伊勢市にはいり、模造花をたくさんつけて走り廻るバスやタレ幕のことごとくが神社に関する事ばかりだったのを見て、私は突飛な発想かも知れぬが、この日本の小説家のすべての根は、右翼の感情にもとづいていると思ったのだった。現実政治や団体としての『右翼』ではなく、そのまま何の手も加えないなら文化の統(すめ)らぎであるという天皇に収斂(しゅうれん)されてしまう感性の事である。唯心とでも言い直そうか。車で走り廻り、市役所横の喫茶店に入って、その右翼(唯心)を考えた。三島由紀夫と言えばわかり易すぎる。武田泰淳、生きている敬愛する作家を思いつくと、深沢七郎。『風流夢潭』を書く深沢氏に一種幻視としての右翼を見るというのは、私が偏向しすぎているかもしれないが、たとえばここで検証するいとまもなしに言うと、屁(へ)のように生まれ屁のように死ぬ人物らは、この天皇というものがある故に『屁のように』という形容が成り立つのではないだろうか。そしていまひとつ、ここに、差別、被差別という回路をつないでみる。あるいは被差別は差別者を差別する、というテーゼをつなげてみる。ということは私が言う右翼の感性は、日本的自然の粋である天皇こそが差別者であり同時に被差別者だということを知った者の言葉の働きである。いやここでは、私は自分を右翼的感性の持ち主である、と思ったと言えば済む事かもしれない。私と三島由紀夫との違いは、言葉にして『天皇』と言わぬことである。あるいは深沢七郎との違いは、『風流夢潭』を書かぬことである。『天皇』と一言言えば、この詞(ことのは)の国の小説家である私の矛盾の一切もまた消えるはずである。私の使う言葉は出所来歴が定かになる」(中上健次「紀州~木の国・根の国物語・伊勢・P.187~188」角川文庫)
いかにも、「屁(へ)のよう」な、ところがもはや、「屁(へ)のよう」な人々は様々な容態を与えられ、結局のところ散り散りばらばらの八つ裂きにされた。一部はまんまと利権集団化した。そして今や「屁(へ)のよう」でさえない、日本の「政治家=財界人=高級官僚」が逆に天皇の威光をよそへ押しやったのをいいことに何か考えているらしい。八つ裂きにされたディオニュソスはどうなるのか。
「寸断されたディオニュソスは生の《約束》である。それは永遠に再生し、破壊から立ち帰ってくるであろう」(ニーチェ「権力への意志・下巻・一〇五二・P528」ちくま学芸文庫)
とすれば、一体どのようにしてか。ニーチェのいうように、かくも過酷な自己鍛錬と徹底的対等性との上で始めて成り立つ《友愛》という実在。
BGM
「浄愛(男道)と不浄愛(男色)とは別のものに御座候。小生は浄愛のことを述べたる邦書(小説)はただ一つを知りおり候。これは五倫五常中の友道に外ならざるゆえ、別段五倫五常と引き離して説くほどの必要なければなり(もし友道というものが今日ごとくただ坐なりの交際をし、知り合いとなり、自他の利益をよい加減に融通するというようなことならば、それは他の四倫と比肩すべきものにあらず。徳川秀忠が若きとき、どこまでも変わるまじき契約をしたるを重んじて、関ヶ原役後沈淪したる丹羽長重を復封せしめ、直江兼続が最後まで上杉景勝に忠を竭(つく)したるごとき、今日のごときつきあい、奉公ぶりというほどのことには決して無之と存じ候)」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.316』河出文庫)
このように「浄愛(男道)と不浄愛(男色)とは別」だと論じるに至ったきっかけは、幼なじみだった羽山兄弟がいずれも夭折したことに始まっている。
「東上して六十余日奔走し、十二月の初めに横浜解纜の北京市(シチー・オヴ・ペキン)という当時の大船で三十日目めにサンフランシスコに着し、いろいろの有為転変をへて、在外十四年と何ヶ月ののち英国より帰朝して見れば、双親すでに下世し、幼かりしものは人の父となり、親しかりしものは行衛知れぬものも多く、件の羽山家の長男は一度は快気して大阪医学校(今の大阪帝大医学部の前身)に優等で入学せしが、一年ほどしてまた肺を病み、帰村して一、二年して死亡、次男は小生と別れしとき十六歳なりしが、二十六歳まで存生、東大の医科大学第二年まで最優等でおし通し、もとより無類の美男の気前よしゆえ、女どもの方も最優等で、はなはだ人の気受け宜しかりしが、これまた病み付いて日清戦争終わりてまもなく死亡」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.329』河出文庫)
外国留学中も今は亡き両親のことと同じかあるいはそれ以上に羽山兄弟の回想につきまとわれている。
「外国にあった日も熊野におった夜も、かの死に失せたる二人のことを片時も忘れず、自分の亡父母とこの二人の姿が昼も夜も身を離れず見える。言語を発せざれど、いわゆる以心伝心でいろいろのことを暗示す。その通りの処へ行って見ると、大抵その通りの珍物を発見す。それを頼みに五、六年幽邃極まる山谷の間に僑居せり。これはいわゆる潜在識が四境のさびしきままに自在に活動して、あるいは逆光せる文字となり、あるいは物象を現じなどして、思いもうけぬ発見をなす」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.331』河出文庫)
潜在意識とその働きについてすでに論じている。今のような科学的過程に沿ったものではない。にもかかわらず人間はなぜ眠っているときの脳の働きによって新しい発見へ至りつくのかということを潜在意識の運動に求められると述べている。さらに夢の光景について、なぜ夢は「逆光せる文字となり、あるいは物象を現じ」るのか。フロイトは夢の光景について、言語でいえば、副詞を脱落させているためにそうなるということを突き止めたが、熊楠が言っていることも同じことである。それはマルクスのいう一種の象形文字なのだ。
「あとになって、人間は象形文字の意味を解いて彼ら自身の社会的な産物の秘密を探りだそうとする。なぜならば、使用対象の価値としての規定は、言語と同じように、人間の社会的な産物だからである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)
男道という同志愛。それは単に女性の代わりとしての少年愛とは似て非なるものだ。熊楠はいう。
「八文字屋本の一つに、ある少年姿容心立て鶏群に超逸し、いろいろと言い騒がるるを迷惑して、行い正しき若い侍を尋ね、何とぞ兄分となり、この難儀より拯(すく)いたまえといいしに、一旦は謝絶せしが、よくよく迷惑の体を見るに忍びず承諾した上は、その少年に指一つささせず、ある時何かの場で言い出づるものありしに、われに毛頭邪念なしとて茶碗を噛み砕きし、それを見てこの人の言うところ至誠なりとて一同恐れ入ったというようなことありし。故馬場辰猪氏の話とて亡友に聞きしは、土佐では古ギリシアのある国々におけると一般、少年その盛りに向かうときは父兄や母がしかるべき武士を見立てて、かの方の保護を頼みに行きし、それを引き受けた侍の性分如何によって、その少年は実に安心なものなりしという。和歌山というは武士道の男道のということなく、たまたまあったら、それは邪婬一点よりのことなりしが、武道男道の盛んな所では大概馬場氏がいわれし通りなりし由。ハラムが、中世騎士道盛んなりしとき、貴婦専念に口を借りて実は淫行多かりしといいしは然ることながら、終始みなまで姦行の口実のみだったら、そんな騎士道は世間を乱すもので一年もつづくものにあらず。予は今年は妻と何夜同臥したなどいうものなけれど、すでに子女を儲けた上は、夫妻しばしば同寝せしは知れておる。その通り年長の少年を頼まれて身命をかけて世話をやくぐらいのことは、武道(古ギリシアでは文道においても)の盛んなりし世には、夫妻同臥同様尋常普偏のことと思う。これを浄の男道と申すなり。それを凡俗の人は別と致し、いやしくも読書して理義を解せるの人が一概にことごとく悪事穢行と罵り、不潔とか穢行とか非倫とかいうは、一半を解して他半を解せざるものというべき」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.346~347』河出文庫)
古代ギリシアではテーバイの「神聖隊」という騎士団があった。アイスキュロスは悲劇の中で、使者に「この町の選り抜きの一番の強者(つわもの)」と言わせている。男性同性愛者百五十組、総勢三〇〇人とされている。
「使者 七人の大将が各々おのれの隊をひきいて攻めるべき城門をきめるために、籤を引いているのをのを後にして来た。それゆえこの町の選り抜きの一番の強者(つわもの)を急ぎ城門の口にさし向けられませ。はや近間に物の具に身を固めたアルゴスの軍勢が攻め寄せ、土煙は立ち上り、原(はら)は喘ぐ馬のはく白い泡に染っている。さあ、すぐれた船の舵取りのように、いくさの嵐が襲いかからぬうちに、町をお固めなされませ。はや群勢の浪が陸(おか)の上に哮(ほ)え立てております」(アイスキュロス「テーバイ攻めの七将」『ギリシア悲劇1・P.336~337』ちくま文庫)
日本の鎌倉から戦国末期にかけての武士団の行動原理にも見られる。とりわけ「茶の湯」の密室において、濃密極まりない男色と男道との息詰まる心的時間(カイロス)に占拠されたシーンが続々出現する。当時「茶の湯」は男道に磨きをかける修験道にも似た絶好の小宇宙を形成していた。それは古代ギリシアのテーバイ神聖隊に匹敵する一つの生き方の見本だった。
「道三を誅せんとし、事成らずば、それより父も子も道三に国を逐い出されたり(一説に太郎法師は道三に弑せらるとありしと記憶候)。また織田信忠は秀吉を念者とし、特に懇意なり。叔母お市の方(浅井長政の寡婦、淀君の母)、浅井滅後後家住居せしを、信忠世話して秀吉の妻とせんとせしうち、信忠、光秀に弑せら、信孝の世話にてお市の方柴田の後妻となれり。これより柴田・羽柴の戦い始まれりとなす。やや後にも近衛信尋公(実は後陽成天皇の第四子)は、若姿ことに艶にましましければ、福島正則、伊達政宗、藤堂高虎等、毎々茶湯等に托して行き通いしという。近時の考えよりは不思儀なことのようなれども、右の襄成君や鄂君子皙のこと、またこの近衛公のことなどは、専一に後庭を覘うてつめかけしこととも思われず」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.319』河出文庫)
だから岩田準一宛書簡でもこう語っている。
「貴下は性欲上の男色のことを説きたる書のみを読みて、古ギリシア、ペルシア、アラビア、支那、また本邦の心霊上の友道のことはあまり知らぬらしく察せられ候。しかるときは、ただただつまらぬ新聞雑報などに気をもみ心を労して何の休んずるところなく、まことに卑穢賎陋な脳髄の持ち主となりて煩死さるべし。何とぞ今少し心を清浄にもち、古ギリシアの哲学書などに就き、精究とまでなくとも一斑でも窺われんことを望み上げ候」(南方熊楠「直江兼続と上杉景勝、大若衆のこと、その他」『浄のセクソロジー・P.366~367』河出文庫)
プラトン「饗宴」で美少年アルキビアデスはソクラテスと何度も「力技」(すもう)=「同性愛的性行為」に耽ったことを堂々と述べている。
「こうして僕は、諸君、この人とたった二人きりになった。そこで僕は、この人が直ぐに、愛者がその愛人と差し向いの時に語るように、僕と語り出すだろうと思った、そうして喜んだのだった。ところがそんな事はまるっきり起らなかった。むしろ反対に、彼はただ例の通りに僕と語り、そして僕と一日を過ごしてから帰って行ったのである。その後僕は一緒に力技をしようといって誘って見た、それから二人で力技をやった、今度こそは何か効果がありそうなものと思って。こんなにして彼が誰もいない所で僕と一緒に力技をやって取っ組んだことも度々だった」(プラトン「饗宴・P.139」岩波文庫)
さらにアルキビアデスはソクラテスの言葉について「毒蛇」に喩えてこう語る。ここには男性しかいない。熊楠がよく観察するよう勧めているのはこのような場面でいつも追求されている、男性にのみ限られた熱狂的「愛」についてである。
「毒蛇に咬まれた者の苦境はすなわち私の現状でもある。実際、人のいうところによると、こういう経験を嘗めた者は、自ら咬まれたことのある者以外には誰にも、それがどんなだったかを話して聴かせることを好まぬものだという、それは、苦悩のあまりにどんな法外な事を為(し)たりいったりしても、こういう人達にかぎって、それを理解もしまた寛容もしてくれるだろうーーーと、こう人は考えるからである。ところが《僕》はそれよりもさらにいっそう烈しい苦痛を与える者に咬まれた、しかも咬まれて一番痛い個所をーーー心臓か魂を、または何とでも適当に呼べばいいのだがーーー愛智上(フィロソフィア)の談論に打たれまた咬まれたのだった。その談論というのは若年でかつ凡庸でない魂を捉えたが最後、毒蛇よりも凶暴に噛み付いて離さず、かつこれにどんな法外な事でも為(し)たりいったりさせるほどの力を持っているのである。さらにまた見渡すところ今僕の前には、ファイドロスだとか、アガトンだとか、エリュキシマコスだとか、パウサニヤスだとか、アリストデモスだとか、アリストファネスだとか(ソクラテスその人は別に挙げるにも及ぶまい)、またその他の諸君がおられるのだが、この諸君は実際みな愛智者の乱心(マニア)と狂熱(バクヘイヤ)に参している人達である」(プラトン「饗宴・P.140~141」岩波文庫)
次の文章は岩田準一との書簡の中で語られた箇所。ちなみにこの直前、岩田準一は江戸川乱歩の依頼で「男色考」の連載を受けた。岩田はそれに当たって熊楠と羽山兄弟との間の幼なじみ時代からの友愛関係(先に上げた)を読み直し痛く感銘を受けたと述べている。熊楠にすればようやくわかってきてくれたか、という手応えを得たに違いない。
「足利時代の小説『岩清水物語』に、自分より五歳上の女を犯し(この女のち皇后となる)、自分に妻子ある常陸介が時の関白かなにかの世子に愛幸さるることあり。その時代にまるでなきことを書いたところが一向読まれぬはずなれば、そんなものが多かりしと存じ候。その男を愛幸したる人の詞に、この男を愛染明王のごとしとほめあり。愛染明王は古ギリシアの愛神エロスに相当する神にて、もとは男色を司れり。彫工の名人にして、自分丹誠を凝らして彫り上げたるエロス神像を座右におき、自分の配偶同然にながめ愛して終わりしものなり。ただし、愛染明王はエロスよりは至って勇猛の姿なり。左様の神に比べたところをみると、足利時代の愛童は王としてゆゆしきを尚びしことと知らる。(足利ごろの日記に、チゴ喝食にして人を殺せしもの少なからず。後代、寛文・天和ごろの男伊達に大若衆多きごとし)」(南方熊楠「直江兼続と上杉景勝、大若衆のこと、その他」『浄のセクソロジー・P.371』河出文庫)
さらに「冥土の若衆」讃歌というべきエピソード。
「細川政元のとき薬師寺(与一とかいいし)という武士、切腹するときの詠に、『冥土にはよき若衆のありければ思ひたちけり死出の旅路に』。死にぎわまで、抽象的に若衆を念ぜしなり。古ギリシアなどに例多きが、日本にこんな例はあまり見ず(文献に見ざるなり。実際は多々ありしことと存じ候)」(南方熊楠「直江兼続と上杉景勝、大若衆のこと、その他」『浄のセクソロジー・P.378』河出文庫)
死に際に同性の同士ばかりに看取られるシーンはプラトンでも有名。
「君たちは、僕が死ねば、僕は誓ってここに留まらずに、立ち去って行くだろう、と保証してくれたまえ。そうすれば、クリトンはより容易に耐えるだろうし、僕の体が焼かれたり土の中に埋められたりするのを見て、僕が恐ろしい目にあっているのだと思って、僕のために嘆いたりはしないだろう。また、葬式のときに、ソクラテスを安置するとか、ソクラテスの葬列に従うとか、ソクラテスを埋葬するとか、言うことはないだろう。いいかね、善きクリトンよ、言葉を正しく使わないということはそれ自体として誤謬であるばかりではなくて、魂になにか害悪を及ぼすのだ。さあ、元気を出すのだ。そして、僕の体を埋葬するのだ、と言いたまえ。そして、君の好きなように、君がもっとも世間の習わしに合うと考えるように、埋葬してくれたまえ」(プラトン「パイドン・終曲・P.170~171」岩波文庫)
草履取(ぞうりとり)から天下取りへ。という壮大な資料ではないが、近代以前の日本では草履取の殉死や草履取への相続という事例が山ほどあった。
「『一話一言』に引きたる杉山検校の『大閤素生記』とかいうものに、秀次公自殺のとき草履取松若殉死、微者の身分ゆえ名が山田、不破ほどに伝わらぬは残念、とあり。『嬉遊笑覧』付録に、堺の僧死するとき金三百両を草履取にのこせしことあり」(南方熊楠「直江兼続と上杉景勝、大若衆のこと、その他」『浄のセクソロジー・P.382』河出文庫)
また明治近代合作以降、長く被差別的に扱われてきた呼び名に「カゲマ」がある。しかし「影間野郎」の起こりはあたかもジュネの小説群を思わせるような荒々しさに満ちた同志愛的なものだ。
「影間野郎とは、もと薩摩に野郎組というものあり、ことのほか荒々しき者どもにて、もっぱら男色を行ないしが、影間野郎ごとき優柔なものならず、ややもすれば争闘を事としたるらしく候。延宝三年に成りし『談林十百韻』に、一座をもれて伽羅の香ぞする(松臼)、酒盛はともあれ野郎の袖枕(一朝)、思い乱るるその薩摩ぶし(雪柴)。これは薩摩野郎を吟じたるものらしく候。大坂役起こりし前年、薩摩の野郎組が城士どもと大争闘をなせしこと、『明良洪範』等に出でたり」(南方熊楠「カゲロウとカゲマ、御座直し、『弘法大師一巻之書』、その他」『浄のセクソロジー・P.408』河出文庫)
パウサニヤスはいう。
「いったいそれ自体において美しいとか醜いとかいうものがある訳ではなく、むしろ美しい仕方で為されたことが美しく、醜い仕方で為されたことが醜いのである」(プラトン「饗宴・P.67」岩波文庫)
だから「影間野郎」に恥じることがなければそれはそれでありのままの姿で「美しい」のだ。次のエピソードは南九州から紀州に戻ってくる。
「細井品弥という人が、むかしの大若衆の面影ある人なりし。そのころ小生為永の『以呂波文庫』を読みしに、瀬田主水(義士瀬田又之丞の父)に返り討ちにあいし沼田金弥という少年十五歳のとき、津和野入平(つわのいりへい)、太藺品増(ふといしなぞう)ーーーこの二名は通和散に近き理由に基づきし虚構ーーーなる二士に恋われ、二士これがために決闘するところへ走り行き和睦せしめ、みずから進んで二士に交(か)わる交(が)わるほらせ、三人兄弟となる。金病の父子細あって旅行の途上主水に討たれ、仇を探るため金弥は旅に出で立つ。二士もその助太刀に出でしが、三十五年たつも仇を見あて得ず。赤穂在へ来たり主水方へとまる。夜談に右の履歴のぶると、主水、先年金弥が遊女の姦計に落ちて難儀するところを救い、つれ帰りて食客とせしに、下女の口より主水の本名を知って、金弥、主水を夜討ちにゆき返り討ちにあいし由を語る。それより翌日、二士が主水を敵として勝負し、また主水に討たれし談あり。品蔵の《品》と金弥の《弥》を併せて品弥となるを妙なこととして今に記憶しおれり。品弥氏は小生よりは二歳ばかり年上の人なりし。そのころ芝に攻玉塾というあり、塾長近藤真琴とかいいしも志摩の人なりし。その塾に薩摩・肥前の者多く、小生と同じく神田共立学校に在塾せし河野通彦なるもの遊びにゆきしに、芋を馳走しょうか少年を馳走しょうかと問うゆえ、少年をと望みしに、一人の幼年生を拉(とら)え来たり、蒲団をかぶせ交(か)わる交(か)わる犯して帰りし、とほこりおりたり。ほむべきことにあらねど、今日の軟弱なる気風とは径庭の差(ちが)いあることに御座候」(南方熊楠「カゲロウとカゲマ、御座直し、『弘法大師一巻之書』、その他」『浄のセクソロジー・P.397~398』河出文庫)
為永春水親子が始めた「以呂波文庫」は明治維新をまたいで出版されており、今でいう講談本の先駆け的存在。だから作り話が多いかといえば必ずしもそうではない。むしろ当局の検閲を受けて公的な取り締りの対象になってしまうことを回避するためにあえて滑稽でありながらも実をいうと本当の話を組み込んだ。南九州一帯で制度化された「兵児二才」(へこにせ・へこにさい)について、中沢新一は次のように簡略にまとめている。
「(1)兵児山(へこやま)。これは六、七歳から十四歳の八月までの、幼い少年のグループで、二才入り前の、いわば予備軍的な幼年団。
(2)兵児二才。『兵児』の制度の、これが中核である。十四歳の八月から二十歳の八月までの、人生でもっとも華麗な時期の青少年が、ここに含まれる。
(3)中老(ちゅうろう)。これは『兵児』の組織の監視役で、二十歳の八月から三十歳までの大人の男性である。兵児二才のいわばOBであり、兵児山や兵児二才よりも、自由な活動が許されていて、妻帯することもできたが、それでも兵児二才時代からの自己鍛錬の生活を続けておこなおうとする大人たちが、これをつとめていた」(中沢新一「解題」/南方熊楠『浄のセクソロジー・P.40~41』河出文庫)
中心になるのは思春期から二十歳の青年であり、言うまでもなくこの時期の男子に注目しなくてはならない。そしてまた、なぜ南九州なのか。あるいは先に上げたように紀州なのか。というのはアジアの場合、このような風習は、八重山群島、台湾、メラネシア、と太平洋を取り巻く黒潮の流れに沿って広がりを見せているからである。次の文章に「二才」とあるが、事実としての二歳児のことではもちろんなく、いま述べたような「兵児二才」(へこにさい)という意味での「二才」である。
「そもそも衆道というは、その古え弘法大師、文周(殊なり)に契をこめしより初まりしぞかし。衆生というは、双方より思い初めて親しみ深く、兄弟の約をなせしこと他の書にも見えたり。そのむかし弘法大師の初め給うことなれば、古今共に異朝は言うに及ばずわが朝守流行ないしことぞかし。弘法大師一首の歌にいわく、恋といふその源を尋ねればばりくそ穴の二つなるべし。衆道根本を深く尋ぬるに、三穴楽極たり。たまたま人と生まれ来て衆道の極意を知らざるはまことに口惜しきことかな。われ数年心掛くるといえども、その道を明らめず。ここに薩陽鹿児府の満尾貞友という人あり、大乗院大師堂に十七日参籠して祈り誓いていわく、それ弘法大師は日本衆道の極意を極めたまえりと、一日に三度水にかかり不浄を清め祈りしに、七日に当たる夜、弘法大師若僧の形に現われたまい、汝よくも心掛くるものかな、たまたま人間と生まれて衆道の極意を知らぬはまことに口惜しきことかな、この世に人間の生を受けしかいもなし、山野に住みし猿さえも恋の心は知るぞかし、汝ここに参籠せしこと感ずるに余りあり、汝に一巻の書を授くれば以後他見するなかれ、と言いてかきけすごとに失せ給う。この書知友のほか他見すまじきものなり。児様御手取り様のこと。一、児の人指より小指まで四つ取るは、数ならねどもそなたのことのみ明け暮れ案じくらすという心なり。一、その時児二歳の大指を一つ残してみな取るは、数ならぬ私へ御執心辱く存じ奉り御志のほど承らんという心なり。一、児の人指、中指二つとるは、御咄申し上げたしという心なり。一、その時児扇の上に妻を返し申すは、御咄承らんという心なり。一、児二才の人指を取るは今晩、中指を取れば明晩、弁指取るは重ねて叶え申すべしという心なり。一、その時児二才の中指、弁指二つ取るは、人目を忍び、御咄幾度も叶え申すべしという心なり。一、児の弁指、小指取るは、御咄申し上げたきことあれどもあまりに人目多きゆえ明晩も参るべしという心なり。一、支(ささ)わりあるときは二才の弁指をとるなり。一、児の人指、小指二つ取るは明日の晩も参るべしという心なり。一、児二才の袂をひくは、必ず御咄に御出でなされという心なり」(南方熊楠「カゲロウとカゲマ、御座直し、『弘法大師一巻之書』、その他」『浄のセクソロジー・P.421~422』河出文庫)
熊楠が問題にしているのは弘法大師空海が高野山で開いた真言宗の教義一般ではなく、伝教大師最澄が比叡山で開いた天台宗の教義一般でもない。日本の仏教法話集「沙石集」に次の項がある。
「故笠置ノ解脱上人、如法(の)律儀(りつぎ)興隆志(こうりゅうこころざし)シ深(ふか)クシテ、六人ノ器量ノ仁(じん)ヲ撰(えらび)テ、持斎シ律学セサシム」(日本古典文学体系「沙石集・巻三・五・P.154」岩波書店)
解脱上人は左少弁藤原貞憲の子、貞慶のこと。一一五五年(久寿二年)出生。二十年以上に渡り興福寺で教鞭を取った。その後、京都府相楽郡笠置寺に移りさらに海住山寺で生涯を終えた。この話は笠置寺にいた頃のこと。仏教の教えといっても十一世紀にもなると全国各地で荒れた風潮が蔓延していた。ただ単に授業だけは済ませたという「名ばかり受戒(じゅかい)」という形式が幅を利かせており、どの新任僧侶も頭はほとんど空っぽと言っていい。ともかく笠置寺の規律を立て直そうと寺の中から六人の優等生を選んで夏安吾のあいだ仏法に取り組ませる。ところが夏安居が終わるや寺院の風習はすぐ元の堕落しきった様相に戻ってしまう。さらに何と、始めに選抜した優等生六人の中に、最も悪質かつ知恵者がいた。
「彼六人ノ中ニ、名モ承リシカドモ、忘レ侍リ。持斎モ破(やぶ)レテ、僧房ニ同宿(どうしゅく)兒共(ちごども)アマタ置(おき)テ昔ノ義スタレハテ、兒ニクハセムトテ、サウ河ト云フ河ニテ、魚(うを)ヲトラセテ、我身(わがみ)ハヒタヒツキノ内ニ居テ下知(げち)シ、弟子ノ僧火タキテ、前ノスビツニテ、生(いき)たる魚ヲニルニ、鍋(なべ)ノ湯ノアツクナルママニ、魚スビツニヲドリ出ヅ。愛弟(あいてい)ノ兒(ちご)コレヲ取(とり)テ手水桶(ちょうづおけ)ノ水ニススギテ鍋ニ入(いる)」(日本古典文学体系「沙石集・巻三・五・P.154」岩波書店)
要するに稚児遊びの常連である。さらにのっけから殺生戒を破って魚を稚児に料理させばくばく食っている。それは犯戒ではないかと問い糺すと、なるほどそうかもしれないが、具足戒の中では軽微な罪に過ぎず懺悔すれば許されるし、第一、食糧難の時代、こうでもしないと修行どころか生きてさえいけないとの返事。
ところで若き日の解脱上人は京都府八幡市の男山八幡へ参詣する夢を見たことがあった。花咲き乱れる天上世界が男山の頂上に広がっている。生まれ変われば是非とも男山八幡に勤めたいものだという内容。花咲き乱れた満開の池の中からこの世のものとも思われない泉が湧き出ている。いかにも女性器の隠喩である。しかもその名は男山。解脱上人は今でこそ上人だが、若さ溢れる十代の頃は破戒・男色に走らずしてどうすれば身を持することができたのか。不可解だと熊楠でなくても考えたに違いない。しかし熊楠が問うているのは、当時の宗教界ではどこにでもあるありふれたエピソードに過ぎない「男色」ではなく、あくまで「男道」という厳格な態度である。男道にとって男色行為が先行するのではなく男色行為は逆に付随的なものだ。あってもなくても構わない。
「仲算が仙童を慕いしこと。これは恋慕といえば恋慕に相違なきも、それに脳(または心)より来たると、生殖器(支那で申さば腎)より来るとに分かつ。甲は愛情、乙は淫念とも申すべきものなり。仲算のは甲ゆえ、普通の恋慕とちがい、景仰とか欽慕とかいうべきものに候。当世、日本ではこの二つを混ずるゆえ、はなはだ乱雑致すなり。『品花宝鑑』など支那の書には、この二つをなかなかよくかき分けあり。この仲算はなかなかの学僧にて、安和年中、宮中で天台・法相の大宗論ありしとき、叡山の良源大僧正は、『法華』方便品の『若有聞法者無一不成仏』の句を、もし法を聞くことあらん者は一として成仏せざることなしと訓じたるを、仲算は法相の意として、もし法を聞く者ありとも無の一は成仏せずと解きたるは有名な談で、それほどの哲人が恋慕云々とはうけられず。西哲プラトーンが、美少年の美を天下の最美と仰ぎ、美少年の介抱で死にたしなど老後に言いしというようなことと存じ候。プラトーンの聖哲会に神女ジオチマ現われて美を説く。その美というは只今いうごとき女の美では少しもなく、一に美少年の美に候。こんなことを心得ずして、やれ審美学の純美観のといきまくは、辻芝居のみ見て誰が上手の下手のと声高に芸の巧拙を論ずるようなものに候」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.453』河出文庫)
巫女であり預言者であったディオティマに触れている。ディオティマは美についてこう言っている。
「もし人がこれら地上のものから出発して少年愛の正しい道を通って上昇しつつ、あの美を観じ始めたならば、彼はもうほとんど最後の目的に手が届いたといってもよい」(プラトン「饗宴・P.125~126」岩波文庫)
ダンテ「神曲」で地獄と天国のあいだに当たる煉獄こそがディオティマのいう「少年愛の正しい道」である。またメノンは、ソクラテスのことをシビレエイに喩えている。ソクラテスは男道において同性メノンを痺れさせ官能の極地に陥れる毒性を持っていると。
「ソクラテス、お会いする前から、かねがね聞いてはいましたーーーあなたという方は何がなんでも、みずから困難に行きづまっては、ほかの人々も行きづまらせずにはいない人だと。げんにそのとおり、どうやらあなたはいま、私に魔法をかけ、魔薬を用い、まさに呪文(じゅもん)でもかけるようにして、あげくのはてに、行きづまりで途方にくれさせてしまったようです。もし冗談めいたことをしも言わせていただけるなら、あなたという人は、顔かたちその他、どこから見てもまったく、海にいるあの平べったいシビレエイにそっくりのような気がしますね。なぜなら、あのシビレエイも、近づいて触れる者を誰でもしびれさせるのですが、あなたがいま私に対してしたことも、何かそれと同じようなことのように思われるからです。なにしろ私は、心も口も文字どおりしびれてしまって、何をあなたに答えてよいのやら、さっぱりわからないのですから」(プラトン「メノン・P.42~43」岩波文庫)
兵児二才は少年あるいは青年である。大人とは言えない。山伏や山岳信仰集団などの強靭な男性集団の中では子供でもなく大人でもない両性具有的特性があり、独特の位置決定不可能性が少年を神に近い存在に仕立て上げてしまう。だからトーテミズムにおける犠牲獣にも似た神聖な役割を果たす。位置決定不可能な存在(少年)が死んだ時、その少年の死は、今度は逆に位置決定を強化する境界石へと転化する。
「『谷行』(たにこう)という謡曲あり、御存知ならん。少年が峰入りの山伏一行に加わり、登る途中で病めば、必ず生きながらこれを谷に陥し、上より土石をなげて埋め了るという厳法ありしなり。このごとく、得度以前に夭折した少年は決して寺域内に埋めず、域外の地に埋め、ただ石をすえおくというような規律あって、その石が児石と存じ候(回々教には今も碑石を立てず。ただ、石をすえおくなり)」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.463』河出文庫)
熊楠は「思いざし」について述べている。説明するのは難しいが、そこに現われる情動の力はエピソードから汲み取ることができるだろう。
「『思いざし』ということは薩摩にも美童にも限ることにあらず。もっとも有名な思いざしは、例の『曾我物語』巻六に、和田の一党大勢の酒宴に、大磯の長者の宅で虎を召せども出で来たらず。よって虎とともにその情夫祐成を招請す。その座にて『始めたる土器虎が前にぞ置きたりける、取り上げけるを今一度と強いられて受けて待ちけるが、義盛これを見て、いかに御前、その盃何方へも思し召さん方へ《思い差し》したまえ、これぞ誠の心ならん、とありければ、七分に受けたる盃に千々に心を使いけり。和田に差したらんは時の賞玩異議なし。されども祐成の心の内恥ずかし。流れを立つる身なればとて、睦びし人を打ちおきながら座敷に出づるは本意ならず。ましてやこの盃義盛にさしなば、さらにめでたりと思いたまわんも口おし。祐成にさすならば座敷に事起こりなん。かくあるべしと知るならば、初めより出でもせで、内にていかなも成るべきを、再び物思う悲しさよ。よしよしこれも前世のこと、思わざることあらば、和田の前下りにさしたまう刀こそ、妾が物よ、ささゆる体にもてなし奪い取り、一刀(ひとかたな)さし、とにもかくにもと思い定めて、義盛一目(ひとめ)、祐成一目、心を使い案じけり。和田はわれにならではと思うところにさはなくて、許させたまえ、さりとては思いの方を、と打ち笑い、十郎にこそさされけれ。一座の人々目を見合わせ、これはいかにとみるところに、祐成、盃を取り上げて、某(それがし)賜わらんこそ狼藉ににたり、これをば御前に、という。義盛聞きて、志の横取り無骨なり、いかでかさるべき、はやはや、と色代なり。さのみ辞すべきにあらず、十郎盃取り上げ三度ぞ酌む。義盛居丈高になり、年ほどに物うきことはなし、義盛が齢二十だにも若くば御前には背かれじ、たとい一旦嫌わるるともかようの《思い差し》よそへは渡さじ、南無阿弥陀仏、と高声なりければ、ことのほか苦々しくぞ見えにける。九十三騎の人々も、義秀の方をみやりて事や出で来なんと色めきたる体さしあらわれたり。十郎もとより騒がぬ男にて、何程のことかあるべき、事出で来なば何十人もあれ義盛と引っ組んで勝負をせんずるまでと思い切り、嘲笑(あざわら)いてぞいたりける』。このころ曾我にありし五郎時致、しきりに胸騒ぎ、何か兄祐成の身の上に急変起これるならんと推して、裸馬にのり駆け付くる。それより義秀(義盛の三男)と大力のくさずり引きあって座敷に入り大盃を傾け、兄と虎とをまとめて曾我へ帰る。小生等幼きとき、諸神社仏閣にこのときの体を額に画きて揚げありし」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.465~466』河出文庫)
しかしいつも問題になるのは性行為が絡むとき、「受け身」の立場が発生しないわけにはいかないという実際の状況である。一九八〇年代後半の未熟な女子学生フェミニストの中には、男女の性行為においていつも女性の側は受け身にならざるを得ないので、女性の受動性とそれに伴う屈辱について男子学生はもっと理解を持つべきだとする女子学生はときどきいた。LGBTら多様な意見・感情を無視した男根主義的フェミニズムとも言うべき「男女ペア〔ロゴス〕中心主義」イデオロギーである。しかしそのちょうど同じ時期にフーコーは、受動的に振る舞わざるを得ない立場の人々についてこう述べている。
「一般的な指摘にもとづいて、われわれは、ある厳密な規範を、しかも社会的分野における地位(そこには《第一級の人々》と他の人々、支配する有力者と服従する人々、主人と下僕、能動の役割と受動の役割、成人男性が行ない相手が受け入れる挿入、が含まれる)とのあいだの、ギリシャ人にはきわめてなじみ深い類比にもとづくかもしれぬ、ある厳密な規範を想像しなければならないだろうか?相手に屈服するなとか、他の人々が勝れるままにしておくなとか、こちらが形勢不利になると思われる劣った立場を承諾するな、などと言うことは、多分、性の実践を排除すること、もしくはそれを行なわぬよう勧めることであろう、というのは、その場合の性の実践は若者には屈辱的であろうし、その実践によって若者は自分が劣等の立場に置かれているのを見出すにちがいないからである。しかし、名誉と《優越感》の保持という原則はーーーいくつもの明確な規定をこえてーーー一種の一般様式を拠り所にしているように思われる。すなわち(とりわけ世論の見るところでは)若者たるものは《受動的に》ふるまってはならず、なされるまま、言われるがままでいてはならず、戦わずして屈してはならず、先方の男の黙認する相手役をつとめてはならず、その男の気ままを満足させてはならず、自分の体を、それを欲しいと思う誰にでも、しかも望みのやり方で、柔弱さのせいで、あるいは逸楽趣味や私利私欲から、先方に差し出してはならない、というわけであった。それこそは、誰の求愛をも受入れて、平然と自分の乱行を見せつけ、人から人へ渡っていき、最も有利な相手にすべてを許す、そうした若者たちの不名誉である。それこそはエピクラテスが行なっていず、将来も行なわないことである、彼はあのとおりよく気をくばるからであり、自分にかんする世論や、自分がつかねばならない地位や、もつことになるかもしれぬ交際関係に、気をくばっているからである」(フーコー「快楽の活用・第四章・P.267~268」新潮社)
無知が犯罪になるという点では「男女ペア〔ロゴス〕中心主義」イデオロギーを声高に叫んでいた当時の女子学生らもそうだ。フーコーが性について「最も思弁的かつ最も観念的で、最も内面的ですらある要素」だと論じていたちょうどそのとき、日本の大学の真ん中で「男女ペア〔ロゴス〕中心主義」イデオロギーを基礎に置いた場合にのみ論じることが可能な「男根〔中心〕主義的フェミニズム」の虜(とりこ)になっている女子学生がいた。ごく一部の、小さなセクト的空間の中でだけ通用する「中心」にこだわって離れない稚拙な論理を学内に持ち込み、学園祭実行委員会も新入生勧誘活動も是が非でも「中心、中心、中心ーーー」と連呼していた女子学生。他大学の学園祭で中心になって精力的に動く男子学生のことを馬鹿馬鹿しいほど持ち上げて宣伝していた男根ロゴス〔中心〕主義的フェミニズム女子学生。そのような女性にとって中沢新一の言葉は、根のところでは今なお生理的に受け入れがたいかも知れない。年長の不動産業者の跡取り坊ちゃんの外連味(けれんみ=はったり)に夢中になって踏みにじられた腹いせ(ルサンチマン=復讐感情、劣等感)をばねにして運動しているような態度では頭から無理な話なのだ。
「セクシャリティは多様で、多形的な形態に変化を実現できる、ひとつの生成的な現象なのだ。そうなれば、ヘルマフロディーテをひとつの核として、男が女に変化したり、女が男に変わっていったり、男と男、女と女の同性愛が、洗練された恋愛関係を生み出していったりする、可塑的な性の世界を、私たちは考えてみる必要があるはずだ」(中沢新一「解題」/南方熊楠『浄のセクソロジー・P.54』河出文庫)
なお、熊楠が提出した「神社合祀反対意見書」。「森の思想」は、天皇とはまた違い、制度としての「天皇制」とのあいだに深い溝があることを遥かに雄弁に語っている。近代日本で制度としての「国民」は始めからあったわけではなく、神社統合によって歴史上始めて「日本国民」というものが出現したという論点は重要だろう。縄文時代から考えれば、ほんのつい最近の産物である。さらに日本語の使用について。中上健次から引いておかねばならない。
「この伊勢で居た間中、私が考えつづけ、自分がまるで写真機のフィルムでもあるかのように感光しようと思ったのは、日本的自然の粋でもある神道と天皇の事だった。いや、ここでは、乱暴に言葉を使って、右翼と言ってみる。伊勢市にはいり、模造花をたくさんつけて走り廻るバスやタレ幕のことごとくが神社に関する事ばかりだったのを見て、私は突飛な発想かも知れぬが、この日本の小説家のすべての根は、右翼の感情にもとづいていると思ったのだった。現実政治や団体としての『右翼』ではなく、そのまま何の手も加えないなら文化の統(すめ)らぎであるという天皇に収斂(しゅうれん)されてしまう感性の事である。唯心とでも言い直そうか。車で走り廻り、市役所横の喫茶店に入って、その右翼(唯心)を考えた。三島由紀夫と言えばわかり易すぎる。武田泰淳、生きている敬愛する作家を思いつくと、深沢七郎。『風流夢潭』を書く深沢氏に一種幻視としての右翼を見るというのは、私が偏向しすぎているかもしれないが、たとえばここで検証するいとまもなしに言うと、屁(へ)のように生まれ屁のように死ぬ人物らは、この天皇というものがある故に『屁のように』という形容が成り立つのではないだろうか。そしていまひとつ、ここに、差別、被差別という回路をつないでみる。あるいは被差別は差別者を差別する、というテーゼをつなげてみる。ということは私が言う右翼の感性は、日本的自然の粋である天皇こそが差別者であり同時に被差別者だということを知った者の言葉の働きである。いやここでは、私は自分を右翼的感性の持ち主である、と思ったと言えば済む事かもしれない。私と三島由紀夫との違いは、言葉にして『天皇』と言わぬことである。あるいは深沢七郎との違いは、『風流夢潭』を書かぬことである。『天皇』と一言言えば、この詞(ことのは)の国の小説家である私の矛盾の一切もまた消えるはずである。私の使う言葉は出所来歴が定かになる」(中上健次「紀州~木の国・根の国物語・伊勢・P.187~188」角川文庫)
いかにも、「屁(へ)のよう」な、ところがもはや、「屁(へ)のよう」な人々は様々な容態を与えられ、結局のところ散り散りばらばらの八つ裂きにされた。一部はまんまと利権集団化した。そして今や「屁(へ)のよう」でさえない、日本の「政治家=財界人=高級官僚」が逆に天皇の威光をよそへ押しやったのをいいことに何か考えているらしい。八つ裂きにされたディオニュソスはどうなるのか。
「寸断されたディオニュソスは生の《約束》である。それは永遠に再生し、破壊から立ち帰ってくるであろう」(ニーチェ「権力への意志・下巻・一〇五二・P528」ちくま学芸文庫)
とすれば、一体どのようにしてか。ニーチェのいうように、かくも過酷な自己鍛錬と徹底的対等性との上で始めて成り立つ《友愛》という実在。
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