髑髏(どくろ)には髑髏(どくろ)を。という形式が安定した敵討ちとして定着するためには両者の等価性があらかじめ前提されていなくてはならない。
「予の幼時和歌山に橋本という士族あり。その家の屋根に白くされた馬の髑髏(どくろ)があった。むかし祖先が敵に殺されたと聞き、その妻長刀(なぎなた)を持って駆けつけたが敵見えず、せめてもの腹癒せに敵の馬の刎(は)ねその首を持ち帰って置いた、と聞いた」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.245』河出文庫)
という作業が対抗措置としての意味を持つのはどのような場合か。いつどのような方法でもよいとは限らない。このような敵討ちの方法が個人的な思想信条だけでなく広く社会的なレベルで意味を持つのは、敵討ちの戦利品として相手方の「馬の髑髏(どくろ)」を自分の家の玄関に飾り付けたその瞬間に限って、である。債権-債務関係に即して考えた場合、より一層大掛かりな方法として「人柱」(ひとばしら)という方法があった。
「『大正十四年六月二十五日』大阪毎日新聞に、誰かが築島に人柱はきくが築城に人柱は聞かぬというように書かれたが、井林広政氏から、かつて伊予大洲の城は立てる時お亀という女を人柱にしたので、お亀城と名づく、と聞いた。この人は大洲生れの士族なれば虚伝でもなかろう。横田伝松氏よりの来示に、大須城を亀の城と呼んだのは後世で、古くは此地の城と唱えた。最初築いた時、下手の高石垣が幾度も崩れて成らず、領内の美女一人を抽籤で人柱に立てるに決し、オヒジと名づくる娘が中(あた)って生埋めにされ、それより崩るることなし。東宇和郡多田村関地の池も、オセキという女を人柱に入れた伝説あり、と。氏は郡史を編んだ人ときくから、特に書きつけておく」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.231~232』河出文庫)
人間は何か目的が計画通りにはかどらない時、神仏に祈ったりする。願を懸けたりする。今なおやっている。
「残酷なことは、上古蒙昧の世は知らず、二、三百年前にあったと思われぬなどいう人も多からんが、家康公薨ずる二日前に三池典太の刀もて罪人を試さしめ、切味いとよしと聞いてみずから二、三度振り廻し、わがこの剣で永く子孫を護るべしと顔色いと好かったといい、コックスの日記には、侍医が公は老年ゆえ若者ほど速く病が癒らぬと答えたので、家康公大いに怒りその身を寸断せしめた、とある。試し切りは刀を人よりも尊んだ、はなはだ不条理かつ不人道なことだが、百年前後までもまま行なわれたらしい。なお木馬、水牢、石子詰め、蛇責め、貢米貸(これは領主が年貢未進の百姓の妻女を拉致して犯したので、英国にもやや似たことが十七世紀までもあって、ベビースみずから行なったことがその日記に出づ)、その他確固たる書史に書かねど、どうも皆無でなかったらしい残酷なことは多々ある。三代将軍薨去の節、諸候近臣数人殉死したなど虚説といい黒(くろ)めあたわぬ。して見ると、人柱が徳川氏の世に全く行なわれなんだとは思われぬ。こんなことが外国へ聞こえては大きな国辱という人もあらんかなれど、そんな国辱はどの国にもある」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.235~236』河出文庫)
熊楠は世界中で行われていた人柱の事例を列挙しつつ、日本だけは例外だなどと考えたがるのは思い上がりに過ぎないと喝破する。例えば、次のような話が残っているではないかと。
「『甲子夜話』の、大坂城内に現ずる山伏、『老媼茶話』の、猪苗代城の亀姫、島原城の大女、、姫路城天守の貴女等、築城の人柱に立った女の霊が、上に引いたインドのマリー同然いわゆるヌシとなりてその城を鎮守したものらしい」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.232』河出文庫)
加藤清正の邸宅に残る千畳敷の話題にも触れている。
「日本にも『甲子夜話』五九に、『彦根城の江戸邸はもと加藤清正の邸で、その千畳敷の天井に乗物を釣り下げあり、人の開き見るを禁ず。あるいはいわく、清正、妻の屍を容れてあり。あるいは言う、この中に妖怪いて時として内より戸を開くをみるに、老婆の形なる者みぬ、と。数人の話すところかくのごとし』と。これはドイツで人柱の代りに空棺を埋めたごとく、人屍の代りに葬式の乗物を釣り下げて千畳敷のヌシとしたのであるまいか」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.243~244』河出文庫)
近代国家の出現によって人柱の風習は消えていった。だがその間、人間の代わりにその地域で特に崇められてきた動物、あるいはそれと置き換えられ得るにふさわしい等価性を持つ何らかの品物を礎石として埋めたか、新築された邸宅のどこかに安置したのは明らかだろうと思われる。いずれにしろ、重要な場所に安置したからそこが重要な場所になったのではなく、そこに安置したのでその場所が極めて重要な神聖性を持つことになったという点は明確にしておこう。なお、加藤清正による姫路城の「姥石」(おばいし)について、柳田國男は次のような点に着目している。
「姫路の城の姥石は、現に絵葉書もできているくらいの一名物であるが、これがまた中凹の、ちょっとした石の枕といってもよい石である。今でも城の石垣の間に置いてある。加藤清正この石垣を築く時、積んでも積んでも一夜の中(うち)に崩れ、当惑の折から、名も知らぬ老婆現れ来たり、臼のような小さい石を一つ、石垣の上に置いたら、それから無事に積み上げることができたと、現今では説明せられている。この城の守護神は老女では決してないが、最も威霊のある女性の神であったことは、この話とともに注意してみねばならぬ」(柳田國男「史料としての伝説・関のおば石」「柳田国男全集4・P.362~363」ちくま文庫)
姫路城の守護神はなるほどただ単なる任意の「老女」ではない。にもかかわらず「最も威霊のある女性の神であった」ことは動かしがたい、という見方である。老女はまた山姥であり、日本の記紀神話を見ると、その最初の出現は冥界に入った伊弉冉尊(イザナミノミコト)においてである。これらの説話に共通して見られる点は、童子、童女、老婆、山姥、といった大人以外の世界の住人たちに対する根深い信仰である。一般大衆の中に立ちまじり日常生活の中に心底溶け込んでしまい忙しい大人の頭の中では既に欄外に位置する境界領域を生きる人々らへの、普段は意識に上ってこない畏怖の感覚である。熊楠は人柱について、それほど遠い時代にのみ存在したこととしてばかり考えるわけにはいかないという。むしろもっと近い時代、東京や大坂などの中心部はいざ知らず、日本の大半を占める地方にはつい最近までそのような風習が残っていたではないかと問いかける。
「の多い地方には人権乏しい男女小児を家の土台に埋めたことは必ずあるべく、その霊をその家のヌシとしたのがザシキワラシ等として残ったと惟わる」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.246』河出文庫)
柳田國男「遠野物語」にこうある。
「旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二、三ばかりの童児なり。折々人に姿を見せることあり土淵村大字飯豊(いいで)の今淵勘十郎(いまぶちかんじゅうろう)という人の家にては、近き頃高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、ある日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。これはまさしく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物しておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。暫時(しばらく)の間坐りておればやがてまたしきりに鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思えり。この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰(さた)なりき。この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり」(柳田國男「遠野物語・十七」『柳田國男全集4・P.22~23』ちくま文庫)
地方の富裕な旧家にザシキワラシは姿を見せる。その姿は「多くは十二、三ばかりの童児なり」。この箇所のようにほんの一部ではあれ、柳田はかつて日本各地で行われていたであろう人柱信仰を少しばかり書き残さずにはおれなかったのだろう。物事が上手く行かない時は児童を生贄(いけにえ)にするのがよい、という原始的信仰。まったく消し去ってしまうわけにはいかなかった。ほんの僅かばかりが書き残された。もっとも、柳田に岩手県遠野の民間伝承を語り伝えたのは佐々木喜善(ささききよし)である。柳田による編集過程で、「遠野物語」の文体の出現によって、今度は逆に消え去った部分がわかってきた。
「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で伐(き)り殺したことがあった。女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔も見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(みが)いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.81~82』ちくま文庫)
このような事情は一九一〇年(明治四十三年)出版の「遠野物語」では跡形もなく消えてしまっている。それから十七年後の一九二六年(大正十五年)、「山の人生」において始めて露呈された。「遠野物語」出版時の一九一〇年(明治四十三年)は近代日本といっても名ばかりであるだけでなく、そもそも「遠野物語」の文体自体がようやく成立したばかりである。逆に「山の人生」で描かれたような地方の山村で行われていた「民衆=常民」の生活実態は、現代人の目から見れば幾らおぞましく映ろうとも、当時の明治中央政権から見れば、取るに足りないありふれた日常生活の断片でしかなかった。
「我々が空想で描いてみる世界よりも、隠れた現実の方がはるかに物深い。また我々をして考えしめる」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.83』ちくま文庫)
なるほどそうかもしれない。明治年間に起こった文体の急激な変化。それは一九一〇年(明治四十三年)出版「遠野物語」から十七年を経た一九二六年(大正十五年)、「山の人生」における独特の文体を獲得して始めて「隠れた現実」が目の前に出現したということを、ともすれば忘れてさせてしまう効果を持つ。一九二六年(大正十五年)に入ってようやく、かつて遠野在住の語り部・佐々木喜善(ささききよし)が言わんとしていたことに柳田はようやく気づき始めたということができる。
しかしなぜこのような事態が起こるのか。言語は貨幣のように立ち働くからである。いったん新しい言語体系が打ち立てられるやもはや以前に何があったかなかったか、覆い隠され忘れ去られることになる。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
その意味で「遠野物語」の文体は近代日本成立以前の地方の山間部ではどのような生活様式がありふれた日常として残存していたか、それら様々な諸事情を隠蔽する方向へ働いたことを忘れてはならないのである。
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「予の幼時和歌山に橋本という士族あり。その家の屋根に白くされた馬の髑髏(どくろ)があった。むかし祖先が敵に殺されたと聞き、その妻長刀(なぎなた)を持って駆けつけたが敵見えず、せめてもの腹癒せに敵の馬の刎(は)ねその首を持ち帰って置いた、と聞いた」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.245』河出文庫)
という作業が対抗措置としての意味を持つのはどのような場合か。いつどのような方法でもよいとは限らない。このような敵討ちの方法が個人的な思想信条だけでなく広く社会的なレベルで意味を持つのは、敵討ちの戦利品として相手方の「馬の髑髏(どくろ)」を自分の家の玄関に飾り付けたその瞬間に限って、である。債権-債務関係に即して考えた場合、より一層大掛かりな方法として「人柱」(ひとばしら)という方法があった。
「『大正十四年六月二十五日』大阪毎日新聞に、誰かが築島に人柱はきくが築城に人柱は聞かぬというように書かれたが、井林広政氏から、かつて伊予大洲の城は立てる時お亀という女を人柱にしたので、お亀城と名づく、と聞いた。この人は大洲生れの士族なれば虚伝でもなかろう。横田伝松氏よりの来示に、大須城を亀の城と呼んだのは後世で、古くは此地の城と唱えた。最初築いた時、下手の高石垣が幾度も崩れて成らず、領内の美女一人を抽籤で人柱に立てるに決し、オヒジと名づくる娘が中(あた)って生埋めにされ、それより崩るることなし。東宇和郡多田村関地の池も、オセキという女を人柱に入れた伝説あり、と。氏は郡史を編んだ人ときくから、特に書きつけておく」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.231~232』河出文庫)
人間は何か目的が計画通りにはかどらない時、神仏に祈ったりする。願を懸けたりする。今なおやっている。
「残酷なことは、上古蒙昧の世は知らず、二、三百年前にあったと思われぬなどいう人も多からんが、家康公薨ずる二日前に三池典太の刀もて罪人を試さしめ、切味いとよしと聞いてみずから二、三度振り廻し、わがこの剣で永く子孫を護るべしと顔色いと好かったといい、コックスの日記には、侍医が公は老年ゆえ若者ほど速く病が癒らぬと答えたので、家康公大いに怒りその身を寸断せしめた、とある。試し切りは刀を人よりも尊んだ、はなはだ不条理かつ不人道なことだが、百年前後までもまま行なわれたらしい。なお木馬、水牢、石子詰め、蛇責め、貢米貸(これは領主が年貢未進の百姓の妻女を拉致して犯したので、英国にもやや似たことが十七世紀までもあって、ベビースみずから行なったことがその日記に出づ)、その他確固たる書史に書かねど、どうも皆無でなかったらしい残酷なことは多々ある。三代将軍薨去の節、諸候近臣数人殉死したなど虚説といい黒(くろ)めあたわぬ。して見ると、人柱が徳川氏の世に全く行なわれなんだとは思われぬ。こんなことが外国へ聞こえては大きな国辱という人もあらんかなれど、そんな国辱はどの国にもある」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.235~236』河出文庫)
熊楠は世界中で行われていた人柱の事例を列挙しつつ、日本だけは例外だなどと考えたがるのは思い上がりに過ぎないと喝破する。例えば、次のような話が残っているではないかと。
「『甲子夜話』の、大坂城内に現ずる山伏、『老媼茶話』の、猪苗代城の亀姫、島原城の大女、、姫路城天守の貴女等、築城の人柱に立った女の霊が、上に引いたインドのマリー同然いわゆるヌシとなりてその城を鎮守したものらしい」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.232』河出文庫)
加藤清正の邸宅に残る千畳敷の話題にも触れている。
「日本にも『甲子夜話』五九に、『彦根城の江戸邸はもと加藤清正の邸で、その千畳敷の天井に乗物を釣り下げあり、人の開き見るを禁ず。あるいはいわく、清正、妻の屍を容れてあり。あるいは言う、この中に妖怪いて時として内より戸を開くをみるに、老婆の形なる者みぬ、と。数人の話すところかくのごとし』と。これはドイツで人柱の代りに空棺を埋めたごとく、人屍の代りに葬式の乗物を釣り下げて千畳敷のヌシとしたのであるまいか」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.243~244』河出文庫)
近代国家の出現によって人柱の風習は消えていった。だがその間、人間の代わりにその地域で特に崇められてきた動物、あるいはそれと置き換えられ得るにふさわしい等価性を持つ何らかの品物を礎石として埋めたか、新築された邸宅のどこかに安置したのは明らかだろうと思われる。いずれにしろ、重要な場所に安置したからそこが重要な場所になったのではなく、そこに安置したのでその場所が極めて重要な神聖性を持つことになったという点は明確にしておこう。なお、加藤清正による姫路城の「姥石」(おばいし)について、柳田國男は次のような点に着目している。
「姫路の城の姥石は、現に絵葉書もできているくらいの一名物であるが、これがまた中凹の、ちょっとした石の枕といってもよい石である。今でも城の石垣の間に置いてある。加藤清正この石垣を築く時、積んでも積んでも一夜の中(うち)に崩れ、当惑の折から、名も知らぬ老婆現れ来たり、臼のような小さい石を一つ、石垣の上に置いたら、それから無事に積み上げることができたと、現今では説明せられている。この城の守護神は老女では決してないが、最も威霊のある女性の神であったことは、この話とともに注意してみねばならぬ」(柳田國男「史料としての伝説・関のおば石」「柳田国男全集4・P.362~363」ちくま文庫)
姫路城の守護神はなるほどただ単なる任意の「老女」ではない。にもかかわらず「最も威霊のある女性の神であった」ことは動かしがたい、という見方である。老女はまた山姥であり、日本の記紀神話を見ると、その最初の出現は冥界に入った伊弉冉尊(イザナミノミコト)においてである。これらの説話に共通して見られる点は、童子、童女、老婆、山姥、といった大人以外の世界の住人たちに対する根深い信仰である。一般大衆の中に立ちまじり日常生活の中に心底溶け込んでしまい忙しい大人の頭の中では既に欄外に位置する境界領域を生きる人々らへの、普段は意識に上ってこない畏怖の感覚である。熊楠は人柱について、それほど遠い時代にのみ存在したこととしてばかり考えるわけにはいかないという。むしろもっと近い時代、東京や大坂などの中心部はいざ知らず、日本の大半を占める地方にはつい最近までそのような風習が残っていたではないかと問いかける。
「の多い地方には人権乏しい男女小児を家の土台に埋めたことは必ずあるべく、その霊をその家のヌシとしたのがザシキワラシ等として残ったと惟わる」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.246』河出文庫)
柳田國男「遠野物語」にこうある。
「旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二、三ばかりの童児なり。折々人に姿を見せることあり土淵村大字飯豊(いいで)の今淵勘十郎(いまぶちかんじゅうろう)という人の家にては、近き頃高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、ある日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。これはまさしく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物しておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。暫時(しばらく)の間坐りておればやがてまたしきりに鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思えり。この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰(さた)なりき。この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり」(柳田國男「遠野物語・十七」『柳田國男全集4・P.22~23』ちくま文庫)
地方の富裕な旧家にザシキワラシは姿を見せる。その姿は「多くは十二、三ばかりの童児なり」。この箇所のようにほんの一部ではあれ、柳田はかつて日本各地で行われていたであろう人柱信仰を少しばかり書き残さずにはおれなかったのだろう。物事が上手く行かない時は児童を生贄(いけにえ)にするのがよい、という原始的信仰。まったく消し去ってしまうわけにはいかなかった。ほんの僅かばかりが書き残された。もっとも、柳田に岩手県遠野の民間伝承を語り伝えたのは佐々木喜善(ささききよし)である。柳田による編集過程で、「遠野物語」の文体の出現によって、今度は逆に消え去った部分がわかってきた。
「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で伐(き)り殺したことがあった。女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔も見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(みが)いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.81~82』ちくま文庫)
このような事情は一九一〇年(明治四十三年)出版の「遠野物語」では跡形もなく消えてしまっている。それから十七年後の一九二六年(大正十五年)、「山の人生」において始めて露呈された。「遠野物語」出版時の一九一〇年(明治四十三年)は近代日本といっても名ばかりであるだけでなく、そもそも「遠野物語」の文体自体がようやく成立したばかりである。逆に「山の人生」で描かれたような地方の山村で行われていた「民衆=常民」の生活実態は、現代人の目から見れば幾らおぞましく映ろうとも、当時の明治中央政権から見れば、取るに足りないありふれた日常生活の断片でしかなかった。
「我々が空想で描いてみる世界よりも、隠れた現実の方がはるかに物深い。また我々をして考えしめる」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.83』ちくま文庫)
なるほどそうかもしれない。明治年間に起こった文体の急激な変化。それは一九一〇年(明治四十三年)出版「遠野物語」から十七年を経た一九二六年(大正十五年)、「山の人生」における独特の文体を獲得して始めて「隠れた現実」が目の前に出現したということを、ともすれば忘れてさせてしまう効果を持つ。一九二六年(大正十五年)に入ってようやく、かつて遠野在住の語り部・佐々木喜善(ささききよし)が言わんとしていたことに柳田はようやく気づき始めたということができる。
しかしなぜこのような事態が起こるのか。言語は貨幣のように立ち働くからである。いったん新しい言語体系が打ち立てられるやもはや以前に何があったかなかったか、覆い隠され忘れ去られることになる。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
その意味で「遠野物語」の文体は近代日本成立以前の地方の山間部ではどのような生活様式がありふれた日常として残存していたか、それら様々な諸事情を隠蔽する方向へ働いたことを忘れてはならないのである。
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