民話や説話の特徴として、やや大きな村落共同体になると、別々の話が一連の大きな物語として一貫性を持ってきてしまう傾向がある。柳田國男「遠野物語」にはそれが顕著に見られる。一個のやや大きな言語共同体といってもいい。そこでは各々の説話に特有の微細な差異が覆い隠されてしまい、同調圧力が働き、どれも同様の起承転結を持った一種の説話として一括りになってしまう。熊楠はそのような差異の抹消という面を特に警戒した。極めて微々たる違いが問題になるような際、微々たる違いとはいえ、違いそのものが同調圧力によって覆い隠されてしまっていればもうそれは民俗学研究の素材としては使えなくなってしまうからである。熊楠はいう。
「柳田〔邦男〕君の『遠野物語』八七と八八に、大病人の死に瀕せる者、寺に詣る途上知人に遭い、次に寺に入って僧に面し茶を飲んで去ったが、後に聞き合わすと、その時歩行叶わず外出するはずなく、その日死亡したと知れた話二条を載す。いずれも茶を飲んだ跡を改むると、畳の敷合せへこぼしあったとあり」(南方熊楠「臨死の病人の魂、寺に行く話」『南方民俗学・P.285』河出文庫)
柳田による該当箇所に目を通してみよう。第一に。
「人の名は忘れたれど、遠野の町の豪家にして、主人大煩いして命の境に臨みしころ、ある日ふと菩提寺(ぼだいじ)に訪い来たれり。和尚(おしょう)鄭重(ていちょう)にあしらい茶などすすめたり。世間話をしてやがて帰らんとする様子に少々不審あれば、跡より小僧を見せにやりしに、門を出でて家の方に向い、町の角を廻りて見えずなれり。その道にてこの人に逢いたる人まだほかにもあり。誰にもよく挨拶して常の体(てい)なりしが、この晩に死去してもちろんその時は外出などすべき様態(ようだい)にてはあらざりしなり。後に寺にては茶は飲みたりや否やと茶碗を置きし処を改めしに、畳の敷合せへ皆こぼしてありたり」(柳田國男「遠野物語・八十七」『柳田國男全集4・P.51』ちくま文庫)
第二に。
「これも似たる話なり。土淵村大字土淵の常堅寺(じょうけんじ)は曹洞宗にて、遠野郷十二ヵ寺の触頭(ふれがしら)なり。ある日の夕方に村人何某という者、本宿より来る路にて何某という老人にあえり。この老人はかねて大病をしておる者なれば、いつの間によくなりしやと問うに、二、三日気分もよろしければ、今日は寺へ話を聞きに行くなりとて、寺の門前にてまた言葉を掛け合いて別れたり。常堅寺にても和尚はこの老人が訪ね来たりしゆえ出迎え、茶を進めしばらく話をして帰る。これも小僧に見させたるに門の外にて見えずなりしかば、驚きて和尚に語り、よく見ればまた茶は畳の間にこぼしてあり、老人はその日失(う)せたり」(柳田國男「遠野物語・八十八」『柳田國男全集4・P.51』ちくま文庫)
どちらもよくある民俗説話としてひとまとめにしてしまえる形態を取っている。死んでいるか死ぬ直前のはずの人間が別の場所に元気な姿で出現したという、極めてありがちな話である。たいそう奇妙な奇跡ででもあるかのように思える。ところがこの二つの話はどちらも「遠野物語」が出版された一九一〇年(明治四十三年)に収録されたというばかりでなく、どちらの説話も同様の文体で描かれている点に注意する必要性があるだろう。幻覚を見たというのならわかる。むしろ幻覚ならより一層理解しやすい。同一価値観のもとに置かれた村落共同体では少しばかり類似した話が二つ揃うやたちまち二つが一つの説話へ統合される傾向があるからである。さらに当時はようやく近代日本社会というものが出現した頃でもある。政府主導による言文一致運動が始まって二十年ほど過ぎた頃だ。同一言語の使用という制度は、あたかも今のマスコミのように、別々の違った話を一瞬にして同一化してしまい、両者に間にある微々たる差異を忘れさせてしまう機能を持つ。そこでさらに、ここで柳田が挙げている二つの説話は、日清日露両大戦に勝利した大日本帝国が日本国民の霊魂不滅を高らかに歌い上げようとしていたちょうどその時に、政府の側からは願ってもない大和魂不滅神話へといともたやすく接続されてしまう。時期が悪かったとか言ってみても歴史を変えることはできない。かといって柳田國男に責任があるわけでもまたない。一方、熊楠はこれら説話をどう考えたか。茶に着目した。
「熊野では、人死して枕飯を炊(かし)ぐ間に、その魂妙法山へ詣で、途上茶店に憩いて食事をし、畢(おわ)りて必ず食碗を伏せ茶を喫まずに去ると言い伝え、したがって食後腕を伏せたり茶を呑まなんだりするを忌む。よって考うるに、以前病人死ぬ直前に寺に行って茶を喫み、死後は飲まぬという説が広く行なわれたのが、分離して後には別々の話となったものか。また拙妻の父は闘鶏(とりあわせ)神社(県社、旧称田辺権現)の神主だったが、この社祭礼の日は近郷の民にして家内に不浄の女ある者来たって茶を乞い飲んだ。その縁(つて)のない者は、田辺町のいずれの家にても不浄の女のない家に来て茶を乞い飲んだ。かくせずに祭礼を観ると、馬に蹴られるなど不慮の難に罹る、と話した。これらから見ると、仏教または両部神道盛んな時、茶に滅罪祓除(ふつじょ)の力あると信ぜられたらしい」(南方熊楠「臨死の病人の魂、寺に行く話」『南方民俗学・P.285~286』河出文庫)
日本列島に茶が輸入されたというだけでなく、茶の主成分であるカフェインの効果に着目し、有効活用され始めたのは、「仏教または両部神道盛んな時」だった。と、脱構築する。実際、茶の持つ覚醒効果に着目して鎌倉幕府第三代将軍源実朝が抱えていた鬱状態を和らげ、幕府に近づくことに成功したのは茶の開祖・栄西である。栄西は臨済宗の「仏教徒」である。中世の始まりの頃、戦乱で列島各地が滅茶滅茶になり不安が不安を呼び起こしていく時代に茶の効用を説いた宗教者だった。茶が注目され始めた時期、すなわち「仏教または両部神道盛んな時」だったのだ。
そもそも茶の輸入以前に茶を飲み残したとか百杯飲んで帰って行ったとかいう説話は成立しないし成立しようがない。そういう微細な違いを時として一緒くたにしてしまう柳田に対して熊楠は何とも言いようのない警戒感を示していることが見て取れる。例えば、「源氏物語」に「橋姫」の巻がある。宇治川を渡る橋の周囲には様々な女性が往来し参集していただろう。しかし「橋姫」は「源氏物語」成立以前には一人もいない。「橋姫」は源氏物語が書かれ、二人の姫君の一方が琵琶を、もう一方が琴の音を奏でて始めて出現したのである。
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「柳田〔邦男〕君の『遠野物語』八七と八八に、大病人の死に瀕せる者、寺に詣る途上知人に遭い、次に寺に入って僧に面し茶を飲んで去ったが、後に聞き合わすと、その時歩行叶わず外出するはずなく、その日死亡したと知れた話二条を載す。いずれも茶を飲んだ跡を改むると、畳の敷合せへこぼしあったとあり」(南方熊楠「臨死の病人の魂、寺に行く話」『南方民俗学・P.285』河出文庫)
柳田による該当箇所に目を通してみよう。第一に。
「人の名は忘れたれど、遠野の町の豪家にして、主人大煩いして命の境に臨みしころ、ある日ふと菩提寺(ぼだいじ)に訪い来たれり。和尚(おしょう)鄭重(ていちょう)にあしらい茶などすすめたり。世間話をしてやがて帰らんとする様子に少々不審あれば、跡より小僧を見せにやりしに、門を出でて家の方に向い、町の角を廻りて見えずなれり。その道にてこの人に逢いたる人まだほかにもあり。誰にもよく挨拶して常の体(てい)なりしが、この晩に死去してもちろんその時は外出などすべき様態(ようだい)にてはあらざりしなり。後に寺にては茶は飲みたりや否やと茶碗を置きし処を改めしに、畳の敷合せへ皆こぼしてありたり」(柳田國男「遠野物語・八十七」『柳田國男全集4・P.51』ちくま文庫)
第二に。
「これも似たる話なり。土淵村大字土淵の常堅寺(じょうけんじ)は曹洞宗にて、遠野郷十二ヵ寺の触頭(ふれがしら)なり。ある日の夕方に村人何某という者、本宿より来る路にて何某という老人にあえり。この老人はかねて大病をしておる者なれば、いつの間によくなりしやと問うに、二、三日気分もよろしければ、今日は寺へ話を聞きに行くなりとて、寺の門前にてまた言葉を掛け合いて別れたり。常堅寺にても和尚はこの老人が訪ね来たりしゆえ出迎え、茶を進めしばらく話をして帰る。これも小僧に見させたるに門の外にて見えずなりしかば、驚きて和尚に語り、よく見ればまた茶は畳の間にこぼしてあり、老人はその日失(う)せたり」(柳田國男「遠野物語・八十八」『柳田國男全集4・P.51』ちくま文庫)
どちらもよくある民俗説話としてひとまとめにしてしまえる形態を取っている。死んでいるか死ぬ直前のはずの人間が別の場所に元気な姿で出現したという、極めてありがちな話である。たいそう奇妙な奇跡ででもあるかのように思える。ところがこの二つの話はどちらも「遠野物語」が出版された一九一〇年(明治四十三年)に収録されたというばかりでなく、どちらの説話も同様の文体で描かれている点に注意する必要性があるだろう。幻覚を見たというのならわかる。むしろ幻覚ならより一層理解しやすい。同一価値観のもとに置かれた村落共同体では少しばかり類似した話が二つ揃うやたちまち二つが一つの説話へ統合される傾向があるからである。さらに当時はようやく近代日本社会というものが出現した頃でもある。政府主導による言文一致運動が始まって二十年ほど過ぎた頃だ。同一言語の使用という制度は、あたかも今のマスコミのように、別々の違った話を一瞬にして同一化してしまい、両者に間にある微々たる差異を忘れさせてしまう機能を持つ。そこでさらに、ここで柳田が挙げている二つの説話は、日清日露両大戦に勝利した大日本帝国が日本国民の霊魂不滅を高らかに歌い上げようとしていたちょうどその時に、政府の側からは願ってもない大和魂不滅神話へといともたやすく接続されてしまう。時期が悪かったとか言ってみても歴史を変えることはできない。かといって柳田國男に責任があるわけでもまたない。一方、熊楠はこれら説話をどう考えたか。茶に着目した。
「熊野では、人死して枕飯を炊(かし)ぐ間に、その魂妙法山へ詣で、途上茶店に憩いて食事をし、畢(おわ)りて必ず食碗を伏せ茶を喫まずに去ると言い伝え、したがって食後腕を伏せたり茶を呑まなんだりするを忌む。よって考うるに、以前病人死ぬ直前に寺に行って茶を喫み、死後は飲まぬという説が広く行なわれたのが、分離して後には別々の話となったものか。また拙妻の父は闘鶏(とりあわせ)神社(県社、旧称田辺権現)の神主だったが、この社祭礼の日は近郷の民にして家内に不浄の女ある者来たって茶を乞い飲んだ。その縁(つて)のない者は、田辺町のいずれの家にても不浄の女のない家に来て茶を乞い飲んだ。かくせずに祭礼を観ると、馬に蹴られるなど不慮の難に罹る、と話した。これらから見ると、仏教または両部神道盛んな時、茶に滅罪祓除(ふつじょ)の力あると信ぜられたらしい」(南方熊楠「臨死の病人の魂、寺に行く話」『南方民俗学・P.285~286』河出文庫)
日本列島に茶が輸入されたというだけでなく、茶の主成分であるカフェインの効果に着目し、有効活用され始めたのは、「仏教または両部神道盛んな時」だった。と、脱構築する。実際、茶の持つ覚醒効果に着目して鎌倉幕府第三代将軍源実朝が抱えていた鬱状態を和らげ、幕府に近づくことに成功したのは茶の開祖・栄西である。栄西は臨済宗の「仏教徒」である。中世の始まりの頃、戦乱で列島各地が滅茶滅茶になり不安が不安を呼び起こしていく時代に茶の効用を説いた宗教者だった。茶が注目され始めた時期、すなわち「仏教または両部神道盛んな時」だったのだ。
そもそも茶の輸入以前に茶を飲み残したとか百杯飲んで帰って行ったとかいう説話は成立しないし成立しようがない。そういう微細な違いを時として一緒くたにしてしまう柳田に対して熊楠は何とも言いようのない警戒感を示していることが見て取れる。例えば、「源氏物語」に「橋姫」の巻がある。宇治川を渡る橋の周囲には様々な女性が往来し参集していただろう。しかし「橋姫」は「源氏物語」成立以前には一人もいない。「橋姫」は源氏物語が書かれ、二人の姫君の一方が琵琶を、もう一方が琴の音を奏でて始めて出現したのである。
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