白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/地方政界と橋詰で待つ女

2020年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム
大規模伐採の始まりと同時に自然生態系の異変にいち早く気づいた熊楠は東奔西走する。急速に失われていく紀州の自然環境。ところが、よもやと思っていた場所に意想外の希少種が宿っていたことも稀にはあった。

「粘菌ごとき種数の比較的少なき一群くらかくのごとくなれば、藻、菌、地衣、苔、蘚等の種類広大なる諸群について、小生が紀州および十津川で見出でたる数は莫大のものに御座候。たとい小生の創見の新種にならずとも世界中に植物分布の学をなすにおいてはなはだ益あることに御座候。このほか小生一向専心気にとめぬながら、上等植物においても従来四国、九州、また琉球、また熱帯地方にのみ産すと思われたるもので、紀州にあることを見出だしたるものも多く候。たとえばWolffiaと申し、これほどの植物で、世界の上等隠花植物中最小のものと称するものなど、台湾にはあれど本州にあるを知らざりしに、小生紀州和歌浦の東禅寺と申す寺の古き手水鉢の中より見出だし候」(南方熊楠「山男について、神社合祀反対の開始、その他」『南方民俗学・P.424』河出文庫)

とはいえ、そのようなことは滅多にない。数えるほどもない。ほとんどの場合、生態系は今の世界的環境変動と同じくほんの些細な例外に過ぎないと思われていた生物の一種が突然大規模な範囲で壊滅していたり、あるいは今のように絶滅危惧種が本当に消滅してしまいもはやどこを探しても見当たらなくなっている、という事態から一挙に広がる傾向を持つ。始めのうちはマスコミも取り上げない。もっともマスコミが取り上げないのは、そのうち自分自身がその犠牲者として死に、あるいは身近な人々もどんどん死んでいくといった実際の現場を目の当たりにするまで気づこうとしないからなのだが。熊楠による次の文章は前にも引用した。

「小生初めこの姦徒より承しは、証拠品百五十点とか三百点とかありしとのことなり。しかるに小生知るところにては、熊野三山の荒廃はなはだしき今日、新宮には多少足利氏時代の神宝文書あるも、本宮には何にもなく、那智には神宝三、四件をのこすのみ。目録は多少存するが(それも小生手許にはあるが、那智山には只今ありやなしや分からず)、何たる証拠などはなし。しかるに百五十点も三百点もあるとは、実に稀代のことと存じおり候ところ、今回彼輩入獄の理由は、噂(うわさ)によれば文書偽造の廉(かど)なる由。大抵かかる古文書は、文体前後を専門の文士に見せたら早速真偽は分かるものに候。しかるに、かかる胡乱(うろん)過多の証拠品を取り上げ、日本有数の山林をたちまち下付せしこと、はなはだ怪しまれ申し候。かの徒の書上(かきあげ)中にも、三万円は運動費(悪く言わば賄賂)に使うた、と書きあり。しかして、色川村のみの下付山林を伐らば二十万円村へ入る、一戸に割つけたら知れたものなり。このうち十二万円は弁護士に渡す約束の由。つまり他処の人々が濡れ手で栗を攫(つか)み、村民はほんの器械につかわれ、実際一人につき二、三銭の益を得るのみ」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.381~382』河出文庫)

内容は同じだが二つに分けて述べている箇所もある。

第一に。

「今春三月末中村代議士(敬次郎)内務大臣と会見の結果、本県に制定せる一村一社の制は、大臣の意にも政府の意にもあらざること知れ、また近く古趾、旧林保存等のことを首唱する人多く出で候に、当県は今に合祀と濫滅と絶えず。これはただ県知事や官吏のいを咎むるべきにあらず。騎虎の勢い一旦言い出して、利慾深き村吏、姦民などの乗ずるところとなりたるにて、何とか合祀を全く止めてくれるにあらずんば、これまで紀州に存せし動植物種にして全滅するものはなはだ多からんと憂慮致し候」(南方熊楠「山男について、神社合祀反対の開始、その他」『南方民俗学・P.425』河出文庫)

第二に。

「しかして、神社の森にのみ限れる濫滅にあらずして、すでに行政裁判所にて那智の神社と色川村へ下付成りたる那智山林ごときも(前月二十五日勝浦港より来たりし拙弟の酒店の番頭の言によるに)、大林区署よりはいつ切るも宜しとの許可を受けあり、那智滝の水源たる寺山の林木をもことごとく伐り払うはずにて、これを手に入れたる色川村にては二十万円ばかりの利分のうち十二万円は弁護士の酬労に仕払うつもりとのことなり。また中辺路の唯一の林木(拾い子谷〔ひらいごだに〕とて、小生の発見せる南方丁字蘚、友人宇井氏の発見せる紀州シダ等珍物多く、熊野の官道を歩して熊野の林景を見得るはここの外なきなり。その他はすでに濫伐のため全くの禿山にて、熊野諸王子の社は濫併のため一、二を除き全滅なり)、八十余丁と申す。実は六十町に過ぎじ」(南方熊楠「山男について、神社合祀反対の開始、その他」『南方民俗学・P.425~426』河出文庫)

次のケースは不遜乱暴極まりない特定の業者が関係の深い地方政界人と繋がりを持っている場合に起こしがちなものだ。今でもしばしば見られ訴訟に発展する。「鳥が巣を作りたる」ことで一部の木の枝が他の枝と少し変わって見える。何千年もの昔から変わらない自然循環の一つだ。ところが伐採目的で呼ばれた業者と地方官吏はそれを「見た目」だけでわざとらしく「枯損木」と決めつけて伐採する。重機を振り回して「わざと乱暴に四方へあてちらし」伐採する。すると周囲の樹木もまたあちこち傷だらけになるため「見た目」ばかりは「枯損木」に見える。そして行政の側はいう。これらもまた「枯損木」ゆえに斬り捨てると。

「小生の舅二年前死亡後の神主、たちまち世話人と申し合わせ、右の健壮の大樟を枯損木と称し、きり尽し根まで掘り売り、神泉全く滅す。小生これを知らず、珍しき健壮大樟の写真とり保勝会長徳川候へ呈せんと六月末に行きしに、右の次第ゆえに大いに呆れ、郡役所へかけあうに、枝の一部に枯損ありしゆえ枯損木なりという。それは鳥が巣を作りたるなり。しかして、この樹を掘り取るとて、わざと乱暴に四方へあてちらし、他のマキ、冬青(もち)等の樹十三本を損傷せしむ。これまた枯損木を作り伐らんためなり。よって甚(いた)く抗議せしに、郡長止むを得ず、件(くだん)の社の社務所より世話人を集め語る。その最中に発頭人(前郡長たりし人)口より涎出で動くこと能わず、戸板へのせ宅へ帰り、五日ばかり樟のことのみ言いちらし狂死す。ほかに今二本の大樟を枯損木と称し、すでに伐採の許可を得たるも、小生見るに少しも枯損の趣きなし、これは残る。また県庁への書上(かきあげ)には、この社の林に樟木二十五本あり、とあり。しかるに小生みずから行き見るに、右の三本しかなし。すべて地方今日のこと虚偽のみ行なわるることかくのごとし」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.392~393』河出文庫)

そこで問題だが、「那智滝の水源たる寺山の林木をもことごとく伐り払うはずにて、これを手に入れたる色川村にては二十万円ばかりの利分のうち十二万円は弁護士の酬労に仕払うつもりとのこと」、とある箇所。結果的にどうなったか。先に述べた通り。

「色川村のみの下付山林を伐らば二十万円村へ入る、一戸に割つけたら知れたものなり。このうち十二万円は弁護士に渡す約束の由。つまり他処の人々が濡れ手で栗を攫(つか)み、村民はほんの器械につかわれ、実際一人につき二、三銭の益を得るのみ」

当初提示された数万円という額面の誘惑に駆られたため途中から他村のことは別にして官吏の側を支援した。が、その実情は「村民はほんの器械につかわれ、実際一人につき二、三銭の益を得るのみ」で泣きを見た。さらに言うまでもなく、売った土地は返ってこない。もし地方官吏に噛みつき、そんな話ではなかったはずでは、と訴訟を起こしたとする。今度は和歌山県庁並びに和歌山県警が前に出てくるだろう。それでもなお食い下がったとしよう。次に東京から派遣された大日本帝国陸軍並びに特高警察が熊野の土地へ堂々と入り込んできてすべての村民は沈黙するほかなくなるだろう。

国策に対して抵抗する勢力がある場合、それら抵抗勢力のあいだに金銭を介して内部分裂を起こさせ、抵抗運動そのものを内部から瓦解させてしまう方法は特に日本だけの特産品というわけでなく先進諸外国ではもはやお家芸だった。一八六七年(慶応三年)生まれの同い年で留学経験もある熊楠や漱石から見れば、そうした日本政府の陰湿な暴力政治が火を吹くのはもはや目に見えていた。それにしてもおかしなのは、熊楠が、熊野の土地は記紀神話の時代から、スメラミコト、何度も繰り返された天皇御幸、歴代天皇のミソギの地、若王子信仰、熊野九十九王子社、など神話時代から皇室と非常に関係が深く、文献を上げて「万葉集」、「平家物語」、「太平記」、後白河院や西行の和歌など様々な面から紹介しても、明治政府は実質的に無視したという事実だろう。

もっとも、全国平均で見て収益に恵まれているとは言えない土地の村民がついうっかり土地買収に乗ってしまうということはしばしばある。

「色川村のみの下付山林を伐らば二十万円村へ入る、一戸に割つけたら知れたものなり。このうち十二万円は弁護士に渡す約束の由。つまり他処の人々が濡れ手で栗を攫(つか)み、村民はほんの器械につかわれ、実際一人につき二、三銭の益を得るのみ」

そうなってしまえばもう挽回の余地はないに等しい。だから熊楠は「色川村」だけを責めたりはしない。むしろ中央官僚はそういうことを平気でやる連中だと知っていた。さらに熊楠はそもそも政治運動家でない。にもかかわらず政治活動に奔走しなくてはならないような事態に陥っている。肝心の生物学研究に没頭できない事情のため近頃は鬱々して仕方がないという気持ちを述べた書簡を残しもしている。自然生態系の規則正しい循環維持が人間生活にとってどれほど重要な課題か、知っているからこそわざわざ畑違いの政治活動に奔走したのである。

思うわけだが、政治運動に分裂は付きものだ。金銭による買収は今なお問われ続けているけれども止む気配はほぼ一向に見られない。かつて既得権益を持った団体の力が低下すると、低下したぶん、次に勢力を拡大した団体の既得権益へと移動するばかりだ。移動する先にはこれまでと違った新しい儲け話が転がっているからそうするのだろう。そしてかつて既得権益を持った団体が消滅すると同時に次に出てきた団体が既得権益団体化する。これまでそうだったようにこれからもそうだろう。そこで問題になるのは神社合祀問題の渦中で起こった「色川村」の件のように、あらかじめ承諾された進路が何らかの事情のため途中で屈折し、双方ともに損害が発生する場合である。

かつて近江国瀬田の唐橋は東海道の物流の要衝だった。様々な人間が通っていく。その中に京の都での勤務を終えて美濃国へ帰ろうとしている一人の男がいた。唐橋は見晴らしがいい。或る女が立って、往来を見ている。そこへ美濃国へ急ぐ男の姿が目に入った。女は、頼みごとがあるのだが、と男に近づく。

「美濃へ下(くだり)ケルニ、勢田(せた)ノ橋ヲ渡ルニ、橋ノ上ニ、女ノ裾取(すそとり)タルガ立テリケレバ、遠助、怪シト見テ過(すぐ)ル程ニ、女ノ云(いは)ク、『彼(あ)レハ、何(いづ)チ御(おは)スル人ゾ』ト。然レバ、遠助、馬ヨリ下(おり)テ、『美濃ヘ罷(まか)ル人也』ト答フ。女『言付(ことづけ)申サムト思フハ、聞給(ききたま)ヒテヤ』ト云ければ、遠助、『申シ侍リナム』ト答フ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十一・P.128」岩波書店)

男は女の申し出を気前よく引き受けた。宛先を述べるので、或る「箱」をそこまで持って行ってくれればそこに或る別の女がいるはずだから手渡してほしい、というもの。

「此ノ箱、方県(かたかた)ノ郡(こほり)ノ唐(もろこし)ノ郷(さと)ノ段(きだ)ノ橋ノ許(もと)ニ持御(もておは)シタラバ、橋ノ西ノ爪(つめ)ニ、女房御(おは)セムトスラム。其ノ女房ニ、此レ奉リ給(たまへ)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十一・P.128」岩波書店)

美濃国には実際「方県(かたかた)ノ郡(こほり)」というところがあった。再編再々編されながらも一八九七年(明治三十年)まで岐阜県方県郡(かたかたぐん)として実在した。しかし「方県(かたかた)ノ郡(こほり)」は実在するしよく知ってはいても、そのすぐ後の「唐(もろこし)ノ郷(さと)」は「異境」を意味する言葉であって、不気味な気がしなくもない。ともあれ、男は下向途中でもあるし引き受けることにして「箱」を受け取り故郷美濃国へ帰った。ところが、ようやく都での勤務を終えた解放感からか、道中、女の頼みごとを軽んじて後に回すことにし、受け取った「箱」だけ家の棚の上に置いて済ましていた。

一方、男の妻は「箱」が気になる。もしや夫が都にいる間に他に好みの女でも出来て、その土産かもといぶかしがる。ここが屈折点だ。夫が出かけているあいだに妻が「箱」を開けて中を覗き込むと、無惨にえぐり抜かれた無数の眼球と陰毛を残したまま斬り落とされた多くの男性器が詰め込まれていた。

「遠助ガ出(いで)タル間(ま)ニ、妻蜜(ひそか)ニ箱ヲ取下(とりおろ)シテ開(あけ)テ見ケレバ、人ノ目ヲ抉(くじり)テ数(あまた)入レタリ。亦、男ノ摩羅(まら)ヲ毛少シ付(つ)ケツツ多ク切入(きりい)レタリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十一・P.129」岩波書店)

話を聞かされた男は慌てて約束の橋の橋詰へ「箱」を持っていった。言われた通り、或る女が待っていた。女は「箱」の中を改める。と、「見たな」と見抜かれ、女の顔はみるみる凄まじい憤怒の形相に変わり男を睨み付ける。帰宅することはできたにはできたが、男は急な病に犯され死んでしまう。妻は夫を亡くし、もう若くもなく、一人残されるはめに陥ってしまった。

妻はちょっとした嫉妬心から「箱」を開けてみたに過ぎない。が、その中に詰め込まれていたのは計り知れないほど酷い目に合って泣かされた無数の女性らの怨嗟の象徴だった。この、ちょっとした出来心のため、神代から様々な伝統が伝わる土地をいとも安易に売り払い、土地買収の甘い話に乗って結局損をした村民の立場とはそういうものである。なお、「今昔物語」のこの条で注意すべきは嫉妬がどうしたこうしたということだけでなく、最初に「唐橋」の女が言ったようにきっちり「橋ノ西ノ爪(つめ)ニ」持って行ってほしいという点である。というのはそこまでが「唐(もろこし)ノ郷(さと)」=「異境」であって何がどのように屈折するかおぼつかないため、慎重を期して「橋の詰」まで着地すること。橋の上は或る地域から別の地域への境界領域であって予想もつかないことが発生しやすい。だから女性は重要な荷物の場合、必ず「橋詰」で受け取って始めて任務を完了したと見るのである。逆にいえば男性は橋の途中でどんな風の吹き回しから気持ちをころりと変えてしまうかわからない。室町時代になってなお男性に対する信用は激しく下落していたのである。

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