熊楠の愛読書の一つに「御伽草子」がある。これまで、「熊野の本地のそうし」、「秋夜長物語」、「鉢かづき」、を例に上げて述べてきた。これら三種類の中で「鉢かづき」だけは異色である。なぜなら「鉢かづき」はシンデレラ物語の系列に属するからだ。
「シンダレラ物語は、何人も知らぬ者なき通り、欧米で最も盛んに行なわるる仙姑伝(フェアリーテイル)なり。シンダレラ、継母に悪まれ、常に灰中に坐し、厮役(しえき)厨務に苦しめられ、生活全く異母妹の盛飾遊食するに反せり。一旦仙姑の助けにより、貴公子に見初められしが、公子これを執えんとするごとに、駛(と)く去って影を留めず。しかるに、ある夕、例のごとく公子眼前に舞踏済み、遁れ去らんとして、仙姑がくれたる履を落とす。公子これを拾い、衆女を試むるに、シンダレラの足のみこれに合う。公子よって意中の人を認め、これを娶る」(南方熊楠「西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」『南方民俗学・P.190~191』河出文庫)
タイトルが「支那書に載せたる」なので「西暦九世紀の〜」ではあえて言及していないわけだが。シンデレラ系物語がヨーロッパでは圧倒的に多いのに比べて東アジアにはないのか。それが本当だとしたら、それはそれでまたおかしいのでは、と熊楠は調べ始める。すると古代中国では案外、それに類似するエピソードを見つけることができた。ほんの二、三例だが列挙してみよう。
「燕人李季、好遠出、其妻私有通於士、季突之、士在内中、妻患之、其室婦曰、令公子裸而解髪、直出門、吾属佯不見也、於是公子従其計、疾走出門、季曰、是何人也、家室皆曰無有、季曰、吾見鬼乎、婦人曰然、為之奈何、曰取五姓之矢浴之、季曰諾、乃浴以矢
(書き下し)燕人李季(りき)、遠出を好む。其の妻私かに士に通ずる有り。季突(にわか)に之<至>(いた)るに、士内中(ないちゆう)に在り。妻これを患(うれ)う。其の室婦(しつふ)曰わく、公子をして裸(はだか)にして髪を解き、直(ただ)ちに門を出(い)でしめよ。吾が属(ぞく)、見ずと佯(いつわ)らんと。是(ここ)に於いて公子其の計に従い、疾走して門を出(い)づ。季曰わく、是れ何人ぞやと。家室皆な曰わく、有ること無しと。季曰わく、吾れ鬼(き)を見たるかと。婦人曰わく、然りと。これを為すこと奈何(いかん)。曰わく、五姓(牲)の矢(し)を取りてこれに浴せよと。季曰わく、諾(だく)と。乃ち浴するに矢を以てせり。
(現代語訳)燕(えん)の人である李季(りき)は遠くへ旅に出ることを好んだ。そこでその妻はこっそり若い男と通じていた。季が突然に帰宅したとき、その若い男が寝室の中にいたので、妻は青くなった。召使いの女が言った、『あのお方(かた)に、裸になってさんばら髪で、まっしぐらに門から飛び出してもらいなさい。わたくしどもは見えなかったふりをしましょう』。そこで、その若い男は計略どおりに突(つ)っ走って門を出た。李季は『あれは何ものだ』とたずねたが、家じゅうの者みな『何もおりません』と答えた。李季が『わたしは幽霊でも見たのかな』と言うと、女ども『そうです』。『〔変なものに取りつかれたようだが〕どうしたらよかろうか』。『五牲の糞を集めて体に浴びることです』。李季は『よし』と言って、そこで糞を浴びた」(「韓非子2・内儲説下・六微・第三十一・P.318~321」岩波文庫)
家の女中らがみんな力を合わせて主人の妻の側に立っている。裸で逃げていく男性の姿が明らかに見えているにもかかわらず、夫が妄想を見たに過ぎないという展開へ持っていった点はなかなか面白い。「五牲」とあるのは「生贄(いけにえ)の家畜」のこと。牛、羊、豕、犬、鶏、の五種。どれを取っても民衆の日常生活には欠かせない動物である。逆にそれらの「糞」を浴びることがミソギの意味を持つ。
次のエピソードはもう少し怖い。第一に、シンデレラとして生き残るための闘争。第二に、同じ一つの言葉が同時に複数の意味を持つ点について注意深く慎重な態度が必要であること。
「荊王所愛妾有鄭袖者、荊王新得美女、鄭袖因教之曰、王甚喜人之掩口也、為近王、必掩口、美女入見、近王因掩口、王問其故、鄭袖曰、此固言悪王之臭、及王与鄭袖美女三人坐、袖因先誡御者曰、王適有言、必亟聴従王言、美女前近王、甚数掩口、王悖然怒曰、劓之、御者因揄刀而劓美人
(書き下し)荊王(けいおう)の愛する所の妾(しよう)に鄭袖(ていしゆう)なる者有り。荊王新たに美女を得たり。鄭袖因(よ)りてこれに教えて曰わく、王は甚だ人の口を掩(おお)うを喜ぶ。為<若>(も)し王に近づけば、必ず口を掩えと。美女入れて見(まみ)え、王に近づくや因りて口を掩う。王其の故を問う。鄭袖曰わく、王適<若>(も)し言有れば、必ず亟(すみや)かに王の言に聴従(ちようじゆう)せよと。美女前(すす)みて王に近づき、甚だ数々(しばしば)口を掩う。王悖自然(ぼつぜん)として怒りて曰わく、これを劓(はなそ)げと。御者因りて刀を揄(ぬ)きて美人を劓ぐ。
(現代語訳)楚王が寵愛した妾(しょう)に鄭袖(ていしゅう)という者がいた。楚王が新しく美女を手に入れたとき、鄭袖はその女に教えてこう言った、『王さまは、人が口もとをおおい隠すのがとてもお好きです。もし王さまのお側によられたら、必ずお口をおおいなさい』。美女は宮中に入ってお目どおりをしたが、王の側近くによると、そこで口もとをおおった。王がそのわけをたずねると、鄭袖は答えた、『あの人はもともと王さまの体の臭いが嫌いだと言っていました』。その後、王が鄭袖と美女と三人でいっしょにくつろいだときのこと、鄭袖はそのために前もって側仕えに注意して『もし何か王さまの言いつけがあれば、必ずすぐにそれに従うのですよ』と言っておいたが、美女は前に進んで王のお側によると、何度もくりかえして口もとをおおった。王はむっとして怒り、『こやつを鼻そぎの刑にせよ』と命じた。側仕えはそこで刀を抜くと、美人の鼻を切り落とした」(「韓非子2・内儲説下・六微・第三十一・P.331~334」岩波文庫)
さらに、シンデレラ系物語から離れて、外国と類似する日本の説話にはどのようなものがあるか、引かれている。
次の説話は、妻の嫉妬深さのあまりに夫が耐えきれず、鎌倉へ帰って行ってしまったというエピソード。夫は上司が所管する「遠江国、池田」にやって来たのでその地の庄官として顔を出そうとするわけだが、宴会が始まればきっと遊女を呼んで卑猥な行為に耽るに違いないと思った妻は、夫の男性器に「すり粉」を塗り付けて送り出した。もし性行為に及んだ場合、帰宅後に「すり粉」を見れば遊びの痕跡が残るはずだと。
「シルシヲツケントテ、カクレタル所ニ、スリコヲヌリテケリ。サテ宿ヘユキヌ。地頭ミナ子細シリテ、イミジク女房ニユルサレテオハシタリ。遊女ヲビテアソビ給ヘト云ニ、人ニモニヌ物ニテ、ムツカシク候。シカモ符ヲツケラレテ候トイフテ、シカシカトカタリケレバ、冠者原ニミセテ、本ノゴトクヌルベシトテ、遊テ後、モトノヤウニタガヘズ、スリコヲヌリテ家ヘ歸リヌ。妻、イデイデ見ントテ、スリコヲ、コソゲテナメテミテ、サレバコソシテケリ。我ガスリコニハ、鹽ヲクハヘタルニ、是ハシホガナキトテ、ヒキフセテシバリケリ」(日本古典文学体系「沙石集・拾遺・五八・二・P.493」岩波書店)
夫は「冠者原ニミセテ、本ノゴトクヌルベシトテ」、遊んだ後に、元通りに「すり粉」を施して帰宅した。しかし妻は騙されなかった。妻が塗り込んだ「すり粉」には塩を混ぜておいたのだが、帰宅後の夫の男性器に塗られていた「すり粉」はまったく何ら塩の味がしなかったからである。
次の説話でも証拠として用いられるのは性器への「シルシ」(印)である。女性の場合。夫は出かける前に妻の女性器に絵を描いておく。牛の絵である。
「マオトコモテル妻ヲ、シルシツケントテ、カクレタル所ニ、牛ヲカキテケリ。サル程ニ、マメオトコノ来ニ、カカル事ナンアリト語ケレバ、我モ絵ハカケバ、カクベシトテ、サラバ能々ミテ、モトノ如クモカカデ、実ノオトコハ、フセル牛ヲカケルニ、マオトコハ、タテル牛ヲカキテケリ。サテ夫歸リ見テ、サレバコソ、マオトコノ所爲ニコソ。我カケル牛ハ、フセル牛ナルニ、是ハタテル牛ナリト、シカリケレバ、アハレヤミ給ヘ。フセル牛ハ、一生フセルカトイヒケレバ、サモアルラントテ、ユルシツ」(日本古典文学体系「沙石集・拾遺・五八・二・P.493」岩波書店)
夫は帰宅後、妻の女性器に描いた牛の絵を調べる。すると「フセル牛」を描いたはずが「タテル牛」の絵に変わっている。その違いゆえ露見してしまったわけだが、妻は夫に訊ねる。臥せる牛はずっと臥せる牛のままなのか。立つこともあるのではありませんかと。そこで夫は、言われてみればそういうこともあるかもしれない、と考えて許すことにしたという話。だからといって必ずしも女性は男性より嫉妬深い粘着質だとは限らない。個人差というものがあるだろうと熊楠は言っている。
さらに。名高い「史記列伝」から幾つか拾っている。シンデレラとして華々しく登場するためには別に高学歴だけが基準ではないという点で、次の二つのエピソードが上げられている。第一に、美少年として寵愛されること。男性同性愛の対象として重く用いられ、宮廷内の服装・化粧の流行さえ変えてしまうほど鍾愛される「眉目(みめ)よさとへつらいとだけ」を武器にできるような場合。
「漢の始めには、高祖皇帝はきわめて率直な気のあらいかたであったが、それでも籍孺(せきじゅ=籍は名。孺は少年の意)はへつらい(佞)によって寵愛(幸)された。恵帝の世には閎孺(こうじゅ=閎は名)がいた。この二人は別にきわだった才能があったわけではなく、眉目(みめ)よさとへつらいとだけによって気に入られ引きたてられ、天子と起(お)き臥(ふ)しをともにし、大臣たちが天子に提案しようと思うことは皆かれらの口を通さねばならなかった。そのため恵帝の世では、郎や侍中(近侍の雑務や供奉〔ぐぶ〕の官)たちはみな錦鶏(きんけい)の羽で帽子をかざり、貝がらで帯をかざり、紅(べに)やお白粉(しろい)をつけていたが、それは閎孺や籍孺を見習ったためであった。この両人はのちに家を安陵(あんりょう=恵帝の陵)の側に移した」(「佞幸列伝 第六十五」『史記列伝5・P.119~120』岩波文庫)
第二に、芸能者として秀でていること。ここに上げられている事例は、或る一家が揃って芸能民として目立って活躍できる技術の持ち主であったという稀有なケース。
「李延年(りえんねん)は、中山(ちゅうざん)の人である。父母およびかれ自身、その兄弟および姉妹ともに、皆もとは歌や踊りの芸人であった。李延年は罪をおかして腐刑(去勢の刑)に処せられ、狗監(こうかん=天子の猟犬の管理役)の役所につとめていた。ところが、平陽公主(へいようこうしゅ=武帝の実姉)が、李延年の妹は踊りがうまい、とすすめ、陛下は見て気にかなった。彼女が後宮にはいると、李延年も召し出されて引きたてられた。李延年はすぐれた歌手で、新しい歌曲を作った。そのころちょうど陛下は天地の神々の社(やしろ)を造営中で、その祀(まつ)りのための賛歌を新作し、伴奏をつけて歌わせよう、と考えていた。李延年はうまく陛下の心もちをくんで、新作の詩に曲をつけ、歌った。かれの妹も寵愛をうけ、皇子(のちの昌邑王劉賀〔しょうゆうおうりゅうが〕)を生んだ。李延年は二千石(せき)の官印を身につけ、協声律(きょうせいりつ)という称号をもらった。かれは陛下と起き臥しをともにし、めざましいとりたてと寵愛をうけ、それはかつての韓嫣に匹敵するものであった。そののちかなりして、かれは、弟の季(き)が後宮の女と密通し、また宮中へ出はいりする態度も傲慢(ごうまん)であるために、咎(とが)めをうけた。その妹の李夫人が亡くなってからは、寵愛はおとろえて、のち李延年兄弟は捕えられて死刑となった」(「佞幸列伝 第六十五」『史記列伝5・P.124~125』岩波文庫)
というふうに、重用される機会を得ることができ、なおかつ長く重んじられるようになってはいても、一族の中から傲慢で自信過剰な者をたった一人出してしまったばかりに、それまでこつこつと磨きをかけて培われてきた芸能一族が一瞬で全滅するという社会保障なき時代の悲喜劇が描かれている。だがしかし、熊楠がシンデレラ系物語に見ているものはもっと現実的な問題だ。それは何かというと、すべての挿話に絡んできているのを見ればわかるように、問題は遺産相続だからである。
そしてまた、今日のようにキャッシュレス社会の一般化とともに認証形式が変わってくると、刀で鼻を削ぎ落とされた「揄刀而劓美人」の事例と「すり粉」の仕掛けが露呈して帰宅後に土間に縛り付けられた「ヒキフセテシバリケリ」の事例とはただちに繋ぎ合わされ、いとも容易に冤罪を仕立て上げることができるようになる。遺産相続もまた同時進行的に複雑な混乱を招くことになるだろう。キャッシュレスの是非は色々ある。だが民事にせよ刑事にせよいずれにせよ、個人々々の機微に触れる問題だけに、より一層慎重な対応方法を模索していく必要性はまだ多いと言わねばならない。そこで重要性を持ってくるのはまたしても言葉の問題だろうと思われる。柳田國男はいう。
「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で伐(き)り殺したことがあった。女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔も見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(みが)いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.81~82』ちくま文庫)
柳田國男「山の人生」出版は一九二六年(大正十五年)。前年一月から八月にかけて「アサヒグラフ」に連載された論考をまとめたもの。文中に「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年」とあるのはおそらく一八九七年(明治三十年)十月頃のこと。日清戦争後のインフレで一般大衆の生活は加速的に苦しくなり、株価暴落、会社倒産続出、低賃金労働者層急増、などを受けて「貧乏世帯」向けに日本政府が計上した予算は戦前に八千万円程度だったものが戦後、ちょうど明治三十年には二億二千万円に達した。
一方、三年前の一八九四年(明治二十七年)。日本は日清戦争に勝利している。帝国大学農科大学(現・東京大学農学部)に勤めていた白井光太郎は、明治二十七年頃に栃木県日光の山林がどんどん伐採されるのを目撃し、樹木の切り口から「血ノ如キモノ流出スル」と言って嘆いている。柳田のいう「炭焼き」と白井のいう「木炭」とは無関係でない。白井が目撃した日光山中の大規模伐採は弾薬製造用の木炭準備のために為された国策だった。ところが日清戦争勝利でいったん需要は終わる。そしてインフレが始まる。すると三年後の一八九七年(明治三十年)、炭焼きを職業とする家の家長が自分の子どもを二人とも「鉞(まさかり)で伐(き)り殺」すという事態が生じていた。
なお、柳田の代表作とされる「遠野物語」出版は一九一〇年(明治四十三年)。「遠野物語」では「山の人生」で描かれた生々しい「人間苦」がすっかり忘れ去られている。あるいは「山の人生」は、それまで「苦しみ」として考えられていなかった行為を「人間苦」として出現させた。ありふれた「常民」が主人公として出現し、「常民」の「人間苦」がその内容としてありありと描写される。また「遠野物語」では、それとは別のおぞましげなエピソードがふと顔を覗かせている点は評価できるかもしれない。ともあれ、なぜ柳田の文章にはそのようなパラドックスが多々発生するのだろうか。
両者の間にあるのはただ単なる時間差ではない。時代の違いでもない。フーコーにならえば、時間差あるいは時代の違い以上のものがある、と言うだろう。それは両者の間に横たわる「文体」の差異にほかならない。或る種の文体はそれ以前の過程を忘れさせる効果を持つ。過去にあったことを忘れさせてみたり、その逆に、過去になかったことをあったことのように物語化してみたり。柳田の文体はその意味で日本近代「民俗学」の起源であると同時に日本近代「文学」の起源の《一つ》でもある。だから柳田國男の諸作品はいつもパルマコン(医薬/毒薬)としての両義性を不可避的に持つのである。
BGM1
BGM2
BGM3
「シンダレラ物語は、何人も知らぬ者なき通り、欧米で最も盛んに行なわるる仙姑伝(フェアリーテイル)なり。シンダレラ、継母に悪まれ、常に灰中に坐し、厮役(しえき)厨務に苦しめられ、生活全く異母妹の盛飾遊食するに反せり。一旦仙姑の助けにより、貴公子に見初められしが、公子これを執えんとするごとに、駛(と)く去って影を留めず。しかるに、ある夕、例のごとく公子眼前に舞踏済み、遁れ去らんとして、仙姑がくれたる履を落とす。公子これを拾い、衆女を試むるに、シンダレラの足のみこれに合う。公子よって意中の人を認め、これを娶る」(南方熊楠「西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」『南方民俗学・P.190~191』河出文庫)
タイトルが「支那書に載せたる」なので「西暦九世紀の〜」ではあえて言及していないわけだが。シンデレラ系物語がヨーロッパでは圧倒的に多いのに比べて東アジアにはないのか。それが本当だとしたら、それはそれでまたおかしいのでは、と熊楠は調べ始める。すると古代中国では案外、それに類似するエピソードを見つけることができた。ほんの二、三例だが列挙してみよう。
「燕人李季、好遠出、其妻私有通於士、季突之、士在内中、妻患之、其室婦曰、令公子裸而解髪、直出門、吾属佯不見也、於是公子従其計、疾走出門、季曰、是何人也、家室皆曰無有、季曰、吾見鬼乎、婦人曰然、為之奈何、曰取五姓之矢浴之、季曰諾、乃浴以矢
(書き下し)燕人李季(りき)、遠出を好む。其の妻私かに士に通ずる有り。季突(にわか)に之<至>(いた)るに、士内中(ないちゆう)に在り。妻これを患(うれ)う。其の室婦(しつふ)曰わく、公子をして裸(はだか)にして髪を解き、直(ただ)ちに門を出(い)でしめよ。吾が属(ぞく)、見ずと佯(いつわ)らんと。是(ここ)に於いて公子其の計に従い、疾走して門を出(い)づ。季曰わく、是れ何人ぞやと。家室皆な曰わく、有ること無しと。季曰わく、吾れ鬼(き)を見たるかと。婦人曰わく、然りと。これを為すこと奈何(いかん)。曰わく、五姓(牲)の矢(し)を取りてこれに浴せよと。季曰わく、諾(だく)と。乃ち浴するに矢を以てせり。
(現代語訳)燕(えん)の人である李季(りき)は遠くへ旅に出ることを好んだ。そこでその妻はこっそり若い男と通じていた。季が突然に帰宅したとき、その若い男が寝室の中にいたので、妻は青くなった。召使いの女が言った、『あのお方(かた)に、裸になってさんばら髪で、まっしぐらに門から飛び出してもらいなさい。わたくしどもは見えなかったふりをしましょう』。そこで、その若い男は計略どおりに突(つ)っ走って門を出た。李季は『あれは何ものだ』とたずねたが、家じゅうの者みな『何もおりません』と答えた。李季が『わたしは幽霊でも見たのかな』と言うと、女ども『そうです』。『〔変なものに取りつかれたようだが〕どうしたらよかろうか』。『五牲の糞を集めて体に浴びることです』。李季は『よし』と言って、そこで糞を浴びた」(「韓非子2・内儲説下・六微・第三十一・P.318~321」岩波文庫)
家の女中らがみんな力を合わせて主人の妻の側に立っている。裸で逃げていく男性の姿が明らかに見えているにもかかわらず、夫が妄想を見たに過ぎないという展開へ持っていった点はなかなか面白い。「五牲」とあるのは「生贄(いけにえ)の家畜」のこと。牛、羊、豕、犬、鶏、の五種。どれを取っても民衆の日常生活には欠かせない動物である。逆にそれらの「糞」を浴びることがミソギの意味を持つ。
次のエピソードはもう少し怖い。第一に、シンデレラとして生き残るための闘争。第二に、同じ一つの言葉が同時に複数の意味を持つ点について注意深く慎重な態度が必要であること。
「荊王所愛妾有鄭袖者、荊王新得美女、鄭袖因教之曰、王甚喜人之掩口也、為近王、必掩口、美女入見、近王因掩口、王問其故、鄭袖曰、此固言悪王之臭、及王与鄭袖美女三人坐、袖因先誡御者曰、王適有言、必亟聴従王言、美女前近王、甚数掩口、王悖然怒曰、劓之、御者因揄刀而劓美人
(書き下し)荊王(けいおう)の愛する所の妾(しよう)に鄭袖(ていしゆう)なる者有り。荊王新たに美女を得たり。鄭袖因(よ)りてこれに教えて曰わく、王は甚だ人の口を掩(おお)うを喜ぶ。為<若>(も)し王に近づけば、必ず口を掩えと。美女入れて見(まみ)え、王に近づくや因りて口を掩う。王其の故を問う。鄭袖曰わく、王適<若>(も)し言有れば、必ず亟(すみや)かに王の言に聴従(ちようじゆう)せよと。美女前(すす)みて王に近づき、甚だ数々(しばしば)口を掩う。王悖自然(ぼつぜん)として怒りて曰わく、これを劓(はなそ)げと。御者因りて刀を揄(ぬ)きて美人を劓ぐ。
(現代語訳)楚王が寵愛した妾(しょう)に鄭袖(ていしゅう)という者がいた。楚王が新しく美女を手に入れたとき、鄭袖はその女に教えてこう言った、『王さまは、人が口もとをおおい隠すのがとてもお好きです。もし王さまのお側によられたら、必ずお口をおおいなさい』。美女は宮中に入ってお目どおりをしたが、王の側近くによると、そこで口もとをおおった。王がそのわけをたずねると、鄭袖は答えた、『あの人はもともと王さまの体の臭いが嫌いだと言っていました』。その後、王が鄭袖と美女と三人でいっしょにくつろいだときのこと、鄭袖はそのために前もって側仕えに注意して『もし何か王さまの言いつけがあれば、必ずすぐにそれに従うのですよ』と言っておいたが、美女は前に進んで王のお側によると、何度もくりかえして口もとをおおった。王はむっとして怒り、『こやつを鼻そぎの刑にせよ』と命じた。側仕えはそこで刀を抜くと、美人の鼻を切り落とした」(「韓非子2・内儲説下・六微・第三十一・P.331~334」岩波文庫)
さらに、シンデレラ系物語から離れて、外国と類似する日本の説話にはどのようなものがあるか、引かれている。
次の説話は、妻の嫉妬深さのあまりに夫が耐えきれず、鎌倉へ帰って行ってしまったというエピソード。夫は上司が所管する「遠江国、池田」にやって来たのでその地の庄官として顔を出そうとするわけだが、宴会が始まればきっと遊女を呼んで卑猥な行為に耽るに違いないと思った妻は、夫の男性器に「すり粉」を塗り付けて送り出した。もし性行為に及んだ場合、帰宅後に「すり粉」を見れば遊びの痕跡が残るはずだと。
「シルシヲツケントテ、カクレタル所ニ、スリコヲヌリテケリ。サテ宿ヘユキヌ。地頭ミナ子細シリテ、イミジク女房ニユルサレテオハシタリ。遊女ヲビテアソビ給ヘト云ニ、人ニモニヌ物ニテ、ムツカシク候。シカモ符ヲツケラレテ候トイフテ、シカシカトカタリケレバ、冠者原ニミセテ、本ノゴトクヌルベシトテ、遊テ後、モトノヤウニタガヘズ、スリコヲヌリテ家ヘ歸リヌ。妻、イデイデ見ントテ、スリコヲ、コソゲテナメテミテ、サレバコソシテケリ。我ガスリコニハ、鹽ヲクハヘタルニ、是ハシホガナキトテ、ヒキフセテシバリケリ」(日本古典文学体系「沙石集・拾遺・五八・二・P.493」岩波書店)
夫は「冠者原ニミセテ、本ノゴトクヌルベシトテ」、遊んだ後に、元通りに「すり粉」を施して帰宅した。しかし妻は騙されなかった。妻が塗り込んだ「すり粉」には塩を混ぜておいたのだが、帰宅後の夫の男性器に塗られていた「すり粉」はまったく何ら塩の味がしなかったからである。
次の説話でも証拠として用いられるのは性器への「シルシ」(印)である。女性の場合。夫は出かける前に妻の女性器に絵を描いておく。牛の絵である。
「マオトコモテル妻ヲ、シルシツケントテ、カクレタル所ニ、牛ヲカキテケリ。サル程ニ、マメオトコノ来ニ、カカル事ナンアリト語ケレバ、我モ絵ハカケバ、カクベシトテ、サラバ能々ミテ、モトノ如クモカカデ、実ノオトコハ、フセル牛ヲカケルニ、マオトコハ、タテル牛ヲカキテケリ。サテ夫歸リ見テ、サレバコソ、マオトコノ所爲ニコソ。我カケル牛ハ、フセル牛ナルニ、是ハタテル牛ナリト、シカリケレバ、アハレヤミ給ヘ。フセル牛ハ、一生フセルカトイヒケレバ、サモアルラントテ、ユルシツ」(日本古典文学体系「沙石集・拾遺・五八・二・P.493」岩波書店)
夫は帰宅後、妻の女性器に描いた牛の絵を調べる。すると「フセル牛」を描いたはずが「タテル牛」の絵に変わっている。その違いゆえ露見してしまったわけだが、妻は夫に訊ねる。臥せる牛はずっと臥せる牛のままなのか。立つこともあるのではありませんかと。そこで夫は、言われてみればそういうこともあるかもしれない、と考えて許すことにしたという話。だからといって必ずしも女性は男性より嫉妬深い粘着質だとは限らない。個人差というものがあるだろうと熊楠は言っている。
さらに。名高い「史記列伝」から幾つか拾っている。シンデレラとして華々しく登場するためには別に高学歴だけが基準ではないという点で、次の二つのエピソードが上げられている。第一に、美少年として寵愛されること。男性同性愛の対象として重く用いられ、宮廷内の服装・化粧の流行さえ変えてしまうほど鍾愛される「眉目(みめ)よさとへつらいとだけ」を武器にできるような場合。
「漢の始めには、高祖皇帝はきわめて率直な気のあらいかたであったが、それでも籍孺(せきじゅ=籍は名。孺は少年の意)はへつらい(佞)によって寵愛(幸)された。恵帝の世には閎孺(こうじゅ=閎は名)がいた。この二人は別にきわだった才能があったわけではなく、眉目(みめ)よさとへつらいとだけによって気に入られ引きたてられ、天子と起(お)き臥(ふ)しをともにし、大臣たちが天子に提案しようと思うことは皆かれらの口を通さねばならなかった。そのため恵帝の世では、郎や侍中(近侍の雑務や供奉〔ぐぶ〕の官)たちはみな錦鶏(きんけい)の羽で帽子をかざり、貝がらで帯をかざり、紅(べに)やお白粉(しろい)をつけていたが、それは閎孺や籍孺を見習ったためであった。この両人はのちに家を安陵(あんりょう=恵帝の陵)の側に移した」(「佞幸列伝 第六十五」『史記列伝5・P.119~120』岩波文庫)
第二に、芸能者として秀でていること。ここに上げられている事例は、或る一家が揃って芸能民として目立って活躍できる技術の持ち主であったという稀有なケース。
「李延年(りえんねん)は、中山(ちゅうざん)の人である。父母およびかれ自身、その兄弟および姉妹ともに、皆もとは歌や踊りの芸人であった。李延年は罪をおかして腐刑(去勢の刑)に処せられ、狗監(こうかん=天子の猟犬の管理役)の役所につとめていた。ところが、平陽公主(へいようこうしゅ=武帝の実姉)が、李延年の妹は踊りがうまい、とすすめ、陛下は見て気にかなった。彼女が後宮にはいると、李延年も召し出されて引きたてられた。李延年はすぐれた歌手で、新しい歌曲を作った。そのころちょうど陛下は天地の神々の社(やしろ)を造営中で、その祀(まつ)りのための賛歌を新作し、伴奏をつけて歌わせよう、と考えていた。李延年はうまく陛下の心もちをくんで、新作の詩に曲をつけ、歌った。かれの妹も寵愛をうけ、皇子(のちの昌邑王劉賀〔しょうゆうおうりゅうが〕)を生んだ。李延年は二千石(せき)の官印を身につけ、協声律(きょうせいりつ)という称号をもらった。かれは陛下と起き臥しをともにし、めざましいとりたてと寵愛をうけ、それはかつての韓嫣に匹敵するものであった。そののちかなりして、かれは、弟の季(き)が後宮の女と密通し、また宮中へ出はいりする態度も傲慢(ごうまん)であるために、咎(とが)めをうけた。その妹の李夫人が亡くなってからは、寵愛はおとろえて、のち李延年兄弟は捕えられて死刑となった」(「佞幸列伝 第六十五」『史記列伝5・P.124~125』岩波文庫)
というふうに、重用される機会を得ることができ、なおかつ長く重んじられるようになってはいても、一族の中から傲慢で自信過剰な者をたった一人出してしまったばかりに、それまでこつこつと磨きをかけて培われてきた芸能一族が一瞬で全滅するという社会保障なき時代の悲喜劇が描かれている。だがしかし、熊楠がシンデレラ系物語に見ているものはもっと現実的な問題だ。それは何かというと、すべての挿話に絡んできているのを見ればわかるように、問題は遺産相続だからである。
そしてまた、今日のようにキャッシュレス社会の一般化とともに認証形式が変わってくると、刀で鼻を削ぎ落とされた「揄刀而劓美人」の事例と「すり粉」の仕掛けが露呈して帰宅後に土間に縛り付けられた「ヒキフセテシバリケリ」の事例とはただちに繋ぎ合わされ、いとも容易に冤罪を仕立て上げることができるようになる。遺産相続もまた同時進行的に複雑な混乱を招くことになるだろう。キャッシュレスの是非は色々ある。だが民事にせよ刑事にせよいずれにせよ、個人々々の機微に触れる問題だけに、より一層慎重な対応方法を模索していく必要性はまだ多いと言わねばならない。そこで重要性を持ってくるのはまたしても言葉の問題だろうと思われる。柳田國男はいう。
「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で伐(き)り殺したことがあった。女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔も見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(みが)いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.81~82』ちくま文庫)
柳田國男「山の人生」出版は一九二六年(大正十五年)。前年一月から八月にかけて「アサヒグラフ」に連載された論考をまとめたもの。文中に「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年」とあるのはおそらく一八九七年(明治三十年)十月頃のこと。日清戦争後のインフレで一般大衆の生活は加速的に苦しくなり、株価暴落、会社倒産続出、低賃金労働者層急増、などを受けて「貧乏世帯」向けに日本政府が計上した予算は戦前に八千万円程度だったものが戦後、ちょうど明治三十年には二億二千万円に達した。
一方、三年前の一八九四年(明治二十七年)。日本は日清戦争に勝利している。帝国大学農科大学(現・東京大学農学部)に勤めていた白井光太郎は、明治二十七年頃に栃木県日光の山林がどんどん伐採されるのを目撃し、樹木の切り口から「血ノ如キモノ流出スル」と言って嘆いている。柳田のいう「炭焼き」と白井のいう「木炭」とは無関係でない。白井が目撃した日光山中の大規模伐採は弾薬製造用の木炭準備のために為された国策だった。ところが日清戦争勝利でいったん需要は終わる。そしてインフレが始まる。すると三年後の一八九七年(明治三十年)、炭焼きを職業とする家の家長が自分の子どもを二人とも「鉞(まさかり)で伐(き)り殺」すという事態が生じていた。
なお、柳田の代表作とされる「遠野物語」出版は一九一〇年(明治四十三年)。「遠野物語」では「山の人生」で描かれた生々しい「人間苦」がすっかり忘れ去られている。あるいは「山の人生」は、それまで「苦しみ」として考えられていなかった行為を「人間苦」として出現させた。ありふれた「常民」が主人公として出現し、「常民」の「人間苦」がその内容としてありありと描写される。また「遠野物語」では、それとは別のおぞましげなエピソードがふと顔を覗かせている点は評価できるかもしれない。ともあれ、なぜ柳田の文章にはそのようなパラドックスが多々発生するのだろうか。
両者の間にあるのはただ単なる時間差ではない。時代の違いでもない。フーコーにならえば、時間差あるいは時代の違い以上のものがある、と言うだろう。それは両者の間に横たわる「文体」の差異にほかならない。或る種の文体はそれ以前の過程を忘れさせる効果を持つ。過去にあったことを忘れさせてみたり、その逆に、過去になかったことをあったことのように物語化してみたり。柳田の文体はその意味で日本近代「民俗学」の起源であると同時に日本近代「文学」の起源の《一つ》でもある。だから柳田國男の諸作品はいつもパルマコン(医薬/毒薬)としての両義性を不可避的に持つのである。
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