かつて生理中の女性が七日間独居するために設けられた小屋を「待屋」(たいや)といった。明治時代の日本ではまだ全国各地に残っていた。熊楠は子供時代にその中の様子を見て痛くショックを受けたといっている。
「吾輩幼児なお熊野辺で待屋(たいや)という小盧を家ごとに別に構え、月事ある婦女は一週間その中に独居した。ーーー今日婦女の衛生処理大いに進み、月事小屋などどの地にも見るを得べからざる世となっては、古人が月水を大いに恐れた意味は到底分からず。したがって米国などには月水を至って清浄神聖なものとする輩すらある由。そんな人に和泉式部が伏拝みの詠などを聴かせても全然真実らしく思わず、言実に過ぎたりとか、ほんの歌詠上の誇張とか評すること必せり」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.248』河出文庫)
このようなことを一九一七年(大正六年)にもなってアメリカ人に話したとて通じないのは当たり前だと述べる。しかもアメリカがヨーロッパから独立したとき既に生理中の女性に関する健康管理方法は随分進歩していたわけなので、ますます理解は誤解へと横滑りしていくに違いないと。
そこでなぜ「和泉式部」の話題が出てくるのか。日本では当たり前のように理解者はばんばん出てくる。ところがアメリカ人に聞かせてもなぜそこで「和泉式部」なのか、戦後の日本文化研究家ならいざ知らず、一九一七年(大正六年)のアメリカ人には理解不可能に違いないと熊楠は言いたがっているようだ。大正時代に至ってなお日本では、生理中の女性の現実生活と「和泉式部」の話題は直結していた。だが世界史の中でもつい最近発生したばかりで込み入った歴史を持たないアメリカ人の中ではこんがらがって意味不明、宛先不明な話題と化す。
柳田國男は「和泉式部と足袋」の中でこう述べている。
「鷲や狼が赤児を持って来てくれたという話は、日本でも古くから各地に語り伝えられているが、それはそのような事実がかつて一度でもあってその経験を不精確にまたは誇張して記憶しているのではなく、むしろ今一段と荒唐無稽なる昔の信仰、すなわち偉人というものが尋常一様の産屋(うぶや)の中からは生れず、往々にして異類の姿を仮りて世に出たものだという神話の、ただ少しばかり合理化して保存せられたものであったことは、今まで集めてみた若干の類例だけでも、おおよそは推論することができるかと思う」(柳田國男「桃太郎の誕生・和泉式部の足袋・熊の子・鹿の子」『柳田國男全集10・P.355』ちくま文庫)
歴史に名を残すほどの人物。ここで扱われている和歌なら和泉式部。それも童女の場合なので「白い鹿の子」だと語り伝えられたりした。ところが「鹿の子」だというためには条件がある。それは女性が足袋を履く風習が習慣化した社会になって始めて生まれてくることができる、という条件である。鹿の足先は二つに分かれている。だから実際に鹿の子であろうとなかろうと、あるいは鹿に育てられたのであろうとなかろうと、鹿の側がより一層問題なのではなく、逆に履き物の先が二つに分かれた「足袋」というものが日常生活の中にそこそこ根付いている必要性があるのだ。さらに柳田のいうように、「尋常一様の産屋(うぶや)の中からは生れず、往々にして異類の姿を仮りて世に出たものだという神話」、にふさわしい人物でなくてはならない。和泉式部の場合は「白鹿」。ちょうどそこに当てはまったのが和泉式部であり、子どもの頃から和歌に優れた才能を発揮した一人の女性だった。そして女性である以上、まだまだ衛生環境不十分だった頃の生理とは、切っても切り離せない伝説がまとわりついてくることとなった。
ちなみに和泉式部や小野小町に関する伝説は日本各地にある。数えきれないほど大量にある。生まれた場所や死んだ場所だけでもなぜか複数ある。歌を詠んだ場所を入れると数十は下らないだろう。そのように膨大な式部伝説の中から柳田が取り上げるのは熊野に関する説話である。
「熊野本宮路の伏拝(ふしおがみ)の石塔なども、路傍ではあり苔深く古びていたから、ほとんど信じない者の通行を許さぬくらいであったが、式部が月の障りの歌を詠み権現が塵にまじわるの御返歌をなされたということが、始めて記録せられたのは元応三年の『続千載集』(ぞくせんざいしゅう)である」(柳田國男「桃太郎の誕生・和泉式部の足袋・雨乞小町など」『柳田國男全集10・P.374』ちくま文庫)
そう述べる柳田なのだが、しかし「続千載集」に収録されるほどの歌だったかどうかは極めて怪しいと見ている。
「『続千載集』によれば、和泉式部本宮に詣ろうとして、伏拝という処に来て一泊しますと、急に身の様子が変って、奉幣が不可能になりました。そこで次のような歌を詠んだといってあります。
はれやらぬ身にうき雲のたなびきて月のさはりとなるぞかなしき
そうするとその夜の夢に、神自ら御答の歌を御示しになりました。
もろともに塵にまじはる神なれば月のさはりも何か苦しき
この二つの歌は二つとも、作者の名誉のためにぜひ否定せねばならぬほど粗末な歌であります。最も手短かにおかしい点を申しますと、はれやらぬということは意味をなさず、浮雲のたなびくということはありませぬ。また神歌と称する方は、いわゆる和光同塵(わこうどうじん)の意を託したのでしょうが、本末の関係があやしい上に、差支えがないということを苦しからずといったのは、神にふさわしからぬ中代の俗語でありました。従って二首とも偽作ということになり、歌は偽作で事柄だけが真実ということは、あり得ないのであります。実際また熊野参詣の盛んになったのは、和泉式部の頃よりも少し後からであって、あるいはこのような手筒な歌を詠んで身を歎き、さらにまた神から許されたという夢を見た、女の道者もあったか知れませんが、故障のある婦人が参拝を制せられたのは多分一般の作法で、特に名歌の徳をもって、この作者のみが許されたというのが、話の骨子だとしますと、歌がまずければ話にはなりませぬ。どうしてまた堂々たる撰集にこれを載せたかと考えますと、つまりはその当時、もっぱらこの霊夢の奇瑞を談ずる者が、熊野に往来した京の人に多かったためで、それはまた誓願寺の念仏功徳を、熊野の信仰と結び付けようとした、一遍上人の門徒ではなかったかと思います。なお伏拝という地名は遥拝処という事で、伊勢を始めとして諸国の大社の周囲には、何かの理由があって参籠のできぬ者のために、特に幾つとなく設けてありました。女が伏拝に来て信心をするということは、霊山の中腹に女人堂(にょにんどう)というものがあり、女人結界石(けっかいせき)があり、また白山、立山、日光、金北山等の麓に近く、姥石、比丘尼(びくに)岩などがあって、登山困難の口碑が残っていると同じ意味だと思います」(柳田國男「女性と民間伝承・勅撰集中の伝説」『柳田國男全集10・P.450~451』ちくま文庫)
柳田は資料取集にやや手間取っているように見えるけれども大事な点は押さえている。要するに、重要なのは熊野信仰だからだ。柳田がいうようにこの歌は間違いなく偽作であったとしよう。二条為世撰になる「続千載集」発表は一三二〇年(元応二年)、七年前の一三一三年(正和二年)には京極為兼による「玉葉和歌集」が発表されている。京極派の女性歌人・永福門院はこんな歌を詠んでいる。
「朝戸明(あさとあけ)の軒ばに近く聞ゆなり梢のからす雪ふかきこゑ」(新日本古典文学体系「永福門院百番御自歌合・一一二」『中世和歌集・鎌倉編・P.413』岩波書店)
烏(からす)の出現。さらに玉葉で爲子はこう詠んだ。
「音もなく夜はふけすぎて遠近の里の犬こそ聲あはすなれ」(「玉葉和歌集・卷第十五・従三位爲子・P.335」岩波文庫)
夜になると犬(いぬ)たちがあちこちで啼いていると。
烏にしても犬にしても「万葉集」に載ったのとは意味がまったく違っている。万葉集に出てくる犬や烏はただそこにいるべくしているごく当たり前の動物として詠まれた。しかし十四世紀前半、「玉葉和歌集」、「続千載集」、などで再登場してきた烏や犬はただそこにいるというよりもなお一層、京の都においてさえ不気味さを増していく不穏な世情の象徴として読み込まれたものだ。永福門院や従三位爲子の歌によって烏や犬は新しく「見出された」のである。
その五十年ばかり前から、親鸞、道元、日蓮、一遍など、日本思想史に残る仏教系哲学者が多く輩出した。戦乱の世に入っていたことは誰もが知っている。ちなみに東京大学理学部人類学教室の鈴木尚は一九五三年(昭和二十八年)五月から一九五六年(昭和三十一年)三月に渡る三回の調査の結果、神奈川県鎌倉市材木座の松林一帯で、人間の人骨計九百十体を発掘した。しかしこれらの人骨は大小三十二箇所に分けて掘られた濠の中に密集状態で埋められていたものだけであり、その多くが武装していることと馬も同様に埋められている様子から、武士階級に限って埋葬されたものだろうと推測された。さらにその特徴からこれら密集した人骨は鎌倉幕府滅亡戦となった新田義貞による鎌倉攻めの残骸であるとほぼ断定された。捕らえられ処刑された武士だけでもそれほどの数に上っている。ということは実際の死者は遥かに多い。太平記に「六千余人」とある。
「血は流れて、湣々(こんこん)たる洪河(こうが)の如し。尸(かばね)は満ちて、塁々(るいるい)たる郊原(こうげん)の如し。死骸は焼けて見えねども、後(のち)に名字(みょうじ)を尋ぬれば、ここ一所(いっしょ)にして自害したる者、すべて八百七十三人なり。この外(ほか)、平家の門葉たる人々、その恩顧を蒙(こうぶ)る族(やから)、僧俗男女(そうぞくなんにょ)を云はず、聞き伝へ、泉下(せんか)に恩を報ずる人々、その数を知らず。鎌倉中(かまくらじゅう)を数ふるに、すべて六千余人とぞ聞こえし」(「太平記2・第十巻・9・相模入道自害(さがみのにゅうどうじがい)の事・P.161」岩波文庫)
荒廃していく世相の中で、歌をもって民衆の苦しみを訴えようとする動きが、特に女性を通して受け継がれることになる。熊野を通過したことで、それらの系列の一つに和泉式部という名が大きく加わったのではと思われる。
熊楠の愛読書「御伽草子」に次の文章がある。
「和泉式部(いづみしきぶ)と申して、やさしき遊女(ゆうぢよ)有り」(日本古典文学体系「和泉式部」『御伽草子・P.312』岩波書店)
これら数々の草子は全国に散っていった熊野比丘尼の「絵解き」を通して伝播していった。
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「吾輩幼児なお熊野辺で待屋(たいや)という小盧を家ごとに別に構え、月事ある婦女は一週間その中に独居した。ーーー今日婦女の衛生処理大いに進み、月事小屋などどの地にも見るを得べからざる世となっては、古人が月水を大いに恐れた意味は到底分からず。したがって米国などには月水を至って清浄神聖なものとする輩すらある由。そんな人に和泉式部が伏拝みの詠などを聴かせても全然真実らしく思わず、言実に過ぎたりとか、ほんの歌詠上の誇張とか評すること必せり」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.248』河出文庫)
このようなことを一九一七年(大正六年)にもなってアメリカ人に話したとて通じないのは当たり前だと述べる。しかもアメリカがヨーロッパから独立したとき既に生理中の女性に関する健康管理方法は随分進歩していたわけなので、ますます理解は誤解へと横滑りしていくに違いないと。
そこでなぜ「和泉式部」の話題が出てくるのか。日本では当たり前のように理解者はばんばん出てくる。ところがアメリカ人に聞かせてもなぜそこで「和泉式部」なのか、戦後の日本文化研究家ならいざ知らず、一九一七年(大正六年)のアメリカ人には理解不可能に違いないと熊楠は言いたがっているようだ。大正時代に至ってなお日本では、生理中の女性の現実生活と「和泉式部」の話題は直結していた。だが世界史の中でもつい最近発生したばかりで込み入った歴史を持たないアメリカ人の中ではこんがらがって意味不明、宛先不明な話題と化す。
柳田國男は「和泉式部と足袋」の中でこう述べている。
「鷲や狼が赤児を持って来てくれたという話は、日本でも古くから各地に語り伝えられているが、それはそのような事実がかつて一度でもあってその経験を不精確にまたは誇張して記憶しているのではなく、むしろ今一段と荒唐無稽なる昔の信仰、すなわち偉人というものが尋常一様の産屋(うぶや)の中からは生れず、往々にして異類の姿を仮りて世に出たものだという神話の、ただ少しばかり合理化して保存せられたものであったことは、今まで集めてみた若干の類例だけでも、おおよそは推論することができるかと思う」(柳田國男「桃太郎の誕生・和泉式部の足袋・熊の子・鹿の子」『柳田國男全集10・P.355』ちくま文庫)
歴史に名を残すほどの人物。ここで扱われている和歌なら和泉式部。それも童女の場合なので「白い鹿の子」だと語り伝えられたりした。ところが「鹿の子」だというためには条件がある。それは女性が足袋を履く風習が習慣化した社会になって始めて生まれてくることができる、という条件である。鹿の足先は二つに分かれている。だから実際に鹿の子であろうとなかろうと、あるいは鹿に育てられたのであろうとなかろうと、鹿の側がより一層問題なのではなく、逆に履き物の先が二つに分かれた「足袋」というものが日常生活の中にそこそこ根付いている必要性があるのだ。さらに柳田のいうように、「尋常一様の産屋(うぶや)の中からは生れず、往々にして異類の姿を仮りて世に出たものだという神話」、にふさわしい人物でなくてはならない。和泉式部の場合は「白鹿」。ちょうどそこに当てはまったのが和泉式部であり、子どもの頃から和歌に優れた才能を発揮した一人の女性だった。そして女性である以上、まだまだ衛生環境不十分だった頃の生理とは、切っても切り離せない伝説がまとわりついてくることとなった。
ちなみに和泉式部や小野小町に関する伝説は日本各地にある。数えきれないほど大量にある。生まれた場所や死んだ場所だけでもなぜか複数ある。歌を詠んだ場所を入れると数十は下らないだろう。そのように膨大な式部伝説の中から柳田が取り上げるのは熊野に関する説話である。
「熊野本宮路の伏拝(ふしおがみ)の石塔なども、路傍ではあり苔深く古びていたから、ほとんど信じない者の通行を許さぬくらいであったが、式部が月の障りの歌を詠み権現が塵にまじわるの御返歌をなされたということが、始めて記録せられたのは元応三年の『続千載集』(ぞくせんざいしゅう)である」(柳田國男「桃太郎の誕生・和泉式部の足袋・雨乞小町など」『柳田國男全集10・P.374』ちくま文庫)
そう述べる柳田なのだが、しかし「続千載集」に収録されるほどの歌だったかどうかは極めて怪しいと見ている。
「『続千載集』によれば、和泉式部本宮に詣ろうとして、伏拝という処に来て一泊しますと、急に身の様子が変って、奉幣が不可能になりました。そこで次のような歌を詠んだといってあります。
はれやらぬ身にうき雲のたなびきて月のさはりとなるぞかなしき
そうするとその夜の夢に、神自ら御答の歌を御示しになりました。
もろともに塵にまじはる神なれば月のさはりも何か苦しき
この二つの歌は二つとも、作者の名誉のためにぜひ否定せねばならぬほど粗末な歌であります。最も手短かにおかしい点を申しますと、はれやらぬということは意味をなさず、浮雲のたなびくということはありませぬ。また神歌と称する方は、いわゆる和光同塵(わこうどうじん)の意を託したのでしょうが、本末の関係があやしい上に、差支えがないということを苦しからずといったのは、神にふさわしからぬ中代の俗語でありました。従って二首とも偽作ということになり、歌は偽作で事柄だけが真実ということは、あり得ないのであります。実際また熊野参詣の盛んになったのは、和泉式部の頃よりも少し後からであって、あるいはこのような手筒な歌を詠んで身を歎き、さらにまた神から許されたという夢を見た、女の道者もあったか知れませんが、故障のある婦人が参拝を制せられたのは多分一般の作法で、特に名歌の徳をもって、この作者のみが許されたというのが、話の骨子だとしますと、歌がまずければ話にはなりませぬ。どうしてまた堂々たる撰集にこれを載せたかと考えますと、つまりはその当時、もっぱらこの霊夢の奇瑞を談ずる者が、熊野に往来した京の人に多かったためで、それはまた誓願寺の念仏功徳を、熊野の信仰と結び付けようとした、一遍上人の門徒ではなかったかと思います。なお伏拝という地名は遥拝処という事で、伊勢を始めとして諸国の大社の周囲には、何かの理由があって参籠のできぬ者のために、特に幾つとなく設けてありました。女が伏拝に来て信心をするということは、霊山の中腹に女人堂(にょにんどう)というものがあり、女人結界石(けっかいせき)があり、また白山、立山、日光、金北山等の麓に近く、姥石、比丘尼(びくに)岩などがあって、登山困難の口碑が残っていると同じ意味だと思います」(柳田國男「女性と民間伝承・勅撰集中の伝説」『柳田國男全集10・P.450~451』ちくま文庫)
柳田は資料取集にやや手間取っているように見えるけれども大事な点は押さえている。要するに、重要なのは熊野信仰だからだ。柳田がいうようにこの歌は間違いなく偽作であったとしよう。二条為世撰になる「続千載集」発表は一三二〇年(元応二年)、七年前の一三一三年(正和二年)には京極為兼による「玉葉和歌集」が発表されている。京極派の女性歌人・永福門院はこんな歌を詠んでいる。
「朝戸明(あさとあけ)の軒ばに近く聞ゆなり梢のからす雪ふかきこゑ」(新日本古典文学体系「永福門院百番御自歌合・一一二」『中世和歌集・鎌倉編・P.413』岩波書店)
烏(からす)の出現。さらに玉葉で爲子はこう詠んだ。
「音もなく夜はふけすぎて遠近の里の犬こそ聲あはすなれ」(「玉葉和歌集・卷第十五・従三位爲子・P.335」岩波文庫)
夜になると犬(いぬ)たちがあちこちで啼いていると。
烏にしても犬にしても「万葉集」に載ったのとは意味がまったく違っている。万葉集に出てくる犬や烏はただそこにいるべくしているごく当たり前の動物として詠まれた。しかし十四世紀前半、「玉葉和歌集」、「続千載集」、などで再登場してきた烏や犬はただそこにいるというよりもなお一層、京の都においてさえ不気味さを増していく不穏な世情の象徴として読み込まれたものだ。永福門院や従三位爲子の歌によって烏や犬は新しく「見出された」のである。
その五十年ばかり前から、親鸞、道元、日蓮、一遍など、日本思想史に残る仏教系哲学者が多く輩出した。戦乱の世に入っていたことは誰もが知っている。ちなみに東京大学理学部人類学教室の鈴木尚は一九五三年(昭和二十八年)五月から一九五六年(昭和三十一年)三月に渡る三回の調査の結果、神奈川県鎌倉市材木座の松林一帯で、人間の人骨計九百十体を発掘した。しかしこれらの人骨は大小三十二箇所に分けて掘られた濠の中に密集状態で埋められていたものだけであり、その多くが武装していることと馬も同様に埋められている様子から、武士階級に限って埋葬されたものだろうと推測された。さらにその特徴からこれら密集した人骨は鎌倉幕府滅亡戦となった新田義貞による鎌倉攻めの残骸であるとほぼ断定された。捕らえられ処刑された武士だけでもそれほどの数に上っている。ということは実際の死者は遥かに多い。太平記に「六千余人」とある。
「血は流れて、湣々(こんこん)たる洪河(こうが)の如し。尸(かばね)は満ちて、塁々(るいるい)たる郊原(こうげん)の如し。死骸は焼けて見えねども、後(のち)に名字(みょうじ)を尋ぬれば、ここ一所(いっしょ)にして自害したる者、すべて八百七十三人なり。この外(ほか)、平家の門葉たる人々、その恩顧を蒙(こうぶ)る族(やから)、僧俗男女(そうぞくなんにょ)を云はず、聞き伝へ、泉下(せんか)に恩を報ずる人々、その数を知らず。鎌倉中(かまくらじゅう)を数ふるに、すべて六千余人とぞ聞こえし」(「太平記2・第十巻・9・相模入道自害(さがみのにゅうどうじがい)の事・P.161」岩波文庫)
荒廃していく世相の中で、歌をもって民衆の苦しみを訴えようとする動きが、特に女性を通して受け継がれることになる。熊野を通過したことで、それらの系列の一つに和泉式部という名が大きく加わったのではと思われる。
熊楠の愛読書「御伽草子」に次の文章がある。
「和泉式部(いづみしきぶ)と申して、やさしき遊女(ゆうぢよ)有り」(日本古典文学体系「和泉式部」『御伽草子・P.312』岩波書店)
これら数々の草子は全国に散っていった熊野比丘尼の「絵解き」を通して伝播していった。
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