耳塚の意味に関し熊楠は柳田國男との相違を見せている。
「『郷土研究』三巻に、柳田國男氏、耳塚の由来を論じ、人間の耳は容易に截り取り、はるばると輸送もできまじければ、耳塚というものは多くは人の耳を埋めたでなかろうということで、奥羽地方の伝説に獅子舞同士出会い争闘して耳を切られたというから、京都大仏の耳塚も獅子舞の喧嘩で取られた獅子頭の耳か、祭に神に献じた獣畜の耳を埋めたのを、後年太閤征韓に府会したのであろう、太閤は敵の耳や鼻を取って来いと命ずるような残忍な人ではない、諸方に存する鼻塚も人の鼻を取って埋めたでなく、花塚または突き出た端(ハナ)塚の意味であろう、というように言われた。これは実にはなはだしい牽強で、養子やその妻妾を殺して畜生塚を築き、武田を殺してその妻を妾とし、旧友だった佐々の娘九歳なるを磔殺にしたほどの人が、たといときとして慈仁の念を催すことなきにあらざりしにせよ、敵を殺しもしくは殺す代りにその耳鼻を取らしむるくらいのことは躊躇すべきや」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.251~252』河出文庫)
柳田の主張とは別様に、秀吉による耳切(みみきり)劓(はなそぎ)ばかりが残酷だとは限らない。世界史はもとよりのことだ。ヘロドトスはいう。
「スキュタイ人は最初に倒した敵の血を飲む。また戦闘で殺した敵兵は、ことごとくその首級を王の許へ持参する。首級を持参すれば鹵獲物の分配に与ることができるが、さもなくば分配に与れぬからである。スキュタイ人は首級の皮を次のようにして剥ぎとる。耳のあたりで丸く刃物を入れ、首級をつかんでゆすぶり、頭皮と頭蓋骨を離す。それから牛の肋骨を用いて皮から肉をそぎ落し、手で揉んで柔軟にすると一種の手巾ができる。それを自分の乗馬の馬勒にかけて誇るのである。この手巾を一番多く所有する者が、最大の勇士と判定されるからである。またスキュタイの人の中には、剥いだ皮を羊飼の着る皮衣のように縫い合せ、自分の身につける上衣まで作るものも少なくない。さらにまた、敵の死体の右腕の皮を爪ごと剥いで、矢筒の被いを作るものも多い。人間の皮というものは実際厚くもあり艶もよく、ほとんど他のどの皮よりも白く光沢がある」(ヘロドトス「歴史・中・巻四・六四・P.45~46」岩波文庫)
アルトーはこう述べる。
「ヘリオガバルスの全生涯とは、現動化するアナーキーである、というのも、『一者』と『二者』という敵対する両極、男と女を寄せ集める統一の神であるエラガバルスは、矛盾の終わり、戦争とアナーキーの消去であるが、同じく、この矛盾と無秩序の大地の上では、アナーキーを作動させるものでもあるからだ。そしてヘリオガバルスがおし進める地点におけるアナーキーとは、現実化された詩なのである。どんな詩のなかにも本質的な矛盾がある。詩とは、粉砕されてめらめらと炎をあげる多様性である。そして秩序を回復させる詩は、まず無秩序を、燃えさかる局面をもつ無秩序を蘇らせる。それはこれらの局面を互いに衝突させ、それを唯一の地点に連れ戻す。すなわち、火、身振り、血、叫びである。その実在そのものが秩序への挑戦である世界のなかに詩と秩序を連れ戻すことは、戦争と戦争の永続性を取り戻すことである。熱烈な残酷さの状態を取り戻すことであり、諸事物と諸局面のアナーキーを取り戻すことであるが、それら事物と局面は、統一性のなかにあらためて沈み込み、融合してしまう前に覚醒するのである。この危険なアナーキーを目覚めさせる者はつねにその最初の犠牲(いけにえ)である。そしてヘリオガバルスはひとりの熱心なアナーキストであり、まず自分自身を貪り食らい、最後に自分の糞便を貪るのだ。私はヘリオガバルスのなかに敏感なひとつの知性を見てとるが、それはそれぞれの事物とそれぞれの事物との出会いからひとつの観念を引き出す。この男は、ローマのヘラクレス神殿の階段で火をつけさせた竃のなかに儀式の品々を投げ込みながらこう叫ぶ。『《これだけが、そう、これだけがひとりの皇帝にふさわしいのだ》』、と」(アルトー「ヘリオガバルス・第三章・アナーキー・P.157〜158」河出文庫)
日本史に限ってみても、とりわけ戦国時代になってから、耳切(みみきり)劓(はなそぎ)、斬首強姦は盛大に行われてきたと熊楠はいう。
「純友が藤原子高を捕え、截耳割鼻、その妻を奪い将れ去り、平時忠が院使花方の頬に烙印し鼻を殺ぎ、これは法皇をかくし奉るという意を洩らせるなど、敵を耳刂劓(じぎ)することむかしよりあったので、戦国に至っては戦場で鼻切ること、すごぶる盛んなりしあまり、何の高名にもならぬ場合多かりしよう、『北条五代記』巻三に見え、信長、長島城を攻めし時、大鳥居累を陥れ斬首二千人、その耳鼻を城中へ贈り、斎藤道三はその臣下に討たれて鼻を殺がれた」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.252~253』河出文庫)
さらに熊楠は寺石正路の記録を引きつつこう述べる。
「耳塚は晒し物の主意にあらず、供養のものたりと知る。耳塚と申せしは、言葉の語路宜しきにや、また他の耳塚の名に慣れてや、『都名所図会』的の命名なり。実は鼻塚と申すべし」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.252~254』河出文庫)
戦国時代には当たり前だったと述べた、その上で、秀吉の耳塚に関し、「武道に取って尋常事」とし同時に「その耳鼻を埋めて弔い遣るだけの慈心はあった」とする。
「秀吉も時節なみに敵民を耳刂劓するを武道に取って尋常事と心得、諸将に命じて左様させたが、その耳鼻を埋めて弔い遣るだけの慈心はあったと判る」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.254』河出文庫)
熊楠のいう「弔い遣るだけの慈心」。それは古代ギリシア神話の時代から受け継がれてきた《信仰》というに等しい。それとの類似関係について柳田はあまり意識的であると思われない。ところが柳田は、その無意識ゆえ、ふいに興味深い文章を連ねている。
「伴蒿渓(ばんこうけい)の『閑田(かんでん)次筆』の節によれば、耳塚築造の事例は前後三度あったという。太閤(たいこう)秀吉の前には八幡太郎義家が奥州征討の獲物をもって河内国に耳塚を築きかつ耳納寺を建立した。それが第二である。筑前糟屋(かすや)郡香椎(かしい)村大字浜男(はまお)の海辺に一の耳塚がある。神功(じんぐう)皇后三韓征伐の御帰途に作らせたものというそうで、しからばそれが最初である」(柳田國男「耳塚の由来について」『柳田國男全集15・P.549』ちくま文庫)
柳田は歴史的資料をただ時系列的に列挙したまでのことだ。しかしその流れを見るとただ単なる軍事行為というだけでは括りきれない《神事》でもあったことが浮上してくる。日本書紀の記述で神功皇后の新羅征伐において様々な不可解な記述が盛り込まれているのもその一つである。なぜか船上で産気づく。天皇あるいは歴史に名を残す才人が生まれる時、その状況は常に「異常出産」でなければならないというモチーフを踏襲している。
「時に、適(たまたま)皇后(きさき)の開胎(うむがつき)に当(あた)れり。皇后、則ち石(いし)を取(と)りて腰(みこし)に挿(さしはさ)みて、祈(いの)りたまひて曰(まう)したまはく、『事(こと)竟(を)へて還(かえ)らむ日に、茲土(ここ)に産(あ)れたまへ』ともうしたまふ。其の石は、今(いま)伊覩県(いとのあがた)の道(みち)の辺(ほとり)に在(あ)り。既(すで)にして則ち荒魂(あらみたま)を撝(を)ぎたまひて、軍(いくさ)の先鋒(さき)とし、和魂(にぎみたま)を請(ね)ぎて、王船(みふね)の鎮(しずめ)としたまふ」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政前紀・P.146~148」岩波文庫)
このとき生まれたのは後の応神天皇。さらに出産だけでなく新羅征伐の戦闘行為で血塗れになっているため、紀州熊野まで大きく迂回するルートを取ってようやく都入りを果たす。熊野はその頃すでにミソギの地として忘れてはならない神域だった。
「時(とき)に皇后(きさき)、忍熊王師(おしくまのみこいくさ)を起(おこ)して待(ま)てりと聞(きこ)しめして、武内宿禰(たけしうちのすくね)に命(みことおほ)せて、皇子(みこ)を懐(いだ)きて、横(よこしま)に南海(みなみのみち)より出(い)でて、紀伊水門(きのくにのみなと)に泊(とま)らしむ」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政元年二月・P.158~160」岩波文庫)
紀伊国のあちこちをうろうろしているのはそのためである。
「皇后、南(みなみのかた)紀伊国(きのくに)に詣(いた)りまして、太子(ひつぎのみこ)に日高(ひたか)に会(あ)ひぬ。群臣(まへつきみ)と議及(はか)りて、遂(つひ)に忍熊王を攻(せ)めむとして、更(さら)に小竹宮(しののみや)に遷(うつ)ります」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政元年二月・P.160」岩波文庫)
新羅(しらき)は倭(やまと)に朝貢することを余儀なくされたが、その理由の大きな根拠はむしろ倭の側にあり、「新羅(しらき)」=「神の坐す白い国」という信仰が根強くあったことと関係している。その意味で軍事的な侵攻を意味するだけでなく、軍事行動がただちに「神事」の成就として成立させられなければならないという強迫神経症にも似た慌ただしさを含んでいるのであろう。その後で斉明天皇もまた朝鮮半島へ出兵しているが、そのときは既に新羅は唐の軍隊に占領され、残された百済救出行動となって再現されることとなった。これもまた東アジアの中で「神域」とされる地域の僅か一部であれ、倭国に編入させておかねばならないという神経症的軍事行動の様相を呈して見られる。
「是歳(ことし)、百済(くだら)の為(ため)に、将(まさ)に新羅(しらぎ)を伐(う)たむと欲(おもほ)して、乃(すなは)ち駿河国(するがのくに)に勅(みことのり)して船(ふね)を造(つく)らしむ。已(すで)に訖(つくりおは)りて、続麻郊(をみの)に挽(き)至(いた)る時(とき)に、其(そ)の船(ふね)、夜中(よなか)に故(ゆゑ)も無(な)くして、艫舳(へとも)相反(あひかへ)れり。衆(ひとびと)終(つひ)に敗(やぶ)れむことを知(さと)りぬ。科野国(しなののくに)言(まう)さく、『蠅(はへ)群(むらが)れて西(にし)に向(むか)ひて、巨坂(おほさか)を飛(と)び踰(こ)ゆ。大(おほ)きさ十囲(といだき)許(ばかり)。高(たか)さ蒼天(あめ)に至(いた)れり』とまうす。或(ある)いは救軍(すくひのいくさ)の敗績(やぶ)れむ怪(しるし)といふことを知(さと)る。童謡(わざうた)有(あ)りて曰(い)はく、まひらくつのくれつれをのへたをらふくのりかりがみわたとのりかみをのへたをらふくのりかりが甲子とわよとみをのへたをらふくのりかりが」(「日本書紀4・巻第二十六・斉明天皇六年十月~七年正月・P.366」岩波文庫)
というふうに。
ところで秀吉はいったん天下取りとなっており、京の都ではまったくの敵なし。「見せしめ」とか「晒し物」とかを用意する必要はもはやない。にもかかわらず膝下の東山五条の地を選んでわざわざ耳塚を築かせたのにはもっと多くの、あるいは《別の》理由があったと考えられないだろうか。意外と気の小さい秀吉は「神事」として、俗語でいう「神頼み」として、耳塚を築いたと考えられないだろうか。少なくとも全国各地に耳塚や鼻塚があった時代、直径の後継者としての子供に恵まれなかった秀吉が軍事ばかりでなく、神功皇后のエピソードにならって「神事」としての耳塚(実は鼻だとも)建設に着手したと思われなくもないのである。
また、源平合戦の少し前、源頼義が京の六条西洞院(にしのとういん)に「耳納堂」(みのうどう)を作った、という伝説がある。実際に耳が入っているのかどうかは知らない。ところでこの、京の六条西洞院の「堂」とは何か。
「後白河(ごしらかは)の法皇の長講堂(ちやうがうだう)の過去帳(くはこちやう)にも、『祇王・祇女・仏(ほとけ)・とぢらが尊霊(ソンリヤウ)』と、四人一所に入(いれ)られけり。あはれなりし事どもなり」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第一・祇王・P.29」岩波書店)
源氏か平家か勝利するのはいずれなのかまだ判然としない頃、後白河院が作った長講堂(ちょうこうどう)がそれに当たる。また「六条」といっても何度も戦火に陥り、いまではどれがその長講堂なのかよくわからないところもあるが、当時の「六条」は今の「五条通り」をやや南へ下った地点と考えるのが妥当ではないかと言われている。
なお、山岳地帯を通して熊野と深く繋がっており、宮廷人のミソギの場として有名だった吉野について。「敵に塩を送る」ということわざがある。しかし山地だからといってその必要性は何らない。柳田はいう。
「山中ことに漂泊の生存が最も不可能に思われるのは火食の一点であります。いったんその便益を解していた者が、これを抛棄(ほうき)したということはあり得ぬように思われますがとにかくに孤独なる山人には火を利用した形跡なく、しかも山中には虫魚鳥小獣のほかに草木の実とか若葉と根、または菌類などが多く、生で食っていたという話はたくさんに伝えられます。木挽・炭焼の小屋に尋ねて来て、黙って火にあたっていたという話もあれば、川蟹(かわがに)を持って来て焼いて食ったなどとも伝えます。塩はどうするかという疑いのごときは疑いにはなりませぬ。平地の人のごとく多量に消費してはおらぬが、日本では山中に塩分を含む泉いたって多く、また食物の中にも塩気の不足を補うべきものがある。また永年の習性でその需要は著しく制限することができました。吉野の奥で山に逃げ込んだ平地人が、山小屋に塩を乞(こ)いに来た。一握(ひとつか)みの塩を悦(よろこ)んで受けてこれだけあれば何年とかは大丈夫といった話が『羈旅漫記』(きりょまんろく)かに見えておりました」(柳田國男「山の人生・山人考」『柳田国男全集4・P.250~251』ちくま文庫)
さらに熊楠は吉野の「国樔(くずひと)」と芸能とを接続して考えられるのではと示唆していた。彼ら「国樔」は山中で何を食していたか。
「十九年の冬十月(ふゆかむなづき)の戊戌(つちのえいぬ)の朔(ついたちのひ)に、吉野宮(よしののみや)に幸(いでま)す。時(とき)に国樔人(くずひと)来朝(まうけ)り。因(よ)りて醴酒(こざけ)を以(も)て、天皇(すめらみこと)に献(たてまつ)りて、歌(うたよみ)して曰(まう)さく、
橿(かし)の生(ふ)に横臼(よくす)を作(つく)り横臼(よくす)に醸(か)める大御酒(おほみき)うまらに聞(きこ)し持(も)ち食(を)せまろが父(ち)
歌(うたよみ)既(すで)に訖(をは)りて、則(すなは)ち口(くち)を打(う)ちて仰(あふ)ぎて咲(わら)ふ。今(いま)国樔(くずひと)、土毛(くにつもの)献る日(ひ)に、歌(うたよみ)訖(をは)りて即(すなは)ち口を撃(う)ち仰ぎ咲(わら)ふは、蓋(けだ)し上古(いにしへ)の遺則(のり)なり。夫(そ)れ国樔は、其の為人(ひととなり)、甚(はなはだ)淳朴(すなほ)なり。毎(つね)に山(やま)の菓(このみ)を取(と)りて食(くら)ふ。亦(また)蝦蟆(かへる)を煮(に)て上味(よきあぢはひ)とす。名(なづ)けて毛瀰(もみ)と曰(い)ふ。其の土(くに)は、京(みやこ)より東南(たつみのすみ)、山を隔(へだ)てて、吉野河(よしのかは)の上(ほとり)に居(を)り。峯(たけ)儉(さが)しく谷(たに)深(ふか)くして、道路(みち)狭(さ)く巘(さが)し。故(このゆゑ)に、京(みやこ)に遠(とほ)からずと雖(いへど)も、本(もと)より朝来(まうく)ること希(まれ)なり。然(しか)れども此(これ)より後(のち)、婁(しばしば)参赴(まうき)て、土毛(くにつもの)を献る。其の土毛は、栗(くり)・菌(たけ)及(およ)び年魚(あゆ)の類(たぐひ)なり」(「日本書紀2・巻第十・応神天皇十六年八月~二十年九月・P.208」岩波文庫)
様々あったのだ。
BGM1
BGM2
BGM3
「『郷土研究』三巻に、柳田國男氏、耳塚の由来を論じ、人間の耳は容易に截り取り、はるばると輸送もできまじければ、耳塚というものは多くは人の耳を埋めたでなかろうということで、奥羽地方の伝説に獅子舞同士出会い争闘して耳を切られたというから、京都大仏の耳塚も獅子舞の喧嘩で取られた獅子頭の耳か、祭に神に献じた獣畜の耳を埋めたのを、後年太閤征韓に府会したのであろう、太閤は敵の耳や鼻を取って来いと命ずるような残忍な人ではない、諸方に存する鼻塚も人の鼻を取って埋めたでなく、花塚または突き出た端(ハナ)塚の意味であろう、というように言われた。これは実にはなはだしい牽強で、養子やその妻妾を殺して畜生塚を築き、武田を殺してその妻を妾とし、旧友だった佐々の娘九歳なるを磔殺にしたほどの人が、たといときとして慈仁の念を催すことなきにあらざりしにせよ、敵を殺しもしくは殺す代りにその耳鼻を取らしむるくらいのことは躊躇すべきや」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.251~252』河出文庫)
柳田の主張とは別様に、秀吉による耳切(みみきり)劓(はなそぎ)ばかりが残酷だとは限らない。世界史はもとよりのことだ。ヘロドトスはいう。
「スキュタイ人は最初に倒した敵の血を飲む。また戦闘で殺した敵兵は、ことごとくその首級を王の許へ持参する。首級を持参すれば鹵獲物の分配に与ることができるが、さもなくば分配に与れぬからである。スキュタイ人は首級の皮を次のようにして剥ぎとる。耳のあたりで丸く刃物を入れ、首級をつかんでゆすぶり、頭皮と頭蓋骨を離す。それから牛の肋骨を用いて皮から肉をそぎ落し、手で揉んで柔軟にすると一種の手巾ができる。それを自分の乗馬の馬勒にかけて誇るのである。この手巾を一番多く所有する者が、最大の勇士と判定されるからである。またスキュタイの人の中には、剥いだ皮を羊飼の着る皮衣のように縫い合せ、自分の身につける上衣まで作るものも少なくない。さらにまた、敵の死体の右腕の皮を爪ごと剥いで、矢筒の被いを作るものも多い。人間の皮というものは実際厚くもあり艶もよく、ほとんど他のどの皮よりも白く光沢がある」(ヘロドトス「歴史・中・巻四・六四・P.45~46」岩波文庫)
アルトーはこう述べる。
「ヘリオガバルスの全生涯とは、現動化するアナーキーである、というのも、『一者』と『二者』という敵対する両極、男と女を寄せ集める統一の神であるエラガバルスは、矛盾の終わり、戦争とアナーキーの消去であるが、同じく、この矛盾と無秩序の大地の上では、アナーキーを作動させるものでもあるからだ。そしてヘリオガバルスがおし進める地点におけるアナーキーとは、現実化された詩なのである。どんな詩のなかにも本質的な矛盾がある。詩とは、粉砕されてめらめらと炎をあげる多様性である。そして秩序を回復させる詩は、まず無秩序を、燃えさかる局面をもつ無秩序を蘇らせる。それはこれらの局面を互いに衝突させ、それを唯一の地点に連れ戻す。すなわち、火、身振り、血、叫びである。その実在そのものが秩序への挑戦である世界のなかに詩と秩序を連れ戻すことは、戦争と戦争の永続性を取り戻すことである。熱烈な残酷さの状態を取り戻すことであり、諸事物と諸局面のアナーキーを取り戻すことであるが、それら事物と局面は、統一性のなかにあらためて沈み込み、融合してしまう前に覚醒するのである。この危険なアナーキーを目覚めさせる者はつねにその最初の犠牲(いけにえ)である。そしてヘリオガバルスはひとりの熱心なアナーキストであり、まず自分自身を貪り食らい、最後に自分の糞便を貪るのだ。私はヘリオガバルスのなかに敏感なひとつの知性を見てとるが、それはそれぞれの事物とそれぞれの事物との出会いからひとつの観念を引き出す。この男は、ローマのヘラクレス神殿の階段で火をつけさせた竃のなかに儀式の品々を投げ込みながらこう叫ぶ。『《これだけが、そう、これだけがひとりの皇帝にふさわしいのだ》』、と」(アルトー「ヘリオガバルス・第三章・アナーキー・P.157〜158」河出文庫)
日本史に限ってみても、とりわけ戦国時代になってから、耳切(みみきり)劓(はなそぎ)、斬首強姦は盛大に行われてきたと熊楠はいう。
「純友が藤原子高を捕え、截耳割鼻、その妻を奪い将れ去り、平時忠が院使花方の頬に烙印し鼻を殺ぎ、これは法皇をかくし奉るという意を洩らせるなど、敵を耳刂劓(じぎ)することむかしよりあったので、戦国に至っては戦場で鼻切ること、すごぶる盛んなりしあまり、何の高名にもならぬ場合多かりしよう、『北条五代記』巻三に見え、信長、長島城を攻めし時、大鳥居累を陥れ斬首二千人、その耳鼻を城中へ贈り、斎藤道三はその臣下に討たれて鼻を殺がれた」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.252~253』河出文庫)
さらに熊楠は寺石正路の記録を引きつつこう述べる。
「耳塚は晒し物の主意にあらず、供養のものたりと知る。耳塚と申せしは、言葉の語路宜しきにや、また他の耳塚の名に慣れてや、『都名所図会』的の命名なり。実は鼻塚と申すべし」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.252~254』河出文庫)
戦国時代には当たり前だったと述べた、その上で、秀吉の耳塚に関し、「武道に取って尋常事」とし同時に「その耳鼻を埋めて弔い遣るだけの慈心はあった」とする。
「秀吉も時節なみに敵民を耳刂劓するを武道に取って尋常事と心得、諸将に命じて左様させたが、その耳鼻を埋めて弔い遣るだけの慈心はあったと判る」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.254』河出文庫)
熊楠のいう「弔い遣るだけの慈心」。それは古代ギリシア神話の時代から受け継がれてきた《信仰》というに等しい。それとの類似関係について柳田はあまり意識的であると思われない。ところが柳田は、その無意識ゆえ、ふいに興味深い文章を連ねている。
「伴蒿渓(ばんこうけい)の『閑田(かんでん)次筆』の節によれば、耳塚築造の事例は前後三度あったという。太閤(たいこう)秀吉の前には八幡太郎義家が奥州征討の獲物をもって河内国に耳塚を築きかつ耳納寺を建立した。それが第二である。筑前糟屋(かすや)郡香椎(かしい)村大字浜男(はまお)の海辺に一の耳塚がある。神功(じんぐう)皇后三韓征伐の御帰途に作らせたものというそうで、しからばそれが最初である」(柳田國男「耳塚の由来について」『柳田國男全集15・P.549』ちくま文庫)
柳田は歴史的資料をただ時系列的に列挙したまでのことだ。しかしその流れを見るとただ単なる軍事行為というだけでは括りきれない《神事》でもあったことが浮上してくる。日本書紀の記述で神功皇后の新羅征伐において様々な不可解な記述が盛り込まれているのもその一つである。なぜか船上で産気づく。天皇あるいは歴史に名を残す才人が生まれる時、その状況は常に「異常出産」でなければならないというモチーフを踏襲している。
「時に、適(たまたま)皇后(きさき)の開胎(うむがつき)に当(あた)れり。皇后、則ち石(いし)を取(と)りて腰(みこし)に挿(さしはさ)みて、祈(いの)りたまひて曰(まう)したまはく、『事(こと)竟(を)へて還(かえ)らむ日に、茲土(ここ)に産(あ)れたまへ』ともうしたまふ。其の石は、今(いま)伊覩県(いとのあがた)の道(みち)の辺(ほとり)に在(あ)り。既(すで)にして則ち荒魂(あらみたま)を撝(を)ぎたまひて、軍(いくさ)の先鋒(さき)とし、和魂(にぎみたま)を請(ね)ぎて、王船(みふね)の鎮(しずめ)としたまふ」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政前紀・P.146~148」岩波文庫)
このとき生まれたのは後の応神天皇。さらに出産だけでなく新羅征伐の戦闘行為で血塗れになっているため、紀州熊野まで大きく迂回するルートを取ってようやく都入りを果たす。熊野はその頃すでにミソギの地として忘れてはならない神域だった。
「時(とき)に皇后(きさき)、忍熊王師(おしくまのみこいくさ)を起(おこ)して待(ま)てりと聞(きこ)しめして、武内宿禰(たけしうちのすくね)に命(みことおほ)せて、皇子(みこ)を懐(いだ)きて、横(よこしま)に南海(みなみのみち)より出(い)でて、紀伊水門(きのくにのみなと)に泊(とま)らしむ」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政元年二月・P.158~160」岩波文庫)
紀伊国のあちこちをうろうろしているのはそのためである。
「皇后、南(みなみのかた)紀伊国(きのくに)に詣(いた)りまして、太子(ひつぎのみこ)に日高(ひたか)に会(あ)ひぬ。群臣(まへつきみ)と議及(はか)りて、遂(つひ)に忍熊王を攻(せ)めむとして、更(さら)に小竹宮(しののみや)に遷(うつ)ります」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政元年二月・P.160」岩波文庫)
新羅(しらき)は倭(やまと)に朝貢することを余儀なくされたが、その理由の大きな根拠はむしろ倭の側にあり、「新羅(しらき)」=「神の坐す白い国」という信仰が根強くあったことと関係している。その意味で軍事的な侵攻を意味するだけでなく、軍事行動がただちに「神事」の成就として成立させられなければならないという強迫神経症にも似た慌ただしさを含んでいるのであろう。その後で斉明天皇もまた朝鮮半島へ出兵しているが、そのときは既に新羅は唐の軍隊に占領され、残された百済救出行動となって再現されることとなった。これもまた東アジアの中で「神域」とされる地域の僅か一部であれ、倭国に編入させておかねばならないという神経症的軍事行動の様相を呈して見られる。
「是歳(ことし)、百済(くだら)の為(ため)に、将(まさ)に新羅(しらぎ)を伐(う)たむと欲(おもほ)して、乃(すなは)ち駿河国(するがのくに)に勅(みことのり)して船(ふね)を造(つく)らしむ。已(すで)に訖(つくりおは)りて、続麻郊(をみの)に挽(き)至(いた)る時(とき)に、其(そ)の船(ふね)、夜中(よなか)に故(ゆゑ)も無(な)くして、艫舳(へとも)相反(あひかへ)れり。衆(ひとびと)終(つひ)に敗(やぶ)れむことを知(さと)りぬ。科野国(しなののくに)言(まう)さく、『蠅(はへ)群(むらが)れて西(にし)に向(むか)ひて、巨坂(おほさか)を飛(と)び踰(こ)ゆ。大(おほ)きさ十囲(といだき)許(ばかり)。高(たか)さ蒼天(あめ)に至(いた)れり』とまうす。或(ある)いは救軍(すくひのいくさ)の敗績(やぶ)れむ怪(しるし)といふことを知(さと)る。童謡(わざうた)有(あ)りて曰(い)はく、まひらくつのくれつれをのへたをらふくのりかりがみわたとのりかみをのへたをらふくのりかりが甲子とわよとみをのへたをらふくのりかりが」(「日本書紀4・巻第二十六・斉明天皇六年十月~七年正月・P.366」岩波文庫)
というふうに。
ところで秀吉はいったん天下取りとなっており、京の都ではまったくの敵なし。「見せしめ」とか「晒し物」とかを用意する必要はもはやない。にもかかわらず膝下の東山五条の地を選んでわざわざ耳塚を築かせたのにはもっと多くの、あるいは《別の》理由があったと考えられないだろうか。意外と気の小さい秀吉は「神事」として、俗語でいう「神頼み」として、耳塚を築いたと考えられないだろうか。少なくとも全国各地に耳塚や鼻塚があった時代、直径の後継者としての子供に恵まれなかった秀吉が軍事ばかりでなく、神功皇后のエピソードにならって「神事」としての耳塚(実は鼻だとも)建設に着手したと思われなくもないのである。
また、源平合戦の少し前、源頼義が京の六条西洞院(にしのとういん)に「耳納堂」(みのうどう)を作った、という伝説がある。実際に耳が入っているのかどうかは知らない。ところでこの、京の六条西洞院の「堂」とは何か。
「後白河(ごしらかは)の法皇の長講堂(ちやうがうだう)の過去帳(くはこちやう)にも、『祇王・祇女・仏(ほとけ)・とぢらが尊霊(ソンリヤウ)』と、四人一所に入(いれ)られけり。あはれなりし事どもなり」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第一・祇王・P.29」岩波書店)
源氏か平家か勝利するのはいずれなのかまだ判然としない頃、後白河院が作った長講堂(ちょうこうどう)がそれに当たる。また「六条」といっても何度も戦火に陥り、いまではどれがその長講堂なのかよくわからないところもあるが、当時の「六条」は今の「五条通り」をやや南へ下った地点と考えるのが妥当ではないかと言われている。
なお、山岳地帯を通して熊野と深く繋がっており、宮廷人のミソギの場として有名だった吉野について。「敵に塩を送る」ということわざがある。しかし山地だからといってその必要性は何らない。柳田はいう。
「山中ことに漂泊の生存が最も不可能に思われるのは火食の一点であります。いったんその便益を解していた者が、これを抛棄(ほうき)したということはあり得ぬように思われますがとにかくに孤独なる山人には火を利用した形跡なく、しかも山中には虫魚鳥小獣のほかに草木の実とか若葉と根、または菌類などが多く、生で食っていたという話はたくさんに伝えられます。木挽・炭焼の小屋に尋ねて来て、黙って火にあたっていたという話もあれば、川蟹(かわがに)を持って来て焼いて食ったなどとも伝えます。塩はどうするかという疑いのごときは疑いにはなりませぬ。平地の人のごとく多量に消費してはおらぬが、日本では山中に塩分を含む泉いたって多く、また食物の中にも塩気の不足を補うべきものがある。また永年の習性でその需要は著しく制限することができました。吉野の奥で山に逃げ込んだ平地人が、山小屋に塩を乞(こ)いに来た。一握(ひとつか)みの塩を悦(よろこ)んで受けてこれだけあれば何年とかは大丈夫といった話が『羈旅漫記』(きりょまんろく)かに見えておりました」(柳田國男「山の人生・山人考」『柳田国男全集4・P.250~251』ちくま文庫)
さらに熊楠は吉野の「国樔(くずひと)」と芸能とを接続して考えられるのではと示唆していた。彼ら「国樔」は山中で何を食していたか。
「十九年の冬十月(ふゆかむなづき)の戊戌(つちのえいぬ)の朔(ついたちのひ)に、吉野宮(よしののみや)に幸(いでま)す。時(とき)に国樔人(くずひと)来朝(まうけ)り。因(よ)りて醴酒(こざけ)を以(も)て、天皇(すめらみこと)に献(たてまつ)りて、歌(うたよみ)して曰(まう)さく、
橿(かし)の生(ふ)に横臼(よくす)を作(つく)り横臼(よくす)に醸(か)める大御酒(おほみき)うまらに聞(きこ)し持(も)ち食(を)せまろが父(ち)
歌(うたよみ)既(すで)に訖(をは)りて、則(すなは)ち口(くち)を打(う)ちて仰(あふ)ぎて咲(わら)ふ。今(いま)国樔(くずひと)、土毛(くにつもの)献る日(ひ)に、歌(うたよみ)訖(をは)りて即(すなは)ち口を撃(う)ち仰ぎ咲(わら)ふは、蓋(けだ)し上古(いにしへ)の遺則(のり)なり。夫(そ)れ国樔は、其の為人(ひととなり)、甚(はなはだ)淳朴(すなほ)なり。毎(つね)に山(やま)の菓(このみ)を取(と)りて食(くら)ふ。亦(また)蝦蟆(かへる)を煮(に)て上味(よきあぢはひ)とす。名(なづ)けて毛瀰(もみ)と曰(い)ふ。其の土(くに)は、京(みやこ)より東南(たつみのすみ)、山を隔(へだ)てて、吉野河(よしのかは)の上(ほとり)に居(を)り。峯(たけ)儉(さが)しく谷(たに)深(ふか)くして、道路(みち)狭(さ)く巘(さが)し。故(このゆゑ)に、京(みやこ)に遠(とほ)からずと雖(いへど)も、本(もと)より朝来(まうく)ること希(まれ)なり。然(しか)れども此(これ)より後(のち)、婁(しばしば)参赴(まうき)て、土毛(くにつもの)を献る。其の土毛は、栗(くり)・菌(たけ)及(およ)び年魚(あゆ)の類(たぐひ)なり」(「日本書紀2・巻第十・応神天皇十六年八月~二十年九月・P.208」岩波文庫)
様々あったのだ。
BGM1
BGM2
BGM3