和歌山県での神社合祀反対運動は熊楠一人の孤軍奮闘というイメージが強い。実際そうだった。資金難は当然のことながら同志といっても熊楠の考える自然生態系に関心のある限られた研究者や理解者に留まらざるを得なかったからである。
「小生家内事多く、昨夜来眠らずすこぶるくたびれ、また明日は英国のリスター女史へ粘菌送るため、これから顕微鏡の画をかかざるべからず。それがすむと、野中村へ神林の老木伐採を見合わすよう勧告に、往復十七、八里を歩まねばならず。野中(のなか)、近露(ちかつゆ)の王子は、熊野九十九王子中もっとも名高きものなり。野中に一方(いっぽう)杉とて名高き大杉あり。また近露の上宮にはさらに大なる老杉あり、下宮にもあり。上宮のみは伐採されしが、他は小生抗議してのこりあり。何とか徳川侯からでも忠告してもらわんと、村人に告げてまず当分は伐木せずにあり。しかし、近日伐木すると言い来たり、すでに高原(たかはら)の塚松という大木は伐られたから、小生みずから止めにゆくなり。後援なき一個人のこととて、私費多き割に功力薄(うす)きにはこまり入り候。ーーー合祀の際、件(くだん)のごろつき神主、神体を掌に玩び、一々その対価を見積もり、公衆前に笑評せり」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.423~424』河出文庫)
また合祀反対の論陣を張っていた頃から十年以上も経ってなお引き続き、人間の性の多様性に関する研究を続けている。いつものことだが、突然、玉村主膳という江戸の歌舞伎役者のエピソードが入ってくる。玉村主膳は人気絶頂の時期を過ぎるかどうかという二十歳の時、いきなり元結を切って僧侶になった。僧になったといっても美僧であって目立つ。可見(かけん)と号した。可見が役者だった頃、深く契り合った愛童がいた。名を浅之丞といった。
「世にあった時、抱えて置いた子に浅之丞といったのがあるが、優れて美しく、情も深く諸人の恋の種となった。主膳の頃これをなびかせて、外(ほか)の勤めは自然にやめて、互いに変るまいとの約束をした」(井原西鶴「江戸から尋ねて俄(にわか)坊主」『男色大鑑・P.133』角川ソフィア文庫)
思い切れない浅之丞は武蔵野の熊谷からはるばる大坂の南へ訪ねてきた。しかし可見は一夜限りの食事を用意しただけで明日には武蔵野へ帰るがよいと促す。浅之丞はいったん可見の言葉に従って去ったもののしばらくして再び姿を現わす。
「浅之丞は美しい髪を切り払っていて、『御言葉にしたがい東に帰って又参りました』という」(井原西鶴「江戸から尋ねて俄(にわか)坊主」『男色大鑑・P.134』角川ソフィア文庫)
麗しい自慢の髪の毛をすっぱり切り落として坊主頭になっていた。そこで浅之丞を含め二人の隠遁生活が始まった。同じ頃、浅之丞がここへやって来る途中の古市というところで、その旅姿をひと目見て恋情に火が付いた娘がいた。湧き起こる情念を抑えきれなくなって寺に乗り込んだ。するともう浅之丞は元結を切って僧侶になっている。それを見た娘の憤激は怖いほどだった。
「只『この人を誰が髪をおろしたの、その人を恨む』と、狂人であること疑いない」(井原西鶴「江戸から尋ねて俄(にわか)坊主」『男色大鑑・P.135~136』角川ソフィア文庫)
ところがしばらくの間、落ち着いて考えてみると、出家して草庵を結ぶのもまた一つの確かな生き方かもしれないと思い、自慢の黒髪をすっぱり切り払い、娘も僧になった。
「十四歳までわずかでも散るのさえ惜しんだ黒髪を、今日よりは道の捨草と手ずから切り払ったから、仕方なくこれも出家にして、西の方の山陰にひとつ庵(いおり)を結ぶと、明暮鉦(かね)の音ばかりであって、その後は姿を見た人もいない」(井原西鶴「江戸から尋ねて俄(にわか)坊主」『男色大鑑・P.136』角川ソフィア文庫)
玉村主膳と浅之丞とのただならぬ関係ばかりか華々しかった歌舞伎役者時代の主膳の若衆(男性同性愛)ぶりを知っている知人もだんだん訪ねてこなくなった。何年過ぎたのかもわからない。もはや二人の草庵へ向かう道も周囲の草木にまぎれて消えてしまった。二人は完全な同棲生活に入ることができたのである。その後、秋の紅葉見物に出かけた山本勘太郎という人間がたまたま法師二人だけの草庵に立ち寄ってみた。
「山本勘太郎という若衆が竜田(たつた)の紅葉を見に行って、色ばかり賞(め)でての帰りにここへ立ち寄って、哀れに殊勝に思い立って、まことにこの世は夢の夢と、これも発心の身となった」(井原西鶴「江戸から尋ねて俄(にわか)坊主」『男色大鑑・P.136』角川ソフィア文庫)
もう何年も人の来なくなった草庵で、勘太郎は何を見たのだろう。世間では夢か現(うつつ)かとときどき口にはするが、勘太郎は「まことにこの世は夢の夢」と感じ入り、前髪もまだ麗しい年頃なのだが、そんなことは抜きにしてあっさり元結を切って僧侶になった。玉村主膳を含めて都合四人が花の江戸から離れ、大坂のそのまた田んぼや林や森がだだっ広く残っている小さな里でひっそり自分の思うように生きることになった。
そんなふうに熊楠の論考はあちこちへ拡張していく。常に創造性を発揮しないではいられない流れとして多岐に渡る。例えば、ベルグソンは、「創造性」と「流れ」について次のように述べている。
「例えば映画のフィルムの上ではそうであるように、すべてが一挙に与えられないのはなぜか。この点を掘り下げれば掘り下げるほど、次のように私には思える。第一に、未来が、現在の横に与えられるのではなく、現在に《引き継いで起こる》以外にないのは、未来が現在の瞬間において完全には決定されていないからだ。第二に、この継起に占められる時間が数以外のもので、そこに据え置かれた意識にとって絶対的な価値、絶対的な実在性を持つのは、予見不可能なもの、新しいものが絶えずそこで創造されているからだ。この創造が行われるのは、おそらく、砂糖水の入ったコップのような、人為的に切り離されるこれこれのシステムにおいてではなく、そのシステムが一部をなす具体的な全体においてである。この持続は物質そのものの事実ではありえない。物質の流れをさかのぼる『生命』の持続である。それでも、それら二つの運動は互いに固く結び付いている。《それゆえ、宇宙が持続する分、創造の余地があるということである。創造は宇宙のどこかに自分の場所を見つけることができるのである》」(ベルクソン「創造的進化・第四章・P.428~429」ちくま学芸文庫)
熊楠の愛読書「御伽草子」から、続けよう。
捕われの身になっている梅若と桂壽。そこへ新しい人物が放り込まれてくる。八十歳を過ぎたと思われる翁である。梅若と桂壽とが行きがかり上、こうなった経緯に耳を傾けてくれる。翁は梅若の仕草を見つめる。
「翁此公ノ袖ヲシボリテ見ルニ、白玉カ何(ナニ)ゾト人ノ問(フ)計、涙ノ露シタダリタリ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.477』岩波書店)
この歌は「伊勢物語」に類歌がある。
「白玉(しらたま)か何ぞと人の問ひしとき露とこたへて消えなましものを」(新潮日本古典修正「伊勢物語・六・在原業平・P.319」新潮社)
さて、あらまし話を聞いた翁は梅若の零した涙を一粒手に取ってころころ転がす。と、みるみる大きくなって二つに割れる。割れたものをさらに次々と転がしていくと遂に洪水になった。天狗たちも驚いて逃げ出した。その間に翁は梅若と桂壽、その他に捕われていた人々を解き放ち、京の都の神泉苑まで送り届ける。
だが二人を待っていたのは荒れ果てて残骸と化した家、さらに三井寺へ赴くと寺もほぼすべての堂宇が全壊しているありさまだった。夜になり行くあても差し当たり見当が付かない。焼け残った神羅大明神の拝殿で夜露をしのぐことにした。
「只我故(ユエ)ナル事ナレバ、サコソ神慮ニモ違(チガ)ヒ、人口ニモ落チヌラント、アサマシク覺エテ、見ルニ目モ當(ア)テラレネドモ、年久シク棲ミ馴レシ處ナレバ、軈(ヤガ)テ見捨ツルモ餘波(ナゴリ)惜シクテ、其夜ハ神羅大明神ノ御拝殿ン湖水ノ月ヲナガメテ泣キ明(アカ)シツツ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.478』岩波書店)
桂壽は生来の屈託のなさからか、この際、比叡山にいるはずの桂海律師に会ってみようと思い立つ。そこで梅若は桂壽に手紙を書いて手渡す。桂壽は力を出して山門へ向かった。しかし梅若の気持ちはもはや沈み切って浮かび上がる力がないかのようだ。
「若公今ハ只浮世ニアラヌ身トナラント、深ク思ヒ定メ玉フ心アリケレバ、ヨシヤ中々取留ムル人モナクハ、心ノ愼(ママ)ニイカナル淵河ニモ身ヲ沈メント思食(オボシメ)シテ、泣々(ナクナク)消息書キテ童ニタビケルニ、是ヲ限トハヨモ知(シ)ラジト哀ニテ遥ニ見送リテ立チ玉フ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.478』岩波書店)
手紙にはただ和歌が一首、したためられていた。
「我身サテ沈(シズミ)モ果(ハ)テバ深(フカ)キ瀬(セ)ニ底(ソコ)マデ照ラセ山ノ端(ハ)ノ月」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.479』岩波書店)
和泉式部の和歌にこうある。
「暗(くらき)より暗(くらき)道にぞ入(いり)ぬべき遥に照せ山の葉(は)の月」(「拾遺和歌集・巻第二十・一三四二・雅致女式部・P.394」岩波書店)
式部の和歌は法華経の次の部分からの引用だろう。
「從冥入於冥 永不聞佛名
(書き下し)冥(くらき)より冥(くらき)に入りて永く仏の名(みな)を聞かざりしなり。
(現代語訳)まこと、この世においては、仏たちの声は聞かれず、このすべての世界は真暗な闇である」(「法華経・中・巻第三・化城喩品・第七・P.20~21」岩波文庫)
梅若の歌はそれよりなお一層暗さを感じさせなくもない。桂壽から手紙を受け取った桂海はもしやと思ったのだろう。桂壽を先に立てて足早に石山寺方面へ向かう。途中で何人かの旅人が同じ話をしているのが耳に入った。気になったので一人の旅人に尋ねてみると、瀬田川の唐橋の辺りで若い兒(ちご)が身投げをしたのを目撃したという。そのときの服装もよく覚えている。周囲の者もびっくりして何人かが川に飛び込んで探したが見つからなかったという。
「只今勢多(タ)ノ橋ヲ渡リ候ヒツル處ニ、御年ノ程十六、七ニ見エサセ給ヒツル兒ノ、紅梅ノ小袖ニ水干ノ下(シモ)計被召(メサレ)テ候ヒツルガ、西ニ向ヒテ念佛十反(ペン)計唱ヘテ、身ヲ投(ナ)ゲサセ給ヒテ候ヒツル。餘ニ悲敷(カナシク)見参(マヒ)ラセツルニ、我等軈(ヤガ)テ水ニ入リテ取リ上(ア)ゲ参(マヒ)ラセントシ候ヒツレドモ、遂ニ見(ミ)エサセ給ヒ候ハヌ程ニ、力(チカラ)ナク罷リ過(スギ)候ナリ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.479』岩波書店)
桂海は何とも言い難い苦悩でいっぱいになり、また桂壽も早く唐橋へ行ってみなくてはと、気持ちばかりが走る。
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「小生家内事多く、昨夜来眠らずすこぶるくたびれ、また明日は英国のリスター女史へ粘菌送るため、これから顕微鏡の画をかかざるべからず。それがすむと、野中村へ神林の老木伐採を見合わすよう勧告に、往復十七、八里を歩まねばならず。野中(のなか)、近露(ちかつゆ)の王子は、熊野九十九王子中もっとも名高きものなり。野中に一方(いっぽう)杉とて名高き大杉あり。また近露の上宮にはさらに大なる老杉あり、下宮にもあり。上宮のみは伐採されしが、他は小生抗議してのこりあり。何とか徳川侯からでも忠告してもらわんと、村人に告げてまず当分は伐木せずにあり。しかし、近日伐木すると言い来たり、すでに高原(たかはら)の塚松という大木は伐られたから、小生みずから止めにゆくなり。後援なき一個人のこととて、私費多き割に功力薄(うす)きにはこまり入り候。ーーー合祀の際、件(くだん)のごろつき神主、神体を掌に玩び、一々その対価を見積もり、公衆前に笑評せり」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.423~424』河出文庫)
また合祀反対の論陣を張っていた頃から十年以上も経ってなお引き続き、人間の性の多様性に関する研究を続けている。いつものことだが、突然、玉村主膳という江戸の歌舞伎役者のエピソードが入ってくる。玉村主膳は人気絶頂の時期を過ぎるかどうかという二十歳の時、いきなり元結を切って僧侶になった。僧になったといっても美僧であって目立つ。可見(かけん)と号した。可見が役者だった頃、深く契り合った愛童がいた。名を浅之丞といった。
「世にあった時、抱えて置いた子に浅之丞といったのがあるが、優れて美しく、情も深く諸人の恋の種となった。主膳の頃これをなびかせて、外(ほか)の勤めは自然にやめて、互いに変るまいとの約束をした」(井原西鶴「江戸から尋ねて俄(にわか)坊主」『男色大鑑・P.133』角川ソフィア文庫)
思い切れない浅之丞は武蔵野の熊谷からはるばる大坂の南へ訪ねてきた。しかし可見は一夜限りの食事を用意しただけで明日には武蔵野へ帰るがよいと促す。浅之丞はいったん可見の言葉に従って去ったもののしばらくして再び姿を現わす。
「浅之丞は美しい髪を切り払っていて、『御言葉にしたがい東に帰って又参りました』という」(井原西鶴「江戸から尋ねて俄(にわか)坊主」『男色大鑑・P.134』角川ソフィア文庫)
麗しい自慢の髪の毛をすっぱり切り落として坊主頭になっていた。そこで浅之丞を含め二人の隠遁生活が始まった。同じ頃、浅之丞がここへやって来る途中の古市というところで、その旅姿をひと目見て恋情に火が付いた娘がいた。湧き起こる情念を抑えきれなくなって寺に乗り込んだ。するともう浅之丞は元結を切って僧侶になっている。それを見た娘の憤激は怖いほどだった。
「只『この人を誰が髪をおろしたの、その人を恨む』と、狂人であること疑いない」(井原西鶴「江戸から尋ねて俄(にわか)坊主」『男色大鑑・P.135~136』角川ソフィア文庫)
ところがしばらくの間、落ち着いて考えてみると、出家して草庵を結ぶのもまた一つの確かな生き方かもしれないと思い、自慢の黒髪をすっぱり切り払い、娘も僧になった。
「十四歳までわずかでも散るのさえ惜しんだ黒髪を、今日よりは道の捨草と手ずから切り払ったから、仕方なくこれも出家にして、西の方の山陰にひとつ庵(いおり)を結ぶと、明暮鉦(かね)の音ばかりであって、その後は姿を見た人もいない」(井原西鶴「江戸から尋ねて俄(にわか)坊主」『男色大鑑・P.136』角川ソフィア文庫)
玉村主膳と浅之丞とのただならぬ関係ばかりか華々しかった歌舞伎役者時代の主膳の若衆(男性同性愛)ぶりを知っている知人もだんだん訪ねてこなくなった。何年過ぎたのかもわからない。もはや二人の草庵へ向かう道も周囲の草木にまぎれて消えてしまった。二人は完全な同棲生活に入ることができたのである。その後、秋の紅葉見物に出かけた山本勘太郎という人間がたまたま法師二人だけの草庵に立ち寄ってみた。
「山本勘太郎という若衆が竜田(たつた)の紅葉を見に行って、色ばかり賞(め)でての帰りにここへ立ち寄って、哀れに殊勝に思い立って、まことにこの世は夢の夢と、これも発心の身となった」(井原西鶴「江戸から尋ねて俄(にわか)坊主」『男色大鑑・P.136』角川ソフィア文庫)
もう何年も人の来なくなった草庵で、勘太郎は何を見たのだろう。世間では夢か現(うつつ)かとときどき口にはするが、勘太郎は「まことにこの世は夢の夢」と感じ入り、前髪もまだ麗しい年頃なのだが、そんなことは抜きにしてあっさり元結を切って僧侶になった。玉村主膳を含めて都合四人が花の江戸から離れ、大坂のそのまた田んぼや林や森がだだっ広く残っている小さな里でひっそり自分の思うように生きることになった。
そんなふうに熊楠の論考はあちこちへ拡張していく。常に創造性を発揮しないではいられない流れとして多岐に渡る。例えば、ベルグソンは、「創造性」と「流れ」について次のように述べている。
「例えば映画のフィルムの上ではそうであるように、すべてが一挙に与えられないのはなぜか。この点を掘り下げれば掘り下げるほど、次のように私には思える。第一に、未来が、現在の横に与えられるのではなく、現在に《引き継いで起こる》以外にないのは、未来が現在の瞬間において完全には決定されていないからだ。第二に、この継起に占められる時間が数以外のもので、そこに据え置かれた意識にとって絶対的な価値、絶対的な実在性を持つのは、予見不可能なもの、新しいものが絶えずそこで創造されているからだ。この創造が行われるのは、おそらく、砂糖水の入ったコップのような、人為的に切り離されるこれこれのシステムにおいてではなく、そのシステムが一部をなす具体的な全体においてである。この持続は物質そのものの事実ではありえない。物質の流れをさかのぼる『生命』の持続である。それでも、それら二つの運動は互いに固く結び付いている。《それゆえ、宇宙が持続する分、創造の余地があるということである。創造は宇宙のどこかに自分の場所を見つけることができるのである》」(ベルクソン「創造的進化・第四章・P.428~429」ちくま学芸文庫)
熊楠の愛読書「御伽草子」から、続けよう。
捕われの身になっている梅若と桂壽。そこへ新しい人物が放り込まれてくる。八十歳を過ぎたと思われる翁である。梅若と桂壽とが行きがかり上、こうなった経緯に耳を傾けてくれる。翁は梅若の仕草を見つめる。
「翁此公ノ袖ヲシボリテ見ルニ、白玉カ何(ナニ)ゾト人ノ問(フ)計、涙ノ露シタダリタリ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.477』岩波書店)
この歌は「伊勢物語」に類歌がある。
「白玉(しらたま)か何ぞと人の問ひしとき露とこたへて消えなましものを」(新潮日本古典修正「伊勢物語・六・在原業平・P.319」新潮社)
さて、あらまし話を聞いた翁は梅若の零した涙を一粒手に取ってころころ転がす。と、みるみる大きくなって二つに割れる。割れたものをさらに次々と転がしていくと遂に洪水になった。天狗たちも驚いて逃げ出した。その間に翁は梅若と桂壽、その他に捕われていた人々を解き放ち、京の都の神泉苑まで送り届ける。
だが二人を待っていたのは荒れ果てて残骸と化した家、さらに三井寺へ赴くと寺もほぼすべての堂宇が全壊しているありさまだった。夜になり行くあても差し当たり見当が付かない。焼け残った神羅大明神の拝殿で夜露をしのぐことにした。
「只我故(ユエ)ナル事ナレバ、サコソ神慮ニモ違(チガ)ヒ、人口ニモ落チヌラント、アサマシク覺エテ、見ルニ目モ當(ア)テラレネドモ、年久シク棲ミ馴レシ處ナレバ、軈(ヤガ)テ見捨ツルモ餘波(ナゴリ)惜シクテ、其夜ハ神羅大明神ノ御拝殿ン湖水ノ月ヲナガメテ泣キ明(アカ)シツツ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.478』岩波書店)
桂壽は生来の屈託のなさからか、この際、比叡山にいるはずの桂海律師に会ってみようと思い立つ。そこで梅若は桂壽に手紙を書いて手渡す。桂壽は力を出して山門へ向かった。しかし梅若の気持ちはもはや沈み切って浮かび上がる力がないかのようだ。
「若公今ハ只浮世ニアラヌ身トナラント、深ク思ヒ定メ玉フ心アリケレバ、ヨシヤ中々取留ムル人モナクハ、心ノ愼(ママ)ニイカナル淵河ニモ身ヲ沈メント思食(オボシメ)シテ、泣々(ナクナク)消息書キテ童ニタビケルニ、是ヲ限トハヨモ知(シ)ラジト哀ニテ遥ニ見送リテ立チ玉フ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.478』岩波書店)
手紙にはただ和歌が一首、したためられていた。
「我身サテ沈(シズミ)モ果(ハ)テバ深(フカ)キ瀬(セ)ニ底(ソコ)マデ照ラセ山ノ端(ハ)ノ月」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.479』岩波書店)
和泉式部の和歌にこうある。
「暗(くらき)より暗(くらき)道にぞ入(いり)ぬべき遥に照せ山の葉(は)の月」(「拾遺和歌集・巻第二十・一三四二・雅致女式部・P.394」岩波書店)
式部の和歌は法華経の次の部分からの引用だろう。
「從冥入於冥 永不聞佛名
(書き下し)冥(くらき)より冥(くらき)に入りて永く仏の名(みな)を聞かざりしなり。
(現代語訳)まこと、この世においては、仏たちの声は聞かれず、このすべての世界は真暗な闇である」(「法華経・中・巻第三・化城喩品・第七・P.20~21」岩波文庫)
梅若の歌はそれよりなお一層暗さを感じさせなくもない。桂壽から手紙を受け取った桂海はもしやと思ったのだろう。桂壽を先に立てて足早に石山寺方面へ向かう。途中で何人かの旅人が同じ話をしているのが耳に入った。気になったので一人の旅人に尋ねてみると、瀬田川の唐橋の辺りで若い兒(ちご)が身投げをしたのを目撃したという。そのときの服装もよく覚えている。周囲の者もびっくりして何人かが川に飛び込んで探したが見つからなかったという。
「只今勢多(タ)ノ橋ヲ渡リ候ヒツル處ニ、御年ノ程十六、七ニ見エサセ給ヒツル兒ノ、紅梅ノ小袖ニ水干ノ下(シモ)計被召(メサレ)テ候ヒツルガ、西ニ向ヒテ念佛十反(ペン)計唱ヘテ、身ヲ投(ナ)ゲサセ給ヒテ候ヒツル。餘ニ悲敷(カナシク)見参(マヒ)ラセツルニ、我等軈(ヤガ)テ水ニ入リテ取リ上(ア)ゲ参(マヒ)ラセントシ候ヒツレドモ、遂ニ見(ミ)エサセ給ヒ候ハヌ程ニ、力(チカラ)ナク罷リ過(スギ)候ナリ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.479』岩波書店)
桂海は何とも言い難い苦悩でいっぱいになり、また桂壽も早く唐橋へ行ってみなくてはと、気持ちばかりが走る。
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