この書簡の内容は田辺に居を構えてからも長年愛用している顕微鏡の件なのだが、その半分以上は別の質問についての返事や今考えていることで占められている。
「スイス国のチューリッヒ市の中古の伝説にて、シャーレマンがフェリッキスおよびレグラ二尊者殉教の遺跡に鐘楼を立て鐘を懸け、誰でで冤訴あるものはこの鐘をつけば大王みずからその訴えを聞き、判官をして再審せしむる定めとす。しかるところ諫鼓(かんこ)苔蒸して鶏驚かずの例で、誰も冤訴のなきほど太平なりしにや、この鐘の下に蛇が住み子を生む」(南方熊楠「フィラデルフィアの顕微鏡」『森の思想・P.137~138』河出文庫)
熊楠はさらりと書いているのでただ単にやり過ごしているように見えるけれども、ほかならぬ「蛇」について何ら考えていないわけではけっしてないと言える。代表作の一つ「十二支考」を見ても蛇についての記述だけで大量の見聞を披露している。それを思うとまさしく「蛇」をわざわざ出してきている点で見逃せない箇所だと考えていいだろう。蛇についての論考で、例えば、なぜ「邪視」を論じているのか。
「『淵鑑類函』四二五、鶏の条を探ると、<王褒(おうほう)曰く、魚瞰鶏睨、李善以為(おも)えらく魚目暝(つむ)らず、鶏好く邪視す>とある。鶏はよく恐ろしい眼付きで睨むをいうので、この田辺辺で古く天狗が時に白鶏に化けるなどいい忌む人があったは、多少その邪視を怖れたからだろう」(南方熊楠「蛇に関する民族と伝説」『十二支考・上・P.311~312』岩波文庫)
この場合の「邪視」は、一般的に邪推と言う場合の意味とはまったく異なったものとして考えられていることはわかる。
「魚瞰とは死んでも眼を閉じぬ事、鶏睨とはよく邪視する事を解いたのだ」(南方熊楠「蛇に関する民族と伝説」『十二支考・上・P.311~312』岩波文庫)
では邪視とはどういうことだろう。「目を殫(つく)し覩窮(みきわ)む、遷延し邪視す」とある文章を取り上げる。
「後漢の張平子の『西京賦』に、<ここにおいて鳥獣、目を殫(つく)し覩窮(みきわ)む、遷延し邪視す、乎長揚の宮に集まる>」(南方熊楠「蛇に関する民族と伝説」『十二支考・上・P.313』岩波文庫)
古来、蛇に与えられた特権的能力について論じているのである。また蛇は、山の神として祀られることが少なくない。その傾向がまだ色濃く残っていた時期に沿って、日本霊異記にも次のような説話が掲載されたに違いない。或る家の嬢(をみな)が寝ている間に蛇が近づいてきて性交するというエピソード。嬢(をみな)の体内に蛇が入ってしまった。慌てた父母は薬師(くすし)を呼んで煮出した薬を嬢(をみな)の性器の中へ流し込む。
「其(そ)の女(をみな)、桑に登りて葉を揃(こ)きき、時に大きなる蛇有り。登れる女の桑に纏(まつは)りて登る。路を往く人、見て嬢(をみな)に示す。嬢見て驚き落つ。蛇(へみ)も亦(また)副(そ)ひ堕(お)ち、纏(まつは)りて婚(くながひ)し、慌(は)れ迷(まど)ひて臥しつ。父母見て、薬師(くすし)を請(う)け召し、嬢(をみな)と蛇(へみ)と倶(とも)に同じ床に載せて、家に帰り庭に置く。稷(きび)の藁三束を焼き、湯に合(あは)せ、汁を取ること三斗、煮煎(にい)りて二斗と成し、猪(ゐ)の毛十把を剋(きざ)み末(くだ)きて汁に合せ、然して嬢(をみな)の頭足に当てて、橛(ほこたち)を打ちて懸け釣り、開(つび)の口に汁を入る」(「日本霊異記・中・女人(にょにん)の大きなる蛇(へみ)に婚(くながひ)せられ、薬の力に頼りて、命を全くすること得し縁 第四一・P.267」講談社学術文庫)
すると蛇が出てきた。嬢(をみな)は助かった。それから三年が過ぎた。再びこの嬢(をみな)の体内に蛇が侵入し、蛇と嬢(をみな)とは婚姻した形になる。しかしこの時、嬢(をみな)はいう。死んでもいい、次に生まれてくる時もまた是非とも蛇と夫婦になって一緒になりたいと。
「然(しか)して、三年(みとせ)経て、彼(そ)の嬢(をみな)、復(また)蛇に婚(くながひ)せられて死にき。愛心深く入(い)りて、死に別るる時に、夫妻と父母子を恋ひて、是の言を作(な)ししく、『我死にて復(また)の世に必ず復相(あ)はむ』といひき」(「日本霊異記・中・女人(にょにん)の大きなる蛇(へみ)に婚(くながひ)せられ、薬の力に頼りて、命を全くすること得し縁 第四一・P.268」講談社学術文庫)
蛇を神として祀るアフリカの部族について熊楠は述べている。この話には巫女が絡んでくる。
「西アフリカのボイダー市には、近世まで大蛇を祀(まつ)り年々棍(クラブ)を持てる女巫(みこ)隊出て美女を捕え神に妻(めあ)わす。当夜一度に二、三人ずつ女を窖(あな)の中(うち)に下すと、蛇神の名代たる二、三蛇俟(ま)ちおり、女巫(みこ)が廟の周(ぐる)りを歌い踊り廻る間にこれと婚す。さて家に帰って蛇児を産まず人児を産んだから、人が蛇神の名代を務めたのだ(一八七一年版シュルツェの『デル・フェチシスムス』五章)」(南方熊楠「蛇に関する民族と伝説」『十二支考・上・P.298』岩波文庫)
熊楠の話題は蛇から献上された「玉」についてのエピソードへ繋がっていく。
「ある日天気晴朗に乗じ母子つれて散歩に出る。帰り見れば蟾蜍(ひき)がその巣を押領しおる(御存知通り欧米では古今蟾蜍を大毒物として悪〔にく〕むなり)。蛇如何ともする能わず、その鐘を鳴らし大王みずから訴えを判じ、これは蟾蜍がよっぽど悪いということで兵士を召して蟾蜍を誅戮す。その礼として蛇が玉をもち来たり王に献す。この王の持つものの一身に王の寵愛集めるはずで、大王この玉をその后に与うると、それからちうものは大王后を愛することはなはだしく、他の諸姫妾はことごとく非職となる。後年、后病んで崩ずるに臨み、もしこの玉が他の女に伝わることあらば大王またその女を后に冊立し自分のことは忘失され了るべしと思いて、その玉を舌の下にかくして崩ず。さて、大王后の尸(しかばね)をマンミーに作り一度は埋めたが、何とも思い切れず、またこれを掘り出し自分の室に十八年の長い間安置して朝夕これを抱懐す」(南方熊楠「フィラデルフィアの顕微鏡」『森の思想・P.138』河出文庫)
玉の持つ妖異な力については、すでに日本書紀に公然と記述されている。「豊玉姫」(とよたまびめ)、「玉依姫」(たまよりびめ)、などは好例といえよう。
「已(すで)にして彦火火出見尊、因りて海神の女(むすめ)豊玉姫(とよたまびめ)を娶(ま)きたまふ。仍(よ)りて海宮(わたつみのみや)に留住(とどま)りたまへること、已(すで)に三年(みとせ)に経(な)りぬ。彼処(そこ)に、復(また)安(やす)らかに楽(たの)しと雖(いへど)も、猶(なお)郷(くに)を憶(おも)ふ情(こころ)有(ま)す。故(かれ)、時(とき)に復(また)太(はなは)だ息(なげ)きます。豊玉姫(とよたまびめ)、聞(き)きて、其(そ)の父(かぞ)に謂(かた)りて曰(い)はく、『天孫(あめみま)悽然(いた)みて数(しばしば)嘆(なげ)きたまふ。蓋(けだ)し土(もとつくに)を懐(おも)ひたまふ憂(うれへ)ありてか』といふ。海神(わたつみ)乃(すなは)ち彦火火出見尊を延(ひ)きて、従容(おもぶる)に語(まう)して曰(まう)さく、『天孫若(も)し郷(くに)に還(かへ)らぬと欲(おもほ)さば、吾(われ)当(まさ)に送(おく)り奉(まつ)るべし』とまうす。便(すなは)ち得(え)たる所(ところ)の釣鉤(ちい)を授(たてまつ)りて、因(よ)りて誨(おし)へまつりて曰さく、『此(こ)の鉤(ち)を以(も)て汝(いましみこと)の兄(このかみ)に与(あた)へたまはむ時には、隠(ひそか)に此の鉤を呼(い)ひて、<貧鉤>(まぢち)と曰(のたま)ひて、然(しかう)して後(のち)に与へたまへ』とまうす。復(また)潮満瓊(しほみちのたま)及(およ)び潮涸瓊(しほひのたま)を授(たてまつ)りて、誨(おし)へまつりて曰(まう)さく、『潮満瓊(しほみちのたま)を漬(つ)けば、潮(しほ)忽(たちま)ちに満(み)たむ。此(これ)を以(も)て汝(いましみこと)の兄(このかみ)を没溺(おぼ)せ。若(も)し兄悔(く)いて祈(の)まば、還りて潮涸瓊(しほひのたま)を漬けば、潮自(おの)づから涸(ひ)む。此を以て救(すく)ひたまへ。如此(かく)逼悩(せめなや)まさば、汝(いましみこと)の兄(このかた)自伏(したが)ひなむ』とまうす。将(まさ)に帰去(かへ)りまさむとするに及(いた)りて、豊玉姫(とよたまびめ)、天孫(あめみま)に謂(かた)りて曰(まう)さく、『妾(やつこ)已(すで)に娠(はら)めり。当産(こうまむとき)久(ひさ)にあらじ。妾、必(かなら)ず風濤(かざなみ)急峻(はや)からむ日(ひ)を以て、海浜(うみへた)に出(い)で到(いた)らむ。請(ねが)はくは、我(やつこ)が為(ため)に産室(うぶや)を作(つく)りて相待(あひま)ちたまへ』とまうす。彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、已に宮(もとのみや)に還(かへ)りまして、一(ひとつ)に海神(わたつみ)の教(おしへ)に遵(したが)ふ。時(とき)に兄火闌降命(ほのすそりのみこと)、既(すで)に厄困(なや)まされて、乃ち自伏罪(したが)ひて曰(まう)さく、『今(いま)より以後(ゆくさき)、吾(われ)は汝(いましみこと)の俳優(わざをき)の民(たみ)たらむ。請(こ)ふ、施恩活(いけたま)へ』とまうす。是(ここ)に、其(そ)の所乞(ねがひ)の随(まにま)に遂(つひ)に赦(ゆる)す。其れ火闌降命は、即(すなは)ち吾田君子橋等(あたのきみをばしら)が本祖(もとつおや)なり。後(のち)に豊玉姫、果(はた)して前(さき)の期(ちぎり)の如(ごと)く、其の女弟(いろど)玉依姫(たまよりびめ)を将(ひき)ゐて、直(ただ)に風波(かざなみ)を冒(おか)して、海辺(うみへた)に来到(きた)る。臨産(こう)む時に逮(およ)びて、請(こ)ひて曰(まう)さく、『妾(やつこ)産(こう)まむ時に、幸(ねが)はくはな看(み)ましそ』とまうす。天孫(あめみま)猶(なお)忍(しの)ぶること能(あた)はずして、窃(ひそか)に往(ゆ)きて覘(うかが)ひたまふ。豊玉姫、方(みざかり)に産(こう)むときに竜(たつ)に化為(な)りぬ。而(しこう)して甚(はなは)だ慙(は)ぢて曰(い)はく、『如(も)し我(われ)を辱(はづか)しめざること有(あ)りせば、海陸(うみくが)相通(かよ)はしめて、永(なが)く隔絶(へだてた)つこと無(な)からまし。今既に辱(はぢ)みつ。将に何(ない)を以(も)てか親昵(むつま)しき情(こころ)を結(むす)ばむ』といひて、乃ち草(かや)を以て児(みこ)を裏(つつ)みて、海辺(うみへた)に棄(す)てて、海途(うみのみち)を閉(と)ぢて亻巠(ただ)に去(い)ぬ。故(かれ)、因(よ)りて児(みこ)を名(なづ)けまつりて、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)と曰(まう)す」(「日本書紀1・巻第二・神代下・第十段・P.142~166」岩波文庫)
さらに。
「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)、其の姨(おば)玉依姫を以て妃(ひめ)としたまふ。彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を生(な)しませり。次(つぎ)に稲飯命(いなひのみこと)。次に三毛入野命(みけいりののみこと)。次に神日本磐余彦尊(かむやまといはれびこのみこと)。凡(すべ)て四(よはしら)の男(ひこみこ)を生(な)す」(「日本書紀1・巻第二・神代下・第十段・P.194」岩波文庫)
神日本磐余彦尊(かむやまといはれびこのみこと)は神武天皇である。神武の母は玉依姫。天皇との血縁上、豊玉姫と玉依姫とは、切り離して考えることはけっしてできない。天皇が先にあるのではなく、「玉」の持つ力は、そもそも誰に与えられたかが重要なのである。
「高皇産霊尊の児(みむすめ)万幡姫(よろづはたひめ)の児(みこ)玉依姫命(たまよりびめのみこと)といふ」(「日本書紀1・巻第二・神代下・第九段・P.158」岩波文庫)
またこうも。
「父(かぞ)をば大物主大神(おほものぬしのおほかみ)と曰(まう)す。母(いろは)をば活玉依媛(いくたまよりびめ)と曰(まう)す」(「日本書紀1・巻第五・祟神天皇 七年八月・P.282」岩波文庫)
熊楠の話にはまだ続きがある。
「内豎の少年不審に耐えず、いろいろ考えて后の尸を捜すと舌根に件の玉あり。それを盗み持つとそれより大王の寵幸この少年に集まり、后の尸を一向見向かず。不断常住この少年を愛することはなはだしく、少年も追い追い年はとるが元服も許されず、毎夜毎夜後庭を弄ばるるをうるさくなり、ついに温泉のかたわらなる沼沢中に玉を棄てると。それより大王またその沼沢を好むことはなはだしく片時もその辺を去らず、ついにアーヒェンAachen市をその沼に建てて永住した、という話」(南方熊楠「フィラデルフィアの顕微鏡」『森の思想・P.138~139』河出文庫)
玉の脅威。古代神話では世界中で認められるものだ。日本では玉に関し、或る種の氏族が代々受け継いでいくべきだとする考え方があった。「鎮魂(たましずめ)の儀(わざ)」については次のように。
「凡て、鎮魂(たましずめ)の儀(わざ)は、天鈿女命の遺跡(あと)なり。然れば、御巫(みかむなぎ)の職は、旧(もと)の氏(うぢ)を任(め)すべし。而るに、今選(えら)ふ所、他氏(ことうち)を論(あげつら)はず。遺(も)りたる九(ここのつ)なり」(「古語拾遺・P.51」岩波文庫)
天の岩屋戸のエピソードで有名な「天鈿女命」(あめのうづめのみこと)。後の猿女君(さるめのきみ)。巫女的シャーマニズムの系譜に属する。ずっと後代の近代日本になって、柳田國男が面白い資料を紹介している。蛇と女子と熊野に関係する。
「丹後熊野郡川上村大字市場の斎(いつき)大明神は『式』の熊野神社であるらしい。この社に附属して神に仕える家がある。女子が生れると、神の箭(や)飛び来たってかの家の棟に立つ。四五歳の時に宮に送り奉る。山中におれども獣にも害せられず、これを斎女(いつきめ)という。成長して交歓の心生ずるときは大蛇現われて眼を怒らす。その時は家に帰ってしまう。この斎女のおるがゆえに神の名も斎大明神というのである(田辺府志)」(柳田國男「巫女考・神の口寄せを業とする者」『柳田國男全集11・P.323~324』ちくま文庫)
この箇所に出てくる「斎女(いつきめ)」、さらに「口寄せ」という職業。その動きは一見すると「狂女」のそれだ。能の物狂いに「班女」がある。口寄せ、あるいは巫女の資格。それは一時的に狂女になり得る資格である。
「夏もはや杉(すぎ)の窓、秋風(あきかぜ)冷ややかに吹落(ふきおち)て、団雪(たんせつ)の扇(あふぎ)も雪なれば、名を聞(きく)もすさましくて、秋風(しうふう)恨みあり、よしや思(おも)へば是も実(げに)、逢(あ)ふは別(わか)れなるべき、其報(むく)ひなれば今更、世をも人をも恨むまじ、唯(ただ)思はれぬ身の程を、思(おも)ひ続けて独(ひと)り居(い)の、班女が閨ぞさびしき」(新日本古典文学体系「班女」『謡曲百番・P.216』岩波書店)
この一節に「団雪(たんせつ)の扇(あふぎ)」とある。和漢朗詠集から。
「班婕妤(はんせふよ)が団雪(たんせつ)の扇(あふぎ) 岸風(がんふう)に代(か)へて長く忘れたり 燕(えん)の昭王(せうわう)の招涼(せうりやう)の殊(たま) 沙月(さぐゑつ)に当(あて)て自(おのづか)ら得たり」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻上・夏・納涼・一六二・大江匡衡・P.67」新潮社)
ここでは揺れ惑う「扇」(あふぎ)の狂気に対する「殊(たま)」の呪術性が対照的に思える。なお、「逢(あ)ふは別(わか)れなるべき」は、平家物語で有名。
「生者必滅(しやうじやひつめつ)、会者定離(えしやぢやうり)は浮世の習にて候也」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十・維盛入水・P.239」岩波書店)
仏典にも出ている。
「愛別離苦 怨憎會苦
(書き下し)愛別離苦・怨憎会苦
(現代語訳)嫌いな人に会い好ましい人とは別離する」(「法華経・上・巻第二・譬喩品・第三・P.172~173」岩波文庫)
だがしかし、神格化された蛇には誰も何も対抗することはできないのか。と言えばそうでもない。蛇と女性器との関連から生じる不気味な威力を無効化してしまう人々がいないわけではないのだ。それは眼に関係がある。柳田はいう。
「第一には全国にひろく分布する琵琶橋・琵琶淵などの言い伝えに、琵琶を抱いて座頭が飛び込んだというものは、往々にして蛇の執念、もしくは誘惑を説くようである。すなわち盲人には何かは知らず、特にいわゆるクラオカミによって、すき好まれる長処のあるものと想像されていたのである。第二には勇士の悪蛇退治に、似合わぬ話だがおりおり目くらが出て参与している。九州で有名なのは肥前黒髪山下の梅野座頭、これは鎮西八郎の短刀を拝借して、谷に下って天堂岩の大蛇を刺殺したと称して、その由緒をもって正式に刀を帯ぶることを認められていた。しかもよほど念の入った隠れた理由のないかぎり、人はとうてい盲人を助太刀に頼む気にはなり得まい。すなわち彼等には一種の神力を具えていたのである」(柳田國男「蛇と盲目」『柳田國男全集6・P.346~347』ちくま文庫)
熊楠の愛読書「御伽草子」から、続けよう。
桂海はいったん比叡山へ戻ることにする。が、振り向き見返りしているあいだに時間が過ぎてしまい、日も暮れてきた。山の入り口に当たる坂本の宿坊まで登ることさえ断念し、琵琶湖岸に接する下阪本の戸津の浜辺の鄙びた小屋を借りて夜露をしのぐことにする。
「程近キ坂本ノ房マデモ行キ付カデ、日暮レケレバ、戸津ノ邊ニアリケルハニフノ小屋ニゾ、トドマリケル」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.466』岩波書店)
寝られないまま夜明けをむかえる。何ということもなく足はふらふらと大津の方角へと彷徨い出す。すると途中で馬に乗った侍童桂壽とばったり出会う。桂壽は桂海を探しにやって来たらしい。三井寺の「院家」(いんげ)のすぐ近くに居候できる坊があるのでそこへ来て梅若と会う機会を窺ってみてはと提案してくれる。桂海はさっそく話に乗る。
「『御所ノ側ニ知リタル衆徒(シユト)ノ坊候ヘバ、夫ニ暫ク御座候ウテ、御簾(レン)ノヒマヲモ御心ニ被懸(カケラレ)候ヘカシ』ト童頻ニイザナヘバ、思フ方ニ心被引(ヒカレ)テ、律師又三井寺ヘ行キヌ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.467』岩波書店)
梅若もまた心待ちにしている。だが実際に会うきっかけはなかなかやってこない。梅若のこまごまとして上品な気遣いは思いやりに満ちて可憐なほど。いたずらに十日が過ぎた。
「若公(ワカギミ)モハヤ心得タルケシキニテ、人目モガナト求ムル様ナレド、叶ハデ出デカネタル心盡(ヅク)シ、見ルモ中々イタハシケレバ、ヨシヤ只ヨソナガラ見ル計ヲ我方ニアル契ニテ、人ノ情ヲ社(コソ)命ニセメト思ヘバ、朝ユク行キテハ歸(カヘ)リ歸(カヘ)リテハ行キ、日数モ十日餘ニナリニケリ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.468』岩波書店)
そこへ桂壽がいい知らせを持ってきた。今夜は院家に客人が来るので酒宴が催される。門主はおそらく痛飲するだろう。だから遅くなるまで耐えて待って、その後、こっそり入ってくればよいと梅若は言っているとのこと。
「今夜コソ御所ヘ京ヨリ客(マレ)人ノ御入候ウテ、御酒宴ニテ候程ニ、門主モ痛ク酔ハセ玉ヒテ候ヘバ、フケ過(ス)グル迄(マデ)歸(カヘ)ラデ祇候セヨ、召シ具セラレテ是ヘ忍ビヤカニ御入リ候ベシト仰セ候ヒツル。門(カド)指サデ御待チ候ヘ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.468』岩波書店)
桂海はどきどきして待つ。
なお、室町時代、大人の僧侶による少年愛は、江戸時代と同じく、特に珍しくはない。「狂雲集」の中で一休もまたこう述べている。
「貪(むさぼ)り看(み)る、少年の風流、風流は是れ我が好仇(こうきゆう)なり。
(現代語訳)生命花やぐ少年を、飽くことなしに眺めていると、色好みこそボクの、よきつれあいと知る」(一休「狂雲集・五〇三」『大乗仏典(中国・日本篇)26・P.270』中央公論社)
BGM1
BGM2
BGM3
「スイス国のチューリッヒ市の中古の伝説にて、シャーレマンがフェリッキスおよびレグラ二尊者殉教の遺跡に鐘楼を立て鐘を懸け、誰でで冤訴あるものはこの鐘をつけば大王みずからその訴えを聞き、判官をして再審せしむる定めとす。しかるところ諫鼓(かんこ)苔蒸して鶏驚かずの例で、誰も冤訴のなきほど太平なりしにや、この鐘の下に蛇が住み子を生む」(南方熊楠「フィラデルフィアの顕微鏡」『森の思想・P.137~138』河出文庫)
熊楠はさらりと書いているのでただ単にやり過ごしているように見えるけれども、ほかならぬ「蛇」について何ら考えていないわけではけっしてないと言える。代表作の一つ「十二支考」を見ても蛇についての記述だけで大量の見聞を披露している。それを思うとまさしく「蛇」をわざわざ出してきている点で見逃せない箇所だと考えていいだろう。蛇についての論考で、例えば、なぜ「邪視」を論じているのか。
「『淵鑑類函』四二五、鶏の条を探ると、<王褒(おうほう)曰く、魚瞰鶏睨、李善以為(おも)えらく魚目暝(つむ)らず、鶏好く邪視す>とある。鶏はよく恐ろしい眼付きで睨むをいうので、この田辺辺で古く天狗が時に白鶏に化けるなどいい忌む人があったは、多少その邪視を怖れたからだろう」(南方熊楠「蛇に関する民族と伝説」『十二支考・上・P.311~312』岩波文庫)
この場合の「邪視」は、一般的に邪推と言う場合の意味とはまったく異なったものとして考えられていることはわかる。
「魚瞰とは死んでも眼を閉じぬ事、鶏睨とはよく邪視する事を解いたのだ」(南方熊楠「蛇に関する民族と伝説」『十二支考・上・P.311~312』岩波文庫)
では邪視とはどういうことだろう。「目を殫(つく)し覩窮(みきわ)む、遷延し邪視す」とある文章を取り上げる。
「後漢の張平子の『西京賦』に、<ここにおいて鳥獣、目を殫(つく)し覩窮(みきわ)む、遷延し邪視す、乎長揚の宮に集まる>」(南方熊楠「蛇に関する民族と伝説」『十二支考・上・P.313』岩波文庫)
古来、蛇に与えられた特権的能力について論じているのである。また蛇は、山の神として祀られることが少なくない。その傾向がまだ色濃く残っていた時期に沿って、日本霊異記にも次のような説話が掲載されたに違いない。或る家の嬢(をみな)が寝ている間に蛇が近づいてきて性交するというエピソード。嬢(をみな)の体内に蛇が入ってしまった。慌てた父母は薬師(くすし)を呼んで煮出した薬を嬢(をみな)の性器の中へ流し込む。
「其(そ)の女(をみな)、桑に登りて葉を揃(こ)きき、時に大きなる蛇有り。登れる女の桑に纏(まつは)りて登る。路を往く人、見て嬢(をみな)に示す。嬢見て驚き落つ。蛇(へみ)も亦(また)副(そ)ひ堕(お)ち、纏(まつは)りて婚(くながひ)し、慌(は)れ迷(まど)ひて臥しつ。父母見て、薬師(くすし)を請(う)け召し、嬢(をみな)と蛇(へみ)と倶(とも)に同じ床に載せて、家に帰り庭に置く。稷(きび)の藁三束を焼き、湯に合(あは)せ、汁を取ること三斗、煮煎(にい)りて二斗と成し、猪(ゐ)の毛十把を剋(きざ)み末(くだ)きて汁に合せ、然して嬢(をみな)の頭足に当てて、橛(ほこたち)を打ちて懸け釣り、開(つび)の口に汁を入る」(「日本霊異記・中・女人(にょにん)の大きなる蛇(へみ)に婚(くながひ)せられ、薬の力に頼りて、命を全くすること得し縁 第四一・P.267」講談社学術文庫)
すると蛇が出てきた。嬢(をみな)は助かった。それから三年が過ぎた。再びこの嬢(をみな)の体内に蛇が侵入し、蛇と嬢(をみな)とは婚姻した形になる。しかしこの時、嬢(をみな)はいう。死んでもいい、次に生まれてくる時もまた是非とも蛇と夫婦になって一緒になりたいと。
「然(しか)して、三年(みとせ)経て、彼(そ)の嬢(をみな)、復(また)蛇に婚(くながひ)せられて死にき。愛心深く入(い)りて、死に別るる時に、夫妻と父母子を恋ひて、是の言を作(な)ししく、『我死にて復(また)の世に必ず復相(あ)はむ』といひき」(「日本霊異記・中・女人(にょにん)の大きなる蛇(へみ)に婚(くながひ)せられ、薬の力に頼りて、命を全くすること得し縁 第四一・P.268」講談社学術文庫)
蛇を神として祀るアフリカの部族について熊楠は述べている。この話には巫女が絡んでくる。
「西アフリカのボイダー市には、近世まで大蛇を祀(まつ)り年々棍(クラブ)を持てる女巫(みこ)隊出て美女を捕え神に妻(めあ)わす。当夜一度に二、三人ずつ女を窖(あな)の中(うち)に下すと、蛇神の名代たる二、三蛇俟(ま)ちおり、女巫(みこ)が廟の周(ぐる)りを歌い踊り廻る間にこれと婚す。さて家に帰って蛇児を産まず人児を産んだから、人が蛇神の名代を務めたのだ(一八七一年版シュルツェの『デル・フェチシスムス』五章)」(南方熊楠「蛇に関する民族と伝説」『十二支考・上・P.298』岩波文庫)
熊楠の話題は蛇から献上された「玉」についてのエピソードへ繋がっていく。
「ある日天気晴朗に乗じ母子つれて散歩に出る。帰り見れば蟾蜍(ひき)がその巣を押領しおる(御存知通り欧米では古今蟾蜍を大毒物として悪〔にく〕むなり)。蛇如何ともする能わず、その鐘を鳴らし大王みずから訴えを判じ、これは蟾蜍がよっぽど悪いということで兵士を召して蟾蜍を誅戮す。その礼として蛇が玉をもち来たり王に献す。この王の持つものの一身に王の寵愛集めるはずで、大王この玉をその后に与うると、それからちうものは大王后を愛することはなはだしく、他の諸姫妾はことごとく非職となる。後年、后病んで崩ずるに臨み、もしこの玉が他の女に伝わることあらば大王またその女を后に冊立し自分のことは忘失され了るべしと思いて、その玉を舌の下にかくして崩ず。さて、大王后の尸(しかばね)をマンミーに作り一度は埋めたが、何とも思い切れず、またこれを掘り出し自分の室に十八年の長い間安置して朝夕これを抱懐す」(南方熊楠「フィラデルフィアの顕微鏡」『森の思想・P.138』河出文庫)
玉の持つ妖異な力については、すでに日本書紀に公然と記述されている。「豊玉姫」(とよたまびめ)、「玉依姫」(たまよりびめ)、などは好例といえよう。
「已(すで)にして彦火火出見尊、因りて海神の女(むすめ)豊玉姫(とよたまびめ)を娶(ま)きたまふ。仍(よ)りて海宮(わたつみのみや)に留住(とどま)りたまへること、已(すで)に三年(みとせ)に経(な)りぬ。彼処(そこ)に、復(また)安(やす)らかに楽(たの)しと雖(いへど)も、猶(なお)郷(くに)を憶(おも)ふ情(こころ)有(ま)す。故(かれ)、時(とき)に復(また)太(はなは)だ息(なげ)きます。豊玉姫(とよたまびめ)、聞(き)きて、其(そ)の父(かぞ)に謂(かた)りて曰(い)はく、『天孫(あめみま)悽然(いた)みて数(しばしば)嘆(なげ)きたまふ。蓋(けだ)し土(もとつくに)を懐(おも)ひたまふ憂(うれへ)ありてか』といふ。海神(わたつみ)乃(すなは)ち彦火火出見尊を延(ひ)きて、従容(おもぶる)に語(まう)して曰(まう)さく、『天孫若(も)し郷(くに)に還(かへ)らぬと欲(おもほ)さば、吾(われ)当(まさ)に送(おく)り奉(まつ)るべし』とまうす。便(すなは)ち得(え)たる所(ところ)の釣鉤(ちい)を授(たてまつ)りて、因(よ)りて誨(おし)へまつりて曰さく、『此(こ)の鉤(ち)を以(も)て汝(いましみこと)の兄(このかみ)に与(あた)へたまはむ時には、隠(ひそか)に此の鉤を呼(い)ひて、<貧鉤>(まぢち)と曰(のたま)ひて、然(しかう)して後(のち)に与へたまへ』とまうす。復(また)潮満瓊(しほみちのたま)及(およ)び潮涸瓊(しほひのたま)を授(たてまつ)りて、誨(おし)へまつりて曰(まう)さく、『潮満瓊(しほみちのたま)を漬(つ)けば、潮(しほ)忽(たちま)ちに満(み)たむ。此(これ)を以(も)て汝(いましみこと)の兄(このかみ)を没溺(おぼ)せ。若(も)し兄悔(く)いて祈(の)まば、還りて潮涸瓊(しほひのたま)を漬けば、潮自(おの)づから涸(ひ)む。此を以て救(すく)ひたまへ。如此(かく)逼悩(せめなや)まさば、汝(いましみこと)の兄(このかた)自伏(したが)ひなむ』とまうす。将(まさ)に帰去(かへ)りまさむとするに及(いた)りて、豊玉姫(とよたまびめ)、天孫(あめみま)に謂(かた)りて曰(まう)さく、『妾(やつこ)已(すで)に娠(はら)めり。当産(こうまむとき)久(ひさ)にあらじ。妾、必(かなら)ず風濤(かざなみ)急峻(はや)からむ日(ひ)を以て、海浜(うみへた)に出(い)で到(いた)らむ。請(ねが)はくは、我(やつこ)が為(ため)に産室(うぶや)を作(つく)りて相待(あひま)ちたまへ』とまうす。彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、已に宮(もとのみや)に還(かへ)りまして、一(ひとつ)に海神(わたつみ)の教(おしへ)に遵(したが)ふ。時(とき)に兄火闌降命(ほのすそりのみこと)、既(すで)に厄困(なや)まされて、乃ち自伏罪(したが)ひて曰(まう)さく、『今(いま)より以後(ゆくさき)、吾(われ)は汝(いましみこと)の俳優(わざをき)の民(たみ)たらむ。請(こ)ふ、施恩活(いけたま)へ』とまうす。是(ここ)に、其(そ)の所乞(ねがひ)の随(まにま)に遂(つひ)に赦(ゆる)す。其れ火闌降命は、即(すなは)ち吾田君子橋等(あたのきみをばしら)が本祖(もとつおや)なり。後(のち)に豊玉姫、果(はた)して前(さき)の期(ちぎり)の如(ごと)く、其の女弟(いろど)玉依姫(たまよりびめ)を将(ひき)ゐて、直(ただ)に風波(かざなみ)を冒(おか)して、海辺(うみへた)に来到(きた)る。臨産(こう)む時に逮(およ)びて、請(こ)ひて曰(まう)さく、『妾(やつこ)産(こう)まむ時に、幸(ねが)はくはな看(み)ましそ』とまうす。天孫(あめみま)猶(なお)忍(しの)ぶること能(あた)はずして、窃(ひそか)に往(ゆ)きて覘(うかが)ひたまふ。豊玉姫、方(みざかり)に産(こう)むときに竜(たつ)に化為(な)りぬ。而(しこう)して甚(はなは)だ慙(は)ぢて曰(い)はく、『如(も)し我(われ)を辱(はづか)しめざること有(あ)りせば、海陸(うみくが)相通(かよ)はしめて、永(なが)く隔絶(へだてた)つこと無(な)からまし。今既に辱(はぢ)みつ。将に何(ない)を以(も)てか親昵(むつま)しき情(こころ)を結(むす)ばむ』といひて、乃ち草(かや)を以て児(みこ)を裏(つつ)みて、海辺(うみへた)に棄(す)てて、海途(うみのみち)を閉(と)ぢて亻巠(ただ)に去(い)ぬ。故(かれ)、因(よ)りて児(みこ)を名(なづ)けまつりて、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)と曰(まう)す」(「日本書紀1・巻第二・神代下・第十段・P.142~166」岩波文庫)
さらに。
「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)、其の姨(おば)玉依姫を以て妃(ひめ)としたまふ。彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を生(な)しませり。次(つぎ)に稲飯命(いなひのみこと)。次に三毛入野命(みけいりののみこと)。次に神日本磐余彦尊(かむやまといはれびこのみこと)。凡(すべ)て四(よはしら)の男(ひこみこ)を生(な)す」(「日本書紀1・巻第二・神代下・第十段・P.194」岩波文庫)
神日本磐余彦尊(かむやまといはれびこのみこと)は神武天皇である。神武の母は玉依姫。天皇との血縁上、豊玉姫と玉依姫とは、切り離して考えることはけっしてできない。天皇が先にあるのではなく、「玉」の持つ力は、そもそも誰に与えられたかが重要なのである。
「高皇産霊尊の児(みむすめ)万幡姫(よろづはたひめ)の児(みこ)玉依姫命(たまよりびめのみこと)といふ」(「日本書紀1・巻第二・神代下・第九段・P.158」岩波文庫)
またこうも。
「父(かぞ)をば大物主大神(おほものぬしのおほかみ)と曰(まう)す。母(いろは)をば活玉依媛(いくたまよりびめ)と曰(まう)す」(「日本書紀1・巻第五・祟神天皇 七年八月・P.282」岩波文庫)
熊楠の話にはまだ続きがある。
「内豎の少年不審に耐えず、いろいろ考えて后の尸を捜すと舌根に件の玉あり。それを盗み持つとそれより大王の寵幸この少年に集まり、后の尸を一向見向かず。不断常住この少年を愛することはなはだしく、少年も追い追い年はとるが元服も許されず、毎夜毎夜後庭を弄ばるるをうるさくなり、ついに温泉のかたわらなる沼沢中に玉を棄てると。それより大王またその沼沢を好むことはなはだしく片時もその辺を去らず、ついにアーヒェンAachen市をその沼に建てて永住した、という話」(南方熊楠「フィラデルフィアの顕微鏡」『森の思想・P.138~139』河出文庫)
玉の脅威。古代神話では世界中で認められるものだ。日本では玉に関し、或る種の氏族が代々受け継いでいくべきだとする考え方があった。「鎮魂(たましずめ)の儀(わざ)」については次のように。
「凡て、鎮魂(たましずめ)の儀(わざ)は、天鈿女命の遺跡(あと)なり。然れば、御巫(みかむなぎ)の職は、旧(もと)の氏(うぢ)を任(め)すべし。而るに、今選(えら)ふ所、他氏(ことうち)を論(あげつら)はず。遺(も)りたる九(ここのつ)なり」(「古語拾遺・P.51」岩波文庫)
天の岩屋戸のエピソードで有名な「天鈿女命」(あめのうづめのみこと)。後の猿女君(さるめのきみ)。巫女的シャーマニズムの系譜に属する。ずっと後代の近代日本になって、柳田國男が面白い資料を紹介している。蛇と女子と熊野に関係する。
「丹後熊野郡川上村大字市場の斎(いつき)大明神は『式』の熊野神社であるらしい。この社に附属して神に仕える家がある。女子が生れると、神の箭(や)飛び来たってかの家の棟に立つ。四五歳の時に宮に送り奉る。山中におれども獣にも害せられず、これを斎女(いつきめ)という。成長して交歓の心生ずるときは大蛇現われて眼を怒らす。その時は家に帰ってしまう。この斎女のおるがゆえに神の名も斎大明神というのである(田辺府志)」(柳田國男「巫女考・神の口寄せを業とする者」『柳田國男全集11・P.323~324』ちくま文庫)
この箇所に出てくる「斎女(いつきめ)」、さらに「口寄せ」という職業。その動きは一見すると「狂女」のそれだ。能の物狂いに「班女」がある。口寄せ、あるいは巫女の資格。それは一時的に狂女になり得る資格である。
「夏もはや杉(すぎ)の窓、秋風(あきかぜ)冷ややかに吹落(ふきおち)て、団雪(たんせつ)の扇(あふぎ)も雪なれば、名を聞(きく)もすさましくて、秋風(しうふう)恨みあり、よしや思(おも)へば是も実(げに)、逢(あ)ふは別(わか)れなるべき、其報(むく)ひなれば今更、世をも人をも恨むまじ、唯(ただ)思はれぬ身の程を、思(おも)ひ続けて独(ひと)り居(い)の、班女が閨ぞさびしき」(新日本古典文学体系「班女」『謡曲百番・P.216』岩波書店)
この一節に「団雪(たんせつ)の扇(あふぎ)」とある。和漢朗詠集から。
「班婕妤(はんせふよ)が団雪(たんせつ)の扇(あふぎ) 岸風(がんふう)に代(か)へて長く忘れたり 燕(えん)の昭王(せうわう)の招涼(せうりやう)の殊(たま) 沙月(さぐゑつ)に当(あて)て自(おのづか)ら得たり」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻上・夏・納涼・一六二・大江匡衡・P.67」新潮社)
ここでは揺れ惑う「扇」(あふぎ)の狂気に対する「殊(たま)」の呪術性が対照的に思える。なお、「逢(あ)ふは別(わか)れなるべき」は、平家物語で有名。
「生者必滅(しやうじやひつめつ)、会者定離(えしやぢやうり)は浮世の習にて候也」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十・維盛入水・P.239」岩波書店)
仏典にも出ている。
「愛別離苦 怨憎會苦
(書き下し)愛別離苦・怨憎会苦
(現代語訳)嫌いな人に会い好ましい人とは別離する」(「法華経・上・巻第二・譬喩品・第三・P.172~173」岩波文庫)
だがしかし、神格化された蛇には誰も何も対抗することはできないのか。と言えばそうでもない。蛇と女性器との関連から生じる不気味な威力を無効化してしまう人々がいないわけではないのだ。それは眼に関係がある。柳田はいう。
「第一には全国にひろく分布する琵琶橋・琵琶淵などの言い伝えに、琵琶を抱いて座頭が飛び込んだというものは、往々にして蛇の執念、もしくは誘惑を説くようである。すなわち盲人には何かは知らず、特にいわゆるクラオカミによって、すき好まれる長処のあるものと想像されていたのである。第二には勇士の悪蛇退治に、似合わぬ話だがおりおり目くらが出て参与している。九州で有名なのは肥前黒髪山下の梅野座頭、これは鎮西八郎の短刀を拝借して、谷に下って天堂岩の大蛇を刺殺したと称して、その由緒をもって正式に刀を帯ぶることを認められていた。しかもよほど念の入った隠れた理由のないかぎり、人はとうてい盲人を助太刀に頼む気にはなり得まい。すなわち彼等には一種の神力を具えていたのである」(柳田國男「蛇と盲目」『柳田國男全集6・P.346~347』ちくま文庫)
熊楠の愛読書「御伽草子」から、続けよう。
桂海はいったん比叡山へ戻ることにする。が、振り向き見返りしているあいだに時間が過ぎてしまい、日も暮れてきた。山の入り口に当たる坂本の宿坊まで登ることさえ断念し、琵琶湖岸に接する下阪本の戸津の浜辺の鄙びた小屋を借りて夜露をしのぐことにする。
「程近キ坂本ノ房マデモ行キ付カデ、日暮レケレバ、戸津ノ邊ニアリケルハニフノ小屋ニゾ、トドマリケル」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.466』岩波書店)
寝られないまま夜明けをむかえる。何ということもなく足はふらふらと大津の方角へと彷徨い出す。すると途中で馬に乗った侍童桂壽とばったり出会う。桂壽は桂海を探しにやって来たらしい。三井寺の「院家」(いんげ)のすぐ近くに居候できる坊があるのでそこへ来て梅若と会う機会を窺ってみてはと提案してくれる。桂海はさっそく話に乗る。
「『御所ノ側ニ知リタル衆徒(シユト)ノ坊候ヘバ、夫ニ暫ク御座候ウテ、御簾(レン)ノヒマヲモ御心ニ被懸(カケラレ)候ヘカシ』ト童頻ニイザナヘバ、思フ方ニ心被引(ヒカレ)テ、律師又三井寺ヘ行キヌ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.467』岩波書店)
梅若もまた心待ちにしている。だが実際に会うきっかけはなかなかやってこない。梅若のこまごまとして上品な気遣いは思いやりに満ちて可憐なほど。いたずらに十日が過ぎた。
「若公(ワカギミ)モハヤ心得タルケシキニテ、人目モガナト求ムル様ナレド、叶ハデ出デカネタル心盡(ヅク)シ、見ルモ中々イタハシケレバ、ヨシヤ只ヨソナガラ見ル計ヲ我方ニアル契ニテ、人ノ情ヲ社(コソ)命ニセメト思ヘバ、朝ユク行キテハ歸(カヘ)リ歸(カヘ)リテハ行キ、日数モ十日餘ニナリニケリ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.468』岩波書店)
そこへ桂壽がいい知らせを持ってきた。今夜は院家に客人が来るので酒宴が催される。門主はおそらく痛飲するだろう。だから遅くなるまで耐えて待って、その後、こっそり入ってくればよいと梅若は言っているとのこと。
「今夜コソ御所ヘ京ヨリ客(マレ)人ノ御入候ウテ、御酒宴ニテ候程ニ、門主モ痛ク酔ハセ玉ヒテ候ヘバ、フケ過(ス)グル迄(マデ)歸(カヘ)ラデ祇候セヨ、召シ具セラレテ是ヘ忍ビヤカニ御入リ候ベシト仰セ候ヒツル。門(カド)指サデ御待チ候ヘ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.468』岩波書店)
桂海はどきどきして待つ。
なお、室町時代、大人の僧侶による少年愛は、江戸時代と同じく、特に珍しくはない。「狂雲集」の中で一休もまたこう述べている。
「貪(むさぼ)り看(み)る、少年の風流、風流は是れ我が好仇(こうきゆう)なり。
(現代語訳)生命花やぐ少年を、飽くことなしに眺めていると、色好みこそボクの、よきつれあいと知る」(一休「狂雲集・五〇三」『大乗仏典(中国・日本篇)26・P.270』中央公論社)
BGM1
BGM2
BGM3