白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/タニワタリ採集と男根切り

2020年10月13日 | 日記・エッセイ・コラム
熊楠が草木に接する時の考えは実にシンプルなもの。「この島固有の名産タニワタリ」のように希少種であることがあらかじめわかっていれば、研究用に採集する際、必ず、「杉の幼木一本買い、代りに植え返りしなり」とある。「古来タニワタリを少々とるに、必ず同数の幼木を植えしめ」ることを「習慣として」心得ていたし実践していた。そうして限られた地域にのみ見られる固有種の保存と生態系維持に尽力した。

「西牟婁郡周参見(すさみ)浦の稲積(いなづみ)島は、樹木鬱陶、蚊、蚋(ぶと)多く、とても写真をとることもならぬほど樹木多き小島なり。神島と等しく、この島神はなはだ樹を惜しむと唱えて、誰も四時以後住(とどま)るものなく、また草木をとらず、小生もこの島固有の名産タニワタリ(『植物名彙』にタニワタシAspleniumu Nidus L,)一本とりにやりしに、杉の幼木一本買い、代りに植え返りしなり。珍木アコウノキもあり。習慣として古来タニワタリを少々とるに、必ず同数の幼木を植えしめしなり」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.394~395』河出文庫)

次に、或る植物の「代わり」になる別の植物、ではなく、「かけろく」の話題である。「かけろく」は「賭け事」のこと。賭け事には当然勝敗があり、勝てば何らかの金品を得ることができるが、逆に負ければ何らかの金品を差し出さねばならない。

ある日、京の三条の橋に世之介がいたところ、仕立物屋の十蔵がやって来ていう。もし十蔵が江戸・吉原の遊女「小むらさき」にふられなかったら、「木屋町(きやまち)の御下屋敷(おしもやしき)」が自分のものになる。他方、ふられた場合、十蔵は自分の「作蔵(さくざう)」=「男根」を切り落として差し出さねばならない。それが「かけろく」の内容だと。

「小むらさきさまに、あひまして、初対面から、わたくしは、ふられますまいと、智恵自慢申懸(かか)り、去(さる)御方より、二十日鼠の宇兵衛を、目付(めつけ)にあそばし、かけろくに仕。江戸へ、よね狂(ぐる)ひに、まいると申、さても気(き)な、やつかな。其かちまけはときく、身どもがふられませねば、木屋町(きやまち)の御下屋敷(おしもやしき)をもらひます筈。又負(まけ)ましたればと、顔の色青ふなして、声をふるはす、隠さずとも申せ、別(べち)の事でも御座りませぬ、ふられましたれば、命にはかまひのなきやうに、作蔵(さくざう)をきられます」(井原西鶴「好色一代男・卷八・情(なさけ)のかけろく・P.220~221」岩波文庫)

世之介にしてみれば笑うべき戯けた賭けというほかない内容だが、まずまずの趣向はあると面白がる。問題はこの場合、どちらが債権者でどちらが債務者なのか、必ず判明するシステムが採用されている点だろう。ニーチェはいう。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)

熊楠の愛読書「御伽草子」から、続けよう。

瀬田の唐橋までやって来た桂海と桂壽、そして桂海の同宿者ら。橋の柱には梅若の遺品と思われる品が掛けられたまま、梅若の姿はどこにも見えない。一同は瀬田川の岩石の間なども見逃すことなく様々なところを徐々に下流へ捜索し始める。そして「供御(グゴ)ノ瀬」(旧・滋賀県粟太郡下田上村黒津)付近まで来たとき、梅若のものと見える服装が浮いて漂っているのを発見する。ほどけた長い髪が水中の藻に絡みついて波に揺られており、その顔色はあるかなきかの様相を呈している。桂海と桂壽とは梅若のからだを抱き上げて介抱しにかかる。梅若のいない世の中など考えられもしない。だが、その言いようのない姿形に二人は神仏をごちゃまぜにして祈るしかすべがない。二人とも自分の命に代えて今一度、梅若が生きていた頃のように目を開いて欲しいと願う。

「供御(グゴ)ノ瀬ト云フ處マデ、求メ下リタレバ、セカレテトマル紅葉ハ紅(クレナイ)深キ色カト見テ、岩ノ陰ニ流レカカリタル物アルヲ、船指シ寄(ヨ)セテ見タレバ、アルモ空シキカホバセニテ、長(タケ)ナル髪流(カミナガ)レ藻(モ)ニ亂(ミダ)レカカリテ、岩越(コ)ス波ニユラレ居(イ)タルヲ、泣々(ナクナク)取(リ)上(ゲ)テ、律師ハ顔ヲ膝ニカキ乗セ、童ハ脚ヲ懐ノ中ニ抱(イダ)キテ、『ウタテシノ在様(アリサマ)ヤ。我等ヲバイカニ成レト思食(オボシメシ)テ、カカル事ハアリケルゾヤ。梵天、帝釈、天神、地祇、只我等ガ壽(イノチ)ヲ被召(メサレ)テ今一目空(ムナ)シカラヌ御カタリヲ見(ミ)セ玉へ』」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.480~481』岩波書店)

しかし懸命の救助活動も虚しくとうとう梅若のからだは遂に冷え切ってしまう。「落花枝ヲ辞(シ)」は次を参照。

「落花(らくくわ)枝(えだ)に帰(かへ)らず、破鏡(はきやう)二(ふた)たび照(て)らさず」(新日本古典文学体系「八島」『謡曲百番・P.456』岩波書店)

また「破鏡不重照、落花難上枝」(伝燈録十七)とも。

「聲モ惜(ヲ)シマズ啼(ナ)キ悲(カナ)シメドモ、落花枝ヲ辞(シ)テ二度咲(サ)ク習ナク、残月西ニ傾(イ)テ又中虚(ナカゾラ)ニカヘル事ナケレバ、濡(ヌ)レテ色コキ紅梅ノシホシホトシタル、雲ノ如クナル胸ノアタリヒエ果(ハ)テヌ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.481』岩波書店)

桂海と桂壽、そして桂海の同宿者らの脳裏には、梅若が生きていた頃の思い出がこみ上げてくる。「一度笑(エ)メバ百ノ媚(コビ)アリ」は白居易にある。

「囘眸一笑百媚生

(書き下し)眸(ひとみ)を囘(めぐら)して一笑(いつせう)すれば百媚(ひやくび)生(しやう)じ」

(現代語訳)目をうごかして笑うとたいへんな魅力が出て」(漢詩選10「長恨歌」『白居易・P.42~49』集英社)

「一度笑(エ)メバ百ノ媚(コビ)アリシ眼(マナコ)フサガリ、色變(ジ)ヌレバ、律師モ童モ跡(アト)マクラニヒレ附(フ)シテ絶(タ)エ入ル計泣(キ)沈(ミ)、同宿、下法師共ニ至(ル)マデ、苔ニ卧(シ)マロビテ、聲更ニ休(ム)時無(シ)」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.481』岩波書店)

翌日、梅若の死体は京の鳥辺野で火葬される。焼場から煙が上がっていくのが見える。その煙も絶えて一同は少しずつ帰っていく。が、律師桂海と侍童桂壽は残ったままだ。共にこのまま苔の間に埋れてしまおうかとも考える。そこでふと桂海は、梅若の残した和歌の一節「底マデ照(ラ)セ山ノ端ノ月」を思い出す。おそらくそれは梅若なきあと、もしその心があれば、永く弔ってもらえれば、という意味かと捉え、桂海はその場で墨染めの衣に着替え、洛北の岩倉(実相院、大雲寺、などがある)へ出家遁世する。一方、桂壽もまた髪の毛を剃り落とし高野山へ入山し生涯を山で過ごした。

「『底マデ照(ラ)セ山ノ端ノ月』トアリシハ、ナカラン跡ヲ弔(トブラ)ヘカシトノ爲ニテコソアレト思(ヒ)ケレバ、律師山ヘモ歸(カヘ)ラズ、ココヨリ軈(ヤガ)テコキ墨染ニ身ヲカヘテ、其遺骨ヲ頸(クビ)ニカケテ、山川ヲ斗藪(トソウ)シケルガ、後ニハ西山ノ岩蔵ト云フ處ニ庵室ヲ結ビテ、彼(カノ)後世菩提ヲ訪(トブラ)ヒ、童モ軈(ヤガ)テ髪下(シ)、高野山ニ閉ヂ篭リ遂ニ山中ヲバ出(デ)ザリケリ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.481』岩波書店)

桂海はその後、瞻西(センサイ)上人として京の東山の雲居寺(うんごじ)に堂を建てて住んだらしい。和歌が得意だったようだ。

「法(のり)のため擔(にな)ふ薪(たきぎ)にことよせてやがてこの世(よ)をこりぞはてぬる」(「金葉和歌集・巻第十・六二五・瞻西聖人・P.111」岩波文庫)

「つねよりも篠屋(しのや)の軒(のき)ぞうづもるるけふは宮(みや)こに初(はつ)雪やふる」(新日本古典文学体系「新古今和歌集・卷第六・六五八・瞻西聖人・P.195」岩波書店)

「むかし見し月の光(ひかり)をしるべにてこよひや君が西(にし)へゆくらん」(新日本古典文学体系「新古今和歌集・卷第二十・一九七七・瞻西上人・P.576」岩波書店)

そのようなエピソードを持った雲居寺の堂だが応仁の乱で壊滅しもはやない。また最後の項で「徳不孤必有隣」(トクコナラズカナラズトナリアル)と、論語の引用がある。

「子曰、徳不孤、必有隣

(書き下し)子曰く、徳孤(こ)ならず、必ず隣(となり)あり。

(現代語訳)先生がいわれた。『道徳を守るものは、孤立しているように見えるがけっしてそうではない。きっとよき理解者の隣人があらわれるものだ』」(「論語・第二巻・第四・里仁篇・二五・P.108~109」中公文庫)

しかしそれが出来ていたら誰も文句は言わない。本当にいいのだが。ところが今や日本政府は孤立しがちな人々の孤立をますます深め、さらなる孤立へ追いやり批判勢力を国家的見せしめに晒し上げ、政財官を上げて一斉に集団リンチの罠に誘い込み、嗤い楽しむただ単なるごろつき政府になってしまっている。震災処理問題、拉致問題、北方領土問題、沖縄米軍基地問題など、政府自身の重大課題は棚に上げて。かつて熊楠が批判したように土地売買で儲けた金で芸者を囲い遊郭遊びを自慢して国内だけで悦ぶ明治時代の「ごろつき神主」らの内弁慶集団のような政府に。法の番人は裁判所の裁判官ではもはやない。それでもなお孤立した側の支援者は登場してくるものだ。資本主義は一方通行をけっして許さないメカニズムだからである。そうでなければすべての金融機関はいずれどんな利子も上げることはできなくなるだろう。形式的なキャッシュレス決済が幾ら可能になってもなお、同じことだが、貨幣交換はいついかなるときでも可能でなくてはならないからである。そのためには前政権時代に寄ってたかって壊してしまった様々な制度の再構築が必要になる。資本主義的金融社会の「いろは」として、資本主義はロシア革命にもかかわらずどのようにして生き延びることができたか。

「資本主義は、古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている。これは資本主義の固有の受難であるが、この受難は資本主義の本質を何ら変えるものではない。こうして、《国家》は、公理系の中に組み入れられた種々の流れを調整する働きにおいて、次第に重要な役割を演ずるように規定されてくることになる。つまり、生産とその企画に対しても、また経済とその『貨幣化』に対しても、また剰余価値とその吸収(《国家》装置そのものによるその吸収)に対しても」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・P.303~304」河出書房新社)

というふうに。

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