白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/粘菌・境界なき生物と性の多様性2

2020年10月03日 | 日記・エッセイ・コラム
前に引いた箇所。

「茶ヲ呑ミ、酒ヲタタヘテ遊ビケル次(ツイデ)ニ、金(コガネ)ノウチ枝ノ橘ニ杓入レテ色々ノ輕(ケイ)衣十重(カサネ)送リタリケレバ、童モハヤ志ノ深キヲ見テヨロヅ心ヲ隔(ヘダ)テヌ様ナリ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.465』岩波書店)

ここで用いられている「杓」とは何か。柳田國男は「遠野物語」の中で「白望(しろね)の山」へ茸(きのこ)を採りに入って「金の樋(とい)と金の杓(しゃく)」を見たという伝説を拾っている。

「白望(しろね)の山に行きて泊れば、深夜にあたりの薄明るくなることあり。秋の頃茸(きのこ)を採りに行き山中に宿する者、よくこの事に逢う。また谷のあなたにて大木を伐り倒す音、歌の声など聞ゆることあり。この山の大さは測るべからず。五月に萱(かや)を苅(か)りに行くとき、遠く望めば桐の花の咲き満ちたる山あり。あたかも紫の雲のたなびけるがごとし。されどもついにそのあたりに近づくことあたわず。かつて茸を採りに入りし者あり。白望の山奥にて金の樋と(とい)と金の杓(しゃく)とを見たり。持ち帰らんとするにきわめて重く、鎌にて片端を削り取らんとしたれどそれもかなわず。また来んと思いて樹の皮を白くし栞(しおり)としたが、次の日人々ともに行きてこれを求めたけれど、ついにその木のありかをも見出し得ずしてやみたり」(柳田國男「遠野物語・三三」『柳田國男全集4・P.29』ちくま文庫)

次のエピソードは熊野権現と関係がある。「碓氷(うすい)峠の扚子町」、さらに「箱根の扚子町」について。

「中山道碓氷(うすい)峠の熊野権現は、ちょうど上信二州のの境上にあり、今も、一社にして両県の県社である。祭礼は十月の十五日、南北朝より地方の崇敬を受けていた証拠がある。往還の両側に、社家町が立ち続き、ここでまた大小の扚子を売っていた。よって扚子町とも称えていたそうである(上野志上)。これとよく似ているのは、箱根の扚子町で、やはり相模と伊豆の境山に接し、今の箱根宿の一区画、湖水に臨んだ芦川町の辺にあった。海道がまだ北岸を通っていた頃には、山扚子を細工して、これを箱根権現の坊中へ鬻(ひさ)いで活計となし、当時今よりもはるかに盛大であった修験者等は、その扚子を檀家への配礼に添えて贈ったということである(新編相模風土記)」(柳田國男「史料としての伝説・二所の扚子町」「柳田国男全集4・P.332」ちくま文庫)

また「杓子」に違いはないものの熊楠から教わった話を紹介している。それは熊楠が明らかに「山の神」を意識していた証拠だろう。

「これはかつて南方熊楠(みなかたくまぐす)氏の注意によって知ったことである。『黄表紙百種』の中(うち)『浮世操(うきよからくり)九面十面』と題する一篇に、西のみや三郎兵衛えびすの面を被(かぶ)り、番頭の黒兵衛は大黒の面、手代の鬼助は鬼の面とそれぞれの面を被って出る中に、女房は不断山の神の面をかぶり時々あばれまわるとあり、さらにまた『この時山の神扚子を持ちてあばれるゆえ、今の世に十二神楽(かぐら)の山の神を杓子をもちてさわぐ云々』とも見えている。東京などでは十二神楽と言う語は今もあって、しかもこれと山の神との関係はすでに不明になっているが、越後や会津で十二所または十二神と言うのは山の神のことで、あるいは二月十日等の十二日もってこれを祭る村もあれば、また十二本の神木の話など伝わっているようである」(柳田國男「史料としての伝説・二所の扚子町」「柳田国男全集4・P.338」ちくま文庫)

扚子には「招く」力がある。そう信じられてきた。だからといって、地方の山奥にのみ伝わる迷信に過ぎない、と簡単に切り捨てるわけにもいかない。

「扚子によって多くの不可能事をなし遂げんとした俗信がある。これは少くも食物の標識だけでは説明が付かぬのである。たとえば江州愛智(えち)郡西菩提寺(ぼだいじ)村の杓子池で、池に杓子を入れて水を掻き濁すをもって有効なる雨乞(あまごい)方法としていたなどは(近江国輿地誌略)、あるいは扚と扚子と本来一つであった一の証拠で、神池の水を掬(きく)するをもって竜王の力を借るの途とした名残かも知れぬが、少くも近世においてはこれを挑発手段に供したらしいのである。これは仏道その他宗教上の承認を得たものでないことは往々にして無理または不道徳な目的に使われるのでよく分る。紀州田辺で杓子を懐中して行くと頼母子(たのもし)が当るという迷信の現存している(郷土研究四の四四七頁)などもその一例であるが、さらに顕著にしてかつ弘く行われているのは、倡家(しょうか)青楼の客引き手段にこの物を用いる風である。同じ田辺においても、以前は客人の少い夜、人知れず杓子を懐中して四辻に行き、これをもって四方を招けば客が来ると信じていた(同二の四三四頁)。ーーー杓子には、その表向きの商法とはまったく関係のない『招く』と言うことが、常に大なる働きをしている。待人を呼ぶにも三度招き、または四方に向って客を招く。かと思うとこの物で招かれると三年の内に死ぬと言う話もある(俚言集覧)。いずれも自分が前に掲げたところの仮定、すなわち杓子に人の魂を摂取する力があると考えられたものとみることによって、始めて説明が可能である」(柳田國男「史料としての伝説・扚子の魔力」「柳田国男全集4・P.344~345」ちくま文庫)

扚子は飯を盛るための生活必需品でもある。また扚子といっても、例えば近江で有名なものは竹細工である。茶筅や編笠もまた竹細工だ。柳田が取り上げている通り、漆器を作る木地師について近江では君ヶ畑、葛川が今なお有名。さらに柳田は「紀州田辺で杓子を懐中して行くと頼母子(たのもし)が当るという迷信の現存している」という。熊楠は明確に山の神を指している。柳田はそれだけでなくまた違った方面を探求しようとしている。しかし共通項が見出されないわけではない。そこで「秋夜長物語」で桂海が手渡した「扚」(しゃく)だが、人を「招く」願いを込めたという意味では、「匂=薫(たきもの)」と異なるわけではないと思われる。

「御伽草子」から、続けよう。

侍童桂壽は律師桂海から預かった手紙を手にして梅若の前でこう述べる。

「是御覧候ヘ。イツゾヤ雨ノタエマノ花ノ木陰ニ立チ濡(ヌ)レテ御渡リ候ヒケルヲ、アルスキ人ホノカニ見奉リテ、人知(シ)レズ思ヒソメ候ヒケル袖ノ色モハヤ紅(クレナイ)ノフリ出(イ)デテ、泣ク計ニツツミカネタル様ニ見エ候ゾヤ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.465~466』岩波書店)

梅若は嬉しくもあり恥ずかしくもあり思わず頬を紅に染める。そこへ或る僧都が通りかかって横槍を入れる。せっかくの手紙はあっという間もなく無に帰するかと思われる。だが既に事情を聞かされている梅若は返事の一つもしないといけないと考え、書院に籠もって文面を練ろうとするが適切な言葉が見あたらない。桂壽は我慢づよく待つ。

「日暮マデ祇候(シコウ)シタルニ、暫クアリテ、書院ノ窓ヨリ御返事書(カ)キテ指シ出シ玉ヒタリ。童取ル手モ輕(カロ)クウレシク思ヒテ、急ギ持チテ行(ユ)キタルニ、律師目モアヤニ悦ビテ、誠ニアラレヌ様ナリ。ヒライデ見レバ、是モコトバハナクテ、

馮(タノ)マズヨ人ノ心ノ花ノ色ニアダナル雲ノ懸ル迷(マヨイ)ハ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.466』岩波書店)

悩んだのだろう、梅若もまた自分の気持ちを和歌にしたためた。類歌があるが、小野小町からの引用であり、その意味は愛慾の変化の激しさと虚しさとを詠んだものだ。

「色みえでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける」(「古今和歌集・巻第十五・七九七・P.185」岩波文庫)

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熊楠による熊野案内/粘菌・境界なき生物と性の多様性1

2020年10月03日 | 日記・エッセイ・コラム
粘菌とはどういう生物なのか。熊楠はそれを比喩的に説明しようと紀州・牟婁郡の歴史に置き換えてこう述べる。

「紀州の北・南牟婁郡は、古え人間のすむ所とせぬほど化外の地たりし。和歌山、田辺等と全く関係なく、人情風俗何から何まで伊勢に近し。故にこの辺に生えるハマユウという草を伊勢のハマユウと詠ぜし歌などあり(ハマユウは本当の伊勢にはなし)。それゆえ、維新後紀州の内ながら北・南牟婁郡を三重県につけ申し候。この方天理にもあい、地理にも叶い、人情にも合うゆえなり。しかるに中古来、北・南牟婁郡は紀州の首府たる和歌山辺より(名前上だけ)治めたるゆえ、北・南牟婁郡に関する文献や履歴をしらぶるにはやはり和歌山辺の文書によらざるべからず。この因縁によりすでに三重県に入って六十年近くなれる今日も北・南牟婁郡というと(紀伊の内なるゆえ)紀伊の首府たる和歌山を連想し、昨今の『大阪朝日』、『大阪毎日』ごとき大新紙にすら、三重県内たる北・南牟婁郡の出来事を、ややもすればその和歌山号に載せ申し候(実は和歌山辺とは何の関係痛痒なき所なるに)」(南方熊楠「粘菌、動植物いずれともつかぬ奇態の生物」『森の思想・P.155』河出文庫)

どちらでもなく、どちらでもある、かのようだ。ちなみに牟婁(むろ)郡は行政区画でいえば今の和歌山県田辺市とほぼ同一地域に当たる。とはいえ熊楠の頭の中にあるのはおそらく山の神の領域としての熊野なのだ。としてもなお、それらの境界線はどのようにして決定されるのか。柳田國男は「塚」(つか)に注目している。長いあいだ、諸共同体の境界を画していたのは「塚」だったからである。

「諸国の平野または群山の中に屹立(きつりつ)する飯山(いいやま)、飯盛山は日本においては塚の先型であろうとおもう。かかる地点を霊地と考えた思想は、やがて見通しに何の特殊の地物の存ぜざる地方に人為的境界を定むるに当って、これに似た物を工作する風習と化したのかも知れぬ。これは山に人を葬る代りに人を葬った場所に山を作るのとよく似ている。単純に諍訟(そうしょう)の用意ならばむしろ近頃の人のするように土中に炭などを埋めて、常は眼に附かず従って毀損(きそん)せらるるおそれのないようにした方がよいかも知れぬ。この点からいえば塚神は最初から境神であって、今日の境塚にはかえってこの信仰を脱却して純然たる経済行為となったものができたと見てよろしい。従って名は境塚にしてその由来等に不思議な伝説を伴っていても格別驚くには当らぬ」(柳田國男「境に塚を築く風習」『柳田國男全集15・P.537~538』ちくま文庫)

また塚の特徴として、「邑境(むらさかい)に塚を築くのは単純なる目標用だけではなく、これに伴う一種の信仰があったこと、ことにその信仰の奥には殺された人の霊という思想が久しく存留していたらしい」、とも述べる。

「自分は前に境の塚に訴論人を斬(き)って埋めたという口碑を伴う一例として、会津縄沢村の首塚・胴塚・足塚の事を述べておいた(郷土研究一巻一五八頁)。境の地において人を虐殺しその悪霊の力を守護に利用するは、数多(あまた)の未開民族の中に存する風習であるが、もちろん日本の近昔にかかる惨酷(ざんこく)な行為があったとは思われぬ。ただ邑境(むらさかい)に塚を築くのは単純なる目標用だけではなく、これに伴う一種の信仰があったこと、ことにその信仰の奥には殺された人の霊という思想が久しく存留していたらしいことを、この伝説から推測することはできる」(柳田國男「七塚考」『柳田國男全集15・P.543』ちくま文庫)

またさらに「境の地において人を虐殺しその悪霊の力を守護に利用するは、数多(あまた)の未開民族の中に存する風習であるが、もちろん日本の近昔にかかる惨酷(ざんこく)な行為があったとは思われぬ」という。しかし柳田の知る地域のみならず長く「未開民族」とされていた世界中の諸部族の生活様式は、実際のところ、柳田の考えとは大いに異なっていた。もちろん「虐殺」はあり「生贄」もあり、古代ギリシアのディオニュソス祭のように性的放縦や生肉食や自分で自分自身の男性器を切り落としたり動物の皮で身体を包み込んで踊り狂うということも大々的に行われていた。と同時に、「未開部族」と思われていた種々の集団が実は極めて規則的で構造的な「差異の体系」に基づいた生活環境を維持していたことも明らかにされた。

「私はいわゆるトーテム制度を取り扱い、私がその基本的性格と考える点を強調しておいた。トーテム制度が援用するのは、社会集団と自然種〔動植物の種〕の間の相同性ではなくて、一方で社会集団のレベルに現われる差異と、他方で自然種のレベルに現われる差異との間にある相同性なのである。それゆえこれらの制度は、一方は自然の中に、他方は文化の中に位置する《二つの差異体系の間の》相同性という公準の上にのっている」(レヴィ=ストロース「野生の思考・第四章・トーテムとカースト・P.136」みすず書房)

だからといって、彼ら「未開部族」が欧米の人々と同じほど知性的であるとして、欧米文化の側から承認するという態度では相変わらず欧米中心主義的な思想のままであって、むしろ逆に「未開部族」のあいだには彼らなりによく考えられた生活様式が今なお根付いているということをそのまま認めることが大切だろう。

熊楠の愛読書「御伽草子」から続き。

律師桂海(けいかい)は夜明けとともに昨日見かけた聖護院の御坊のそばまで来て再び佇んでしまう。見ていると中から寺の侍童が出てきた。桂海はいい機会だと思い声を掛け、この御坊に十六、七歳くらいの男子が住んでいらっしゃるようだがと、尋ねてみる。

「昨日此院家ニ、水魚紗ノ水干メサレテ、御年ノ程十六七ニ見(ミ)エサセ玉ヒ候ヒツル少人ノ御事ヤ知リ参(マイ)ラセ玉フ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.464』岩波書店)

文章で「院家」(いんげ)とあるのは、貴族の子弟で出家して預けられている門跡寺院のこと。侍童は気さくなタイプらしく屈託なく返事して説明してくれた。

「此御名ヲバ梅若公(ギミ)と申シテ、御里ハ花薗ノ左大臣殿ニテ候」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.464』岩波書店)

美青年の名は梅若(うめわか)というらしい。ただ、三井寺聖護院の御坊の方針は厳しく、管弦音曲の席がある時を除いて外出することはなかなかできない。なので梅若は深窓の中で詩作し歌を詠みつつ、のどかとも見えるほどいたずらに日々を過ごしているばかりだ。

「此御所ノ後様、餘リニユルス方ナク御渡リ候程ニ、管絃数寄ノ席(セキ)ナラデハ御出デモ候ハズ。イツトナク深窓(マド)ノ内ニ向ヒテ、詩ヲ作リ、歌ヲ讀ミテ、等閑ニ月日ヲ渡ラセ玉フナリ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.464』岩波書店)

そこで桂海は侍童を介して手紙のやりとりくらいはできないものかと考える。しかしその内容が露骨な愛欲吐露になってしまわないか心配でもある。そう思ってこの日もまた比叡山まで引き返した。とはいえ、一度動き出してしまった情念がそう簡単に消え去るわけはなく、心の中はまるで夢(ゆめ)現(うつつ)である。

「律師ハ夢ト現(ウツツ)トノ面影、起(ヲ)キモセズ寝(ネ)モセデ夜ヲ明(アカ)シ日ヲ暮(クラ)シケル」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.465』岩波書店)

この「起(ヲ)キモセズ寝(ネ)モセデ夜ヲ明(アカ)シ日ヲ暮(クラ)シ」。伊勢物語に類歌がある。

「起きもせず寝もせで夜(よる)をあかしては春のものとてながめ暮しつ」(新潮日本古典修正「伊勢物語・二・在原業平・P.15」新潮社)

三井寺へ出かけていくことが次第に多くなった。その近くに知人が住んでいたからだが、特に学問上のやりとりを必要としているわけではない。或る日、聖護院の御坊の前で知り合った侍童に近づいて、茶を呑み、酒を酌んでやり、さらに金製の枝を細工した橘や雅やかだが軽快に動きやすい衣服などを与え、その侍童との隔たりをぐっと埋めることに成功する。侍童も桂海の心情の本気さに気付いたようだ。

「茶ヲ呑ミ、酒ヲタタヘテ遊ビケル次(ツイデ)ニ、金(コガネ)ノウチ枝ノ橘ニ杓入レテ色々ノ輕(ケイ)衣十重(カサネ)送リタリケレバ、童モハヤ志ノ深キヲ見テヨロヅ心ヲ隔(ヘダ)テヌ様ナリ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.465』岩波書店)

この時の「杓」は諸本によって様々。主として「芳」、「杓」、「匂=薫(たきもの)」、など。群書類従に「たきもの」とあり、その場合は、「芳」、「匂=薫(たきもの)」を取ったと考えられる。しかし「御伽草子」の性格上、「杓」もまた捨てがたい。後で述べよう。

侍童の名は桂壽といった。律師桂海はどのようにすれば梅若に自分の思いを上手く伝えることができるだろうかと考えていると、桂壽は「まず手紙のやりとりから始めてみては」と提案してくれた。

「梅若公ニ思ヒ迷(マヨ)ヘル心ノ闇(ヤミ)イツ晴(ハ)ルベシトモ覚エヌヨシヲ語リケレバ、桂壽、『先ズ御文ヲ給ハリ候ヘ。申シ入レテ見候ハン』トゾ申シケル」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.465』岩波書店)

桂海もそれはいい方法だと同意する。しかし何を書こうかと考え始めると、手紙というのは案外むずかしい。紙が真っ黒になるほど細々と書いたとしても、それで思いの丈がすんなり伝わるとは限らない。そこで和歌をしたためてみることにした。

「思フ心ヲ盡(ツク)ス程ノ言(コト)ノ葉、イカニ黒(クロ)ミツクストモ、ツキシガタケレバ、中々歌計(バカリ)ニテ、

知(シ)ラセバヤホノ見(ミ)シ花ノ面影ニ立チソフ雲ノ迷フ心ヲ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.465』岩波書店)

この歌にもまた類歌が見られる。

「しらせばやほのみしま江に袖ひぢて七瀬の淀に思ふ心を」(「金葉和歌集・付録・巻第七・四〇九・神祗伯顕仲・P.135」岩波文庫)

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