前に引いた箇所。
「茶ヲ呑ミ、酒ヲタタヘテ遊ビケル次(ツイデ)ニ、金(コガネ)ノウチ枝ノ橘ニ杓入レテ色々ノ輕(ケイ)衣十重(カサネ)送リタリケレバ、童モハヤ志ノ深キヲ見テヨロヅ心ヲ隔(ヘダ)テヌ様ナリ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.465』岩波書店)
ここで用いられている「杓」とは何か。柳田國男は「遠野物語」の中で「白望(しろね)の山」へ茸(きのこ)を採りに入って「金の樋(とい)と金の杓(しゃく)」を見たという伝説を拾っている。
「白望(しろね)の山に行きて泊れば、深夜にあたりの薄明るくなることあり。秋の頃茸(きのこ)を採りに行き山中に宿する者、よくこの事に逢う。また谷のあなたにて大木を伐り倒す音、歌の声など聞ゆることあり。この山の大さは測るべからず。五月に萱(かや)を苅(か)りに行くとき、遠く望めば桐の花の咲き満ちたる山あり。あたかも紫の雲のたなびけるがごとし。されどもついにそのあたりに近づくことあたわず。かつて茸を採りに入りし者あり。白望の山奥にて金の樋と(とい)と金の杓(しゃく)とを見たり。持ち帰らんとするにきわめて重く、鎌にて片端を削り取らんとしたれどそれもかなわず。また来んと思いて樹の皮を白くし栞(しおり)としたが、次の日人々ともに行きてこれを求めたけれど、ついにその木のありかをも見出し得ずしてやみたり」(柳田國男「遠野物語・三三」『柳田國男全集4・P.29』ちくま文庫)
次のエピソードは熊野権現と関係がある。「碓氷(うすい)峠の扚子町」、さらに「箱根の扚子町」について。
「中山道碓氷(うすい)峠の熊野権現は、ちょうど上信二州のの境上にあり、今も、一社にして両県の県社である。祭礼は十月の十五日、南北朝より地方の崇敬を受けていた証拠がある。往還の両側に、社家町が立ち続き、ここでまた大小の扚子を売っていた。よって扚子町とも称えていたそうである(上野志上)。これとよく似ているのは、箱根の扚子町で、やはり相模と伊豆の境山に接し、今の箱根宿の一区画、湖水に臨んだ芦川町の辺にあった。海道がまだ北岸を通っていた頃には、山扚子を細工して、これを箱根権現の坊中へ鬻(ひさ)いで活計となし、当時今よりもはるかに盛大であった修験者等は、その扚子を檀家への配礼に添えて贈ったということである(新編相模風土記)」(柳田國男「史料としての伝説・二所の扚子町」「柳田国男全集4・P.332」ちくま文庫)
また「杓子」に違いはないものの熊楠から教わった話を紹介している。それは熊楠が明らかに「山の神」を意識していた証拠だろう。
「これはかつて南方熊楠(みなかたくまぐす)氏の注意によって知ったことである。『黄表紙百種』の中(うち)『浮世操(うきよからくり)九面十面』と題する一篇に、西のみや三郎兵衛えびすの面を被(かぶ)り、番頭の黒兵衛は大黒の面、手代の鬼助は鬼の面とそれぞれの面を被って出る中に、女房は不断山の神の面をかぶり時々あばれまわるとあり、さらにまた『この時山の神扚子を持ちてあばれるゆえ、今の世に十二神楽(かぐら)の山の神を杓子をもちてさわぐ云々』とも見えている。東京などでは十二神楽と言う語は今もあって、しかもこれと山の神との関係はすでに不明になっているが、越後や会津で十二所または十二神と言うのは山の神のことで、あるいは二月十日等の十二日もってこれを祭る村もあれば、また十二本の神木の話など伝わっているようである」(柳田國男「史料としての伝説・二所の扚子町」「柳田国男全集4・P.338」ちくま文庫)
扚子には「招く」力がある。そう信じられてきた。だからといって、地方の山奥にのみ伝わる迷信に過ぎない、と簡単に切り捨てるわけにもいかない。
「扚子によって多くの不可能事をなし遂げんとした俗信がある。これは少くも食物の標識だけでは説明が付かぬのである。たとえば江州愛智(えち)郡西菩提寺(ぼだいじ)村の杓子池で、池に杓子を入れて水を掻き濁すをもって有効なる雨乞(あまごい)方法としていたなどは(近江国輿地誌略)、あるいは扚と扚子と本来一つであった一の証拠で、神池の水を掬(きく)するをもって竜王の力を借るの途とした名残かも知れぬが、少くも近世においてはこれを挑発手段に供したらしいのである。これは仏道その他宗教上の承認を得たものでないことは往々にして無理または不道徳な目的に使われるのでよく分る。紀州田辺で杓子を懐中して行くと頼母子(たのもし)が当るという迷信の現存している(郷土研究四の四四七頁)などもその一例であるが、さらに顕著にしてかつ弘く行われているのは、倡家(しょうか)青楼の客引き手段にこの物を用いる風である。同じ田辺においても、以前は客人の少い夜、人知れず杓子を懐中して四辻に行き、これをもって四方を招けば客が来ると信じていた(同二の四三四頁)。ーーー杓子には、その表向きの商法とはまったく関係のない『招く』と言うことが、常に大なる働きをしている。待人を呼ぶにも三度招き、または四方に向って客を招く。かと思うとこの物で招かれると三年の内に死ぬと言う話もある(俚言集覧)。いずれも自分が前に掲げたところの仮定、すなわち杓子に人の魂を摂取する力があると考えられたものとみることによって、始めて説明が可能である」(柳田國男「史料としての伝説・扚子の魔力」「柳田国男全集4・P.344~345」ちくま文庫)
扚子は飯を盛るための生活必需品でもある。また扚子といっても、例えば近江で有名なものは竹細工である。茶筅や編笠もまた竹細工だ。柳田が取り上げている通り、漆器を作る木地師について近江では君ヶ畑、葛川が今なお有名。さらに柳田は「紀州田辺で杓子を懐中して行くと頼母子(たのもし)が当るという迷信の現存している」という。熊楠は明確に山の神を指している。柳田はそれだけでなくまた違った方面を探求しようとしている。しかし共通項が見出されないわけではない。そこで「秋夜長物語」で桂海が手渡した「扚」(しゃく)だが、人を「招く」願いを込めたという意味では、「匂=薫(たきもの)」と異なるわけではないと思われる。
「御伽草子」から、続けよう。
侍童桂壽は律師桂海から預かった手紙を手にして梅若の前でこう述べる。
「是御覧候ヘ。イツゾヤ雨ノタエマノ花ノ木陰ニ立チ濡(ヌ)レテ御渡リ候ヒケルヲ、アルスキ人ホノカニ見奉リテ、人知(シ)レズ思ヒソメ候ヒケル袖ノ色モハヤ紅(クレナイ)ノフリ出(イ)デテ、泣ク計ニツツミカネタル様ニ見エ候ゾヤ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.465~466』岩波書店)
梅若は嬉しくもあり恥ずかしくもあり思わず頬を紅に染める。そこへ或る僧都が通りかかって横槍を入れる。せっかくの手紙はあっという間もなく無に帰するかと思われる。だが既に事情を聞かされている梅若は返事の一つもしないといけないと考え、書院に籠もって文面を練ろうとするが適切な言葉が見あたらない。桂壽は我慢づよく待つ。
「日暮マデ祇候(シコウ)シタルニ、暫クアリテ、書院ノ窓ヨリ御返事書(カ)キテ指シ出シ玉ヒタリ。童取ル手モ輕(カロ)クウレシク思ヒテ、急ギ持チテ行(ユ)キタルニ、律師目モアヤニ悦ビテ、誠ニアラレヌ様ナリ。ヒライデ見レバ、是モコトバハナクテ、
馮(タノ)マズヨ人ノ心ノ花ノ色ニアダナル雲ノ懸ル迷(マヨイ)ハ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.466』岩波書店)
悩んだのだろう、梅若もまた自分の気持ちを和歌にしたためた。類歌があるが、小野小町からの引用であり、その意味は愛慾の変化の激しさと虚しさとを詠んだものだ。
「色みえでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける」(「古今和歌集・巻第十五・七九七・P.185」岩波文庫)
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「茶ヲ呑ミ、酒ヲタタヘテ遊ビケル次(ツイデ)ニ、金(コガネ)ノウチ枝ノ橘ニ杓入レテ色々ノ輕(ケイ)衣十重(カサネ)送リタリケレバ、童モハヤ志ノ深キヲ見テヨロヅ心ヲ隔(ヘダ)テヌ様ナリ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.465』岩波書店)
ここで用いられている「杓」とは何か。柳田國男は「遠野物語」の中で「白望(しろね)の山」へ茸(きのこ)を採りに入って「金の樋(とい)と金の杓(しゃく)」を見たという伝説を拾っている。
「白望(しろね)の山に行きて泊れば、深夜にあたりの薄明るくなることあり。秋の頃茸(きのこ)を採りに行き山中に宿する者、よくこの事に逢う。また谷のあなたにて大木を伐り倒す音、歌の声など聞ゆることあり。この山の大さは測るべからず。五月に萱(かや)を苅(か)りに行くとき、遠く望めば桐の花の咲き満ちたる山あり。あたかも紫の雲のたなびけるがごとし。されどもついにそのあたりに近づくことあたわず。かつて茸を採りに入りし者あり。白望の山奥にて金の樋と(とい)と金の杓(しゃく)とを見たり。持ち帰らんとするにきわめて重く、鎌にて片端を削り取らんとしたれどそれもかなわず。また来んと思いて樹の皮を白くし栞(しおり)としたが、次の日人々ともに行きてこれを求めたけれど、ついにその木のありかをも見出し得ずしてやみたり」(柳田國男「遠野物語・三三」『柳田國男全集4・P.29』ちくま文庫)
次のエピソードは熊野権現と関係がある。「碓氷(うすい)峠の扚子町」、さらに「箱根の扚子町」について。
「中山道碓氷(うすい)峠の熊野権現は、ちょうど上信二州のの境上にあり、今も、一社にして両県の県社である。祭礼は十月の十五日、南北朝より地方の崇敬を受けていた証拠がある。往還の両側に、社家町が立ち続き、ここでまた大小の扚子を売っていた。よって扚子町とも称えていたそうである(上野志上)。これとよく似ているのは、箱根の扚子町で、やはり相模と伊豆の境山に接し、今の箱根宿の一区画、湖水に臨んだ芦川町の辺にあった。海道がまだ北岸を通っていた頃には、山扚子を細工して、これを箱根権現の坊中へ鬻(ひさ)いで活計となし、当時今よりもはるかに盛大であった修験者等は、その扚子を檀家への配礼に添えて贈ったということである(新編相模風土記)」(柳田國男「史料としての伝説・二所の扚子町」「柳田国男全集4・P.332」ちくま文庫)
また「杓子」に違いはないものの熊楠から教わった話を紹介している。それは熊楠が明らかに「山の神」を意識していた証拠だろう。
「これはかつて南方熊楠(みなかたくまぐす)氏の注意によって知ったことである。『黄表紙百種』の中(うち)『浮世操(うきよからくり)九面十面』と題する一篇に、西のみや三郎兵衛えびすの面を被(かぶ)り、番頭の黒兵衛は大黒の面、手代の鬼助は鬼の面とそれぞれの面を被って出る中に、女房は不断山の神の面をかぶり時々あばれまわるとあり、さらにまた『この時山の神扚子を持ちてあばれるゆえ、今の世に十二神楽(かぐら)の山の神を杓子をもちてさわぐ云々』とも見えている。東京などでは十二神楽と言う語は今もあって、しかもこれと山の神との関係はすでに不明になっているが、越後や会津で十二所または十二神と言うのは山の神のことで、あるいは二月十日等の十二日もってこれを祭る村もあれば、また十二本の神木の話など伝わっているようである」(柳田國男「史料としての伝説・二所の扚子町」「柳田国男全集4・P.338」ちくま文庫)
扚子には「招く」力がある。そう信じられてきた。だからといって、地方の山奥にのみ伝わる迷信に過ぎない、と簡単に切り捨てるわけにもいかない。
「扚子によって多くの不可能事をなし遂げんとした俗信がある。これは少くも食物の標識だけでは説明が付かぬのである。たとえば江州愛智(えち)郡西菩提寺(ぼだいじ)村の杓子池で、池に杓子を入れて水を掻き濁すをもって有効なる雨乞(あまごい)方法としていたなどは(近江国輿地誌略)、あるいは扚と扚子と本来一つであった一の証拠で、神池の水を掬(きく)するをもって竜王の力を借るの途とした名残かも知れぬが、少くも近世においてはこれを挑発手段に供したらしいのである。これは仏道その他宗教上の承認を得たものでないことは往々にして無理または不道徳な目的に使われるのでよく分る。紀州田辺で杓子を懐中して行くと頼母子(たのもし)が当るという迷信の現存している(郷土研究四の四四七頁)などもその一例であるが、さらに顕著にしてかつ弘く行われているのは、倡家(しょうか)青楼の客引き手段にこの物を用いる風である。同じ田辺においても、以前は客人の少い夜、人知れず杓子を懐中して四辻に行き、これをもって四方を招けば客が来ると信じていた(同二の四三四頁)。ーーー杓子には、その表向きの商法とはまったく関係のない『招く』と言うことが、常に大なる働きをしている。待人を呼ぶにも三度招き、または四方に向って客を招く。かと思うとこの物で招かれると三年の内に死ぬと言う話もある(俚言集覧)。いずれも自分が前に掲げたところの仮定、すなわち杓子に人の魂を摂取する力があると考えられたものとみることによって、始めて説明が可能である」(柳田國男「史料としての伝説・扚子の魔力」「柳田国男全集4・P.344~345」ちくま文庫)
扚子は飯を盛るための生活必需品でもある。また扚子といっても、例えば近江で有名なものは竹細工である。茶筅や編笠もまた竹細工だ。柳田が取り上げている通り、漆器を作る木地師について近江では君ヶ畑、葛川が今なお有名。さらに柳田は「紀州田辺で杓子を懐中して行くと頼母子(たのもし)が当るという迷信の現存している」という。熊楠は明確に山の神を指している。柳田はそれだけでなくまた違った方面を探求しようとしている。しかし共通項が見出されないわけではない。そこで「秋夜長物語」で桂海が手渡した「扚」(しゃく)だが、人を「招く」願いを込めたという意味では、「匂=薫(たきもの)」と異なるわけではないと思われる。
「御伽草子」から、続けよう。
侍童桂壽は律師桂海から預かった手紙を手にして梅若の前でこう述べる。
「是御覧候ヘ。イツゾヤ雨ノタエマノ花ノ木陰ニ立チ濡(ヌ)レテ御渡リ候ヒケルヲ、アルスキ人ホノカニ見奉リテ、人知(シ)レズ思ヒソメ候ヒケル袖ノ色モハヤ紅(クレナイ)ノフリ出(イ)デテ、泣ク計ニツツミカネタル様ニ見エ候ゾヤ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.465~466』岩波書店)
梅若は嬉しくもあり恥ずかしくもあり思わず頬を紅に染める。そこへ或る僧都が通りかかって横槍を入れる。せっかくの手紙はあっという間もなく無に帰するかと思われる。だが既に事情を聞かされている梅若は返事の一つもしないといけないと考え、書院に籠もって文面を練ろうとするが適切な言葉が見あたらない。桂壽は我慢づよく待つ。
「日暮マデ祇候(シコウ)シタルニ、暫クアリテ、書院ノ窓ヨリ御返事書(カ)キテ指シ出シ玉ヒタリ。童取ル手モ輕(カロ)クウレシク思ヒテ、急ギ持チテ行(ユ)キタルニ、律師目モアヤニ悦ビテ、誠ニアラレヌ様ナリ。ヒライデ見レバ、是モコトバハナクテ、
馮(タノ)マズヨ人ノ心ノ花ノ色ニアダナル雲ノ懸ル迷(マヨイ)ハ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.466』岩波書店)
悩んだのだろう、梅若もまた自分の気持ちを和歌にしたためた。類歌があるが、小野小町からの引用であり、その意味は愛慾の変化の激しさと虚しさとを詠んだものだ。
「色みえでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける」(「古今和歌集・巻第十五・七九七・P.185」岩波文庫)
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