白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/マンドラゴラを通して見える世界の古層

2020年10月07日 | 日記・エッセイ・コラム
和歌山県田辺市の浜で方術を行い生活資金を得ていた老婦がいた。ちなみのこの老婦は熊楠の知人である。

「往年この田辺近い漁村のある老婦(予知人の姑)が蔓荊(『郷土研究』五卷五号三二四頁〔南方『バマボウとハマゴウ』〕をみよ)の根本に、畸形の贅(こぶ)、自然に大黒とか恵比須とかの像とみゆるを採り帰り、禱れば予言して、福を授け給うとて、衆を集め賽銭をせしめて、警察事件が生じた」(南方熊楠「樟柳神とは何ぞ」『浄のセクソロジー・P.165』河出文庫)

方術というのは祈祷や予言のことで、それを職業とする人々を方術師と呼んだ。この老婦はそもそも神道で巫女を務める家の生まれであって、蔓荊の根に生ずる贅(こぶ)を霊験あらたかな商品として売り捌いているところを警察に咎められたらしい。

「この木の根本は浪と沙に揉まれ、往々異態の贅を生ず。予も、紀伊の国は西牟婁郡富田中村の浜で、相好円満、四具皆備の妙門形の物を獲、転輪聖王玉女宝と銘し『一切衆生の途(みち)に迷うところ、十万諸仏の身を出だすの門』と、狂雲子の詩句をその箱にかき付け、恋しきにも悲しきにも帰命頂礼しおる。かの老婦は、代々エビス卸しを務めた巫女の家に生まれたといえば、この木の贅は、古来この修方に使われたと察する」(南方熊楠「樟柳神とは何ぞ」『浄のセクソロジー・P.165~166』河出文庫)

漢方薬なら江戸時代以前から様々な品種が売られていたし民間で用いられていた。だが近代になってなお当時の科学技術では説明のつかない植物はまだまだ多く、なかでも茄子科に属するマンドレイクは次の文章で熊楠が紹介しているように世界各地で相当有名だった。

「かく根を方術に用いる植物多岐なるうち、他に挺んでて最も著名なのはマンドラゴラに極まる。これは地中海地方に二、三種、ヒマラヤ山辺に一種、合わせてただ三、四種より成る一種で、茄科に属し、紫の花さく。なかんずく古く医術、媚術と左道に用いられて過重された一種は、地中海に瀕する諸国の産で、学名マンドラゴラ・オッフィシナルム。英語でマンドレイク、独語でアルラウネ、露語でアダモヴァゴロヴァ、古ヘブリウ名ズダイム、ペルシア名ヤブルズ、アラブ名イブルッ、パレスチナ名ヤブロチャク。今座右にないから月日は分からぬが、確か明治二十九年か三十年の『ネイチュール』に、予このヤブロチャクなる名を、予未見の書で、明の方密之の『通雅』四一に引かれた『方輿勝略』に押不盧薬と音訳したと書いたはとにかく、右のペルシア名かアラブ名を、宋末・元初時代に押不盧(ヤブルウ)と音訳したは疑いを容れず。押不盧『本草』にも明の李時珍が、むかし華陀(かだ)が腸を刳(えぐ)り胃を滌(あら)うた外科施術には、こんな薬を用いたのだろう、と古人の言を引いたを読んでも、和漢の学者何ものとも分からずに過ごしたのを、予が語学と古記述を調べて、初めてマンドラゴラと定めた」(南方熊楠「樟柳神とは何ぞ」『浄のセクソロジー・P.168~169』河出文庫)

明治二十九年か三十年とあるが、正しくは一九八九年(明治三十年)、イギリスの“Nature”誌八月十三日号に“The Mandrake”と題して掲載された熊楠の学術論文。“Mandrake”(マンドレイク)の名は今の日本の高校生向けの英和辞典を見ても、催眠剤・下剤として用いられるナス科の有毒植物として載っている。多くは手術時の麻酔として使われたようだ。しかし強力な作用を持つ薬物は紀元前から性的誘惑や暗殺に利用された。

「この物は毒物で、古ギリシアより中世欧州に至るまで、患者を麻酔せしめて施術するに用い、アラブの名医アヴィセンナもその功を推奨した。またカルタゴの大将マハルバルは、酒にマンドラゴラを入れて、叛徒多人を眠らせて殺し、ジュリアス・シーザーはシリシアの海賊に捕われた時、アンドラゴラ酒もて彼らを眠らせ、難を脱れたという」(南方熊楠「樟柳神とは何ぞ」『浄のセクソロジー・P.170』河出文庫)

古代ギリシア神話に「黄金の林檎(りんご)」という謎の植物が出てくる。

「さて夜(ニュクス)は忌(いま)わしい定業(モロス)と死の命運(ケール)と死(タナトス)を生み、また眠り(ヒュブノス)夢(オネイロス)の族を生み、ついで非難(モモス)と痛ましい苦悩(オイジュス)を生んだ、暗い夜の女神がたれとひとつ床に入ることもなく、生みたもうたのだ。また名にし負う大洋(オケアノス)のかなたで、黄金の林檎(りんご)と実をつけた樹木を護る、黄昏の娘たち(ヘスペリス)たちも」(ヘシオドス「神統記・P.32~33」岩波文庫)

黄金の林檎は、しかし、愛の大女神として有名なアプロディーテと関係が深い。

「このりんごは、われわれ人間の世界で聖なる庭園をもっているアプロディテの持物であった、という」(ケレーニイ「ギリシアの神話 神々の時代・第三章・P.56」中公文庫)

その庭園にはどんな植物が収集されていたのか知るよしもないが、ケレーニイは次のようにアプロディーテの別名を列挙している。

「メライナ/メライニス」(黒い女)、「スコテイア」(暗い女)、「アンドロポス」(人殺しの女)、「アノシア」(不信心な女)、「テュンポリュコス」(埋葬する女)、「エピテュンビディア」(墓の上にいる女)、「ペルセパエッサ」(冥界の女王)など。

また、旧約聖書に「恋なすび」〔恋なす〕という食物が出てくる。文字通りナス科の植物で強力な媚薬として用いられていたことがわかる。

「ルベンは小麦の収穫の頃、出て行って野に恋なすを見つけ、それをその母レアの所に持って来た。ラケルがレアに言うには、『あなたの子の恋なすをわたしに下さい』。レアはラケルに答えて、『わたしの夫を奪っただけでは足りずに、わたしの子の恋なすまであなたはとろうとするの』と言った。ラケルが言うには、『だからあなたの子の恋なすのかわりに、今夜あの人があなたと一緒に寝るようにしましょう』。ヤゴブが夕方野から帰って来ると、レアが迎えに出て、言った、『あなたはわたしの所へ入(はい)らなければいけません。わたしはわが子の恋なすであなたを確かに雇ったのですから』。そこでその夜、彼は彼女とともに寝た。神はレアの願いを聞かれたので、彼女は身ごもって、ヤコブに五番目の子を生んだ」(「創世記・第三十章・P.87」岩波文庫)

シェイクスピア作品でもところどころに出てくる。主に殺害目的か睡眠剤として、時には食べた人間を狂気に陥れる陰謀の小道具として登場する。

「イアーゴー それ、言ったとおりだ、奴が来る!阿片(あへん)、マンドラゴラ、そのほか世にあるどんな眠り薬を飲もうが、効きっこなし、きのうまで貴様を見舞ったあの安らかな眠りは二度と訪れるものか」(シェイクスピア「オセロー・第三幕第三場・P.98」新潮文庫)

「ジュリエット 万が一にも、眼が覚めるのが早すぎたら、一つにはたまらない悪臭と、二つには、あの土から根こぎにされる曼荼羅華(まんだらげ)の悲鳴、それを耳にした人間は、そのまま狂気にあるということだが」(シェイクスピア「ロミオとジュリエット・第四幕第三場・P.173」)

この箇所の「曼荼羅華(まんだらげ)」はマンダラゴラと発音が似ているだけのことで、マンダラゴラとはまた別物。植物としての「曼荼羅華(まんだらげ)」はチョウセンアサガオ(ダツラ)を指し、その主成分はヒヨスチアチン。華岡青洲が乳癌手術の際に世界初の全身麻酔を成功させた。

「クレオパトラ マンドラゴラを飲ませておくれ。/カーミアン どうしてそのようなことを?/クレオパトラ アントニーのいないこの長い時の間を眠って過ごすために」(シェイクスピア「アントニーとクレオパトラ・第一幕第五場・P.34」新潮文庫)

さて、ひとしきりマンドラゴラ関連の話題が連続した後、唐突に、人体内部に侵入してその内側から怪異な効果を発揮する謎の生物に話題が飛ぶ。寄生虫の一種だろうと思われるがその正体には深く触れておらず、熊楠の関心もそれが医学的にどのようなものかということとはやや違った位置から述べている印象が濃い。

「人の身内に鼈生じ脳ますを鼈瘕という。支那の医書にしばしばみえる。『藩翰譜』八下にいわく、天正十三年四月十六日、丹羽長秀、切腹して死す。『これは年ごろの積聚という病に犯されて、命すでに尽きんとす。たとえ、いかなる病なりとも、わが命失わんずるは正しき敵にこそあれ、いかでその敵討たでは空しくなるべきとて、腹掻き切り腸くりだしてみるに、奇異の曲者こそ出で来たれ、形石亀のごとくに、嘴(くちばし)鷹のごとくに尖り曲がりて、背中に刀の当たりたる跡ありけれ。長秀みずから筆執りて、事の由来を記して、わが跡のことをよきに計らい給うべしと書き認(したた)め、かの腹切りたる刀に積虫添えて大臣に献る(下略)』と」(南方熊楠「樟柳神とは何ぞ」『浄のセクソロジー・P.183』河出文庫)

さらにインドの医王耆婆(ぎば)の話題へ延びていく。

「亡夫の魂が爬虫となり、その形見の衣類を『出すたびにしくしくとなく若後家』の彼処に棲んで、日夜モーたまらぬ、これはどうにもならぬと悶えしめおるを憫れみ、彼女を丸裸にして、爬虫を除き、全快せしめたので、若後家恐悦やら恥かしいやら、あれほど深い処に潜んだ虫を引き出されて、底が大分あいてきました、どうそ跡片づけに、太い棒で存分地突きを遊ばしてと、尻目で見たる麗しさ」(南方熊楠「樟柳神とは何ぞ」『浄のセクソロジー・P.184』河出文庫)

文体の効果のため、医学というより遥かに褻談に等しい。ところがそれこそが熊楠の狙いである。といっても猥褻なエピソードだから出してきたわけではない。どういうことか。中沢新一はこう述べる。

「大事なのは、文章に猥談を突入させることによって、彼の文章にはつねに、なまなましい生命が侵入しているような印象があたえられる、という点だろうと思う。バフチンならば、これを熊楠の文体のもつカーニバル性と言うだろう。言葉の秩序の中に、いきなり生命の唯物論的な基底が、突入してくるのだ、このおかげで、熊楠の文章は、全体としてヘテロジニアスな構造をもつことになる。なめらかに連続する言葉の表面に、随所にちりばめられた猥談によって、たくさんの黒い穴がうがたれるようになり、その黒い穴からは、なまの生命が顔を出す」(中沢新一「動と不動のコスモロジー」『動と不動のコスモロジー・P.60』河出文庫)

もっとも、論文のはずがいつの間にかそのような形態変化を起こし、まるで違った話題へジャンプしていくことについて、熊楠自身、大変自覚的だった。自伝的回想を述べた箇所でこう書いている。

「小生は元来はなはだしき疳積(かんしゃく)持ちにて、狂人になることを人々患(うれ)えたり。自分このことに気がつき、他人が病質を治せんとて種々遊戯に身を入るるもつまらず、宜しく遊戯同様に面白き学問より始むべしと思い、博物標本をみずから集むることにかかれり。これはなかなか面白く、また疳積など少しも起こさば、解剖等微細の研究は一つも成らず、この方法にて疳積をおさうるになれて今日まで狂人にならざりし」(南方熊楠「狂人になること、反進化論、その他」『南方民俗学・P.497』河出文庫)

熊楠の愛読書「御伽草子」から、続けよう。

梅若失踪が明らかになった。三井寺(園城寺)ではこれを一山の恥として五百人ばかりで京の都の「左府」(大臣)の邸宅へ押し寄せ責め込み、苛烈な示威のため、すべての堂宇を一挙に焼き払って引き上げた。

「御門徒ノ大衆(ダイシユ)五百余人、白昼ニ左府ノ第宅、三条京極ヘ打寄セタリ。近所ノ祇候ノ人五十余人身命ヲ軽(カロン)ジテ塞(フセ)ギ戦ヘドモ、大衆㕝トモセズ責メ入リケル間、渡殿(ワタリドノ)、釣殿(ツリドノ)、泉殿(イヅミドノ)、甍(イラカ)ヲ並ベシ玉ノ欄干(ランカン)、一宇モ不残(ノコサズ)焼キ拂フ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.473』岩波書店)

けれどもまだまだ虫のおさまらない寺門派(三井寺=園城寺)。というのは、山門(比叡山)には戒壇が設けられているが、三井寺にはない。三井寺は常々「三摩耶戒壇(サンマヤカイダン)」という真言宗の戒壇設置を要望していた。梅若を誘惑したのは山門(比叡山)の僧だという。だからここはいっそのこと、山門相手に戦闘すべく、躊躇なく、「如意越(ニヨイゴエ)ノ道、所々ヲ堀切リテ、寺中ヲ城郭(ジヤウクワク)ニ構ヘ」、三摩耶戒壇を作ってしまう。ちなみに如意ヶ嶽の山頂は今の京都市と大津市との境界線になっており、俗称「大文字山」と呼ばれているのがそれ。

「『此次(ツイデ)ヲ以テ当寺ニ三摩耶戒壇(サンマヤカイダン)ヲ立テバ、山門定メテ寄(ヨ)センズラン。是則チ地ノ利ニ次ギテ敵ヲ亡(マウ)ス媒(ナカダチ)、亦ハ邪執ヲ退ケテ戒法ヲヒロムル道(ミチ)タルベシ。天茲ニ時ヲ與(アタ)ヘタリ、暫クモ遅擬スベカラズ』トテ、一味同心の衆徒二千余人、如意越(ニヨイゴエ)ノ道、所々ヲ堀切リテ、寺中ヲ城郭(ジヤウクワク)ニ構ヘテ、三摩耶戒壇ヲゾ立テケル」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.473』岩波書店)

この動きはただちに伝わって山門もまた七万余騎の軍勢を集める。

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