月下氷人というのは「月下氷人」(むすぶのかみ)とも読み、あるいは「月下神」(むすぶのかみ)とも読む。サブタイトルに「系図紛乱の話」とある。この頃、熊楠は、没落していく実家の経営と複雑化する家族関係とにかなり苦悩しながら執筆を続けていた。近親婚についてあれこれ述べ始めている。が、すぐ別の話題へ移っていく。けれども話題の核心は逆に、近親婚が当たり前にあった先史時代の事情に接近しているように見える。
「今も熊野等の碇泊地で船頭や船饅頭が唄う、『所は京都の堺の町で、哀れ悲しや兄妹(おととい)心中、兄は二十一、その名は軍平、妹(いもと)は十八、その名はお清、兄の軍平が妹に☓て、それが病の基(もとい)となりて、ある日お清が軍平眼元にもしもし兄上御病気は如何(いかが)、医者を迎うか薬を取ろうか、医者も薬も介抱も入らぬ、一夜頼みよ、これお清さん、これこれ兄様何言わさんす、人が聞いたら畜生と謂わん、親が聞いたら殺すと言わん、私(わたし)に一人の夫がごんす、歳は二十一、虚無僧でござる、虚無僧殺して下されますりゃ、一夜二夜でも三八夜(さんぱちや)でも、妻となります、これ兄上よ、そこでお清はある日のことに、瀬多の唐橋笛吹き通る』。これより先に近処で知った者ないが、虚無僧に化けた妹を殺し気がついて大きに恥じ、兄も自殺するので仕舞いじゃ」(南方熊楠「月下氷人」『浄のセクソロジー・P.75~76』河出文庫)
何が言いたいのだろう。差し当たり、今昔物語から「湛慶阿闍梨還俗(たんけいあじやりぐゑんぞくして)、為高向公輔語(たかむこのきんすけとなること)」を引いている。
忠仁公(藤原良房)に召し出されて修行を続けていた時、給仕に出てきた若い女性を見て思わず性行為に及ぶ。
「湛慶、此ノ女ヲ見ルト、深ク愛欲ヲ発(おこし)テ、窃(ひそか)ニ語(かたらひ)ヲ成シテ互(たがひ)ニ契(ちぎり)テ、遂ニ始メテ落(おち)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第三・P.441」岩波書店)
湛慶は僧侶なので自分の行為を堕落と考える。そこで、なぜこんなことになったのか、過去のことを振り返ってみる。すると、思い当たるふしがないではない。かつて夢に出てきた不動尊の言葉だ。いずれ女色に溺れて仕舞いにその相手と夫婦となるに至るに違いないと。
「湛慶、前(さき)ニ懃(ねむごろ)ニ不動尊(ふどうそん)ニ仕(つかへ)テ行(おこなひ)ケルニ、夢ノ中ニ不動尊告(つげ)テ宣(のたま)ハク、『汝ハ専(もはら)ニ我レヲ憑(たの)メリ。我レ、汝ヲ可加護(かごすべ)シ。但シ、汝(なむ)ヂ前生(ぜんしやう)ニ縁(えん)有ルニ依テ、某ノ国、某ノ郡(こほり)ニ住ム某ト云フ者ノ娘ニ落テ、夫妻(めをうと)トシテ有ラムトス』ト告ゲ給フト見テ、夢覚(さめ)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第三・P.442」岩波書店)
湛慶としては納得できない。もし不動尊の言葉が本当だとすれば、その前に万が一を期して、自分を誘惑しにやってくるという女性を殺してしまい、後々の破滅的事態を阻止しておくのが妥当だろうし安心だ。そう考える。
「我レ、何ノ故ニカ女ニ落(おち)ム。但シ、我レ、彼(か)ノ教ヘ給フ女ヲ尋テ殺シテ、心安(こころやす)クテ有ラム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第三・P.442」岩波書店)
某国某郡へ赴いた湛慶は人夫姿を装い某女を探す。実際に某家はあった。しかもその近くで「十歳許(ばかり)ナル女子(をむなご)」が遊んでいるのが目に入る。その家の下女に尋ねると返事からして確かに某女に違いない。
「湛慶夫(ぶの)如クシテ伺フニ、十歳許(ばかり)ナル女子(をむなご)ノ端正(たんじやう)ナル、延(えん)ニ走リ出(い)デテ、遊ビ行(あり)ク。湛慶、其ノ家ヨリ下女(しもをむな)ノ出(いで)タルニ、『彼(か)ノ出遊(いであそ)ブ女子ハ誰(た)ソ』ト問ヘバ、『彼(か)レハ此(この)殿ノ独娘(ひとりむすめ)也』ト答フ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第三・P.442」岩波書店)
翌日、某女が遊んでいる隙を伺って女を捕らえ、その頸部を掻き切って殺し去った。
「次(つぎの)日行テ南面ノ庭ニ居(ゐ)ルニ、昨日(きのふ)ノ如ク女子出テ遊ビ行(あり)ク。其時ニ敢(あへ)テ人無シ。湛慶、喜ビ乍(なが)ラ走リ寄リテ、女子ヲ捕(とらへ)テ頸(くび)ヲ掻斬(かききり)ツ。此レヲ知ル人無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第三・P.442」岩波書店)
そんなことがあって、もう忘れていたのだが、しかし今、給仕に出てきて性行為に及んでしまった女性の頸部をよく見ると、「大(おほき)ナル疵(きず)有テ、灸(や)キ綴(つづり)タル跡(あと)」が生々しい。
「此(か)ク思ヒ不懸(かけ)ヌ女ニ落ヌレバ、湛慶、『先年ニ不動尊ノ示シ給ヒシ女ヲバ殺テシニ、此ク思ヒ不懸(かけ)ヌ者ニ落ニタルコソ奇異(あさまし)ケレ』ト思テ、此ノ女ト抱(いだき)テ臥(ふ)シタル時ニ、湛慶、女ノ頸ヲ捜(さぐ)ルニ、頸ニ大(おほき)ナル疵(きず)有テ、灸(や)キ綴(つづり)タル跡(あと)也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第三・P.442~443」岩波書店)
給仕の女性に思い出すことはないかと尋ねてみたところ、誰かはさっぱりわからないが過去に殺されかけたことがあり、九死に一生を得て今は忠仁公(藤原良房)のもとで働いているとのこと。湛慶は隠しておくことができずすべてを女性の前で告白する。すると女性はかえって湛慶のことを哀れにおもったようで、結果的に二人は夫婦になった。
「泣々(なくな)ク女ニ此ノ事ヲ語ケレバ、女モ哀(あはれ)ニ思(おもひ)テケリ。然(さ)テ、永キ夫妻(めをうと)トシテゾ有ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第三・P.443」岩波書店)
なるほど興味深いエピソードではある。しかしこの逸話は古代中国の文献「続幽怪録」にある唐の韋固のエピソードとそっくりなのだ。結婚相手を探しに城内へやってきた韋固は月の光の下で書に目を通している老人と出会う。老人はいう。韋固の望む女性はこれこれの所で出会うことになるだろうと。韋固が行ってみると予想外の醜女である。嫌気がさしてそこらへんにいた男に金をやり殺させてしまう。ところが女は一命を取り止め、眉間に傷を負っただけで済んだ。十四年が過ぎた。いつしか女性はたいそう艶やかな容色無類の美女に育っていた。相州の太守王泰はその女性を韋固に合わせ結婚させた。数年を経て韋固は妻の過去を聞かされる。誰なのかわからないが一度殺されかけたことがあり、しかし一命を取り止め、その後は泰の養女として育てられたのだと。殺されそうになった時に負った眉間の傷はどうなったのか。常に眉間に花鈿(はなぼたん)を貼(ちょう)じていて、かえって美麗に映る。さてそこで熊楠は月下氷人の由来についてこう述べる。
「結縁神(えんむすびのかみ)を月老また月下老と呼ぶはこれによる。また媒人(なこうど)を氷人と言うのは、晋の令狐策という男、氷上に立って氷下の人と語ると夢み、何のことか解らぬところへ友人索紞(さくたん)来たって解いていわく、氷上は陽で男だ、氷下は陰で女だ、君氷上にありて氷下の人と語ったと夢みたは男のために女と語ったんで、君が人に媒を頼まれ相談調うて春氷が泮(と)けて目出度(めでた)く婚姻が済む占(うら)でござる、と。果たして太守田豹その子のために令狐策を媒として張氏の女を求め、仲春氷泮けて婚成った(『淵鑑類函』一七五)。この二つの故事を合わせて媒人を月下氷人と言うんだ。また月老赤縄子(むすぶのかみあかいひも)で夫婦の縁を結ぶとあるゆえ、夫婦の縁を赤縄子と呼び、『えんのいと』など訓(よ)むのじゃ」(南方熊楠「月下氷人」『浄のセクソロジー・P.97』河出文庫)
要するに今昔物語「湛慶」の逸話は「続幽怪録」にある「唐の韋固のエピソード」の反復なのだ。とはいえ、転用とか流用とかいった次元で語られるべきものではけっしてない。問題の根は深い。まだ文化人類学という言葉さえなかった時代に熊楠は何を言いたがっていたのか。それが問題だからである。
今昔物語に次の話題が掲載されている。或る旅人が東の国へ行く途中、宿に泊まった。部屋で横になっていると、何か物の怪のようなものの影が通り過ぎ、今この宿で生まれた子は「八歳で自害する」という言葉を残して去って行った。
「此宿人(このやどりびと)ノ居タル所ノ傍(かたはら)ニ戸有(ある)ヨリ、長(たけ)八尺許(ばかり)ノ者ノ、何トモ無ク怖(おそろ)シ気(げ)ナル、内ヨリ外(と)ヘ出(いで)テ行(ゆく)トテ、極(きはめ)テ怖シ気ナル声(こゑ)シテ、『年ハ八歳、自害(じがい)』ト云テ去(さり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第十九・P.80~81」岩波書店)
八年後、そのときの旅人が同じ宿に立ち寄って、そういえばあの時に生まれた子どもはと聞いた。すると母親は顔を曇らせて答えた。不憫なことに、木を切っている最中に木から落ちて、そこに置いていた鎌で自分の頭を立ち割われ、結果的に自害したことになったと。
「糸清気(いときよげ)ナル男子(をのこご)ニテ侍(はべり)シガ、去年(こぞ)ノ其(その)月ノ其日、高キ木ニ登リテ、鎌ヲ以テ木ノ枝ヲ切侍(きりはべり)ケル程ニ、木ヨリ落テ、其(その)鎌ノ頭(かしら)ニ立(たち)テ死侍(しにはべり)ニキ」「今昔物語集5・巻第二十六・第十九・P.81」岩波書店)
そしてこのエピソードは、そっくりそのままといっていいほどの形を取って、西鶴の小説で反復される。大坂の道頓堀の真斎橋(しんさいばし)で人形屋を営む新六という男が丹波で時雨に遭い、家に帰ることができなくなって地蔵堂で一夜を過ごした。そこで文殊菩薩の予言を聞いたというのである。
「夜の暁方に又文殊の声がし給うて『今宵五畿内〔山城(やましろ)、大和(やまと)、河内(かわち)、和泉(いずみ)、摂津(せつつ)〕だけの安産が一万二千百十六人、この内八千七十三人が娘だ。中にも、摂津の国三津寺八幡(みつでらはちまん)の氏子、道頓堀の楊子屋に願いのままの男の子が安産した。母親は喜ぶこと浅くなく、大きな顔して味噌汁(みそしる)の餅(もち)を喰(く)うなどしているが、人間がゆく末の身がどうなって行くか知らぬのは浅ましい。この子は美少年に育ち、のちには芸子になり、諸見物に思いをかけられ、これの盛りの時に至って、十八歳の正月二日の曙(あけぼの)の夢と、かぎりある命を世間の義理ゆえに捨てる若衆ぞ』と先を見とおしての御物語をありありと聞いた」(井原西鶴「袖も通さぬ形見の衣(きぬ)」『男色大鑑・P.155~156』角川ソフィア文庫)
子どもは「はや十三より衆道(男性同性愛)の訳知り」になる。戸川早之丞と名乗り歌舞伎役者として当代一と言われるほどの人気者になる。だが当時の役者の常というべきか、あちこちに借金を作って返せなくなってしまい、挙げ句の果てに刀を持ち出し自分自身に向ける。
「早之丞はうち笑って『浮世ほど思うままにならぬものはない』と二階へあがるのを見たが、筆ばやにその事とはなく書置きして、『惜しいのは命だ、これは、これは』と嘆(なげ)いても帰らぬ若衆、普通では死なれぬ所をすこしの義理につまって、武士でも出来ないだろう最後は末々の世の語り草でこそある。物は争えない事、安産の地蔵の御ことば思いあわすればまことに正月二日の骨仏とはなった〔安産の地蔵ハマチガイ、文殊ガイッタ〕」(井原西鶴「袖も通さぬ形見の衣(きぬ)」『男色大鑑・P.158~159』角川ソフィア文庫)
文殊菩薩の予言通り、早之丞は十八歳になっていた。このタイプの逸話はなぜ何度も繰り返し反復されるのか。ただ単なる仏教説話というだけでは説明不可能である。なぜなら、仏教に関係のない世界各地で見られる、極めてアニミズム的な反復性が顕著だからだ。
熊楠の愛読書「御伽草子」から、続けよう。
律師桂海は侍童桂壽の手引きでようやく梅若のいる書院に潜り込むことができた。なお「コノヤ」はおそらく「後夜」(ごや)、「小夜」(さよ)、を書き誤ったと考えられる。
「コヤノ枕、川嶋ノ流モ淺(アサ)カラヌ、行末マデノ睦語(ムツゴト)モマダア盡(ツ)キナクニ、閨(ネヤ)寒ク紫蘭ノ夢サメヤスク、漏(ロ)断(タヘ)テ紅涙留メガタケレバ、篠(シノ)ノ小竹(ザサ)ノ一臥ニ、明(ア)ケヌト告(ツ)グル鳥ノ音(ネ)モ恨メシク、己(ヲノ)ガ衣々(キヌギヌ)ヒヤヤカニ成リテ、立チ別レナントスルニ、明方ノ月、窻ノ西ヨリクマナク指シ入リタレバ、寝亂(ネミダ)レ髪ノハラハラト懸リタルハヅレヨリ、眉ノ匂ホヤカニ、ホノカナルカホバセノ思ハ色深(フカ)ク見(ミ)エタル様、別レテ後ノ面影モ、又逢フマデヲ待ツ程ノ命(イノチ)アルベシトモ覚エズ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.469』岩波書店)
また、「川嶋」(かわしま)とある。「川の中の島」の意味だろう。日本の中世すでに「川中島」は無縁の地として考えられていた。男性同士が夜に枕をかわすことはタブーではなく、さらに延々と流れる川の流れから両者の契りが浅からぬものでありなおかつ様々に変容していくことの兆候であるとも見て取れる。また、「かわしま」について業平に次の和歌がある。
「あひみては心ひとつをかは島の水の流れて絶えじとぞ思ふ」(新潮日本古典修正「伊勢物語・二二・在原業平・P.38」新潮社)
それにしても活躍著しいのは梅若の侍童桂壽。両者のあいだを仲介するその素速さはあたかも貨幣のようだ。
「童亦来リテ御文トテ指シ出シタリ。アケテ見レバ、語(コトバ)ハサシモ多(ヲヲ)カラデ、
我袖ニ宿(ヤド)シヤ果(ハ)テン衣々(キヌギヌ)ノ涙ニワケシ在明ノ月
律師書院ニカヘリテ、
共ニ見シ月ヲ餘波(ナゴリ)ノ袖ノ露ハラハデ幾夜嘆キ明(ア)カサン」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.469』岩波書店)
梅若と桂海とのやりとりはなお散文では言い現わせない。けれども和歌という特異な言語形式を介してであれば、なるほど幾らかのもどかしさを残しつつも、なぜか通じ合い、もどかしさゆえ、さらなる愛欲の高まりを感じさせずにはおかない。
BGM1
BGM2
BGM3
「今も熊野等の碇泊地で船頭や船饅頭が唄う、『所は京都の堺の町で、哀れ悲しや兄妹(おととい)心中、兄は二十一、その名は軍平、妹(いもと)は十八、その名はお清、兄の軍平が妹に☓て、それが病の基(もとい)となりて、ある日お清が軍平眼元にもしもし兄上御病気は如何(いかが)、医者を迎うか薬を取ろうか、医者も薬も介抱も入らぬ、一夜頼みよ、これお清さん、これこれ兄様何言わさんす、人が聞いたら畜生と謂わん、親が聞いたら殺すと言わん、私(わたし)に一人の夫がごんす、歳は二十一、虚無僧でござる、虚無僧殺して下されますりゃ、一夜二夜でも三八夜(さんぱちや)でも、妻となります、これ兄上よ、そこでお清はある日のことに、瀬多の唐橋笛吹き通る』。これより先に近処で知った者ないが、虚無僧に化けた妹を殺し気がついて大きに恥じ、兄も自殺するので仕舞いじゃ」(南方熊楠「月下氷人」『浄のセクソロジー・P.75~76』河出文庫)
何が言いたいのだろう。差し当たり、今昔物語から「湛慶阿闍梨還俗(たんけいあじやりぐゑんぞくして)、為高向公輔語(たかむこのきんすけとなること)」を引いている。
忠仁公(藤原良房)に召し出されて修行を続けていた時、給仕に出てきた若い女性を見て思わず性行為に及ぶ。
「湛慶、此ノ女ヲ見ルト、深ク愛欲ヲ発(おこし)テ、窃(ひそか)ニ語(かたらひ)ヲ成シテ互(たがひ)ニ契(ちぎり)テ、遂ニ始メテ落(おち)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第三・P.441」岩波書店)
湛慶は僧侶なので自分の行為を堕落と考える。そこで、なぜこんなことになったのか、過去のことを振り返ってみる。すると、思い当たるふしがないではない。かつて夢に出てきた不動尊の言葉だ。いずれ女色に溺れて仕舞いにその相手と夫婦となるに至るに違いないと。
「湛慶、前(さき)ニ懃(ねむごろ)ニ不動尊(ふどうそん)ニ仕(つかへ)テ行(おこなひ)ケルニ、夢ノ中ニ不動尊告(つげ)テ宣(のたま)ハク、『汝ハ専(もはら)ニ我レヲ憑(たの)メリ。我レ、汝ヲ可加護(かごすべ)シ。但シ、汝(なむ)ヂ前生(ぜんしやう)ニ縁(えん)有ルニ依テ、某ノ国、某ノ郡(こほり)ニ住ム某ト云フ者ノ娘ニ落テ、夫妻(めをうと)トシテ有ラムトス』ト告ゲ給フト見テ、夢覚(さめ)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第三・P.442」岩波書店)
湛慶としては納得できない。もし不動尊の言葉が本当だとすれば、その前に万が一を期して、自分を誘惑しにやってくるという女性を殺してしまい、後々の破滅的事態を阻止しておくのが妥当だろうし安心だ。そう考える。
「我レ、何ノ故ニカ女ニ落(おち)ム。但シ、我レ、彼(か)ノ教ヘ給フ女ヲ尋テ殺シテ、心安(こころやす)クテ有ラム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第三・P.442」岩波書店)
某国某郡へ赴いた湛慶は人夫姿を装い某女を探す。実際に某家はあった。しかもその近くで「十歳許(ばかり)ナル女子(をむなご)」が遊んでいるのが目に入る。その家の下女に尋ねると返事からして確かに某女に違いない。
「湛慶夫(ぶの)如クシテ伺フニ、十歳許(ばかり)ナル女子(をむなご)ノ端正(たんじやう)ナル、延(えん)ニ走リ出(い)デテ、遊ビ行(あり)ク。湛慶、其ノ家ヨリ下女(しもをむな)ノ出(いで)タルニ、『彼(か)ノ出遊(いであそ)ブ女子ハ誰(た)ソ』ト問ヘバ、『彼(か)レハ此(この)殿ノ独娘(ひとりむすめ)也』ト答フ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第三・P.442」岩波書店)
翌日、某女が遊んでいる隙を伺って女を捕らえ、その頸部を掻き切って殺し去った。
「次(つぎの)日行テ南面ノ庭ニ居(ゐ)ルニ、昨日(きのふ)ノ如ク女子出テ遊ビ行(あり)ク。其時ニ敢(あへ)テ人無シ。湛慶、喜ビ乍(なが)ラ走リ寄リテ、女子ヲ捕(とらへ)テ頸(くび)ヲ掻斬(かききり)ツ。此レヲ知ル人無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第三・P.442」岩波書店)
そんなことがあって、もう忘れていたのだが、しかし今、給仕に出てきて性行為に及んでしまった女性の頸部をよく見ると、「大(おほき)ナル疵(きず)有テ、灸(や)キ綴(つづり)タル跡(あと)」が生々しい。
「此(か)ク思ヒ不懸(かけ)ヌ女ニ落ヌレバ、湛慶、『先年ニ不動尊ノ示シ給ヒシ女ヲバ殺テシニ、此ク思ヒ不懸(かけ)ヌ者ニ落ニタルコソ奇異(あさまし)ケレ』ト思テ、此ノ女ト抱(いだき)テ臥(ふ)シタル時ニ、湛慶、女ノ頸ヲ捜(さぐ)ルニ、頸ニ大(おほき)ナル疵(きず)有テ、灸(や)キ綴(つづり)タル跡(あと)也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第三・P.442~443」岩波書店)
給仕の女性に思い出すことはないかと尋ねてみたところ、誰かはさっぱりわからないが過去に殺されかけたことがあり、九死に一生を得て今は忠仁公(藤原良房)のもとで働いているとのこと。湛慶は隠しておくことができずすべてを女性の前で告白する。すると女性はかえって湛慶のことを哀れにおもったようで、結果的に二人は夫婦になった。
「泣々(なくな)ク女ニ此ノ事ヲ語ケレバ、女モ哀(あはれ)ニ思(おもひ)テケリ。然(さ)テ、永キ夫妻(めをうと)トシテゾ有ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第三・P.443」岩波書店)
なるほど興味深いエピソードではある。しかしこの逸話は古代中国の文献「続幽怪録」にある唐の韋固のエピソードとそっくりなのだ。結婚相手を探しに城内へやってきた韋固は月の光の下で書に目を通している老人と出会う。老人はいう。韋固の望む女性はこれこれの所で出会うことになるだろうと。韋固が行ってみると予想外の醜女である。嫌気がさしてそこらへんにいた男に金をやり殺させてしまう。ところが女は一命を取り止め、眉間に傷を負っただけで済んだ。十四年が過ぎた。いつしか女性はたいそう艶やかな容色無類の美女に育っていた。相州の太守王泰はその女性を韋固に合わせ結婚させた。数年を経て韋固は妻の過去を聞かされる。誰なのかわからないが一度殺されかけたことがあり、しかし一命を取り止め、その後は泰の養女として育てられたのだと。殺されそうになった時に負った眉間の傷はどうなったのか。常に眉間に花鈿(はなぼたん)を貼(ちょう)じていて、かえって美麗に映る。さてそこで熊楠は月下氷人の由来についてこう述べる。
「結縁神(えんむすびのかみ)を月老また月下老と呼ぶはこれによる。また媒人(なこうど)を氷人と言うのは、晋の令狐策という男、氷上に立って氷下の人と語ると夢み、何のことか解らぬところへ友人索紞(さくたん)来たって解いていわく、氷上は陽で男だ、氷下は陰で女だ、君氷上にありて氷下の人と語ったと夢みたは男のために女と語ったんで、君が人に媒を頼まれ相談調うて春氷が泮(と)けて目出度(めでた)く婚姻が済む占(うら)でござる、と。果たして太守田豹その子のために令狐策を媒として張氏の女を求め、仲春氷泮けて婚成った(『淵鑑類函』一七五)。この二つの故事を合わせて媒人を月下氷人と言うんだ。また月老赤縄子(むすぶのかみあかいひも)で夫婦の縁を結ぶとあるゆえ、夫婦の縁を赤縄子と呼び、『えんのいと』など訓(よ)むのじゃ」(南方熊楠「月下氷人」『浄のセクソロジー・P.97』河出文庫)
要するに今昔物語「湛慶」の逸話は「続幽怪録」にある「唐の韋固のエピソード」の反復なのだ。とはいえ、転用とか流用とかいった次元で語られるべきものではけっしてない。問題の根は深い。まだ文化人類学という言葉さえなかった時代に熊楠は何を言いたがっていたのか。それが問題だからである。
今昔物語に次の話題が掲載されている。或る旅人が東の国へ行く途中、宿に泊まった。部屋で横になっていると、何か物の怪のようなものの影が通り過ぎ、今この宿で生まれた子は「八歳で自害する」という言葉を残して去って行った。
「此宿人(このやどりびと)ノ居タル所ノ傍(かたはら)ニ戸有(ある)ヨリ、長(たけ)八尺許(ばかり)ノ者ノ、何トモ無ク怖(おそろ)シ気(げ)ナル、内ヨリ外(と)ヘ出(いで)テ行(ゆく)トテ、極(きはめ)テ怖シ気ナル声(こゑ)シテ、『年ハ八歳、自害(じがい)』ト云テ去(さり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第十九・P.80~81」岩波書店)
八年後、そのときの旅人が同じ宿に立ち寄って、そういえばあの時に生まれた子どもはと聞いた。すると母親は顔を曇らせて答えた。不憫なことに、木を切っている最中に木から落ちて、そこに置いていた鎌で自分の頭を立ち割われ、結果的に自害したことになったと。
「糸清気(いときよげ)ナル男子(をのこご)ニテ侍(はべり)シガ、去年(こぞ)ノ其(その)月ノ其日、高キ木ニ登リテ、鎌ヲ以テ木ノ枝ヲ切侍(きりはべり)ケル程ニ、木ヨリ落テ、其(その)鎌ノ頭(かしら)ニ立(たち)テ死侍(しにはべり)ニキ」「今昔物語集5・巻第二十六・第十九・P.81」岩波書店)
そしてこのエピソードは、そっくりそのままといっていいほどの形を取って、西鶴の小説で反復される。大坂の道頓堀の真斎橋(しんさいばし)で人形屋を営む新六という男が丹波で時雨に遭い、家に帰ることができなくなって地蔵堂で一夜を過ごした。そこで文殊菩薩の予言を聞いたというのである。
「夜の暁方に又文殊の声がし給うて『今宵五畿内〔山城(やましろ)、大和(やまと)、河内(かわち)、和泉(いずみ)、摂津(せつつ)〕だけの安産が一万二千百十六人、この内八千七十三人が娘だ。中にも、摂津の国三津寺八幡(みつでらはちまん)の氏子、道頓堀の楊子屋に願いのままの男の子が安産した。母親は喜ぶこと浅くなく、大きな顔して味噌汁(みそしる)の餅(もち)を喰(く)うなどしているが、人間がゆく末の身がどうなって行くか知らぬのは浅ましい。この子は美少年に育ち、のちには芸子になり、諸見物に思いをかけられ、これの盛りの時に至って、十八歳の正月二日の曙(あけぼの)の夢と、かぎりある命を世間の義理ゆえに捨てる若衆ぞ』と先を見とおしての御物語をありありと聞いた」(井原西鶴「袖も通さぬ形見の衣(きぬ)」『男色大鑑・P.155~156』角川ソフィア文庫)
子どもは「はや十三より衆道(男性同性愛)の訳知り」になる。戸川早之丞と名乗り歌舞伎役者として当代一と言われるほどの人気者になる。だが当時の役者の常というべきか、あちこちに借金を作って返せなくなってしまい、挙げ句の果てに刀を持ち出し自分自身に向ける。
「早之丞はうち笑って『浮世ほど思うままにならぬものはない』と二階へあがるのを見たが、筆ばやにその事とはなく書置きして、『惜しいのは命だ、これは、これは』と嘆(なげ)いても帰らぬ若衆、普通では死なれぬ所をすこしの義理につまって、武士でも出来ないだろう最後は末々の世の語り草でこそある。物は争えない事、安産の地蔵の御ことば思いあわすればまことに正月二日の骨仏とはなった〔安産の地蔵ハマチガイ、文殊ガイッタ〕」(井原西鶴「袖も通さぬ形見の衣(きぬ)」『男色大鑑・P.158~159』角川ソフィア文庫)
文殊菩薩の予言通り、早之丞は十八歳になっていた。このタイプの逸話はなぜ何度も繰り返し反復されるのか。ただ単なる仏教説話というだけでは説明不可能である。なぜなら、仏教に関係のない世界各地で見られる、極めてアニミズム的な反復性が顕著だからだ。
熊楠の愛読書「御伽草子」から、続けよう。
律師桂海は侍童桂壽の手引きでようやく梅若のいる書院に潜り込むことができた。なお「コノヤ」はおそらく「後夜」(ごや)、「小夜」(さよ)、を書き誤ったと考えられる。
「コヤノ枕、川嶋ノ流モ淺(アサ)カラヌ、行末マデノ睦語(ムツゴト)モマダア盡(ツ)キナクニ、閨(ネヤ)寒ク紫蘭ノ夢サメヤスク、漏(ロ)断(タヘ)テ紅涙留メガタケレバ、篠(シノ)ノ小竹(ザサ)ノ一臥ニ、明(ア)ケヌト告(ツ)グル鳥ノ音(ネ)モ恨メシク、己(ヲノ)ガ衣々(キヌギヌ)ヒヤヤカニ成リテ、立チ別レナントスルニ、明方ノ月、窻ノ西ヨリクマナク指シ入リタレバ、寝亂(ネミダ)レ髪ノハラハラト懸リタルハヅレヨリ、眉ノ匂ホヤカニ、ホノカナルカホバセノ思ハ色深(フカ)ク見(ミ)エタル様、別レテ後ノ面影モ、又逢フマデヲ待ツ程ノ命(イノチ)アルベシトモ覚エズ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.469』岩波書店)
また、「川嶋」(かわしま)とある。「川の中の島」の意味だろう。日本の中世すでに「川中島」は無縁の地として考えられていた。男性同士が夜に枕をかわすことはタブーではなく、さらに延々と流れる川の流れから両者の契りが浅からぬものでありなおかつ様々に変容していくことの兆候であるとも見て取れる。また、「かわしま」について業平に次の和歌がある。
「あひみては心ひとつをかは島の水の流れて絶えじとぞ思ふ」(新潮日本古典修正「伊勢物語・二二・在原業平・P.38」新潮社)
それにしても活躍著しいのは梅若の侍童桂壽。両者のあいだを仲介するその素速さはあたかも貨幣のようだ。
「童亦来リテ御文トテ指シ出シタリ。アケテ見レバ、語(コトバ)ハサシモ多(ヲヲ)カラデ、
我袖ニ宿(ヤド)シヤ果(ハ)テン衣々(キヌギヌ)ノ涙ニワケシ在明ノ月
律師書院ニカヘリテ、
共ニ見シ月ヲ餘波(ナゴリ)ノ袖ノ露ハラハデ幾夜嘆キ明(ア)カサン」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.469』岩波書店)
梅若と桂海とのやりとりはなお散文では言い現わせない。けれども和歌という特異な言語形式を介してであれば、なるほど幾らかのもどかしさを残しつつも、なぜか通じ合い、もどかしさゆえ、さらなる愛欲の高まりを感じさせずにはおかない。
BGM1
BGM2
BGM3