白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/熊野三山反魂香

2020年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム
熊楠を激怒させたのはただ単なる神社合祀という点に限ってではない。一般大衆が考えてもなかなかわかりづらいように、綿密かつ狡猾に仕組まれた「文書偽造」。さらに土地買収のための「運動費(悪く言わば賄賂)」の横行。

「小生初めこの姦徒より承しは、証拠品百五十点とか三百点とかありしとのことなり。しかるに小生知るところにては、熊野三山の荒廃はなはだしき今日、新宮には多少足利氏時代の神宝文書あるも、本宮には何にもなく、那智には神宝三、四件をのこすのみ。目録は多少存するが(それも小生手許にはあるが、那智山には只今ありやなしや分からず)、何たる証拠などはなし。しかるに百五十点も三百点もあるとは、実に稀代のことと存じおり候ところ、今回彼輩入獄の理由は、噂(うわさ)によれば文書偽造の廉(かど)なる由。大抵かかる古文書は、文体前後を専門の文士に見せたら早速真偽は分かるものに候。しかるに、かかる胡乱(うろん)過多の証拠品を取り上げ、日本有数の山林をたちまち下付せしこと、はなはだ怪しまれ申し候。かの徒の書上(かきあげ)中にも、三万円は運動費(悪く言わば賄賂)に使うた、と書きあり。しかして、色川村のみの下付山林を伐らば二十万円村へ入る、一戸に割つけたら知れたものなり。このうち十二万円は弁護士に渡す約束の由。つまり他処の人々が濡れ手で栗を攫(つか)み、村民はほんの器械につかわれ、実際一人につき二、三銭の益を得るのみ」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.381~382』河出文庫)

熊楠は誰もが知る日本の歴史・古典から様々な箇所を引用しつつ抗議することを止めない。それが同時に熊野固有の生態系保存に繋がる。

例えば、次に上げる太平記の文章。そこに書かれた熊野に関する奇瑞奇怪な現象のあれこれ。なぜ奇瑞奇怪なのか。というのは、そもそもそのような特異な環境は熊野本来の自然生態系を抜きにして語ることはできなかったからだ。「熊野人」という言葉が印象的な部分。山岳地帯の戦闘だけでなく水軍としても非凡な存在感を誇っていた。

「高野(こうや)より紀伊路(きのじ)に出でて、千里(せんり)の浜(はま)を打ち過ぎて、田辺(たなべ)の宿(しゅく)に逗留(とうりゅう)し、四、五日、渡海(とかい)の船をそろへ給ふに、熊野(くまの)の新宮別当湛誉(しんぐうのべっとうたんよ)、湯浅入道成仏(ゆあさにゅうどうじょうぶつ)、山本判官(やまもとほうがん)、東四郎(とうのしろう)、西四郎(さいのしろう)以下(いげ)の熊野人(くまのびと)ども、馬、物具(もののぐ)、弓箭(ゆみや)、太刀、長刀(なぎなた)、絹布(きぬぬの)の類(たぐ)ひ、兵粮米(ひょうろうまい)、に至るまで、われ劣らじと奉りける間、行路(こうろ)の資(たす)け万(よろ)づ卓散(たくさん)なり。かくて順風になりにければ、かの熊野人ども、兵船(ひょうせん)三百余艘漕(こ)ぎ並(なら)べて、淡路国(あわじのくに)武島(むしま)へ送り奉る」(「太平記4・第二十四巻・義助朝臣予州下向の事、付道の間高野参詣の事・P.74~75」岩波文庫)

熊野信仰の広さ深さは江戸時代に書かれた妖異怪談集であり、一六六六年(寛文六年)出版の「伽婢子」でも盛大に披露されている。和泉(いづみ)の堺(さかひ)で薬種を扱って商売している長次という男が瘡毒(さうどく)を病んで奈良の吉野の奥深く、十津川まで湯治にやってきた。

「それより紀伊国、和歌・吹上の浦を過(すぎ)て、由良の湊(みなと)よりふねををりて、恋しき都をなげめやり、高野山にまうでて、滝口時頼(たきぐちときより)入道にあふて、案内せさせ、院々谷々おがみめぐり、これよりくま野に参詣すべしとて、三藤(とう)のわたり、藤代(ふぢしろ)より和歌のうら、吹上の浜、古木の杜(もり)、蕪坂(かぶらざか)・千里(ちさと)の浜のあたりちかく、岩代(いはしろ)の王子(わうじ)をうちこえ、岩田川にて垢離(こり)をとりて、

岩田川ちかひのふねにさほさしてしづむわが身もうかびぬるかな

それより本宮(ほんぐう)にまうでつつ、新宮・那智(なち)のこりなくめぐりて」(新日本古典文学体系「伽婢子・巻之二・十津川(とづがは)の仙境(せんきやう)・P.39~40」岩波書店)

とそこへ、源平合戦で入水して死んだはずの平維盛が出現する。維盛は死んではいない。十津川で生きているという。そういうことならと真夜中にもかかわらず長次は気持ちを落ち着かせ、平氏滅亡後の世の中の推移を語る。あれから「弘治(こうぢ)二年(一五五六年)丙辰(ひのへたつ)の歳(とし)まで星霜(せいぞう)三百七十四年」が過ぎたと。耳を傾けていた維盛は三百七十四年の間にそれほど様々な死闘が繰り広げられ、世の中も変わっていたのかと不覚にも涙する。長次は場所を記憶しておくのだが、翌年訪れてみると、もはやその場所はただただ深山幽谷が静寂を湛えているばかりだった。

近松門左衛門は浄瑠璃「けいせい反魂香」で次のように扱っている。

「飛鳥(あすか)の社濱(やしろはま)の宮(みや)。王子々々は九十九所。百に成りても思ひなき世は和歌〔若〕(わか)の浦(うら)、こずゑにかかる藤代(ふぢしろ)や、岩代峠(いはしろたうげ)潮見(しほみ)坂、かきうつす繪(ゑ)は残るとも我は残らぬ身と聞けばいとしやさこそ我が夫(つま)の、涙にくれて筆捨(ふです)て松の、しづくは袖に満(み)つ潮(しほ)の、新宮(しんぐう)の宮居(みやゐ)かうかうと、出島(じま)に寄(よ)する磯(いそ)の浪(なみ)、岸(きし)打つ浪(なみ)は補陀落(ふだらく)や那智(なち)は千手、観世音(くわんぜおん)、いにしへ花(くわ)山の、法皇(ほふわう)の、后(きさき)のわかれを、戀ひしたひ、十善(ぜん)御身を捨(す)て高野(かうや)西國熊野(くまの)へ三度(ど)、後生前生(ごしやうぜんしやう)の宿願(しゆくぐわん)かけて、發心門(ほつしんもん)に入る人は神や受(う)くらん御本社(ほんしや)の、證誠殿(しようじやうでん)の階(しざはし)をおいてくだりて、待ちうけ悦び給ふとかや、我はいかなる罪業(ざいごふ)の、其の因縁(いんえん)の十二社(しや)をめぐる輪廻(りんゑ)をはなれねば、うたがひふかき音無川(おとなしがは)ながれの、罪(つみ)をかけて見る業(ごふ)のはかりの重(おも)りには、それさへ軽(かる)き盤石(ばんじやく)の、岩田川(いはたがは)にぞ着きにける、垂迹和光(すいしやくわくわう)の方便にや名所々々宮立ちまで、顕はれ動(うご)き見えければ元信信心肝(しんじんきも)にそみ、我が書(か)く筆とも思はれず目(め)をふさぎ、南無(なむ)日本第一霊験(りやうげん)、三所権現(ごんげん)と伏(ふ)しをがみ、頭(かうべ)をあげて目(め)をひらけば南無(なむ)三寶、さきに立ちたる我が妻はまっさかさまに天を踏(ふ)み、両手をはこんで歩(あゆ)み行く、はっとおどろき是なう浅ましの姿やな、誠や人の物語死(し)したる人の熊野詣(くまのまう)では、あるひはさかさま後向(うしろむ)き生(い)きたる人には變(かは)ると聞く、立居に付けて宵(よひ)より心にかかること有りしが、扨はそなたは死(し)んだかと、こぼしそめたる涙よりつきぬ歎(なげ)きと成りにけり」(日本古典文学体系「けいせい反魂香・三熊野かげろふ姿(すがた)」『近松浄瑠璃集下・P.166~167』岩波書店)

この箇所で「飛鳥」(あすか)とあるのは次の歌を踏まえる。

「世の中はなにか常なるあすか川昨日(きのう)の淵(ふち)ぞ今日(けふ)は瀬になる」(「古今和歌集・巻第十八・九三三・P.218」岩波文庫)

さらに「王子々々は九十九所」とあるのは京の都から考えて、という意味。謡曲「俊寛」にこうある。

「都よりの道中(だうちう)の、九十九所(くじふくしよ)の、王子迄、ことごとく順礼の、神路(しんろ)に幣(ぬさ)を捧(ささ)げつつ」(新日本古典文学体系「俊寛」『謡曲百番・P.467』岩波書店)

また、「新宮(しんぐう)の宮居(みやゐ)」を起こすため「満(み)つ潮(しほ)の」、が取り入れられている。

「熊野新宮にてよみ侍りける

天くだる神や願をみつしほの湊に近き千木のかたそぎ」(「玉葉和歌集・卷第二十・中原師光朝臣・P.439」岩波文庫)

熊野と直接関係はないが、「けいせい反魂香」には、近松作品であるにもかかわらず西鶴作品からの引用もあって面白い。例えば、「湯(ゆ)の尾峠(をたうげ)の孫杓子(まごじやくし)」。西鶴にこうある。

「越前(えちぜん)の国湯尾峠(ゆのおとうげ)の茶屋の軒端に大きいしゃくしを看板にして、孫じゃくしといって疱瘡(ほうそう)がかるくすむ守り札を出している」(井原西鶴「雪中(せつちゆう)の時鳥(ほととぎす)」『男色大鑑・P.65』角川ソフィア文庫)

さらに「片肌(かたはだ)脱(ぬ)いだる立髪(たてがみ)男」。大津絵で「男伊達」を描いたもの。江戸時代の大津は東海道の宿場町として大変繁盛していた。土産といえば大津絵だった。西鶴が列挙しているようにかつてはもっと多くの絵柄があったようだ。

「いかに北國のはてなればとて、あなどりたまふな、寺泊(とまり)という所に、傾城町(けいせいまち)あり、いざーーー、奥の間に、やさしくも、屏風(へうふ)引廻(ひきまは)して有ける、押繪(おしゑ)を見れば、花かたげて、吉野参(よしのまいり)の人形、板木押(はんぎおし)の弘法大師、鼠の嫁入(よめり)、鎌倉團右衛門(かまくらだんゑもん)、多門(たもん)庄左衛門が、連奴(つれやつこ)、これみな、大津の追分(おいわけ)にて、書(かき)し物ぞかし、見るに、都なつかしく、おもふうちに、亭主膳をすえける」(井原西鶴「好色一代男・卷三・集礼(しゆらい)は五匁の外(ほか)・P.87~88」岩波文庫)

その意味ではこれら諸テクストは引用の《織物》だということができる。

「『テクスト』は複数的である。ということは、単に『テクスト』がいくつもの意味をもつということではなく、意味の複数性そのものを実現するということである。それは《還元不可能な》複数性である(ただ単に容認可能な複数性ではない)。『テクスト』は意味の共存ではない。それは通過であり、横断である。したがって『テクスト』は、たとえ自由な解釈であっても解釈に属することはありえず、爆発に、散布に属する。実際、『テクスト』の複数性は、内容の曖昧さに由来するものではなく、『テクスト』を織りなしている記号表現の、《立体画的複数性》とでも呼べるものに由来するのだ(語源的に、テクストとは織物のことである)」(バルト「作品からテクストへ」『物語の構造分析・P.97』みすず書房)

ただ、今の日本の政治は高度テクノロジーを駆使しながら、駆使すればするほどますます、一体誰が責任者なのか、さっぱり判然としないほど監禁=監視する側の没人格化がどんどん増していることは間違いない。

「<一望監視装置>(パノプティコン)は、見る=見られるという一対の事態を切り離す機械仕掛であって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが、けっして見るわけにはいかず、中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、けっして見られはしないのである。これは重要な装置だ、なぜならそれは権力を自動的なものにし、権力を没人格化するからである」(フーコー「監獄の誕生・第三部・第三章・P.204」新潮社)

この傾向は日毎に加速していることを忘れないようにしよう。

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