和歌山県だけが特別だとは思われないものの、確たる古典に記載がほとんど見られないのは淋しい、と熊楠はいう。岩田淳一宛書簡から男性同性愛に関する。
「和歌山という処は歴代ことのほか女色の行なわれし所にて、徳川末期には娼妓とは明言しがたきも遊郭は数カ所でき候(今もそれが北の新地と申しのこりあり。大坂辺よりも遊びにくるほどの女多し。芸妓というものの、実は売芸よりも売色の方なり)。光瑞法主の漢学の師たりし小山憲栄の話に、若いとき諸国を歩きしに和歌山と金沢くらい女色の乱蕩せし地はなかりしとのことに候。したがって男色の話とては、西鶴の『大鑑』巻四に『待ち兼ねしは三年めの命』の一条あるのみ。その外に何たる話は伝わらず」(南方熊楠「カゲロウとカゲマ、御座直し、『弘法大師一巻之書』、その他」『浄のセクソロジー・P.390~391』河出文庫)
菊井松三郎は十六歳の美少年。その情人(兄貴分)を瀬川卯兵衛といった。瀬川はなかなか熟考するタイプの男で義にも厚い。ところがしかし、恋愛では世の常と言いながら、定石通り二人の間に一人の男が割り込んでくる。松三郎を「譲れ」と言ってくる。
「横山清蔵といった男が松三郎に執心をかけ、卯兵衛とも知り合いだのに、無理にも譲れという書状をさし付けたのこそ鬱陶しい」(井原西鶴「待兼しは三年目の命」『男色大鑑・P.101~102』角川ソフィア文庫)
割り込みとはいえ、清蔵もまた本気であって、今すぐにでも決闘してどちらが松三郎にふさわしいか決めようではないかとねじ込んできた。譲るに譲れぬ卯兵衛も清蔵がそうまで言うならと決闘に赴く。江戸時代の武士同士の決闘だから当然のことながら刀で斬り合う果し合いである。必ずどちらかが死なねばならない。とそこで、清蔵はふと考えを改め直して言った。松三郎は今年でようやく十六歳、衆道(男性同性愛)の花道はこれからだ。しかし、あと三年経てば二十歳になって元服し前髪を切ることになる。決闘するならその時にしないか、という。卯兵衛もそれはいいと賛同する。三年のあいだ卯兵衛と清蔵とは大いに語り合った。小説には詳しく書かれていないが、おそらく二人とも自らの思う男道についてあたかも哲学を語り合うかのように腹を割って思うところを述べ合ったのだろう。だが逆に、いったん気心が知れ合うと時間が経つのは途轍もなく早い。三年後。約束の十月二十七日早朝、名もない野寺で卯兵衛と清蔵は刺し違えて死んだ。瀬川卯兵衛の心配りはなかなかのものだ。武士の作法に従って挟箱を持参しており、その中には卯兵衛と清蔵との位牌まで用意してあった。心の底まで理解し合った同志ゆえ、お互い、同時に死ぬほかなかったのだろうと思われる。もしどちらか一方が生き残れば、生き残った側が一人で松三郎を独占してしまう形になり、生き残ったがゆえかえって悔やむことになる。そのような事態こそ避けなければならない。松三郎のためにも。しかし両人討死の報を聞いて駆けつけた松三郎は周りの言うことには耳も傾けず、あっさり自害して果てた。
「今ぞと思う時、卯兵衛は挟箱をあけさせ、位牌(いはい)を二つ取り出し、かねてから二人の俗名命日までほり付けてあるのを互にとりかわし香花(こうげ)をたむけしばしの間はものもいわず、心底を感じあい、袖は折から時雨とぬれ、偽りのない仏の利剣を抜き持って、卯兵衛は二十三、清蔵は二十四、惜しや、花散り月くもり、後に残った松三郎は心の闇にまよって、その夜半に聞きつけて御寺にかけ入り、今年十九を一期として出家になって二人をとむらい給えと皆々すすめても聞き入れず、同じ枯野の霜と消えてしまった」(井原西鶴「待兼しは三年目の命」『男色大鑑・P.103』角川ソフィア文庫)
だからといって、紀州には女色ばかりで男色はほとんどなかったわけではないだろう。ただ、派手に踊り騒ぐばかりの遊郭遊びが目立っていたというだけのことで、男性同性愛者は逆に舟に乗っても、「耳ちかく囁(ささや)く風情」、「添寝」、「思いおうての恋舟」、といった情味を好んだものと思われる。
「玉津島の入江に浮かれて寄って行くのに、若衆七、八人の花やかな舟がいて、外のとはかわって、謡いも鼓もなくて、それぞれにねんごろらしい男が二人ずつ一方に寄って耳ちかく囁(ささや)く風情、あるいは添寝し、又は一画ずつ皆の書いてゆく筆遊び、かといえば扇引きするのもあり、思いおうての恋舟、これよりうらやましいものはない」(井原西鶴「待兼しは三年目の命」『男色大鑑・P.99』角川ソフィア文庫)
また西鶴は、広間と広間との間の「陰の間」に詰めて、ただ相方が情愛を傾けに来るのをひたすら静かに待っている「陰間(かげま)=カゲマヤロウ、ヤロウ」に関し、見習うべき態度だと褒めている。
「見る人もなしとて、湯漬食(ゆづけめし)の早喰(はやぐ)い。肴重箱(ちうばこ)には、山桝(さんせう)の皮(かわ)ばかり、残して、手(て)洗ふて、じねんに、ひあからせ、しのびて見る程、おかしや、人は、陰(かげ)の間(ま)を、嗜(たしな)むへき事也」(井原西鶴「諸艶大鑑〔好色二代男〕・卷三・五・敵無(てきなし)の花軍(はないくさ)・P.133」岩波文庫)
ところで、京の都の内裏の「南殿」(なでん)=紫辰殿(ししんでん)でのこと。今でいう国会議事堂本会議場では、男ばかりになると、次のようなことがあったらしい。
「小野(をの)ノ宮(みや)ノ実資(さねすけ)ノ右ノ大臣」は「藤原実資」(ふじわらのさねすけ)のこと。弾正ノ弼(ひつ)源ノ顕定(あきさだ)が公文書を受け取るために待っている際、よほど暇だったのか、自分の男性器をぽろりと出して見せた。といっても藤原実資の位置からはまったく見えず、下段(あるいは地面か)に控えている藤原範国(ふじわらののりくに)にはまともによく見えた。場が場だけに面白くて思わず笑ってしまったという話。
「今昔(いまはむかし)、藤原ノ範国(のりくに)ト云フ人有ケリ。五位(ごゐ)ノ蔵人(くらうど)ニテ有ケル時、小野(をの)ノ宮(みや)ノ実資(さねすけ)ノ右ノ大臣ト申ス人、陣(ぢん)ノ御座(ござ)ニ着(つき)テ、上卿(しやうけい)トシテ事定メ給ヒケルニ、彼(か)ノ範国ハ五位ノ職事(しきじ)ニテ、申文(もうしぶみ)ヲ給ハラムガ為ニ、陣ノ御座ニ向(むかひ)テ上卿ノ仰(おほ)セヲ奉(うけたまは)ル間、弾正ノ弼(ひつ)源ノ顕定(あきさだ)ト云フ人、殿上人(でんじやうびと)ニテ有ケルガ、南殿(なでん)ノ東ノ妻(つま)ニシテ、摩羅(まら)ヲ掻(かき)き出(いだ)ス。上卿ハ奥ノ方ニ御(おは)スレバ、否不見給(えみたまは)ズ。範国ハ、陣ノ御座ノ南ノ土(つち)ニテ此レヲ見テ、可咲(をかし)サニ不堪(たへ)ズシテ咲(わらひ)ヌ」「今昔物語集5・巻第二十八・第二十五・P.239」岩波書店)
こういう時の笑い声は意外と響く。審議に集中している人間の耳にもよく聞こえるものだ。この日の議長を勤めていた藤原実資は怒り出して「なぜ笑う」と藤原範国を問い詰めた。「立派なものが見えたので」と範国は言葉を濁しつつ答えるほかなかった。その問答を聞いて弾正ノ弼源ノ顕定はたまらなく可笑しがった。ここで発生しているのはベイトソンのいう「ユーモア」の構造である。
「2《ユーモア》。ユーモアとは、思考や関係の奥に秘められたテーマの探索に関わるものであるようだ。その際、異なった論理レベル、または異なったコミュニケーション・モードをひとつに圧縮したメッセージを用いるというのが、ユーモアの方法である。比喩のはずだったメッセージが突然字句通りの意味において捉えられるとき、または字句通りの意味のはずだったものに突然比喩としての意味が生じるとき、ひとつの発見が起こる。このときーーーすなわちコミュニケーション様式のラベルづけが解体し、再統合されるときーーーがユーモアの沸き上がる瞬間だといえる。笑いを呼ぶ『オチ』の台詞というのは、応々にして、それまでメッセージを特定のモードに帰属させていたシグナル(コレハ字句通リノ言葉ダ、コレハ空想ダ、等)の裏をかいて、それを別様に解釈することを迫る。つまり笑わせる言葉というのは、それまでモードの分類に携わっていた高次の論理階型のメッセージを、なんらかのモードの《中に》引き入れる、という奇妙なはたらきをする」(ベイトソン「精神の生態学・精神分裂病の理論化に向けて・P.290~291」新思索社)
だからといって現代社会で通用させてしまってよいかどうかはまた議論を要すると考えられる。しかしここで見ておくべきは、男性ばかりの高級官僚の不祥事というのは平安時代からあったという点、そしてもう一つは、今は女性も含めてあるという点だろう。
さらに、古くは「婚(とつ)ぐ」といっても女性が男性の家に入るという意味に限ったわけではない。ただ単なる性行為を指して「婚(とつ)ぐ」ともいう。昼寝している間に夢の中で若い女性と性交した僧侶の話。「吉々(よくよく)婚(とつぎ)テ婬(いん)ヲ行(ぎやう)ジツ」。目を覚ますと百五十センチ程の蛇が横たわって死んでいた。
「久(ひさし)ク寝タリケル夢ニ、『美(うるはし)キ女ノ若キガ傍(かたはら)ニ来タルト臥(ふ)シテ、吉々(よくよく)婚(とつぎ)テ婬(いん)ヲ行(ぎやう)ジツ』ト見テ、急(き)ト驚キ覚(さめ)タルニ、傍(かたはら)見レバ、五尺許(バカリ)ノ蛇(へみ)有リ。愕(おびえ)テカサト起テ見テバ、蛇、死(しに)テ口ヲ開(あけ)テ有リ。奇異(あさまし)ク恐(おそろ)シクテ、我ガ前(まへ)ヲ見レバ、婬ヲ行ジテ湿(うるひ)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第四十・P.387」岩波書店)
死んだ蛇の口から男性の精液がどろどろと滴り落ちていた。蛇と愛欲との深い関係は日本だけに限らず、ずっと昔の古代ギリシア文献などにもよく出てくる。しかし愛欲は何も蛇ばかりとは限らない。「野干」(やかん)=「狐」(きつね)の話はどこか悲しい。なぜだろうか。相手が狐になると感情的な距離が蛇よりもぐっと近く感じられるからに違いない。
或る美男子が都の朱雀門付近を歩いていた。見ると十七、八歳ばかりの端麗な女性が一人佇んでいる。
「今昔(いまはむかし)、年若くして形(かたち)美麗なる男有けり。誰人(たれひと)と不知(しら)ず。侍(さぶらい)の程の者なるべし。其の男、何(いず)れの所より来(きたり)けるにか有けむ、二条朱雀に行くに、朱雀門(しゆじやくもん)の前を渡る間、年十七、八歳許(ばかり)有る女の、形端正(たんじよう)にして姿美麗なる、微妙(みみよう)の衣を重ね着たる、大路に立てり」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十四・第五・P.215」岩波文庫)
男性は声を掛け、その夜、二人で朱雀門の近くの小屋で夜通し性行為に耽る。ただ、女性は別れの朝に男にいう。「我れ君に代て命を失はむ事疑ひ無し」。これで自分は死ぬだろうと。
「而(しか)る間、日暮れて夜に入(いり)ぬれば、其の辺(ほとり)近き小屋を借て将行(いてゆき)て宿(やどり)ぬ。既に交臥(きようが)して、終夜(よもすがら)行く末までの契(ちぎり)を成(な)して、夜あけぬれば、女返(かえ)り行くとて男に云く、『我れ君に代て命を失はむ事疑ひ無し』」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十四・第五・P.216」岩波文庫)
もし嘘だと思うなら試しにあなたの持っている扇を、と男の扇を持ち去っていった。男は本気にしていない。だが翌日、何となく気には掛かっていたので朱雀門辺りへまたやって来た。するとそこには一匹の若い狐の死体が横たわっていた。扇を見せる格好で。
「男怪(あや)しと思て寄て見れば、殿の内に一(ひとつ)の若き狐(きつね)、扇を面(おもて)に覆(おおい)て死(しに)て臥(ふ)せり。其の扇、我が夜前の扇也」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十四・第五・P.217」岩波文庫)
死と愛欲と再生とは。熊楠は写真に映る顔に似合わず、何か様々な事象を頭の中で緻密に繋いではほどき、また別様に繋いではほどき、を繰り返しつつ自己創造していたように思われる。熊楠の頭脳はそれじたいもはや常に動いて止まることを知らないリゾームと化していたに違いない。
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「和歌山という処は歴代ことのほか女色の行なわれし所にて、徳川末期には娼妓とは明言しがたきも遊郭は数カ所でき候(今もそれが北の新地と申しのこりあり。大坂辺よりも遊びにくるほどの女多し。芸妓というものの、実は売芸よりも売色の方なり)。光瑞法主の漢学の師たりし小山憲栄の話に、若いとき諸国を歩きしに和歌山と金沢くらい女色の乱蕩せし地はなかりしとのことに候。したがって男色の話とては、西鶴の『大鑑』巻四に『待ち兼ねしは三年めの命』の一条あるのみ。その外に何たる話は伝わらず」(南方熊楠「カゲロウとカゲマ、御座直し、『弘法大師一巻之書』、その他」『浄のセクソロジー・P.390~391』河出文庫)
菊井松三郎は十六歳の美少年。その情人(兄貴分)を瀬川卯兵衛といった。瀬川はなかなか熟考するタイプの男で義にも厚い。ところがしかし、恋愛では世の常と言いながら、定石通り二人の間に一人の男が割り込んでくる。松三郎を「譲れ」と言ってくる。
「横山清蔵といった男が松三郎に執心をかけ、卯兵衛とも知り合いだのに、無理にも譲れという書状をさし付けたのこそ鬱陶しい」(井原西鶴「待兼しは三年目の命」『男色大鑑・P.101~102』角川ソフィア文庫)
割り込みとはいえ、清蔵もまた本気であって、今すぐにでも決闘してどちらが松三郎にふさわしいか決めようではないかとねじ込んできた。譲るに譲れぬ卯兵衛も清蔵がそうまで言うならと決闘に赴く。江戸時代の武士同士の決闘だから当然のことながら刀で斬り合う果し合いである。必ずどちらかが死なねばならない。とそこで、清蔵はふと考えを改め直して言った。松三郎は今年でようやく十六歳、衆道(男性同性愛)の花道はこれからだ。しかし、あと三年経てば二十歳になって元服し前髪を切ることになる。決闘するならその時にしないか、という。卯兵衛もそれはいいと賛同する。三年のあいだ卯兵衛と清蔵とは大いに語り合った。小説には詳しく書かれていないが、おそらく二人とも自らの思う男道についてあたかも哲学を語り合うかのように腹を割って思うところを述べ合ったのだろう。だが逆に、いったん気心が知れ合うと時間が経つのは途轍もなく早い。三年後。約束の十月二十七日早朝、名もない野寺で卯兵衛と清蔵は刺し違えて死んだ。瀬川卯兵衛の心配りはなかなかのものだ。武士の作法に従って挟箱を持参しており、その中には卯兵衛と清蔵との位牌まで用意してあった。心の底まで理解し合った同志ゆえ、お互い、同時に死ぬほかなかったのだろうと思われる。もしどちらか一方が生き残れば、生き残った側が一人で松三郎を独占してしまう形になり、生き残ったがゆえかえって悔やむことになる。そのような事態こそ避けなければならない。松三郎のためにも。しかし両人討死の報を聞いて駆けつけた松三郎は周りの言うことには耳も傾けず、あっさり自害して果てた。
「今ぞと思う時、卯兵衛は挟箱をあけさせ、位牌(いはい)を二つ取り出し、かねてから二人の俗名命日までほり付けてあるのを互にとりかわし香花(こうげ)をたむけしばしの間はものもいわず、心底を感じあい、袖は折から時雨とぬれ、偽りのない仏の利剣を抜き持って、卯兵衛は二十三、清蔵は二十四、惜しや、花散り月くもり、後に残った松三郎は心の闇にまよって、その夜半に聞きつけて御寺にかけ入り、今年十九を一期として出家になって二人をとむらい給えと皆々すすめても聞き入れず、同じ枯野の霜と消えてしまった」(井原西鶴「待兼しは三年目の命」『男色大鑑・P.103』角川ソフィア文庫)
だからといって、紀州には女色ばかりで男色はほとんどなかったわけではないだろう。ただ、派手に踊り騒ぐばかりの遊郭遊びが目立っていたというだけのことで、男性同性愛者は逆に舟に乗っても、「耳ちかく囁(ささや)く風情」、「添寝」、「思いおうての恋舟」、といった情味を好んだものと思われる。
「玉津島の入江に浮かれて寄って行くのに、若衆七、八人の花やかな舟がいて、外のとはかわって、謡いも鼓もなくて、それぞれにねんごろらしい男が二人ずつ一方に寄って耳ちかく囁(ささや)く風情、あるいは添寝し、又は一画ずつ皆の書いてゆく筆遊び、かといえば扇引きするのもあり、思いおうての恋舟、これよりうらやましいものはない」(井原西鶴「待兼しは三年目の命」『男色大鑑・P.99』角川ソフィア文庫)
また西鶴は、広間と広間との間の「陰の間」に詰めて、ただ相方が情愛を傾けに来るのをひたすら静かに待っている「陰間(かげま)=カゲマヤロウ、ヤロウ」に関し、見習うべき態度だと褒めている。
「見る人もなしとて、湯漬食(ゆづけめし)の早喰(はやぐ)い。肴重箱(ちうばこ)には、山桝(さんせう)の皮(かわ)ばかり、残して、手(て)洗ふて、じねんに、ひあからせ、しのびて見る程、おかしや、人は、陰(かげ)の間(ま)を、嗜(たしな)むへき事也」(井原西鶴「諸艶大鑑〔好色二代男〕・卷三・五・敵無(てきなし)の花軍(はないくさ)・P.133」岩波文庫)
ところで、京の都の内裏の「南殿」(なでん)=紫辰殿(ししんでん)でのこと。今でいう国会議事堂本会議場では、男ばかりになると、次のようなことがあったらしい。
「小野(をの)ノ宮(みや)ノ実資(さねすけ)ノ右ノ大臣」は「藤原実資」(ふじわらのさねすけ)のこと。弾正ノ弼(ひつ)源ノ顕定(あきさだ)が公文書を受け取るために待っている際、よほど暇だったのか、自分の男性器をぽろりと出して見せた。といっても藤原実資の位置からはまったく見えず、下段(あるいは地面か)に控えている藤原範国(ふじわらののりくに)にはまともによく見えた。場が場だけに面白くて思わず笑ってしまったという話。
「今昔(いまはむかし)、藤原ノ範国(のりくに)ト云フ人有ケリ。五位(ごゐ)ノ蔵人(くらうど)ニテ有ケル時、小野(をの)ノ宮(みや)ノ実資(さねすけ)ノ右ノ大臣ト申ス人、陣(ぢん)ノ御座(ござ)ニ着(つき)テ、上卿(しやうけい)トシテ事定メ給ヒケルニ、彼(か)ノ範国ハ五位ノ職事(しきじ)ニテ、申文(もうしぶみ)ヲ給ハラムガ為ニ、陣ノ御座ニ向(むかひ)テ上卿ノ仰(おほ)セヲ奉(うけたまは)ル間、弾正ノ弼(ひつ)源ノ顕定(あきさだ)ト云フ人、殿上人(でんじやうびと)ニテ有ケルガ、南殿(なでん)ノ東ノ妻(つま)ニシテ、摩羅(まら)ヲ掻(かき)き出(いだ)ス。上卿ハ奥ノ方ニ御(おは)スレバ、否不見給(えみたまは)ズ。範国ハ、陣ノ御座ノ南ノ土(つち)ニテ此レヲ見テ、可咲(をかし)サニ不堪(たへ)ズシテ咲(わらひ)ヌ」「今昔物語集5・巻第二十八・第二十五・P.239」岩波書店)
こういう時の笑い声は意外と響く。審議に集中している人間の耳にもよく聞こえるものだ。この日の議長を勤めていた藤原実資は怒り出して「なぜ笑う」と藤原範国を問い詰めた。「立派なものが見えたので」と範国は言葉を濁しつつ答えるほかなかった。その問答を聞いて弾正ノ弼源ノ顕定はたまらなく可笑しがった。ここで発生しているのはベイトソンのいう「ユーモア」の構造である。
「2《ユーモア》。ユーモアとは、思考や関係の奥に秘められたテーマの探索に関わるものであるようだ。その際、異なった論理レベル、または異なったコミュニケーション・モードをひとつに圧縮したメッセージを用いるというのが、ユーモアの方法である。比喩のはずだったメッセージが突然字句通りの意味において捉えられるとき、または字句通りの意味のはずだったものに突然比喩としての意味が生じるとき、ひとつの発見が起こる。このときーーーすなわちコミュニケーション様式のラベルづけが解体し、再統合されるときーーーがユーモアの沸き上がる瞬間だといえる。笑いを呼ぶ『オチ』の台詞というのは、応々にして、それまでメッセージを特定のモードに帰属させていたシグナル(コレハ字句通リノ言葉ダ、コレハ空想ダ、等)の裏をかいて、それを別様に解釈することを迫る。つまり笑わせる言葉というのは、それまでモードの分類に携わっていた高次の論理階型のメッセージを、なんらかのモードの《中に》引き入れる、という奇妙なはたらきをする」(ベイトソン「精神の生態学・精神分裂病の理論化に向けて・P.290~291」新思索社)
だからといって現代社会で通用させてしまってよいかどうかはまた議論を要すると考えられる。しかしここで見ておくべきは、男性ばかりの高級官僚の不祥事というのは平安時代からあったという点、そしてもう一つは、今は女性も含めてあるという点だろう。
さらに、古くは「婚(とつ)ぐ」といっても女性が男性の家に入るという意味に限ったわけではない。ただ単なる性行為を指して「婚(とつ)ぐ」ともいう。昼寝している間に夢の中で若い女性と性交した僧侶の話。「吉々(よくよく)婚(とつぎ)テ婬(いん)ヲ行(ぎやう)ジツ」。目を覚ますと百五十センチ程の蛇が横たわって死んでいた。
「久(ひさし)ク寝タリケル夢ニ、『美(うるはし)キ女ノ若キガ傍(かたはら)ニ来タルト臥(ふ)シテ、吉々(よくよく)婚(とつぎ)テ婬(いん)ヲ行(ぎやう)ジツ』ト見テ、急(き)ト驚キ覚(さめ)タルニ、傍(かたはら)見レバ、五尺許(バカリ)ノ蛇(へみ)有リ。愕(おびえ)テカサト起テ見テバ、蛇、死(しに)テ口ヲ開(あけ)テ有リ。奇異(あさまし)ク恐(おそろ)シクテ、我ガ前(まへ)ヲ見レバ、婬ヲ行ジテ湿(うるひ)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第四十・P.387」岩波書店)
死んだ蛇の口から男性の精液がどろどろと滴り落ちていた。蛇と愛欲との深い関係は日本だけに限らず、ずっと昔の古代ギリシア文献などにもよく出てくる。しかし愛欲は何も蛇ばかりとは限らない。「野干」(やかん)=「狐」(きつね)の話はどこか悲しい。なぜだろうか。相手が狐になると感情的な距離が蛇よりもぐっと近く感じられるからに違いない。
或る美男子が都の朱雀門付近を歩いていた。見ると十七、八歳ばかりの端麗な女性が一人佇んでいる。
「今昔(いまはむかし)、年若くして形(かたち)美麗なる男有けり。誰人(たれひと)と不知(しら)ず。侍(さぶらい)の程の者なるべし。其の男、何(いず)れの所より来(きたり)けるにか有けむ、二条朱雀に行くに、朱雀門(しゆじやくもん)の前を渡る間、年十七、八歳許(ばかり)有る女の、形端正(たんじよう)にして姿美麗なる、微妙(みみよう)の衣を重ね着たる、大路に立てり」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十四・第五・P.215」岩波文庫)
男性は声を掛け、その夜、二人で朱雀門の近くの小屋で夜通し性行為に耽る。ただ、女性は別れの朝に男にいう。「我れ君に代て命を失はむ事疑ひ無し」。これで自分は死ぬだろうと。
「而(しか)る間、日暮れて夜に入(いり)ぬれば、其の辺(ほとり)近き小屋を借て将行(いてゆき)て宿(やどり)ぬ。既に交臥(きようが)して、終夜(よもすがら)行く末までの契(ちぎり)を成(な)して、夜あけぬれば、女返(かえ)り行くとて男に云く、『我れ君に代て命を失はむ事疑ひ無し』」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十四・第五・P.216」岩波文庫)
もし嘘だと思うなら試しにあなたの持っている扇を、と男の扇を持ち去っていった。男は本気にしていない。だが翌日、何となく気には掛かっていたので朱雀門辺りへまたやって来た。するとそこには一匹の若い狐の死体が横たわっていた。扇を見せる格好で。
「男怪(あや)しと思て寄て見れば、殿の内に一(ひとつ)の若き狐(きつね)、扇を面(おもて)に覆(おおい)て死(しに)て臥(ふ)せり。其の扇、我が夜前の扇也」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十四・第五・P.217」岩波文庫)
死と愛欲と再生とは。熊楠は写真に映る顔に似合わず、何か様々な事象を頭の中で緻密に繋いではほどき、また別様に繋いではほどき、を繰り返しつつ自己創造していたように思われる。熊楠の頭脳はそれじたいもはや常に動いて止まることを知らないリゾームと化していたに違いない。
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