ルキウスは思う。「人間のルキウス」=「驢馬のルキウス」という等価性もそう悪くないものだと。
「鳥にするのをしくじり、驢馬にしてしまったあの迂闊(うかつ)なフォーティスをとても腹だたしく思っていたものの、一方ではこの痛ましい不格好(ぶかっこう)な姿の勇気づけられる慰めが一つあったのです。それは大きな耳を与えられ、かなり遠くの人声でもみんな容易に聞きとれることでした」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の9・P.346~347」岩波文庫)
粉屋に雇われるルキウス。粉屋の妻は浮気が止められない。むしろもっと大量の浮気に耽っていたいし、仕事をやるつもりなど毛頭ない。放蕩三昧、不義密通、金と男と復讐と侮辱とが何より好きなタイプの女性である。それを何食わぬ顔で、さらに間近で見ている驢馬のルキウス。或る悪戯(いたずら)を思いつく。悪戯は成功する。人間の目から見ればただ単に一頭の驢馬がそこを通ったというに過ぎない。ところがこのルキウスのちょっとした動きのために、さっそく作った新しい情夫との情事を夫に見抜かれ離縁された妻。全身これ煮えたぎる怨念と復讐との塊と化す。女性一人で営業する魔術師の家へ向かう。復縁させるよう元夫の心情を変えてしまうか、それが無理なら元夫をきれいさっぱり殺してほしいと。復縁は上手くいかない。そこで魔術師は殺害を実行する。
「悲惨な死に方をしたある女の怨霊(おんりょう)を煽動し、亭主の命を威嚇(いかく)し始めた」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の9・P.363」岩波文庫)
魔術師が「煽動し」なくてはならないのはなぜか。というより「怨霊(おんりょう)」とは何か。煽動することと怨霊とはどこでどう繋がっているのか。「煽動」という言葉は意味深い。というのは、この場合だけでなく、「煽動」することというのは「悲惨な死に方をした」《人々》=不特定多数者への「呼びかけ」にほかならないからである。今で言えば或る種の非合法なマーケティングや、情報操作、ネット広告のようなものだ。「悲惨な死に方をしたある女」は膨大だっただろうしその復讐のためにこの自称-女性魔術師を利用してきた人々もまた少なくなかっただろう。古代ギリシアでも金額次第で動くネットワークはそこそこ広かったのではと考えられる。この場面では「悲惨な死に方をしたある女の怨霊(おんりょう)」=「亭主の命」という等価性が認められる。ともかく、女性魔術師に大金を支払った元粉屋の妻は執念深い復讐を果たす。
「あの女の姿はどこにも見あたらず、主人のみが天井の梁(はり)にぶら下がってすでに息絶えていた」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の9・P.364~365」岩波文庫)
殺害された粉屋の主人はどのように殺されたか。ルキウスは部屋の外にいて、それをどのようにして知ることができたか。すでに嫁いでいた娘の話を聞くことができたからだ。
「彼女がこの家の不幸をつぶさに知ったのは、人から伝え聞いたのではなく、夢の中に父親が立ち現れ、まだ紐(ひも)で首を絞められた残酷な姿のまま、継母(ままはは)の非道な仕打ちを一部始終打ち明けたからでした。それで継母の不義のこと、魔法のこと、悪霊にとりつかれて下界に落ちた経緯を知ったのです」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の9・P.365」岩波文庫)
というように、問題は、現実的地理的距離ではなく、精神的気づかい的距離なのである。さて前回、古代ギリシアでも見られ、なおかつアジアや中米の広域に渡って見られるヘルマフロディーテ(両性具有者)について、男女ペアのみの異性愛者を無限に延長される諸商品の系列だとすれば、ヘルマフロディーテは特権的かつ唯一の商品=《貨幣》という社会的=合体的位置を占めると述べた。南方熊楠の論文から多く引用しつつ。
「アッチスが松の下でみずから宮した時出た血が菫々菜(すみれ)になったとかで、その祭日に松一本を伐って菫々菜で飾り美少年の像を中央に付けて神に象り、大祠官みずから臂より血を出し奉(たてまつ)ると、劣等の神官噪(さわ)がしき楽声に伴れて狂い舞い夢中になりて身を切り血を流す。これを血の日というて新米の神官この日みずから宮してその陰を献ったらしい。エフェススのアルテミス女神とシリアのアスタルテ女神は上世西アジアでもっとも流行(はや)った神だが、いずれも閹人(えんじん)を神官とした。春の初めにシリアとその近国よりおびただしくヒエラポリスのアスタルテ神社へ詣る。笛と太鼓を奏する最中に神官小刀で自身を創つくるを見て参詣人追い追い夢中になって血塗れ騒ぎをなし、ついには衣を脱ぎ喚き踊り出で備え付けの刀を採って惜気もなく大事極まる物を切り去り、それを手に持って町中を狂い奔しどこかの家へ投げ込むと、それ福が降って来たと大悦びでその家より女の衣装と装飾(かざり)をその人に捧ぐるを取って一生著用する」(南方熊楠「鳥を食うて王になった話」『浄のセクソロジー・P.276~277』河出文庫)
エリアーデは、アグディスティス、アッティス、キュベレー、ディオニュソスなどについて、様々に述べている。
「アッティスを愛しているアグディスティスが、祝宴の開かれている穴に入ってくる。そこに居合わせた者は皆、狂気に襲われ、王は自分の生殖器を切りとり、アッティスは逃げて、松の木の下でみずからを傷つけて死んでしまう。アグディスティスは絶望して、アッティスを蘇生させようとしたが、ゼウスはそれを許さなかった。ゼウスが容認したのは、ただアッティスの身体が腐らないようにし、髪の毛が伸びたり小指が動いたりすることで生きていることの証しとすることだけであった。アグディスティスは両性具有のおおいなる母のひとつの顕現にすぎないのであり、アッティスはキュベレーの息子であり、恋人であり、その犠牲者でもあった」(エリアーデ「世界宗教史4・第二十六章・P.115~116」ちくま学芸文庫)
さらに。
「祭りは春分の時期、三月十五日から二十八日にかけて行なわれた。初日(カンナ・イントラット、『葦の持ちこみ』)に、葦を背負った同信者集団が、切った葦を寺院へ運びこんだ(伝説によるとキュベレーは幼児アッティカが、サンガリオス川の川辺に捨てられているのを見つけた)。七日後、木を背負った同信者集団が、森から切った松の木を運びこむ(アルボル・イントラット)。幹は死体のように幅のせまい帯でくるまれ、アッティスの像がその真ん中に結びつけられる。その木は死んだ神をあらわしていた。『血の日』(デイエス・サングイニス)である三月二十四日に、司祭と新たな入信者は笛とシンバルとタンバリンの音にあわせて野蛮な踊りを踊り、血が出るまで自分たちの身体を鞭打ち、ナイフで腕を深く傷つける。興奮が最高潮に達すると、生殖器を切りとって供物として女神に捧げる入信者もいる」(エリアーデ「世界宗教史4・第二十六章・P.117」ちくま学芸文庫)
熊楠は「摩羅考」の中でこう書いている。
「本邦仏教の神像にも、額に縦開した眼、すなわち陰相の眼を具うる者あるは、『大菩薩峠』の神尾主膳の条々で、皆様承知だろう」(南方熊楠「『摩羅考』について」『浄のセクソロジー・P.214』河出文庫)
神尾主膳は有名な登場人物だが、ヘルマフロディーテと愛染明王との類似性について、敏外和尚の説明はかなり要約されていて的を得ているかと思われる。
「『いや、その傷が物怪(もっけ)の幸いというものだ、我々の眼で見ると愛染明王(あいぜんみょうおう)の姿(すがた)だ』『ふふん』と今度は主膳が冷笑しました。主膳の冷笑は、敏外のよりもすさまじさがある。しかし、敏外住職は存外まじめで、『その竪(たて)の一眼は、愛染明王の淫眼(いんがん)といって、殊に意味深い表徴(しるし)になっている』『ナニ、《いんがん》?』『さよう』『どういう字を書くのだ』『淫は富貴に淫するの淫の字ーーーこれが愛染明王の大貪著(だいとんじゃく)時代の拭うても拭いきれない遺品(かたみ)だ、横の両眼は悪心降伏(あくしんごうふく)の害毒消除の威力を示すが、堅の淫眼のみは、いつでも貪著と、染悪(せんお)と醜劣(しゅうれつ)と、汚辱とを覗(のぞ)いてやまぬものだ』『ははあーーー』神尾主膳は苦笑いしながら、何か当てつけられたように感じました」(中里介山「大菩薩峠8・他生の巻・P.335」時代小説文庫)
その傷(「愛染明王の淫眼(いんがん)」)はどのようにしてできたか。そもそも神尾主膳自身による残酷で始末に負えない放埒政治がきっかけなのだが。次のように。
「神尾主膳の面(おもて)は、左右の眉(まゆ)の間から額の生え際(ぎわ)へかけて、牡丹餅(ぼたもち)大の肉をそぎ取られ、そこから、ベットリと血が流れているのです。ーーーこの点においてはお銀様は冷やかなものでした。神尾の額の大怪我は、むしろ痛快至極なものだと思いました。ーーー神尾が苦しむのは当然であって、ところもあろうに額の真ん中へ刻印を捺(お)されたことの小気味よさを喜ばないわけにはいかないが、それにしても、咄嗟(とっさ)の間に、神尾がこの大傷を受けて倒れたのは何に原因するのか、それが、わからないなりに井戸の車の輪を見上げると、釣瓶(つるべ)の一方が、車の輪のところへ食い上(あが)って逆立ちをしているように見えます。気のせいか、その釣瓶の一端に、神尾の額からそぎ取られた牡丹餅大の肉片が、パクリと密着(くっつ)いているもののように見えました。お銀様は、そこでホッと息をついて、同時に胸の溜飲を下げました。ははあ、これだなと思ったのでしょう。盲法師が下へ投げ込まれるとその重みで、一方の釣瓶が急転直下すると一方の釣瓶が海老(えび)のようにハネ上って、そうして、その道づれに神尾の額の肉を、牡丹餅大だけをそいで持って行ってしまった。それだと思ったから、お銀様はいよいよ痛快に堪えませんでした。痛快というよりはこの時のお銀様は、正しく神尾主膳の残忍性が乗りうつったかと思われるほどに、いい心持になりました。うめき苦しむ神尾にも、驚き騒ぐ福村にも、冷然たる白い歯をチラリと見せたきりで、井戸桁(げた)へ近寄って、一方の縄をクルリと廻してゆるめると、海老(えび)のようにハネ上っている一方の釣瓶が少しく下がって来たから、手を高くさしのべて、それを取り下ろしてみるとお銀様の想像したとおりに、神尾主膳の額の肉片は、べっとり釣瓶の後ろに密着(くっつ)いていました」(中里介山「大菩薩峠6・小名路の巻・P.238~239」時代小説文庫)
ここで出現している等価性がある。「神尾主膳の残忍性」=「お銀の残忍性」である。お銀は普段から大人しくやさしいタイプの耐える女性である。これまでずっと世間から向けられる白い目に耐えて耐えて耐え続けてきた女性だ。しかしこのときばかりは「痛快に」感じた。そしてまた、愛染明王だけでなく「大菩薩峠」ではもっと色々な神や仏が出てくる。さらに時代背景が江戸末期なので当然、身体障害者や精神障害者や社会的底辺労働者や遊行者らが群れをなして登場する。神仏ではこのようなものも。
「やや遠く離れて槍を抱えては摩醯首羅(まけいしゅら)の形をして見せました」(中里介山「大菩薩峠4・如法闇夜の巻・P.116」時代小説文庫)
槍の使い手・米友(よねとも)がやって見せた形、「摩醯首羅」(まけいしゅら)は、日本で一般的にいう「大自在天」(だいじざいてん)のこと。有名な図像に「尊像三目八臂騎白牛」(『諸尊図像鈔』)とある。眼は三個、腕は八本、白い牛に騎乗している。問題の目だが、今の中国新疆ウイグル自治区にダンダン・ウィリク(ウイグル語で「象牙の家々」)という仏教院跡がある。なかでも、タクラマカン砂漠に実在するダンダン・ウィリクから出土した「大自在天像」の壁画には、額に縦開した眼が鮮明に描かれている。熊楠のいうようにこの額に描かれた「三目」もまた女性器としか思われない。幕末。薩摩とか長州とか小栗上野介とか勝海舟とか土方歳三とか天狗党とか、ビッグネームが出てくるのでただ単なる時代小説かと思われてしまっているが、むしろ十九世紀前半にネルヴァルが急速な近代化と失われていく家郷とのダブルバインド(相反傾向、板挟み)で統合失調症を発症した時期にヨーロッパの知識人らが陥った状況とたいへん似ている。「あの《えいじゃないか》騒ぎはどこから起った」のだろうか。
「『そうかも知れない、一体、あの《えいじゃないか》騒ぎはどこから起ったものだ』『どこから起ったか存じませんが、神様のお札が、天から降って来たのが初まりだそうでござんすよ、それで忽(たちま)ちあんなことになってしまいました、盆踊りのように、時を定めて踊るんならようございますが、朝であろうが、昼であろうが、稼業が忙しかろうが、忙しかるまいが、踊り出したが最後、気狂(きちが)いのようになってしまうのですから手がつけられません、私は、あれを伊勢から伊賀越えをするときに見物致しました、男だけならまだしも、女が大変なものですからな、女が白昼裸(はだか)で踊って歩くんですから、沙汰の限りでございます』」(中里介山「大菩薩峠6・禹門三級の巻・P.370」時代小説文庫)
ギリシア悲劇では紀元前五世紀頃すでに起こっている。
「牛飼 老いも若きも、まだ嫁が娘も交えて、その規律のよさは、まったく驚くばかりでございます。まず髪をとき肩まで垂らすと、こんどは小鹿の皮の結び目の解けたところを結び直し、帯に代えて、ひらひらと舌を閃かす蛇を、その斑(まだら)の皮衣に締めたのでございます。中には仔鹿や狼の子を抱いて、雪白の乳を飲ませているものもおります。ーーー一人が杖をとって岩を打つと、その岩から清らかな水がほとばしります。また一人が杖を大地に突きさせば、神の業か、葡萄酒が泉のごとく湧いてまいります。ーーー御母上は大声に『おおわが忠実な犬たちよ、この男どもは私らを捕えようとしているのだよ。さあ、手にもつ杖を武器に、私についておいで』と申されました。私どもは逃れて、からくも信女らに八つ裂きにされる憂き目を免れましたが、女たちは草を喰(は)んでいる牛の群れに、素手のまま踊りかかってゆきました。一人が乳房豊かな牝牛の仔(こ)を、鳴き吼(ほ)えるのも構わず、引き裂いて両の手にかざすかと思えば、また他の女らは、牝牛の体をバラバラに引き裂いております。殺された牛の胴や、蹄のさけた脚などが、あちこちに散らばり、また樅の枝に懸かって、垂れ下がっている血まみれの肉片もございます。一瞬前まで傲然と、怒りを角に表わしていた牡牛ですらが、女たちの無数の手にとられ、たちまち地上に屠られてしまいます。殿様がまばたきなさる間よりも早く、女たちはその肉をちぎってしまったのでございます。それから女たちは、まるで空飛ぶ鳥のように、ほとんど足が地に触れぬほどの疾さで山を駈け下り、アソポスの流れに沿うて、テーバイ人の豊かな穀物を実らせる麓の平地に向かいました。キタイロンの山裾の村、ヒュシアイとエリュトライとを、まるで敵のように襲って、手当り次第めちゃめちゃに荒して、家々から幼な子を掠(かす)めてまいります。子供のみか、奪った銅器鉄器のたぐいを肩に載せて運んでゆくのですが、紐で結(ゆわ)えつけもせぬのに、一つとして地面に落ちることがありません。また髪の毛の上に火をかざしているのに、いっこうに火傷(やけど)をするようにも見えません。村人たちも、信女らに荒されて腹を立て、武器をとって刃向おうといたしましたがーーー殿様、このときまさに、見るも恐ろしいことが起ったのでございます。すなわち、村のものが槍で相手を突いても血が出ぬのに、女たちが振う杖は男たちを傷つけ痛めて、とうとう村人たちは背を向けて逃げ去ったのでございます」(エウリピデス「バッコスの信女たち」『ギリシア悲劇4・P.488~490』ちくま文庫)
そしてまた、「あの《えいじゃないか》騒ぎはどこから起った」のかについて、世界的規模でほぼ同時多発的に生じた点で、一九六〇年代末から七〇年代最初期にかけて起こったフランス「五月革命」、日本「全共闘運動」などとの共通性はすでに広く論じられている通りである。
さらにこのような事態は、姿形を置き換えながら欧米でたびたび発生した。とりわけ十九世紀後半から二十世紀一杯をかけて世界の紛争地域化が押し進められた。小説「大菩薩峠」に戻ると、お銀の態度は明らかにこの時期、ダブルバインド状況の只中に叩き込まれた一人の女性の典型例のひとつである。
「お銀様はその時、たった一人で土蔵の中でお経を写しておりました。針で自分の肉体を刺して、その血で丹念に一字一字」(中里介山「大菩薩峠6・禹門三級の巻・P.389」時代小説文庫)
ロシアではマゾッホがこう書いていた。
「ドラゴミラは薔薇の小枝を折り取ると、鋭い刺で白い腕を引っ掻いた。それで腕に赤い筋がつき、暖かい血がぽたりと地面に落ちた。『何をするんだ』、とツェジムは言った。『こうすると気持ちがいいのです』」(マゾッホ「魂を漁る女・第一部・2・P.25」中公文庫)
ニーチェはいう。
「残忍とは《他人の》苦悩を眺める際に生じるものだとのみ教えなければならなかった以前の愚鈍な心理学を追い払わなければならない。自分自身の苦悩、自分自らを苦しめるということにも夥(おびただ)しい、有り余るほどの享楽があるのだ。ーーー人間は密(ひそ)かに自己の残忍さによって誘われているのであり、《自己自身に対して》向けられた残忍のあの危険な戦慄によって突き進められている」(ニーチェ「善悪の彼岸・二二九・P.212~213」岩波文庫)
まさしくその通りのことが、今度は世界中で繰り広げられていた。
BGM
「鳥にするのをしくじり、驢馬にしてしまったあの迂闊(うかつ)なフォーティスをとても腹だたしく思っていたものの、一方ではこの痛ましい不格好(ぶかっこう)な姿の勇気づけられる慰めが一つあったのです。それは大きな耳を与えられ、かなり遠くの人声でもみんな容易に聞きとれることでした」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の9・P.346~347」岩波文庫)
粉屋に雇われるルキウス。粉屋の妻は浮気が止められない。むしろもっと大量の浮気に耽っていたいし、仕事をやるつもりなど毛頭ない。放蕩三昧、不義密通、金と男と復讐と侮辱とが何より好きなタイプの女性である。それを何食わぬ顔で、さらに間近で見ている驢馬のルキウス。或る悪戯(いたずら)を思いつく。悪戯は成功する。人間の目から見ればただ単に一頭の驢馬がそこを通ったというに過ぎない。ところがこのルキウスのちょっとした動きのために、さっそく作った新しい情夫との情事を夫に見抜かれ離縁された妻。全身これ煮えたぎる怨念と復讐との塊と化す。女性一人で営業する魔術師の家へ向かう。復縁させるよう元夫の心情を変えてしまうか、それが無理なら元夫をきれいさっぱり殺してほしいと。復縁は上手くいかない。そこで魔術師は殺害を実行する。
「悲惨な死に方をしたある女の怨霊(おんりょう)を煽動し、亭主の命を威嚇(いかく)し始めた」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の9・P.363」岩波文庫)
魔術師が「煽動し」なくてはならないのはなぜか。というより「怨霊(おんりょう)」とは何か。煽動することと怨霊とはどこでどう繋がっているのか。「煽動」という言葉は意味深い。というのは、この場合だけでなく、「煽動」することというのは「悲惨な死に方をした」《人々》=不特定多数者への「呼びかけ」にほかならないからである。今で言えば或る種の非合法なマーケティングや、情報操作、ネット広告のようなものだ。「悲惨な死に方をしたある女」は膨大だっただろうしその復讐のためにこの自称-女性魔術師を利用してきた人々もまた少なくなかっただろう。古代ギリシアでも金額次第で動くネットワークはそこそこ広かったのではと考えられる。この場面では「悲惨な死に方をしたある女の怨霊(おんりょう)」=「亭主の命」という等価性が認められる。ともかく、女性魔術師に大金を支払った元粉屋の妻は執念深い復讐を果たす。
「あの女の姿はどこにも見あたらず、主人のみが天井の梁(はり)にぶら下がってすでに息絶えていた」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の9・P.364~365」岩波文庫)
殺害された粉屋の主人はどのように殺されたか。ルキウスは部屋の外にいて、それをどのようにして知ることができたか。すでに嫁いでいた娘の話を聞くことができたからだ。
「彼女がこの家の不幸をつぶさに知ったのは、人から伝え聞いたのではなく、夢の中に父親が立ち現れ、まだ紐(ひも)で首を絞められた残酷な姿のまま、継母(ままはは)の非道な仕打ちを一部始終打ち明けたからでした。それで継母の不義のこと、魔法のこと、悪霊にとりつかれて下界に落ちた経緯を知ったのです」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の9・P.365」岩波文庫)
というように、問題は、現実的地理的距離ではなく、精神的気づかい的距離なのである。さて前回、古代ギリシアでも見られ、なおかつアジアや中米の広域に渡って見られるヘルマフロディーテ(両性具有者)について、男女ペアのみの異性愛者を無限に延長される諸商品の系列だとすれば、ヘルマフロディーテは特権的かつ唯一の商品=《貨幣》という社会的=合体的位置を占めると述べた。南方熊楠の論文から多く引用しつつ。
「アッチスが松の下でみずから宮した時出た血が菫々菜(すみれ)になったとかで、その祭日に松一本を伐って菫々菜で飾り美少年の像を中央に付けて神に象り、大祠官みずから臂より血を出し奉(たてまつ)ると、劣等の神官噪(さわ)がしき楽声に伴れて狂い舞い夢中になりて身を切り血を流す。これを血の日というて新米の神官この日みずから宮してその陰を献ったらしい。エフェススのアルテミス女神とシリアのアスタルテ女神は上世西アジアでもっとも流行(はや)った神だが、いずれも閹人(えんじん)を神官とした。春の初めにシリアとその近国よりおびただしくヒエラポリスのアスタルテ神社へ詣る。笛と太鼓を奏する最中に神官小刀で自身を創つくるを見て参詣人追い追い夢中になって血塗れ騒ぎをなし、ついには衣を脱ぎ喚き踊り出で備え付けの刀を採って惜気もなく大事極まる物を切り去り、それを手に持って町中を狂い奔しどこかの家へ投げ込むと、それ福が降って来たと大悦びでその家より女の衣装と装飾(かざり)をその人に捧ぐるを取って一生著用する」(南方熊楠「鳥を食うて王になった話」『浄のセクソロジー・P.276~277』河出文庫)
エリアーデは、アグディスティス、アッティス、キュベレー、ディオニュソスなどについて、様々に述べている。
「アッティスを愛しているアグディスティスが、祝宴の開かれている穴に入ってくる。そこに居合わせた者は皆、狂気に襲われ、王は自分の生殖器を切りとり、アッティスは逃げて、松の木の下でみずからを傷つけて死んでしまう。アグディスティスは絶望して、アッティスを蘇生させようとしたが、ゼウスはそれを許さなかった。ゼウスが容認したのは、ただアッティスの身体が腐らないようにし、髪の毛が伸びたり小指が動いたりすることで生きていることの証しとすることだけであった。アグディスティスは両性具有のおおいなる母のひとつの顕現にすぎないのであり、アッティスはキュベレーの息子であり、恋人であり、その犠牲者でもあった」(エリアーデ「世界宗教史4・第二十六章・P.115~116」ちくま学芸文庫)
さらに。
「祭りは春分の時期、三月十五日から二十八日にかけて行なわれた。初日(カンナ・イントラット、『葦の持ちこみ』)に、葦を背負った同信者集団が、切った葦を寺院へ運びこんだ(伝説によるとキュベレーは幼児アッティカが、サンガリオス川の川辺に捨てられているのを見つけた)。七日後、木を背負った同信者集団が、森から切った松の木を運びこむ(アルボル・イントラット)。幹は死体のように幅のせまい帯でくるまれ、アッティスの像がその真ん中に結びつけられる。その木は死んだ神をあらわしていた。『血の日』(デイエス・サングイニス)である三月二十四日に、司祭と新たな入信者は笛とシンバルとタンバリンの音にあわせて野蛮な踊りを踊り、血が出るまで自分たちの身体を鞭打ち、ナイフで腕を深く傷つける。興奮が最高潮に達すると、生殖器を切りとって供物として女神に捧げる入信者もいる」(エリアーデ「世界宗教史4・第二十六章・P.117」ちくま学芸文庫)
熊楠は「摩羅考」の中でこう書いている。
「本邦仏教の神像にも、額に縦開した眼、すなわち陰相の眼を具うる者あるは、『大菩薩峠』の神尾主膳の条々で、皆様承知だろう」(南方熊楠「『摩羅考』について」『浄のセクソロジー・P.214』河出文庫)
神尾主膳は有名な登場人物だが、ヘルマフロディーテと愛染明王との類似性について、敏外和尚の説明はかなり要約されていて的を得ているかと思われる。
「『いや、その傷が物怪(もっけ)の幸いというものだ、我々の眼で見ると愛染明王(あいぜんみょうおう)の姿(すがた)だ』『ふふん』と今度は主膳が冷笑しました。主膳の冷笑は、敏外のよりもすさまじさがある。しかし、敏外住職は存外まじめで、『その竪(たて)の一眼は、愛染明王の淫眼(いんがん)といって、殊に意味深い表徴(しるし)になっている』『ナニ、《いんがん》?』『さよう』『どういう字を書くのだ』『淫は富貴に淫するの淫の字ーーーこれが愛染明王の大貪著(だいとんじゃく)時代の拭うても拭いきれない遺品(かたみ)だ、横の両眼は悪心降伏(あくしんごうふく)の害毒消除の威力を示すが、堅の淫眼のみは、いつでも貪著と、染悪(せんお)と醜劣(しゅうれつ)と、汚辱とを覗(のぞ)いてやまぬものだ』『ははあーーー』神尾主膳は苦笑いしながら、何か当てつけられたように感じました」(中里介山「大菩薩峠8・他生の巻・P.335」時代小説文庫)
その傷(「愛染明王の淫眼(いんがん)」)はどのようにしてできたか。そもそも神尾主膳自身による残酷で始末に負えない放埒政治がきっかけなのだが。次のように。
「神尾主膳の面(おもて)は、左右の眉(まゆ)の間から額の生え際(ぎわ)へかけて、牡丹餅(ぼたもち)大の肉をそぎ取られ、そこから、ベットリと血が流れているのです。ーーーこの点においてはお銀様は冷やかなものでした。神尾の額の大怪我は、むしろ痛快至極なものだと思いました。ーーー神尾が苦しむのは当然であって、ところもあろうに額の真ん中へ刻印を捺(お)されたことの小気味よさを喜ばないわけにはいかないが、それにしても、咄嗟(とっさ)の間に、神尾がこの大傷を受けて倒れたのは何に原因するのか、それが、わからないなりに井戸の車の輪を見上げると、釣瓶(つるべ)の一方が、車の輪のところへ食い上(あが)って逆立ちをしているように見えます。気のせいか、その釣瓶の一端に、神尾の額からそぎ取られた牡丹餅大の肉片が、パクリと密着(くっつ)いているもののように見えました。お銀様は、そこでホッと息をついて、同時に胸の溜飲を下げました。ははあ、これだなと思ったのでしょう。盲法師が下へ投げ込まれるとその重みで、一方の釣瓶が急転直下すると一方の釣瓶が海老(えび)のようにハネ上って、そうして、その道づれに神尾の額の肉を、牡丹餅大だけをそいで持って行ってしまった。それだと思ったから、お銀様はいよいよ痛快に堪えませんでした。痛快というよりはこの時のお銀様は、正しく神尾主膳の残忍性が乗りうつったかと思われるほどに、いい心持になりました。うめき苦しむ神尾にも、驚き騒ぐ福村にも、冷然たる白い歯をチラリと見せたきりで、井戸桁(げた)へ近寄って、一方の縄をクルリと廻してゆるめると、海老(えび)のようにハネ上っている一方の釣瓶が少しく下がって来たから、手を高くさしのべて、それを取り下ろしてみるとお銀様の想像したとおりに、神尾主膳の額の肉片は、べっとり釣瓶の後ろに密着(くっつ)いていました」(中里介山「大菩薩峠6・小名路の巻・P.238~239」時代小説文庫)
ここで出現している等価性がある。「神尾主膳の残忍性」=「お銀の残忍性」である。お銀は普段から大人しくやさしいタイプの耐える女性である。これまでずっと世間から向けられる白い目に耐えて耐えて耐え続けてきた女性だ。しかしこのときばかりは「痛快に」感じた。そしてまた、愛染明王だけでなく「大菩薩峠」ではもっと色々な神や仏が出てくる。さらに時代背景が江戸末期なので当然、身体障害者や精神障害者や社会的底辺労働者や遊行者らが群れをなして登場する。神仏ではこのようなものも。
「やや遠く離れて槍を抱えては摩醯首羅(まけいしゅら)の形をして見せました」(中里介山「大菩薩峠4・如法闇夜の巻・P.116」時代小説文庫)
槍の使い手・米友(よねとも)がやって見せた形、「摩醯首羅」(まけいしゅら)は、日本で一般的にいう「大自在天」(だいじざいてん)のこと。有名な図像に「尊像三目八臂騎白牛」(『諸尊図像鈔』)とある。眼は三個、腕は八本、白い牛に騎乗している。問題の目だが、今の中国新疆ウイグル自治区にダンダン・ウィリク(ウイグル語で「象牙の家々」)という仏教院跡がある。なかでも、タクラマカン砂漠に実在するダンダン・ウィリクから出土した「大自在天像」の壁画には、額に縦開した眼が鮮明に描かれている。熊楠のいうようにこの額に描かれた「三目」もまた女性器としか思われない。幕末。薩摩とか長州とか小栗上野介とか勝海舟とか土方歳三とか天狗党とか、ビッグネームが出てくるのでただ単なる時代小説かと思われてしまっているが、むしろ十九世紀前半にネルヴァルが急速な近代化と失われていく家郷とのダブルバインド(相反傾向、板挟み)で統合失調症を発症した時期にヨーロッパの知識人らが陥った状況とたいへん似ている。「あの《えいじゃないか》騒ぎはどこから起った」のだろうか。
「『そうかも知れない、一体、あの《えいじゃないか》騒ぎはどこから起ったものだ』『どこから起ったか存じませんが、神様のお札が、天から降って来たのが初まりだそうでござんすよ、それで忽(たちま)ちあんなことになってしまいました、盆踊りのように、時を定めて踊るんならようございますが、朝であろうが、昼であろうが、稼業が忙しかろうが、忙しかるまいが、踊り出したが最後、気狂(きちが)いのようになってしまうのですから手がつけられません、私は、あれを伊勢から伊賀越えをするときに見物致しました、男だけならまだしも、女が大変なものですからな、女が白昼裸(はだか)で踊って歩くんですから、沙汰の限りでございます』」(中里介山「大菩薩峠6・禹門三級の巻・P.370」時代小説文庫)
ギリシア悲劇では紀元前五世紀頃すでに起こっている。
「牛飼 老いも若きも、まだ嫁が娘も交えて、その規律のよさは、まったく驚くばかりでございます。まず髪をとき肩まで垂らすと、こんどは小鹿の皮の結び目の解けたところを結び直し、帯に代えて、ひらひらと舌を閃かす蛇を、その斑(まだら)の皮衣に締めたのでございます。中には仔鹿や狼の子を抱いて、雪白の乳を飲ませているものもおります。ーーー一人が杖をとって岩を打つと、その岩から清らかな水がほとばしります。また一人が杖を大地に突きさせば、神の業か、葡萄酒が泉のごとく湧いてまいります。ーーー御母上は大声に『おおわが忠実な犬たちよ、この男どもは私らを捕えようとしているのだよ。さあ、手にもつ杖を武器に、私についておいで』と申されました。私どもは逃れて、からくも信女らに八つ裂きにされる憂き目を免れましたが、女たちは草を喰(は)んでいる牛の群れに、素手のまま踊りかかってゆきました。一人が乳房豊かな牝牛の仔(こ)を、鳴き吼(ほ)えるのも構わず、引き裂いて両の手にかざすかと思えば、また他の女らは、牝牛の体をバラバラに引き裂いております。殺された牛の胴や、蹄のさけた脚などが、あちこちに散らばり、また樅の枝に懸かって、垂れ下がっている血まみれの肉片もございます。一瞬前まで傲然と、怒りを角に表わしていた牡牛ですらが、女たちの無数の手にとられ、たちまち地上に屠られてしまいます。殿様がまばたきなさる間よりも早く、女たちはその肉をちぎってしまったのでございます。それから女たちは、まるで空飛ぶ鳥のように、ほとんど足が地に触れぬほどの疾さで山を駈け下り、アソポスの流れに沿うて、テーバイ人の豊かな穀物を実らせる麓の平地に向かいました。キタイロンの山裾の村、ヒュシアイとエリュトライとを、まるで敵のように襲って、手当り次第めちゃめちゃに荒して、家々から幼な子を掠(かす)めてまいります。子供のみか、奪った銅器鉄器のたぐいを肩に載せて運んでゆくのですが、紐で結(ゆわ)えつけもせぬのに、一つとして地面に落ちることがありません。また髪の毛の上に火をかざしているのに、いっこうに火傷(やけど)をするようにも見えません。村人たちも、信女らに荒されて腹を立て、武器をとって刃向おうといたしましたがーーー殿様、このときまさに、見るも恐ろしいことが起ったのでございます。すなわち、村のものが槍で相手を突いても血が出ぬのに、女たちが振う杖は男たちを傷つけ痛めて、とうとう村人たちは背を向けて逃げ去ったのでございます」(エウリピデス「バッコスの信女たち」『ギリシア悲劇4・P.488~490』ちくま文庫)
そしてまた、「あの《えいじゃないか》騒ぎはどこから起った」のかについて、世界的規模でほぼ同時多発的に生じた点で、一九六〇年代末から七〇年代最初期にかけて起こったフランス「五月革命」、日本「全共闘運動」などとの共通性はすでに広く論じられている通りである。
さらにこのような事態は、姿形を置き換えながら欧米でたびたび発生した。とりわけ十九世紀後半から二十世紀一杯をかけて世界の紛争地域化が押し進められた。小説「大菩薩峠」に戻ると、お銀の態度は明らかにこの時期、ダブルバインド状況の只中に叩き込まれた一人の女性の典型例のひとつである。
「お銀様はその時、たった一人で土蔵の中でお経を写しておりました。針で自分の肉体を刺して、その血で丹念に一字一字」(中里介山「大菩薩峠6・禹門三級の巻・P.389」時代小説文庫)
ロシアではマゾッホがこう書いていた。
「ドラゴミラは薔薇の小枝を折り取ると、鋭い刺で白い腕を引っ掻いた。それで腕に赤い筋がつき、暖かい血がぽたりと地面に落ちた。『何をするんだ』、とツェジムは言った。『こうすると気持ちがいいのです』」(マゾッホ「魂を漁る女・第一部・2・P.25」中公文庫)
ニーチェはいう。
「残忍とは《他人の》苦悩を眺める際に生じるものだとのみ教えなければならなかった以前の愚鈍な心理学を追い払わなければならない。自分自身の苦悩、自分自らを苦しめるということにも夥(おびただ)しい、有り余るほどの享楽があるのだ。ーーー人間は密(ひそ)かに自己の残忍さによって誘われているのであり、《自己自身に対して》向けられた残忍のあの危険な戦慄によって突き進められている」(ニーチェ「善悪の彼岸・二二九・P.212~213」岩波文庫)
まさしくその通りのことが、今度は世界中で繰り広げられていた。
BGM
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