白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・「児童-少女ロボット」とオークション

2025年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム

細分化していけば「キリ」のない問いが詰め込まれている。そしてこの「キリ」の「なさ」はラストのページを済ませるや否やさらに更新されるほかなく間髪入れず新しい問いのページを出現させる終わりのない問題集のように立ち現れる。それでもなお幾つかの箇所を引用することはできるだろう。

 

(1)「児童-少女ロボット」大量生産。その普及期と衰退期。

 

「ウェンディとダイドーは二十年前にフランスで初めて生産された児童ロボット、『トイキッド』なのです。兄弟姉妹のいない同年齢の子供のために開発されたもので、三歳、五歳、七歳のモデルがありました。智力、体力ともに同年齢の子供の平均値によって決められています。

人間の子供の成長はあまりに速く、遊び相手を取り替えたいという要求も加速します。あっという間に、複雑なレゴの組み立て方を覚えられない友達には飽きてしまうのです。というわけで、トイキッドのICチップとプロセッサには廉価な素材が使われており、十数ヶ月も使えば廃棄するような仕様になっていました。

このタイプの商品は一世を風靡し、中産階級の両親たちはこぞって喜んで金を払い、自動ロボットに子供の相手をさせ、大人の智力で付き合うにはしんどい遊びにつきあわせたのです。まるで服役を交替してもらうように。

しかし、全ての流行と同じように、トイキッドも三、四年しか流行しませんでした。アメリカ・ルイジアナ州のあるコミュニティで連続殺人事件が起こったのです。三人の少女が無惨に殺されたのですが、犯人はなんと同じコミュニティに住む八歳の男の子だったのでした。この子の家は裕福で、両親ともに高収入の専門職に就いていました。警察はこの子の家で、見るも無惨にばらばらにされた児童ロボットを何体も見つけたのです。教育学者や少年犯罪の専門家が次々にインタビュー番組に登場し、おとなしく服従するだけのトイキッドは子供のメンタルヘルスによろしくないと言いました。トイキッドに父母の代わりをさせていると、両親に放置された子供は却って破壊欲を爆発させる、とーーー。

それで子供にロボットの友達を買い与えるというブームは急激に冷めてしまい、もう十分に儲けたメーカーはトイキッドを生産するのをやめたのでした。人々は死んだような児童ロボットをゴミ箱に捨てたり、引っ越す時に猫を捨てるのと同じように、車を都市の郊外に走らせて置き去りにしたりしました。この型番のロボットは重労働はできませんし、パーツも成年型のロボットと交換できません。ですから溶解炉に放り込む以外に人類が思い付いた用途は性的玩具しかありませんでした。

世界各地の中古ロボットがオークションサイトに上がってきますが、トイキッドの人気は年を追うごとに鰻のぼりで、いったんアップされると数秒で売れてしまいます。独身の男たちは小型の眠れる美女のような型落ちの女児ロボットを手に入れるとベッドの下に置き、毎晩取り出しては欲望の捌け口とするのでした。そして『蜂の巣』の風俗店のようなところが買い入れると、ディエゴのような人がロボットを修復し改造し、特定のプログラムをインストールするのです」(張天翼「花と鏡」『群像・3・P.166~167』講談社 二〇二五年)

 

この種の機械、今のところ日本ではスマホが代表的だが、速くもVR機器を揃えて性欲望に奉仕させる遊びに浸り込んでいる人々はたくさんいる。それ以外に遊ばせる方法が見当たらないという大人の声を解消するには生身の人間があまりにも少な過ぎる。なおかつどんどん開発される高度な機械に依存すればするほど労働力は加速的に必要なくなるという事情がある。アメリカのトランプ政権がイーロン・マスクらを要職にすえることで加速的に推し進めようとしている現実はますますこのような事態の追い風となろう。

 

(2)「ウェンディはまず靴を履き、それからワンピースを頭から被って、小さな頭を襟から覗かせました。ダイドーはそばにやってくると優しく手を伸ばして三つ編みを服から引っ張り出すと、肩の部分を整えてから背中のファスナーを閉めてあげました。まさしく妹の世話を焼くお姉さんです。私は黙って彼女たちを見つめていましたが、胸のうちにはあまりにも居心地の悪い温かさが湧き上がっていました。ほかの子の面倒を見てあげるというのは彼女たちのプログラムに書き込まれているのです。彼女たちは生まれつき、ほかの子によりそうようにできているのでした」(張天翼「花と鏡」『群像・3・P.169』講談社 二〇二五年)

 

もはや世界中の教育機関のほとんどで、その「弊害」を押し切るかたちで採用されている「子どもらしさ」の呪縛。戦後日本でも一九八〇年代、中曽根政権がアメリカのレーガン政権とともに「男らしさ/女らしさ」の鮮明化を強く打ち出した経験がある。それと同時並行するかたちで韓国では全斗煥軍事クーデタ(光州事件)が勃発。日米韓軍事同盟が剥き出しかつ刷新されて再浮上した。その時すでに張天翼が書く「ほかの子の面倒を見てあげるというのは彼女たちのプログラムに書き込まれているのです。彼女たちは生まれつき、ほかの子によりそうようにできているのでした」という人間の機械化=人格改造=機械的分業制は当時でいう「男女両性の強固な二元論」の再構築という試験を通して推し進められていた。

 

しかし八〇年代バブル全盛期の教育現場、とりわけ日本の諸大学では、より一層もっともな議論が学生らのあいだで行われていた。「男女両性」以外にも「性」はあるし二〇〇〇年代に入ってようやく議論することがそこそこ可能になってきたLGBT以前にゲイやレズはいくらもいた。それは当たり前としてもさらに「性自認」、妥当な言葉を探りつつ今でいうジェンダーは早くも議論されつつあった。もっとも当初のフェミニズムは体力に恵まれ口達者な人々たち「だけ」が争い合う奇妙な議論ばかりが目立ったわけで逆に困惑している学生らは実は想像以上に多かったと言わねばならない。「マッチョな男」あるいは「しおらしい女」へ加工=変造することができるということは、ほかならぬ「どんな性」へも加工=変造可能だからである。

 

さて張天翼「花と鏡」では大きく前面に出されている大人による「児童性暴力」問題。早急に解決を目指さないわけにはいかない問題のひとつだ。その意味では「花と鏡」の主要テーマでもある。被害児童の「声にならない声」、その「泣き叫び」をネットでちょろちょろ検索しては舌なめずりしつつ陰惨な嗤いを漏らしている大人(性別問わず)はこれまた数知れないだろう。いくらでも出回り消費されまくっている。

 

一方、現在の中国の内情はよく知らないのだが日本では児童性欲者の犯罪予防対策が主に精神医療の現場を通して順次取り組まれている。遅々として進まない感じはある。ネット検索してみるとすぐにわかるとおもうが実際に児童(性別問わず)に対する性犯罪で検挙されるほど目立つ場合なら対策は早いかもしれないが、それ以上に高速かつ大量に出回ると同時に大人の児童ポルノ愛好者が一体どれほどにのぼるか。放置すれば「被害者の加害者化」と「加害者の被害者化」という現実はいずれ天文学的な数字を叩き出すばかりかそのこと自体が新しい胚珠となってますます世界的規模で撒き散らされ増殖していくだろうとおもわれる。だが注意すべきはアメリカが経験した世界大恐慌の際、アルコール依存症者の大量発生とともに起こってきた逆説的問題。「目には目を、歯には歯を」式の対応はむしろ逆効果だという今やごく当たり前の取り組みである。

 

(3)「人間の奇妙な性癖を全力で読み解き、そして迎合しようとする女ロボットたちは、自分たちを奇奇怪怪に作り変えているのです」(張天翼「花と鏡」『群像・3・P.160』講談社 二〇二五年)

 

ネットの普及以前、殺人ロボットの開発以前すでに、そういう社会構造は堂々とまかり通っていた。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1078

2025年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「Pir」

水槽を泳ぐ金属製の金魚が優雅な音響を聴かせる。同時に繰り返し打たれる古いレジスターのような音が頑固に何かを言いたがっているかのようだ。猫はいつもと同じように慣れたもので遊んでもらおうとパソコン机のそばへとことことやって来る。


Blog21・二代目タマ’s ライフ483

2025年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二五年二月二十四日(月)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

おとといだっけ、「にゃあにゃあにゃあの日」。飼い主覚えてる?朝ごはんの後に新聞紙引っ掻いて遊んでたら猫がしゃべってる広告見つけた。結構しゃべるんだね。

 

そういえばあったかな。

 

それがね、タマと違っておしゃべり上手いんだ。

 

上手いって?

 

うまくまとまってるんだ、猫なのに脈略があるっていうか。

 

脈略ねえ。そういえば最近しらける一方だな。ニュースに映る有力な人々の言ってること聞いてても有権者は殺伐たる気分になるよね。けじめがなさ過ぎるっていうか。猫だって狩りするならするで狩りしてから食べるだろ?そこには猫なりの脈略があるわけだけど逆に人間の側が大まじめな顔で文脈はずしてよろこんでる。

 

呆れてものも言えないって?タマよく知らないけど。

 

税金、ああ税金。さらにその行方ですなあ。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。フェリシア・アトキンソン。ノイズやノイズ系加工音、サンプリングを巧みに吟味するセンスの持ち主だとおもっていたがそれだけでなくすでに色々とレビューされているように今作はピアノがなかなか聴かせる。十年くらい前のコラボ作品も好きなほうだがそれはそれとして、ぐっとピアノに重心を移した仕上がりは昨今の暗すぎる世情のなかでピアノを弾くとすればどう弾くべきか、解体や脱構築といった試行錯誤の上で出したひとつの答えなのだろう。ピアノによる弔鐘に響いてこなくもない。


Blog21・吹けば飛ぶよな子守唄

2025年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム

連載だからだろう。特集「孤独の時間」の枠の中に置かれているわけではないが「孤-独」ということについて生々しい言葉が紹介されている。紹介していくと同時に永井玲衣は考察をさしはさみ、読者へひと呼吸与えつつ、また語り出す。

 

「和田さんの文章は手のひらサイズだ。書きながら考えているような、ささやかな言葉たちだ。

 

『帝大新聞を見る。学生をとりもどしたような気持でむさぼり読む。そこには我々の姿を美しいと書いてある。そうかなあと思う』(和田稔(日本戦没学生記念会編「新版 第二集 きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記」ワイド版岩波文庫、二〇〇四年)昭和十八年十二月二十八日『回天搭乗員の手記』大竹編)

 

そうかなあ。和田さんはそう思った。『美しい』という言葉に、鼓舞されるのでもなく、怒りに震えるのでもなく、ゆっくりと、でもはっきり『そうかなあ』と思ったのだ。そして和田さんはそれを書いた。

 

『それから自習時間中。五十嵐中尉によびつけられ、美保子の手紙のことで注意をうける。<こんな手紙を見てどう思う>ときかれて、<やっぱり妹ですからかわいいと思います>と答えながら涙が出そうだった。くやしかった。手紙をもらって机に帰り読んでみたが、ほんとに何ということもない手紙で、これに明日抗議の手紙を書かねばならぬかと思うと、自分から自分がうらめしかった。休み時間に家に、区隊長と約束した通りの手きびしい手紙を書く』(和田稔(日本戦没学生記念会編「新版 第二集 きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記」ワイド版岩波文庫、二〇〇四年)昭和十九年三月二十一日『回天搭乗員の手記』武山編)

 

自分で書いたものだけでなく、とどいた手紙も検閲され、叱られる。そして、かわいい手紙に、書きたくない言葉で返さなくてはならない。『きけわだつみのこえ』には、そのあと和田さんが家族に書いた『手きびしい手紙』が載っている。抽象的な言葉がたくさん並んでいる。文末は『草々。』と書かれているが、注を見ると、『草々』のあとに句点を付した時は、不本意ながら書いた内容であるという取り決めを家族としていた、とある。

和田さんは涙をこらえて、書きたくないことを書いた。でも、たった一文字で世界をひっくり返した。これは書きたくないことなのだと、文字の中でもいちばん小さな、いまにもこわれてしまいそうな丸で記した。ほんとうに書きたかったことを、そのようには書かないで書いてしまった。和田さんはすごいひとだ。

勇ましい単語の連なりの右下に、ぽとりと置かれた丸は、すがたが見えないほど大きいせんそうの中に生きる、ひとりの小さな声のようだ。美辞麗句のずっと足元にひっそりとたたずんでいる、そうかなあ、というつぶやきだ。でも、それが世界を丸ごとひっくり返す力をもつのだ」(永井玲衣+八木咲「せんそうって(4)」『群像・3・P.378~380』講談社 二〇二五年)

 

さらに靖國神社の展示を引きつつこう述べる。

 

「各地の資料館では、塚本太郎さんというひとの遺書を、レコード録音した本人の声できくことができる。かれもまた回天の隊員だった。そうである前に、ひとりの慶應の大学生だった。塚本さんは何を考えていたのだろう。

遺書は家族や町、学校への『さようなら』からはじまり、『本当にありがとう』と告げられる。『僕はもっと、もっと、いつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ』と伝えられ、『みんな』との思い出が語られる。

 

『春は春風が都の空に踊り、みんなと川辺に遊んだっけ。夏は氏神様のお祭りだ。神楽ばやしが溢れている。昔は懐かしいよ。秋になれば、お月見だといってあの崖下にすすきを取りにいったね。あそこで、転んだのは誰だったかしら。雪が降り出すとみんな大喜びで外へ出て雪合戦だ。昔はなつかしいなあ。こうやってみんなと愉快にいつまでも暮らしたい。喧嘩したり争ったりしても心の中ではいつでも手を握りあって』(靖國神社遊就館での展示)

 

塚本さんは季節を追う。風景を描く。そこに一緒にいるひとびとを見る。そしてもう一度、みんなと『いつまでも暮らしたい』と、素直に願いを語る。

しかし、この直後から言葉はがらりと変わる。和田さんの手記のように、むずかしい漢語がたくさん出てくるようになる。同じ文章の中に、ここまで違う文体が入ってくることに驚く。言葉が変わると、ひとが変わる。

 

『しかし僕はこんなにも幸福な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはならないと思うんだ。[ーーー]余生に費やされるべき精力の全てをこの決戦の一瞬に捧げよう。怨敵撃攘せよ。親父の、お祖父さんの、曽(ひい)お祖父さんの血が叫ぶ。血が叫ぶ。全てを乗り越えてただ勝利へ、征くぞ、やるぞ。年長(た)けし人々よ、我等なき後の守りに、大東亜の建設に、白髪(はくはつ)を染め、齢を天に返して、健闘せられよ。又幼き者よ、我等の屍(かばね)をふみ越え銃剣を閃かして進め。日章旗を翻して前進せよ。至尊の御命令である。日本人の気概だ。永遠(とわ)に栄あれ祖国日本』(靖國神社遊就館での展示)」(永井玲衣+八木咲「せんそうって(4)」『群像・3・P.382~384』講談社 二〇二五年)

 

ステレオタイプ(紋切型)になるとこう変わるのか。変わる。けれどもすべてがそれだけで片付くあるいは説明できるわけでもない。

 

「冒頭で知人が言った『テンプレ』という表現からもわかるように、猛々しい文章は似た表現が多い、『紋切り型』とも言える。だが簡単にそうやってすべて結論づけてしまえるほど、単純でもない。

なぜなら、どれも自分の言葉であり、どれも自分の言葉とは言えないからだ。嫌々書いた文章もあっただろう。でも、もはやどんな感情なのかわからないで書いた文章もたくさんあったはずだ。そしてこれは、現代を生きるわたしたちの日常でもたくさんある。書きたいのか、書かされたのか、書くしかないのか、書きたくなかったのか、それらは複雑に絡み合って、どろどろに溶けている。でも、それを問われることはない。そこに苦しむことはない。苦しむのは、せんそうがそこにあるからだ」(永井玲衣+八木咲「せんそうって(4)」『群像・3・P.385』講談社 二〇二五年)

 

永井玲衣は「書きたいのか、書かされたのか、書くしかないのか、書きたくなかったのか、それらは複雑に絡み合って、どろどろに溶けている。でも、それを問われることはない。そこに苦しむことはない。苦しむのは、せんそうがそこにあるからだ」という。

 

その事情について個人的に最も考えざるを得なかったのは大学在学中のこと。文章化されているものというか、手に入りやすかったもので何かとテキストになったと今なお思えるものは大江健三郎と中上健次の諸作品だった。言葉というものの不可解にも魅力的で、ところどころ時制や話がごっちゃにならざるを得ないことをおそらく意識的に持った上での重層性について。

 

永井玲衣に戻ろう。

 

「対話の場をつくっていて思うのは、自分の言葉とは、他者との交わりの中で育っていくものだということだ。あらかじめ強固なものがあるわけではなく、誰かの言葉をきいたり、誰かに伝えたいという思いがあったりして、踏みしめられるものだ。だから言葉は何度も語り直される。そのたびごとに新しいいのちをもつ。自分の言葉とは、まだ自分でも知らない言葉だ。出会ったことのない言葉なのだ。『私にしか持てぬ時間』もまた、自分のものでありながらこれから出会っていく、広々とした場所なのだろう。

 

それに対して、もうひとつの言葉は、もう知っている言葉が集まってできている。追い立てられ、語らなければどうにもいられない、速度を持った言葉だ。書きたくなかったとしても、書きたかったとしても、ひとりぼっちで書くしかない言葉だ。せんそうはそんな言葉を生み出す。せんそうでは、他者とともに言葉を探すことも、ゆっくりと吟味することも、何度も語り直すこともできない。

 

でも、こうも思う。和田さんや塚本さんは『私にしか持てぬ世界』を守るために、ひとりぼっちの言葉を使ったのではないか。文体を変えて、ふたつの言葉を使い分けて、自分の考えていることを書いた。ほんとうに『祖国のため』に死にたいと思って書いたのかはわからない。そう思いたいというところもあっただろうし、そういうものだとも思っていたかもしれない。本気だったかもしれない。ただ、かれらはひとりぼっちの言葉をたくさん積み上げて、積み上げて、自分だけの世界を守った」(永井玲衣+八木咲「せんそうって(4)」『群像・3・P.387』講談社 二〇二五年)

 

もっともな論だとおもう。とともに現状のウクライナと日本政府、沖縄・南西諸島と日本政府、台湾と日本政府、韓国と日本政府、ーーー。零落するばかりのこの国の片隅で。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1077

2025年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「Netlon Sentinel」

0:24から破壊的で歪んだ重低音がゴロゴロ繰り返される。金属加工音は猫の好みでいつものように飼い主の部屋のなかを気ままにうろうろ。テンポは基本的に変わらない。電子音は幾つかのヴァリエーションを見せつつメインはあくまでかなり強めに歪ませた攻撃的な破壊音のなし崩し的連発でこの種の容赦なく剥がれ落とされていく神話崩壊的な生々しい音響が続いていけば見えてきそうな無惨な廃墟の幻影がデモーニッシュな快感を贈り届ける。