白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ479

2025年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二五年二月二十日(木)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

タマね、今朝の天気予報はまあまあ当たってるって思った。

 

どのへん?

 

雪積もってた。軽くだけど。

 

まだちらほら降ってたんじゃなかったかな、タマが二階へ上がってきたとき。

 

降ってたけど気にならなかったよ。それより窓の外見たら向こうのお家のアンテナにカラスさんが止まってるんだ。大きいほうだった。でね、猫としては条件反射的に何度か鳴き声を上げたんだけど全然相手にされてないみたいなんだ。

 

そりゃタマさん、窓の内側から小さな鳴き声を少々試してみてもカラスさんにはとどかないよ。少しの雪くらいへっちゃらだし。声を上げたって、ん~、貰ったってくらいにしか思ってないかも。

 

そうなの?たくましいんだね、カラスさんて。

 

関心してどうすんの。多分さっきも来てアンテナに止まってたあれね、去年くらいからいつもこの辺りうろうろしてるカラスさんだな。何かしてた?

 

なんにもしてなかったと思うよ。ぼうっと景色みてただけなんじゃないかな。アンテナにとまったまま何だか手持ち無沙汰みたいだったよ。どこがどうって聞かれてもへんてつのない雪景色って感じの日だからさ、ひょっとしてカラスさんも雪見するのかな。

 

人間の真似は時々するけど雪見はないだろ。いまタマ言ったけどこの辺りは降っても大抵何の変哲もない雪景色なんだ。住宅地になったわりには基本的に鎌倉時代と変わってない。強風が「窓たたく」って歌、タマは忘れたかもしれないんだけどさ、そのあと雪が降りだしてしんしんと積もってく。そんな雪の朝方に玄関を開けるとちょうどあの辺りの雪でかすむ梢でカラスが啼いてる。啼き声は籠って聞こえる。雪が深い、って。こういうの。

 

「朝戸明(あさとあけ)の軒ばに近く聞ゆなり梢のからす雪ふかきこゑ/永福門院」(「中世和歌集 鎌倉編」『新日本古典文学大系 中世和歌集 鎌倉編・P.413』岩波書店 一九九一年)

 

でもなんでこの辺りは昔と変わんないの?

 

いや世界的異常気象で少しずつ変わってることは変わってるんだけどね、京都の底冷えがほとんど変わって思えないみたいに琵琶湖上空ってのは昔から風があちこちから入り乱れることで有名な、ずいぶん変な意味で名所なんだ。それが他の都道府県と比較するとあたかもほとんど変わってないように見えるってことだね。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。エセル・ケイン。ジャンル化すればダーク・アンビエントということになるのだろう。現実がホラーを越えてしまっている世界でもしホラー映画がまたひとつ作成されたとしよう。その映画音楽が今や日常化した現実のホラー性に揺さぶりをかけるほどの音楽になり得るかどうか、おそらく無理なのではという諦観ただよう昨今。そこで映像はいったん別として、現実生活の開き直った明るすぎる暴力的ホラー政治が横行する中で、大人たちのマッチョでありながら時おり無防備な首筋にオルゴールを持った無表情な幼児が背後からチューニングの壊れた音でじわじわ疵を刻みつけ次第に内部から滲み出てくる痛みを浸透させつつ、ホラー化した現実に微々たるものだとはいえ確かに違いのあるダークな世界のことを思い出してはくれまいかと耳を傾けさせる方法についてこのごろ考えていた。できるとすればありふれたゾンビではなく幽霊的なもの。明瞭なノイズではなく息も絶えだえに擦れ去っていく廃墟のリヴァーブ。


Blog21・「群像短歌部」感想(2025.2.20)

2025年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム

「まだいけるフライ返しをもうダメなフライパンにのせ一緒に棄てる/島原さみ」(木下龍也「群像短歌部(18)」『群像・3・P.483』講談社 二〇二五年)

 

「もったいない」かどうかが問題ではない。選者は「行き場のない後ろめたさは、しこりのように胸に残り続ける」と棄てた側の悔恨と棄てられた側の怨恨の消息の両方について述べる。そしてふだんなら決して口にはできないことだろうけれども歌うことはできると。

 

「定位置をちいさなクマで占めてもうあとはわたしの隣だけだよ/弓矢みゆ」(木下龍也「群像短歌部(18)」『群像・3・P.484』講談社 二〇二五年)

 

選者は「直接伝えるのは恥ずかしいが、どうか察してほしい」方法として「かわいらしい、なんとも愛おしい」としている。もちろんそう想いはする。でもこの一首を読み終えたとたん、ある種の「怖さ」を感じさせないわけにはいかないのはどうしてだろう。

 

「(祖母がよく歩いて買ってきた味だ)三次会での冷めた銀だこ/遊島泰隆」(木下龍也「群像短歌部(18)」『群像・3・P.485』講談社 二〇二五年)

 

一次会/二次会/三次会という場の境界線の曖昧化がますます加速している昨今。おそらく単調でいつも何だかずれてもいたが孫を思う気持ちだけは誰にも負けなかった「祖母の味」。哀惜のうちに小さな微笑みがふと浮かび上がる。

 

「『共犯』は明朝体がよく似合う 姉といっしょに鰯をひらく/芍薬」(木下龍也「群像短歌部(18)」『群像・3・P.485』講談社 二〇二五年)

 

以前の作品を思い出させる。二首とも受動態。

 

(1)「土曜日の耳鼻科はひどく混んでいて右手をソファに噛ませて待った/芍薬」(木下龍也「群像短歌部(第3回)」『群像・9・P.486』講談社 二〇二三年)

 

(2)「かんたんに殺されそうな大勢で歯型のシリコンむぎゅむぎゅと噛む/芍薬」(木下龍也「群像短歌部(第5回)」『群像・11・P.390』講談社 二〇二三年)

 

今回は能動態で「姉」との「共犯」。病院では主治医とその助手との複数に包囲される「共犯」形になるのが通例。で、受動態を取るときは「病院あるある」的な過剰な緊張感を感じさせていた。ところが「姉」との能動態で「鰯」の内臓を捌く側にまわるや「明朝体がよく似合う」と余裕たっぷりな目線へがらりと豹変するところがたいへん面白い。

 

「胃の中に入れば一緒、火の中に入れば一緒、生きながらえて/牧角うら」(木下龍也「群像短歌部(18)」『群像・3・P.486』講談社 二〇二五年)

 

選者のいうように「全員死というゴールがあるのだから自ら急いで死を選ぶ必要はない」など読みに幾つかの選択肢があるなかでさらに「”生きながらえて”もどうせ」とも、あるいは「だから”生きながらえて”」とも読める余地を残したところに技術というよりむしろ<歌とは何か>ということ、そこで意識的に止めたのか止まったのかわからなければそれはそれがある意味自分に対して<正解>だととっくの昔から承知しているように思えてくる。ただ「胃、一緒、火、一緒、生き」と韻を踏んでも踏めば踏むほど発語時にとかくきつい響きになる「イ」を詠み手はなぜ選んだのだろう。そのぶんラストの「ながらえて」で読み手はようやくほっこりできてどこか許された印象を受けるのだが。謎めく。

 

「『ああああ』が『ああああ』を撃ちそれを見た『ああああ』と『ああああ』が通報/高山准」(木下龍也「群像短歌部(18)」『群像・3・P.487』講談社 二〇二五年)

 

匿名性による世界の支配が加速的に確実化しつつある今このとき。固有名詞がだんだん意味をなくしていく。ニュース報道のパロディにも見えそう。

 

「タワマンと同じ高さに並び立つエレベーターのための暗闇/山下ワードレス」(木下龍也「群像短歌部(18)」『群像・3・P.488』講談社 二〇二五年)

 

以前「アンドロイド」の歌があったのを思い出させる。サイバーパンクな目線で風景を短歌に落とし込むというのはあまり見ない気がして新しい印象を受ける。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1073

2025年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「Outpt」

古いテープのノイズのような音で始まる。0:09から猫好みのグルルル音やビチャビチャ音の連発。パソコンの周囲をしきりにうろうろして飼い主の作業を何度か止めさせたあと窓際へ移動。飽きずに外の景色をゆっくり眺めている。三度リピート。なかなか降りてこない。曲の作用だけでもなさそうな雰囲気なのでカーテンの影からこっそり観察してみると猫は周囲に広がる雪景色を不思議そうに眺めていたのだった。生まれて二度目の冬で始めての本格的な雪景色だったからかもしれない。