Now+here Man's Blog

Surf, Run and Trails / Endurance For Fun

夜のお出かけ探検隊 in Chigasaki

2015-05-29 18:10:16 | 日記


オイラは、夜のお出かけ探検隊 in Chigasaki の名誉隊員である。
探検隊のメンバーは流動的で職業、趣味に線引きなどない。
楽しくてFUNであればOK! 

で、早速、探検隊の活動パターンを紹介しよう。

隊員には諜報員がいて、毎日夕方になると街中を徘徊し、
敢えて雑誌などメディアには未掲載の店を探している。
洋服の店舗を営んでいるが、それは表向きの顔で、
お客さんからのグルメ情報を収集するのが目的である。
生の声、店舗雰囲気、立地、客層、
これらの情報の分析結果は、他の隊員に報告される。

その前に諜報員が他の隊員への報告を待たず、店舗潜入をする場合がある。
情報収集の結果が良好、または思わしくない場合であっても、経費は諜報員の自腹である。
毎回領収書をもらって来ているようだが、本部は認めていない。

まあ、みんなそれぞれが諜報員なのだが、もっとシェアしようというのが発端である。

我々探検隊は、最近、駅前以外に目を向け始めた。

おおよそ、駅前は市外から来る客もいるため間違いがない。
イタリアン、タイ、和食、かなり高いレベルになる。
その代り、「なんとなくどこかヤバイ感じ」な雰囲気はない。
本来、そんな雰囲気はあってはならないのだが、
危険だと安全を望み、その逆も然りというわけである。

少し駅から離れると、海に近くなればなるほど、ディープな店が増えてくる。
湘南地域の特徴だろうか。ディープ&エネルギッシュ度が高くなる。
こんな店は、アングラで怪しげで、近所に住む職業不詳のサーファーが夜な夜な集まる。
だから市外に住んでる人が店に入ろうとしても、相当勇気がないと入れない。

ところが、この街はほとんどの人がヨソから引っ越してきてるので、
みんなと上手く楽しくやる、というのが必然的なルールであり、自ずと形成された雰囲気である。
だから、アングラであっても誰でもウエルカムなのである。
そこがまず最も重要なポイントである。

オーナーの多くは都内で修業したり、そこそこ有名になってから来る人がいるので、味はまず失敗しない。
お会計も駅から離れると安くなるので、そこが次に重要なポイント。

まあそんなんで、新規開拓はとても楽しい。

直近では中海岸のヨゾラ、ウイッシュボーン。
開店からはだいぶ時間がたっている。
いつもはすぐ行かない。
数年たってから行くところもある。
まあそれは関係ない。
ALL YOU NEED IS SAKE は ANYTIME AT ALL!
いつだっていいのである。

2つのお店ともいずれも激ウマ! 
マスターもナイスガイ!
何食べても美味しいねえ。

しかも安い!!

雰囲気は濃いよ~
ディープだよ~
ゆるゆるだよ~

地元なので警戒心ないから、みんなユルイのかな?

居心地いいですよ~。

Running in tequila sunrise

2015-05-27 17:45:44 | 日記


走っているときは、もちろん辛辣なことは考えないし、
(まあ辛辣な事態のときは走らないだろうけど)
何かは考えているけど記憶に留めることはなかった。

でもちょっと思ってみた。
一人きりになり、健全な有酸素運動の状態で思考するという事はランニング以外にはない。
ランニングでは(いまのところ)マイナス思考にならないので、物事を考えるにはいい機会。
問題は、その記憶は、走り終えてシャワーとともに流れてしまう事。
考えたことは反復して整理して、シャワー後に書き留めればいい。

さて、具体的に直近に何を考えたか。

人生で深く思い込むことなどそんなに多くは存在しないんだということだ。
それは、現実逃避なのか自己防御なのか単なる怠慢なのかはわからないけど、
少なくとも走っている間は、確実にそう思う。走っている間は真実なのだ。
そう確信した。
その方が楽だし、精神衛生上いいに決まってる。

生活の9割はどうでもいいことで、毎日毎日どうでもいいことの積み重ねだな、
そういうこと確信が持てると身体と心に羽が生えてくる。
本質を突くのは簡単だけど、本質から敢えてそらすのは返って労力がいる。
でも自分はそれができる。いい加減な人間だから。
走りがそれを機に軽くなる。
いい加減な人間の走りは軽くなる。
たぶんそういうものだ。

実際、走り始めのまだ循環機能が覚醒していない苦しい時間帯(デッドゾーン)を過ぎ、
身体が軽くなり苦しさが解消しスピードが上がるとき(セカンドウインド)に羽が生える。

羽の生えた脳はこう考える。走りながら脳が発言する。
心臓を動かし、手足を交互に動かし、肺を収取させ、道路情報を筋肉に伝え、
ついでに物事を考える。たいしたもんだ。

「週末のサーフィンや、飲み会や、仕事の打ち合わせや、夜の献立も、溜まった洗濯物も,
そういった日々の生業や習慣に対して価値観を見い出す必要などないんだよ。
価値観を見出すことは回顧的な作業であまり意味はない。
そんなの評論家がやればいい。
問題は、生業や習慣が自分に対しどのくらいの価値を与えるかだ。
だからちゃんと走り続ければ大きな大きな価値を得るよ。
心の宝物だね。」


自分の価値は、何かに真剣に取り組まない限り生まれない。
どうだろう。僕はそう思うね。

それは頭では分かっていたけど、身体が理解していなかった。
走ることでそう確信した。
走らなければわからなかったかもしれない。

以上、そんなことを考えて文にまとめてみた。
で、次は文章の補間作業だ。


走り始めたころ、自分が大した人間ではなく器も未完成で小さいという事実を突きつけられる。
きっと誰にでも。
これはとてもショックだ。
ビギナーズランナーショック。 3キロ走ってぜいぜいする。


人間って結局はフィジカルに痛みや苦しみ忍耐を経験しないと強くならないんだろうなって思う。

強い人間ね。
自分的には、降りかかる災難や苦労を無視したり、
攻撃をかわす術を経験的に身に着けていることが強い人間だとも思っている。
正面切って戦うと死ぬ場合があるし、クリアするだけでポイントを稼げない場合がほとんどだ。
歳を取るとこういう風に考えてくる。年の功という。大人だ。
死ぬ覚悟で臨むのは友人や愛する人を守るときだけだね。

だいぶ逸れた。

ビギナーズランナーショックから。
筋肉の痛めつけ心拍数を上げない限り距離は伸びないし、継続できない。
これは辛い。
でも次回また走る。コツコツ、コツコツ。
確実に走れるようになる。
走るとこう思う。
走るって、まるで人生だよね、と。
壁の連続だ。


メンタルだけでは成就しない。
メンタルは破壊されてリカバリーできる確率が少ないからだね。
健全なメンタルは健全なフィジカルが土台ということだ。
たぶんすべての動物はそういう風に作られている。人間は例外ではない。

この思いは、ウインドサーフィンやサーフィンやスキーでは生まれてこなかった。
これらの基本は遊びだから。
ランニングは遊びじゃない。
遊びという人は、まずいないだろうね。


ランニングは遊びじゃないけど、とても楽しい。
走る続けると心肺、循環機能が稼働し、楽になる。
楽だから楽しいし、楽しいから楽。
景色の一部に自分が溶け込む。
空気に溶け込む。

継続していると漠然とした課題が出る。
きっとシンプルな課題。
走って得るものは何だ?


きっとレースに出て完走した時、なにかしらの答えが出る。
それは教訓だと、崇高なランナーは言う。
よくわからないね。
でもきっとドラスティックな答えだと期待しよう。

今日、初めて朝に走ってみた。


走りながらしっかりと考えたことは、走ることを止める理由は全くないし、
これからも走り続けるんだろうな、ということだ。
すくなくとも、もう歩くことはない。

今朝思ったよ。

走るということ

2015-05-09 17:01:38 | 日記


走っているときは少なくとも負の考えは出てこない。かといって良い考えもしない。深く考えることもしない。
何かは考えているが表層でグルグル回っている感じ。たぶん心の奥底は無になっている。
無になっていることを意識できる。快感、悦楽は無の状態からしか生まれない。
無を意識する。自分が絶対存在しているという最強の意志。

走る理由など何もない。走らない理由がないだけだ。

だいたいの女性の場合、走り続けているとスタイルだけではなく、顔が良くなる。
目つきがよくなり、自身に対し自信が生まれるからだ。フィジカルでセクシー。

膝に古い故障を抱えていたが、走り続けることでフォームが改善され、やがて膝周りの筋肉が補強され痛みがなくなった。

アスファルトを蹴るたび、足の裏の赤血球が破壊されるそうだ。
もちろん食事で補う。
走りはじめてから、食べたものはほとんど血や肉になる。まったく贅肉にはならない。

休日、海沿いを走る。空は青く、海は青く。
家にゴールしてシャワーを浴び、バルコニーに出て夕陽を眺めながらビールを飲む。
ビールは神の水と知る。

無性に走りたくなる瞬間がある。絶対に走りたくないときも同じくらいある。

ランニングにより活性酸素が発生し、動脈硬化やガン発生の危険が高まるという話が一部にある。
これは本当なのだろうか? であればランナーの医師はいないはず。
走ることで活性酸素が発生しても、同時に活性酸素を防御する機能も向上する。
抗酸化物質を外部から摂りいれトレーニングせず、、、どちらが良いかは明白な気がする。
とにかくこういう話題が取り上げられると、センセーショナルになりがちだ。

ランニングとは、自己の空白に、積極的に新たな空白を埋める作業に過ぎない。
真剣にそう思う。

走っている自分の少し前に、少し後ろに、あるいは上に本当の自分がいる。
そしていつも声援を贈っている。
それに応えてスピードをアップする。
心と身体の二人三脚。 
心身のバランスがとれているとはこの事なのだと最近初めてわかった。

結局のところ、健康が一番だと走りながら思う。
で、それは何に対してかというと、貧しさや悲しみや辛さがあっても、
とりあえず立ち向かっていこうという姿勢ができることだ。
それが健康である証だ。
立ち向かっても潰されるかもしれないけど、少しは我慢できるだろう。