サツマイモを伝えた甘藷翁(からいもおんじゃ)。
以前の記事ですが、次回関連で再掲載です。
↓
サツマイモ生産量の約4割・・・といいますから年間約50万トン
を生産するという日本一のさつまいも王国、鹿児島県。 その鹿児島県で
甘藷翁(からいもおんじゃ)として尊敬されているのが前田利右衛門です。
このかたが、琉球(沖縄)から唐イモ(サツマイモ)を持ち帰り薩摩の国
での栽培を広めたといわれていますよ。
ときに1705年(宝永2年)のことでした。これ以降、薩摩で大規模栽
培に成功したサツマイモは、その後
カライモ → リュウキュウイモ → そして サツマイモ
と、その呼び名を変えながら、日本の全国区の作物へと普及していったと
いうわけです。
ということは、この甘藷翁(からいもおんじゃ)なくして、その後の救荒
作物[飢饉時のありがたい食物]としてのサツマイモの活躍はなかったこ
ととあいなります。
そう、いまに伝わる
● 1713年 瀬戸内(大三島)における 下見吉十郎
● 1715年 長崎(対馬)における 原田三郎右衛門
● 1716年 京都における 島利兵衛
● 1733年 島根(大森)における 井戸正明
● 1734年 東京(江戸)における 青木昆陽
などの、サツマイモで有名な方々の活躍[サツマイモを救荒作物として各
チで普及に努めた]もなかったはずなのです。そうなれば、1732年の
享保の飢饉・1782年の天明の飢饉・1832年の天保の飢饉の際には、
もっともっとたくさんの人命が失われていたにちがいありません。
そしてそれ以降も[第二次大戦前後にいたるまで]前田利右衛門は、ほん
とうにたくさんの日本人を飢えから救ったことになりますよね。
もちろん飢饉のときだけではありません。
もしなんらかの歴史のいたずらで、このときにサツマイモが伝わらなかっ
たと仮定すれば・・・ひょっとすると現代に生きるあなたが普段たべてい
るヤキイモやチップスはもとより、ボタモチや イモ餡〔あん〕、そして
あのおいしいスゥィートポテトはなかったかもしれない。
そうそう、あなたが秘蔵している大事な芋焼酎も、ひょっとすると存在し
なかったかもしれない/笑。
そう考えると、人の行動がもたらすその後の事象というものには、なかな
かに興味深いものがありますよね。
そしてその後の甘藷翁(からいもおんじゃ)。はからずも薩摩のみならず
日本の国の飢饉を救うことになった前田利右衛門。しかし 再び琉球に渡
るときに遭難して死亡します。
この利右衛門遭難の話を聞いたとき、彼に感謝していた薩摩の領民はお金
を持ち寄り、供養堂を建てました[現在、鹿児島県山川町岡児ヶ水の徳光
とっこう神社とされています/こちら]。また、この山川町内だけでなく、
その頌徳碑[感謝の意を刻んだ碑のこと]は薩摩半島だけでなく、大隅半
島の串良町など鹿児島県内の各地でも確認されているといいます。
ということで、今回はサツマイモ伝来に関係した薩摩の国の船乗りについ
てのおはなしでした。
<emoji code="h044" /> 新しい作物を導入し・結果的に産業化した 利右衛門さん。
これは六次産業化の、ひとつの手本といえることかと。
「夢で終らせない農業起業」「 本当は危ない有機野菜 」
以前の記事ですが、次回関連で再掲載です。
↓
サツマイモ生産量の約4割・・・といいますから年間約50万トン
を生産するという日本一のさつまいも王国、鹿児島県。 その鹿児島県で
甘藷翁(からいもおんじゃ)として尊敬されているのが前田利右衛門です。
このかたが、琉球(沖縄)から唐イモ(サツマイモ)を持ち帰り薩摩の国
での栽培を広めたといわれていますよ。
ときに1705年(宝永2年)のことでした。これ以降、薩摩で大規模栽
培に成功したサツマイモは、その後
カライモ → リュウキュウイモ → そして サツマイモ
と、その呼び名を変えながら、日本の全国区の作物へと普及していったと
いうわけです。
ということは、この甘藷翁(からいもおんじゃ)なくして、その後の救荒
作物[飢饉時のありがたい食物]としてのサツマイモの活躍はなかったこ
ととあいなります。
そう、いまに伝わる
● 1713年 瀬戸内(大三島)における 下見吉十郎
● 1715年 長崎(対馬)における 原田三郎右衛門
● 1716年 京都における 島利兵衛
● 1733年 島根(大森)における 井戸正明
● 1734年 東京(江戸)における 青木昆陽
などの、サツマイモで有名な方々の活躍[サツマイモを救荒作物として各
チで普及に努めた]もなかったはずなのです。そうなれば、1732年の
享保の飢饉・1782年の天明の飢饉・1832年の天保の飢饉の際には、
もっともっとたくさんの人命が失われていたにちがいありません。
そしてそれ以降も[第二次大戦前後にいたるまで]前田利右衛門は、ほん
とうにたくさんの日本人を飢えから救ったことになりますよね。
もちろん飢饉のときだけではありません。
もしなんらかの歴史のいたずらで、このときにサツマイモが伝わらなかっ
たと仮定すれば・・・ひょっとすると現代に生きるあなたが普段たべてい
るヤキイモやチップスはもとより、ボタモチや イモ餡〔あん〕、そして
あのおいしいスゥィートポテトはなかったかもしれない。
そうそう、あなたが秘蔵している大事な芋焼酎も、ひょっとすると存在し
なかったかもしれない/笑。
そう考えると、人の行動がもたらすその後の事象というものには、なかな
かに興味深いものがありますよね。
そしてその後の甘藷翁(からいもおんじゃ)。はからずも薩摩のみならず
日本の国の飢饉を救うことになった前田利右衛門。しかし 再び琉球に渡
るときに遭難して死亡します。
この利右衛門遭難の話を聞いたとき、彼に感謝していた薩摩の領民はお金
を持ち寄り、供養堂を建てました[現在、鹿児島県山川町岡児ヶ水の徳光
とっこう神社とされています/こちら]。また、この山川町内だけでなく、
その頌徳碑[感謝の意を刻んだ碑のこと]は薩摩半島だけでなく、大隅半
島の串良町など鹿児島県内の各地でも確認されているといいます。
ということで、今回はサツマイモ伝来に関係した薩摩の国の船乗りについ
てのおはなしでした。
<emoji code="h044" /> 新しい作物を導入し・結果的に産業化した 利右衛門さん。
これは六次産業化の、ひとつの手本といえることかと。
「夢で終らせない農業起業」「 本当は危ない有機野菜 」