“きりのじん”という、不思議な地名。
以前の記事ですが、次回関連で再掲載です。
↓
[国道10号線の美々津大橋ではなく]県道を通る日向いきの普通路線
バスに乗り、しばらくして美々津橋を渡ると次にくるのがバス停・きり
のじん。
むかしから民家が数軒点在するだけの、耳川の右岸にあたるとりたてて
なにもないバス停。しかしこの “きりのじん” という不思議な響きの
バス停の名まえは、子供ごごろに強烈な印象をのこした。
きりのじん。
たとえばそれは 霧の人とか、切りの人とか。なんだか真田十勇士の霧
隠れ才蔵のような忍者をさすものかなと思ったり、むかしここには妖怪
のかまいたちのようなものがでていたのかな・・などという想像を連想
せずにはいられないものだった。
地図でみると美々津橋という太字の「橋」の部分にあたる きりのじん。
漢字で書くと 桐の陣。この地名の由来は、その後しばらくたって成人
してから、車に父をのせてこのバス停を通った時に判明した。
桐野利秋。西南戦争のとき、幕末のころは人切り半次郎と名乗った
桐野の陣があったとこだよ、ここは。
と、唐突に父がつぶやいたのだ。
こないだ売った当家/うちの山にのぼったとき、砲台跡があったろう。
あれは桐の陣から上流にあがった飯谷とか余瀬にいた薩軍を砲撃する
のに、政府軍がひっぱりあげた大砲を据え付けた跡だ。
と話はつづく。
子供のころ、西郷さんを見たという、美々津在の じいさん・ばあさ
んたちがたくさんいてな。
と、これはなんども聞く話を繰り返した。
いきなりあらわれた薩軍や、その薩軍を追って やってきた政府軍に
家屋を占拠されたら、いやおうなしに大砲の弾の標的になってしまう
のだなと思いつつ、
← 桐の陣から見た対岸の政府軍陣が こちら。 そして
→ 政府側陣から見た 桐野陣の方向が こちら。
← 政府側陣から見た中の島にたつ西南戦争激戦の地の看板 と
→ 巨大ダムがつくられた現在でもまだまだドン深な耳川の図。。
ちなみに西南戦争の様子を記した町誌では 水深が深い耳川が注ぎ、
古来より軍事的要衝であった美々津での両軍の戦いはつぎのように。
明治10年7月30日。官軍の総攻撃に会った薩軍宮崎本営は、
宮崎を捨てて北走し、高鍋を経てその後美々津方面に退却した。
各所で連戦連敗の薩軍は、耳川の天険に拠って官軍を食い止めん
とし、東は耳川の河口から、西は山陰、坪谷、を経て神門、渡川
まで塁を築いて防御線とし、耳川を隔てて官軍と対峙し十二斤砲
などで打ち合っていた。が、8月7日、官軍は耳川の上流を渡り
山陰[やまげ]の薩軍を攻撃した。薩軍はよく戦ったが、ついに
は敗走。耳川下流にあった辺見、桐野の一隊はこのため対岸と同
岸の上流という腹背共に敵を受けるに至り支えきれず。山中に入
って退路を求めたが得ず8月11日前後に四散した。
と、いうことらしいです。その後の薩軍ですが、
耳川の攻防戦で破れた薩軍は8月14日延岡を捨てて延岡の北に
あたる長井に集結し、8月18日早朝可愛岳を突破、鹿児島へ。
と、戦局が急展開していったことがわかります。
そしてあらためての きりのじん。いまは運行されるバスの本数が
減ったうえにバス停も廃止。地図上の地目だけが残るだけの場所に
なってしまいました。
いきなりやってくる戦争もたいへんですが、美々津千軒と謳われた
明治はじめのかつての県庁所在地[美々津県と都城県が合併して宮
崎県となった]のこの寂れようもたいへんなものだなと、しみじみ。
宮崎と西南戦争の時代を背景に描かれた小説として
松本清張のデビュー作とされる『西郷札』(さいご
うさつ)があります。明治の廃藩置県を受けて禄を
失い、西南戦争に参加した旧佐土原藩士を主人公に
した魅力的な短編。よろしかったら、ぜひ。
「夢で終らせない農業起業」「里地里山複合大汚染」
以前の記事ですが、次回関連で再掲載です。
↓
[国道10号線の美々津大橋ではなく]県道を通る日向いきの普通路線
バスに乗り、しばらくして美々津橋を渡ると次にくるのがバス停・きり
のじん。
むかしから民家が数軒点在するだけの、耳川の右岸にあたるとりたてて
なにもないバス停。しかしこの “きりのじん” という不思議な響きの
バス停の名まえは、子供ごごろに強烈な印象をのこした。
きりのじん。
たとえばそれは 霧の人とか、切りの人とか。なんだか真田十勇士の霧
隠れ才蔵のような忍者をさすものかなと思ったり、むかしここには妖怪
のかまいたちのようなものがでていたのかな・・などという想像を連想
せずにはいられないものだった。
地図でみると美々津橋という太字の「橋」の部分にあたる きりのじん。
漢字で書くと 桐の陣。この地名の由来は、その後しばらくたって成人
してから、車に父をのせてこのバス停を通った時に判明した。
桐野利秋。西南戦争のとき、幕末のころは人切り半次郎と名乗った
桐野の陣があったとこだよ、ここは。
と、唐突に父がつぶやいたのだ。
こないだ売った当家/うちの山にのぼったとき、砲台跡があったろう。
あれは桐の陣から上流にあがった飯谷とか余瀬にいた薩軍を砲撃する
のに、政府軍がひっぱりあげた大砲を据え付けた跡だ。
と話はつづく。
子供のころ、西郷さんを見たという、美々津在の じいさん・ばあさ
んたちがたくさんいてな。
と、これはなんども聞く話を繰り返した。
いきなりあらわれた薩軍や、その薩軍を追って やってきた政府軍に
家屋を占拠されたら、いやおうなしに大砲の弾の標的になってしまう
のだなと思いつつ、
← 桐の陣から見た対岸の政府軍陣が こちら。 そして
→ 政府側陣から見た 桐野陣の方向が こちら。
← 政府側陣から見た中の島にたつ西南戦争激戦の地の看板 と
→ 巨大ダムがつくられた現在でもまだまだドン深な耳川の図。。
ちなみに西南戦争の様子を記した町誌では 水深が深い耳川が注ぎ、
古来より軍事的要衝であった美々津での両軍の戦いはつぎのように。
明治10年7月30日。官軍の総攻撃に会った薩軍宮崎本営は、
宮崎を捨てて北走し、高鍋を経てその後美々津方面に退却した。
各所で連戦連敗の薩軍は、耳川の天険に拠って官軍を食い止めん
とし、東は耳川の河口から、西は山陰、坪谷、を経て神門、渡川
まで塁を築いて防御線とし、耳川を隔てて官軍と対峙し十二斤砲
などで打ち合っていた。が、8月7日、官軍は耳川の上流を渡り
山陰[やまげ]の薩軍を攻撃した。薩軍はよく戦ったが、ついに
は敗走。耳川下流にあった辺見、桐野の一隊はこのため対岸と同
岸の上流という腹背共に敵を受けるに至り支えきれず。山中に入
って退路を求めたが得ず8月11日前後に四散した。
と、いうことらしいです。その後の薩軍ですが、
耳川の攻防戦で破れた薩軍は8月14日延岡を捨てて延岡の北に
あたる長井に集結し、8月18日早朝可愛岳を突破、鹿児島へ。
と、戦局が急展開していったことがわかります。
そしてあらためての きりのじん。いまは運行されるバスの本数が
減ったうえにバス停も廃止。地図上の地目だけが残るだけの場所に
なってしまいました。
いきなりやってくる戦争もたいへんですが、美々津千軒と謳われた
明治はじめのかつての県庁所在地[美々津県と都城県が合併して宮
崎県となった]のこの寂れようもたいへんなものだなと、しみじみ。
宮崎と西南戦争の時代を背景に描かれた小説として
松本清張のデビュー作とされる『西郷札』(さいご
うさつ)があります。明治の廃藩置県を受けて禄を
失い、西南戦争に参加した旧佐土原藩士を主人公に
した魅力的な短編。よろしかったら、ぜひ。
「夢で終らせない農業起業」「里地里山複合大汚染」