2006年3月分ですが、次回関連として再掲載です。
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『大友宗麟 こと ドン・フランシスコ』
1530年に生を受けたドン・フランシスコこと大友宗麟は、戦国
大名として、またキリシタン大名として歴史に名を残した人物とし
て有名です。
1550年に父の後を継ぎ、豊後(現在の大分県)の領主となった
宗麟は、イエズス会宣教師達との密接な共存を続け、その一代のう
ちに豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の6か国と日向・伊予の
各半分を領するという九州最大の勢力を築き、大友氏最盛期を現出
せしめました。
そんな宗麟をして宣教師ルイス・フロイスは、「日本の王侯中、最
も思慮に富み、聡明叡智の人」 と、宗麟を評しています。
しかし、そんな宗麟ではありますが、彼の死後、お墓すらないとい
ってもよい時代が長く続きました。不思議な話ですよね。
現在、大分県津久見市にある宗麟のお墓。じつは200年後の寛政
年間に、かつての家臣の子孫が、お堂を新築し荒れ果てた墓をこれ
に納めたといわれています。このお墓にきざまれている法名は・・
瑞峯院殿羽林次将兼左金吾休庵宗麟大居士。その法名からは、この
墓の主が、かつてのキリシタン大名/ドン・フランシスコであった
ことを感じ取ることができません。
宗麟の墓が捨て置かれたその原因・・それは秀吉のキリスト教禁令
の発布でした。
宗麟が、キリスト教徒として帰天したのは1587年。58歳。葬
儀は神父たちにより盛大に行われ、墓もキリスト教式に建てられま
した。しかし秀吉の突然の耶蘇教禁令の発布に際して、宗麟の嫡子
義統は、キリスト教式の宗麟の墓を破壊し仏式のお墓に取り替えた
というわけです。
その後、宗麟の嫡子義統(よしむね)は、朝鮮の役の不手際が原因と
なって改易。そのために宗麟の仏式のお墓さえ荒れ果ててしまうこ
ととなりました。
こうして 鎌倉以来400年の長きにわたって豊後を支配してきた
大友氏は、歴史の表舞台から姿を消してしまいます〔秀吉につづい
て家康もキリスト教を禁教としましたし〕。
さらに江戸時代以降は、約250年以上にも及よんだ「鎖国政策」
の徹底により、「明やポルトガルの商人が行き交う国際的な商業圏
として栄えた国」ともいうべき、宗麟の遺産ともいえる煌びやかな
経済・文化面の記憶も、有る意味意識して消し去られてしまったと
いうわけです〔前述の寛政年間に再建されたお墓も、江戸幕府の目
を逃れるために小屋掛けの墓になっており、探し歩かないと見つけ
られないといわれたそうですから徹底していますよね〕。
そのような歴史の変遷に見舞われた宗麟の死後、400余年。
宗麟の洗礼名であるドン・フランシスコの名前を冠したお菓子が登
場するほどに、新世紀となったいま宗麟再評価の時代が始まったよ
うに思えます。古い時代の宗麟像と、新しい時代のドン・フランシ
スコ宗麟像を比較してみるだけで、それはわかります。
お墓だって、ほら、このとうり。
といったわけで今回は、南蛮文化を花開かせ、理想の国づくりを追
い求めていたドン・フランシスコは、地方分権をめざす「三位一体
の改革」のシンボルになるかもね・・なんて 洗礼名のついたお菓
子を食べるたびに思ってしまうおやつの風景をおおくりしました。
● 当ブログ関連記事 「1582年の花火大会」「ラテン語で音楽
のことをムジカ(MUSICA) 」
肉親も家臣も、いや自分自信さえ信じられぬ…。豊後の名門
守護・大友家の統領として、内紛に悩まされながらも、北の
大内、毛利と戦い、北九州六国に領土を広げた大友宗麟。戦
乱にあけくれた生涯は、また自分自身との闘いの日々であっ
たが、わずか数日のザビエルとの出会いが宗麟の心の闇に一筋
の光を投げかけていた。・・という戦国の世にもう一つの王
国を求めた切支丹大名を描く歴史長編前編として、遠藤周作
の『王の挽歌』があります。ちなみに宗麟の奥様は あの
宇佐神宮の神官の娘ということで、このあたりも興味深々。。
「夢で終らせない農業起業」「本当は危ない有機野菜」
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『大友宗麟 こと ドン・フランシスコ』
1530年に生を受けたドン・フランシスコこと大友宗麟は、戦国
大名として、またキリシタン大名として歴史に名を残した人物とし
て有名です。
1550年に父の後を継ぎ、豊後(現在の大分県)の領主となった
宗麟は、イエズス会宣教師達との密接な共存を続け、その一代のう
ちに豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の6か国と日向・伊予の
各半分を領するという九州最大の勢力を築き、大友氏最盛期を現出
せしめました。
そんな宗麟をして宣教師ルイス・フロイスは、「日本の王侯中、最
も思慮に富み、聡明叡智の人」 と、宗麟を評しています。
しかし、そんな宗麟ではありますが、彼の死後、お墓すらないとい
ってもよい時代が長く続きました。不思議な話ですよね。
現在、大分県津久見市にある宗麟のお墓。じつは200年後の寛政
年間に、かつての家臣の子孫が、お堂を新築し荒れ果てた墓をこれ
に納めたといわれています。このお墓にきざまれている法名は・・
瑞峯院殿羽林次将兼左金吾休庵宗麟大居士。その法名からは、この
墓の主が、かつてのキリシタン大名/ドン・フランシスコであった
ことを感じ取ることができません。
宗麟の墓が捨て置かれたその原因・・それは秀吉のキリスト教禁令
の発布でした。
宗麟が、キリスト教徒として帰天したのは1587年。58歳。葬
儀は神父たちにより盛大に行われ、墓もキリスト教式に建てられま
した。しかし秀吉の突然の耶蘇教禁令の発布に際して、宗麟の嫡子
義統は、キリスト教式の宗麟の墓を破壊し仏式のお墓に取り替えた
というわけです。
その後、宗麟の嫡子義統(よしむね)は、朝鮮の役の不手際が原因と
なって改易。そのために宗麟の仏式のお墓さえ荒れ果ててしまうこ
ととなりました。
こうして 鎌倉以来400年の長きにわたって豊後を支配してきた
大友氏は、歴史の表舞台から姿を消してしまいます〔秀吉につづい
て家康もキリスト教を禁教としましたし〕。
さらに江戸時代以降は、約250年以上にも及よんだ「鎖国政策」
の徹底により、「明やポルトガルの商人が行き交う国際的な商業圏
として栄えた国」ともいうべき、宗麟の遺産ともいえる煌びやかな
経済・文化面の記憶も、有る意味意識して消し去られてしまったと
いうわけです〔前述の寛政年間に再建されたお墓も、江戸幕府の目
を逃れるために小屋掛けの墓になっており、探し歩かないと見つけ
られないといわれたそうですから徹底していますよね〕。
そのような歴史の変遷に見舞われた宗麟の死後、400余年。
宗麟の洗礼名であるドン・フランシスコの名前を冠したお菓子が登
場するほどに、新世紀となったいま宗麟再評価の時代が始まったよ
うに思えます。古い時代の宗麟像と、新しい時代のドン・フランシ
スコ宗麟像を比較してみるだけで、それはわかります。
お墓だって、ほら、このとうり。
といったわけで今回は、南蛮文化を花開かせ、理想の国づくりを追
い求めていたドン・フランシスコは、地方分権をめざす「三位一体
の改革」のシンボルになるかもね・・なんて 洗礼名のついたお菓
子を食べるたびに思ってしまうおやつの風景をおおくりしました。
● 当ブログ関連記事 「
のことをムジカ(MUSICA)
肉親も家臣も、いや自分自信さえ信じられぬ…。豊後の名門
守護・大友家の統領として、内紛に悩まされながらも、北の
大内、毛利と戦い、北九州六国に領土を広げた大友宗麟。戦
乱にあけくれた生涯は、また自分自身との闘いの日々であっ
たが、わずか数日のザビエルとの出会いが宗麟の心の闇に一筋
の光を投げかけていた。・・という戦国の世にもう一つの王
国を求めた切支丹大名を描く歴史長編前編として、遠藤周作
の『王の挽歌』があります。ちなみに宗麟の奥様は あの
宇佐神宮の神官の娘ということで、このあたりも興味深々。。
「夢で終らせない農業起業」「本当は危ない有機野菜」