葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

パソコン大好き爺さんの日誌。mail:akebonobashi@jcom.home.ne.jp

「八紘一宇の塔を考える会」機関誌から「古関裕而と『軍歌』―時代が育てた作曲家」

2020年07月19日 | 日本と中国

 古関祐而と「軍歌」
                一時代が育てた作曲家
                        南邦和 詩人
    熱心なリスナーとまでは言えないが、私も“深夜族”のひとりである。特に午前3時台の「日本のうた・こころのうた」はよく聴いている。平成以後の流行り歌はサッパリだが、昭和初期からの戦前•戦中•戦後への「懐かしのメロディ」には、自分自身(昭和8年生まれ)の歩みを重ねて、幼年の甘い追憶や“軍国少年”としての少年期、そして1945年の日本敗戦からの“引揚体験”、戦後の耐久生活、青年期の流浪(東京、大阪、横浜、鹿児 島と流離う)の日々の思い出をたぐり寄せながら、しみじみと聞いている。
    まさに、「歌は世につれ、世は歌につれ・・・」 である。流行歌は肉親や友人たちの思い出につながり、また、移り住んだ土地土地の風景やその時代時代の空気につながる無形の索引にもなるのである。私の母は歌の好きな女だった。戦時中に、自分が幼い頃教会で知り合ったメリーさんという少女に教わったという「ゴッド・セイブ・ザ・キ ング」(英国国歌)を子どもたちに教える“非国民”の母であった。私の好きな歌手としては、東海林太郎、淡谷のり子、ディック・ミネ、伊藤久男、. 灰田勝彦らの名が挙がってくる。
 そのNHK<ラジオ深夜便>では、7月に入って幾度か「古関裕而特集」が組まれている。つい先 日(7月4日)の放送では「昼のいこい」「君の名は」などのテーマ曲やプロ野球の応援歌「ジャイアンツの歌」「タイガースの歌(六甲おろし)」などが流れたが、その中でも、伊藤久男が声量豊かに歌いあげる「栄冠は君に輝く」が強く印象に残っている。私の大好きな曲の一っである。
 私自身、これまでいくっかの校歌、歌曲、合唱曲などの作詞を手がけてきている。一般の人より “作曲家”と呼ばれる人種とのつきあいは長い。「宮崎西高」(服部良一作曲)「五ヶ瀬中等学校」(中山大三郎作曲)「宮崎農業大学校」(寺原伸夫作曲)
「フルトン合唱団」(多田武彦作曲)、合唱組曲「盆地」(川口晃作曲)と、高名作曲家との共同作業で、それぞれ個性豊かな作曲家の人間性に触れてきている。(中には、トラブルもあったが・・) 2020年春からの、NHKの朝のドラマは古関裕而をモデルにした「エール」が放映されている。 視聴率も高く、私も毎朝楽しみにしてきたが、時ならぬ“コロナ禍”で収録分が底をつき、7月に入っ てからは“再放映”で間を持たせるという、朝ドラ 始まって以来の「苦肉の策」となっている。ドラマは佳境に入り、コロンブスレコード(コロンビア)入社以来鳴かず飛ばずであった作曲家古山裕一(窪田正孝)が、ようやく存在を示しはじめ た第13週あたりでストップしている。
    古関祐而(本名は勇治)は1909 (明治42)年東北福島の老舗呉服店「喜多三」の長男として生まれている。当主は代々「三郎次」を襲名し裕而はその9代目に当たる。番頭、小僧十数人を抱えるお店の跡継ぎとして、両親に溺愛され、裕福な幼少年期を過ごしている。このあたりの生い立ちは朝ドラ「エー ル」の中でも、吃音の悩みを持つ気の弱い少年として描かれている。(ドラマとしての誇張があるのは勿諭のこと)
    小学生時代から作曲を手がけている天才少年は、地元の商業学校を卒業後、独学でクラシック音楽を学んでゆく(ドラマでは、国際音楽コンクール入賞の場面が出てくる)「エール」では古関祐而の(自分史)を折り込みながら、フィクションをまじえ、明治の末期から大正、昭和へと移りゆく時代の風俗を巧みに演出し、時に、コミカルな人間模様を描き出して視聴者を飽かせない。主演の窪田正孝、二階堂ふみのコンビも好演(特に、声楽家志望の設定で登場する二階堂は、吹きかえなしでオペラの名曲を熱唱してみせる)。
    このドラマの余光もあってか、いま“コロナ禍”にゆれ動いている日本で、俄の“古関祐而ブーム”が巻き起こっている。テレビ、ラジオでの「古関祐而特集」は勿論のこと、出版界でも刑部芳則著「古関祐而一流行作曲家と激動の昭和」(中公新書)(この著者は「エール」の風俗考証を担当している)をはじめ、月刊誌•週刊誌がこぞって同時代の作曲家古賀政男(「エール」では同期入社の「木枯」として登場してくる)の“流行歌の大御所”<国民栄誉賞>の蔭にかすんでいた“月見草”「古関祐而」の人と作品に、いま華やかなスポッ卜•ライトが当てられている。
  その生涯に、5千曲の作品を量産している多作家の古関祐而。いま改めて目を向けてみると「あの歌」も「この歌」も古関祐而の作品なのである。
  その中の一曲に「暁に祈る」(昭和15 •野村俊夫 作詞)がある。


あああの顔で あの声で 手柄頼むと
妻や子がちぎれる程に振った旗
遠い雲間にまた浮かぶ


    この歌は私の父の愛唱歌であった。日本敗戦で植民地官吏の仕事を奪われ、20年ぶりの故郷に引揚げて来た父は、その後新制中学校の発足と共に“代用教員”としての生活手段を得たが、その晩年は酒に溺れ泥酔が日常の日々であった。その「酔 っぱらい」の父のただ一つの歌が「暁に祈る」で ありそれも調子っぱずれのがなり立てるだけの“騒音”でしかなかった。現職のまま、胃癌で死んでいった父の失意の胸の内がいまの私にはよく解る。「人生五十年」まさに享年49歳の父であった。
  戦前の「船頭可愛や」(昭10/高橋掬太郎作詞) のヒットで売り出した作曲家古関祐而の名が、ようやく日本国内に知れ渡るようになったのは戦後になってからである。昭和22年“盟友”菊田一夫の勧めで連続ドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌として 作曲した「とんがり帽子」は、その頃の子どもなら誰でも口遊んでいた明るいメロディであった。


 緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台
 鐘が鳴りますキンコンカン・・・


   古関祐而の「作曲一覧」に目を通すと、戦前戦後を通じて実におびただしい作品群が並んでいる。「長崎の鐘」「フランチヱスカの鐘」「ニコライの鐘」などの“鐘シリーズ”をはじめ「イヨマンテの夜」「高原列車は行く」「君の名は」「黒百合の歌」など枚挙にいとまがないが、この“鎮魂”の願いや平和そのものをモチーフにしていた作曲家が、戦前から戦中のある時期“軍歌の覇王”と呼ばれ、軍部や大政翼賛会から重用されていたという「戦時下の古関祐而」については、あまり取り上げられていない。先に紹介した刑部著のキャッチフレーズでは「昭和史の光と影」である。
  戦前、「流行歌」で“苦戦”していた古関の“活路”が「軍歌」あった。昭和6年作曲の早稲田大学応援歌「紺碧の空」でも知られるように、もともとこの作曲家には「応援歌」「軍歌」の本質である “闘争心”をかきたてるファイター好みの資質が備わっていたようである。昭和12年(<支那事変>勃発のその年である)東京日日新聞社が募集した「進軍の歌」の入選作(藪内喜一郎作詞)の作曲依頼が、古関祐而のもとへ飛び込んでくる。この年妻金子と満洲(中国東北部)を旅してきたばかりの古関が、苦も無く一気に作曲したその曲が「露営の歌」である。


  勝ってくるぞと勇ましく
  誓って国を出たからは 手柄立てずに
  死なりょうか進軍ラッパきくたびに
  瞼に浮かぶ旗の波


  “戦中派”“少国民”の世代ならば、いまでも5番までの全歌詞を覚えているはずである。私たちもこの「露営の歌」を勇ましく合唱しながら“出征兵士”を駅頭に送っている。「露営の歌」は空前のヒットを記録し前線でも“銃後”(兵士以外の国民大衆を指す)でも、ことあるごとに歌われる「戦時歌謡」の代表作となっている。
    「露営の歌」に火をつけられた作曲家古関祐而の“奮戦”は続く。「愛国の花」(昭13 •福田正夫作 詞)「暁に祈る」(昭15)「海の進軍」(昭16 •海老 名正男作詞)「ラバウル海軍航空隊」(昭18 •佐伯 孝夫作詞)そして極めつけは、日本全国民が熱唱した「若鷲の歌」(昭18 •西条八十作詩)である。 

若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にや
でっかい希望の雲が湧く 

  この歌に勇気づけられ、津々浦々の“少国民”たちは憧れのく予科練)を目指して行ったのである。
  そして、“特攻要員”として出撃して行った。
後年、古関祐而は後悔の念と共にその胸の内を語っているが、古関に限らずこの時代の詩人や作曲 家たちはいや応なく「軍歌」づくりを強制されている。(中には進んで“従軍記者”となり国策に沿った“宣撫工作”に生き甲斐を見出した有名作家、画家、音楽家たちもいる。)
  いま、この原稿を書きながら、古関祐而の旋律が頭の片隅にこびりついているが、私なりの新しい発見があった。この夏の<甲子園大会>は新型コロナウイルスに阻まれ、<春のセンバツ>に続いて中止が決定、諦めきれない球児たちの悲嘆•落嘆のその姿にもらい泣きをした。この<全国高校 野球選手権大会>の「大会歌」が古関作品である ことはよく知られている。


  雲は湧き光あふれて天髙く純白の球
  きょうぞ飛ぶ若人よいざ
  まなじりは歓呼に応えいさぎよし
  ほほえむ希望ああ栄冠は君に輝く


  この季節が訪れる度に、胸を張って甲子園球場の ダイヤモンドを一周する球児たちの背後に流れるあの歌である、その旋律がなんとあの、「ラバウル海軍航空隊」のそれにそっくりだという発見である。

 
  銀翼連ねて南の前線ゆるがぬ守りの
  海鷲たちが肉弾砕く敵の主力
  栄えあるわれらラバウル航空隊

と歌い続けてゆくと、そこに何の違和感もない作曲家古関祐而の完爾とした顔が浮かびあがってくる。古関祐而は1989年8月18日死去、享年80 歳であった。

〔余白〕


こよなく晴れた青空を
悲しと思うせつなさよ
うねりの波の人の世に
はかなく生きる野の花よ
なぐさめはげまし長崎の
ああ長崎の鐘が鳴る


  この歌、60年前に編集子が宮崎市の中学生の時、授業が終わりホームルームで、毎日必ずクラス全員で合唱した思い出がある。作曲家の名前は知らなかったが古関裕而(右の写真の人物)であった。その古関が500曲もの軍歌を作曲していたとは
                                                                                                むむむむ• • •。

(了)

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「八紘一宇の塔を考える会」... | トップ | 航空法第91条に基づく「曲技... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (佐々木正行)
2020-07-26 16:29:11
フェイスブックにてシェアさせていただきます。
会運営、編集委員のザザギです。
面白い記事もある機関紙だと思うんだけどなぁ。売れないなぁ。

宮崎県はあの塔が戦争遺跡であることさえ忘れさせようとしてるし。調査に一銭も出さないどころか、調査する気もないし!
返信する
児玉武夫さん (管理人)
2020-07-26 19:42:13
故児玉武夫さんから色々とお話を伺いました。
今回転載したお二人の記事は水準が高いですね。
これからも頑張ってください。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

日本と中国」カテゴリの最新記事