葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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中国文化財返還運動を進める会ニュース№8

2024年10月31日 | 日本と中国

「中国文化財返還運動を進める会ニュース№8」が配達されました。

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中国文化財返還を大きなうねりに!12.7 集会
とき ● 2024 年 12 月 7 日(土)
    13 時 30 分開場
ところ ● 日本キリスト教会館 4F
 (地下鉄メトロ早稲田駅 5 分・JR 高田馬場駅前から早大正門前行バス・西早稲田バス停下車 3 分)
講演 1 ●「脱植民地主義と文化財返還の意味」
        …太田 昌国さん(民族問題研究)
 講演 2 ●「中国流出文化財の回収・返還の理論
    と実践」…陳 文平さん
      (上海大学中国海外文物研究センター教授)
*資料代 800 円
 2022 年 4 月に正式発足した私たちの会は、靖国神社と山縣有朋記念館に置かれている清朝の石獅子、皇居吹上御苑内に置かれている唐代の「鴻臚井碑」を、当面する返還の対象に定めて活動を進めてきました。
 さらに今年に入ってからは、東京大学総合博物館に所蔵されている渤海国の文物や、東大東洋文研究所の門前にある石獅子の返還、およびその由来の説明などを求めて、同大学への申し入れも始めています。
 それ以外にも中国から不当に持ち出された大量の収奪文化財があります。これらはすべて、日本政府および現在の所有機関などの責任で、一刻も早く「元あった場所」に返還されなければなりません。
 今回の集会では、文化財返還問題の根幹といえる「(脱)植民地主義」の問題に焦点を当てて、民族問題研究者であり、国際問題や文化・思想、社会運動などの分野で広く活発な言論活動を行っている太田昌国さんをお招きして講演していただきます。さらにもうお一方、中国の流出文化財の専門家であり、昨年刊行された『離家的国宝』など多くの著作のある陳文平さんに、主要な中国流出文化財の紹介と、返還運動の現状と課題などについてお話ししていただく予定です。
 多くの方のご参加をよろしくお願いします。
*本集会はオンラインでも参加できます。ご希望の方は下記アドレスまでご連絡下さい。
主催●中国文化財返還運動を進める会
〒105-0003東京都港区西新橋1ー21ー5 一瀬法律事務所
�. 03ー3501ー5558
Mail:info@ichinoselaw.com

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中国文化財返還運動を進める会ニュース№8「靖国神社との面談」の文字起こし

 *靖国神社との面談 
 その後、5月18 日には靖国神社・総務部長(禰宜)、総務課長(権禰宜)と面談し、7月26日に中国由来の文化財の返還に関する要望書(二次)を提出しました。 
 8月9 日には「神社側でお伝えすべき進展はなく、今回の面談は見合わせたい」との回答が届きましたが、私たちは10月4 日に再度、中国由来の文化財の返還に関する要望書(三次)を提出しました。この三次要望に対する回答が10月18日に届き、そこには①「靖国神社百年史 資料編 中」(1983 年)に掲載の賀茂百樹「天覧の光栄に輝く靖国神社狛犬のこと」(「皇国時報」1938 年国家神道下)以外の資料はない。②文書にて訪中された際の状況等を知らせて欲しいとあり、以降の面談が実現していません。なお、私たちの訪中報告と中国由来の文化財の返還に関する要望書(四次)は11月30日にお送りし、12 月13日にそれに対する回答を受け取りましたが、それは三次要望への回答内容の繰り返しでした。 
 神社側の見解によると、「狛犬」は寺守の承諾を得、相当の代償を払って入手したものと理解している。従って、戦利品とは考えておらず、現状では返却することは検討していない。ところが、代償を払った資料があるかの間いに、それを裏付ける資料は確認していない、と主張しています。また、境内にある狛犬では最古の狛犬であり、奉納台帳にも記載があること、インターネットなどで話題になっている知名度の高い狛犬であり、無名の北関大捷碑が返還されたのとは異なるとしたうえで、返還するとなれば世問の納得、承認が必要としています。 
 さらに靖国神社では、天皇の勅使が年に2回参向する勅裁社であって、宮内庁との関係など、様々な課題があり、現段階では還す、還さないについては言及できないとしています。 

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同会の東海林次男さんは、>1934年に「皇国時報」に書かれたものを、1983年発行の『靖國神社史 資料編』にそのまま載せ、それ以外の資料はないということでした。こちらが提示した資料に関しては全くの無視です。また、一度面談しただけで、四次にわたる要望書を出しましたが、その後は見合わせたいということで、靖国との関係はストップしています。<と、語っています。

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平和文化社刊 東京の戦争遺跡を歩く会編「学び・調べ・考えよう フィールドワーク 靖国神社・遊就館」より

北関大捷碑、北朝鮮へ
 豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに地元の羲勇軍が加藤清正軍を撃退したことを記念して、現在の北朝鮮の咸鏡北道吉州に北関大捷碑が建てられていた。日露戦争に従軍した日本軍将校がこれを日本にもちかえり、靖国神社がそのまま境内にう
つし保管していた。1999年ころから、韓国にいる義勇軍の子孫たちが靖国神社に返還を訴え、神社も南北間の合意が必要だとしながらも返還にたいしては前向きの態度をしめした。
  2005年5月の日韓外相会談で、日本側は誠意をもって仲介することを約束した。外務省報道官の説明にょれば、南北間で話がついて韓国側から正式に申し入れがあれば、日本政府として靖国神社に返還の手続きをとるょぅに話をするとのことであった。その結果、10月に合意文書が成立、北関大捷碑はいったん韓国に運ばれたぅえ、翌年3月1日、南北合同の盛大な引き渡し式典の後、38度線を経由して本来の場所である吉州に帰郷した。

 吹上御苑には、1896年に明治天皇の命によって総檜造り、 校倉(あぜくら)風の振天府がつくられました。献上戦利品の収蔵庫です。その後、 義和団事件や日露戦争の戦利品が続々と届き、第2、第3の振天府を つくっています。後藤新平は、「壬辰倭乱で日軍が負けた北関大捷碑 のごときは、朕は置きとうない、とて、一瞥して靖国社に払い下げた、 ヤスクニとて迷惑である、戦勝記念館(遊就館)には納れたくない、 そこで築地のかげの、人目につかぬ場所に据えた、というのが真相だ ろう」と書いています(『季刊 青丘15』93年春号)。新遊就館の建 設にともない、拝殿南の鉄柵内に移されていました。

 世界戦争の時代であった20世紀がつきつけた課題は、いうまでもなく持続的な平和の確立であり、その出発点が戦争の違法化であった。戦争の後始末も違法な侵略戦争の責任を問うことからはじまった。しかし世界戦争の前提が、諸帝国による植民地の分割、世界の一体化であったことが認識されるにしたがい、植民地支配責任の究明がさらなる課題となった。国家間の関係の好転のためには、文化財問題についても未来志向の対応が必要であることを重ねて強調しておきたい。

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近代出版社刊 靖國神社監修 所功編集 「ようこそ 靖國神社へ」から

靖國神社「参拝のしおり」から

「境内のご案内」(管理人が加筆)

(了)

 

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