カッキーYAMA   akihiko tange

手始めに、日常的なことを気の向いたときに載せていくつもり。

アール・ヌーヴォーのポスター芸術展を観に行った・・・1Sep2010

2010-09-09 | エッセイ

9月の1日にポスター展が銀座の松屋で開かれていたので行ってみた。
盛況だった。期間が短かったがもう少し長くても良かったのでは、と思う。

 この時期のポスターのコレクションは川崎フロンターレのホームグラウンドである等々力に美術館があって、そこがかなり集めていたと記憶している。

 この時期のポスターは既に有名なものばかりで知っている人は事細かく知っているのだろうと思う。会場には簡単なビデオコーナーが設けられていて、知識があまりなくても概要、詳細などを楽しみながら知ることができるのだった。ポスターの持つ商業的なある意味の軽さにマッチした雰囲気のビデオだった。「時代は大量生産、大量消費となり・・・」などとナレーションが入っていた。今と変わらないではないか。腰掛けて二回りも見てしまった。良いビデオだと思った。

 これらのポスターが描かれたのは100年ほど前である。会場から日の暮れた銀座の街に出ると、急に現代の素の時間に引き戻されたようで頭がぐらぐらした。

   
   チケット・ロートレック           コロマン・モーザー

             


 
   ミュシャ

                                              
 
 訪れた日付を9月2日としていましたが誤りで、9月1日でした。訂正しました。


                                         

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「条件反射的液晶ディスプレイ型ハイテンポ感覚」

2010-09-09 | エッセイ

薄型の大きめの液晶テレビで番組を見ている。これまでずっと25インチ・ブラウン管型だったのだがついに買い替えた。その前は家族全員で14インチの小さなものを覗きこむようにして見ていたこともあったが、特に不便だとは感じなかった。大型液晶の迫力には負ける、と言われた時には、画面が小さければくっついてみればよいだろう、と言って笑われたくらいである。今は驚くほど画面粒子の細かいのもありそうだし作ろうと思えば作れそうだし、ヘッドホンに似たアイマスク的なのもあるようだし、あながち的外れの考えとは言えなかったのかもしれない。
TVで音楽を見ていて、最近どうも響いてこない。こちらの耳に新鮮さが欠けているのかもしれない、とも思ったりしたのだが、その感じをよく探ってみると、どうも音楽が間延びして聴こえるようなのだ。私は本来ゆっくりテンポでもOKな方なのだ。それがどうしたことか、音楽がまどろっこしく、薄く、感じられるのである。それで気が付いたのが、「条件反射的液晶ディスプレイ型ハイテンポ感覚」という、また、馬鹿げた言葉なのである。これは最近の液晶ディスプレイに映し出される映像が、CGを駆使しているがゆえに動きにメリハリがあり過ぎたり、カット割りというのか、次々に違う映像へと変化するその仕方もハイスピードで、かつ計算しつくされていたりして、それに脳の働きが乗っかってしまっている状態のことなのである。このときは主に視覚から受ける刺激が大きい。それが音と連動する。いつもその刺激のあるハイテンポの映像を見聞きしているので、ディスプレイの中でステージに立って生身の人間が音楽をプレイしたりしているのを見ると、まどろっこしく感じるのではないかという大胆な!?仮説なのである。特に大型の液晶ディスプレイに視線がいった途端に、条件反射的に脳の方が真っ先にハイテンポモードになってしまうということである。決していいこととは言えないかもしれない。だから普通に生の演奏を聴く時はゆっくりテンポでも何でも、何の違和感もないのである。液晶ディスプレイを見たときだけ「条件反射的・・・・・」なモードになってしまうのでは?という話なのであった。

最近拾った言葉から・・・
胡蝶蘭 牛乳2本 貧血 客家(はっか) kara 地産地消 ベクトル 変容 タジキスタン コトブキ バングルズ


                                           

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする