衝撃のイヴラギモヴァ・リサイタルから1日。
サントリーホールに、エフゲニー・キーシンを聴いてきた。
私にとって、はじめてキーシンの「生演奏」に触れる機会だ。
実は、CDから特別な印象受けたことはないのだが、一度は実演でその演奏の真価を確かめたかったのである。
立派ではあった。
超絶的テクニック、クリアな音色・・・、抜群の安定感・・・。終演後の聴衆の熱狂もある意味で頷ける。
しかし、残念ながら、今宵、我が感性と触れ合う場面は皆無であった。
(以下、あくまても、私にとって・・、という話。音楽の好みは人の数だけあって良し。キーシン・ファンの皆さんは、偏屈な男の戯言と読み流してください)
転調の妙が味わえないシューベルト。
危険な香りの全くしないスクリャービン。
メロディーばかりが浮き上がって、対旋律の弱い英雄ポロネーズ。
深い祈りに欠けるバッハのシチリアーノなど。
その見かけ上の完成度とは別に、もっとキーシンの胸の奥の暗黒や寂寥を聴きたかったし、やむにやまれぬ激情の迸る瞬間が観たかった。
イヴラギモヴァが命の炎を燃やしながら己が限界点のスレスレを探求するとき、キーシンはその2歩も3歩も手前に留ったまま。
命の灯はおろか、魂からの感動が伝わらない。
音色単体の美しさが感銘に結びつかないのは、和声感の欠如。
そして、立体感の希薄さ。
(和声感の欠如については、真木喜規さんからのご指摘)
チケット代に自腹を切りつつ確認できたのは、キーシンの悪いところばかり・・・。
否、それだけだろうか?
ここにひとつの問いが浮かび上がった。
「キーシンに感動できない自分とは、どういう資質の音楽家であるのか?」という痛切な問いである。
イヴラギモヴァに激しく震えながら、キーシンにはピクリとも心の動かなかったのはなぜか?
そこに、人間・福島章恭が居るのだと。
それを確認できたことが、何よりの収穫であろう。やはり、コンサート通いは止められない。
プログラム
シューベルト:ピアノ・ソナタ 第17番 ニ長調 Op.53 D.850
Schubert: Sonata No.17 in D major Op.53 D.850
- - - - - - - - 休憩- - - - - - - - - -
スクリャービン:ピアノ・ソナタ 第2番「幻想ソナタ」嬰ト短調 Op.19
Scriabin: Sonata No.2 "Sonata-Fantasy" in G-sharp minor Op.19
スクリャービン:「12の練習曲」 Op.8より
Scriabin: Etudes Op.8
第2番 嬰ヘ短調
No.2 in F-sharp minor
第4番 ロ長調
No.4 in B major
第5番 ホ長調
No.5 in E major
第8番 変イ長調
No.8 in A-flat major
第9番 嬰ト短調
No.9 in G-sharp minor
第11番 変ロ短調
No.11 in B-flat minor
第12番 嬰ニ短調「悲愴」
No.12 in D-sharp minor
♪アンコール
バッハ(ケンプ編):シチリアーノ
スクリャービン:8つの練習曲第5番嬰ハ短調作品42-5
ショパン:ポロネーズ第6番変イ長調「英雄ポロネーズ」