ゲルギエフ&ミュンヘン・フィルのブルックナー3夜連続演奏会。
初日「9番」の前プロは、ベルント・アロイス・ツィマーマンの「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た」。
結果的に、この前半が、昨夜のクライマックスとなった。
「2人の話者、バス独唱、オーケストラのための福音宣教的アクション」との副題が添えられており、テクストは旧約聖書「伝道者の書」により、一部ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』第2部・第5篇「大審問官」からも採られている。
何という衝撃的な音楽だったろう。
否、音楽という括りには収まり切れない、演劇的要素も含んだ時間と空間の前衛芸術。
痛切なホーン・セクションの叫び、心の苦しみを抽出したかのような弦楽器群、肺腑を抉る打楽器群はまさに慟哭。
2人の話者の言葉は放たれた矢のように、或いは機関銃のように聴衆に迫り、バス歌手は歌い、語り、嘆きながらも、遂には存在そのものが絶望の涙となる。
悲劇的なラストが訪れる。
金管群によりコラール「我は足れり」が奏され、不協和音に満ちた世の中が平安となり、希望が訪れたかと思いきや、突如断ち切られ、暴力的に閉じるのだ。
ツィマーマンは、この作品を書き終えた5日後に、拳銃自殺を遂げたという。人に理解されず、世に受け入れられないことに苦悶した作曲家の魂は、果たして救われたのだろうか?
ふたりの話者とバス歌手は、絶賛に価する超絶のパフォーマンス。さらに、この難解なスコアを音にしたミュンヘン・フィルの底力には圧倒された。
Georg Nigl, Bariton
Michael Rotschopf, Sprecher
Josef Bierbichler, Sprecher
Leitung: Valery Gergiev
Eine Produktion der Münchner Philharmoniker in Zusammenarbeit mit Berliner Festspiele/Musikfest Berlin anlässlich des Bernd Alois Zimmermann Jahres 2018
(MPhil)
メインのブルックナーについては、これから「2番」「8番」と聴くので、多くは触れないでおこう。
ただ、ひとつ感じた疑問は、ゲルギエフが未だブルックナーを自らの音楽とできてはいないのでは? ということである。
トゥッティでガンガンいくところは、凄まじい音響が現れる(流石、ミュンヘン・フィルはブルックナーをよく知っている、と思わせる)のだけれど、ゲルギエフが確信を持って振れていないだろう箇所で、オーケストラは度々乱れるなど、全体に緩いアンサンブルとなっていた。
何より、チェリビダッケのような至高の美学、ヴァントのような徹底的な構築美、というような、ゲルギエフ独特の何か、が感じられなかったのが、惜しまれる。
しかし、これは、時差ボケの解消されないわたしの第一印象。今宵の「2番」、明晩の「8番」で、わたしの感じ方を覆してくれることを期待したい。