ハンブルク滞在最後の夜に、愛すべきエルプフィルハーモニーで、このような素晴らしいブルックナーを聴けたことは、本当に幸せなことである。
今宵はパッパーノ&聖チェチーリア音楽院管のハンブルク公演2夜目。初日の昨夜は、プロコフィエフ「古典交響曲」、ラヴェル : ピアノ協奏曲、シベリウス「5番」というプログラムで、ピアノ独奏は、アルゲリッチの代役としてヴィキングル・オラクソンであった。昨夜は驚愕の天才オラクソンに尽きた。それについては改めるとして、いまはまずブルックナーを語りたい。
実のところ、パッパーノには甚だ失礼ながら、今宵の演奏には大きな期待をしていなかった。というのも、昨夜のシベリウスが、わたしには余りにエネルギッシュで力強過ぎたからである。パッパーノの指揮もフォルテになると力んだり、足を踏みならしたりで、シベリウスに求められる透明な詩情、冷たくな張り詰めた空気感などと全く無縁だった。「ブルックナーにも、こんなに力尽くで臨むのだろうか?」と危惧してしまったのも無理はないのである。
ところが、ブルックナーの音楽がそうさせたのか、今宵のパッパーノには、無駄な力みも、これ見よがしな効果狙いも皆無。目の前には、ブルックナーの美にひたすら献身する音楽家が居るばかり。
彼らのブルックナーを、独墺系のオーケストラと大きく隔てるのは、イタリアならではの艶やかに輝くサウンドと陰影のあるカンタービレである。それが、ブルックナー作品の中でも息の長い歌のつづく「7番」の美を最大限に引き出していた。光が眩いほど影も深い。儚く揺れたかと思うと強く押し寄せる歌の波、至福の音楽。
しかし、カンタービレという横軸だけでこの演奏を語るべきではなかろう。今宵の演奏の真価は、プロテスタントの質実剛健とはまったく異なる、贅を尽くしたカトリックの大聖堂のようであった点にある。即ち、まるでバチカンのサン・ピエトロ大聖堂を思わせる巨大で堅牢な造形と大理石のような艶やかな質感に優れていたのだ。ブルックナーの音楽はよく音の大伽藍に喩えられるが、今宵のブルックナーほどそれを感じたことはない。このアプローチが、遠い存在に思われがちなイタリアとブルックナーを一気に結びつけた。
言い方を変えるなら、パッパーノと聖チェチーリア音楽院管は、ブルックナーが、紛うことなきカトリックの音楽家であることを、強烈に印象づけたのである。彼らの演奏から、ライプツィヒのトーマス教会を想起する者はなかろう。
昨年12月に聴いたティーレマン&ベルリン・シュターツカペレとの「7番」とは、まるで違っていながら、それぞれに大きな感動があった。ブルックナーの音楽の仰ぎ見るような偉大さを改めて感じた夜であった。